☆ ☆ SARRYの「ありがとう」日記 ☆ ☆

☆ ☆ SARRYの「ありがとう」日記 ☆ ☆

共に生きる


 君は君  我は我なり  されど仲良き

この短い言葉の中には、人間が共に生きてゆく上の大切な真理が含まれています。

誰一人として他人と全く同じように考え、同じ感じ方をするものはいないのですから別の人格である人間同士が共に生きようとする時そこには必然的に摩擦が生じます。共に生きるということは、逆説的のようですが、それぞれ独自の存在であることを認め、その独自性を尊敬する場合にのみ可能なのです。

夫婦、親子、親友の間柄にあって、「あなたはあなた、私は私」つまり相手も自分も別個の一人格と認め合うことが大切なのです。

 今日しみじみと語りて妻と一致する
  夫婦はつひに他人といふとこを

という歌があります。共に生きている、また生きていかねばならない二人が、しみじみと語り明かした後に、互いが他人であるということにおいて一致したというのです。このことによって二人は、一抹の寂しさを味わったと同時に、今まで以上の強い絆で結ばれることになったのでしょう。

エーリッヒ・フロムも言っています。「自分が一個の人格である時、初めて他人と真の愛の関係に入れる」のだと。自分が独自の世界を持っていて、初めて他者独自の世界を認める心のゆとりが生じるのです。個の確立のないところに、人々は“群れて生きる”ことはできても“共に生きる”ことはできません。

「君は君、我は我なり」という一見冷たい表現が、「されど仲良き」という温かい言葉でしめくくられているこの句は、不完全ながら、三位一体の神の姿を想起させます。聖父と聖子と聖霊という、それぞれ別のペルソナを持ちながら、「されど一体」という神の奥義は、その似姿として創られた私たちに“共に生きる”姿を教えていて下さるのです。


毎日放送「心のともしび」よりシスター渡辺和子

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: