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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【入所申込書を作成する】~提出時は、書類の不備を点検するだけで、内容についての話など一言もしなかった。役所の児童係によると、『口頭で説明する必要がないぐらい窮状を説明するために書き込むと良い。また、別紙を添えても構わない。』そう。前述の人によると、私の自治体では、ポイント制で機械的に判定しているわけではなく、(例えば、母子家庭10ポイント、フルタイム勤務20ポイント、等)『どれだけ困っているか』を入所申込書から判断し、皆で話し合って優先順位をつけて審査していくそうである。もちろん経済的に困窮している人が有利なのだが、そうでなくても、『どれだけ助けてくれる人がいない状態で、一人で育児を背負っているか』なども、重要なファクターになるそうだ。そういう意味でも、やはり重要なのは『保育に欠ける要件』だと思われ、人によっては、就労証明を知人に書いてもらったり、パート先に就労時間を上乗せして書いてもらったり、保育園入園にとっての山は、そこにある、といっても過言ではないだろう。【私の場合】・就労証明を書いてもらおうにも、転勤中の身でそんな知人もおらず、 また、でっち上げた就労証明はバレるらしい、という噂が、私の自治体内で流れ、 悩んだ。 児童係に相談し、そのアドバイスを受け入れ、 1年程通っている、精神科の診断書をもらって、 『保護者の療養』という要件を全面的に持ってきて なぜ病になったのか、現在の状況は、をアピールすることにした。 その他にも、治療の一環としての『求職』、 受け入れてもらえるかどうか分からないけど娘の『発達支援(障害児枠)』 この3本立てで入所申込書を作成した。・娘生誕から今までの時系列を横棒グラフに作成し、 入院中期間に赤く色をつけ、 補聴器をはじめ、家で管理しなければならないアイテムがある時期にも、 それぞれ色をつけ、 家で管理しなければならない、経管栄養や術後の傷のケアなど、 がある時期にもそれぞれ色をつけ、 通院、通園が増える度にグラフに書き込み、 その頻度を書き込んだ別紙を1枚。 どうして、自分が心のバランスを崩したか、 自分で思い当たること、を、列挙した別紙を1枚。 計、2枚の別紙を添付し、 入所申込書には、別紙を参照してほしいときは「別紙1参照」などと書き込んで、 連係させた。・双方の祖父母の指名や年齢、住所を書く欄で、 母親側の祖父、祖母の住所を書いた横に、住所が違うことが分かり易いように、 「別居中」と書き足した。 また、祖母の欄に、「介護認定3の曾祖母を介護中」(本当の話)と欄外に書き込んだ。 これによって、いかに、自分には助けてくれる身内が近くにいないか、を、暗に説明した。・仕事時間、などの欄にも、「仕事内容によって、前日の夜中12時に決定する」 と、数字の代わりに書き込み、不定期な仕事をアピールした。
2005.07.04
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【情報収集する】~どうやったら入園できるのか、本音と建前が渦巻いていて不透明な保育園措置の顛末を、少しでも明るく見渡せることができるようになるためには、情報収集が思いのほか大切で役にたった。私の場合、こんなことがあった。療育所で役所の人を招いての進路説明会で(時系列、11月中旬)役人から説明された詳細が間違えていた、ことが、後日の情報収集で判明した。障害児のために補助金が出るのは3歳児(年少)と説明され、更に畳み込まれるように、「だから2歳児で障害児が保育園に入ることは難しい」とまで言われたのに、実は、「3歳の誕生日から補助金が出る」のが本当だったのだ。つまり、6月生まれの娘は補助金が早く出るから、2歳児だから不利、とまでは言えず、逆に、『保育に欠ける要件』に『発達支援』も適用される可能性もある。その場合、かえって他の2歳児よりも(保育園さえ集団保育可能と判断して受け入れてくれれば)有利となる場合もある、と、役所の児童係の人に言われたのだ。(時系列、12月中旬)この情報を、療育所のスタッフが保育園に障害児を流さないために意図的に隠そうとしたのか、今年からの改革で彼らが不勉強だったのか、問い詰めなかったので分からない。が、もし、この情報を11月の時点で知っていたら、保育園に、とりあえずでも申し込みたかった人は、少なくなかろう。情報の性質として、どうしても玉石混淆になってしまい、何が必要で、何がいらなくて、何が間違えているか、という整理に大変だが、やはり、情報収集の大切さを、声を大にして言いたいと思う。以下は、私が経験した情報収集の方法である。1、療育所のスタッフに聞いてみる。 →障害児と接している経験から、やはり情報を色々知っている。 公的な療育所なら、役人と同じく公務員なので、 同じ公務員同士、裏の事情や、保育園措置の要人などとコネクトがある場合もある。 私の場合、 偶然出会った以前の療育スタッフに紹介してもらった保育園措置に詳しい知人の方に、 『措置外』ということを教えてもらった。(時系列、1月中旬) 保育園は普通、役所に『措置』されることで入園になるのだが、 私立の保育園であったら、 『措置外(自由契約、と言っている保育園もある)』で入園させることも多くある。 ただ、『措置外』は、収入に応じて月謝が決まる『措置』と違って、 自治体負担分も支払わなければならず、 『措置』で入園した場合の、最も収入が多い人の負担額と同じ額を、 支払わなければならない、ことが多い。 どうしても入園したい保育園の場合、その『措置外』で、負担が多くなってもいいから、 それでもここの保育園に入りたいんです、 という熱意と執念が必要である、と言われた。(障害児、健常児に関わりなく) 彼女自身の子供も、それで意図した保育園に、結局は『措置』で入ったそうだ。 娘の場合は、『措置外』で入ったら、保育園側に障害児としての補助金が入らないので、 それはどうかな、と思って、 「今年駄目なら、来年まで、ここで母子通園させてください」 と、付け加えた。 半分以上、本気だった(笑)2、保育園見学時に、園長先生に聞いてみる。 →「この周辺に、障害児を積極的に受け入れて下さっている、 ここのような保育園さんを、ご存知ですか」 などと聞いてみると、意外と丁寧に教えてくれる。 また、聞いた保育園が障害児に積極的ではない場合、 そちらを強く強く勧めてくる場合も(笑) また、保育園の母体や、そこの園長先生の経歴など、 資料には載っていないようなことも色々と教えてくれるので、 判断材料の一つに良いかもしれない。3、地域の保健師に聞いてみる。 →障害児に特別詳しく、情報を持っている人も少ないのだが、 地域の子供のため、ということで、 知っていそうな人に聞いてくれたり、 同じ公務員、ということもあって、裏から、児童係に結構、情報を聞いてくれた。 私の場合、 ぶっちゃけ、どの保育園に、どれだけの障害児枠を持っていて、 今年、募集しているのか、という数字を教えてもらった。4、やはり、『措置』の大元、役所の児童係に直接、聞いてみる。 →私の場合、「聞く」「相談」というよりは、 乗り込んでいった、という方が適切かもしれない。 行っていきなり聞いたことが、 「ここの自治体は、どんな要件を優先的に入園させるのか、 ポイント制なら、その点数表を見せてくれ」 だった(苦笑) 疲れてたんだな、と思う。 が、たまたまなのか、とても良い人で、 どうやったら心証良く、有利に審査を通せるか、 私の事情を聞いて、一緒に考えてくれた。 (例えば、「祖父母が近くに住んでいなかったら、そこもアピールすべし」など) 他にも、 ・どの保育園に、どれだけ来年度の空員があるか。 ・今年の募集をするか、しないか(しなければ書いても希望の欄が無駄になる)。 ・入所申込書には別紙をつけてもいいから、 それを見るだけで、口頭での説明無しでも分かるように仕上げておくべし。 など、教えてもらい、 何より、安心感を得た。
2005.07.03
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【保育園を見学する】~【大体の流れ】 1、保育園に電話して、入園希望者だが見学したい、旨を伝えて、アポをとる。 →・「障害児なんですけど」と、この段階で名乗っておいた方が、 行ってからスムーズなことが多かった。 (逆に、行ってから伝えて嫌な想いをした知人も少なくなかった) ・この電話段階で「障害児」と名乗った途端、 「自分で食事が食べられますか」「お着替えできますか」 などと聞いてきた保育園に、良い保育園は少なかった感がある。 2、約束した日、時間に行く →アポ日時は、全ての保育園が、園長のいる時間に指定され、 園長に案内された。 園長は平日ならいつでもいる訳ではなく、 また午前中に指定されることが多かったので、 いくつかの保育園との日程合わせが案外大変だった。 (ハシゴした日も…笑) 3、事務所で園長から説明を受ける。 4、保育園をざっと、隈なく案内してもらう。 →サラリと過ぎてしまうので、 見学のポイントや質問を決めておくと良いかもしれない。 私の場合のポイントは、 『職員自身がイキイキと楽しそうに子供と接しているか (子供は案外、どんな環境でも楽しそうなので)』 『(賃金が安く、言うことを聞いて使い易い) 若い職員ばかりを雇用していないか』 質問は、「食事のメニューを特別メニューにしてくれるか否か」 5、子供を遊ばせてから、帰る。 →何故か、どこの保育園でも、遊ばせていったら、と言われ、 なんとなくそうした方がいい気がして遊ばせて帰っていた。 この段階で、世間話をしながら情報を得られるので、 お薦めかもしれない。 また、どこの保育園でも(実際はそうでなくても)定員を聞くと、 「いっぱい、で」 「在園の方が異動になったら空くけど、分からなくて」 「(保育園側ではなく)自治体の方に入所の決定権があるので、 入れてあげたいんだけど」 と、言われた。 この話の段階で、諦めた、という知人が、障害児の有無を問わず何人もいたが、 諦めない方がいいかもしれない。【娘プロデュース】 この『見学』の段階が、入園決定(決定自体は役所の措置であるが、障害児の場合、 どんなに措置をしても、受け入れ側の保育園で集団保育不可能と判断されたら却下され、 別の保育園での再審査に入るので、 そういう意味では、保育園が最終決定権を持っていると言えるのではないか) にどう影響しているのか分からない。 が、電話の段階で「お子さんと一緒に」と指定してきた保育園も何軒かあったし、 良い印象が残ることは悪いことではないと思ったので、 娘の一番良いところを見てもらえるようにプロデュースを心がけた。 私の場合、 ・娘が1足だけ、自分で脱げる靴があったので、必ず、それを履かせていき、 出迎えに来た保育園の人の前で、自分で脱ぐような場面を演出できるようにした。 ・事務所で説明を受けている間、大人しく待てるように、お絵かき道具を持参した。 わざとらしくないように、黒のボールペンとメモ帳にしたのだが、 これには、もう一つの意味があった。 『言葉は遅くても、意思の伝達をしたり、単語を話したりは出来ますよ』 というアピールのため、 当時、絵を描いてもらうのが好きだった娘の習性を利用したものだった。 「でんしゃ(描いて)」「うん、いいよ~」 「(描いたものを指さして)でんしゃ!」「でんしゃだね~」 「くま(描いて)」「可愛いくまさん、描こうね」 などと、やり取りをしていると、 ほとんどの園長が、 「こちらの言っていることは分かっているのね」 「単語は出るのね」 と、声をかけてきた。 実際のところ当時、そんなに意思の伝達が出来ていなかったし、 コミュニケーションっぽいものも少なかったし、 単語も私が聞いてかろうじて分かるようなものがほとんど、だったのだが、 それでも、最大限、良い部分を見せてあげたい、と思っての自己満足的行動だった。どう、判断されていたかは分からない。
2005.07.02
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【保育園を調べる】~幼稚園のように、入園説明会などで大っぴらに宣伝してくれているわけではないので、なかなか分かりづらい。結局のところ、口コミに勝るものはないように思うが、障害児の場合、それが自分の子供の障碍内容では、必ずしもベターな選択とは限らないことも多い。自分なりのガイドラインを作って淘汰していくと良いかもしれない。また、役所が出している保育園のデータ付き一覧表やインターネットの情報などからだけでも、ある程度の推測は可能。例えば、・小規模か大規模か。・看護師や栄養士を常駐させているか。・園庭開放や未就園児の集まりを行っているか否か。・記述内容に「障害児から学べる」「障害児との交わりを大切に」など、 単なる「障害児保育も可能です」以上のコメントがあるかどうか。【すったもんだの末、ようやく出来上がった私のガイドライン】・少人数(60人程度の規模) →保育園内で補聴器がなくなっても探しやすいように。・食事を保育園内で作っている →まだ離乳食後期程度の加工を必要とするので、手を加えていただきやすいように。・0歳児から保育している →離乳食も作っている調理場があるので。・外遊び重視 →従来、保育園は養護的機能、幼稚園は教育的機能という見方があったが、 最近では、双方が双方の良さを取り入れている園が多くあり、 保育園でも、鼓笛隊や英会話などにも力を入れている園が多くある。 が、それでは、娘と他の子供の差を、 娘自身が身に染みて感じてしまう場面が増えるだけではないか、と思い、 なるべく、皆と一緒に楽しく遊べることを重視して、 そういった教育よりも、野生児のように遊ばせてくれる場所を重視した。※尚、園庭開放などがある保育園に足しげく通っていると、普段の姿を見ることが出来るし、子供の顔も覚えてもらえるし、もちろん刺激にもなるし、負担がない程度に通ってみるのも良いかもしれない。
2005.07.01
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賛否両論、あると思うが、私は、作業所で作られた物を販売している場面に出会うと、積極的に購入する傾向にある。それは、障碍を持った娘を授かったから、というわけではなく、彼女が私の元にやってくる前から、そういう傾向にあった。だからと言って、障害者を支援する気持ちがあったわけではない。夫に成人アトピーや食物アレルギーがあったから、口にする物や肌に触れる物は、やれる範囲ぐらいのものだが、気にはしていた、から、自然食品や無添加のものが多い作業所の物を、比較的多く購入してきた、というに過ぎない。いや、それだけではないな。娘を授かる前の私には、もっといやしい気持ちがあった、と思う。『可哀想な人が作るものは、きっと良心的なものだろうから、とりたてて調べる苦労を廃しても安心出来るだろう』というような。過日も、娘の保育園で、近くの作業所が作った、無添加の手作りお菓子を予約販売していたので申し込んだ。はたして、そのものが保育園に届いていたので袋ごと無造作にしまい、家に帰って開けてみた。その中の一つ、チーズクラッカーを手にしたとき、なんとも言えない感情に包まれた。焦り、緊張。そういった類の感情だったと思う。クラッカーは、焼くとき、膨らみを抑えるために、穴を開ける。そのクラッカーも、もちろん、開いてはいたのだが、フォークで刺したような3連の穴が、不揃いでまばらに配されていて、穴が足りない場所は、不恰好にも膨らんでしまっていた。私は、その、形も小さく、いびつにカットされたチーズクラッカーを口に入れてみた。国産小麦粉の味自体は香ばしくて噛めば噛むほど味がでて美味しかったのだが、やはり、膨らんでしまった部分は、なんともボソッとした歯ざわりで、美味しさに欠けていた。片手に容易に乗る程の量で200円。安い買い物ではない。何個も何個も口に運びながら、私は想いをめぐらせていた。このクラッカーにフォーク片手に穴を配した人は、きっと、生地を触らせてもらえないような新人なのだろう。もしかしたら、力の加減が難しくて、フォークで刺すことにしたのかもしれない。1回、1回。他の人がやれば、なんでもない作業を、時間をかけて、丁寧に行ったのだろう。その彼、彼女と私は面識はないが、これだけは断言できる。彼、彼女は絶対に手を抜いていない。それどころか、渾身の力と忍耐力を使って、この仕事に臨んでいたのだろう。でも、どうだろう。このチーズクラッカーを手にし、口にした人達の、一体何人がそこまで彼らを想いやる。想いやったとしても、この値段を不当と思わないで心から、美味しかったと手を合わせることの出来る人が、この世の中に一体、何人、存在してくれているのだろうか。だから、作業所のあり方を考えよ。クオリティを市場に合わせよ。採算を取れる作業所に。そんな大それた議論に、まだ、自分の障害児さえも受け止められない私には到底、答えを出せそうにない。が、このチーズクラッカーだけは、涙なくしては食べられなかった。
2005.06.22
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医療費控除を確定申告するために今日、税務署へ行ってきた。それも3年分。恥ずかしながら、私。医療費控除なんたるか、それさえ知らなかった。確定申告時期になると、医療費控除の話をテレビでやっているのを知ってはいたし、医療費控除をして云々、という周囲の声も聞いてはいたが、サラリーマン家庭の自分には無縁のものだと思っていた。それが、いつからだろう。ふと、耳に入ってきはじめた。聞けば聞くほど自分にも、ひいては誰にでも関係のある話で、ちびりそうなぐらい焦ってきた。こういうのって、人はいつ教わるのだろうか。親がやっている後ろ姿から学ぶのだろうか。今更ながら、という感じで過去の領収書などをかき集めはじめたのが去年の確定申告時期。やりたい、やりたい、と思ってはいたが、見れば見るほど、知れば知るほど、分かりづらい上に、障碍児と共に生きる日常に追われ、なかなか腰を据えて取りくむことが出来なかった。娘が保育園に通いはじめた4月から、ボチボチ取り組みはじめ、念願、かなって今日。ようやく提出にいたり、無事、3年分、認めてもらった。こんな体たらくな私だから、医療費控除を語る資格はない。ネットサーフィンをしていけば、分かり易い解説をしてくれているサイトはいくらでもある。が、そこでは私が分からなく、実際経験してみて考えたことを、いくつか残したいと思う。まず、私が根本的に一番、分からなかったのは、あんなに山ほどの、他人の人生一年分の領収書を、どうやって税務署の人は判断するのだろう、ということである。一枚、一枚、見て、説明を聞いていては日が暮れる。が、聞かなければ、多少の間違いが紛れこんでいても判断がつかないだろう。一体、どうやって、こなしているのか…??今回、答えが分かった。ほとんど、全くもって見ていなかった…。『●●大学病院⇔自宅(交通費)500円×20回』とあっても、その回数を数える訳でなし。『大手ドラッグストア アンパンマンパッチ 400円』というようなドラッグストアで買った医薬品についても内容は見ず、ひたすらチェック済みの印鑑を押し流すだけ。性善説に基づいた、アッサリとした、やり方だった。ほぼ単一民族、単一言語の国だからこその傾向なのだろうか。また、『領収書が集められない医療費』についても、理論的に証明出来れば、通ることが判明した。今回、私が証明したのは、『産婦人科の定期健診の代金』。私が通っていた産婦人科はレシートが出たのだが、その頃、出産代金まで医療費控除の対象になる、なんて知らなかったから、当然、全く残っておらず。再発行は出来ない、とのことだったので諦めかけたが、母子手帳で確認したら、娘を出産した年だけでも、5000円×10回通っていたから諦めきれず、そのまま、母子手帳を持ち込んで説明した。すると、そのための交通費と共に認めてもらえた。『入院の際の個室代金』も認めてもらった。育成医療が出るような手術のための入院の個室代金については、これは自分自身が、娘との二人旅行、と割り切って、なるべく手術前後の大変な時に、親子でストレスを感じないで過ごせるように、と選択したものだから、それに関してはカウントに入れなかった。が、娘が経管栄養を脱する際に摂食不良で体重が激減し、ドクターストップがかかった際に1ヶ月入院した時の、1ヶ月分の個室代金20万円は、どうしても諦めきれなかった。確かに、個室をチョイスしたのは私だった。が、病気でもない、怪我でもない娘が、ストレスなく過ごせるためには個室しかない、と判断して、のものだった。ストレスがあれば当然、食事などできるわけがない。当時の娘は歩けず、ビデオにも興味がなかった。また、その病院は短期入院の子供を主に扱うため、靴を脱いで遊べるようなプレイルームは設けていなかった。だから、個室の窓際、4畳分程に敷物をしきつめて、おもちゃを持ち込み、彼女一人のためのプレイルームをこしらえた。それを見た主治医はそれを見ていつも、この環境が摂食に良い影響があるだろうね、と言っていた。その言葉を私は、『個室は医師の追認がある』と判断したのだ。そのための証拠など、一筆があるわけではなかったが、それは認められた。正直言うと、それを説明する間もなく、『差額ベッド代』という項目に気付くことなく、その領収書はアッサリ受理され、流されてしまったのだが…。紛糾したのは唯一、『補聴器の領収書』だった。高額だし、立派な領収書だったので、目についたのだろう。相手の主張は、『たとえ医師の診断と薦めがあっての補聴器でも、補聴器自体全て認められない』というものだった。確かに、彼が示した確定申告用の書物には、そう書いてあった。更に、「認められるのは『治療のため』に用いられるものだけである。例えば、風邪薬などは、それを使用したら治る。が、補聴器は耳を治すためのものではなく、止めたり補助したりするもので、治るわけではないから認められない。」と、言った。なるほど、それも道理、と思ったが、身体障害者手帳が出ないから補助は受けられない、でも、医師に薦められて使用しているし、そのための国がやっている通園施設にも通っているし、何より、それをつけなければ言語の発達が遅れてしまうのに、そのための補聴器が認められない、というのは、やっぱり納得しがたくて、「老人性難聴なら、なるほど、それも道理だけど、未来ある子供が言語習得のために医師から薦められてつける補聴器は、また別ではないの」と、食い下がった。彼が、少し時間をください、と下がった後、こちらも理論武装を固めようと、聴覚障碍者通園施設に電話をして意見を聞いていると、あちらも手に資料を持って帰ってきて、「この一文を根拠に認められます」と言った。その資料は難しくってよく分からなかったが、日本もまだ捨てたもんじゃないな、と、ほっとした。あれやこれやで、1時間。思ったよりも、はるかに楽に申請できた。きっと、訳分からない申請書をペンを持って書かなくても、税務署に設置してある専用の端末で、誘導通り、源泉徴収書を片手に打ち込みさえすれば、印刷までしてくれる、からだろう。また、時期はずれに行った上に、最近では役所でも見られない、昼休み休憩、なる時間に行ってしまい、更に誰もいなかったから、端末を一人占めできたのも良かったに違いない。また、1時間。昼休みを返上して私の申請をフォローし、審査してくれた職員の力も大きい。上に書かれた話だけでは見えにくいのだが、彼の名誉のために言いたいのだが、彼は有能な人だった。昼休みを返上してくれたから、というだけではなく、私が端末を使っている際も、分からなくて手が止まると、見えない場所にいるハズなのに、それを見計らったように彼は現れフォローしてくれた。きっと、経験上、この辺りで詰まる、と、学習しているのだろう。1年分、出来上がる頃になると、やっぱり現れて、先に持っていって審査しはじめたり、私が行くと、質問事項を頭にまとめてあって、ぱっぱと聞いてくるし。補聴器の件も、感情に流されることなく、彼は彼の立場を全うした、と思う。その発言に、「言いにくいのだけど」「ごめんなさいね」などと余計な飾りがついていないのが、その証拠だと思う。申請をしはじめの時、娘の手術の話やタクシーの話の流れで、娘の障碍に触れた際、彼は、「僕の親類も同じ障碍を持った人がいますよ」と言っていた。その時に少し見え隠れした彼の感情。それを、審査の際に出すことはなかった。それはそれで、気持ちの良い対応だった。とまれ、この申請で我が家が得たものは、還付金、3年分で3万円弱。そして、まだいくらになるか分からないが市民税の見直し。が、それ以上に大きいのが、娘の保育料の引き下げ決定、1ヶ月8000円分も。4月から払い過ぎた分も戻ってくる、という。思わず、夫に「褒めてくれていいですよ」と、メールを送ってしまった。
2005.06.21
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子供に対する人称は、何が妥当なのだろうか。うちの子。うちの娘。うちの息子。子供。あの子。今まで、そんなこと、考えたこともなかった。娘が保育園に入ってから、こちら。劇的に変わったことは幾つもあるが、その一つに近所付き合い、というものがある。通院→療育→入院→手術→通院→療育→というサイクルをぐるぐるぐるぐる回っていると、どうも、一般的な家庭のサイクルとは違うサイクルを生きてしまうものらしい。近所の人に会う、といえば、ゴミ出しの時くらいで、挨拶程度の付き合いしかなかった。思い返せば、多くの人が公園に遊びに行く午前中に、主に療育や通院が入っていたためか、公園でも出会わなかった。おまけに、夫は暦通りの休みではない、と、きている。当たり前といえば当たり前か。娘が保育園に行くようになって、こんなにも近所に同じような年頃の子供がいたのか、と、驚いた。向こうも、私の方が彼女たちより長く、このマンションに住んでいると知って驚いてた。送り迎えのとき、何度も立ち話をしているうちに、彼女たちの一人に呼ばれて、5家族くらいのグループと行動を共にするようになった。お茶をしたり、食事をしたり、先日の日曜日などは4家族で潮干狩りに行ってきた。半分が外国人だからか自由な気風で拘束感はないし、何より、障碍のない子供たちと遊び刺激を受ける良い機会であるし、ストレスのない程度に、お誘いを受けていた。その家族のうちの50代のお父さんに、飲みの席で言われた。「子供を『あの人』って言っちゃ駄目だよ。」彼は、娘の障碍について、ヘンな言い方だが、積極的で、こうやって皆で遊べば良い刺激になるから、一緒に遊ぼう。30分語りかけという方法を知っているか。抱かれる子供は良い子に育つって方法を知っているか。と、ハードカバーの本を5冊も持ってきて語り入り、あげくに、上のように、のたまわったのだ。障碍児を産み、育てる、ということは、彼が思うほど簡単で単純で夢のある話ではなく、育てている者の体力だけでなく、気力さえ奪いさるもので、当事者たる親が、そこまで子供に入れあげるまでに長い時間が必要な人も多いだろう、という持論は、彼には言わなかった。そんなことを、第三者の彼とまで議論する元気が私にはなかったし、議論しなければいけない、義理の両親や、娘の療育担当者たちにさえ、納得させられない私には、とても無理だと思ったからだ。だから、この議論は置いておくとする。私が気になったのは、『あの人』という表現だ。今まで、自分が実生活でも娘を『彼女』や『あの人』と指していることに、指摘されるまで気付かなかった。いや、気付いたとしても、そんなに問題視される表現だ、と、思いもしなかっただろう。彼が、このような発言をすると、我も我も、と、皆が、そんな風に呼ぶのは良くない、という。これだけの人が良くない、と、感じるからには、その表現に、私の娘への愛の薄さ、他人行儀さを感じる、ということなのだろう。そうなのだろうか。私の娘への愛の足りなさが、彼女を『あの人』と呼ばせるのだろうか。もし、愛溢れていれば、違う人称を使うのだろうか。娘に障碍がなく、順調に育っていたならば、人称は代わったのだろうか。障碍を持って授かった娘以外の子供がいない私には分からない。
2005.06.12
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『経済学とはセレクトし続ける学問である』、と、ある経済学者が言っていた。それがどういう意味なのか、経済学に疎い私には分からない。が、経済学は自発的に選び続けなければならない学問、だとしても、それを研究する人間側の方は、受動的に受け入れ続けることが宿命づけられた人生なのではないか。そんなことを考えた。誰にでも平等に訪れ、受け入れなければならないものとしては、死。寄る年波。これは逃れようがなく、一年、また一年、と、年を重ねる毎に、顔に出来たしわや、自由に動かなくなってくる身体、などで、人はそれを思いしる。もっと早く、受け入れることを強要される人もいる。突然の事故。災害。思わぬ身近で大切な人の死。元には戻せない時間と葛藤しつつ、一日、一週間、一ヶ月…と、新しい状況の自分を受け入れていく。その人生に恨みごとを言い、周囲に当たり散らしたり、年輪を刻んだ自分自身を軽視するかのような、若者のような化粧や格好をしたり。そんな人生を送っている人々が目の端に入ると、不快感を覚えていた。が、どうだろう。今の私。障碍児を授かった人生を未だ受け入れられず、周囲に当たり散らし、絶望感、閉塞感を感じている私自身が、その不快感を覚えた人種の一人になっているのではないか。『人生とは最期には受け入れるべき宿命である』これは万人に当てはまることで、それに気付くのが遅いか、速いか、の差である。と、前提するならば、障碍児を授かる、という事実は、何も『特別な非日常』という程のものではなく、長い人生で言えば、『一つの受け入れるべき日常』と定義されるべきことなのではないか。少なくとも、早く気付くことが出来、受け入れる=諦めるのではなく、受け入れつつ自らを高めていく、という生き方を学ぶことが出来た私の人生は、最後には潤いのあるものになるのではないか。…と、最近、具合が良くないからか、物事を大袈裟に考えすぎている。
2005.06.10
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2004年2月10日から14日の4泊5日。私は沖縄へ行ってきました。太平洋戦争の最中、法的根拠のないまま住民総力戦を強いられ、唯一の地上戦を経験した地を、一度、この足で踏んでみたい、という積年の願いを叶えました。その旅で赴いた場所を公開し、そこで得たことを公開することを、実はずっとためらっていました。資料で見かけたり、書物で読んだりして心を動かされ、その地に立って空気を共有し、手を合わせたいと思って温めていた上で訪問した場所たちは、観光ルートから離れており、観光地図にも載っていないような場所でした。案内看板はおろか、当地でさえも人の手は最低限にしか加えられておらず、無造作に転がっている遺品に、私は教えられました。ここは、彼ら個人の墓である、と。その個人の墓を土足で踏み込むようなことをしていいのだろうか。静かな時間を奪ってしまっていいのだろうか、と。考えて、考えて、私は公開することにしました。それは、そこに眠ることを強要された彼らにとって何よりも辛いことは、忘れられること、ではないか、と思ったからです。何故、自分がここに眠ることになったのか。自分がここにこうして眠っていること自体さえ、忘れられてしまうことが、何にも代え難い無念さ、なのではないか、と。少し、昔話をさせて下さい。高校2年生の頃。家の家業を手伝い、店番をしていた時、二人の外国人がやってきました。観光で来ているという彼らは、韓国人の兄弟でした。少しの英語と漢字で、住んでいる地域の観光名所を聞かれるがままに説明しているうちに、意気投合してきて、日本の学生の話や、文化の話などをしていました。その時、いきなり、兄の方が私に聞きました。『韓国人は皆、日本人のことが嫌いだということを、あなたは知っているか』こんな英語の内容だったと思います。私は、全く知りませんでした。そのことを告げると彼は、真剣な表情で語りはじめました。その内容はあまりにも難しくて、ほとんど分からなかったのですが、その真剣さに、分からないままも聞き入っていたのを覚えています。最後に、彼らは私に名刺を置いていきました。『韓国を訪れたら今度は僕らが案内するよ』と、そんなことを言っていたように思います。その名刺には、兄の方は新聞社のもので、弟の方は、後に、有名な鉄鋼業の会社、だと分かりました。大の大人である彼らが、観光中に出会った、たかだか店番の子供に、名刺まで置いていく真剣さで語らせた、その衝動の根底は何だったのだろう。2枚の名刺を机の前に置いて、来る日も来る日もそんなことを考えていました。沖縄を訪れて、その答えがようやく、その一端だけですが、見えたような気がします。それは、忘れられていた怒り、悲しみだったのではないだろうか、と。もちろん、彼らが、そういった教育を、時には隔たって受けてきた、という影響もあります。が、それ以上に、私には、そういった教育が隔たって足りなすぎた、と、思います。隔たった教育をして欲しい、とは思いませんが、せめて、現在も外交的に軋轢があるような歴史分野では、事実にフタをしないで、客観的事実と現状、他国からの評価などを教えて、自分の言葉で戦争を語れるような情報を与えて欲しかったと思います。話を戻しますが、沖縄にも、彼らと同じ怒り、悲しみを感じました。踏みしめる大地、一歩、一歩に、忘れないで欲しい、という叫びが聞こえてくるようでした。政治に大きな関わりのない、一主婦の私が、彼らにしてあげられることは、市民運動などに参加する、などという大仰なこと以前に、ただただ彼らを忘れないでいること、なのではないか…と。こう考えた上で、旅行のまとめを兼ねたものを、以下に公開していきたいと思います。私では力不足で、逝った彼らの想いに充分答えられてはいませんが、よろしかったら、ご覧になってください。pms
2005.06.01
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元気のない日がある。そんな時はいつも、うだうだぐだぐだと、詮無いことを考えている。娘が保育園に入り、出来上がった自分の時間を有効に利用しもせず、我ながら成長しないな、と、呆れるばかりなのだが、、今日は、障碍児である娘が生きる意義(育てる意味)について知らず知らず考えていた。こういう日々が、長い目でみたら、自分の気持ちを整理する大切な時間だった、と、いうことになるのかもしれないが、短期間でみたら、自分の足元に水をどんどんぶっかけて、地盤を緩くしてしまうような作業に似ている。そうやって、緩んだ地盤に足をズブズブと入れ、腰辺りまでつかった頃、そんな泥沼の自分ならではだろうが、ふと、思いついてしまったことがあった。『一体、そんなことを考えている自分自身の絶対的価値、相対的価値はあるんだろうか』なんとも危険な思想である。絶対的価値。これを否定してしまっては過去の自分も全て崩れ落ちていってしまう。子供一人、まともに育てられない、家事一つまともに出来ない、という事実は、この際、不向きな仕事、ってことで、保身のために棚に上げさせてもらいたい。相対的価値。ここである。一体、私に相対的価値などあるのだろうか。私が、ただ私でいるだけで価値がある、と思ってくれる人が一体どれだけいるのだろう。私が、ただ私であるだけで価値を見出してくれる人など、いるのだろうか。一方、娘はどうだろう。娘が保育園に入園した4月だけの一ヶ月間。私は、3人の、ご婦人の涙を見た。一人目は、住んでいるマンションに日勤で通っている管理人のおばちゃん。4月から保育園に通う旨を立ち話で報告すると、彼女はとても喜んでくれた。辛い思いをしているのに、いつも笑顔で…と、そこまで話して、涙でむせた。思えば、娘の通院や、入院、手術、チューブをつけている顔、手術前の奇形で生まれた時の顔。彼女は全て知っている。孫がいない彼女は、ここのマンションの子供を全て孫のように可愛がってくれていた。ここまで元気になって…と、また涙していた。二人目は、療育所の途中にある、息子さんと二人でやっているパン屋さんのおばちゃんだった。今よりももっと深刻に物を食べない頃。娘は何故か、ここのマフィンだけはパクパクと食べた。道を挟んでハス向いに、地元のテレビで紹介された、スーパーに併設された大きなベーカリーがあるのだが、そこのパンは一切食べず、この店のマフィンだけを食べた。それが縁で顔見知りになったのだが、これから、あんまり通えないの、と、保育園の事情を説明したら、意外なほど喜んでくれた。少しづつ元気になって、大きくなるのが楽しみだったの、と、涙を流した。そして、パンなんか買わなくていいから、たまには顔を出してね、保育園でたくましくなった姿を見せてね、と、二度も三度も繰り返した。三人目は、娘の保育園で働く掃除のおばちゃん。おやつの後くらいに来て、掃除機をかけたり拭き掃除をしたりする方である。4月も中旬を過ぎた頃。私が娘を迎えに行くと、あちらから声をかけて下さった。聞けば、娘は、この方に抱っこをせがんで抱っこしてもらっているらしい。お忙しいのに、と、お詫びを言うと、とんでもない、と、かぶりをふった。この子が可愛くて可愛くて…抱っこすると、ぎゅーっと抱いてくるのよ…こんなに可愛いんだから、お母さん、きっと大丈夫よ…もう、本当に可愛くって可愛くって…私を見上げて、ニコーって…彼女は、何度も何度も、目元を持っていたタオルで拭いながら話してくれた。彼女たちに対して、娘は、ただ娘であっただけだ。何かを特別にした、というわけではないし、そんなことも出来ないだろう。それなのに、彼女たちは涙を流した。それが、ただ単に同情だとしても、流す涙にはストレスを解消させる、という効力もあるようだし、少なくても、何かしら彼女たちに大なり小なりの影響を与えたわけだ。それも、おそらくは、良い影響を。娘の絶対的価値は分からない。でも、少なくても相対的価値だけでみたら、私より、はるかに上ではないのか。こういった存在が世の中には必要で、故意にこの世にもたらされている…というのは、考え過ぎだろうが、何かしらのパワーをもらっている人もいるのではないか…。…これも考え過ぎだろうか。
2005.05.14
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大切なことを、すっかり忘れていた。ここをはじめる時に誓ったこと。『(実生活とは違い)せめてここだけは自分に無理をせず言いたいことを言い、やりたいようにやろう』と。保育園に入ってから、1ヶ月。私は次第に調子が悪くなっていた。娘を保育園に連れて行くときも、迎えに行くときも、花粉症を言い訳にマスクで顔を覆っていた。自分の表情を上手に作らなくても済むからだ。娘のいない時間を、ずっとベッドでまどろむだけで終わらせていた日もあった。娘を迎えに行く時間になることに恐怖を感じる日もあった。自分のウロコが一枚一枚、毎日剥がれていってしまっているような焦燥感と頼りない感覚。精神科医は「空の巣症候群ではないか」と言ったが、果たしてそうだろうか、とかえした。いや、そうではないだろう、と。孤独。私を占めているのは、孤独感、だ。保育園の中では、一人、障害児。父母会で集まることが多い中、子供の発達話で共感出来る話はなく、あっても、どこまで共感していいのか分からない。「障害児に共感されたって困る」って思われるかな、と、瞬時に判断して口をつぐみ、そうやって口をつぐんだ、ということは、自分が逆の立場ならそう思うだろう、と、思ったからだ、と思い当たり、自分の中にある差別感に苦しむ。この悪循環。そんなことしても仕方ないと分かっているのに、してしまう他の子供との比較や羨望。障害児の集まりの中では、一人、保育園。なんとなく感じる、障碍の軽重で決まる人間関係。「保育園に入って、娘がどれだけ遅れているか思い知った」と発言したときの場の空気。夫との温度差。娘が保育園に通って出来た時間を、夫は喜び、私と過ごす時間を楽しみにしている。それを嬉しいとは思いながらも、まだチャンネルが切り替えられない。次の子供の話をされると、脳裏に、次の子供が障害児なら生きていけないだろうな、と、ふっとかすめ、心が凍り付いてしまう。念願の保育園に入れて、自分の時間が出来て、娘も刺激を受けて成長していて。だから当然、自分は良い方向に向かうのだと思っていたし、そうあらねばならない、と、知らず知らず無理をしていたのだろう。その無理が精神を蝕んでいたのかもしれない。ここの更新が出来ないことが、その証拠だったのだろう。本当に言いたいことに至っていなかったのだから。こんなこと、実生活では言えない。保育園のママ友達に。保育士に。苦労している障害児のママ友達に。夫に。こんな自分の孤独感。自分自身だって共感出来ない。
2005.05.13
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ゴールデンウィーク。暦の関係ない夫は、前半出張、後半出勤だった。まぁ、これは今年に限ったことではないし、人混みの中を出かけるのは得意ではないし、一緒に連れて行くのが意思の疎通があまり出来ない割りには体力があって飛び回ってしまう障害児だし、平日のお休みってのも悪くはないし(代わりの休日はもらえないけど)。例年通り、娘と二人で過ごした。今年は、この大型連休のほとんどを、あることの予行練習で費やしたといっても過言ではない。あること、とは、そう、遠足、である。娘の保育園の遠足は、保育士と子供だけで、お弁当を持って動物園に行く。親は同伴しないのである。あの娘が、リュックを背負い、その中からお弁当を出し、お弁当のフタを開け、食べ、フタを閉め、リュックにしまい、背負い、歩く…。…出来るのか??いやいや、無理だって。そもそも、お弁当ったって、何を入れたらいいんだろう。…というか、どうやって入れたらいいんだろう。遠足用のお知らせに、こんなことが書いてある。『お弁当になると普段食べている子供でも気が散ったりして食べられなくなってしまうので、好きなものを少なめに詰めてあげてくださいね。』娘の好物。納豆。味噌汁。スープ。しらす。…いや、本気で詰めようと思ったら詰められるお弁当箱がある。うちにも、保温ジャーのような筒型のお弁当箱はある。しかし、自分では開けられないだろうし、保育士だって、そこまでして欲しいと思って、お知らせに書いたわけではないだろう。よ~し、この連休で、なんとかしてやるぞー。…と、意気込んだ。まず、義母にリュックの作成を依頼した。娘でも簡単に開け閉めできるように、中はゴムでしぼるタイプにしてもらった。お弁当箱は大好きなアンパンマンを購入。ついでに、アンパンマンのピック(楊枝)があったので、それも購入。お弁当を作ってリュックに詰める。背中に背負わせて、いざ出発。今日はこっちの公園、明日は児童館、と、ウロつき、敷物をしいてお弁当を広げさせる。おにぎりバージョン。サンドウィッチバージョン。娘の食べ方を見て、次の日にまた工夫しなおしてみる。そうやって、とうとう娘は自分でお弁当を……って、そんなにうまい話になるなら、障害児育児も楽なわけで、当然、出来るようにはならなかった。一人で食べられることはおろか、娘が食べられるような(この辺のレベルの話が障害児だなぁ)お弁当も、当然、編み出せなかった。それでも、この連休。楽しかった。こんな風に娘と過ごせた時間。そんな時間を持てるようになった自分。そんな風な時間を過ごしている自分が、心地よかった。遠足だった、この日。はじめての遠足を迎える2歳児クラスの12人の出席者に対して、いつもより多い、5人の保育士がついた。その中の一人は、娘専属の加配の保育士だった。補聴器を落とすわけにいかないし、当然と言えば当然だろう。それを分かっていなかったか、と、言えば、実は予想はしていたし、期待さえしていた。補聴器を落として保育園と揉めることは避けたかったからだ。それでも、連休中。あんな時間を自ら選んだのは何故なんだろう。娘が一人出来ないのは、可哀想だったからか。娘が一人出来ないのは、誰より自分が傷つくから嫌だったからか。加配でつくであろう保育士を驚かせたかったからか。まだ健常者に追いつくんじゃないかって諦めきれないからか。保育園に入って周囲が健常者ばかりで勘違いしてしまったか。娘と一緒に少しづつ目の前の目標をクリアしていくことが楽しくなってきたからか。私には分からない。お弁当には結局、ロール型にしたハムとトマトのサンドウィッチ(といっても、あえて汁がもれるようにしてべちゃべちゃにしたもの)を輪切りにしてアンパンマンのピックで止めたものと、タマゴのサンドウィッチ(同上)をパンを9等分にして丸型ににぎったものと、チーズ、これらを言われた通りに少しづつ入れた。帰ってきたお弁当箱を開けると、半分くらい残っていた。
2005.05.10
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通常保育も4日目。食事中、椅子から逃げ出したり、遊びの時間が終わりだ、と告げても「いやぁ」と動かなかったり、すでに、好き勝手、やり始めたようで、恐縮だが安心した。ただ、まだ、保育園で排泄するのが難しいようだし、お昼寝も、家では、たっぷり2時間眠るのに、保育園では1時間足らずで起きてしまうようなので、日常生活、というよりは、まだまだ旅行気分の興奮状態で過ごしているようだが。保育園の効果は目を見張るものがあって、それは、とてもこんなスペースでは書ききれないので、また、おいおい書き記していきたいのだが、中でも、私と娘の両方に効果があり、且つ、最大の懸案事項だった事について記したいと思う。それは、摂食障害、だ。もう、しつこくなるので、娘がどれだけ摂食障害なのか、を、書くのは止めたいと思う。が、そんなに、しつこく書いても尚、娘の症状として『摂食障害』と、公に書いて助けを請うことは出来ない。何度か栄養不良で入院し、栄養面やらで手厚くフォローしてもらっている主治医のいる病院でも、娘が摂食が苦手で、新陳代謝が良すぎるのか、普通に摂取した栄養では足りない身体的特徴を持つ、と知っていてくれて、何か病気をすれば、そういったことも加味して早め早めの治療をしてくれはするが、だからといって、『摂食障害』である、という診断名がついて、そのための治療やら、指導やら、をしてくれるわけではない。このことは、私を、孤独、にしていた。誰にも分かってもらえない、苦痛。誰かに相談しようものなら、母としての私が足りない、と、暗に言っている指導や助言しかしてもらえず、落ち込むだけの毎日。ようやくネットで同じような症状のお子さんを持った方に出会えて、心の負担は減ったものの、実際にお互いの子供の様子をみている訳ではない。私のやり方が悪かったのではないか。今でも、私さえ、やり方を上手にしたら、食べられるような状態なのではないのか。どうしても、自責の念を拭えずに、苦しんでいた。保育園での食事。私はもともと、食事面での入院の件や、経管栄養であった経緯を説明して、そのフォローに積極的だった園を選んだので、問題はなかった。が、娘は人前に出ると張り切るタイプであるし、娘なりに雰囲気を察して外面を出していたので、母子通園の最中は、保育士さんの手から食べさせてもらえば、口を開けていた。が、やはり量を食べることは出来ず、家に帰って、気が狂ったように彼女の好物を食べていた。私はそれでもいい、と、思った。どんなに空腹でも、彼女の好物でも、それでもテンション低くしか食べない、それが娘であったから、こうやって、肉体的精神的に疲れて、家でばかばか食べてくれたら、それも保育園効果だ、と、思い、連絡帳にも、そう書いた。ところが、母子通園を終えて初日で既に外面を止めてしまったようで、連絡帳からは苦慮がにじみ出ていた。『納豆と白飯と汁物、さえあれば、なんとか食べます。』と、事前に言っておいたので、その日は、特別にそのメニューで乗り切ったようで、私は、それでも、有難い、と思っていた。私は、その旨を書き、最後に、『食事に関して、私たち母娘の関係は壊れてしまっていて、食べさせることはテクニックで出来るのですが、食事の楽しさを教えてあげることは、もう出来ません。どうか、お友達との楽しい雰囲気の中で、それを教えてあげてください。』と、書いた。ところが、その一連のことが、障害児保育に長けている、この保育園側に火を点けてしまったようで、娘の食事のことが会議に諮られ、調理場と担任保育士たちがタッグを組み、徹底的に娘を研究してくれているようなのだ。調理場では、娘の食べ易い大きさ、調理方法など。保育士側では、娘の食べさせ方、食器の使い方、癖、性格。その研究成果が連絡帳から溢れるほどに書かれ、お迎えに行っても、まず、その話からしてくれる。私の方も、家で分かっている範囲のことを書き、ただ、家でのやり方が正しいことはないし、保育園では保育園での娘の顔があるだろうし、最低限にとどめて、保育園に一任します、と、付け加えて書いた。そんなやり取りをしながら、この4日目。担任保育士さんから今日の成果を伺っていると、思いがけない言葉をいただいた。「お母さん…今まで大変だったでしょ、一日3回、作る作業もあるのに、よく一人で頑張ってきたね。」どう工夫しても、どうも娘には1時間は食事時間がかかる、と、判断し、お昼寝の時間に食い込んで食べさせているようなのだ。よく、食事時間は30分、それ以上はダラダラ食いになるから、と、言われているが、うちでは娘の1回の食事時間が、ゆうに1時間を超える。そのことについて、もう誰にも相談していなかった。説教されるに決まっているからだ。でも、誰がなんと言っても、娘の食事時間に1時間はかかる。これは、もう説明しようのないことで、本当に、普通に1時間、娘は食べているのだ、トロトロと。椅子に座って。一口食べるごとに、警戒したり、必死で飲み込んだり、気が散ったり、しながら。彼女の周りだけ、時間の流れが違う、ように。担任の保育士の言葉を聞いて、私は思わず、人前で泣いてしまうところだった。娘を保育する同士を見つけたような安心感。今までの自分に対する自信。そして、確信した。やはり、子供の摂食障害は家庭だけでの治療ではなく、こういった良質な第三者が必要だ、と。「お母さん、昼食とおやつだけで悪いけど、この二つは保育園が全力で請け負うから、少しゆっくりしてね。△△(娘の名前)ちゃんの情報を交換して、一緒に頑張ろうね。」本当に本当に、涙があふれ出てしまうところだった。
2005.04.14
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通常保育、2日目。初日の昨日は、いきなり背中でバイバイ。涙のお別れもないまま、私は保育園を後にした。が、お迎えに行ったら、私を見つけるなり足を踏み鳴らし駆けてきて、首にかじりついた。担任の保育士さんに日中の様子を聞くと、涙も見せず楽しく過ごしていたそうだが、私を見つけたときの興奮しようからすると、「明日がどうなるか、ですね。」と、言う。初日、訳も分からず流された状態で頑張れたとしても、次の日から理解して愚図つく子供も多い、という。初日の帰り道。娘は興奮状態で、何かしきりに言っていた。分かる言葉は、手話をつけて「いーしょ(一緒)」「あまま(バナナ)」手話をつけて「あってぇ(待って)」のみ。察するに、「保育園で、お友達と一緒に遊んで、お母さんを待って出来たよ。頑張ったよ。」ということらしい。この状態は夜になっても続き、ひっきりなしに「あまま(バナナ)」と私に言い、私が、「保育園で、ばなな△△(娘の名前)ちゃんに変身できたね。」「あ、もしかして、保育園では、ばななですか?」などと聞いてあげると、なんともいいようのない誇らしげな顔をした。実は、この表情(顔)を見るの初めてでは、ない。結局、日記には書けず仕舞いでここまで来てしまったが、娘は今年の1月から3月までの3ヶ月間であるが、近所のスポーツジムの体操と水泳に通っていた。フリー出席制で、予約が空いていればいつでも行け、体操と水泳、合わせて8500円。毎日は無理でも、一日おきなら必ず予約を入れることが出来たので、体操と水泳を交互に。療育や通院がない日は、足しげく通っていた。保育園が無理だった場合の苦肉の策で、母子参加型では、母親無しで頑張る練習にならないし、かといって、完全に預ける型では断られるし、断られないとしても、補聴器の管理、食事など、心配の面が残るし、勉強系の幼児教室では、本人もやる気になるのに時間がかかるだろうし、教室を一人、走り回っている姿を見守るのも辛いし、周囲にも恐縮だし。消去法でたどりついたのが、ここだった。体操も水泳も母子分離で行われるが、ガラスのこちら側から親が見学していることが出来るので、補聴器などのチェックも出来るし、食事の心配もいらないし、運動系は娘の好きな分野。しかも、曜日関係なく割り込んでくる通院も、フリー出席制なら無駄にしなくえすむ。あるあるの状態だった。問題は『補聴器を付けての参加』を、どうやって認めてもらうのか。娘の補聴器は補助金もなく眼鏡と同じ扱い。眼鏡をかけて参加出来るのに、どうして補聴器は駄目なのか。相手は全国展開している有名なスポーツジム。いざとなったら、評判を悪くすると揺さぶろうか。理論武装バリバリで交渉に行ったところ、あっさりと快諾してくれた。それどころか、担当のコーチから電話をいただき、どんなことに気をつけたらいいですか。補聴器の付け方を勉強させてください。覚えた方が良い手話はありますか。などなど、気にかけていただき、最後に、コーチ全員に徹底させますから安心してくださいね。とまで言ってもらった。実際、3ヶ月間。娘は本当によくしてもらい、保育園の入園で、時間が合わなくなったので止めざるを得なかったのだが、心から残念に思い、娘も未だにそこを通ると、行きたそうにする。たかだか1時間。しかも、ガラス越の母子分離だったが、娘にとっては大きな壁だった。初日は、ただただ泣いているだけで1時間があっという間に過ぎた。2週間たっても、その状態はほとんど変わることはなかった。3週間たった、ある日の水泳。相変わらず大泣きで連れて行かれ、プールでも泣いていたのだが、その日はいつもと違い、スペシャルゲストがいた。娘がようやく抱えられるぐらいの大きさのプーさん、だった。水遊び用に、その日から投入されたものらしいのだが、娘はそれを見つけるなり、ぱっと泣き止み、奪いさった。そして、1時間中、何をする時でも、ずっと抱き合っていた。コーチも取り上げることはしなかった。時間を終えて、ウサギのバスローブ姿で帰ってきた娘は、これまでに見たことのないような誇らしげな表情をし興奮していた。それを見たとき、あぁ、ここに払ったお金は無駄じゃなかったな、と、心から安堵の息をもらした。その日以来、涙を見せることはなく、まもなく、ガラス越の私を振り返ることもなくなった。保育園の初日後。私は、また、この誇らしげの表情をみて安堵した。きっと大丈夫だろう、と、思った。2日目がどうなるかは分からなかったが、長い目でみれば、きっとやっていける、と、思った。そして、2日目の朝。私は娘に聞いてみた。「保育園に行く人?」笑顔で娘は手をあげた。「はぁーい!」保育園に着き、すでに遊びはじめている娘に、また、初日と同じように説明した。「ここで、お友達と一緒に遊んでお母さんを待っててね。」娘はチラリと私を見上げると、「うん」と言い、また、すぐにブロックで遊びながら、「ばいばーい」と言った。涙の別れはなかった。帰り道。私は、スポーツジムで泣いてかじりついていた娘を思い出して、初日の昨日とは違い、少しだけ、ほんのほんの少しだけ、寂しくなった。
2005.04.12
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今週から通常保育になった。朝、9時に娘を連れて保育園に。慣れない作業にとまどりながら、エプロン、着替えなどを所定の位置に置き、連絡ノートを提出し、お昼寝布団をセットし。すでに遊びはじめていた娘に、朝から説明していたことを、手話を交えて、もう1度繰り返す。お母さんが迎えにくるまで、みんなと一緒に遊んで、待って、しててね。朝と同じように、「うん」と、うなづき、「ばいば~い」と手を振った。涙の別れはなかった。保育園を出て、近くの大学へ。学外者用のIDカードを作ってもらい、かねてから見たかった研究者の論文が載っている紀要を端末で検索し、地下の書庫へ向かう。書庫に入るための受付でIDカードを預け、荷物をロッカーに入れ、ゲートをくぐると、地下とは思えない高い天井の広く暗い空間が現れた。戸棚の番号をチェックしながら、お目当ての紀要を発見すると、かじりつくように、その場で座りこんで読みふけった。はるか上方の明りとりの窓から、暖かな日差しが一本、私の足元に伸び、その光の中で、書庫独特の埃が舞う。湿っぽく、少し肌寒い。古いインクの黴たようなにおい。同じ目的でここに来て、同じ目的でここの本を手にした、そんな先人たちの息遣いが聞こえてくるかのような静けさ。私は猛烈な眠気に襲われ、思わず目を閉じた。目を閉じた暗闇の中、頭の中をグルグルと、様々な思いがめぐる。いつもの衝動。吐き気をもよおす程の胸の痞え。緊張感。泣けてくるほどの焦燥感。が、一瞬で、ここの広い空間の中に、木っ端微塵の砕けちったかのように霧散し、コンクリート剥き出しの柱にもたれて、私は本当に眠ってしまった。家に戻る時。意識したつもりは全くなかったのに、何故か通園路を通っていた。保育園を遠くから眺め、娘の姿を探してみると、皆に交じって走りまわっていた。途中、タンポポが群生している空き地で足を止めた。空き地に入らないように渡してある柵で、娘はいつも、鉄棒遊びをしている場所だった。私は携帯を取り出して、満開に咲いているタンポポの写真を一枚、撮った。学生時代の友人が、タンポポが好きだ、と、言っていたのを思いだしたからだった。綺麗に撮れていることを確認すると、私は彼女にメールを送った。
2005.04.11
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朝から頭が痛い。体が重い。これはきっと、母子通園疲れ、だ。母子通園は肉体的に疲れたが、得るものは大きかった。保育内容も分かったし、保育士さんたちと、ずっとお話が出来るので、娘についての情報交換もスムーズに出来る。食事も食べてみることが出来たし、ちょっとしたよそ行きの娘も見ることができた。何より、担任の保育士さんたちに絶対の安心感をもつことが出来たのは大きい。特に、30代のベテランの保育士さんには脱帽だった。褒めるときは、他人の子供を抱きしめているとは思えない程抱きしめ、頬を寄せる。怒るときは子供の目線で、絶妙なタイミングでカツンと声色を変える。散歩で列が乱れても、彼女が一声カツンとかけると子供たちは列を直す。が、嫌だったり、怖かったりするときも、誰よりもまず、彼女の胸に飛びついて泣く。娘に対しても、凄かった。一番、凄い、と思ったのは、娘に対する姿勢だった。あくまでも他の子供と同じことをさせるのだが、きちんと、さりげなく他の保育士に指示をして娘をフォローさせる。フォローさせながら娘を観察し、「結構、腕の力、強いね」「こんなことも出来るんだね」と、出来ることだけを幾つも幾つも幾つもピックアップして、他の保育士と相槌を打ちあう。同じ場面を同じ場所から私も見ているのだが、あれも出来ない、これも出来ない、と、目を覆いたくなるような状況なのだ。出来ない、ではなくて、出来る。『知的障害児からの脱却』で、私も心に誓ったはずなのに、全く、てんでお話にならないくらい出来ていなかった。…母子通園疲れには、この、心の疲れが大きいのだ、と思う。母子通園初日。ここまで、同世代の子供と差があるとは思っていなかった。3つの机は、発達が同じ位の子供同士を座らせてあって、娘の席は一番遅い机だった。それなのに、そこの机の子供たちのどの子供よりも遅い。6月生まれなのに、半年も年下の子供に、「赤ちゃん」と頭をなでられる。もっと、大きな子供たちに囲まれ、ヘンなもの(補聴器)をつけている、(手術跡を指差し)顔がヘン、と、言われ、震えている姿。滑り台をしようとしても、その速い回転についていけず。娘が何かしようとすると「だめよ!」と言うお節介クラスメートの顔色を伺ったり。だからといって、この保育園という選択が間違っていたのでは、尚早だったのでは、と、思っているわけではない。たった、一週間だが、同じマンションの人、何人にも、「顔が精悍になった」「発散した良い顔をしているね」と声をかけられるほど、親の目からも、娘はメキメキっと良い方向へ変わった。問題は私の方だ。障害児って、もう分かってるはずなのに。障碍を受け入れて、相対的な彼女の価値を認めて、更に、絶対的価値も高めてあげたい、と、誓いをたてたハズなのに。他の子供と比べて出来の悪い娘にイラついている。家に帰って、他の子供がやっていた遊びを強要したり、お着替えの全てをやらせようと、恫喝したり。何やってんだ私、何やってんだ私。母子通園中。娘は本当に良く頑張った。家では出来なかったことまで、周囲の雰囲気につられてか出来てしまった。この土日で、そんな娘をいっぱいいっぱい可愛がってあげようと思っていた。その気持ちに嘘はないのだ。でも、どうしてもどうしても悲しくなってイライラが止まらない。朝から、娘に優しくしてあげることが出来ない。頭は割れるように痛み、誰か背負っているかのように立ち上がるのも困難なほど、体が重い。…そんな120点、150点の娘でさえも、ここにいる誰よりも発達が遅いんだ…分かっていたはずの現実。目の辺りにしてみたら、直視していることが、やっと、だった。
2005.04.09
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娘が慣れるまで、まずは母子通園をすることにした。面白いもので、「通常のお子さんと同じスケジュールでいいですよ~」と向こうが預かる気をみせてくれると、何故だか、やる気になってくる。一緒にいれば、補聴器の説明や、食事の説明など、自然とお互いに伝えあえるし、ぶっちゃけ、保育内容に興味もあるし、娘のことも気にならないわけでもないわけでもないし、ノリノリで始めてみた。…ところが、はじめてみてスグに後悔した。母子通園。私は娘だけをみていればいいのだが、珍しい大人を他の子供が放っておくわけはない。娘をほめれば、やれ自分も自分も、と、やってくる。娘の口に食事を運べば、甘えさせてくれる大人がやってきた、とばかりに、せがまれる。保育士さんたちもフォローをしてくれるのだが、一度、ヤキモチを焼いてしまった娘の気持ちは戻らない。何かある度に、遠くに遊びに行っていても戻ってきて、周囲から私を離し、他の子に負けそうになれば、秘儀、抱っこ攻撃で甘えてくる。まぁ、そんな風に愛されているのも悪くはないけど、家に帰っても機嫌が悪くて、大変だろうなぁ~と思うと、こんなに無償で疲れた上に残業か、と、どっと疲れも増す気がする。後悔しながら考えついた。今の状況を一言で言うなら、『店で出会ったとはいえ、本命の同棲中の彼女が、お客として店に来られて、やりにくいホスト』だなぁ、と。仕事なんだから、他の女の子に優しくしないわけにもいかず、なのに、分かってくれない彼女に、本命はキミだよ、と、合図も送らなければならず、でもまぁ、そんな彼女も可愛いけど、家に帰ったら、責められるのも腹たつなぁ、みたいな。この保育園のことだから、や~めた、と言えば聞いてくれると思うんだけど、なんだか、こちらから言いだした手前、言いづらい気もするしなぁ。いつまで続くんだ、このホスト業。今週いっぱいっぽいんだけどなぁ…。
2005.04.06
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入園式に行ってきた。たまたま仕事が休みだった夫と、私、そして娘。入園式、とはいえ2歳児の新入園児は娘だけで、一番多い0歳児入園を合わせても、わずか17名の新入園児のための式である。式前の打ち合わせで、彼が娘を抱いて列席し、私がビデオカメラ担当になった。暖かな日差しの色とは異なって、桜のつぼみも、その身を固くガードしなおしてしまいそうな風の強い日。無理やり、在園児の言葉、など、芸をさせるわけでもなく、堅いご挨拶が長々と続くわけでもなく、それだからといって、在園児が走り回って秩序を乱すわけでもなく、かといって、強要されて、そこに座っているようにも見えず、保育士などスタッフが楽しそうにノビノビと挨拶をし、絶えず笑いがこぼれ、子供たちが作ってくれた、歓迎の文字や絵やプレゼントが溢れ、外の風を忘れてしまうほどの暖かな部屋、どうしても入りたかった、この保育園。カメラの中には、頬を寄せて笑い合っている可愛い我が子と、大切な夫。手の中で回しているビデオカメラの中に、このまま入りこんでしまいたかった。
2005.04.04
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いつ気がついた、という明確な何かがあるわけではない。が、虐待気付き週間、とでもいうような、集中的に、自分は娘を虐待していたんだな、と、思いしらされる出来事が立て続いていた。その仕上げ、とでもいうべき事件が、娘の怪我、だった。私は、まだ…疑っている。本当に娘の怪我は、椅子から落ちた、ときに出来たものなのだろうか。あの日の昼過ぎ、娘が食事をしたくない、と逃げまどったとき、無理矢理椅子に座らせた、あれがもしかしたら原因だったのではないか。着替えを嫌がったとき、床に叩きつけた、あの時泣いたのは、もしかしたら激痛が走ったからではなかったのか。あの怪我以来、娘が『天使』に見えるようになったのも、あたかも、自分の虐待を止めてくれたから、自分の虐待を許してくれたから、と、勝手に解釈したからではなかったのか。虐待していた親によくあるように、私も自分が娘を虐待している、とは夢にも思わなかった。いや、夢にくらいは思ったし、ここにもそんな話も書いたかもしれないが、そんなに深刻に思うほどには自覚をしていなかった。年をとったから、と口では言いながら、化粧方法も服装もまったく変えていない、そんな程度だった気がする。言ってるときは結構マジであせってはいるのだけれど。どのような言い訳があったとしても、虐待は決して許されるものではない。が、きっと、どの虐待にも、それに至ってしまった原因があるのだ、と思う。そして、やはり、私にも、彼女が生まれてからここに至るまでのことを思い起こせば、どうして彼女を虐待してしまうに至ったのか、と、思い当たることがある。経管栄養のチューブに、口の矯正具、鼻の矯正具、手術後のケア。と、彼女には常時、後天的に人工的につけられたものが幾つかあり、そのどれもが彼女に必要なものであった。何も分からない赤ん坊が、手に触ったものに興味を示し、結果として矯正具を外してしまうのを、私は恫喝と痛み、という恐怖によって、抑制した。それを外してしまっても、どのみち入れ替えねばばらず、もっと辛いめにあうことになる。彼女の人生には、今後も様々な困難がつきまとってくるはずで、それを受容させることも彼女の人生として教えてあげなければならない。こう思って、私は娘を厳しく制した。本当に本当にその時は、それが娘のためと思い、涙を流しながら怒ったことなど数えられる回数ではない。が、それは娘のためでもなんでもなかった。私のため、でしかなかった、ような気がする。入れ替えるのが辛いのは、娘より自分であった。その動作をする度に手間がかかる。立ち上がり、準備をし、押さえつける。泣き叫ぶ娘の顔は無言で私にこう叫ぶのだ。どうして、私をこんな風に産んだの?尋常ではない作業を、尋常ではない状態で行う度に、自分が今までいた世界から遠く離れてしまい、窓の向こう、ベランダの下で、当たり前に営まれている日常生活からも追い出されてしまったかのような孤独感と焦燥感に身を焼かれる、そのことから、とにかく逃げたかったのだ。娘が怪我をして、とってつけたように娘に優しくしているうちに、世界が音をたてて開いていった。恫喝しなくても、拘束しなくても、矯正具をつけることも、傷のケアをすることも可能だ、ということが。待ってあげれば、自分からこちらに来る、ということが。何度も教えこまなくても、期待せず、何気なく日常に組み込んであげたほうが、生活習慣も言葉もはるかに覚えが早い、ということが。そして、それらの方法の方が、何倍も、強制し恫喝するよりも時間も忍耐もかかる、ということが。けれども、その方が何十倍、何百倍も、幸せだ、ということが。心から、分かったのだ。以上のことを私が知らなかったか、と言えば、そうではない。知識では、そのようなことは知っていた。それどころか、自分は実行している、とさえ思っていたのだ。それでも、娘には覚悟し我慢しなければならないことがある、それを叩き込んであげなければならない、そのことを免罪符に、私は最もてっとり早い方法をとっていたに違いない。悪徳託児所、保育園、幼稚園、ベビーシッターのように…。もちろん、経管栄養の場合、どうしたって泣き叫ぶ我が子を押さえつけなければならない。何事もまだ分からぬ乳児の頃は、言って聞かせることは無理であるし、拘束しなければならなかった事情は、たとえ、あの頃に戻れたとしても変わらなかったかもしれない。その親子関係を、いつから私は日常、当たり前のものと、していってしまったのだろう。ここで出会った誰かが教えてくれた。子供は、いつまでも悔やみ、泣いて謝り続けられるよりも、元気で明るい、大好きなお母さんに一日でも早く戻ることが、何よりの謝罪である、と。これからの私の笑顔で、彼女も過去のことを水に流してくれるのだろうか。私がしてしまった過去のせいで、彼女の心に深くつけてしまった傷が癒える日は来るのだろうか。
2005.03.21
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誰が何と言っても、娘は摂食障害である。誰が何と言っても、と、書いたが、正確に言えば、それは違う。「誰も何とも言ってくれなくても」と表記するのが正しい。娘が経管栄養になった時、私は2つの大学病院、1つの国立病院、1つの総合病院の門を叩き、診察し、検査をしてもらった。が。いずれも、明確どころか、少しの希望さえ、教えてもらえなかった。それどころか、「原因不明」とさえ言ってもらえず、管で生きているんだから、そのうち(ミルクを)飲むんだから、命に危険はないんだから、他の病院の出方もあるし、お母さんのやり方が悪いんでしょ。という扱いしか受けなかった。出会った栄養士、管理栄養士、保健師は10人を下らないが、真剣に向き合って、力になってくれた人は、1人しかいなかった。その方から、種類を問わず障害児に、摂食障害の子供が存在し、その研究はまだまだ途上である、と、教えてもらった。その方との出会いも、思えば、ネットを旅に旅した末に、だった。摂食障害について。私は専門家ではない。が、少なくても娘に関して、今になって分かってきたことがある。それは、『発達具合に起因する摂食障害』があるのではないか、ということである。娘の摂食障害で半狂乱になっていた頃。栄養士や管理栄養士、保健師などに火に油を注がれるアドバイスをされて、その人の家に娘を送り届けて失踪しよう、と、本気で思ったこともあった。彼女らは私に、よくこう言っていた。可愛い盛り付けで。小分けにして。楽しい雰囲気で。カラフルな色合いで。食器も興味を引くもので。1年以上も経った今になって、ようやく得心のいくことが多い。今の娘は、ぷーさんの器が大好きである。食べなくなると、器のぷーさんをダシに使って、もう一口、食べさせることがよくある。また、海苔が好きなので、食べなくなった物に、海苔を目の前でサーブして、更にまた一口、と、食べさせたりもする。茶色一色の物は嫌がるし、好きなプリンも、いつものカップに入っていないと怪しんで食べない。そうやって工夫する度に、あぁ、栄養士らが言っていたことはこれなんだね、と、あらためて、この分野で未だ苦しんでおられる、まだ見ぬ方々を思いやったりする。あの頃の娘は、こんなレベルではなくて、食欲そのものがなかった、という感じなのだが、今更、その原因について、どうのこうの言うつもりはない。障害のある娘をもって、世の中には原因の分からぬまま傷害や病気を抱えている子供がいかに多くて、医学はまだまだ発展途上である、ということは分かったつもりである。が、だからといって、分からぬことを開き直ってもらったり、無知のまま既存のアドバイスを押し付けてもらっては、かえって害にしかならないのである。例えば、原因不明の発達遅滞があり、且つ難聴もある娘は、その中の一つ、言語・認知面がかなり遅れている。で、あるから、どんなに可愛いキャラクターを見せても、それを認知してはいないのである。事実、本を見て興味を覚えるのも、テレビやビデオを見るのさえ、最近、と思うほど、本当に長い間、興味を示さなかった。そんな子供に、可愛い皿に可愛く盛り付けたって、そりゃ興味を示さないのは当然で、そんなアドバイスを、それでも必死に一度は実行していた、あの頃の自分が哀れだし、また、それほど追い詰められていたのかと思うと、ぞっとする。そんな具合で、発達度合いが、分野によって、2歳9ヶ月の時点で既に1歳半以上の開きがある娘のような場合、互いの発達程度が邪魔しあうこともあるのではないか、と、思うのである。例えば、先述の例。今の状態で言えば、娘は、社会性・好奇心が2歳半の判定である。が、運動面は、1歳半程であり、食事面は1歳程であり、その中ほどが認知面である。つまり。どんなに食事に興味を持ち、自分で食べたい、と思っても、運動能力がついてこず、また、食べるためには、どこに何があって何が必要か、という認知面がなく、いざ、口に入れても、噛み砕き飲み込む能力も低いのである。それでは、自分の精神面と肉体面が共存できないではないか。大人であれば、それでも食べなくては生きていけない、と知恵も回るが、そういった意識のない幼児が食事を拒否するのも、そんなにおかしな話ではない、とも思えるのだ。そんなジレンマを、彼女はずっと抱えてきたのではないのか。もちろん、答えは分からないし、彼女からの応えもないし、あったとしても、今更どうしようもないこと、なのだけれども。
2005.03.17
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あ…と、思って振り返った時には、もうすでに彼女は床に倒れていて、その上に大人用のダイニング椅子が覆いかぶさっていた。一瞬、彼女の口からは聞いたことのない、小動物の甲高い悲鳴のような声をほとぼらせた後、しばしの沈黙。そして、火が点いたように泣き出し…もせず、そのまま静寂の中で横たわっていた。時間は、夕方6時。その日は夫が、家で仕事をする、といって帰ってきていた。食事の準備と、彼の仕事場所の確保。普段から汚くしているため、これがなかなか終わらない。今、彼がパソコンで調べものをしている間に、早く早く。火にかけている鍋を気にしながらも、彼が仕事をする場所に溜まっていた物を、空いている場所へとピストン輸送していた。たとえ、仕事場が汚くても、子供が遊び絡んでいっても、彼は気にはしない。子供が遊びに行けば、それをきっかけに少し休憩し、また、仕事モードに戻っていく。だからこそ、こちらも彼に甘えず、彼が仕事をし易いように気を使ってあげなくては…と、頭はそのことでいっぱいになった。いや、それだけではない。娘の保育園が決まり、その準備に、半ば浮かれていたのだろう。購入した物や、名前付けの最中のものも、散らばっていた。そんな中、彼女は私を戒めるかのように、椅子から落ちた。それでも。私は思った。何やってるんだ、まったく、いつでもトロいなぁ、と。聞いたことのない声をあげ、いつまでも起き上がらない彼女を、静かだから、と、それをいいことに、作業を進めていった。…どれぐらいが経っただろう。食事も出来、彼も仕事をやり始め、やれやれと思って娘を見ると、床で遊んでいた。ご飯だからおいで。と、言っても来る気配がない。強く、繰り返すと、娘はノロノロと立ち上がり、こちらへ歩き始めた。その光景は今でも忘れられない。心臓が壊れ、血が逆流したかのような衝撃と共に、きっと一生、忘れないだろう。娘が左足を引きずって歩いてきたのだ。一歩歩く毎に顔をしかめ、不安そうに、周囲に支えるものを求めて、細い両手を伸ばしている。私は夢の中を走っているかのようなもどかさを感じながら、彼女の元へ駆け寄った。庇っている左足を点検し、頭に陥没した後がないかを確かめていた私の手は、きっと震えていただろう。左足の甲の骨にヒビ。それが彼女の診断だった。子供に怪我はつきものだ。これから保育園に入れば、ある程度の怪我や喧嘩もしてくるに違いない。だから私は、そのことがショックだったのではない。いくら他に目がいっていたとはいえ、我が子が椅子から落ちたのに、その怪我の有無はともかくとして、瞬間、トロい、と、思った、そのことが悲しい。その状態がいつもと違う、と、咄嗟に分かったのに、それを優先させなかった、自分の母親としての資質が、なんとも情けなくて悔しい。翌日。娘は歩こうとしなかった。歩くどころか、ハイハイすら、立つことすら拒んだ。気落ちしたように、一日中、肩を落として、食事もほとんど手をつけなかった。痛みの走った足よりも、きっと、何分か、何十分か分からないが、あの静寂の時間。彼女がどれだけの痛みと、不安と、叱られるかもしれない、という恐怖との中で、うち震えていたのだろう、と、思うと、あの場で、大きな声で泣き叫んで助けを求めなかった娘に、自分との関係を通告されたような気がして、気が狂いそうなほど辛くなった。身体に力が入らないのか、赤ちゃんに戻ってしまったようにクネクネした娘の体を抱き寄せると、涙が自然とばたばたと音をたてて娘の顔に落ちた。ごめんねごめんね、と、呪文のように繰り返して娘の顔に頬をすり寄せたが、その表情を何度見ても、私を責めているようには見えなかった。足に痛みを抱えているとは到底思えないような、いつもと全く同じ笑顔だった。
2005.03.12
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保育所入所決定通知が先日、我が家に到着しました。そこに第一希望の保育園の名前を見つけたとき、喜怒哀楽、全ての感情が押し寄せてきました。厚生労働省が把握している全国市町村待機児童の数ランキング(『保育所の状況(平成16年4月1日)等について』)で、堂々のベスト10入りを果たしている居住地域で、障害児枠(3歳児から適用)が使えない2歳児の状況で、どうやって娘を保育園にねじこむか…。どうして娘は保育園に入れないのか…。そればかりを日々、考えて生きてきました。双方の親類が近くにおらず、転勤中で子供を預けられるような人もおらず、頼みの綱の夫も月単位で海外出張してしまう状況で、何度も手術入院を経験し、自宅で経管栄養や術後のケアをし、難聴や発達遅滞の通園をし、またその学習を家でフォローし、摂食障害のための食事を日に5回こなし。そうやってギリギリでやってきた母娘が、通院、通園があってフルタイムで働けないから、といって、経済的に困窮していないから、といって、就労証明を偽造出来ないから、といって、救いの対象にさえならない行政では間違えている。何度もくじけそうになったとき、私はこうやって自分を励ましていました。ようやく肩の荷がおりました。もちろん、これだけ頑張っても、保育園の担任と私の相性が悪かったり、娘が全くなじめなかったりして、止めるハメになるかもしれません。が、それは、どのような道にもついてくること。少なくとも、娘に最良あれ、と、努力したのだから、それも必然だ、と、心から受け入れることが出来ると思います。保育園については各自治体によって異なるので、参考にもならないかもしれません。が、何より、私が辿った軌跡を記録するためにも、『障害児を保育園に入れる』というページを随時アップしていきたいと思っています。日記にも助けてもらいながら手抜きで作るため、読みづらいことが多々あると思いますが、通常の日記共々、よろしかったら覗いてくださると嬉しく思います。最後に、このような不安定な場所に顔を見せてくださった方々に、感謝の言葉もありません。かえって今更失礼だろう、と思われる書き込みには、お返事を遠慮させていただきますが、なるべく、お返事をつけさせていただきたいと思っています。これからもどうか、よろしくお願い申し上げます。pms
2005.03.11
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以下は、私が娘(2歳児)を入園させたときに気をつけていたポイントで、特に、後から振り返っても重要だった、と、思えるものを列挙したものです。3歳児以降、障害児枠で障害児を入園させるためにはどうしたらいいのか、私には経験がないので分かりません。また、保育園入園は各自治体によって異なりますので、全く、意味のないことを書いているのかもしれません。ですが、私が確かに努力してきた軌跡を残すため、と、もしかしたら、一人でも誰かのお役にたてれば、誰かが待機児童激戦区で保育園入園を志し、その方の情報の末席にでも加えてもらうことができるのであれば、心から嬉しいと思っています。pms
2005.03.01
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娘を保育園へ入園させよう、と決断するまでには大した時間はかからなかった。娘に刺激を与えてあげたい。そう考えても、私の居住地域では、身体障害者手帳を持たない程度の難聴で、且つ療育手帳の軽度判定を持つ程度の知的障害児である娘の進路は、知的障害児通園施設『あおい学園(仮名)』しか選択肢がない、と判明したからだ。『あおい学園』を見学した瞬間。そこにたゆたう、澱んだ空気に身が凍った。ベテラン、といえば聞こえは良いが、もはや、目的意識もなく、惰性と保身しか目につかない子供への接し方、指導内容。鍵をかけずに部屋を出入りし、1ヶ月に1度の避難訓練を行わず、有名無実化してしまっている安全への対策。全く異なる業種から首をすげかえられている素人所長には威厳がなく、決定権は職員に握られている。あまりにも静かな食事風景。食事中でさえむき出しでテーブルの横に置かれている、おまる2つ。私たち入所希望者が団体で見学している目の前でさえ、この有様だった。普段は推して知るべし…だろう。私の住んでいる市には7つの知的障害児通園施設がある。「他の施設を見学させてもらえないか」と、セラピスト、という名前の異動してきただけの公務員だが療育の責任者、大川(仮名)さんに申し出てみた。が、想像以上に強い口調で反対された。「各施設は居住地域によって振り分けられ、余程の事情がなければ措置されない」つまり、『あおい学園』には入れたくないから他所へ、という理由では駄目だ、という。市立大で障害児教育にたずさわっている教授にその辺りの事情を聞いてみた。『あおい学園』は市が運営し、他の周囲の施設は民間に委託しているから、雰囲気は『あおい学園』とは異なっていると思う。また、民間では私的契約(※注1)でも子供を入所させているから、入所させようと思えば不可能ではない。ただ、その場合、措置を辞退して他の施設に通う形になるわけで、波風を立ててしまうことになるだろう。私一人の問題なら、なんてことはない。自分が正しいと思うことをさせてもらう。が、『あおい学園』と、娘が個人レッスンで通っている難聴児通園施設は同じ敷地の同じ建物内にあり、影響が全くない、とは思えない。守るべき者が出来ると人は強くなるのか…弱くなるのか…。少なくとも、変わることは確かだ。私は考えうる限りの彼女の将来を思いやり、保育所入所を決断した。が、それは、新たな茨の道の始まりでもあった。【注1】知的障害児通園施設は基本的に保育所と同じ、措置、という形で行われる。保育所の入所決定権を役所が持っているように、知的障害児通園施設も児童相談所が入所決定権を持っている。私立の施設では、私的契約(措置外)という形で入所させることがある。各施設と個人、両者の話し合いのみで入所を決定できるが、自治体の補助が出ないため、個人負担分が大きいのが通常である。定員を超えて入所させることも可能であり、これが果たして合法で、適切なのかは知らないのだが、暗黙の了解のようになっている。
2005.02.02
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以下は、私が娘を保育所(※注1)へ入所させる際に経験したことをまとめたものです。保育所入所は各自治体によって差があり、障害児の扱いも異なります。何より、その子供にとって、保育所入所が最良の選択とも限りません。皆様が選択する際の参考程度にお役にたてれば、嬉しく思います。pms【注1】保育所とは、児童福祉法により児童福祉施設の一つである。日々保護者の委託を受けて、乳児または幼児を預かり保育するところ。厚生労働省所轄。「保育園」とは、その通称である。(広辞苑第5版より)尚、以下のページより、便宜上、通称である『保育園』という表記に統一することとする。
2005.02.01
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毎日、毎日、心の中で、このページを開いている。テーマ、カテゴリを選んで、本文へ…。書きたいことは山ほどある。自分の時間がない。と、一言で言うと、これっぽちの重みのない、空虚な言葉だ。吐いて捨てるほど使い古され、そして、本当に、人の心から吐いて捨てられてしまう、悲しい言葉。事実、私も吐いて捨ててきた。あまつさえ、「私なら、同じ境遇にあれば、自分の時間を作ることが出来るのに」「自分の時間が出来ない境遇を楽しめばいいのに」と、傲慢にも思っていたかもしれない。こんな場所にも関わらず、顔を見せてくれて、励ましてくれる方々には、頭も上がりません。娘がまた入院し、この日、退院したばかりで、いまだ、生活のペースが取り戻せません。申し訳ありませんが、お返事の方、もうしばらくそのままにさせてください。お心は、本当に有難く頂戴させてただきました。戻れる場所があることを支えに…pms
2005.01.31
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400枚も年賀状を出すと、こちらに届く年賀状の量もそれに匹敵する量になる。それらを一枚、一枚、チェックし、こちらから出していなさそうな人をピックアップして、リストと照らし合わせて確認し、返信するために住所をパソコンに打ち込み、印刷するのは、私の役目である。そうやって、名前だけは知っているが、実際は全く知らない人、という、正直、どうでもいい、つまんない情報が増えてくる、その中には、子供の写真や、家族での写真付きの年賀状が多くある。すると、そんなどうでもいい人の家族構成まで覚えてしまう。今年もそうやって、一枚、一枚、眺めていると、家族が増えた年賀状に何枚も目がいった。今年、たまたま夫の仕事関係者の周囲が出産ラッシュだった、とは考えにくいので、私の心持ちが、次の子供をどうしようか、という考えに囚われていた、ということなのだろう。一人が二人、二人が三人。年子、1つ違い、娘と同じ年の子供の下に新しい子供…。こんなに新しい命があるのに、何故、皆、障害児ではないのだろう…。障害児だったらどうしよう…、と、少しは思っても、そのせいで妊娠を躊躇う、とまで悩まないまま、簡単に妊娠し、出産し、当たり前のように、障碍のない子供を授かれるのだろう。こんなに障碍のない子供ばかり、手の中に入っていると、次、自分が産むときは、障害児が当たるのではないか…、と思ってくる。娘はいい。もう、娘の障碍がなかったらいいのに…と、涙でむせぶ時期は終わったし、彼女に障碍があって良かったな、と、思うことも多々ある。障碍がある娘を丸ごと、愛しているな、と、思う瞬間が増えてきた。…もちろん、100%ではないし、一生100%にはならない、とは思うけど。でも、もう一度、同じ過程をやり直せ、と言われたら、出来ない。同じ道だからこそ容易く歩けることもあるが、辛い道と知っているからこそ、もう二度と歩を進められない、ということもあろう。いや…、きっとやるだろう、出来るだろう。でも、そのためにどれだけ自分が壊れてしまうか、と思うと、…そう、正直、恐怖だ。同じ辛い道、とも限るまい。ただ辛いことを共通とした、異なる道かもしれない。障碍とも限るまい。病気かもしれない。何もないから、と言って、自分たちの思うように育つとは限らない。こう言ったのは夫だった。それはそうだ。でも、自分たちの思うよう、があって。子供の思うよう、が出来上がってきて。その両者が交ざりあった思うよう、に育つ、可能性さえもないのだ。もちろん。障碍のある子供にだって思うよう、は、あり、障碍のある子供を授かった自分たちならではの思うよう、も、ある。そこにたどり着く経験は、もう娘1回でいい、と、思ってしまうのだ。娘の通っている大学病院に『次の子相談』なるものがある、と、以前の日記で書いた。大学病院側は自分たちの研究の人体実験の成果を費用を負担せずに見ることができる、といいう利点があるし、我々側も、たとえ、研究途中で効果が認められていない、とはいえ、障碍の原因となる物質を排除でき、検査等で費用や手間はかかるとはいえ、大学側が管理してくれる、という利点は大きい。が、当たり前だが、これをしたところで、絶対ではないのだ。気をつけることは全てやって、それで授かった子供だから、悔いはないし、心から大事に思って育てている。と、教えてくれたのは、ここで出会った、ある障害児のお母さんだったな。それに比べて私は、こんな年賀状の束ごときにオロオロしてしまって…。これでは、障碍や病気のない子供を授かったところで、その子供が大きくなったとき、自分は生まれて良かった、と、思えるような、そんな充足を与えてあげることなど出来やしない。
2005.01.03
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何を今更、と笑われるだろうが、我が家では年賀状作りが今、佳境に入っている。夫の職業上、欠かせないため、我が家では400枚近くの年賀状を、自腹で出す。400枚。住所録をパソコンで管理し、印刷し。表もあらかじめ印刷に出しておき、ぽいっと投函すれば大した数字ではない。が。それでは、せっかく自腹を切って出しているのに、思いが伝わらないのでは。我が家では我が家の味を出そうね。まだ結婚したてで子供もなかったため、こんな暇なことを思いついてしまった。今年の干支と、家族の似顔絵を絡めたイラストを書き、それをプリントごっこで印刷する。出来上がったものに、一言、手で近況を書く。途中、スキャナを使用して簡略化しよう、と試みたが能力が足りなくて果たせず。今年も一枚、一枚。インクでハガキに手刷りして、一枚、一枚、重ならないように家中に配置して乾かす。狭い我が家は、あっという間に年賀状に占領され、安心出来る場所はトイレだけになる。当初。年賀状のための住所録は、夫の仕事関係と友人関係しかなかった。私個人には年賀状を書く、という習慣はなかった。私には…というか、実家には年賀状を書くという風習はなかった。毎正月、家に届いたわずかばかりの父親宛の年賀状の返事を書くのは私の役目だった。新年の挨拶らしき行書のスタンプを黒いインクを付けて押し、訳分からない短くて小さいスタンプを赤で押す。あとは父親の名前の入ったスタンプを黒で押して、届いた年賀状を見ながら表書きをする。正月が来る度にこれを繰り返し、自分宛のほんのわずかな年賀状に返事を書く。これが私の年賀状だった。夫と結婚して。せっかく印刷した年賀状が余ると、自分のために使ってみた。そうして、一枚、また一枚、と、自分のための年賀状も予定数に入れるようになった。今までの自分の風習、考え方を変えるのは難しい。『年賀状を出さない』という事実を当時は、自らの価値観でチョイスした自分の中の『粋』だと思っていた。そんな風習は必要ないから自分の中で淘汰したのだ、と信じていた。が、そうではない、と今は思う。年賀状、という常識、古くからの慣習を慣行することに価値があるかも、と心のどこかで思っていたのだが、幼少児よりしていなかったため、その習慣を身につけさせるのが今更大層だし、いきなり今からでは、キリが悪い気もするし、家中がやっていない中、遂行するのはエネルギーがいる。そんな中、自然と、自分で自分を守るための言い訳にしてきたのだ、と、思う。プリントごっこでの印刷。今年も、去年と同じように、また娘が寝てからの作業になるだろう。が、いつか。娘がこの輪に加わることになろう。私の分の年賀状も作って欲しい、と、言い出すか。もしかしたら、自分のイラストを使って欲しい、と、下克上が起こるかもしれない。そんな常識、慣例を、当たり前のように彼女に残してあげられるとしたら、私のやっていることの意味は大きいと思う。その上で、彼女が年賀状という年中行事を、古いもの、いらないもの、として淘汰するのだとすれば、それは立派な説得力を持った価値観になっているだろう。…って、また、娘に期待しすぎてしまった…。とりあえず、目の前の住所録を早く片付けてしまわなければ…。まだまだ先は長い。
2004.12.27
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クリスマスの夜。学生時代からの友人が送ってくれたシャンパンの栓を開けた。冷蔵庫から出して食卓へ。特別に揺らした記憶もないのだが、栓を飛ばした瞬間、品の良いピンクベージュの液体が少し、大きくて軽い泡に包まれて押し零れた。舌にほんの少し刺激を残した後、その甘い色彩からは想像出来ないようなキリっとした、しかし繊細な味。こんなに美味しいシャンパンを飲んだのは初めてだ、と思った瞬間、もう10年以上も前のことを思い出した。こんなに美味しいワインを飲んだのは初めてだ、と、その時は思った。あれもクリスマスの夜。場所は、このシャンパンを送ってくれた友人の家だった。18歳の頃。私は飢えた虎のように獰猛で、身勝手だった。自分ほどの人物は世の中にいない、と、うぬぼれていた。そんな根拠の薄い自尊心で周囲の心を切り裂いていた、と、今では薄ら寒くなるときがある。そんな頃、出会ったのが彼女であった。一言で言えば、彼女は私より賢かった。ただ、賢いだけではなく、ハングリーさを兼ね備えていた。彼女は、都心、山手線内の某所とんでもないところに、ドラマのセットのような家に住んでいた。両親、ともにエリートだった。そこで両親を尊敬し、愛しまれて育った。そんな恵まれて育った人にはハングリーさなどない、と、当時の私は思い込んでいた。そんな人の持っているハングリーさなどに、私が石にかじりつき血をすすって生きてきた飢餓心が負けるわけない、と。そんな、つまらない考えを木っ端微塵にしてくれたのが彼女だった。彼女にとって私にどんな魅力があったのか分からないが、私たちは友人となり、最初のクリスマスを彼女の家で過ごした。そこで、彼女が父親の棚から出したワイン。当時、よく飲んでいたシャブリと同じ銘柄だったから、すぐに記憶に残った。が、目にしたことがないクラシックゴールドの重厚なラベルだった。その味はもう忘れてしまったが、その感動だけは今でも忘れることが出来ない。美味しくて美味しくて、全て飲んでしまった。そして、こいつには一生勝てない、と、何か嬉しくなった記憶がある。もちろん、今回のシャンパンも全て飲んでしまったのだが…。お礼に、と、どんな高価な物を贈っても、きっと彼女はそれ以上のものを手に入れているし、真の価値も私より分かっていると思う。何より、そんなことを望んで贈ってくれたのではないだろう。だから、せめて、これ以上、彼女に心配をかけなくて済むように、私は私のことを頑張ろう。この境遇にいる自分に誇りを持ち、自らの力に変えられるようになろう。それが、彼女への一番のお礼になるのではないか、と。…と言っても、いつも彼女が何かにつけて私に言ってくれる、『何も力になってあげられなくてごめん、仕方がないので、こちらで自分の仕事に力を入れるね。』という言葉の受け売りなんだけどね。やっぱり彼女には一生勝てない。
2004.12.25
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結婚していない実妹が妊娠した、と聞いて、とるものもとりあえず、故郷へ帰った。今月初旬の出来事だった。バイト時間を急遽変更させ、彼と実妹を緊急召集してみたものの、そこで見たのは、案外、落ち着き払った二人だった。既に、つわりがはじまってダルそうに椅子に腰かける実妹を、心配そうに気遣う彼。そんな二人の様子は、とても、予定外の妊娠にオロオロしている風には見えなかった。付き合ってる期間が短い。30になろうというのにフリーター。離婚暦があり、前の奥さんへの慰謝料もまだ払い終えていない。彼への想いの深さや、彼の人柄を彼女から聞いてはいた。実際、自分も会ってみて、そんな二人の様子も見てとれたし、彼も悪い子ではないな、との感想を持った。それなのに、私は、こういう側面から彼を切り取ろうとした。そんな私に対し、彼女は少し、ほんの少し、不満そうにイラついたような態度をした。そして、彼に気遣ったような眼差しを送った。6歳下の実妹。私と彼女の関係は、ただの姉妹ではなかった。一緒に生き抜く同士であった。劣悪な環境の中で、自分の中でうずまく感情を、真っ直ぐ前に向けた推進力だけに変換してこられたのも、一重に、彼女の存在のおかげ、だった。私は、彼女を守ることで、生きてこられたのだと思う。もう、彼女自身が誰かを守る存在になり、彼女を守る役目も、もう自分ではないんだな。私はそう悟った。私の故郷は誰もが知っていると思われる温泉街にある。いきなり帰省して気楽に泊まれる場所が故郷にはないから、繁華街の中の安い温泉宿に一泊した。地元だから知っている、とかではない、縁もゆかりの評判も知らない温泉宿だったが、そこで出会った仲居は知人だった。早朝、目覚めたので散歩に出てみた。街はまだ暗かったが、繁華街の夜を担う人々の帰宅や、旅館の朝を支える人々の出勤など、人通りは多かった。どこもかしこも変わっていた。うっそうとした木々が屋上から顔を覗かせていた低い並びのテナントビルは、全く異なった、大きなお洒落なレストランに建て替わっていた。昔、よく遊んだ公園は、ただ、その広さだけを残して、遊具は全て撤去されていた。そういえば、最近、よくここで、催し物をやる会場になっている、と風の便りで聞いた。夏に冬に、何度も花火大会を興行して観光客を誘致するので、そんなときにも、この海辺の公園は重宝するのだろう。角のスナックが、店構えはそのままで、名前が、元の女名前から別の女名前に変わっているのを発見したときは、その節操の無さに思わず苦笑してしまった。変わっていないな、と思った。子供の頃から。こうやって、くるくるくるくる、街並が変わっていく、そんな街だった。お洒落な文房具屋も。パリパリとした生地が好きだったクレープ屋も。ようやく仲良くなった友達も。なんの前置きもなく、あっという間に消えてしまう、非日常が詰まった観光地。そんな温泉街の底辺で燻る不安定な家庭で育った姉妹。周囲が明るくなっても、私は、変わらないことを確認するために、街の変わった場所を探しながら歩き続けていた。
2004.12.24
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保育所の申し込みを終え、一段落つきました。遅れに遅れていたお返事もさせていただきましたので、読んでくださると嬉しく思います。保育所における『措置』問題。知的障害児通園施設における『措置』問題。障害児と保育所の問題。娘の進路。何一つ、解決されてはいないのですが、これを提出して気持ちにすっきりしたものはあります。厄介払い出来てせいせいした、という類のものではありません。スポーツ選手がコメントする、「悔いはありません」に似ている気がします。私は以前、この言葉に共感できませんでした。一日の大半、自分の価値観、判断基準の全てを捧げて費やしてきて、それで効果や結果が出なかったのに、「悔いがない」訳がない、と。負け惜しみ、か、格好をつけて、のコメントだ、と思っていました。でも、今回。この感覚を学べた気がします。保育園や通園施設、幼児教室を回り、娘の良い所を見せなければと気を張り、傷つき。児童福祉法を紐解き、民法をかじり、大学に出向き、役所に出向き。保育所の『保育に欠ける要件』を何度も何度も読み直して穴を探して、研究して、添付書類を集めて、申込書を丁寧に書き上げて。私が出来ることは全てやった、と自負も出来ます。これで入れなかったとしたら、きっと頭にはくるし、娘の進路に困りもするけれど、悔いはない、と思います。今まで生きてきて、自分なりに、これ以上ないくらい必死にやってきたことだってありました。でも、こんな感覚にならなかった、ということは、その必死さもバッタもんだったと思うと笑えてきます。きっと、娘を授からなければ、一生分からなかっただろう、と、思います。また一つ、娘に感謝したいことが増えました。そして、見守ってくださった方々に、深く深く感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。
2004.12.23
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まず、書き込んでくださった方々へのレスが遅れていることを、この場を借りてお詫びさせていただきます。また、今後もしばらくの間、レスが遅れる、最悪、出来ない状態になるかもしれません。何卒、ご了承の上、どうかどうか、どうか私の戦いを見守っていて下さることを願います。措置される予定の知的障害児通園施設を見学してから一週間。私なりに調べ、悩み、考えました、いえ、考えている最中です。そこには様々な問題がありました。知的障害児施設、保育園、共に『措置』されて場所が決まります。保育所の『措置』制度も、いい加減にしてほしい、という点は多々あります。が、まだ、選択できるだけマシかもしれません。私が住んでいる市では、市にある7つの知的障害児通園施設のどれかに住居地域によって措置されるだけで、こちらに選択の自由はない、そうです。特別な理由(重度知的障害があるが、まず肢体不自由施設に通わせたい、等)があるならともかく、こちらが嫌だから、では、あちら、ということは出来ない、と、主張します。市立大学で障害児教育を研究しておられる助教授に聞いてみたところ、社会福祉法人などの場合、措置されなくても、個人との契約において入所出来る例がないこともないが、その良し悪しは別として、それは違反を犯して行っている、とのことでした。皆さんの地域ではどうですか?同じ未就園児で、同じ『措置』で保育園には選択の自由がある程度認められているのに、同じ市の知的障害児通園施設には、どうして選択の自由がないのでしょうね。あの知的障害児施設に娘を入れることなく、どこか気に入った通園施設を見つけて個別に契約して3倍の金額を払って通わせたり、可能性が薄いながらも保育園を探したり、信頼できる無認可を探したり、理解ある幼児教室を探したり、そうやって、この場をしのぐことは、一人目の子供で、予定の手術が終わるなど時間に余裕が出来てきて、経済的な不安がなく、家庭に不満がなく、ここのような本音を語れる場所や仲間を持った、そんな私には可能かもしれません。が、そんな障害児の母親が、一体、どれだけいるのでしょう。私だって、1年前には到底無理でした。『こんな子供を、ちょっとの間でも預かってくれて、ましてしつけもしてくれるなんて、ありがとう』こんな気持ちで、何も見えないまま、預けていたと思います。私は自分が何がしたいのか、分かりません。何を考えているのかさえ、分からなくなってきました。自分の娘にさえ何もしてあげられない自分が、全体像まで考えて、果たしてどうしたいのか、出来るのか、と笑ってしまいます。が、このままで良いと、どうしても思えない、そんな思いに囚われた毎日を暮らしています。
2004.11.29
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瞬間、思い出したのはベトナム旅行だった。一緒に行った友達が、英語が堪能で、且つ海外旅行経験が豊富。失恋旅行に独りでオーストリアのYHで一ヶ月過ごしてきたような人だったので、ついつい、身分不相応の旅行プランをたててしまった。お互い、この国は初めてだ、というのに、あたかも常連のようなプランを。どこに行っても、観光客狙いの物乞いに囲まれる中、払いのけ、無視し、歩いていった。移動手段は全て、徒歩か公共の乗り物。これが、計画だった。予定通りの乗り物に乗り、移動し、歩いているハズが、どうも様子がおかしい。考えてみれば、地元の公共の乗り物の最新情報も手に入れなかった我々も愚かだった。気がつけば、地図のどこに自分たちがいるか分からなくなっていた。静寂。あれだけいた物乞いは、ピタっと消えていた。かわりに広がるのは、路上に座りこんでいる人々だった。脇には鍋などの日常用品。明らかに人のと思われる排泄物の数々。異様な臭い。腹の底が瞬間で沸騰し、蒸気が喉を駆け上がってくる息苦しさ。鼓動の痛み。消える表情。手足の血のめぐりが変わり、感覚がなくなってくる。これが、人の中に眠る、防衛本能、という奴なんだな、後から思った。からみつく視線を断ち切り、どこをどうやって歩いたのか、いまだに分からないのだが、我々はタクシーに飛び乗り、且つ、偶然にも、そのタクシーが良心的なタクシーだったため、無事に、メインストリートまで戻ることが出来た。それは、娘が来期から行く予定の知的障害施設の見学で起こった。入院中で行けなかった、うちと、もう一人の計二組で行ってきた。働いている保育士に準じる者たち、は、中年がほとんど。園長は2年前、環境課から異動してきたばかりの、人だけは良さそうな人で、現場の人間に頭が上がらず、後承諾ばかりしている。教室などの出入りには鍵を必ずかけて、という規則の形骸化。嫌な予感を覚えながら、最後。来年、所属する予定の『自閉症以外の障碍児の教室』に入り、一緒に昼食をとって帰った。食事中の、すぐ真隣に、なんの被いもなく、置かれっぱなしの、おまる二つ。職員たちは声もなく、まだ、一人で食べられない子供の口に、もくもくとスプーンを突っ込む。気持ち悪いほど静寂した、食事風景。たまに聞こえるのは、子供のうめき声のような音と、職員の、忘れた頃に聞こえる、ぼそっとした子供たちへの声かけ。我々がいる時でさえ、こうだ。いなければ、推して知るべし、だろう。この子たちは娘より発達が遅いから、娘の刺激にはならないかな…と、ちょっと考えはじめた時、一人の女の子が私に寄ってきて、膝を触り見上げた。その瞬間。背筋がぞぞぞぞっとし、眠っていた危機意識がむくっと顔を上げた感じがした。今、私を見上げている無表情な子供。この子は、『娘』だ。家に帰ったら親に甘え、笑顔を取り戻し、悪さもする。片言ながらもしゃべり、私の腕を取り、連れまわす。こぼしながら食事をとり、「おいちぃ」と、ホッペに手を置く。発達が遅いながらも、彼女のペースで成長してくれている、可愛い大切な私の娘。目の前にいる子供は、娘よりも発達が遅いのではないのではないか。ここの空気が、この子を、こうさせているのではないか。家に帰れば、娘のように、走りまわって、にぎやかに暮らしているのではないのか…??市場原理の働かない場所で、異動されて、すげ変わる素人上司に権限はなく、中年のスタッフが惰性で行っている療育所。こんなところに、娘は入れられない。
2004.11.22
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今日は、久々に、自分の中の嫌な部分を吐き捨てたいと思う。そうでもしなければ、腹の中がなんだかゴロゴロと気持ち悪いような、熱いような、吐きそうなような気持ちがして、どうにもこうにもいられない。嫌な気分をもらうと引きづられてしまいそうな心持ちの人は、読まない方がいいと思う。今日、退院後、久々に、発達遅滞の子供のための教室に行ってきた。久々に会いたい面々とも会え、つつがなく終えて帰途につこうとしたとき、スタッフから呼びとめられた。入院中に行われた知的障害児施設の見学を、希望するなら個別で対応するが、というものだった。是非に、と答えて日程を合わせている時、スタッフがポツリと言った。「△△(娘の名前)ちゃんは当落スレスレなんですけどね。」純粋に年齢順で入っていく、ここのシステムでは、6月生まれの娘の順番辺りが怪しいらしい。入れなければ、週3回、昼食有りで日中ずっとの療育から、今まで通り、週1回1時間半の療育のままになってしまう。保育園に通わせたいとも思っているんですけどね。と、独り事のように言ったら、大袈裟に驚き、何故か笑い出した。「2歳児でしょう?保育園?無理でしょう~(障害児)枠ない時でしょ。どこも空きないって聞いてますよ。」どこを?と聞くので、心中の保育園名を口にすると、更に笑って、言った。「××さんのとこが、空きがないけど、あそこを第一希望にするって言ってたよ。彼女のところは経済的にも彼女が看護師として働かなければやって行けないし、△△ちゃん(娘の名前)は不利だよ。」このペラペラと人の内情まで話してしまうスタッフが口にした名前は、以前、日記に書いた、壊れかけた障害児の家庭の彼女だった。障害児に無理解で、定職につかず、暴力までふるいながら、あちらから別れると言い出した夫を、それでも愛しているから、と、今でも、すったもんだの末、一緒に暮らしている。その名前だった。彼女から以前、メールで保育園について相談され、私はその度に様々な保育園の情報を流し、娘のための心中の保育園まで明かしていた。その保育園を第一希望にしたからって、それを私に教える義務は確かにない。だって、そんな仲ではないのだから。それでも、そんな程度の仲の私に頻繁にメールを送り、電話をしてきたのだから、その時、一言言ってくれても良さそうなものなのに。どうして、発達もまばらで、だからこそ知的障害児とくくられ、世間の物差しから違って生きているのに、こんな時だけ世間の物差しである、生まれの年齢、で、入所時期を決めてしまうのか。どうして、経済的に不安でも、実両親が近くに住み、働いている間、子供の面倒をみてくれる環境にある人が、経済的な問題は無くても、誰も助けてもらえない状態ではあるが、学業、キャリアを積んできた自分のために、仕事をしたい、という人よりも、有利になるのか。そもそも、どうして、療育所のスタッフという立場の者が、人の経済状況まで他人にバラしたりしているのか。怒りや不満は多々多々多々あるのに。あるのにも関わらず、どうしても。狭き門を奪い合う彼女を憎い、と思ってしまう…。知的障害児施設の枠を狙い、娘よりも早い生まれの人の動向を遠まわしにうかがってしまう…。そんな自分に反吐が出る。
2004.11.19
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退院後、初めての通院となった、この日。聞き慣れない言葉を医師から聞いた。入院、手術をした病院ではなく、執刀医師がいる大学病院に今まで通り通院し、術後のケアをしていく。執刀医師の助手を務めた医師は娘の口の中を丁寧に覗き、ケアした後、こう言った。「優秀ですね~」「は?」思わず、出た言葉はこれだった。術後3週間にも関わらず、傷の治り方が2ヶ月ぐらいの状態だ、というのだ。この病院で診てもらっている障碍の状態は、とにかくいつも最悪を極め、落ち込むことばかりで、今回の手術も実は、完璧なオペは出来なかった、と説明されたぐらいだったのだ。1回の手術で、その後、どう『普通の人に追いつき、追い越していく程の言語力を得られるか』彼女の障碍に関しての、最近の学会での流れは、これが主流だ、と、本当の主治医は語った。1回の手術と、その後の言語訓練の経緯。これが、医師の勲章となるらしい。が、娘に対しては、2回が良いと判断した、と、語った。状態が悪いし、頭も優秀ではないから、1回、安全を重視した軽い手術をしておいて、もし、言葉をたくさん話すようになり、より賢くなれたら、その時、2度目の手術をすればいい。術後の説明での、彼の言葉を要約すればこうだった。学会の主流から外れても、この子の安全を判断したんだよ。ということを、一応、枕詞のように、こちらの精神安定剤として付け加えてくれたのだろうが、素直に乗る気になれなかった。そして、この日。傷の治りが優秀だ、という。傷の治りに、優秀、という形容はどうだろうな、と思わなくもないが、それよりも何よりも、やっぱり素直に嬉しかった。傷の治りに関しては彼女を苦しめなくて良さそうだ、ということが嬉しかった。ちょっと、優等生的喜びだが、本当にこのことが嬉しかった。
2004.11.18
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退院してからこちら。部屋はごちゃごちゃ、荷物もまだほどけておらず。家の蛇口の下でも病院と同じように自動で水が出てくるのを待っている始末である。それでも朝は来る。朝が来たら娘は朝食を欲しがるし、夫は仕事へ行く。娘の朝食も、夫の仕事も、私には関係ないのに。そりゃ、娘は私が欲しくて産んだ私の可愛い娘だし、夫も私がチョイスした、私には最高の夫で、家族のために仕事をしている。でもでもでも。娘の起床時間も。夫の起床時間も。朝食の時間も。夫が毎朝、顔を洗う度に洗濯カゴには入れず、洗面台の脇にぐしゃっと置いておくタオルも。私になんの関係がある。そこに私はあるの。…やることが多いと、気分が滅入ってくる。今はそんなとき。
2004.11.13
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子供の入院に付き添った親は、皆こんな感じなのだろうか。これで何度目かの経験なのだが、やはり今回の退院後もそうだった。とにかく、非常に眠くなるのである。10日に義理の両親に手伝っていただいて午後、退院し、12日の今朝、義両親が帰っていった。その直後から13時までの2時間強、爆睡。その間、娘の面倒は出勤前の夫に任せきり。遅い昼食、押したおやつを、義母が作りおいてくれたもので済ませ、夕方から子供用番組をつける。それが終わった頃、また爆睡。途中、目が覚めたら娘も隣で寝ていたので、共に寝室に移動して再度爆睡。目覚めたら既に20時。遅い夕食を、これまた残りもので済ませ、なんと私はまた寝てしまったらしい。22時30分に目を覚ますと娘は食事用のよだれかけをしたまま眠ってしまっていた。パジャマに着替えさせ、おしぼりを作って娘の顔や首回りを拭って寝室に運んで寝かせたついでに、またまた睡眠…。今も、あくびを繰り返しながら、こうしてパソコンに向かっている。今回は有料個室をとり、金で快適を買ったというのに、それでも、この有様。このダルさは、そう。出産直後のものに似ている。付き添いとは、なんとも体力や精神力を消耗するものだな、と実感する。------------------------------------------------------このような感じで、無事、退院してまいりました。入院中。読みづらい日記を読んでくださった方々に、心からお礼を申しあげます。身体もそうですが、入院中、留守にしていた家の方の片付けや、入院中の荷物の片付けなども、まだ全く手をつけていない状態ですので、コメントのお返しやメールなど、まだ待っていただけたら嬉しく思います。また、ぼちぼちと更新していけたら、と、思っていますので、これからもよろしくお願いいたします。
2004.11.12
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【入院記録 13日目】いよいよ、明日、退院である。毎回、毎回、入院生活から気付くこと、学ぶことが多い。今回は個室を取って気がねなく過ごせたたのと、予定通りの入退院だったこと、ここの施設、スタッフ共に今までの中で最良だったため、得ることだけが多い入院になったと思う。出会った方々からも様々な情報、パワーをいただいた。人工内耳を作りにきた、同じ県の他の市の施設にかよう辰吉(以下、全て仮名)君。自身が全身重度のアトピーで、いつも掻きながら付き添っていた歩君の母親。まだ若いながら脊椎損傷で下半身が動かない上の子に付き添いながら小耳症の下の子を育てる、好汰君のママ。NICUから三年間、転院はあっても退院は一度もない奇病を抱えながらも、病棟マスターとして陽気に君臨する月ちゃんと、付き添う母親にとって裏であり真の入院案内パンフレットである月ちゃんの母親。染色体異常でてんかんもある重度の身体障害児を育てる弥耶ちゃんのママ。彼女とは二週間入浴も出来ずに付き添った、などの昔の苦労話から嫁ぎ先の話、障害児制度や社会問題などなどなど、夜遅くまで語り合った。入院生活の空間は、実生活バージョンの『ここ』という気がする。この場で出会っただけなのに、私の中の未消化な部分、怒りや悩みや不安と同じものを抱えている人達が多く集っていて、寄り添いあえて、未消化部分を共有できたかのように温かく、軽い。家事からも解放される(笑)。そして、また、帰っていく。嫌なわけではないが、言いようのない焦燥感、不安感を感じなくもない。社会から、障害から、制度から、自分自身の手から、娘を守りきれるだろうか。また、闘いがはじまる。
2004.11.09
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【入院記録 12日目】結局、下痢は止まらず。おしりのかぶれは皮が剥けるほど悪化してしまう。大事をとって退院が一日延期になる。有料個室をとっているため金銭的なことを考えなくもなかったが、今回は旅行、と、もう一度自分に言い聞かせ、まだ本が読め、家事から解放された日々を楽しむことにする。こうやって過ごしていると、娘のほんの少しの変化にも気がつくようになる。例えば、入浴。入浴好きな娘だが、何故か服を脱ぐ際だけは「いやー」と逃げていた。入院生活では、この後、家事が待っている訳でもないので、のんびりと構え、逃げるなら逃げるでいいや、と、放って先に入ろうとした。すると、自分で服を脱ごうとするではないか。自分で出来るのに私に手伝われることを拒否していたと、ようやく気付いた。また、こんなこともある。娘は、自分が今してほしい提案を私がすると声を出して笑う。「お外行く?」「ぇはは」それで意思が分かるから、そのまま生活してきたが、これは「うん」と返すべき場面ではないか、と気付いた。少し導いてあげたら使えるようになった。他にも、靴を自分で脱げるようになったり、と、成長著しい。大事を取った上に、もう一日分成長する、と考えれば有料個室代一日分など安いものだ。夕方。実妹と彼が見舞いにくる。病院内だし、初対面の彼がいるし、娘は私にべったりでロクに話も出来ないだろうな、と私は思っていた。実妹は実妹で、娘を自分が面倒みて私を休ませてあげよう、と覚悟していた。が、彼等をロビーで出迎え、初対面を果たした時から娘の視線は彼に釘付けで、部屋に戻るやいなや二人でプレイルームに出かけてしまった。夕食までの数時間。久々にゆっくりと実妹と話し込むことが出来た。娘が彼を気に入った理由は分からない。が、訳分からん生き物を根気強く相手してくれたことは事実だ。感謝している。
2004.11.08
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【入院記録 11日目】今日もやはり、抗生剤の副作用で下痢が止まらない。特有の匂いがする。去年、口唇裂の手術した時も同じ匂いの下痢をした。あの頃はまだ経管栄養で、歩くことも出来なかった。ベッドの中だけで過ごすことにストレスを感じている様子もなく、ぼーっとしたり、単純な手遊びや運動を気味の悪い奇声を上げながら没頭したり、手術の前後に食事が制限されたことに、苦しむ素振りもなく、非人間的であった。それを思えば、下痢のために、一日に何度も看護師と一緒にシーツを交換したり、不安がったりストレスを発散されるために娘を連れだって、下痢で汚れた物を洗濯に行くことなど、なんの苦労も感じない。お尻の荒れが悪化したので、亜鉛の軟膏を勧められて試す。洗った後たっぷりと塗る。治るといいのだが…。
2004.11.07
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【入院記録 10日目】抗生剤の副作用で下痢が止まらない。整腸剤も服用しているのだが2回に1回はパジャマまで汚してしまうほど。お尻が真っ赤になってきたので、アンダームを塗る。熱はないし、摂食も順調だし、傷の回復も早く、出血も止まり、予定より早く退院出来そうだったのだが…どうなるだろうか。一応の退院予定は火曜日に決定した…のだが…。
2004.11.06
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【入院記録 9日目】今回の入院は一人で病院に缶詰になる予定だったので、その覚悟でやってきた。ところが、フタを開ければ誰かれと色々来てくれて、夫の出張も延びに延び、昨日、今日などは連休のプレゼントまでいただいた。これも一重に私の徳の賜だ、と、ひそかに自負するところである。個室の利を生かして、また三人で夜を過ごした。翌朝。彼が娘を連れだしてくれたので、娘のベッドを独占し、しばしまどろむ、至福の時。帰ってきた娘は久々の父親遊びに興奮で呼吸が荒く、目もイッちゃっていた。私を横目で見た後、夫に抱っこをせがみ、首にぎゅーっとしがみついた、と思ったら、もう寝息をたてていた。昼食前のイレギュラーな昼寝に苦笑しながらも、久々にのんびり、部屋で夫と他愛のない話に興じた。昼食近くになっても起きず、こちらは小腹が減ったので、二人でカップラーメンを食べることにした。最も有名な例のカップラーメン。出来上がると、彼は上に浮いている具を全部最初に食べてしまった。理由を聞くと、最後にほじくって食べる面倒が省けるから、と、言う。去年辺りから行っているそうだ。しかし、それは何か、ラーメンの具を愚弄していないか。いや、合理的だ。と、つまらない議論を重ねて、無駄だが必要な時を過ごした。このカップラーメンは去年からこちら一度ならず食べているはずなのだが、夫がそのような食べ方をしているなどとは、全く気がつかなかった。同じようにして、忙しさにかまけて、夫について気がついていない部分がたくさんあるのだろう。彼への空白が積み重なって、このような二人の大切な時間が壊れてしまわないように、もっともっと気を引き締めよう。
2004.11.05
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【入院記録 8日目】体温、聴診器、血圧、サチュレーション測定。この1セットを一日に起きているだけで3回行う。午前中と夜の2回、回診、もしくは外来で診察。食後には薬。夜間にはモニターを装着して就寝。点滴がなくなっても、これだけの行為が一日に組み込まれている。特に診察は、娘にとって苦痛の場に違いないだろう。が、あの人は、いつでも笑顔たろうとする。聴診器に自ら服をまくり、体温計を自分で脇に挟む。血圧に腕を、サチュレーションに指を差し出す。薬のスポイトにすすんで吸い付き、そして、笑顔で送りだす。回診で、医師に「あーん、して」と言われれば口を開ける。喉の奥の消毒で、気持ち悪さで涙がこぼれ、口が閉じてきても、また「あーん、して」と言われれば震えながらでも口を開ける。今日の保護膜を取る作業も、抜糸で出血し、長い時間がかかっても、押さえ付けがいらない程、自分の意思で診察台にとどまり口を開け続けた。診察室を出る際、まだ口元から出血して、痛みで顔を引き釣らせながらも笑顔で手をふった。その瞬間。ずっと診察を見守り、励まし、褒め続けてくれていた看護師が、自らも泣き顔になり娘にしがみついた。病院通いの長年の習性なのか。性格なのか。これを『けなげ』と表現したら娘は侮辱ととるのだろうか。こんな娘に、私は今日も救われている。
2004.11.04
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【入院記録 7日目】午前中。娘に促されて病棟のプレイルームを訪れると見慣れぬ先客がいた。明日の手術のため昨日から入院している4才の男の子と、その母親だった。挨拶を交し、他愛ないことを話す延長で、どこを手術するのか、と私が尋ねた時だった。私よりはるかに若い彼女は気持良さそうに声をあげて笑うと、言った。「ここで出会う人たちは、みんな何事もないように手術の内容や障害のことを聞くよね。こういうのって経験ないけど、なんかいいね。」年齢も家庭環境も価値観も違う人々が、入浴も、食事も、排泄も思うようにならず、プライバシーもない上に、我が子が苦しむ姿に何度も遭遇しなければいけない毎日。それでも楽しく交流しながら過ごせるのは、何か同じ身の上がなせる同情めいた協調からか、と思っていたが、そんな仰仰しいものではないかもしれない。こう言ってくれたら、こうしてくれたら、と、日々ギリギリと考えていた積み重ねが、お互いの深い部分にある琴線に触れない行動に繋がっている、という単純なものなのかな、と思った。午後。実父、来院。娘はすぐに慣れ、それどころか下僕のように扱って、中庭へ、プレイルームへ、上へ、下へ、あれを取れ、持ってこい、と、ワガママ放題だった。私には見せたことのない姿だった。入院中のストレスを発散する人。共に入院生活を闘い、癒し合う人。などと娘は娘なりに考えているのかな、と思ったら、見慣れた娘の顔なのに、知らない女性のように一瞬だけ見えた。明日は口の中に縫いつけてある保護膜を抜糸しながら取り除く。麻酔なしで、母親の私も含めて皆で押さえ付けて行うよう。安寧はまだまだ遠い。
2004.11.03
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【入院生活 6日目】昨日の問題点、鼻出血は問題なし。摂食も良好。夕食にいたっては自分の分を平らげた後、私の分にも箸を伸ばす。感慨深いのは紙パックの牛乳だ。今まで私が押し出していたが、手術後は紙パックがヘコむほどの吸引力で飲み干す。手術で口の中が改善された様子が手に取って分かる一瞬である。とうとう今日、点滴を抜いてしまった。折角だから、抜けてる間に病院を散歩することにする。この病院には託児室を兼ねた大きなプレイルームがある。外来にも各待合室ごとに、病棟には病棟ごとに小さいプレイルームが設けられている。レストラン。外来用のプレイルーム。図書室。売店。一日中、病院内をくまなく歩き回った。夕方。地下1階から3階まで吹き抜けのロビーが、前面にはりめぐらされている窓からの夕日で赤く焼けているのを眺めた。あちらこちらから垂らされたモールや、風で動く動物たちがゆらゆらと、温かな空気に波打つ。外来時間が終わったロビーにいつもの喧騒はなく、海底のように静かに横たわっていた。昼の担当看護士が嬉しそうに、点滴はもう終わりでいい旨を伝えに、散歩中の私たちを探しに来た。まだ息がはずむ彼女と娘と連れだって私は部屋へ戻った。
2004.11.02
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【入院記録 5日目】朝から機嫌良く、熱もない。摂食もぼちぼち、まぁ順調。今回の手術は口と耳、二箇所の予定だったが、耳の方は予想以上に狭く、メスも入らなかったため中止になり、耳掃除だけ徹底的に行った。にも関わらず、昨晩、異様に左耳をかゆがるため覗いてみたら、大きくて固い、茶色のかさぶたのようなものが外耳を塞いでいた。取ってやってもかゆがるので、耳鼻科医にも診察。耳自体に問題は見られない、とのことで、経過を見守ることとなった。夜。鼻から血の交じった鼻水を何度か確認。明日、診察することに。本日、予定通り、実母が来た。タオルやら服やら、何年前の誰が使ったのか分からない代物を山ほど携えてやってきた。「いらない」というと「入院生活で、あんたが不自由してると思って」と言った。彼女は物を貯めこむ。人が捨てる物までもらってきて、役立てたい、と病的に集める。機会到来と喜んでかき抱いて持ってくるさまは、昔から全く変わっていない。しかし、娘は彼女が好きで、首にかじりついて離れなくなった。近い将来も誰よりも実母を好きになら…私との関係は悪くなりそうだな、と思いながらも、今日は少し助かった。
2004.11.01
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【入院記録 4日目】夜中から、グズる。食事もほとんど食べず。熱が37度6分。痛いのか。熱っぽいのか。違和感があるのか。病院自体が怖くてストレスなのか。空腹で機嫌が悪いのか。一時も離れない。手術時から私の不在宅を手伝ってくれていた義母が、夕方帰宅。急遽、出張が延期になり休みになった夫と三人で個室で過ごす。食べないながらも機嫌は改善してくる。食べたくない、というよりは食べ方が分からない、といった様子。明日から、もう少し柔らかく、トロミをつけてもらえるよう再び要請することにしよう。
2004.10.31
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【入院記録 3日目】長い、本当に長い一日だった。日付が変わる午前0時からグズりはじめた。血痰が絡む。熱がだるい。傷が痛むのか、不快なのか。娘の悲鳴で目を覚まし、時間と状況を把握。処置可能なものは処置し、手に負えなければナースコール。または、モニターの異常を詰所で認めた看護士が来室し、その処置を見守るか、手伝えるものに手を貸す。この1サイクルを終えて眠りにつき、また、娘の悲鳴か看護士が慌ただしく来室する音で目が覚め時間を確認すると、前サイクル開始時間から30分も経っていない。こんなことが明け方まで続いた。少しまとめて眠った後は、食事との格闘だ。空腹のため、勢いよく朝食を頬張ったまでは良かったが、口の中の手術だったため、違和感からか痛みからか飲み込めない。口の中に散々ためた後、覚悟を決めたように飲み込もうとし、喉を通る際、小さな両肩を、ひょいっとすぼめる。全て一口づつ試して、本人が嫌になって止めた。昼食、おやつ、夕食とも状況は変わらず、その間、空腹と、熱と、点滴と、外に出られないストレスで発狂したようになったり浅い眠りを繰り返したりしていた。医師に相談すると、このような状況になる子供は多く、本人が新しい口や喉の環境に慣れて、勇気をだすして飲み込むしか、事態の打開にならないそう。抜糸までの2、3日はこのまま様子を見ることになった。一日の摂取量。持参した納豆1パック、豆腐2口、豆腐プリン2個。病院の軟飯少し、ゼリー半分。のみ。明日はもう少し食べれるといいのだが。グズり、叫び、暴れる娘をどうなだめていいか試行錯誤し、睡眠不足で体が熱く、抱っこ続きで腰も痛い。彼女を授かってからこっち、何度も経験したことで、初めてではない。が、ここまで心穏やかで、むしろ安寧とさえ感じながら過ごしたことがあっただろうか。出口が見えない、地図もない道での苦しみと違い、今、経験しているものは、獣道ながらも皆が通り、踏みしめていった足跡がいくつも残った温かで確に続いている道なのだ。出口はある。そのことが何よりも今の私を支えてくれている。道を作った先人の苦労を思うと胸が詰まる思いがする。この感謝を心に刻み、自分も後人のために何か少しでもしてあげたい、という決意をまた強くした。
2004.10.30
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【入院記録 2日目】6時。フワフワとした感じで朝を迎える。昨日がまた明るくなった状態で続いている感覚。6時30分。眠くてグズる娘を無理に起こすために病棟内を散歩。7時。朝食。術前のためムースや果物。食べないので持参したマフィンと牛乳を少し。7時30分。絶食タイムリミット。看護師が告げにくる。まだ欲しいのが私には素振で分かるだけに止めることができない。この一口で手術が出来なくなったとしても、それでいい、と一瞬本気で思う。震災下で子育てをする母親達を、せん越ながらしばし想いやる。10時。空腹を訴えながら昼寝。10時15分。医師が来室。点滴をするために血管が浮きでるかどうか、試したい、という。今、やらなければならないことならともかく、ただ試すだけに起こしたくないので、と丁重に断る。11時30分。水分も含め完全絶食。12時。昼食を取れない娘を病棟専属保育士が訪問。14時。手術室へ。子供の自主性を重んじる病院の方針で、自分の足で手術室へ向かう。17時。手術終了。術後説明。これについては、またの機会に。手術自体は成功。17時30分。部屋に戻り酸素テントへ。その後、一時期、サチュレーション79になり慌てるも、すぐに持ち直し、今に至る。意識が少し戻るも酸素テントの中で寝ている状態。サチュレーションも90後半を常に維持し、安定した。今、とにかく眠い。こうしていても意識がとぶ。まだまだ予断は許さないと、分かってはいるが、疲れが手足まで重くさせる。これは今までの2年分の疲れだ。疲れと安心だ。一枚、上着を脱いだ状態で、娘が目を覚ます、わずかの間、横になることにして、書き足りない山ほどのエピソードは後日に回すことにしよう。
2004.10.29
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【入院レポート 初日】この方法で更新できるか定かではないが、こうやってメールにするだけで何かしらの記録にはなると思うので、可能な限り心がけてみたいて思う。入院受付時間は10時。ギリギリまで悩んだ末、有料個室にした。理由はいくつかある。まず、共同の冷蔵庫が遠く病棟にはないことが判明したことである。何を贅沢なと思われるかもしれないが、摂食に難がある娘にとって、特定の銘柄の納豆や豆腐は必需品になろう、からである。郊外の病院に缶詰になる予定であるし、やはり冷蔵庫は欲しい。結果、栄養相談の末だされた昼食は、だし汁をかけただけの薄味の離乳食後期食に普通の白飯という代物で、早速、役にたった。ただ、抗議後の対応は早く、夕食はレシピを教わりたい程、素晴らしい出来で、ほぼ完食だった。今後も期待である。また、前回の手術で知恵熱が出たのも気になった。手術の一週間前入院が効を奏したが、今回は前日なので中止になる。先日の見学会でも大部屋病室を見ただけで一人大泣きだった。個室では看護師の出入りも娘の分だけで少ないし、泣き声も聞こえないので、すぐに慣れ、現在、熱はない。トイレ付きなので娘を連れて安心して用をたせること。応接セットがあるので、食堂へ行くことなく、行儀作法を教えていない娘に、好きなように食べさせることができること。などなど、尽きないが、一番の魅力は、夫も泊まれる、ということだった。夫は今月末から一ヶ月、出張である。その前わずかな間しか会えず、ようやく取れた、今日明日の連休である。その時間を有意義に過ごせるなら、三人で旅行をしたと思えば安いものだ、と思ったのだ。事実、娘は次第に大はしゃぎになり、普段以上に楽しい時間を過ごせたと思う。二人、添寝してるベッドの横に簡易ベッドを借りて寝そべって、こうして周囲を気にせずメールをしてると、本当に決断してよかったな~と、つくづく思う。明日の手術予定は14時。娘の食事制限が7時30分と早いので、早めに起こして少しでもたくさん食べさせてあげたい。そのためにも今日はこの辺りで、明日に備えることにしよう。
2004.10.28
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