南トルコ・アンタルヤの12ヶ月*** 地中海は今日も青し

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(1)ムワタリ王のレリーフ


【1】ムワタリ王のレリーフ(スィルケリ)
ムワタリ王のレリーフ

    アダナ(Adana)を出発し、国道400号の東25km地点ヤカプナール(Yakapinar)で右に折れ、
    ジェイハン(Ceyhan)に繋がる旧道に入る。
   スィルケリ(Sirkeli)という村に入る手前、踏み切りの近くのけものみちを左に入る。
    ユランカレ(Yilankale)を遠望する岩盤の根元、ジェイハン河の畔にそのレリーフは掘られている。

―ムワタリ王(Muwattalli , BC1315-1282)はカデシュの闘い(BC1285)においてラムセス2世を打ち破り、
ヒッタイト帝国をエジプトに比肩する強力な帝国にのしあげた。
彼は、首都をハットゥッシャからダッタッシャ(Dattassa)と呼ばれる新しい都に移したことが知られている。
いまだ発見されていないこの都が、この地にあった可能性もある。
                                (BLUE GUIDE TURKEY 第3版、P520より)


―カシュカ族によってハットゥシャが痛手を受けたことで、またエジプトの脅威が高まったことで、
ムワタリ(Muvatalli)の治世(BC1208-1285)に、首都はハットゥシャからより南に位置する、
おそらく現在のカラマン(Karaman)にほど近い地に移転された。 
このために、ムワタリの時代に関して手に入る情報はかなり少ない。
ほとんどの記録がいまだ発見されていない。
                                  (HITITLER ve Hitit Caginda Anadolu 、P52より)

―エジプトの脅威に対し、ムワタリは首都をカラマン-スィリフケ(Silifke)道上にある
タルフンタッシャ(Tarhuntassa)に移転することにした。
    (HITITLER ve Hitit Caginda Anadolu 、P60より) 

―地下水源としての泉は特に重要であった。一般に、単純な“聖泉”以前のものは遺っていないが、
エフラトゥン・プナール(Eflatunpinar)のように湧いては流れいく泉のありかを知らせる岩のモニュメントは、
普通の野外神殿の発達した形でありえた。
スィルケリにおけるムワタリのモニュメントのような-中略-その他の岩のモニュメントは、
流れの上に位置づけられたことが明白である。                      
                                (HITITLER ve Hitit Caginda Anadolu 、P125より) 


* * * * * * * * *


ジェイハンを経由して、スィルケリ村に入った。
ガイドブックには、スィルケリ村の近くのジェイハン河畔とだけ書かれていた。
スィルケリ村をゆっくりと通り過ぎながら、途中村人に「ヒッタイト時代のレリーフ」の在り処を尋ねた。
村を抜けたところで、踏み切り小屋を見つけ、監視員にもう一度訊く。
目の前の草原を走るわだちの跡を辿っていくと、ユランカレ(蛇の城)と呼ばれる、13世紀アルメニア王によって建設されたとされる城塞を遠望する岩山の上に出た。

ユランカレの遠景
ユランカレ遠望


岩山を下り、細いけもの道に沿って岩山の側面に回りこんでみた。
河畔に茂る葦や木々の隙間から、かすかにそれらしきものが見えた。
「あ、あれだ」
駆け寄って下から見上げる。
私たちの頭上2~3mの岩壁に、3000年以上昔のヒッタイトの王の姿が確かに刻まれていた。
川面を渡ってくる風は優しく、9月の太陽が鈍色の岩肌を明るく照らしていた。





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