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今日、出勤前に最寄りの王寺駅構内で、奈良区に転属してきた221系の編成が停まっているのを発見しました。先日の編成に次いで2編成目となるので、現在運行されている201系は確実に2編成が減ることになります。 これまで写真だけ撮って紹介していなかったものがいくつかあるので、ここで紹介したいと思います。 去年12月に撮影したものです。こんなスマホで撮った何気ない写真ですけどね。 これは、2月の終わりに撮影したもので、王寺駅の西側にある踏切から撮影したものです。 ここは、入れ替えの車両が一時停車することが多くてねらい目だったりします。 王寺駅から天王寺方面へ移動すると大和川を渡る鉄橋があります。 ここも撮影のポイントで、タイミングが良ければ201系同士がここですれ違ったりします。 JR大和路線の201系の中には、大阪環状線で運行されていたものが一部塗装を変えてJR大和路線で運用された編成もありまして、写真の編成はまさにそうでした。この編成も含めて大阪環状線からやってきたものは一足先に引退しましたが・・・。 ダイヤ改正まであと二日。完全に姿を消すわけではないのですが、それも時間の問題かもしれませんね・・・
2024年03月13日
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去年北海道へ行った時、国道234号線を走っていたら、突如としてこの車両が目に入りました。 国鉄→JR北海道の特急として活躍したキハ183系です。 ここは勇払郡安平町にある「道の駅あびらD51ステーション」というところです。 この場所の近くには、JR室蘭本線があって、このキハ183系も札幌方面から帯広・釧路方面へ走っていたことでしょう。ちなみに、写真に写っている建物の中にD51が保存されているようです。 キハ183系は、1981年から量産され、マイナーチェンジされた車両が1992年まで製造されていまして、写真のキハ183 214は1982年に製造された車両とのこと。ヘッドマークは「おおぞら」と表示されていまして、札幌から釧路間で運転されていました。 このキハ183系は、私も乗車したことがありましたが、写真の国鉄当時ではなくJR北海道になってから札幌~滝川間で乗車しただけでした。 それにしても、この車両がここにやってくるまではいろいろ紆余曲折があったようですが、屋外での展示なのでなんとかせめて屋根だけでも設置してくれればいいんですけどね。 車端部に階段が設置されていることから、特定の日には中にも入ることができるようです。 この日は、早朝だったこともあって外から眺めるだけで終わりました・・・。
2023年06月08日
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今から2年前の9月に和歌山県の交通遊園へ行ったときに南海電鉄軌道線(現在の阪堺電気軌道)のモ205形が保存されているのをみました。 これがそのモ205形です。1937~1947年にそれまでの車両を種車として改造されたもので、この車両は車番は消えてしまっていますが、モ217だった車両だそうです。 全長11mほどの小さな車両で車体前後に扉を持つ車両です。私が子どものころは堺市内でよく見かけましたが、晩年は1980年に廃止となった平野線でよく活躍していたとか。 室内は、木造で板張りがこの当時の車両の特徴でしたよね。座席は木ではなかったように思うのですけどね・・・。 マスコンはビア樽のような形になっていますが、この当時の車両では割とこのような車両が多かったようで・・・。 前後扉付近は、このように運転席と扉が近すぎて扱いにくかったかも、今でいうICカードや自動精算機は置けませんからね。 古い南海電鉄のマークも残されていました。 どういった経緯でここに運ばれてきたのかはわかりませんが、古き良き南海軌道線の車両ですから、いつまでも残してほしいなぁと思いました。 この場所は、わかやま電鉄貴志川線の交通センター前駅下車すぐにあります。
2021年12月28日
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私がデジカメやスマホの写真に収めていてそのままになっている写真を紹介するこのシリーズ、不定期に行っておりますが、今回は2年前に金沢へ行ったときに乗り換えた福井駅で見かけた乗車位置の表示です。 整列乗車を目的とした足元表示は、単純な「〇」や「△」、「↑」で表すことがありますが、ビジュアルで表示しているものもあります。福井駅はこのようなものになっていました。 福井県は、恐竜の化石が発掘されたことにより、「恐竜王国」として知られていますが、ここにも描かれているんですね。このキャラクターは「ティッチー」というそうです。 「〇」や「△」などよりは、この方がかわいいし子どもたちにもわかってもらえそうで、いいですよね。
2021年11月03日
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私がデジカメやスマホの写真に収めていてそのままになっている写真を紹介するこのシリーズ、不定期に行っておりますが、ちょうど1年前に彦根へ行った際に乗車した近江鉄道の写真があるのに気がつきました。 近江鉄道は、米原から癸生川へ向かう本線と、途中の八日市から分かれて近江八幡へ向かう八日市線、高宮から多賀神社前に向かう多賀線があります。このうち、今回は米原から彦根までの短区間ですがそれに乗車しました。 この日乗車したのは、100形。関東の方はこの車両をみてピンとくるのではないでしょうか。そうです、西武鉄道の新101系です。西武鉄道では新宿線や池袋線などで活躍、今でも支線で活躍していますが、西武鉄道を引退した車両は子会社である近江鉄道に移籍してきています。塗装も西武当時の黄色から琵琶湖をイメージした水色に変わっています。 車内はほぼ西武鉄道当時のままです。 この日乗車したのは、102+1002の2両編成で、西武当時はクモハ285とクモハ286だったとのこと。 また、近江鉄道は交通系ICカードに対応していない(系列のバスは対応済み)のですが、切符は今でも硬券が使われているようです。硬券といっても国鉄当時のものとは違って、ボール紙の硬いものでしたが、手触りはペラペラの軟券と違っていいものですね。それにしても、米原から彦根までJRなら190円なんですが、近江鉄道の方が割高ですね・・・。時間もJRは5分ですが、近江鉄道は11分もかかります。 まだ全区間乗りとおしたことはないので、新型コロナウイルスの感染拡大が収まったら、多賀大社とあわせて行ってみたいな、って思っています。
2021年07月18日
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私がカメラやスマホで撮影した写真の中で、ちょっと変わったものを紹介している「しまい込んでいた写真シリーズ、今回は去年北海道へ行ったときに函館市内で見つけたものです。 この写真は、私が宿泊した函館市内のホテルの近くで撮影したもの。青い建物が写っていますが、私も初めに見たときは普通に青い建物と思っていたのですが、よく見てみるとこれが元・貨車であることがわかりました。建物に見えたのは貨車の本体で、足元は線路があって車輪があるという状況になっています。 足元はこんな感じ。鉄道ファンの端くれとしてはこういうものを見つけると、なんだかうれしいものです。 さて、今のJRでは貨物列車というとコンテナを積んだものですけど、国鉄時代には様々な種類の貨車があって、何両も連なって走っていましたね。私の実家のある阪和線でもタンク車の行列を古い機関車がけん引する光景が当たり前のように見ることができていました。写真もたくさん撮りましたが、今思えばとても贅沢な光景だったんですね。 そんな貨車も、輸送効率という面から考えればコンテナと比べてかなり落ちるし、貨車へ荷物を積み込んでそれを積み下ろすという作業効率もコンテナと比べると落ちることもあって、国鉄の分割民営化を境にこういった貨車はほとんど姿を消してしまいました。いつだったか、このような貨車へ荷物を積み込む作業をyoutubeか何かで見たことがあるのですが、人がたくさんいなければ成り立たないものだなぁって思ったものです。 このような貨車が余剰となってどうなったか。そのほとんどが解体処分になったわけですが、有がい車のように倉庫代わりに使われるものも数多くありました。この貨車のようにお店になるものもありました。 ところで、この貨車は「ワフ29500」と白い文字で書かれていますね。国鉄時代の貨物列車には、列車の最後尾に車掌が乗るための車掌車が連結されていました。このワフ29500もその一つですが、これはちょっと変わっていて「有がい車に車掌が乗るスペースをくっつけたもの」と思っていただければいいかと思います。要するに「半分:有がい車、半分:車掌車」というものですね。 ちなみに、このワフ29500は1955年から1961年に650両が製造されたそうで、車掌室のある側はデッキ付きとなっている形状ゆえにお店として使うにはうってつけの形状だったことから、意外とお店として第二の人生を送っていたのを見かけました。 そんな車両もを改造したお店も、国鉄分割民営化から30年以上が経過している現在において残っているものはかなり少なくなって見かけることが難しくなり、あまり気にしていなかった中で見つけたのがこの写真の車両だったので、ちょっと嬉しく思いました。そして、思わず写真に撮ったというものです。撮影したのが早朝だったので、このお店が今でも営業しているのかどうかはわかりませんでしたけど、北海道の厳しい環境に耐えて、今でも残っていることに感動しました。 外観はすっかりと貨車当時のものとは変わってしまっていますが、今でも線路の上に車輪を介して現存しているというだけでも貴重ですから、末永く使ってほしいなぁと思いました。
2021年06月03日
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忘れかけたときに突然思い出す「しまいこんでいた写真シリーズ」。今回は、桜井市内で見かけた看板です。「吉備醤油 大和香具山 吉田醸造所」と書かれています。吉備醤油とは、吉備醤油醸造元のことで桜井市内に醸造所があるそうです。銘柄はその名のとおり「吉備醤油」と「タカラソース」とのこと。同社のHPには一升瓶に入った醤油の写真がありました。私の実家では一升瓶の醤油は使っていませんでしたが、亡き義母さんがどこかの醸造所の醤油を使っていたのを思い出しました。銘柄は覚えていないのですが、一般的なキッコーマンとかヒガシマルではなかったかと。 奈良県醤油工業協同組合のHPによると奈良県には19の醸造元があるそうで、私の住む王寺町にはないものの、近隣の三郷町や斑鳩町にもあります。関西で醤油といえば、和歌山県の湯浅とか兵庫県の竜野が有名ですけど、奈良県にもこんなにたくさんの醸造所があったんですね。 さて、こういう看板はある日突然姿を消すことがあるので、できる限り写真に収めようとしています。でも、タイミングが悪いと写真にとれなくて、また次の機会にと思うとその機会がなかったりするので難しいものです。この写真も、一回通り過ぎてもう一度もどって写真に収めましたんですよ。
2020年10月29日
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今回の写真も最近ではなく6月に撮影したものです。私が毎日利用するJR大和路線のJR難波~柏原間が1889年5月に開業して130年が経ったということで、このようなヘッドマークがつけられていました。 1889年に開業した当時は、関西鉄道という私鉄で1907年に鉄道国有法により国有鉄道化されました。ちなみに、私の住む王寺まで開通するのは1890年だったそうです。 このヘッドマークには、右から現在大和路快速などで使用されている221系、今は奈良線で活躍している103系、普通列車用として201系が描かれています。そして、左端の白地に赤い色の車両は221系登場前までの間に大阪環状線直通の快速として使用されていた113系です。このように国鉄関西本線→JR大和綴線で活躍していた車両が描かれているので、私にとっては懐かしいものでした。
2019年11月03日
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車のナンバープレートでは「1234」というのは希望ナンバーになっていますよね、あれって、抽選になるそうですけど、抽選に当たればゲットできるんだからそれはそれでいいんですけど、鉄道車両の場合は簡単にはいきません。「形式」というのがあって、その鉄道会社の基準で定められていた形式になるから「1234」とか「5555」とかになかなかならないものです。 でも、かなり前ですが、近鉄の車両でみかけました。 ほら、車体には「1234」って書いてあるでしょ。偶然見つけましたけど、思わず写真に撮りました。この「1234」の車両は、近鉄の1230系という車両で近鉄の1220系のシリーズの一つです。 ちなみに、私は「12345」という車両の写真も撮ったことがあります。今から30年以上前ですが、大阪駅で客車列車の中に「オハ12 345」というのがあって、これも思わず写真に撮りました。探せがどこかにその写真があったと思います。 また、阪急には「7777」もあったっけかな~ 近鉄1234号はこの日は橿原神宮前から京都行急行で使われていました。ちなみに、近鉄では向かって右側の標識灯が点灯していたら急行、向かって左だったら準急、二つとも点灯していたら特急や快速急行と決められています。
2019年11月02日
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去年の12月に岡山市へ行った時にみつけた建物です。 岡山市内に古めかしい建物、「禁酒会館」の文字がありまして何の建物かよくわかりませんでした。 調べてみると、大正12年に建てられたものだそうで、文字通り禁酒運動の拠点となった建物とのこと。岡山も太平洋戦争末期に空襲でやられたそうですが、それもしのいだ建物なんですね。
2019年02月17日
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ドライブレコーダーをつけて走っていると、風景はもちろんのこと、先日来ニュースになっているあおり運転等の記録ができるわけですが、思いがけなく懐かしい車に遭遇することもあります。そんな中で、先日懐かしい車を見かけました。 ベタですが、ハコスカです。 ハコスカは意外と丁寧に乗られている方が多くて珍しくもないのですけど、いいタイミングで記録できたのでアップしました。 個人的には、写真の2ドアよりも4ドアの方が好きなのですけど、貴重な車両であることには違いないですからね。私の車も大概古いのですが、このモデルのハコスカは新しくても1972年ですからね。部品の確保とかなかなか大変だと思います。 写真のハコスカもどうかこれからも長く乗ってもらえればと思いました。
2018年12月05日
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デジカメやケータイのカメラで記録写真のように撮っていた写真が、今となっては貴重な写真となることがありますが、今回もその一つです。 ちょっと影になっていますが、これはJR福塩線の105系でこの塗装は昨年6月に単色化、つまり黄色一色になってしまいました。だから、タイミング的にはよく撮影できたと思います。 さて、この105系が登場したのは、国鉄当時の1981年。当時は赤字に悩む国鉄だったのですが、地方のローカル線の古い車両を更新するために新しい車両を投入するという思い切ったことをしたものです。ちなみに、それ以降は既存の車両を配転したり大改造したりと、新造することを極力控えていたので、ギリギリ国鉄としても頑張っていた時期とも言えるかもしれません。 この塗装を施した105系は、ここでしか走っていなかった(運用の関係で福塩線以外の山陽本線などでも走っていましたが)のですけど、JR西日本の塗装単色化により消滅してしまいました。
2018年05月09日
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先日、同じ町内に住むアマチュア無線の大先輩のお宅を訪問しましたが、そこへ行く途中にJR和歌山線の踏切をわたります。 これは、その踏切である「西舟戸踏切」から撮影したものです。ちょうど、117系の普通五条行が通過したところで、複線のように見えますが右側は引込線になっています。 それから、この写真には写っていませんが左側のフェンスのさらに左側には、近鉄田原本線の築堤があります。だから、JRと近鉄の車両が一度に見られる場所になっています。 さて、JR和歌山線の王寺~五条間は1980年に電化されましたが、それ以前の写真を少し前の鉄道フェアで紹介していました。 写真の構図は少しずれていますが、ここであるのは間違いありません。この写真には、近鉄田原本線の築堤の裾部分が写っていますね。それから、この当時から引込線があったこともお分かりいただけるかと思います。 あと、右カーブの内側には、田畑になっていて向こうの方まで見通せますが、現在はマンションが建っているものの、手前の田畑はそのまま今でも残っているんですね。 この写真は、何年ころの写真か控えていなかったのですが、蒸気機関車が写っていることから1973年よりも前のものでしょうね。 このような定点写真のようなものは、地域の変遷が見られるので私は好きなんですよ。また機会があれば紹介したいと思います。
2016年05月24日
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新大阪から東海道新幹線に乗車して、京都へ到着する直前に進行方向左側をみていると、新幹線が大きな陸橋を超えるところがあります。 この写真のところですね。この陸橋は、JR京都線(東海道本線)を超える大宮通なのですが、よくこの写真を見ていただくと、電車の架線柱が二つ見えますね。でも、道路上は車ばかり、架線も張られていないみたいだし、どういうこと・・・? 実は、ここにはかつて路面電車が走っていました。京都市電の大宮線とよばれた路線だったそうで、1972年に廃止されています。今から40年も前に廃止されているのに、架線柱だけは未だに残っているんですね。大宮通りは結構交通量が多いし、この橋の下は列車の通貨本数が非常に多いJR京都線。撤去するのも難しいというところでしょうかねぇ。 そんなこともあって、今でもかつての京都市電の遺構が存在しています。 京都市電が全廃となったのが1978年なのですが、京都へ行ってもなかなかその名残を見ることは少ないですね。っていうか、京都は観光シーズンは車やバスが多く、どこへ行っても渋滞していますけど、市電廃止後かなり後になって、京都で地球温暖化防止京都会議(COP3)なんて開催されるようなことになるんだったら、市電を活用してヨーロッパのような街づくりをしていたらよかった、っていうことはないのかなってね。 この写真は、少し前に新幹線の中から撮影したのですが、この架線柱がなくなっては困るから早めに撮影したいと思っていました。まぁ、なくなる話は聞いたことはないですけどね・・・
2014年12月06日
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昨年閉鎖された大阪・弁天町にあった交通科学博物館で、みつけた古いチラシです。昭和4年に東京~下関間に誕生する特急列車への愛称を募集するものです。 右から読むのと、旧仮名遣いはこの当時の定番として、とても文字がきれいだなってね。活字かもしれないけど、それにしてもきれいな文字ですね。 その後、めでたく「富士」と「櫻」という日本を代表する愛称がつきました。 そのほかにも、応募のあったものが紹介されていますね。「燕」なんて2位だったのに、なぜ「櫻」になったのかな。やはり日本を代表する富士と櫻を名づけたかったんでしょうね。 こういう愛称の募集って、今度開業する北陸新幹線の愛称も先ごろ発表されていましたが、なんだか出来レースのような感じでしたね・・・。まぁ、妥当なところかもしれませんが・・・。 それにしても、このようなチラシを残りしてあるというのは、とても貴重ですよね。単なるチラシかもしれないけど、歴史を感じます。
2014年08月12日
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先月、仕事で京都へ行った際に、何やら人が集まっていたので覗いてみると、ゆるキャラたちがいました。 う~ん、どれが何なんだ・・・? とりあえず、知っているのが、一番左端の紫の着物を着たゆるキャラかな。 これは、「まゆまろ」、京都府のPRキャラクターです。京都でまゆ?って思われるかもしれませんが、その繭でつくられたのが西陣織であったり、京友禅や丹後ちりめんなど京都府を代表するものの原料であるというところから来ているのでしょうかねぇ。 あとのキャラクターは、全然わかりません・・・。でも、最近はこのようなゆるキャラが増えていて、おもしろいですね。でも、多すぎてホント、誰なんだぁ???ってね。
2014年07月24日
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久しぶりのこのシリーズです。デジカメやケータイのカメラで撮っていたにもかかわらず、そのまま放置になっていた、今見るとなかなかいい写真だったりするものを紹介しています。 今回は、昨年行った今は閉鎖された交通科学博物館で展示されていたものです。「東亜国内航空 エアバスA300」 私は航空ファンではないので、あまり詳しくはないのですが、エアバスはフランスの航空機メーカーで、A300は1972年に登場したそうです。 また、「東亜国内航空」って、若い人には知らないでしょうね。今は日本航空と一緒になってしまいましたが、一緒になる前が「日本エアシステム」(通称JAS)、その前がこの「東亜国内航空」(通称TDA)、さらにその前が「日本国内航空」と「東亜航空」で、その二社が1971年に合併してできたのが東亜国内航空だったということです。 運行路線も、どちらかというとローカル路線が多かったようで、使用される機種もどちらかというと中型機が多かったような印象があります。 ところで、私が子ども向けの図鑑で東亜国内航空の機種を見たことがあるのですが、その当時のカラーリングはこれではなく、尾翼に赤地に白い翼のようなマークと機体には赤いラインが入っていたと思います。だから、この写真のカラーリングは、東亜国内航空時代の末期のカラーリングになろうかと思います。 そんな東亜国内航空も、1988年に「日本エアシステム」という名称になって、その後日本航空と経営統合して2006年には完全になくなってしまったようです。 このような広告って、よく雑誌の裏表紙とか、中面に使われていたりしましたけど、ああいうのって意外と後々貴重になるものもあるんですよね。取っておきたいって思いながらも、ついついまっいいかって思うのがいけないんですよね・・・。 今回、これを見つけたときは、「あっ、東亜国内航空か。もう今はないんだよな」っていうことで、写真に収めたものでした。
2014年06月09日
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この写真は、今年4月頃に天王寺駅で撮影したものです。 それまで、JR京都・神戸線で活躍していた205系(写真左)ですが、その使われていた当時の塗色のまま阪和線へ転属してきました。まぁ、阪和線は古い103系(写真右)が数多く残っている線区ですから、少しでも新しい車両を、というところでしょうか。 関東の埼京線では、同じ205系が活躍していますが、徐々に新しい車両に置き換えられるとのことですが、この阪和線だけでなくJR西日本は古い車両を大切に使おうとする会社ですから、もうしばらくはこの古い車両が活躍するのを見られそうです。 ところで、このようにケータイのカメラで気軽に撮っていても、ついつい撮ったことを忘れてしまうことがあります。こうした写真を「しまいこんでいた写真シリーズ」として時々紹介しています。 思いがけない写真を保存していることもありますからね、また見つけて紹介したいと思います。
2013年08月02日
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「しまいこんでいた写真シリーズ」は、私が街中で気になって写した写真を紹介するものとしておりまして、気になって写したもののそれこそ「デジカメやケータイのメモリーにしまいこんだまま忘れている」ことが多いのですわ~ 今回紹介する「国道13号線」を表している案内柱は、今年3月に福島へ出張した際に撮影したものです。なぜこれを撮影したのかというと、私のように大阪府堺市出身者や堺市以南にお住まいの方だと聞いたことがあると思うし、未だに使っているかもしれないのですが、ある道路のことを「国道13号線」とよんだりしているのを思い出したからです。 さて、大阪府道の30号線は「大阪和泉泉南線」とよばれており、起点は大阪市北区から終点は大阪府泉南市までの48.8kmを結ぶ路線となっております。大阪湾に近い方には国道26号線が通っており、この府道30号線はその東側を国道26号線にほぼ並行して通っています。 道路幅は片側2車線で、現在の国道26号線が全線開通していなかった時代には、この府道30号線と以前の国道26号線(現在は府道204号線、通称堺阪南線。現在の国道26号線よりもさらに大阪湾沿いを南北に通っている)が和歌山までのルートになっていたので、よく混雑していました。私の両親の実家へ行くときには、必ずこの府道30号線を通っていました。現在の阪和自動車道なんてない時代です。 ところで、「府道30号線」と書いておりますが、私のような堺市や堺市以南の方にとっては「府道30号線」なんていいませんよね? そうです、『国道13号線』とか単に『13号線』とよんでいます。府道30号線なんていうのは、ほとんどいないんじゃないですかねぇ。標識にはそう書かれていますけど、なぜか国道13号線とか13号線とよばれています。 なぜなのか? 一説には「国道26号線に並行して通っているから、その半分の13号線」とか「道路の幅が十三間」とかいわれているようですけど、真相はわかりません。 もちろん、かつて国道13号線だったということもありませんし、府道13号線だったこともありません。 ちなみに、本家本元の国道13号線は、起点が福島市で終点が秋田市の306.1kmを結び、山形県の米沢市、山形市、秋田県の横手市を通過しているという東北の重要な道路なんですね。 そんな状況だから、福島へ行った時に本家本元の「国道13号線」を見つけた時には、ちょっとうれしくなりました。私は早くから『大阪和泉泉南線≠国道13号線』ということはわかっていたし、国道13号線の存在も知っていました。 ただ、堺市からは非常に遠いし、お目にかかることはないだろうって思っていたので、思いがけなく見ることができたわけですからね、思わず写真に撮ったということなのです。 またこのように、思いがけなく撮影した写真を紹介していきたいと思います。
2012年11月26日
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私が時々アマチュア無線の移動運用で行く三重県の青山高原。ここへ行く途中にある交差点を曲がりますが、そこの交差点の看板には関西人だったらわりと平気だけど、関西人以外の方だとかなり凹むと言われている文字が書かれた交差点を見つけました。『 阿 保 』 「アホ」ではありません、ここは「アオ」と読みます。 この場所は今は三重県伊賀市になっていますが、市町村合併前には三重県名賀郡青山町でした。 この看板を初めて見たときは、一瞬ドキッとしたものです。 ちなみに、大阪府松原市の松原市役所の住所も、同じく「アオ」と読みます。 ところで、野球解説者だった大沢親分(故・大沢啓二さん)は、関東人でプロ野球入りは大阪の南海ホークスだったのですが、最初のうちは球場で「アホ~」って野次られるのが耐えられなかったって、コメントされておられました。関西以外ではあまり使わないんですね。 話がそれましたが、街中には思いがけない看板などがあります。なかなか写真に収めることが難しいのですけど、また収めることができたか紹介したいと思います。
2012年11月24日
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先月、東京へ仕事に行った時のことです。ある日、列車で移動する際に駅から富士山が見えました。 ちょっと遠いのですけど、ケータイのカメラで撮影しました。ケータイのカメラの割にはきれいにとれたかなってね。 写真を撮影したのは西武多摩湖線の八坂駅で東村山市にあります。東村山市には「富士見町」という地名があるので、やはり富士山が見られる場所なんでしょうね。
2012年11月22日
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先日9月17日(日)の夕方、奈良県橿原市内で撮影した虹ですが、よくみると虹が二重に見えているのがお分かりいただけるでしょうか。 この日は夕方に細かい雨が降って、その後陽がさしてきた状況だったので、虹が見られやすい状況ではありました。ただ、こんな感じで二重に見られるのは珍しいです。場所によっては三重に見えたところもあるとか・・・。 この日、上の子どもと橿原市にあるショッピングセンターへ行っていたのですが、帰りの車の中から撮影しました。渋滞中だったので、こんな感じで写すことができたのですが、本当はもっといい場所から写したかったんですけど、タイミング良くできませんわな~ この写真ではわかりづらいのですが、下側の虹も色合いが鮮やかできちんと七色がわかりましたから。 こんなにきれいな虹が見られたからいいことがあるかなって思ったのですが、そんなに大したことはありませんでした・・・。
2012年09月25日
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私の地元にはJRの他に近鉄線が2路線あることは以前このブログでも紹介したと思います。そのうちの近鉄田原本線の終点、西田原本駅前にはすぐ近くにある近鉄橿原線の田原本駅との間に古い家が密集していました。それも西田原本駅周辺にあっては今では立ち退きとなってバスやタクシーの乗り場がつくられています。橿原線の田原本駅の東側方は相変わらず狭いままですが・・・。 さて、西田原本駅前には前出のとおりすっかり様変わりしていますが、未だに古い木造の建物が残っています。表紙の写真はその一つでして、建物の入り口左側の看板には『日本通運田原本営業所』と書かれています。「ゆうぱっく」と書かれたのぼりがありますから、今も使われているものと思います。 この周辺が再開発になる前に何度かこの前を通りかかった時には、小口の荷物が置かれていて古きよき時代の「荷物取扱所」という感じがしました。まぁ、その後日通も宅配事業に参画して、先ごろ郵便事業の「ゆうぱっく」に統合されて個人向けの小口宅配事業からは撤退したのはご存知の通りです。 それはさておき、このような古い木造の建物、特に事業所の建物ってだんだん姿を消してきているように感じます。特に事業所の場合は統廃合なんかがありますし、土地の転売のために取り壊し、なんていうこともあります。 ここもいつまで残っているかわかりませんけど、何とか古きよき時代の姿を残してくれたらいいですね。ただ、建物の周辺にも再開発の波が押し寄せている様子、どうなんだろうね・・・。
2012年01月19日
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かなり以前なのですが、若狭湾を望む福井県高浜町へ出張した際に古い建物を見つけました。外観からも古そうなのがわかりますよね。 これは元々京都電灯(現在の関西電力の前身)の営業所だったそうです。建築時期はわかりませんけど、戦前の建物でしょうね。古きよき時代の味わいがあります。 現役で使われているようですけど、中へは入ることはしませんでした。中はどんな感じなのか興味があったのですが、ここには用事はなかったのでね。 このような古い建物は街中で時々見かけますが、老朽化や耐震性の問題もあるのかだんだん少なくなってきているように思います。この建物もいつまで残っているのかわかりませんけど、とりあえずは使われている姿をカメラに収めることができてよかったです。
2011年05月29日
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私は1993年8月から震災を挟んで1995年3月まで神戸三宮に勤めていました。その当時は結婚していませんでしたので、お昼ご飯は近くの食堂で食べることが多かったです。 そのうちの一つは普通の大衆食堂で、写真のような大盛りの焼き飯がありました。このボリュームで確か550円だったように記憶しています。大盛りに見えますがなんとこれが普通サイズなんです。メニューには「小」もあるんですが、「小」が普通のお店のサイズでしょうね。 それから、知らない人が「大」を注文しようものなら、「食べられるか?」って店員さんが聞いているかもしれませんね・・・。 写真はかなり以前に神戸へ出張した際に食べてきたのをパソコンの中に置きっぱなしにしていました。このお店は「ほうらく」というお店でした。
2011年05月14日
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JR山陽本線姫路駅は2008年12月に高架工事が完成しましたが、表紙の写真はその工事が完了する直前の姫新線ホームに停車中に播磨新宮行き普通列車を写したものです。 姫路駅も2006年3月までは地上を走っていまして、特に姫路から岡山方面に向かう6,7番乗り場なんかは少し薄暗くてそれが逆にいい雰囲気のあるホームでした。写真の0,1番乗り場は姫新線と播但線の列車も発着していたように記憶しているのですが、やはり古くていい雰囲気がありました。かつて山陽新幹線が開業するまでは、山陽・九州方面へ、あるいは鳥取方面への特急や急行でにぎわったであろうホームも、最近では大阪や神戸のベットタウンとしての性格の方が色濃くなっているのかもしれませんね。 そして連続立体工事によって高架駅としてリニューアルされたわけですが、そこには旅情を感じさせるものではなく、一般的な「きれいな大きな駅」となったのはちょっと寂しいものです。そうは言っても、世界遺産の姫路城がある最寄駅ですからね、やはりそれにふさわしい駅というのは必要ですよね。 ところで、表紙の写真のディーゼルカーのキハ40系は2009年3月から新しいキハ122・127系に置き換わっておりまして、この表紙の写真はホームとともに貴重なものとなりました。
2010年10月17日
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昨日の萩の月の写真じゃないけど、携帯のフォルダに保存していてそのままになっている写真のうちから、今日はこれらの写真を紹介します。 昨年の11月のある日、出張で福井方面へ行きましたがその時に乗った特急「雷鳥」に組み込まれていた車両です。このブログでも何度も取り上げていますが、今年3月の改正で北陸本線を代表する特急「雷鳥」はわずか1往復となり、ほとんど全てが新しい車両を使用した特急「サンダーバード」となっています。「雷鳥」は依然として国鉄当時からの名車485系が使用されていますが、編成も6両編成と短くなっています。 でも、昨年の11月時点では9両編成と長いもの(とはいっても、昔は12両編成ともっと長かった)でした。そして、そのちょうど中間にあたる5、6号車には485系の中でも一番古い時期に製造されたグループの車両が連結されていました。写真のモハ484-90+モハ485-90がそれにあたります。1971年日立製ということで、38年間使用されているんですね。 車内は当然のことながらリニューアルされていますが、車体の方は初期の485系の特徴が出ています。ちょっとマニアックですが、車両の天井をご覧下さい。キノコのような出っ張りがありますね。これが冷房装置でAU12型というもので、古くは「こだま型」とよばれた151系という車両から受け継がれてきた冷房装置の形なんですね。その後、形が全く異なる冷房装置に改良されていますが、個人的にはなんとなくほのぼのとしたように見えるこの形が一番しっくりきているように見えるんですけどね・・・ いくら物持ちのいいJR西日本といえども、ここまで長く使うことができるのは、元々の基本設計がよかったことと製造された両数がたくさんあったので、部品も手に入りやすかったのかもしれません。もちろん車内はきれいに更新されていますが、最新型の車両と比べると見劣りはしますね。 そのような状況から、来年の3月には残っている1往復の「雷鳥」を新しい車両に置き換えるとか。ま、あなぜ1往復だけ残したのかよくわかりません(車両故障時やダイヤが大幅に乱れた時の救済用として残していた?)が、引退までにまた乗車できればいいなぁと思いました。
2010年08月20日
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先日、ガゼルスの試合で行った毛馬グラウンドで見つけた水門について紹介します。この水門は淀川と大川(旧淀川)を隔てる水門であり、大川に流れる水量を調整する役目と同時に、淀川と大川の水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備及び大川の水を強制排水するための機能を備えているそうです。その昔、水の都大阪とよばれて川や堀が多かった大阪市内ですが、今では埋め立てられてしまったところが多いものの、今でも水上バスに混じってタグボートがダルマ船を引っ張って航行する姿を見かけることがあります。 さて、表紙の写真ですが、一部ホワイトでペイントになっています。ここには何と書かれているでしょうか? A 毛馬すいもん B 毛馬こうもん C 毛馬でいもん D 毛馬もんもん この水門をとりあげたクイズが以前ありましたけど、さてA~Dのうちどれでしょうか? ・ ・ ・ ・ ・ 正解はBの「毛馬こうもん」なんです。 正しくは「閘門」と書くそうです。 まぁ、クイズに出すくらいですからAはありえませんわな。っていうことで、B~Dになるわけですけどね・・・。
2010年07月15日
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先日、パソコンを設置している机を新しく更新しました。その際にでてきたCDには、2002年夏に家族で北海道へ行ったときの写真が入っていました。その中の一枚をご紹介します。 北海道には多くの鉄道路線がありまして、戦前や戦中は石炭を輸送するための路線が多く敷かれていました。戦後は北海道に限った話しではありませんが、どちらかというと「政治路線」のような最終的には赤字ローカル線になってしまうような路線が敷かれて、一応は北海道の鉄道の歴史にはなりました。 そういった路線も国鉄からJRになったあたりに廃止されて、敷かれた鉄路はもとの原野に戻ったところもあるようです。写真の北見相生駅のある相生線もそんな路線の一つで、今でも盛んな林産資源の輸送のために1925年に美幌~北見相生間が開業したものの、1985年に廃止されてしまいました。 廃止後は線路は取り払われてしまいましたが、終点だった北見相生駅は整備されてディーゼルカーのキハ22 69が国鉄当時の懐かしい塗色でたたずんでいます。私はこの2002年以前にも一人旅でこの北見相生駅のある津別町をおとずれたことがあり、その際にはまだ北見相生駅は廃止直後の趣を残していました。 さて、写真でポーズをとっているのが当時4歳だった上の子どもです。今ではすっかり大きくなっていますけどね・・・。また、写真の右奥の方には、昔懐かしい腕木式信号も展示されていることがわかります。 屋外での展示ですので、風雨や雪などにさらされて今もきれいに保たれているかどうかわかりませんが、北海道の歴史を語る上で貴重なものだと思いますので、大切に残していってほしいなぁと思います。
2009年06月09日
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私は上京するときには新幹線を利用していますが、いつも楽しみにしていることがあります。それは、「富士川の鉄橋から富士山を眺めること」なのです。私は就職以来何度も東京へ行っていますが、絵に描いたような見事な富士山を見たのはわずかに2回だけ。意外と山頂に雲がかかっていたり、そもそも富士山どこ?っていうくらいのガスがかかっていることがあってがっかりします。その過去2回の時は本当に見事で、他の乗客も進行方向左側の窓から「やっぱりきれい~」ということで眺めていました。 今年2月に久々の上京する仕事がありました。今回こそはきれいにみえたらいいなぁ、と思いながら静岡を通過するとケータイとデジカメを準備して富士川の鉄橋を待ちました。もう何度も東京へは行っているので、だいたいこのトンネルを過ぎたら見えてくるかなっていうことはわかるようになっていました。 そしてついにそのときはやってきました。もう何年ぶりかでみる絵に描いたような富士山が目の前に広がっていました。早速ケータイとデジカメで撮影しました。他の乗客も同じような感じで写メ送っている方もおられました。当たり前のことですが、新幹線の速度はとても早いので富士川鉄橋なんてあっという間に通過してしまいますが、富士山は引き続き眺めることができるので、工場などの建造物がかぶらないように注意しながら撮影していました。 新富士駅を通過すると、富士山がより近く見えますがそれもつかの間でだんだん離れていきますので、名残惜しそうに眺めていました。 こうして通算3回目の絵に描いたような富士山をみることができたわけですが、ちなみに今から7年くらい前の2月頃にやはり仕事で富士吉田市のある会社に行ったことがありまして、その際には麓から見事な富士山をみたことがあります。仕事が終わってから、当初の予定では富士急行線と中央線を乗り継いで東京へ戻る予定だったのですが、予定を変更して富士吉田から御殿場を経由して三島まで路線バスで帰りました。山中湖などの風景も見ながら移動することが出来たので時間とお金はかなりかかりましたが、とても雄大な富士山をみることができてきれいでした。 東京近辺にお住まいの方なら、別に富士山なんて珍しくはないのでしょうけど、関西人に私にとってはなかなかなじみのないものです。ましてや、新幹線の車窓からでもみることができないんですからね。だから余計に、あこがれというかそういうものがあります。 また東京へ行く機会があればみることができればいいなぁと思いますが、きれいにみることができるのは冬の時期が多いそうなので、これからの季節はむずかしいかもしれないなぁ・・・。 表紙の写真は富士川鉄橋を渡っている新幹線の車内から撮影したので、窓に光が反射していますね・・・。
2009年04月15日
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私の職場は大阪の天満橋にありますので、毎朝大阪市営地下鉄の谷町線を利用しています。今でこそ冷暖房完備の車両で乗り心地のいい新しい車両が走っていますが、私が就職した1986年当時はまだまだ古い車両も現役で、特に夏場は冷房がなかったので大変暑かったものです。 当時の谷町線の中で主力として活躍していたのが表紙の50系とよばれる車両でした。もちろん冷房はありませんでしたがシートの座り心地のいい車両でした。もっとも、加速時や制動時はよく揺れる車両で、急制動がかかったときにつり革をつかもうとしたがつかめずに、隣にいたチンピラ風のあんちゃんの顔に私がビンタするような形になってしまったんです。すぐさま謝りましたのでそれ以上は何もなかったのですが、そのあんちゃんは私を睨みつけながら降りて行きました・・・。 そんな怖い思い出は別にして、この車両はかつては御堂筋線や四つ橋線といった混雑路線で使用されたのちに、新しい車両の導入によって谷町線や中央線に移り、最後は千日前線で活躍するという息の長いよくできた車両ですが、1994年までに全て引退し1両だけが大阪市交通局の森ノ宮車両管理所に保存されています。そして、昨年3月の同管理所の公開時に見て来ました。 車内には入ることはできませんでしたが、懐かしい姿を見ることができました。保存されている5085号は谷町線でも活躍していた車両ですので、間違いなく乗ったことがあるはずです。室内は開いていたドアからみることになりましたが、緑色のシートはふかふかで座り心地がよかったですよ。できれば、座ってみたかったなぁ。 ちなみに、この日はこの5085号以外にも保存されている車両をみることができましたが、その辺はまた次回紹介するとして、このような車両を保存してくれているのはうれしいなぁと思いました。大阪の発展の歴史を下支えした車両なんですからね。
2009年01月19日
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今年夏に行った関西電力の大河内発電所(揚水発電所)で見つけたのが、この番付表です。最初見たときには「なんだろう?」だったのですが、よくよくみると関西電力所管の発電所の番付となっていました。 番付をみてみると、東西の横綱にランク付けされているのは原子力発電所の大飯発電所(東 総出力471万kW)と高浜発電所(西 340万kW)になっていますが、そこに張出横綱として火力発電所の姫路第二発電所(姫二 255万kW)がランク付けされています。以下、東では海南、御坊など、西では堺港、姫一(姫路第一)、南港など火力発電所がランク付けされていますが、そんな中で大河内や奥多々良木といった揚水発電所もランク付けされており、関西エリアの電源としての役割を果たしていることがわかります。 ところで、この番付表は「平成9年3月場所」って書かれていますので、その時点での発電所のランキングになろうかと思うのですが、現在では廃止されている発電所もあるんです。例えば、東の尼三(尼崎第三)、多奈川、尼東(尼崎東)、三宝、西の高砂、大阪、春日出の各発電所(いずれも火力発電所)は既にありません。よって、これ以降の番付表はつくられていないみたいですね。 それから、この番付表をみていて面白かったのが、「大阪瓦斯羽車」って書かれている発電所、何のことだかわかりますか? 瓦斯羽車、すなわちガスタービンのことですね。漢字で書けばこうなるんでしょうか。 何気ない番付表ですが、ちょっとマニアックな人には面白いものではないかなぁと思いました。
2008年12月05日
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昨日の年賀状のブログつながりです。年賀状になりそうな写真を探していて見つけた写真なんですが、夏休みの終わりに京都にある梅小路蒸気機関車館へ行った写真がありました。 この梅小路蒸気機関車館は、1972年に日本の鉄道開業100周年を記念して発足したもので、元々は東海道本線の蒸気機関車の機関庫として使われていたものなんです。扇状の機関庫に17両の蒸気機関車が保存されていますが、うち7両は動態保存といって動かせるようになっているのはうれしいですね。 ところで、蒸気機関車って実物を間近でみるとかなり大きいんですよ。子どもの背丈以上もあるし、私の背よりも高い175cmの動輪には圧倒されます。↑ C55の動輪は自転車のようなスポーク状の動輪です。直径が175cmもあります 動態保存している蒸気機関車のうち、この日は一番古い8620型の8630号が使われていて、オープンタイプ(といっても、屋根はあるけえど)の客車を引っ張っていました。もちろん、子どもと一緒に乗ったのですが、ビデオを撮っていたので写真は撮っていません・・・。 ↑ すっきりしたスタイルが特徴の8630号 ↑ 大正3年(1914年)製造され、93歳なんですよ・・・。 8620型はすっきりとしたスタイルで個人的には好きな蒸気機関車なんですよ。元々は旅客用として作られ、ほぼ同時期に作られた貨物用の9600型とともに1975年頃まで活躍したという扱いやすい蒸気機関車だったようです。その扱いやすさゆえか、齢93ながら元気に活躍しているのは感動すら覚えます。 蒸気機関車は大きなボイラーで蒸気を作ってそれを駆動源として動輪を動かすという前時代的な代物で、運転のみならず点検や修理となればその苦労は大変だと思いますけど、鉄道の歴史の生き証人としてこれからも長く活躍して欲しいですね。 ↑ 石炭です。さすがに手で触れば真っ黒になりました・・・。
2007年11月30日
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私はデジカメで撮った写真をパソコン本体のハードディスクに一時保管して、ある程度たまればCD-Rに保存するようにしています。これだったら、お気に入りの写真だけプリントアウトできるのでね。ただ、CD-Rにいつからいつまでのものを収録されているか書いていないので、生きているか死んでいるかわからないんですよね・・・。ちゃんと書いておかないといけないなぁ。 さて、そんな中で本日、そのCD-Rに保存した写真を探していたときに見つけたのが表紙の写真です。これは阪神間にお住まいの方や住んでおられた方には懐かしいかもしれません。そうです、阪神パークです。今ではららぽーと甲子園になっていますが、かつては阪神電気鉄道が保有する遊園地だったんです。動物園や遊具もあって、夏にはプールもあるという近場で十分楽しめる施設でした。私も96年に結婚してこの阪神パークのすぐ近くの団地に住んでいて、98年に子どもが産まれるとこの阪神パークは格好のお散歩コースでした。 晩年は入場料は無料になったものの、規模が縮小されて住宅公園のようになりました。それでも間近でゾウやキリンが見られるなど、小さい子どもを連れて遊びに行くには十分でした。 しかし、USJの開業などの影響もあってか、2003年3月いっぱいで廃止されることになりました。この頃には既に奈良へ引っ越していましたが、廃止されると聞いて上の子どもを連れて久しぶりに遊びに行ったのがこの日でした。 往年を彷彿させるようなお客さんの数で、のんびりとした光景に慣れていた私や子どもにとってはびっくりでした。写真の下の方にはゾウの家が映っていますが、廃止まで阪神パークの主として2頭の年老いたゾウがいました。廃止後は千葉県の動物園に移籍して行きましたが、残念ながら1頭は亡くなったときいています。 この写真をみていると、西宮に住んでいたときのことを懐かしく思い出します。今でも時々阪神パークの跡地にできたららぽーと甲子園に遊びに行きますけど、時間があればその周辺を歩いています。
2007年10月18日
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先日、探しものをしていたら、写真のアルバムをみつけました。アルバムといっても写真屋さんでもらえるような簡易なアルバムです。最近はデジカメで撮ってパソコンに保存、適当にたまればCDに移管ということをしているから、フィルム当時の写真はちょっと懐かしく思います。 そんな中で見つけた一枚がこれ。96年5月に納車された日に撮影したデリカSWです。この2ヶ月前にそれまで4年間乗っていた同じデリカSWのエクシードを私の不注意で全損廃車にしてしまって以来、車はなかったのですが、結婚を2ヵ月後に控えてお金も入用の時にやっぱり車も必要ということで、思い切って買ったのがこのデリカSWのリミテッドエディション、全国1500台程度の限定発売でした。 親には事故った車と同じモノにするなんて、って散々いわれましたが、私にはこの車が一番合っていたんですね。他の選択肢は考えなかったです。 それ以来ずっと乗り続けていて、12万kmを超えるまで走行していますが、トラブルらしいトラブルが無いのはうれしいところです。っていうか、子どもが大きくなってきているので、こんなところでトラブルなんて困りますからね、何とかこの先もがんばって走り続けて欲しいです。 さて、写真の向かって左側に停まっているダットサントラックは、私の実弟の車です。ダブルキャブになっていて、荷台にはキャビンを積んでオーディオ機器を搭載していました。トラック野郎のようなデコレーションもつけていて気に入って乗っていたのですが、例の排ガス規制のおかげで泣く泣く廃車となってしまいました。 今ではキャラバンE25に乗っています。兄弟そろって似たような「箱バン主義!」ですね・・・。 こうした古い写真はまだ探せばあるかと思いますので、また見つかれば紹介したいと思います。
2007年10月04日
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去年の四国への出張で変わった駅の名前を見つけました。有名な駅なのでご存知かと思いますけどね。 大歩危 (おおぼけ) 関西の人なら相手が思わぬボケをかまされると、「大ボケやなぁ」とついつい言ってしまうことがあります(えっ? 私だけ?)が、この駅の名前は決してふざけているわけじゃありません。本当にこういう駅の名前なんです。ついでに、隣の駅は「こぼけ(小歩危)」です。 この写真を撮ったのはすっかり日が落ちて外の風景を写すことはできませんでしたが、ここは四国徳島県の西部で吉野川がすぐ近くを流れる渓谷にあるんです。断崖絶壁とその間を流れる吉野川はなかなか迫力のあるものです。 この地名の由来はいろいろあるようですが、一般的には『大またで歩くと危ない』ことからきているそうで、この地域の険しい地形をうまく表している地名だと思います。 こういう写真を見ていたら、フラッと出かけたくなります・・・。
2007年06月05日
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去年の北海道へ行った時に小樽で見つけた駐車場なんですが、名前が変なんです。関西の方にとっては結構ドキッとする名前ですよ。 「おいこら駐車場」 「おいこら」って、関西弁では「おい! こら!」って喧嘩売っている言葉なんですよね。ちなみに、その受け答えは「なんじゃ! こら!」ってなってしまって、血の雨必至ですけどね・・・。いずれにしても、関西ではあまりいい言葉ではありません。 だから、この駐車場の名前を見た時は、「なんだか、喧嘩売られているみたい」って思う私は100%の関西人です。 この名前にどんな意味があるのか聞きませんでしたけど、できれば聞いてみたかったなぁ・・・。
2007年05月27日
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表紙の写真をご覧下さい。これは堺市内のとある交叉点で車を停車した時に撮影したものです。丸で囲っているところにバス停があるんですが、やたら近いと思いませんか? 手前が「平岡西口」、その向こうが「毛穴大橋」という南海バスのバス停でして、このうち「毛穴大橋」というバス停の本来あるべき位置は、写真の中央辺りにある陸橋が工事のために一部対面通行になっている部分にあるんです。すなわち、この陸橋(この陸橋の名称が毛穴大橋)の改修工事に伴って、バス停が大幅に移動したのです。 それにしても、双方の位置関係は100mもないでしょうから、バスの車内アナウンスも困るでしょうね。 なお、今ではこの工事も終わったので、バス停は所定の位置に戻っています。
2007年03月02日
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今年の4月に出張で出かけた時に何気に写したのがこの写真です。昔の鉄道の駅にはこういった木造の建物とか構造物がありまして、外観もこのような薄い水色であったり国鉄だったら薄い黄緑色だったり、もっと古かったら茶色というかこげ茶色というか油のような色だったりしたものでした。 こういった建物はどのような使われ方をしていたかというと、信号やポイントを操作する建物だったり、駅員など関係者の詰め所だったりするのですが、合理化されたり建て変わったりあるいは利用者にとっては全然関係ないので人知れず取り壊されていたりしています。ただ、よくみるとなかなか味のある建て方をしていたりする場合もあるんです。この写真の建物は、どうなんでしょうね。大して珍しくないかな。 そういえば、こういった鉄道における木造の構造物で私がよく覚えているのは阪和線の鳳駅です。昔の鳳駅はかなり古い木造の駅舎と跨線橋があって、いずれも歴史を感じさせるものでしたが、1985年に現在の駅舎に建て変わりました。 写真のこの建物は今では使われていないようですね。まぁ、いつまで建っているかわかりませんが、ちょっと気になる建物でした。ちなみに、子どものころに「駅の構内に住んでいたらいつでも列車が見られるし、すぐに乗ることができるなぁ」ってバカなことを考えていました・・・。
2006年09月07日
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この写真をご覧ください。 私のデリカSWの前を走っていた車なんですけど、車名わかりますか? まぁ、表題に答えが書いてありますけどね・・・。 そうです、この車はトヨペットクラウン。今のクラウンの何代前になるんでしょうね。この型はRS41とよばれた1962年から製造されたもので、がっしりとした骨太な全体のスタイルに対して丸い小さなテールランプが特徴的です。写真は後姿だけなので全体はわかりませんけどね。 私はトヨタ車はあまり詳しくないので、この写真の型は何年型かはわかりませんが、1963年か64年あたりではないかと思っています。 ところで、この写真を写したのは私のデリカSWが新車で購入してしばらくたったときだったので、1996年のことです。だから、この時点でこのトヨペットクラウンは30年以上が経過していたんですね。それでも、とてもきれいに乗っておられました。塗色もあまりみかけないような色でしたし。 それから、この車の写真をみて「ウィンカーランプ、ないんとちゃう?」って思われた方、するどいです。この時代の車にはブレーキランプと兼用だったんですね。だから、右へ曲がるときは右側の赤いランプが文字通り「ウィンク」するように点滅するんですよ。 ちなみに、この車と同じ車に乗っていた人がいました。私が4歳まで住んでいたアパートの近くに同い年の女の子がいて、そこの家の車がこの車でした。その女の子のこと、ちょっと好きだったようです・・・ そんなこともあって、思わず手元にあった「写るんです」で写したのがこの写真です。しばらく後ろを追走していましたが、その先の交差点を右折して行きました・・・。
2006年02月02日
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まず、このカメラをご覧ください。かなりレトロチックなカメラでしょ。このカメラは私の父が1960年に買ったカメラなんです。私の父は建築士だったので、現場写真などを撮るために使われていたんでしょう。新品で購入したらしいのですが、当時はかなり高価だったんでしょうね。 ちなみに、父親はこれの前にもカメラを持っていて盗まれたとのこと。やはり高いモノだから狙っていた人がいたんでしょうね。 このカメラを詳しく見てみます。 ケースには「KALLO」と書かれた本皮製。使い込んでいるので色がはげていますけどね。 カメラ本体には「KALLO35 SEIKOSHA-MX」と書かれています。そして、カメラ本体の上部(ファインダーの近く)には赤い丸に白抜き文字で「Kowa」と書かれたエンブレムがついています。 このカメラについて、ご存知の方おられましたら、ご教示いただければ幸いです。 さて、今のカメラはオートフォーカスは当たり前、シャッタースピードも絞りも気にしないでファインダー覗き込んでパッシャ!って押すだけ。でも、このカメラの場合は、まず被写体にあたる光線の具合い、被写体が動くのかどうか、ピントの調整などいろんなことを事前に準備して写すわけですから、なんとも面倒なんです。完全にマニュアルですからね。 だから、思わぬ失敗で落ち込むこともしばしば。それでもなれてくればそんなことも減ってきました。 使っていて引け目を感じたのは見た目が古いこと。写真の出来はカメラに関係ないと思っているんですけど、それでもねー(大して写真の腕はよくないですよ) それから、交換レンズというものがないので、常にこのレンズを使っての撮影となること。よって、必然的に「ひき」の写真が多かったです。 ところで、このカメラ、ファインダーとレンズの位置が微妙に違うのがお分かりになるでしょうか。こういうところも考えて撮影しなければならなかったんですよ。 この古いカメラが私のものになったのは私が小学5年生の1978年でした。私の友達もカメラを持っていたのですが、Canonオートボーイなどお手軽に写せるカメラを持っていたと思います。そんな中で、その当時ですでに約20年前のカメラを持っている小学生はいませんでした。 もう少し大きくなって中学生から高校生になると、CanonA-1とか私も持っていますが同社のAE1+Pなど一眼レフのいい機種を持っている友だちもおりました。とてもほしかったのですが、とても買えそうになかったので、この古いカメラを使い続けました。 そして、18歳で就職して初めてのボーナスで前出のAE1+Pを買ったのでした。その結果、古いカメラは使わずに大事にしまっていたのですが、新婚旅行の時に持っていって撮影したのが昨日の写真というわけです。 今ではデジタルムービーが主体で、その合間にデジカメを使うくらいですからフィルムのカメラはほとんど使っていないです。 でも、昨日やその前からデジタルムービーやデジカメを買う前によく写していた写真をみていると、またフィルムのカメラでとってみたいな、とちょっと思いました。===追記==2006.1.25========= 本日、何気にこのカメラについて検索をかけてみたところ、有力な情報を入手しました。 このカメラは「コルゲン」や「キャベジン」でおなじみのコーワ(漢字では興和(株))製だそうです。興和には光学装置をつくる部門もあるんですね、知らなかった。1978年まで民生用カメラの生産をしていて、今は民生用カメラの生産はしていないのですが、医療用等の光学機器を生産しているとのこと。 そして、このカメラとほぼ同系のカメラが下記アドレスのところで紹介されていました。http://asacame.xdap.jp/hsp35rfdaz/rfd35k.htm
2006年01月24日
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カラー写真が当たり前のブログの写真にあって、今回は白黒写真にしてみました。っていうか、元々白黒フィルムで撮影したんです。 ところで、この山はなんという山でしょうか? この写真を見られて「あっ!」ってわかられた方、すごいです。でも、正解は最後の方で。 さて、私が子どもの頃の写真は当たり前のように白黒でした。っていうか、テレビもそうだったけどね。だから、子どもの頃のアルバムをみると、ほとんど全て白黒写真。カラーだったのは幼稚園の頃の一部だけ。当時はカラーフィルムが高かったので、そのカラーフィルムはかなり無理したのかもしれません。 白黒写真といえば、当たり前ですが「白と黒」で被写体を表現するのですから、とても難しいのです。色の濃淡で表現するのですからね。 私が高校生の頃、部活動は陸上部だったのですがその傍らで写真も撮っていました。主に鉄道を中心とした風景写真なんですけど、そのときにはよく白黒フィルムを愛用していました。これは、写真部の友人が白黒フィルムなら現像からプリントまでやってもらえるからで、料金もスマイル0円だったし。 ところで、国内の白黒フィルムは富士フィルムとコダックの2社だけでコニカ(私の頃はサクラ)はなかったような・・・。それから、写真部の友人の話しでは、富士フィルムの「ネオパン」は現像の時にフィルムの缶は開けやすいけど、コダックの「トライX(エックス)」(通称トラペケ)のは頑丈すぎて開けにくいとか話していたっけかな、ちょっとマニアックな話しですけど。 横道にそれましたが、私は高校生の頃に白黒フィルムを愛用していたのはそんなこととあわせて、写真部の友人はいわゆる「長巻フィルム」といって1巻あたり100フィート、市販の1本36枚撮りが15、6本くらいとれたものを分けてもらっていたためです。 そんな白黒写真を新聞や雑誌以外で見ることはありませんね。 先日の子どもの小さい頃の写真を探す過程で、こんな白黒写真の入った簡易アルバムを見つけたのでした。 さて、最初の問題、「この山はどこでしょう」クイズの答え、別名蝦夷富士とよばれる北海道の羊蹄山なんですよ。96年の新婚旅行の時にニセコ町の国道5号線で撮影しました。あまりきれいだったので撮影しましたが、白黒のフィルムの入ったカメラでとったので、カラーでなくてすみません。 なお、車は私の愛車のデリカSWです。まだ購入して4ヶ月くらいでした。
2006年01月23日
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今年の夏、子どもたちを連れて広島市民球場へ行きました。子どもたちは広島東洋カープのキャラクター、「スライリー」に会いたくてそのためだけに奈良から広島へ行ったのでした。 首尾よくスライリーに会えてサインまでもらって子どもたちは大喜びでした。その後は球場の中に入って野球観戦となったのですが、ちょうど試合前のグラウンド整備の時に上の子どもが、「パパ、カップヌードルが動いているよ」なんのこっちゃっと思ってグラウンドをみると、ほんとにカップヌードルがグラウンド整備していました。「なんじゃありゃ?」 よくみると、軽トラックの荷台にカップヌードルの入れ物が乗っかったものがグラウンド整備していたのでした。 次の日、広島市民球場の前の信号で停まったときにふと球場の方をみると、カップヌードルが停まっていたのであわてて写真を撮りました。それがこの写真です。 軽トラックはマツダのポーターキャブ。1969年から1988年までの間、基本的なスタイルは変えずに製造されたマツダの隠れたベストセラーカーでした。エンジンは三菱製というのも変わっていますね。 「ポーターキャブ」っていわれても知らないよ、と思うかもしれませんが、おそらく一度はみたことがあるのではないでしょうか。 このユニークな顔、なんとなく覚えていませんか? 私は運転したことないのですけど、三角窓(ドアの形状から純粋な三角じゃないけど)と、車体前面に開けられた通風口がいいですね。 それにしても、スライリーといい、このカップヌードルのグラウンド整備車といい、なかなかユニークなものをみることができてよかったですよ。 子どもたちは、「また広島へ行きたい!」っていっています。
2005年11月25日
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デジカメで撮った写真をCDにしまいこんでいたのをたまたま見つけました。その中からいくつか紹介して行きます。けっこう何の脈略もなく撮った写真も多いのですが・・・。 第1回目の写真はJR九州の門司港駅の駅舎です。2003年の2月に仕事で北九州市へ出張へ行ったのですが、そのときに宿泊したのが門司港駅の近くのホテルでした。夜にコンビニでも行こうと外へ出て撮影したのがこの写真です。 門司港駅は1914年にヨーロッパの駅をモデルにしたといわれているネオ・ルネサンス様式の建物で、現在は国の指定重要無形文化財となっているそうです。昼間に見ると、威風堂々した雰囲気が印象的です。 すぐ近くには関門海峡があって、1942年の関門トンネル(鉄道)が開通するまでは、この門司港駅は九州の鉄道の玄関口として鉄道や船の要所としてにぎやかであったようです。また、門司港駅周辺にはその栄えた時代に建築された洋館を今でもみることができます。 関門トンネル開通後は、下関駅から門司駅を通るようになったので門司港駅はルートから外れてしまい、1964年に連絡船が廃止されると普通の始発・終点駅となってしまいます。その結果、門司港駅周辺は港湾の倉庫が立ち並ぶ街となってしまいます。 しかし、近年ではかつて栄えた時代に建築された建物を中心とした街づくりとして「門司港レトロ」という再開発が行われています。幸いなことに、門司港駅も周辺の洋館も丁寧に整備されていたのも幸いしたのではないでしょうか。 個人的にはディズニーランドやUSJ(いずれも行ったことないのですが)のようなテーマパークではなく、門司港レトロのようななにかホッとできるようなテーマパークが好きです。 そんな門司港レトロの玄関口となっている門司港駅。激動の時代をくぐりぬけ、今でもその存在感を感じさせてくれます。 この写真は夜に撮ったので、ライトアップしてくれているものの駅舎の全体がわかりずらいのですが、このような堂々とした駅が九州にあるということをご紹介いたします。
2005年11月18日
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