2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全6件 (6件中 1-6件目)
1

スプレーで赤い丸印を残し、ベレディエ(区)のエキップ(チーム)が去った翌々日の朝、壁にもたれて庭の様子を眺めていた私は、ふとすぐ横に見慣れない鉄製の箱が突然出現しているのに気付き、思わず身を引いてしまった。ゲゲッ!いったいいつの間に、こんな箱が!エルカンに訊けば、朝一番に同じベレディエのエキップが来て、据え付けていったという。例の、車止め用の水圧モーター格納ボックスなのだった。なんと。この車止めは、普段は車の進入を完全にブロックするために上がったままで、いざというとき、つまり火事などの緊急事態の場合のみ、リモート操作によって車止めが下げられ道が開けられる、そういうメカニズムになっているのだそうだ。な~にそれ?ちょっと大袈裟じゃないの~!?それに、個人の緊急事態や必要の際にも、開けられないわけ?パネルの鍵は?我が家で管理することはできないの?その答えは、分かっちゃいるけど「ノー」だという。消防署のメルケズィ・システム(中央管理システム)と連動するんだとか。ううーーん。。。車の進入禁止は歓迎だけど、上げ下げの権限は私たちにはないのね。。。なんだか、良くなるんだか、悪くなるんだか。。。今まで、必要によって業者の車やトラクターを自由に進入させていた私たちだが、車止めの設置が完了したら、乗り入れさせるのは難しくなる。砂利や砂を用いる工事はほとんど終了したから良いのだが、今後大型の家具や電気製品の搬入はちょっと不便になるかな・・・。とはいえ、カレイチ内のソカック(小路)のどこもかしこもが、近々車止めによって完全に車両通行禁止にされてしまうのである。歩行者専用道となったソカックに面してレンタカー屋、ホテル、レストラン、バッカル(よろずや)などを営業する方々は、さぞや困惑していることであろう。特にレンタカー屋は、廃業か移転を余儀なくされることになる。それに比べると、私たちは随分恵まれている方である。ふたつある門のうち、正門が面する道幅の広いソカックの方は、車両通行が可能なのだから。それにしても・・・。我が家の石壁の前には、昔から配電ボックスが鎮座していたのだが、その右へ、後に味も素っ気もない街灯の柱が付け加えられ、今度はその左隣に、配電ボックスを小型化したような、これまた味も素っ気もない箱が追加されてしまった。TEDAS(トルコ電気配給株式会社)にしても、ベレディエにしても、いつもながらカレイチの歴史や外観を無視した仕事ばかりしてくれるわい。カレイチのあちらこちらの角で醜態をさらす配電ボックスだけでも厄介者なのに、弟分まで横に引き連れちまって・・・。見苦しい姿、スミマセンm(_ _)m後で化粧(塗装)してもらうか、晴れ着(木製の箱)を着せてもらいます。無骨な鉄製の箱を見ているうち、私はなんだか嫌~な予感がしてきた。最初、“ババ”(柱頭状のもの)って聞いたとき、黒い鋳物製か何かで、装飾的なものを想像してしまったから、バランスを考えて2本も要求してしまったけれど、もしかして、ババも巨大で無骨なものだったら・・・・?そうそう、忘れないうちにエルカンに言っておかなくちゃ。もし、大きすぎるようだったら、一つにしてもらわないと。ところが、言おう言おうと思いながら、バタバタしているうちにチャンスを逃してしまい、ベレディエのエキップは、2日を置かない迅速さで再び私たちの元に戻ってきた。しかも、私と夫が現場に戻ると、すでに仕事は始まっており、一つ目の穴は堀り終わり、二つ目の穴に取りかかっているところだった。穴の横で埋められるのを待っているババは、直径が40cm近いスチール製のシリンダーで、直径25cm、高さ50cmほどの内シリンダーが内蔵されているらしい。うーーーん。。。まいったなあ。まさか、こんな大きさでピカピカのスチール製だとは。もう掘り始めちゃったし、こちらが言い出したことだから、さすがに撤回できないけど。そして、埋め込みの完了した車止めがこちら。車止めの完全に上げられた姿にお目にかかれるのは、もう数日先のことだろう。ピカピカ光って、目立つでしょ?****ところで例のセルセリ(ゴロツキ)だが、さすがにベレディエの仕事が始まっては、ゴタクを並べることも出来ないのか、しばらく無言を通していると思ったら、ちっとも諦めてなんかいなかった。車止めのすぐ脇で座っていた私の横を通りかかった奴に、何事もないかのように明るく挨拶すると、奴の方もつい足を留めた。私は車止めを目で指し示し、からかうような調子で奴に話しかけた。「見て御覧なさい。ベレディエはここは道だって言ってるわよ」奴は、とんでもないという風な顔をし、慌てて言い返す。「いやあ、ここには持ち主がいるんだよ!昨日もここに来て、ご主人に会うために待ってたんだけど、居なかったから諦めて帰ったのさ」「ふーーん。昨日は夫も私も1日ここに居たけれど?」「いやあ、居なかったよ。30分ほど待ってたけれどね」「買出しには行ったけれど、1日中ここだったのよ。会いたければ会えたんじゃない?」「ともかく、ベレディエはここは道だって、はっきり言ってたわよ。だから、あなたたちは何もできないの」「何言ってるんだい。こちとら、もしその気になったら、こんなもの(車止めのこと)抜いて、ブロックでこうして(実際にブロックを2~3個積んでみせる)壁を作って道を塞ぐことだってできるんだぜ」「そしたら、すぐにベレディエがやってきて、取り壊すでしょうに」そんな会話をしているうち、夫が子供たちを連れて現場に到着した。奴は夫を捕まえて、随分長いこと言いたいことを言ってたらしい。勝ち目もないのに、懲りない奴。ここまでくると、コミック(滑稽)なんだけどな~。3日後。周囲をセメントで固められた。これで、簡単には引っこ抜けないでしょ?
2006/02/26
ことの始まりはもう2週間以上前になる。ひとりの男が現場に顔を出した。この男、建築中の建物の脇に伸びているソカック(小路)で営業している絨毯屋に、日頃から出入りしているセルセリ(チンピラ、ゴロツキ)のひとり。今まで何の関わりあいもなかったのに、突然近づいてきた理由はこうだ。「このソカックには持ち主がいて、土地を買ってほしいと言っているから、ご主人が戻ったら知らせてくれ、紹介したい」寝耳に水とはこのこと。いや、本当を言えば、まったく初耳と言うわけではない。長さ50mほどのソカックのごく一部、絨毯屋の面している箇所だけは、持ち主がいるというような話は以前から聞いていた。が、この男がいうには、ソカックの端から端まですべて、その持ち主の土地なのだと。私たちは、もちろんのことながら、話半分に聞いていた。このソカックには、ベレディエ(区)の方から与えられた名前までついている。もし、このソカックが私有地なら、私たちがソカックに面して建設したような張り出し窓や門が許されるわけがないのだが、建築計画はベレディエによって問題なく承認されている。もし、本当に持ち主がいるとしても、幅5mに満たない細長い土地で、いったい何ができようか。建物など、当然のことながら、建てられるわけがないのだ。が、それからというもの、この男。1日1回は必ず顔を出すようになった。私たちはこの男に、「まずタプ(不動産権利証書)のコピーを持って来なさい。話はそれから」と言って、当たり障りのないよう応対してきた。男も最初こそは「タマム(オーケー)。タプも持って来よう、本人も連れてこよう」と明快だった。が、男は毎日、手ぶらで顔を出し、そのたびに、「買うか買わないか」単刀直入にそんな話ばかりするようになった。男が焦っているのは、手に取るように分かった。おそらく土地の持ち主との話し合いで、うまく売ることに成功したら、売値の何%とか何とか手に入ることになっているに違いない。が、いまだ「持ち主」という人物の影さえ見えない状態では、何一つ信用できなかった。「まずはタプを見せなさい」私たちもそう繰り返した。男が手にコピーを持って現れたのは、それから10日も経ってからである。が、タプではなかった。1枚はクロキー(土地の見取り図)で、もう1枚は文化観光省、文化財保護委員会の名で発令された書類で、そこには「何の目的にも使用することを禁ずる」と書かれてあった。追跡調査のため、念のためコピーを取らせてもらったものの、男には残念ながら、証拠不十分すぎ。何しろタプそのものがない。現在の持ち主の名、使用目的などが一切記載されていない書類ばかり。いずれも10年以上前に発行された古い書類で、持ち主が替わった際、たまたま旧い持ち主の手元に残ったものとみなす事も簡単。私たちは、手に入れたパーセル・ヌマラス(区画ナンバー)をもとに、念のためイシ・ターキプチ(業務代行・追跡業者、行政書士のようなもの)にくだんのソカックの現在の持ち主を追跡調査させることに決めた。男は、毎日顔を出すたびに、しつこさの度合いを増していった。つい先日来たときには、脅迫まがいの言葉を繰り出すようになっていた。「持ち主のいる土地に面して、門や張り出し窓なんか作るのは違法じゃあないか」「買わないなら、違法建築として訴える」云々。れっきとした建設許可証だって、私たちにはあるのだが。いくら説明してみたって、こういう輩にはなかなか通じないのだ。実は、男には小さい野心があった。私たちとうまく話をつけた暁には、現在の絨毯屋の前の一角を譲り受けて、そこでカフェでもやりたいのだという。自分の野心を夫に打ち明けるなんて、とんだ頭の悪い悪党だが、そこで臭うのが、裏で手を引いているだろう絨毯屋の存在である。絨毯屋に内緒で、目の前でカフェなんてできるわけがない。少なくともキッチンを置く小さなスペースが必要なのだ。さては。。。私たちには、いずれ私有地となっているらしい土地の持ち主と話し合い、そこを買うなり借りるなりしてソカックを、誰にも気兼ねなく自由に通り抜け出来る完全なソカックのままにしておきたかった。ハドリアヌス門からケスィッキ・ミナーレを目標にまっすぐ南下してきたお客様には、ミナーレの角で左に折れればすぐに我が家を見つけてもらえることになっている。が、ミナーレの角から始まるソカックの行く手を阻むのが、この絨毯屋なのである。普段でもソカック一杯に椅子を置いて、サロンのように使ったり、車を乗り入れしたり、ピットブルという種類の獰猛な犬を飼っていたりする絨毯屋の前を通るのは、初めてカレイチを訪れた観光客には多少の勇気が必要だろう。さらに、この絨毯屋と、ここに出入りするセルセリたちに関しては、前々から良からぬ噂まで伝わっていた。私たちの事業が無事スタートした後、考えられる最大の障害は、この絨毯屋以外にはなかった。絨毯屋がこの男に話を吹き込んで、巧妙なユスリに乗り出したと考えると、合点がいかないだろうか。工事の完了もまもなくと見た絨毯屋が、オープン前に事を荒立てないよう、私たちがビビって金を払うと見くびったのかもしれない。この一件。いったいこの先、どう解決していけるのだろうか。戦略が必要なことは確実。が、私たちに不安はなかった。買おうにも、余分な資金は残っていない。訴えるならいくらでも訴えろ。最後には、きっと私たちの思い通りになる。不思議にも、そんな確信に満ちていた。****そして・・・。20℃近くまで気温が上昇し、まるで春のような陽気に恵まれた今日。神様は私たちにも春の種を落としてくれた。朝一番にイシ・ターキプチに連絡を取ると、このソカックはすでにベレディエのものになっていると報告してくれた。そして現場に着いた私たちの目に入ったのは、くだんのソカックの前に停められた、公用車を表す黒塗りのナンバープレートをつけたベレディエの車だった。ようやく、カレイチのソカックの整備が始まるらしく、車乗り入れ禁止のための鉄製のポールを埋め込む位置を、スプレーでマーキングしているところだった。ここがベレディエによってソカックとして扱われていることは、訊くまでもなく歴然の事実であった。そして、正式にヤヤ・ヨル(歩行者用道路)として生まれ変わることも、じきに周知の事実となるであろう。規則では3.5m当たり1本のところを、私たちの依頼を飲んで2本埋め込んでくれることも決まった。ベレディエの車が立ち去った後、私はソカックの入り口に残されたふたつの赤い丸印を見下ろしながら、いよいよ私たちの描いていた夢の実現がすぐそこまで近づいているような、不思議な高揚感に満たされていたのだった。
2006/02/22
![]()
日本から来客があった。夫が20数年来お世話になっている、民芸品輸入卸販売会社のオーナー夫妻である。忙しい業務の合間を縫い、全行程たった5日間の旅行日程のうち2日を、わざわざアンタルヤ滞在に割いてくださったのだが、それというのも、私たちが建築中の家を見ていただきたい、泊まっていただきたいと、超せっかち・見積もり能力ゼロの夫が早々にご夫妻を招待してしまったため。工事用の電気・水道はもちろん引いてあるが、発電機や水道水の精製装置を設置する関係で、現在、部屋に繋がる水道管・電気ケーブルは切断状態なのである。おまけに、室内に家具・ランプ類すらいまだ揃っていない。洗面台も作製中。こんな部屋に、いったいどうやって泊まっていただこうというのか?私が「絶対にムリ、間に合わない」と言っても、まるきり聞く耳を持たない夫。あらゆる物事を単純に計算するタイプの夫は、「1室だけでいいから、20日間で泊まれるように準備して」と、達成不可能な目標を設定してきたが、結局のところ私の見積もり通りに終わった。ご夫妻には、1泊目は現場近くのプチホテルにお泊りいただき、2泊目は我が家に泊まっていただくこととなったのである。今週に入り、再び天候の崩れたトルコ。ご夫妻の到着された火曜日もイスタンブールは雪、アンタルヤは夜から雷雨。ご夫妻のアンタルヤ入りされる翌水曜日も、朝から嵐のような強風と大雨。その後も冷たい雨が降ったり止んだりの一日となり、せっかくのアンタルヤ訪問が踏んだり蹴ったりとなってしまった。ご夫妻には、まずホテルに荷物を置いていただき、すぐ近くに位置する建築中の建物をご案内。その後、アンタルヤ(考古学)博物館へと足を伸ばす。この悪天候では、観ていただく箇所も必然的に限られてくるのである。夫が「日本の父」のように慕うS氏にとっては、なんと35年ぶりのアンタルヤ&博物館訪問。トルコ政府給費留学生として、アンカラとイスタンブールで留学生活を送られた1970年、アンカラからバスでアンタルヤ入りし、いまだ遮るものひとつない見晴らしのいい断崖の上にポツリと建っていた博物館を見学したことを覚えてらっしゃった。考古学博物館見学の後、私は自宅へ戻り、ご夫妻は夫とともにカレイチへ戻り、(スナ&イナン・クラチ)カレイチ博物館へ向かわれた。残念ながら休館で、翌日の朝一番に回すことになり、その後ヨットマリーナ沿いのレストランに遅い昼食をとりに出かけたという。来客があるときの私の最大の心配は、例によって掃除・片付けに買いもの、そして食事作りである。ご夫妻は短いトルコ滞在であるし、和食は必要なし。トルコ料理、それも外のレストランではあまり食べられない家庭の野菜料理にしようとメニューはそうそうに決まった。では、ご夫妻には、昼食で1日はケバブ、もう1日は魚料理にしてね!と夫と話し合ったつもりだったのだが。。。。ヨットマリーナのレストランでは、レヴレッキ(鱸)を食べたという。だから、「今日の昼はケバブ屋さんにご案内してね」と念を押して夫を送り出し、私は朝から掃除とパザールでの買い物、ミグロスでの買い物と忙しく過ごす。バスタブにお湯を張って入浴されるだろうご夫妻のために、苦手でついつい手抜きしがちなバスタブとトイレは特に念入りに、石灰分を溶かす洗剤を使って洗い清める。寒さで甘みを増した冬野菜を使おうと、パザールでは新鮮なカリフラワー、人参、プラサ(リーク)を購入。掃除の傍ら、プラサと人参を刻み、少量のお米と一緒に、私とエミの好きなゼイティンヤール・プラサ(リークのオリーブオイル煮)を作る。ほうれん草1キロ分の泥を何度も何度も水を替えながら洗い流し、細かく刻んで先によく炒めたみじん切りの玉ねぎ、ニンニク、少量のサルチャ(トマトのペースト)と一緒に煮ておく。これは後ほど耐熱性の皿に移し、卵を落としてレンジで火を通し、ユムルタル・ウスパナック(卵入りほうれん草)にするのである。アナ・イェメッキ(メイン)は、カリフラワー、人参、マッシュルーム、グリーンピースなど野菜をふんだんに加えたキョフテ(ミートボール)の煮物。ノフット(ヒヨコ豆)入りのピラフと、前回、ユルマズの奥さんから分けてもらった、自家製タルハナ(小麦粉やヨーグルト、トマト、たまねぎ、唐辛子などから作る、乾燥スープの素)を用いたタルハナ・チョルバス、ミックスサラダも用意した。前日の雨が止み、青空が顔を出した一日となった今日は、カレイチ博物館のあと、アスペンドス、ペルゲの両古代遺跡に出かけ、夕方前、建築中の家のテラスで、S氏の好きなフォルクローレの演奏をお聞かせしたはず。すべての予定を終え、ご夫妻は夕方7時前に到着。昼食をどこにお連れし、何を食べたかは、夫も言わなかったし、私もついつい聞きそびれてしまった。いざ、ご夫妻に席についていただき、夕食のテーブルを囲んだのだが、ご夫妻の箸は(いやフォークか?)心なしかあまり進まないようだ。「年を取ってすっかり小食になってしまったから、全部この半分でよかったのに」とおっしゃるのだが、なんだか、出された料理を見ても新鮮味を感じていらっしゃらないかのように見えた。まさかね。。。もしや?夫に「今日、お昼はどこで食べたの?」と聞いてみる。「ゼイラ・アブラ(ゼイラ姉さん)のとこ」と言うではないか!ゼイラ・アブラとは、アンタルヤ在の友人チエさんに連れて行ってもらって以来、現場から近いこともあってほとんど毎日通っている家庭料理のロカンタで、いわば私たちの社員食堂である。毎日10種類くらいの日替わり料理が用意されるが、その多くに、私の使ったのと同じような野菜が使われている。あれほど、「夜はエヴ・イェメイ(家庭料理)だから、昼はケバブにして」と念を押したのに、夫はド忘れしてしまったのか、はたまた女心と人間心理をまるきり無視しようと決め込んだか、よりによってゼイラ・アブラのところにお連れしたとは。うううーーーっ!頭にくるーーーっ。半日かけて野菜を洗ったり刻んだり、ゆっくり煮込んだりした私の努力がぁーーーっ。夫はしゃあしゃあとした顔で、「まあ、いいじゃない。これも結構美味しいよ」という。S氏の奥様H夫人も「好きだから大丈夫よ~」なんてフォローしてくださるが、却って慰められているようで、すっかり気落ちしてしまった。6人分と思ってたっぷりと用意した料理のすべてが、実際たった半分しか減らなかった(涙)。明日の食事はこの残り物だけで済みそう。いや、ご夫妻と一緒に夫もイスタンブールに飛ぶので、娘たちと3人だけでは、それでもきっとまだ残る。そうしたら、残りは残飯となって、ゴミ箱行き・・・?ああ、哀れトルコ料理よ!まずかったのは、料理の腕か、はたまた夫の計画無視か。いずれにせよ、もう当分トルコ料理なんか作るもんかーーっ!****後日談。サラダはさすがに味落ちして持たなかったが、大量すぎたキョフテの煮物以外すべての料理を、それから3日間かけてきれいに片付けた。工事の関係で自宅に戻るのが2日続けて夜7時を回り、この時の残り物が大活躍したのである。味の方も、2日目まではまったく問題なし。油が多めに使われるので日持ちがいいし、作り置きのきくトルコ家庭料理も、こんな時は意外と重宝するもんだねえ~。というわけで、早々に前言撤回。キョフテの煮物も食べ切れずに結局ゴミ箱行きとなったばかりなのに、またすぐカプスカ(キャベツの煮物)なんか作ってしまった私。また残ってしまうとも知らずに・・・・。****ちなみにS氏は、私の大学(の前身にあたる)の大先輩でもある。フォークロア(民俗学)から始まったS氏の探究心は、やがて世界の民芸品というジャンルでの成功によって実を結んだ。(自分の好きな世界を追及しながら、同時に飯を食べていけるって、私の憧れでもある)今までに著作も3作出してらっしゃるので、ここでご紹介してみたい。なお、「世界のお守り」をテーマに、第4作の取材旅行の予定もあるそうだ。『フォークロア世界への旅』 『世界民芸曼陀羅』 >S氏ご夫妻(このブログはご存じないとは思いますが・・・)たった2泊2日のために、いろいろとお土産を用意してくださり、ありがとうございました!次回こそはフライングなし。正式なオープニングの際は、必ずやご招待させてください!
2006/02/09
【neyse】 ne+ise1 olan oldu artik もう、なるようになってしまった。もう終わっちまったことさ。 onemi yok 大したことじゃあないさ。気にするな。2 konuyu kapatalim この話題はお仕舞いにしようよ。 her ne ise いずれにせよ。とにかく。何がどうあれ。 uzatmayalim 話を引き伸ばさないでおこう。これ以上、言わないでおこう。 3 Tanri'ya cok sukur. 神に感謝。(以上、ARKADAS TURKCE SOZLUK 第4版より引用)****ふうーーーっ。またも言い争い。今度はトルコ語の使い方について。通称「アラ探しのA」とも言われる、血液型A型の夫。私のトルコ語の使い方に関して、今日もまた、「いいかい、あなたに教えてあげよう」「あなたのその言葉遣いだけは、今後絶対に注意して」そう前置きした上で、くどくどとケチをつけ始めた。始まりは昨日。現場で業者の人間と携帯で話を済ませた後、それを離れていたところで聞いていた夫。「あなたのトルコ語のいけないところを教えてあげよう」ときたもんだ。自分の日本語のミスを頑として直そうとはしないくせに、人のトルコ語のミスばかり妙に気になるらしく、嫌がる私に強引に話を聞かせようとする困った夫。夫。「あなたは日本人だから分からないかもしれないけれど」「トルコ人に“ネイセ”って言ったら、ダメなんだよ」そんな馬鹿げたことを言う。私。「どうしてダメなのよ。皆使ってるじゃない」「それに、“ネイセ”に深い意味はないでしょ?“とにかく”とか、そんな意味で使ってるんだけど?」「そういうあなただって、さっきズベイダ(義妹)に電話した時、3回も“ネイセ”を使ってたわよ」半ば私の口ぐせと化しているのは確かだが、普段の会話でも頻繁に使われている“ネイセ”に、どうして夫がそこまでこだわるのか、そこのところがよく理解できなかった。夫。「あなたは日本人だから、トルコ人が“ネイセ”って聞いたときにどう感じるか、分からないんだよ」そんなことを言う。夫よ。あなたは、いったいいつから言語心理学者になったんだ?私。「なによ、それ?」「話の間とか最後に、“とにかく”って感じで使ってるのよ。それがどうしてダメなの?」「例えば、話があっちこっちに広がった後で、最後にまとめようとする時なんかに、皆んな“ネイセ”って使ってるじゃない?どうしてダメって言うのよ!?」私は早くもけんか腰。たかが“ネイセ”の用法が、そんなに重要なことなんだろうか?夫。「ダメなんだよ!」「“ネイセ”って言われたら、トルコ人は、今までいろいろ言われたこと全部、どうでもいいや~って投げ出してしまうんだよ」夫は、自信ありあり。私は、まるきり承服できない。そんな話、聞いたことない。私。「でも、例えばウスタ(職人)たちに、あそこが問題、ここにも問題があって、いろいろ電話で説明した後に、“ネイセ”電話じゃなくて会って話しましょう、って時にも使えないの?」夫はすかさず追及する。「それを、トルコ語で言ってみなさいよ。どんな風に使ってるの?」私。「だから、ネイセ・ヤ~ルン・ギョルシェリム(とにかく、明日会いましょう)とか」夫。「それが、間違ってるんだよ!」私。「どこが、どう間違ってるのよ!?」夫。「“ネイセ”って言われたら、ああ、来ても来なくてもいいや~って思うんだよ」「特に、職人なんかは、しつこく何日の何時に来るのか聞かなかったら、絶対来ないんだから」「オザマン(それでは)、ヤ~ルン・サアト・カチタ・ギョルシェリム(明日の何時に会いましょうか)とか、そうキッチリ言わないとダメなんだよ」私は、ぐうっと押し黙って考えた。夫の言うことは、それなりに正しい。しかし・・・「とにかく、明日来た時点で、直接話しましょう」そんな意味で使っちゃ、どうしていけないんだろう?大体、“ネイセ”に、“ボシュ・ヴェル(ほっとけ、気にするな)”的な意味合いが本当にあるんだろうか?私。「そんなに言うんなら、辞書で調べてみるわよ!“ネイセ”が本当にそんな意味なのか!」夫。「辞書なんか必要ないんだよ!そうなんだから!」私は、我が家で一番大きいトルコ語辞書―「トルコ版、広辞苑」と私は呼んでいる―を開き、【neyse】の項を探し出した。上記の解説が、それである。私は、自信半分、不安半分。小さく声に出しながら、順番に読み上げていく。「ビル(1)。オラン・オルドゥ・アルトゥック。。。オネミ・ヨク」(ええ?オネミ・ヨク(重要じゃない)だって。やっぱり、そんな意味があるの~?)(でも待って。まだ続きがある)「イキ(2)。コヌユ・カパタルム。。。ヘル・ネイセ。。。ウザットゥマヤルム」「ほらね!私はこの2の意味で使ってるんだから!間違ってなんかないわよ!」夫が言わんとしていたのは、間違いなく1の意味合いだろう。しかし、それだって、絶対文脈による。私は「やっぱり!」「ほら見なさい!」と言わんばかりに、自分の正当性をここぞと訴えた。夫は、私の主張がまるきり聞こえなかったかのように、最後通牒を言い渡した。「これだけは覚えといて。日本式の中途半端な話し方はトルコじゃあ通用しないんだから」「これからはウスタたちと話すとき、絶対に“ネイセ”なんて使わないで」そういって、この論争を打ち切った。ところが、その後すぐ、ベッド業者からかかってきた電話で、夫が“ネイセ”と言うのをしっかり聞いてしまった。私は夫の顔色を盗み見る。夫はきっと気付いたはずだが、知らん顔。ほらね。“ネイセ”なしに会話するって、結構難しいでしょう?ネイセ、この話はここでお仕舞い。こんな夫と私のばかばかしい“ネイセ”論争に、最後まで付き合ってくださったトルコ語使いの皆様。どう思われましたか?私の“ネイセ”の用法。決して間違ってませんよね?ね??
2006/02/06
夫と共にラヴァボ(洗面用シンク)の件でセラミック屋に行って戻ると、現場の前にエルカンと立ち話している見慣れぬ一組のカップルの姿があった。カップルが誰かは、すぐに分かった。数日前、わざわざ現場まで訪ねてくださったのに、私が一足先に自宅に戻っていたため行き違いになってお会いできなかった、アツコさんご夫婦である。アツコさんは、インターネットを通じて1年以上前に知り合った、当時は確かまだジャポン・ゲリン・アダユ(日本人花嫁候補)であった女性。ダーマット・アダユ(花婿候補)であった現在のご主人がアンタルヤ在住という縁で、婚姻手続きなどについていくつか質問を受け、その後アンタルヤにいらした際は、電話でだがお話をする機会に恵まれた。私が覚えていたのは、いろいろと手続きが終わらず、いったん日本に帰る、というようなお話だったのだが、その後日本で婚姻届を出され、晴れてご夫婦となられたらしい。アツコさんは当時の電話の印象そのままに、日本女性としても今時まれに見る大人しく静かな女性。少年のように元気溌剌としたご主人バランさんとは、好対照のいいカップルである。アンタルヤでご一緒にお住まいかと訊ねると、アツコさんは日本在住で、バランさんはアンタルヤ在住の遠距離婚だという。1ヶ月の休暇をとって、アツコさんがご主人の元へ会いにこられたのだ。アツコさんは日本で国家資格の専門職に就いてらっしゃるのだが、トルコに来たとしても同じ職に就ける見込みは極めて薄い。こちらの大学や専門学校などに入り直しトルコ国籍を取るなど、相当の労力と時間を要すると思われる。ではバランさんが日本に行って仕事を見つけるという可能性はどうか。バランさん自身は、友人経由で仕事の口もいったんは見つけたということだが、このプランにはアツコさんの方が乗り気でない。トルコ人特有の楽観主義、調子に乗りやすい性向を懸念してとのこと。「ずっとこのままでもいいかなあ~と思ってます」淡々と、そうおっしゃるアツコさんだが、私の方はというと、ああしたら、こうしたらとついつい老婆心を掻き立てられてしまった。私たち夫婦のケースのように、一緒に長く居すぎるより、短期間で行ったり来たりの関係の方が、かえって上手くいく場合もあるだろう。(最近、夫の帰宅があまりに頻繁なので、単身赴任というより、まるで「通い婚」のようではあるが)といっても、やっぱり夫婦なのだから、どこか一箇所に落ち着き、一度は長期間一緒に暮らしてみることも必要だと思う。若いうちは、仕事や経済的自立、交友関係の自由が貴重なものに思えるだろうが、年を取るにつれ、自分の帰るべきユヴァ(家庭)の存在が、どんなときも傍で支えてくれる家族の存在が、より貴重なものになっていくだろう。年老いてから初めて完全同居に踏み切るのは、とっても難しそうではあるし。トルコ人男性&日本人女性カップルで、アツコさん&バランさん夫妻のように、さまざまな事情から遠距離結婚を余儀なくされている、もしくは敢えて選択しているカップルが増えているような気がする。新しい結婚のスタイルというべきか。私のブログに時々コメントを残してくださるひなさんご夫妻も、遠距離結婚カップルであると伺っている。(←引き合いに出して、ゴメンナサイ>ひなさん)また、以前アンタルヤ市内で知り合ったトルコ男性も、日本女性と結婚し数年は日本で暮らしていたのだが、日本に疲れて実家のあるアンタルヤに単身帰ってきたのだと話していた。奥様の方は、トルコには絶対住みたくないのだそうだ。夫婦のスタイルも結婚のスタイルも、人それぞれ。重要なのは、夫婦間の信頼と結びつきなのかも知れない。ちなみに私たち夫婦はというと、私に言わせれば「亭主元気で留守がいい」「子はかすがい」という言葉で表現できる、ごくごく古典的でありふれた夫婦である。もっとも、大袈裟な表現の得意な夫に言わせれば、随分と違った夫婦像が浮かび上がってくるに違いないが・・・。****>アツコさま了承なしに、ご夫妻のことを紹介してしまいました。個人が特定できるものではないと思いますが、この場を借りて、お礼とお詫びを申し上げます。m(_ _)m
2006/02/03
朝一番に電話が鳴った。まだ8時過ぎ。いったい朝っぱらから誰だろう?日本にいる夫からだろうかと受話器をとると、「ギュナイドゥン!ナスルスヌス?(おはよう。(みんな)調子は、どう?)」と思いがけないトルコ語が聞こえてきた。夫のようでもあり、夫でないようでもあり。くぐもった声だし、夫にしては妙に不自然な会話。誰だろう?夫なんだろうか?「イ~イズ(良いわよ)」と答えたすぐ後で、なおも訝りながら「モシモシ?ババ(パパ=私は夫をこう呼んでいる)なの?」と訊いてみた。今度は「おはよう~」と、眠たそうな、疲れたような夫の声。日本は今頃午後3時過ぎのはず。どうしたんだろう?病気で寝てるんだろうか?心配して「調子が悪いの?そんな声して」と訊ねる。夫は「今起きたところなんだよ。疲れたからさ~」とあくび交じりに答える。まだピンときていない私は、「今起きたって。。。こんな時間まで寝てるなんて、病気か何か?」とマジに訊く。「昨日夜遅く着いたから、電話できなかったんだよ。今イスタンブール」夫の言葉に、さすがの私もビックリ。「ええっ~!?全然言ってなかったじゃない。10日ほど居るって言ってなかった~?」そう。夫は日曜の便で日本に発ったばかり。まさか、たった2日の滞在でトンボ帰りしてくるとは。「そうなんだけど、旅行会社がもう発券しちゃったっていうからさ。キャンセルチャージ、50%も取るって言うから、仕事を大急ぎで片付けて来ることにしたんだよ」「今日の午後の便で帰るから。じゃあね」そう言って、電話は切れた。私は、帰って来てくれて嬉しいとか何とかより、事前連絡なしの不意打ちに呆然&憮然。夫の日本―トルコ間の往復がここまで頻繁になると、予定を早めて突然帰って来たからって、そうそう喜べないのが自分ながら情けない。・・・買って来て欲しいものが一杯あったのにぃ、頼む暇が全然なかったじゃない・・・・・・今日は現場から早く帰って、掃除でもしなくっちゃ・・・頭に浮かぶのはそんなことばかり。まったく我ながら悪妻だなあと思う。****空港までエルカンに向かいに来てもらい、エルカンを弟宅で降ろした後、夫は夜8時頃に自宅に到着した。サロンに置きっぱなしのエルカンの荷物を見た夫は開口一番、「なによ?エルカン、まさかここで泊まってるの?」と訊く。私は首をブルンブルン横に振りながら、「まさか!泊まるわけないでしょう!」と否定した。エルカンを泊めることを一番嫌がっているのが私なのに、そんなことをするわけがないではないか。夫が言うには、エルカンはさも我が家に泊めて欲しそうだったという。弟宅で降ろす時、「ユルマズ(弟)の帰りが遅くてイェンゲ(弟の奥さん)しかいないから、早く帰れないんだ」と、弟宅に帰りたくないことを遠まわしに訴えたという。イェンゲしかいないといっても、エルカンには姪にあたるふたりの子供もいるのだ。普段、ふたりの娘と女3人の我が家の方がまだ気楽だというのだろうか?弟と叔母の家より、義兄の家の方が遠慮がないとでも?まったく、エルカンの考えはよく分からない。自分の家族すら泊めることを喜ばないのに、エルカンの行状を最も怪しんでいる夫が、そうそう簡単に彼を家へ連れてくるわけがなかった。彼の荷物は、そのまま置いておけばいいという。私は夫が帰ってきたことで、ようやく人心地ついた気分になった。****お土産を頼む時間はなかったが、頼まれずとも目に付いたものから片っ端に買い物する悪癖のある夫は、今回もいろいろと買い込んで来ていた。今回の特筆は、鰻と栗羊羹だろうか。丼にするほどの量はなかったが、せっかくの珍しい鰻、小さめに切り分け、炊き立てのあきたこまちに乗っけて、有り難く家族4人で分け合った。栗羊羹は、「あなたに」と言って1本まるごと渡してくれたのだが、ついつい手を伸ばしているうち、2日もしないでペロリと食べ終えてしまった。子供たちのリクエスト、あんまん、肉まんは、まだ冷蔵庫で眠っている。小腹が空いたときのご馳走用にとっておこうと思う。なんだかんだ言っても、夫があれこれ見繕ったお土産は楽しみのひとつ。はずれもしょっちゅうだけれど、最近は的中率も少しずつ上がってきたしね。その証拠に、娘たちにとユニクロで買ってきたパステルカラーのソックスや傘に、娘たちは小躍りして喜んでいた。今度は同じユニクロで、娘たちのショーツもお願いね。もしも恥ずかしくなかったらだけど・・・。
2006/02/02
全6件 (6件中 1-6件目)
1