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サカリヤ通りは、左右にファーストフードの店がずらりと軒を並べる現代的な歩行者天国で、ガイドブックに書かれてあったような「屋台」の並ぶ古きよき雰囲気は、あまり残っていなかった。ところどころに残る香辛料の店や、チーズ、シャルクテリなどの店が、かろうじてかつての庶民的な商店街の趣を今に伝えている。しかし、魚屋は今でも健在だった。海のないアンカラにあって、もっとも新鮮な魚を手に入れることのできるのが、サカリヤ通りの魚屋なのだと書かれてあったが、はたして鮮度はどうなのか。店先を冷やかすことなく写真だけ撮って通り過ぎたので、真偽のほどは分からぬが、周辺一帯はバルック・エキメイ(魚の唐揚げを挟んだサンドイッチ)を食べさせる店がずらりと並んでいて、これがいわばサカリヤ通りの名物のひとつになっていることは確かだった。また、サカリヤ通りからセラーニック通りを南側に折れると、花屋が軒を並べている。ケバブ・スタンドや魚のサンドイッチ屋、花屋やチーズ屋の入り混じったサカリヤ通り一帯の市場的な雰囲気は、ウィーンの中心街に程近いナッシュマルクトを髣髴とさせた。実際、クズライ周辺の佇まいは、私にまるで中欧のどこかの都市にいるかのような錯覚をしばしば起こさせるのだった。さまざまな落葉樹の並木が緑陰を落とす、ゆったりとした歩道や歩行者天国。クズライは、絶好の散歩エリアといえた。ケバブや魚のフライという気分ではなかった私は、サカリヤ通りからセラーニック通りを抜けて、再びユクセル通りのカフェ街に戻り、適当な1軒のカフェに入った。サンドイッチとコーヒーという軽食で昼食を済ませた後、1軒のDVDショップに入り、アンタルヤでは見つけにくい映画のDVDをお土産に買う。その後、私はクズライ駅に戻り、メトロで1区間のスヒイェ駅で降りた。民俗学博物館に行きたくて、バス路線に不案内のためメトロを選んだ私だったが、地図で見るのと実際歩くのとは大違い。民俗学博物館の入り口が実際は大通りとは反対側にあったので、延々歩くことに。これならウルス駅から歩いた方がかえって近かったかも、と思わされた。民俗学博物館は、中央に大きなドームを抱く一見アラブ風の建物。ここは、1938年に永眠したアタテュルクの遺骸がアタテュルク廟に移される1953年まで、15年間も仮の墓所として役割を果たした場所でもある。アタテュルクの棺の安置されていた場所は、現在もアタチュルクを追悼するコーナーとして保存され、周囲の壁には、アタチュルクの葬送を嘆き悲しみながら見送る沿道の市民たちの様子などが克明に写された数々の写真が展示されている。内部には、アナトリアの伝統的民族衣装を身に着けた人形によって、クナゲジェスィ(結婚式の前夜、花嫁の手の平や指にヘンナを塗る行事)、ダーマト・トラシュ(結婚式前日、花婿の髭そりを行うこと)、スンネット・オダス(割礼の部屋)、コーヒーを入れ振舞う様子などが再現されている。それ以外に、刺繍、絨毯、ガラス・陶磁器、銅器、カリグラフィー、各地のモスクから運ばれた木製扉やミンベル(説教壇)なども展示されている。入場料2YTL。民俗学博物館の隣には、絵画彫刻美術館が建っているが、長期の改修・入れ替え工事のため常設展は閉鎖。特別展のみ行われていた。博物館の丘を降り、明日の朝食用にアンカラ・スィミットをお土産に買った後、ハスルジュラル通りで再びオヤック行きのドルムシュに乗る。4時頃に来てくださいと言われていたが、大使館に着いたのは3時半過ぎ。しかし、長く待つまでもなく、いつも対応してくださる女性職員の方が「お待たせしました!」といって、書類を持って出てきてくださった。手数料を払い、書類を無事受け取って大使館を出たのが午後4時。この分なら、5時半発のバスに乗れる!大使館の目の前から再びウルス行きのドルムシュに乗り、コレジで降りる。交差点を渡ると、すぐに地下鉄アンカライ線コレジ駅がある。そこからオトガルのあるA.S.T.I.駅までは10分ほどだろうか。併せて20分ほどで、あっという間にオトガルに着いてしまい感動した。市内とオトガルが地下鉄1本で繋がっているって、当たり前だが素晴らしい。アンタルヤにもメトロが走るようになってくれれば・・・・と痛切に思うのだった。アンカラ~アンタルヤ間のバスは、途中アフィヨンで休憩。アフィヨンでは夕食と、夫に頼まれたカイマク(クロテッドクリーム)をお土産に買う。アンタルヤへは、来た時同様、ほぼ時間ピッタリの午前1時32分に到着した。オトガルへは当初、夫が車で迎えに来るはずだったが、夕方になってから突然車が故障したので修理工場に持っていくと夫から詫びの連絡が入っていた。幸いセルビス(サービスバス)が出ているので、それに乗って午前2時には自宅に戻ることができた。しかし。。。。自宅のドアを開けて、ムッ。頼んでいたパザールでの買い物。リストを作っておいたので、ほぼ注文通りに買っておいてくれたのはいいが、全部外に出しっ放し。 (冷蔵庫にしまうということを知らないのか?)まだ半分以上入ってる牛乳のパックも、食べかけのイチゴもテーブルの上。コーヒーメーカーは点きっ放し。おまけに。。。雨が降りそうだったら、中に取り込んでね、と言っておいた洗濯物は、降り始めた雨ですっかり湿ってしまっていたし、餌を洗ってタッパーの中に用意し、よ~く娘たちに言い聞かせてておいたにもかかわらず、水も切れ朝から何も食べさせてもらった形跡のないウサギは、空腹のあまりカゴの中でガリガリ掻きまわっていた。もう~!夫も娘たちも、留守番能力まるでないじゃないの~!プンプン怒りながら、洗濯物を室内に取り込んで干し直し、ウサギにたっぷりエサをやり給水器を満タンにし、冷蔵庫にしまうべきものをしまい、その後でようやく床に就くことができたのだった。や~れやれ。2度にわたったアンカラ行きは、(インシャッラー)これにてお仕舞い。でも、本当はもう一度行かなくちゃ行けない。今回のアンカラ行きは急用だったので、娘たちまで連れて行けなかった(いやいや、実を言うと、戸籍謄本を夫が取ってきてくれなかったのだ。。。)が、期限が切れてしまっている下の娘のパスポートを再発給してもらうため、学校が夏休みに入り次第、アンカラに行く予定である。アンカラで、娘たちの一番に行きたいところ。それはアヌット・カビル(アタテュルク廟)。その次が、ブズ・パテニ(アイススケート・リンク)だが、6月の中旬では、閉まっているだろうか・・・?もし閉まっていたら、アタチュルク・オルマン・チフトリイ(アタチュルク森林農場)と動物園にでも連れて行くことにしよう。一方私はといえば、アナトリア文明博物館を約10年ぶりに再訪し、今度はじっくりと隅から隅まで見学することと、カレ(城砦)をもう一度ゆっくりと散策してみたい。当初は「仕方なく」で始まったアンカラ行き。しかし、今では次回の訪問が、少しばかり待ち遠しい。
2006/04/27

22時発の夜行バスは、朝7時に2~3分を残す、ほぼ予定ピタリの時刻にアンカラのオトガルに到着した。到着階(地上階)からいったん2階の出発階まで上がり、メトロ社のチケットカウンターに顔を出す。もし万が一、大使館での手続きが早く終われば、夕方5時半発のバスに間に合うかもしれないので、一応予約だけ取っておくつもりだったのだ。席は十分にあった。ただし、チケットの最終購入リミットは、午後4時半。その時刻にはきっと大使館に詰めていることになるだろうし、大使館のあるガーズィオスマンパシャ地区でメトロ社の代理店が見つかるとは思えなかったので、予約は諦め、もし間に合ったらカウンターで直接購入することに決めた。その後また到着階に下り、適当なカフェでチョルバ(スープ)だけの簡単な朝食をとる。トイレを済ませ、オトガルの1階に連絡している地下鉄アンカライ線のA.S.T.I.駅に向かう。前回のアンカラ行きでは、HAVAS、タクシー、ドルムシュを使ったので、アンカラの地下鉄を使うのは今回が初めて。チケットには1リッキ(1回券)の他にも5リッキ(5回券)、10ルック(10回券)などがあるが、使い方のよく分からない私は単純に1リッキ(1.25YTL=約100円)を買う。時間はまだ8時前。まっすぐ大使館に向かっては、早く着きすぎる。私はクズライ駅で下り、クズライ周辺を散策してみることにした。ウルス同様、クズライを自分の足で歩くのは初めて。ガイドブックには、アタテュルク大通りの東側、カランフィル小路周辺は歩行者天国になっていると書かれてあり、カランフィル・ソカウ(カーネーション小路)という響きが可愛いかったので、まずそこを目指すことに。カランフィル・ソカウ出口を上がると、そこがもうカランフィル小路。ホテル・メロディの角で交差するユクセル通りと、それに交差する何本もの小路に面して、数々のカフェと本屋が目に付く。2階以上がデルサーネ(塾)になっているビルも多く、CD&DVDショップや文房具屋も従って多い。本と本屋の大好きな私は、大きな書店、雰囲気のある小さな書店などが何軒も軒を連ねているのを見ただけで、「いいな~、いいな~」と羨ましくなってしまう。アンタルヤ市内のすべての書店を集めても、アンカラのこの一角の書店数にはたぶん及ばないだろう。アクデニズ大学があるとはいえ、アンタルヤは圧倒的に書店貧困度が高いのである。緑色の壁と木製の窓枠が雰囲気ある書店ユクセル通りは、通り沿いに並んだカフェテーブルだけでなく、緑の並木と所々にさりげなく置かれたブロンズの彫刻によってもヨーロッパ的な佇まいを見せている通りで、散策が楽しい。そこここにベンチが置かれてあるので、買ったばかりのファーストフードを手に一休憩するにもいい。およそ30分ほどその一帯を散策したあと、まだ少し早いが、大使館行きのドルムシュに乗るため、ユクセル通りを東へ東へと進んだ。通勤の人たちがたくさん上がってくる歩道橋を下りると、そこは案の定、前回オヤック行きのドルムシュに乗って通った、見覚えのあるリビア大通りだった。歩道橋の足元では、ドルムシュを待っているらしい数人の人がいる。地元の人がよく使うドルムシュの乗降地点に、ちょうど上手く出てきたらしい。やがてやってきたオヤック行きに乗り込み、前回の大使館行きですっかり覚えてしまった、ワシントン・レストランの先のコレジ(プライベートスクール)でドルムシュを下りる。コレジの角を脇道に入り、1本東側の道に出ると、大使館は斜め目の前。時間はまだ8時50分。9時半の開館まで40分もある。私は近くのバッカルで新聞を買ってき、警備員詰め所の横で新聞を読み始めた。5分ほどすると、私を認めた警備員が、もう中に入ってもいいよと通してくれる。私の持参した書類は、日本から夫が持ち帰ったオリジナル。前回のような書き直し・失敗は許されない。前回と同じ女性職員の方に確認した上で、ひとつひとつ丁寧に記入していく。前回発行してもらった証明書の訂正に関して、確認に時間がかかり、今回もすべての書類を提出し終わったのは、1時間半も経った頃だった。私は大使館の前からウルス行きのドルムシュに乗り、コレジといわれる交差点で下りた。同じクズライ地区でも、今度はズィヤー・ギョクアルプ大通りの北側に位置するサカリヤ通り一帯を歩いてみるつもりだった。こちらも歩行者天国で、花屋、魚屋とバルック・エキメッキ(魚の唐揚げを挟んだサンドイッチ)を食べさせる店、ドネル屋などが軒を並べる庶民的な界隈で、現代的なショッピングセンターが出来る以前はアンカラの買い物の中心地であった、とガイドブックには書かれてあったのである。
2006/04/27
1週間前のアンカラ訪問記(?)もまだ完成していない(そのせいで、その後の日記まで滞っている)というのに、大使館での書類手続きのため、今夜の夜行バスで再びアンカラに発つことになった。イスタンブールで仕事のあった夫が昨夜アンタルヤの自宅に戻り、日本の担当者から預かった書類を手渡してくれた。この書類を大使館に持参し、私の署名・拇印に間違いないという証明書を大使館に発行してもらう手続きが必要なのである。土曜の夜か日曜には日本にとんぼ返りしなければいけない夫に、書類一式を持ち帰ってもらうため、明日、再び日帰りでアンカラまで往復するつもりだったが、ネットで料金を調べると、同じ便でも季節柄か先週より高く、おまけに希望した直行便始め、早い便はビジネスクラスしか残っていないという状況。先週、チケット代だけで280YTL(約2万5千円)も費やしてしまったのに、今週また合計300YTLを越える出費はあまりに痛いので、今回は庶民に戻って夜行バスで往復することにした。やっぱりバスは庶民の味方だね~。メトロ社で片道26YTL(約2400円)と聞いて、私は心底ホッとした。娘たちと一緒に留守番をすることになる夫には、明日の朝食と夕食を用意してもらわねばならない。娘たちの送り迎えはもちろん、今日の午後に干したばかりの洗濯物も、雨が降りそうなら取り込んでもらわなければ。こんな機会は1年に1回あるかないか。たまには、主夫の真似事でもやってもらおうじゃあないか。ちなみに、「朝は何作るの?夕食は何?」と訊くと、「朝はメネメン(玉ねぎ、ピーマン、トマトなどを加えたトルコ風のスクランブルエッグ)。夜はエト・ソテー(玉ねぎ、トマトなどを加えた肉の煮込み)」だという。そうなのだ。夫の知ってる料理といえば、このふたつだけ。まあ、せいぜい頑張ってもらおうっと。アンタルヤ~アンカラは夜行バスで8時間。私は今夜11時発のバスに乗り、明日中に大使館での手続きを終え、夜10時か11時発のバスに乗って金曜日の朝、アンタルヤに戻ってくる予定である。というわけで、書きかけのアンカラ訪問記の続きは、アンタルヤに戻ってから。皆さま、どうか愛想をつかされませんよう。気長にお待ちいただけると嬉しいです。
2006/04/26
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ハジュ・バイラム・ジャーミーは、外周を城壁によって支えられた高台の上に位置している。この高台は、ローマ時代にはアクロポリス的な位置を占めていたという。アウグストゥスとローマの神殿は、このジャーミーの横に隠れるようにして遺されていた。アウグストゥスとローマの神殿(Augustus ve Roma Tapnagi)この神殿は専門的には「アンキラのモニュメント(Monumentum Ancyranum)」として知られ、神殿で発見された碑文は「碑文の女王」と名づけられている。碑文と硬貨から読み取れる限りでは、この神殿は、ガラティアがローマの属州として帝国に統合された後のBC25~20年(BC29~25年という説も)に、神格化されたアウグストゥスと女神ローマを祀るための神殿として、ヘレニズム時代のフリギアの二神、母神キベレと月神メンを祀る聖所の上に建設されたものである。ローマ皇帝を神格化し、神に対すると同様の宗教儀式を行うようになったのは、アウグストゥス(BC27~AD14)によって始められたものである。●関連書籍 『ローマ人の物語(6)』神殿の周囲を取り囲むフェンスには鍵がかかり、一般公開はされていなかった。私はなぜか、ぐるりと回って反対側から見ようという気にもならず、フェンスの隙間から写真を写しただけで帰ろうとした。すると、私の立っていた場所のすぐ脇にある植木鉢に腰掛け、スィミットを食べていたおばあちゃんが、食べろ食べろと言って、私にスィミットを勧めてきた。そういえば、ここまで来る途中にも、感じの良さそうなロカンタがあったら食事をしようと思って目をキョロキョロさせていたのに、目に留まるのは薄汚れた、男の人しか決して入れないような一膳飯屋的な店ばかり。なので、実はお腹が空いていたのである。私はおばあちゃんに一切れだけちぎってもらい、味わうようにいただいた。これが有名なアンカラ・スィミット。普通のスィミットに比べると随分細く、歯ごたえがあるのかと思えば、意外にふんわりして軽い。ああ、もしビニール袋に入れてもらえるなら、後で子供たちやエルカンへのお土産にでもしようかしらん。アンカラで大学時代を送ったエルカンは、たぶん懐かしがるに違いない。顔の皺の深々と刻まれた、人のいいおばあちゃんとひとしきり四方山話をした私は、すっかり親しみが湧いてしまったのだろう。おばあちゃんに暇を告げる際、「テイゼム(私の伯母ちゃん)、私行きますね。ケンディネ・イイバック(身体を大切に)」という言葉が自然に口をついて出た。エルオプ(年配の人の手の甲にキスし、それを自分の額に持っていく)にすべきかと一瞬迷ったが、普通におばあちゃんの頬に私の頬を近づけると、おばあちゃんはまるで孫娘の頬にキスするかのように、私の両頬にキスして私を見送ってくれたのだった。ハジュ・バイラム・ジャーミーとアウグストゥス神殿を後にした私は、チャンクル大通りに出た。腹持ちのよいスィミットのお陰で、空腹は多少収まってはいたが、この後いったいいつ食事できるか不安になった私は、女性が一人でも入れそうな小奇麗なロカンタを探しつつ大通りを進んだ。が、結局これというロカンタが見つからぬまま、ローマ浴場まで目と鼻の先というところまで来てしまい、とうとう適当なところで手を打ち、店頭のポアチャ(中にチーズなどの入った小型のパン)やボレキ(トルコ風パイ)が目に留まった一軒のパスターネに入った。サンドイッチか何かあるかと尋ねたが、トーストしかないという。ボレキは焦げて不味そう。どうでもよくなってしまった私は、さっきスィミットを食べたばかりなのにポアチャを注文。こうして私のアンカラでの昼食は、一切れのスィミットと一杯のチャイとポアチャで終わってしまったのだった。ローマ浴場(Roma Hamamlari)この浴場の位置する高台は、元はといえばホユック(塚)となっていた場所で、発掘調査の結果、フリギア時代の地層の上にローマ時代の地層が重なっていることが判明した。浴場の建設はカラカラ帝(AD211~217)の時代に遡ると見なされ、修理を重ねながらおよそ500年間にわたって使用されていたという。その大きさは、幅80m、奥行き130m。またこの巨大複合施設の一角には、古代アンキラにおける列柱道路の一部も見出せる。この列柱道路は、AD2~3世紀に建設されたもので、アンキラの聖所であったアウグストゥス神殿まで続いていたと見なされている。アンカラが首都として整備された共和国初期、現在この脇を走るチャンクル大通りを敷設するにあたり、列柱道路が出現したらしい。現在は、残念ながらその大部分がチャンクル大通りの下に眠っている。●関連書籍 『ローマ人の物語(12)』入場料2YTLを払い、短い階段を上る。そこには草の緑色も爽やかな広大な空間が広がっていた。練武場(palaestra)である。かつてここは大理石に覆われ、周囲はぐるりと彫刻で飾られていたというが、現在は青々とした草の生い茂る運動場という趣である。広々とした練武場練武場を囲む回廊の一部練武場の周囲には、ローマ時代アンキラの遺物となる、大理石の柱頭やレリーフの刻まれた墓石などがぐるりと展示してある。広大な練武場を通り抜けて到達する巨大な浴場は、手前から更衣室、および大きな冷水プールを備えたフリジダリウム(冷水室)、奥に向かってティエピダリウム(温水室)、ハマム(蒸し風呂)状のカルダリウム(熱水室)の順に並んでいる。が、残念ながら、浴場を囲うフェンスにはこれも鍵がかかり、内部見学は不可。フェンス沿いに作られたプラットフォームの上から遠望することしかできなかった。ローマ浴場平面図北東(地図で上)側に位置するのが練武場。南西(地図で下)側に位置するのが浴場。冷水プール 冷水プール越しにティエピダリウムとカルダリウムを望む 更衣室フリジダリウムと、その向こうにテイエピダリウムさて、浴場の見学を終えても、まだ2時半。大使館の人に言われた4時にはまだまだ時間が余っていたが、腹ペコのウルス散策にすっかり疲れ果てた私には、民俗学博物館まで足を伸ばす元気はもう残っていなかった。それに、催促すれば、ひょっとして少し早く発行してもらえるかもしれない。そんな淡い期待がないではなかった。私は、PTTの近くにあるオヤック行きのドルムシュ乗り場にまっすぐ戻ると、出発直前のドルムシュに駆け込んだ。
2006/04/18

ドルムシュの運転手に運賃1.2YTLを払い、帰りのドルムシュを訊く。オヤック(Oyak)行きのドルムシュに乗れば、大使館の近くを通るのだという。ドルムシュは坂道を滑るように下りていく。左手に大きなジャーミー(コジャテペ・ジャーミー)。右手には、萌えいずる新緑が美しい、まるでヨーロッパのどこかにでもいるような落ち着いた佇まいを見せる公園(クルトゥルシュ公園)が見えてきた。すぐに、眼前を覆いつくすほどの巨大な建物群が現れた。左にアンカラ大学病院、右にハジェッテペ大学病院。この一帯は病院エリアとなっているらしかった。坂道を再びゆっくり上がっていく。周囲の景色は、ドルムシュ乗り場や商店などが渾然一体となった、いかにも下町のものだった。そろそろウルス地区に差し掛かったのだろう。ドルムシュは細い道に入る。地図で確かめると、すでにウルスの中心に近づいていた。PTTの脇でドルムシュを降りる際、運転手にオヤック行きの乗り場を確かめると、1本上手の道にあると指差してくれた。時間は午後1時。ドルムシュを下りた私は、とりあえず何か腹ごしらえできる場所はないか探すため、小路を気の向くままに進んでいった。とはいえ、ウルスに関しては、何の知識も持ち合わせていなかったのである。コピーしてきたガイドブックでも、ウルス情報は皆無に等しかった。いざ歩いてみれば、喧騒と人出と溢れるような物、物、物。。。周囲の建物はどれも古びていて、時に歴史を感じさせる美しい建物もあったが、大半は老朽化し解体を待つばかりといったような薄汚れた建物ばかり。歩きながら私は、町並みがどんどん濃密化していくのを感じ取っていた。いつのまにかシャルクテリ(肉加工品の店)やチーズ屋、パン屋などが何十軒も軒を並べる界隈に出た。どの店頭も食品が溢れんばかりに積み上げられ、ぶら下げられている。その前を行き来する人々の波。私は、いかにも下町らしい活気を身体全体で味わっていた。アンタルヤには、寂しいことに、今どきこんな濃密な空間は見つからない。この豊かさは何だろう?活気は何だろう?私は自然に屋根付きパザールに吸い込まれていた。雰囲気だけ感じ取リ、入り口で踵を返す。この界隈の細く入り組んだ小路には、まだまだ魅力的な何かが眠っていそうだったが、予定のある私には長居は禁物。奥まで入り込んで迷子になることだけは避けたかった。私は地図で確かめながら、まず最初に「ユリアヌスの柱(Julianus Sutunu)」を見に行くことにした。途中、差し掛かった新しいチャルシュ(ショッピングセンター)では、開発工事の途中で古い遺跡が見つかったらしく、広い空間が発掘されたままに放置されていた。歴史の古いアンカラにおいてもこのウルス地区は、フリギア時代、ローマ時代にまで遡る、特に古い地区のひとつだということが明瞭である。遺跡の向こうに見える白い柱がユリアヌスの柱アンカラの歴史は古く、新石器時代にはすでに集落が形成されていた証拠が残っている。また、明らかな証拠はないが、ヒッタイト都市があったとも考えられている。BC1200年代に、この地方一帯はフリギア人によって支配され、アヌットカビル付近の発掘調査の結果、この地は、BC750~500年にはフリギア人の重要な定住地として確立されていたことが明らかになった。その名もアンキラ(Ankyra)は、スーサからサルデスに至る「王の道」における重要拠点であった。BC333年にアレクサンダー大王に征服されたが、大王の死後、セレウコス朝下に入った。BC278~277年にアナトリア西部に侵略にやってきたガラット(ケルト)人が、BC228年にペルガモン王国のアッタロス1世によって征服されると、ガラット人たちは大フリギア王国内に小さな王国を建設し、ゆるい部族連合を形成した。地理学者ストラボンによれば、アンキラの要塞はテクトサグ(Tektosag)と呼ばれるケルトの一部族に属すもので、その痕跡が城砦(Ankara Kalesi)の基礎に見出せるという。ガラット人はローマ人とも良好な関係を築いていたが、デイオタリスはBC74年にガラットの全部族を統治下におくや、ジュリアス・シーザーを迎え入れた。ガラット人の土地ガラティア(Galatia)は、BC24年アウグストゥスによってローマに併合され、アンキラには属州ガラティアの首都として数々の建築物が建立された。アンキラにはAD50年に聖パウロも訪れており、後に聖パウロは「ガラテア人への手紙」を書き上げた。しかし、異教信仰の影響の強く残るこの町の人々は、362年には背教者ユリアヌスを歓迎した。(BLUE GUIDE TURKEYより抄訳)●関連書籍『ガラテア人への手紙』『背教者ユリアヌス(上巻)』『背教者ユリアヌス(中巻)』『背教者ユリアヌス(下巻)』『ローマ人の物語(14)』ユリアヌスの柱は、ヒュキュメット広場の一角に立っていた。AD362年、時の皇帝ユリアヌス帝(背教者ユリアヌスとして有名)のアンキラ訪問を記念して建立されたと考えられている。オスマン朝時代には、シバの女王ベルキスの名をとって、「ベルキスの柱(Belkiz Minaresi)」と呼ばれていた。高さ14.5m。コリント様式の柱頭のてっぺんには、コウノトリの巣がある。ヒュキュメット広場から、坂を上がり、ドルムシュの発着所の脇を通り抜け、ハジュ・バイラム・ジャーミーに向かう。このジャーミーの隣に、アウグストゥスの神殿が残っているはずだった。それにしてもアンカラに、これほどドルムシュが多いとは意外だった。一種、異常と思えるほどである。アンタルヤもミニビュスが多すぎて渋滞の原因になっているわけだが、これはアンタルヤの比ではない。あっちの角もこっちの角も、ドルムシュの発着所として塞がれてしまっている。ターミナルだとはいえ、繁華街のど真ん中で順番待ちをしている、すべて同じ方面行きの20台、30台という空のドルムシュ群は、混沌・猥雑とした雰囲気のウルス地区に一層、喧騒と大気汚染と閉塞感をもたらしているように思えた。
2006/04/18
アンカラ空港を利用するのは、およそ10年振り。到着時に見たところ新ターミナルが建設されているようではあったが、私が着いたのは、荷物用ベルトが2台しかない、小さく狭く見覚えのある昔ながらの国内線ターミナルであった。ショルダーバッグひとつ。他に何ひとつ荷物を持たない私は、まっすぐ到着口を抜け、すぐにHAVAS乗り場へ向かった。いや、「向かう」までもない。出口のすぐ斜め横がHAVAS乗り場だった。乗りこむ前に車掌にどこまで行くか訊く。すると、ウルスを経由して、その後はまっすぐオトガルに行ってしまうとのこと。では、ガーズィオスマンパシャに行きたいのだが、ウルスからはどう行けばいいか?と尋ねると、タクシーしかない、と言う。私はそれ以上は追及せず、諦めてHAVASに乗り込んだ。車掌が回ってきて運賃9.5YTL(約850円)を払う。飛行機を降り立った時は、アンタルヤに比べ、さすがにヒヤリとした空気を感じたが、バスの前方にある温度表示は21℃を指していた。空港周辺は、ようやく春が来たばかりという早春の風情。若葉を出しはじめた樹々の緑は柔らかく、タンポポの黄色がまぶしく光っていた。HAVASはおよそ30分で、ウルス地区にあるHAVASの発着ターミナルに着いた。古いガイドブックではガル(鉄道駅)に着くとあったが、現在発着はすべて、こちらのHAVAS専用ターミナルになっているらしかった。バスの降車場のすぐ横にはタクシーが何台も客待ちしていたが、私は大通りをバスやドルムシュが行き来しているのを見ていたので、路線さえあればドルムシュかバスで行くつもりだった。が、自分が今どの辺りにいるのか、実は皆目検討はついていなかった。落ち着いて考えれば、地図を開いてHAVASの人に訊けばいいだけのことだったが、先を急ぐ私は、とにかく訊きながら行けば辿り着くと、さっさと通りに出てしまったのである。大通りに出てバス停で人に訊く。向かい側を指差され、大通りを反対方向に渡る。2~3台ドルムシュを停め、ガーズィオスマンパシャに行くか?と訊いたが、皆首を横に振るだけだった。ふと横を見ると、1台のタクシーが留まっていた。ためしに料金を訊いてみよう。ガラス窓越しに合図をすると、運転手が窓を下ろした。「ガーズィオスマンパシャまで、あなたならいくらで行く?」「ガーズィオスマンパシャの、どこに行くんだい?」「日本大使館まで。ちょっと待って・・・住所は」ショルダーバッグから住所を書いたメモを取り出し、運転手に伝えると、運転手は一瞬考えて「12(YTL、約1000円)」と答える。私は、高いアンタルヤのタクシー料金を考えて、20~30はいくだろうと思っていたから、正直拍子抜けがした。「な~んだ。それならタクシーで行きましょう」私はタクシーに乗るときの常として、乗り込むと同時に積極的に運転手に話しかけた。これは、こちらが外国人と見てメーターを勝手に操作したり、足元を見たりする運転手をけん制するために自然に覚えたテクニックである。アンタルヤのタクシー料金の高さ。1kmで3YTLは取ること。外国人と見ると夜間料金にするけしからん輩がいること。(これを真っ先に言っておくと、まずズルイ真似はできない)日本大使館まではいったい何kmくらいあるのか?ここまで言うと、運転手は「よかったら、メーターにしてみる?どっちがいい?」と訊いてきた。私は「どちらでもかまわないけど。そうね、私、安かった方の料金を払うから、やっぱりメーターにして」と答える。運転手はメーターを回し始めた。たぶんアンカラには、アンタルヤほど悪い運転手は居ないんだろうなあ、と思う。タクシーは、五重の塔?が見覚えある韓国庭園の角を曲がり、アヌットカビルの入り口前を通り、南下していく。国会議事堂の前を通り、「大使館通り」を抜け、閑静な高級住宅街の坂道を登っていく。赤い看板が印象的な「ワシントン・レストラン」の前を通りすぎたところで運転手はブレーキをかけた。そこにいたタクシー運転手に日本大使館はこの辺だったかと確かめている。はたして、大使館はその1本横の道沿いにあった。タクシーは結局メーターの方が安く、10.5を払う。日本大使館は、予想に反して何の特徴もない、ベージュ色のシンプルな箱型の建物だった。旗も立てられていない。が、ソメイヨシノや八重桜など、何本かの桜の木が、そこだけ日本を象徴していた。警備員室の小さな窓からトルコ人警備員の顔が覗く。日本語はほとんどできない様子だった。用件を咄嗟にトルコ語で説明できず若干慌ててしまったが、電話越しに大使館職員の人と話してくれ、ドアを開けてもらう。名簿に記入し、ビジター・カードを胸につける。セキュリティ・チェックの後ドアを通り、ゆったりとした公用車用ポーチを抜けて、玄関をくぐった。そこもまた予想に反して小さく、小さな待合用の椅子とテーブルが置かれた狭いホールがあるのみだった。人っ子一人いない。右手にはドアの向こうに図書室。目の前に、ガラスで仕切られた手続き申請用のカウンターがあった。呼び出し用ブザーを鳴らす。すぐに後ろのスライドドアが開いて、電話で応対したと思われる女性職員の方が姿を現した。「昨日お電話させていただいたアンタルヤの・・・・」と説明を始めると、「ああ」と合点がいった様子。早速、在留届をはじめ、全部で4枚ほどの申請書類を手渡された。今回必要としている書類では、現住所と現住所の日本語表記が重要視されるため、疑問だった点をあらかじめ確認しておく。椅子に腰掛け、早速書類の記入を始めた。ところが・・・・。日本の公式書類の記入法にすっかり疎くなってしまった私。女性職員の方が記入見本をいくつか渡すのを忘れたらしく、私も見本はないと思って訊かなかったので、平成何年か、宛名を誰にするのか分からないのはもちろん、各欄にどんな書き方をすべきか、時々よく分からなかったりした。とりわけ「書類の用途」や「提出先」「申請理由」などが元々よく分かっていない私は、国際電話で日本の担当の人に訊く始末。その間、手続きに関わっているふたりの人物と一緒に居るらしい夫からは、何度もどうなっているかの催促・確認の電話・・・。極めつけは、バッグに入っていたボールペンを何の気なしに使ってしまい、すべて記入した後で、「証明書は、青インクではなく黒インクなんですよ~」と言われ(←最初から言ってくれれば・・・)て「あっ」としたり。これらは当然一から書き直し。そんなこんなで、すべての申請書類を提出し終えたのは、到着から1時間も経った頃だった。(←たかが書類申請に1時間もかける間抜けが他にいるだろうか?)書類の受け取りは、4時か、4時半頃という。事前に「朝提出して、夕方受け取り」とは聞いてはいたが、軽いショックを覚える。なぜなら、夕方5時のイスタンブール乗り継ぎ便に間に合えば、アンタルヤには8時15分に着く。娘たちにはエルカンと一緒に迎えに来てもらえるし、自宅には9時には着き、娘たちの就寝に付き合うことができるだろうと、淡い期待を抱いていたから。それを逃せば、11時に着くイスタンブール乗り継ぎ便か、10時半に着くアンタルヤ直行便になる。書類の発行を日本で今か今かと待っていた夫は、いつもながらの単純思考。区役所並みにスピード発行と思っていたらしく、書類を受け取ったら私に近場からFAXしてとしつこく繰り返して嫌がられていた。(←近場っていったって、海外へのFAXに1枚10ドルも取りそうな高級ホテルくらいしかないんだよ~!)受け取りは日本の深夜になるから、それなら早朝でも同様。アンタルヤの自宅に着いたらすぐにFAXすることを約束し、隣で待ってる人たちにも納得してもらい、ようやく諦めてもらったのだった。書類申請だけで大いに緊張し疲れた私だったが、一歩大使館を出ると、気持ちが少し晴れ晴れとしてきた。大使館の警備員に、近くをバスかドルムシュが走っているかを尋ねる。ローマ浴場方面に行きたいと告げると、ウルス行きのドルムシュなら目の前を通るし、ウルスで降りてローマ浴場は徒歩10分くらいだと耳寄りな情報。はたして、すぐにウルス行きのドルムシュが通りかかった。ドルムシュ、ミニビュスならお手のもの。私は、まるでアンタルヤのミニビュスにでも乗るような気分で颯爽と指を上げた。
2006/04/18

日帰りが絶対条件のアンカラ行き。しかも子供たちを自宅もろとも義弟エルカンに預けて。まかり間違っても飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。しかも昨夜は、1時近くまで掃除や片付けに時間を費やしたのに、まだ細々とした雑用が残っていたし、シャワーも浴びそびれた私は、5時半になると自然に目が覚め、寝過ごすのが怖くて、もうそれ以上眠れなくなってしまった。シャワーをし、完全に髪を乾かした後、気になっていた雑用を済ませる。そのひとつは、何冊かのガイドブックの中のアンカラのページ、特に地図を中心に必要箇所をコピーしておくこと。アンカラには、添乗員時代何度もツアーで訪れたことはあるが、大抵アヌットカビル(アタテュルク廟)とアナトリア文明博物館だけをさっと見学し、昼食後は早々にアンカラを発つのがお決まりのパターンだった。だからアンカラを、まったくの個人で訪れ、自分の足で歩くのは、これが初めてだったのである。手元にあるガイドブックは、残念ながら2~3年前のものしかなかったが、それでも大まかな地理と交通機関を知る役には立つ。大使館の書類手続き(受け取り)にはかなり時間がかかるとは聞いていたので、待ち時間を利用して、前々から気になっていたローマ時代の遺跡・遺構を見に行こうと思ったのだである。それでも時間が余るようだったら、民俗学博物館にも。また、金欠病が慢性化している私にとって、今回のアンカラ行きは痛い出費。できれば交通費もなるべく低く抑えたい。空港~市内間を結ぶリムジンバス、HAVASが運行されているのは知っているが、HAVASを降りた地点から大使館までは、タクシーしか手がないのだろうか?メトロやバスはあるのだろうか?電話に応答してくれた大使館の女性によれば、ガル(国鉄駅)からクズライまでバス、クズライで別のバスに乗り換え、大使館のある地区ガーズィオスマンパシャまで。そこからタクシーということ。とりあえず、あとは行ってから確かめるしかなかった。娘たちには昨夜きちんと話をしておいたので、特に心配はなかったが、いつもより早い朝食をとりながら、もう一度基本的なことだけ繰り返しておいた。学校が終わった4時に、エルカンが校門に迎えに来ていること。学校から帰ったら制服をちゃんと着替えること。エルカンに手伝ってもらって、宿題をきちんと済ませること。夜は9時半には寝ること。私は夜遅くなっても必ず帰ってくるから、心配しないで。何かあったら携帯に電話して、ということ。朝食の残りを冷蔵庫に、汚れた食器を食洗機に慌てて突っ込むようにして、通常より30分早く娘たちと一緒に自宅を出た。8時に学校の門でエルカンと待ち合わせにしてあったが、トルコ人にしては時間に正確なエルカンは、すでに来て、学校の警備員と立ち話をしているところだった。娘たちにもう一度念を押す。エミはナナを教室まで迎えに行って、それから一緒に門まで来、エルカンが来るまでこの門のところで待ってなさいと。娘たちが中に入ったのを見届け、いざ空港へ向けて車を出発させた。****飛行機に乗るのは、およそ1年半ぶり。今まで飛行機には何百回も乗ったはずなのに、ブランクのせいか、「仕事」への使命感からか、久しぶりに緊張する。窓側に座るなんて、何年振りだろう?飛行機が飛び立ち、雲の中を抜け、上空に出た時、眼下にはまだ雪の残る2000m級の峰々が見えてきた。やがて、前方には大きな湖。トルコ第3の湖、ベイシェヒル湖である。ベイシェヒル湖を斜めに横切ると、やがてコンヤ~アンカラ間に広がる大穀倉地帯が見えてきた。この辺り一帯は、小麦、大麦、ライ麦、燕麦、甜菜などの栽培が盛んだが、あたかもチェス盤を思わせる大規模農場の見事な俯瞰には、思わず息を呑んだ。アンカラが間近になると、南郊外にはヴィッラ形式のスィテ群があちこちに建設されているのが見てとれた。そして、最後にアンカラ上空を通過。右手に緑に囲まれた国会議事堂群、そしてアヌットカビル(アタチュルク廟)、スタジアムとスポーツ施設群などが、あたかも精巧なミニチュアパークを見下ろすような縮尺で眼下に迫ってきた。飛行機が静かに滑走路に滑り降りる。長いアンカラでの一日が始まろうとしていた。
2006/04/18

*昨年の4月23日の日記(1)(2)(3)来る4月23日は、トルコでは「国民主権と子供の祭典(Ulusal Egemenlik ve Cocuk Bayrami)」という国民の祭日にあたる。歴史を遡れば、1920年4月23日トルコ大国民議会(TBMM)の第1回会議を記念する日であり、トルコ国内に限ったお祭りの日のはずなのだが、アタテュルクによってこの日が「トルコのすべての子供たちへの、世界中の、子供の祭典を持たない国の子供たちへの贈り物」と位置づけられたため、「世界子供の祭典(Dunya Cocuk Bayrami)」とも呼ばれている。この祭日に合わせ、TRT(トルコ・ラジオテレビ協会/トルコのNHKのような存在)主催、コチ財団の後援で、毎年、世界数十カ国から多数の子供たちがトルコに招待され、その年のホスト都市となった町では、さまざまな催しが繰り返され、その様子はテレビを通じて全国に放映される。民族衣装を身に着けてのパレード。民族舞踊をはじめとした自国の文化が披露され、国境・国籍を超えた子供たち同士の文化交流・民間交流が行われる。そのホスト都市に、今年はアンタルヤが選ばれた。今日17日に開幕する「第28回、国際4月23日子供の祭典(Uluslararasi 23 Nisan Cocuk Senligi)」参加のため、今年は世界38カ国から、合わせて約1800人の子供たちが昨日までにアンタルヤ入りした。各国の子供たちにはそれぞれ、アンタルヤ市内にある合わせて40校の学校がパートナーシップを務め、子供たちは4月23日のフィナーレまでの約10日間、学校の生徒たちの家にホームステイするのだという。****今日の午後、アタテュルク大通りに面した銀行に出掛け、約1時間ほど順番を待った後、ようやく用事を終えて通りに出ると、道路はガランと空っぽ。車の進入禁止となっているらしかった。来る時にミニビュスの中から見えたジュムフリイェット広場では、大きなスクリーンや音響装置などが設置されていたので、何かのトレン(式典)が開催されるだろうことは察しがついていた。さらにジュムフリイェット大通りには、空気を入れて膨らまされた大きなゲートが設置されており、「子供の祭典」の文字が見えたので、4月23日の子供の祭典に関連する催しの準備だろうとは思っていた。アタテュルク大通りから、労働銀行交差点までやってきた時、後方からパレードの近づく音が聞こえてき、初めて事の次第を察した私。「国際4月23日子供の祭典(Uluslararasi 23 Nisan Cocuk Senligi)」の本日が開催日であり、カラアリオール公園を出発地点とするパレードがつい先ほど始まったところだったのだ。時刻を見ると、まだ10分ほど余裕があった。私は迷わず、絶好の観察ポイントと思われる労働銀行の角で足を留め、パレードの様子を見守ることにした。 アゼルバイジャンの子供たち ボスニア・ヘルツェゴビナの子供たち, 中国の子供たちクロアチアの子供たちわあっ!日本からも!剣道着に身を包んだ東京錬武会の子供たちリトアニアの子供たちメキシコの子供たちモンゴルの子供たち****アンタルヤ市内数箇所、および近郊のシデ古代遺跡などを舞台に行われる催し、アンカラへの表敬訪問などのプログラムをこなした子供たちは、アスペンドス古代劇場で行われる4月23日のガラ・プログラムを終え、ピクニックで緊張をほぐした後、いよいよアンタルヤを離れ、帰国の途に着く。風光明媚なアンタルヤと、ここで出会った世界中の子供たち、トルコの子供たち、トルコの素晴らしい思い出を胸に。なおガラ・プログラムは、23日午後4時からTRTにて全国に生中継される。*TRT/23 NISAN 公式サイト
2006/04/17
早朝から電話のベルが鳴っている。時計を見れば、まだ6時半。私はまだベッドの中。留守設定にしているため、すぐに録音テープに切り替わった音がベッドルームにいる私にまで届く。「こんな時間から、いったい誰?」苦々しい思いで誰だろうかと思い巡らす。こんな早朝の電話は大抵日本からである。時差がよく分かってないか、この時間ならもう大丈夫と思っているのか。あの人だろうか、それとも夫・・・?しかし、夫がこんな早くから?電話は何度も何度もかかっては録音テープに切り替わる。あまりに煩いのでさすがに寝ていられず起き上がった私は、電話のおいてあるキッチンまで行き、録音テープを確かめた。「もしも~し!電話に出て~!」夫の声だ。もう!なによ。こんな早くから。テープを止めるやいなや、再び電話が鳴った。私がわざと眠たそうな声で応答すると、夫はお気楽そうな声でこう言う。「よく聞いて。今日これからすぐ空港に行って、アンカラに行ってきて。飛行機の時間は分からないけど、席くらいあるでしょ」それを聞いちゃあ、寝ぼけてなんていられない。目がカッと開き、私の血はまた逆流しそうになる。「なに言ってるの!?急に言われて、急に行けるわけがないでしょ。子供たちの学校があるし、今日はエミのバトミントンの練習もある。何時にどこに迎えにいくか、迎えた後どこで預かってもらうか、全部手配してからじゃないと出掛けられないんだから、今日は絶対ムリ!明日行くから」私は一気にまくしたてた。そう。日本でのある手続きのために、アンカラの日本大使館かイスタンブールの総領事館で発行される書類が必要だとのことで、先週来、夫をはじめ手続きにかかわっている人から何度か催促されていたのだ。が、諸事情を考えると、今週末、せいぜい金曜日にしか出掛けられそうもなかった。私はその予定で、飛行機の時間も、書類申請に必要な証明書類の内容も、週が明けたら確認するつもりだったのだ。諸事情とは、例えばこんなこと。先週はデミルジ(鉄屋)がモンテ(モンタジュ・取り付け)に来る予定だった。ところが例によって、「あともう少し」「あと扉だけ」と引き伸ばされ、「では月曜日には絶対」と念を押したはずなのに、土曜日しかも午後4時過ぎてから電話がかかってきて、扉のデザインのことで見て欲しいから、これから来て欲しいと言う。ところが外は生憎の驟雨。子供たちも学校が休みで家で寛いでいる。結局行くのは諦め、月曜日午前中に行くことにしてあった。今週、できればデミルジとの打ち合わせを済ませ、モンテも完了してから アンタルヤを留守にしたかった。それとはまた別に、3年生になってから週3回、学校でバトミントン練習が始まったエミの、学校対抗戦第1戦が20日木曜日から始まる。普段、練習の場所は学校の室内競技室か、サバンジュ・スポルサロンかだが、どちらになるかは、その日になるまで分からないことが多い。サバンジュ・スポルサロンの場合は、父兄が自分で迎えに行かねばならない。なので練習の日にあたっていれば、誰かに迎えに行ってもらうための手配もしなければいけない。などなど。。。それに、飛行機の時間や空席の有無以前に、その書類手続きがイスタンブールでもできるのか、アンカラまで行かねばならないのか、それを確認する必要があった。イスタンブールなら便数が多いし、民間航空会社の割安チケットも手に入る。が、アンカラ行き直行便はトルコ航空の朝1便、夜1便のみ。料金も高い。できればイスタンブールが望ましいのだが・・・・。いずれにせよ、書類申請に必要な証明書が揃っていなければ、イスタンブールにしろアンカラにしろ、わざわざ飛行機代をかけて飛ぶ意味はないのだが。今日はまず、朝一番、9時半の開館に合わせて総領事館と大使館に電話し、手続きはどちらで行うべきかと、必要書類を確認する。そして場合によっては、ムフタル(地区長)やヴァリリッキ(県庁)に書類を発行してもらいに行くことになる。イスタンブールかアンカラか分かった時点で明日のチケットの手配。これらの準備が整った後で、エルカンに車の運転をお願いして約束のデミルジに出掛ける。デミルジでの打ち合わせが終わったら、セネット(約束手形)の支払いのため、市中の銀行に行く。そして、銀行から帰り子供たちを学校から連れて帰ったら、私にとって一番大変な大掃除!なぜ大掃除かって?いつ帰れるか分からない私に代わって、子供たちを学校に迎えに行ってもらい、宿題の面倒や夕食づくり、寝かしつけ・・・これらを全部夫の義弟エルカンがしてくれることになったから。いや。実を言うと、いくら親戚とはいえ、夫もいない、しかも普段散らかし放題・汚し放題にしている自宅で、私の留守中に男性に家を守ってもらうのは、私は絶対にイヤ!だった。留守中に冷蔵庫を開けられたり、パソコンを使われたりするのも、慣れたとはいえ、本音をいえば嫌なのだ。エルカンの義弟、叔母のいる家に連れていってもらい、夕食もそこで食べさせてもらい、エルカンが私を空港へ迎えに来る時も面倒を見てもらえば・・・そう思ったのだが・・・・。それにはエルカンがまったくいい顔をしなかったのだ。普段居候をしている弟宅に、これ以上迷惑をかけられないということもあるだろう。久しぶりに娘たちに会ってお喋りしたいという気持ちもあるだろう。あるいはパソコンを自由に使いたいという気持ちもあるだろう。「ワッラー、君の家のほうがずっといいと思うよ。あとは君の決断だから、向こうの家に連れてけって言うならそうするけど」そう言われては、無理強いはできなかったのだ。****確認の結果、在留届もまだ出していなかった私は、管轄のアンカラに行かねばならないことが分かった。必要な証明書は、パスポート、戸籍謄本、もしくは運転免許証など日本で通用する証明書類、イキャーメット・テズケレスィ(滞在許可証)の3点のみ。アンカラと分かった段階ですぐにオンラインチケットを購入。アンタルヤ~アンカラは、朝1便、9:20発(TK0463)のみ。オンラインだと、たった3YTLだが割引があり、116YTL(約1万円)である。一方復路のアンカラ~アンタルヤ間に関しては、いつ書類が下りるか、いつ大使館を出ていつ空港に着けるか皆目検討もつかなかったので保留にしてしまったが、これが失敗だった。実は私、アンカラの大使館に行くのも、大使館で書類を発行してもらうのも、これが初めてだったのである。一刻でも早く、子供たちが寝付く前に、アンタルヤの自宅に戻りたい。エルカンは放免し、自宅でゆっくり親子3人で眠りたい。アンタルヤに少しでも早く着けるなら、イスタンブール乗換えでも、多少割高でもかまわない。そんな思いが判断を狂わせ、夜1便のみの直行便の予約をするのを控えてしまったのである。予約くらいしておけばよかったのだが。。。デミルジとの打ち合わせも、銀行での支払いも、ピッタリ予定時間内にこなした私だが、これだけは苦手な大掃除と片づけを終えられたのは、深夜1時にもなろうという頃だった。
2006/04/17

結婚・出産以来、(トルコ)国内旅行に出ることもままならなくなった私であるが、訪れたい旅行先のリストだけは、年々増え続けている。また、両親が家業をやめて初めて旅行に出られるようになってからは、両親に少しでも海外を見せてやりたいという思いから、「老親と家族6人でできる旅」には何が相応しいか、時々空想にふけるようにもなった。子供と老人がいる場合に、私が一番頭を悩ますのが、移動の足。その次に荷物運び。都市から都市へ、目的地から別の目的地へ。電車やバスなどの公共機関を乗り継ぐ移動ほど疲れるものはない。移動の度に発生する荷物の取りまとめと運搬、これまたしかり。理想的なのは、ゲートウエイとなる都市までは飛行機。そして空港から出発地の空港まではすべて車を利用すること。車なら、宿泊ホテルから次の宿泊ホテルまで、ドア・ツー・ドアでの移動が可能。宿泊に必要ない荷物は車の中に置きっ放しにできるし(ただし、国、都市によっては、荷物は外から見えない場所に隠しておく必要がある)、移動の途中で欲しい物を取り出すことも簡単。車は、道をよく知ってるベテラン運転手付き。それなら全員が風景を楽しめるし、いちいち地図でルートを確かめたり、分かれ道で余計な喧嘩をする必要もない。さらにミニバス・タイプなら、ひとり1席以上とれるので、足を上げたり横になったりと何かと楽ができる。(実際は、予算の関係でドライバー=夫で、7~8人乗りくらいのワゴン車がせいぜいだが、その考えを実行に移し、今まで2回、ドイツとスイスで親子孫6人レンタカーの旅を実現したことがある)しかし、この考えを発展させていくと、最後に行き着くのはやっぱりクルーズの旅!になる。港を出港してからは、移動も食事も、観光もアトラクションも、全部おまかせ♪荷物運びの必要がない、運転の必要がない、交通事故の危険性がない(万に一つ?)、レストラン探しが必要ない・・・楽チンなのだ。観光はオプショナルだし、フォーマル・ウエアも必要だし、何かとチップは必要だけど・・・。だから、次回両親と一緒に家族旅行をする機会がもしあれば、エーゲ海、もしくは地中海クルーズ!とひそかに決めていた。といっても、何もアテネまで行ったりする必要はない。エーゲ海クルーズならクシャダス発着、地中海クルーズならイスタンブール発着のクルーズ船がちゃーんとあるのである。クシャダス発着エーゲ海クルーズは、4日間か5日間でパトモス島~(ロードス島)~クレタ島~サントリーニ島~ピレウス(アテネ)~ミコノス島を回るパターン。イスタンブール発着地中海クルーズは、8日間でドブロヴニク~ヴェネツィア~バーリ~カタコロン(オリンピア)~イズミールなどを回りながらイスタンブールに戻ってくるパターン。トルコ発着のクルーズはそれくらいだと思っていたら、なんと!いつのまにか、アンタルヤ発着の地中海クルーズ船も就航していたのだ。これは知らなかった。今年もクルーズ・シーズンが近づいているらしく、最近盛んに広告写真を見るようになった、このアンタルヤ発地中海クルーズ。船名は「Orient Queen」 写真提供© Andreas Alexandrakis, Limassol 2005.スケジュールと寄港地は以下の通り。 到着 出発水曜: アンタルヤ 22:00木曜: ロードス島 09:00 18:30金曜: ピレウス(アテネ) 11:30 23:59土曜: ミコノス島 08:00 23:00日曜: マルマリス 13:00月曜: マルマリス 03:30火曜: ベイルート 06:00 17:00水曜: アンタルヤ 14:00えっ?なぜにベイルート?と不思議に思って調べたら、どうやら「ABOU MERHI DRUISES」というレバノンの客船会社が運航しているもののようだ。湾岸諸国に拠点を置く初の豪華客船として、2005年10月にバーレーンで初就航。パナマ船籍。8階建て。船室数は414室、総客数910名。つまり、アンタルヤはただの寄港地、というわけになるのか。まあ、それでもアンタルヤ発着には変わりがないが。今年2006年度のアンタルヤへの初寄航は5月3日水曜日。またマルマリスへの初寄航は5月7日日曜日となる。ベイルートまで、わざわざ47時間半もかけて往復するのはちょっと退屈だなあ・・・と思いきや、マルマリスで下船という手もあるらしい。大きな宣伝広告を打ち出している「hey travel trends」という旅行会社のキャンペーンでは、水曜アンタルヤ発、日曜マルマリス着、4泊5日のツアーで、5月3日から6月14日までのローシーズンにつき、ツイン一人当たり料金は、最低390ユーロから始まるようだ。私たちのようにアンタルヤに住む者としては、アンタルヤに着いてくれるのが一番だが、旅行者としてトルコにいらっしゃる方は、トルコの有名リゾート地と地中海クルーズの両方を一度に味わえるプランとして、一度検討してみられてはどうだろうか? *なお、各クルーズの詳しい運航スケジュール等は、こちらの方に記載しました。ぜひ参考にされてみてください。【追記】トルコ人を配偶者に持つ方から、ギリシャ・ヴィザについて心配する声が多く聞かれましたが、たまたま見かけた記事によれば、ORIENT QUEENのアンタルヤ発着の開始にあたって、トルコ人やロシア人がヴィザなしで渡航できるよう配慮されたとのこと。ORIENT QUEENだけの特典だと思いますが、耳寄り情報ですね♪
2006/04/13
イスタンブールっ子には、今やすっかりお馴染みのアクビル(Akbil)。アクビルは「アクッル・ビレット(Akilli Bilet)」の略で、「お利口さんチケット/スマート・チケット」という意味。つまり、市内の公共交通機関のほとんどすべてに利用できる電子式の便利なプリペイドチケットなのだという。「という」としか言えないのは、話だけはよく聞くし写真でも見るのだが、私、実はまだ実物を見たことないし、もちろん使ったこともないから。もうイスタンブールには1年半もご無沙汰しているし、せっかくイスタンブールに滞在しても、出掛けるのは家の周辺のみ。ほとんど繁華街にお出掛けしない田舎者なのである。あ~あ、恥ずかしい。ところが。アンタルヤにも、このアクビルを導入しようという計画が大急ぎで進行している、らしい。アンタルヤ大市庁総務長の話では、現在、契約要件を準備している段階で、遅くとも2~3ヶ月以内には入札が行われる予定であるという。現在、アンタルヤ市内で運行されている公共交通機関は、市バス(特別市民バス)、ターミナルバス(テルミナル・オトビュス)、ミニビュス、トラムワイ(トラム)の4種類。いずれも運賃はその都度、乗車時・乗車後に、しかも運転手に手渡しするというアナログなシステムが運用されている。この運転手と乗客との間で発生するお金のやり取りは、停車時間を引き延ばし渋滞の原因となったり、運転手の注意を散漫にし事故の原因となったりするために、長年問題視されてきた。アクビルが導入されれば、少なくとも運転手は運転に専念することが出来るし、停車時間は短縮され、乗客はいちいちお財布を引っ張り出したり、あらかじめ小銭を用意する心配がなくなる。良いこと尽くめ、という印象ではあるが・・・・。アンタルヤには、アクビル導入以前にまず改善されねばならない問題がある、と思う。それは、アンタルヤ市内の公共交通システムそのものを見直すこと。トラムワイの路線・便数を増やし、市民の足として確立させること。必要があれば、メトロなどの新たなライル(レール)・システムを構築すること。ミニビュスの車体を新しくし総数を減らし、路線を見直し無駄な路線を整理すること。市バスの路線・便数を増やすこと。毎日のように市バスやミニビュスを利用する私を例にとると、例えばこんな不便な状況に置かれている。車なら5分で着くアンタルヤ考古学博物館。ここへバスで行こうとすれば、市バスかミニビュスで10分。一番近いと思われる停留所で下りて、さらに10分近く歩かねばならない。同じく車なら10分で着く新工業団地。もしバスで行こうとすれば、二つのミニビュスを乗り継いで、1時間弱かかる。車なら、15分ほどで着くオトガル。こちらもふたつのミニビュスを乗り継いで、1時間少々。つまり路線が健全に、無駄なく組まれているとは、到底思えないのである。これだけ外国人・トルコ人問わず市外からの訪問者を抱えるアンタルヤで、少なくともオトガルへのアクセスだけは、トラムワイ、メトロのようなライル・システムが市内の東西南(北)から確保される必要がないだろうか?いや、空港からの市内中心部へのアクセスだって、メトロ一本でアンタルヤの中心街ドーウ・ガラージュ辺りへ繋がってくれたら・・・・。エキスポ・センターから空港へ。空港からメイダンへ、そこからドーウ・ガラージュへ・・・。いや、せめてメイダンまででもいい。そこからトラムワイでカレカプス。あとは従来のトラムワイ路線と同じ。ただし路線は、現在のように博物館が終点ではなく、そこからファレス・ホテル、シェラトン・ホテルの前を通ってミグロス交差点を通過し、海岸沿いにリマン地区まで延びると完璧である。オトガルから南下する路線は、ミグロス交差点で東西を走る路線に合流する。オトガルから空港へは、チェヴレヨル(環状線)の下を通るメトロによって、直通化される。こうなれば、北はオトガル、東は空港、西は港。このアンタルヤへの3つのゲートウエイがひとつに結ばれることになるのだが・・・・。アクビルを発端として、そんなことをつらつらと考えていたら・・・今日になって、アンタルヤの将来を明るく照らす一条の光が差し込んできた!今日付けの新聞記事によれば、以前から問題提議はされながらも一向に話が進展しなかった、新たなライル・システムを構築しようというプロジェクトが、とうとう実現化へ向かう一歩を踏みだしたという。アンタルヤ大市長メンデレス・テュレルが公表した「軽ライル・システム・プロジェクト」は、アンタルヤ北部ファーティヒ地区(オトガルのさらに北。アンカラ・ヨル(アンカラに向かう国道)の始発点にあたる)を始発とし、16の停留所を経てメイダン交差点に到達するトラムワイ路線の新設を手始めに、市内中にトラムワイのレールを張り巡らそうとするもの。(ちなみに、新路線の始発から終点までの所要時間は25分、平均時速は27km/h)ファーティヒ~メイダン路線完成の後には、さらにリマン~イェシルバフチェ路線、メイダン~空港路線、オトガル~ジャム・ピラミッド~メイダン路線に着手する予定だという。(なお、新設されるトラムワイ路線上を走る現行の公共交通機関は、トラムワイの完成と同時に全廃される)試算では、2010年には、一日当りの乗客キャパシティは15万人まで可能となり、朝晩のラッシュ時には4.5分毎に1本のトラムワイが発車できるようになるだろうという。なお、このプロジェクトの必要経費は、初年度だけで2,297万ドル。総経費は1億2千万ドルに上る。市は現在、財源の確保を進めている段階で、確保でき次第、入札に入る予定という。ああ!私が思い描いた、オトガルと市内中心部とを結ぶトラムワイが!空港と市内中心部を結ぶトラムワイが!我が家の近くを通るトラムワイが!・・・・・・しかし、本当に実現するのだろうか・・・・・・?首相が代替わりすれば、市長が代替わりすれば、ガラリと政策の変わってしまうのが常のトルコ。特に政権政党が変われば、前政権政党の行った政策、残した計画を打ち壊すような態度に出るのがトルコ人。AKP出身の現市長は、アンタルヤにご執心のエルドアン首相の肩入れのおかげで、これまでも立体交差点、エスカレータ付きの歩道橋などいくつもの土木プロジェクトを成功させてきたが、次期も続けて市長の椅子に座れる保証はどこにもない。(まあ、これまでのところ派手な宣伝も効いてるし、次期も安泰なのは見え見えなのだが・・・)プロジェクトが途中で頓挫せず、アンタルヤに「夢のライル・システム」が無事誕生してくれることを祈りたい。
2006/04/12

下の娘ナナのオクマ・バイラムが終わった。*オクマ・バイラムとは:1年生になり、初めて読み書き(オクマ・ヤズマ)を習った生徒たちが、どこまでトルコ語や英語の読み(オクマ)や暗記(エズベル)ができるようになったか父兄に見てもらうための発表会で、毎学年同様の発表会をするのだが、1年生の発表会に限ってはオクマ・バイラム(読みの祭)と呼ぶらしい。昔はおそらく、舞台上で本を開き、実際に文章を読んでみせたりもしていたのだろうと思うが、今やオクマ(読み)とは名ばかり、実際はコーラス・劇・ダンスで構成されたいわゆる学芸会である。働く父兄が多いので、それに配慮したのだろうか。以前は午後2時頃からの開演が多かったが、最近では大抵4時半などという遅い時間だ。それまで、生徒は自宅待機。いま何時?あと何時間ある?と繰り返し訊くほどに暇をもてあまし、退屈で昼寝までしてしまったナナを無理やり起こし、例のTシャツとスカートを着せ、近所の美容室に連れて行く。毎年のことで慣れているはずが、多分にあがってしまうのか、時間の調整にいつも失敗してしまう私。まだ早いなあと思っているうち、いつの間にかギリギリの時間になってしまう。ナナの薄い髪の毛をムースや電気ゴテ(正確な名前は?)を総動員して膨らましアップ状にし、造花の冠をしっかりつけもらう。昨日担任教師に聞いた話(プログラムの順について、事前に何の説明・案内もないし、何を着て来させてという連絡もないので、問いたださないといけない)では、最初はTシャツ&スカート姿でのコーラス。その後で花役の衣装に着替えるというので、脱ぎ着をしても落ちたりずれたりしないよう、しっかり留めてもらう必要があった。実は、「ハートゥラ・チチェイ(思い出の花)」という響きから清楚な野の花をイメージし、髪の毛を長いままフワフワに膨らませ、額の上から耳のあたりにかけ三つ編みにし、そこに造花を留めてもらうつもりだったのだが、「髪が少ないので無理。落ちてしまう」と、一見演歌歌手のようなアップ・スタイルにされてしまったのだ。学校のキュルトゥル・サロン(文化ホール)に開演の30分前、4時に集合のはずが、美容室が終わったのがちょうど4時。いったん自宅に戻って衣装や花カゴを取り、キュルトゥル・サロンに着いたのは4時15分になろうという頃だった。すでに舞台裏はゴチャゴチャ。なにしろ今回は、1年生3クラス合同なのである。それぞれ10~15人ほどしかいない小さいクラスばかりなので、3クラス合わせて40人ほどなのだが、舞台裏はそれには狭すぎ、準備に追われる先生方に着替えの衣装を手渡したものの、衣装を置く場所すら点々バラバラ。脱いだ服等を入れるための名前を書いたビニール袋を用意、との指示だったが、それをまとめて置く場所すらはっきりしていない。よぎる不安。例によって、オーガナイズ皆無のトルコ式か。。。おまけに、わざわざ新調したサンダルは、すぐにピスィピスィ(簡易バレエシューズ)に履き替えさせられてしまい、結局舞台では最後まで日の目を見ることがなかった(涙)。 国歌斉唱および校歌斉唱に続いて、トルコ語と英語のコーラス。それが終わると、生徒たちは着替えのために舞台裏へ消え、その間、パソコンを使って編集された生徒たちの日々の授業風景がスクリーンに映し出される。舞台裏では、コーラス用の衣装から劇用の衣装への着替えが行われている。ちょっと心配になって舞台裏を覗きに行く。すでにほとんどの生徒の着替えが終わり、ナナも髪を崩されることなく、ちゃんと着替えさせてもらったようだ。花カゴも紛失することなく手に持っているのを確認し、安心して席に戻る。やがて2つ目のプログラム、トルコ語劇が始まった。女の子は全部で何人いるだろうか。20人近い女の子全員が、何らかの花に扮している。バラ、チューリップ、カーネーション、スミレ、パパティヤ(マーガレット、カモミール類)、菊、ユリ、藤、ジャスミン、ミモザ、カルデレン(スノードロップ)・・・・。男の子たちが扮するのは、庭師、果樹、その他の木々。これから、庭にあるすべての花々による長い長いギュゼルリッキ・ヤルシュマス(美人コンテスト)が開かれるのである。女の子のほとんどがロング丈の、いわゆるゲリンリック(花嫁衣裳、または花嫁衣裳タイプのドレス)姿。1年に1度の「晴れの舞台」を飾るため、念入りに化粧を施してもらったり、綺麗に髪を結い上げてもらっている。毎回どの発表会でも同じ風景が繰り返されるので、こうなることはよく分かっていたが、今回、ナナの装いは地味を承知で控えめを心掛けた。なぜなら、庭の片隅に植えられた「思い出の花」は、ひっそりと咲くなかにも可憐な美しさで人を惹き付けるタイプの花と想定したから。借り物のワンピースは、そのイメージにピッタリだった。さんざん待って飽きたらしく、何度も大あくびをしていたナナの出番が一番最後にやってきた。ところが「思い出の花」は、ナナ以外にもふたりいた。そしてふたりとも、なんともドギツイ化粧と派手なドレスで、私の抱いた「思い出の花」のイメージをぶち壊しにしてくれた。ひとりなぞ、青に緑に黄色に赤にといった、まるでピエロの衣装のような色とりどりの継ぎ接ぎドレス。コンテストは結局、「思い出の花」が一番という結果で終わるのだが、隣の女の子の妙に派手な衣装に呆気にとられているうち、ナナの出番もあっというまに終わってしまっていた。おまけにあろうことか、あれほど悩んで用意した花カゴを、ナナは足元に置いたまま忘れてしまい、マイクの前に立つときは見事に手ぶらだった。なんとまあ。サンダルに続き花カゴも出番なく終わってしまったとは。。。。私も馬鹿だ。たかが5分、10分の出番と知りつつも、娘の晴れ姿を思って真剣に用意したというのに、結局出番もないまま終わってしまった花カゴやサンダル・・・・。2度目の着替えが終わった。最後のプログラムはいつもダンスと決まっている。が、生徒たちが舞台に登場してビックリ。ダンスはダンスでも、リトミックダンスではなくハルク・ダンス(民族舞踊)用の民族衣装姿だったのだ。(え~?じゃあ、あのTシャツとスカートも、もう出番なしなの~?)思わず、聞いてないぞ~、とムッとするが、それで初めて合点がいった。前日ナナが持ち帰ったメモに、持って来てもらうものとして「イェメニ(被りもの、ターバン)」とあったのだが、何に使うか合点が行かなかったのだ。40人全員が一堂にとはいかず、最初のグループ、後からのグループと2グループに分けられ、同じ踊りを異なる衣装に身を包んで踊る。締めくくりとして、先生方への花束贈呈。そして一人一人生徒の名前が呼び上げられ、ディプロマの代わりとして学校や校長・教頭・担任教師の写真と、本人の大きな写真とがひとつにまとめられたアルバムが手渡された。自然にお開きになり、アルバムを持ったナナの写真を撮っていると、近くにいた男の子が見慣れた造花を手に握っているのに気付いた。「それ、どこで見つけたの!?」と問いただすと、「下に落ちてたよ」と言う。「ごめん。返してね」といって男の子の手から造花を取り戻すと、私は焦って舞台裏に駆け込んだ。案の定、あの苦心の花カゴが、花々が抜けた哀れな姿となって床の上に転がっていた。(うう。。。25YTLもしたのに。。。) しかし、無残な姿を晒していたのは、ナナの花カゴだけではなかった。生花が用いられた花カゴなどもっと哀れなことに、床に落ちた花々が靴に踏みしだかれてつぶれていたのだ。それから今度は脱いだ衣装探し。脱いだ服はそれぞれ名前を書いた袋に入れられるはずだったが、大混雑のあげく完全に無視されてしまったらしい。借りたワンピースは割りと簡単に見つかったものの、脱ぎ捨てられた状態で床の上で丸まり、あやうく靴で踏みにじられようとしていたし、Tシャツとスカートは、あっちこっちに散乱している上、私同様ほとんどの人が名前を書いておかなかったために、どれが誰のものか分からず、まるでバーゲン会場か宝探しゲーム状態。サイズだけ覚えていたので、それを手がかりに探し、最後の最後にナナのものと思われるものが手元に残った。(もう~焦ったよ~。52YTLも出したんだから~)いつものごとく、「修羅場」という表現がピッタリのオクマ・バイラムであった。(しかし、2度とごめんだよ~、40人の大所帯は。それに先生が何人もいるんだから、衣装の管理くらい、しっかりしてくれ~!)
2006/04/07

下の娘ナナのオクマ・バイラム(1年生のスヌフ・ギュニュ)を明日に控え、ギリギリになってすべての準備が揃った。もっとも、ナナの場合は、上の娘エミに比べたらずっと簡単だったのだが・・・。第1弾でご報告したように、ダンス&コーラス用の衣装は、スヌフ・アンネスィ側で決めてあったから、買いに行くだけでよかった。それに、今回ナナが扮する花役の衣装は、同じクラスのお母さんが余ってるからと持って来てくれたローラ・アシュレイのワンピースを喜んで借り受けることにしたので、新調する手間が省けた(ホッ♪)。私が今回新たに用意しなければいけないのは、花カゴと花をあしらった冠。そして、服に合わせてサンダル。花カゴと花冠についてはちょっと悩んだ。というのも、ナナの扮する花は「ハートゥラ・チチェイ(思い出の花)」。本当の名を誰も知らない花で、その昔、庭師が奥さんへのプレゼントとして庭の片隅に植えた「思い出の花」という設定なのだ。最初、ウェディングドレスを縫う仕立て屋を見て回り、コサージュ用の花を物色したが、置いてあるのは大抵バラやマーガレット。担任教師に相談したら、クル・チチェイ(野の花)みたいなのがいい。今が盛りだから生の花でもいいのよ、その方が安上がりだし(←我が家の経済状況を知ってるのか?)、と言う。といっても、まさか当日の午前中に野原で花摘みというわけにもいくまい。自分で綺麗にアレンジする自信もないし、第一髪にどうやって結び付けられる?そこで、出費は覚悟の上。昔から何度も花カゴをお願いしたことのある、花屋に注文して造花で作ってもらうことにした。カゴは自宅にあるものを持ち込みで。上の娘エミが5歳児クラスの時から、毎年毎年、発表会で女の子は花の役ばかりやらされ、やれ花カゴだ、やれ髪飾りだと、毎回違う注文をつけられ鍛えられてきたので、昔に比べれば慌てることはなくなったものの、同じ花が続くことがなく、毎年新しく用意する羽目になる。ざっと数えても、色とりどりの花カゴ、チューリップの花カゴ、カーネーションの花カゴ&髪飾り、スミレの髪飾り・・・という具合。それでも、花の指定があれば楽なのだが、バラとかチューリップとかカーネーションのように、名前がはっきり分かる花は今回避けなければならないのが難しい。だって、ほとんど皆が知ってるような花は、女の子全員に割り当てられてしまったのだから。迷った挙句、なるべく野の花らしいものを何種類か選び、アレンジしてもらう。ローラ・アシュレイのワンピースが白地に紫色の花が散ったものなので、一応色を合わせ、髪飾りは白と紫色の2色に絞って。一方サンダルは、散々靴屋をはしごして見て回ったが、季節的にまだ早く選択肢がなかったので、適当なところで手を打った。今年はバベット(ベビーシューズ型の靴)が大流行のようで、どこの靴屋でもバベットなら種類を抱えていたが、春・秋が短く夏の長いアンタルヤでは、バベットは履ける期間が短く、すぐに小さくなってしまって勿体ない。なので、ちょっと早いのだが夏じゅう履けるサンダル一本で探したのである。こうして、明日の準備は完了。明日、ナナは学校に行かずに自宅待機となる。 花カゴと花の冠、合わせて25YTL(約2300円)Polarisのサンダル、バービー人形付き39YTLのところを、 人形なしで30YTL(約2700円)にしてもらう
2006/04/06

♪この~木、何の木、気になる木~見たことも~ない木で~すから見たことも~ない~~、花が咲くでしょう~♪というわけで・・・・まさにこの歌がピッタリの木を見かけました。植物に詳しい方々、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ情報をお寄せくださいませ。(バックの電線がちと邪魔・・・)
2006/04/04

では、お待ちかね♪第2弾!夢のベッドルームと夢のバスルームが登場します。■2階階段ホール階段を上がってすぐ目の前に広がる風景左の扉は控えの寝室、右の扉は客用バスルームソファ(sofa)(ここでは、張り出し窓に至るリビング的な用途に用いるホール)サーモンピンクでまとめられた控えのベッドルーム(1)ベージュのグラデーションでまとめられた控えのベッドルーム(2)控えのバスルーム メインベッドルーム(ご主人の居室)う~む。ベッドルームにヌードは定番だよね?メインバスルーム(ちなみにメインベッドルームと繋がる小廊下は、サウナとランニングマシンのあるジムエリアとなっている)ふっふっふっ。いかがでしたか~?まるでフランスのインテリア雑誌にでも出てきそうなバスルームに、私は口あんぐりでした(恥)。バスタブもクラシックだし。それにしても・・・バスルームに布製のカーテン(しかも、床までたっぷり)とは、勿体ない。庶民にはとてもできない技です(涙)。お金持ちって、ほんっとにスゴイですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
2006/04/02
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