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私の住む新興住宅地は、つい10年ほど前までは、石灰岩質の岩だらけの土地に低い潅木や高山植物が自生する、マキ(maki)といわれる地中海地方特有の風景が広がっていたそうだ。その名残は、アパルトマンや高級スィテに凌駕されつつあるこの一帯にも、いまだに残っている。下の娘が小さい頃は、上の娘の学校の送り迎えの前後、そんな潅木の広がる空き地を娘と散歩しては、野生のアネモネや珍しい高山植物や陸ガメを発見するのがただ楽しかった。下の娘が就学し、送り迎えにさえギリギリ間に合うような慌しい生活が始まってからは、ゆっくり空き地を散歩する時間など、すっかり生活から抜け落ちてしまっていた。なので今日、学校に用事があって出掛けたあと、大通りのバス停に出るため久しぶりに空き地の中を通りぬけた時、思わぬ風景に出会って目が覚める思いがした。 夏。アナトリアの野山をドライブすると、至るところで見かけることのできるアザミの一種。しかし、我が家の近所の空き地でも見られるなんて。この4年半、まったく気付かずに過ごしていたのだ。高さは1m前後から、2m前後にまで及ぶ。花全体が堅い棘で覆われていて、容易には人を寄せ付けない花である。夏の終わりに枯れて茶色く変色してなお、鋭い棘で人を刺す、矍鑠とした花である。このアザミの正式名称を調べてみたが、見つからず断念した。アザミのトルコ語としては、エシェッキディケニ(Esekdikeni=ロバの棘)、デヴェディケニ(Devedikeni=ラクダの棘)、メリエムアナディケニ(Meryemana dikeni=聖母マリアの棘)などが見つかったが、画像・イラスト等で確認すると、いずれもこのアザミとはまた別の種類であった。日本語(+学名ラテン語)では、膨大な植物を画像とともにまとめた優秀なサイトがあり、アザミだけでも何十種類も網羅してあったのだが、今度はあまりに膨大すぎて確認が追いつかなかった。このアザミの名称等をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。あるいは、このアザミが載っているページを見かけられた方がいらしたら、ご教示いただけると助かります。
2006/06/30

アンタルヤ県青少年スポーツ局主催の夏期スポーツクラブの開会式があり、エミとナナを連れてサバンジュ・スポル・サロンに出掛けた。7歳以上が基本条件のこのスポーツクラブに、エミとナナは今年初めて参加するのである。3ヶ月という長い夏休み。日本帰国の予定もなく、またどこにも遊びに行くあてのない娘たちにとって、きちんとしたスポーツのレッスンを受けるまたとないチャンスである。当初、昨年の夏に自力で泳ぎを覚えたエミにも、姉を見習って見よう見まねで泳ぎを体得しようとしているナナにも、今年こそはきちんとした水泳のレッスンを受けさせようと考えていた。しかし、昨年9月以来、学校のバドミントン・クラブで週3回放課後に練習を重ね、新生クラブながら地元の大会にも参加して本格的なスポーツ活動を経験したエミには、青少年スポーツ局主催のスポーツクラブにバドミントンのコースが出来ると聞いて、迷うことなくバドミントンのレッスンを受けさせることにしたのである。一方ナナは、学校の授業に週1回組み込まれているクラブ活動で、リトミック・ジムナスティック(リズム体操。新体操のこともこういう)&モダンダンスに参加しているので、その系統でレッスンをと思っていた。同じ青少年スポーツ局のクラブでジムナスティック(体操)のコースがあり、ナナはそちらを希望していたのだが、曜日、場所の関係で泣く泣く諦めてもらい、その代わり、ナナにも姉と一緒にバドミントンを経験させてみることになった。夏休みが3ヶ月と長いので、この期間に子供たちにさまざまな経験をさせ、同時に親の面倒を軽減するため、どこでも有料のサマースクールが開校されている。チョジュッククルブ(子供クラブ、子供教室)、スポーツクラブ、サッカークラブ、プールやテニスコート付きの4~5つ星ホテル、ターティルキョユ(休暇村)から、各区主催のスポーツクラブまで。週5日。朝から夕方まで、朝食・昼食付きでさまざまなプログラムを用意しているヤズ・オクル(サマースクール)になると、月謝は300~400YTL以上?になるらしい。が、当面緊縮財政を強いられている我が家にとっては、県青少年スポーツ局主催のスポーツクラブは有り難い存在だった。なにしろ、週2日行われるバドミントン・コースの参加費は、7月初め~8月末の2ヶ月間で、たったの30YTL(約2200円)!人気コースの水泳やテニスでも、2ヶ月間で100YTL(約7200円)と、普通のスポーツクラブのほぼ半額である。さらに、無料!のコースもたくさんある。陸上、自転車、ボクシング、登山、レスリング、民族舞踊、ハンドボール、卓球、アーチェリー、チェス、ヨット、野球&ソフトボール、重量挙げなどなど。学校の体育施設・体育教育が貧困なトルコでは、スポーツは学校外で有料で教えてもらい、やらせてもらうもの。経済的な理由でスポーツ経験をなかなか持てない庶民・貧困層の子供にもスポーツを経験させ、青少年のスポーツ人口を増やし、未来のスポーツ選手を育成・発掘することを目的としている青少年スポーツ局ならでは政策であろう。ちなみに、すでにバドミントンのラケットを持っているエミ&ナナであるが、夏休み前に開催されたバドミントン連盟主催のレッスンでは、ドイツ製のラケットが無料で配布されたほどである。スポーツへの梃入れが盛んなトルコなのだ。朝9時半から開催された開会式には、一部とはいえかなりの人数の父兄が集まってきた。(参加申し込み者は、最終的に35部門で750人にのぼったという)マイクで案内があり、クラブに参加する子供たちだけが集合させられた。ほどなくして、エミが目を真っ赤にしてプンプン怒りながら観客席に戻ってきた。「バドミントンなんか、どこにもないじゃない!」どうやら、各部門ごとに子供たちが集められていたようなのだが、バドミントンがどうしても見つからなかったらしい。私は混雑を極める出入り口付近で、係りの人間らしい人にたらい回しにされながら、バドミントンはあるのかないのか、どこで集まっているのか訊き回った。こういうところがまったくトルコ的なのだが、インフォメーションも、会場整理をするスタッフも不在で、カユット(登録手続き)と書いてあるデスクに詰め寄っても要領を得ない無能が座っているだけ。最後に「バドミントン」と書かれたプラカードが見つかり、それをナナに持たせての入場となった。つまり、バドミントンは不人気だったのか、エミ&ナナ以外に誰も、担当コーチさえも!来ていなかったのである。実は、トルコではバドミントンはまだまだ知られていないスポーツなのである。ラケットを持っていると「テニス?」と訊かれる。「バドミントンよ」と答えると「何それ?」という反応が返ってくる。羽のついたボール(シャトルのこと)があって、ネットを挟んでそれを落とさないようラケットで打ち合うのよと説明するのだが、ピンと来ない人が多い。大卒の学歴のある人々でもそれは同じである。ふたりきりの「選手団」はさも所在無さげ。プラカードを抱えてしゃんと立っているナナに比べ、エミなんか遠目にも不機嫌極まりない顔でそっぽを向いている。やがて大会などで顔見知りのふたりの女の子が後ろに並び、エミの顔にもようやく安心した表情が浮かんだ。会場にいる全員が起立、直立不動の姿勢で国歌斉唱を待つ静寂の時、ちょっとしたアクシデントが。水泳の選手団の先頭にいたわずか5歳の男の子が、静寂を突き破り突然泣き声で「チシム・ゲルディ~(オシッコ~)!チシム・ゲルディ~(オシッコ~)!ワアアーーー」といって泣き出してしまったのだ。会場には微笑み、苦笑が広がる。「ババ~(パパ~)!チシム・ゲルディ~!」泣きながら父親の元に男の子が駆け寄り、慌ててトイレに連れ去られると、待ってましたとばかりスピーカーから『イスティクラル・マルシュ(独立行進曲)』が流れ出した。そんな「事件」があって、この男の子は一躍開会式の人気者に。入れ替わり立ち替わり記者、カメラマンたちにマイクを突きつけられたりカメラを向けられたりしていた。その後、キックボクシングのデモンストレーションや民族舞踊の披露(練習着のままなのが残念)もあって、開会式はなかなか大掛かりなものに終わった。娘たちのバドミントン・コースは、来週火曜から始まる。火曜・木曜の週2回、1回が3時間というレッスンである。最初バドミントンに難色を示していたナナが、初回からレッスン拒否という態度に出るのではないかと少々心配ではあるが・・・・ナナがバドミントンを気に入ってくれれば、行く末は、「ジャポン・バドミントンジュ・カルデシレル(日本人バドミントン選手姉妹)」として注目を浴びたりして・・・・なんて、夢想しないでもない私であった。
2006/06/29
完璧に、夏バテ、である。たぶん、夏バテだと思う。いや。もしかして軽い熱中症(熱疲労)かな・・・?今週に入って、ナナ、私、エミの順に体調を崩している我が一家。ナナは日曜の夜から39度5分の熱を出し、死んだかと思うほど深く眠った翌月曜、夕方までには37度に下がり、今はピンピンして毎日バフチェ(庭)遊びに熱を入れている。ホッとしたのもつかの間、昨夕から私がダウン。身体がダルく、頭痛がして、食欲は皆無。子供たちにも「お腹が空いたら、残ってるクスル(挽き割り小麦のサラダ)を食べてね」と言いおいて、早々にベッドに入った。今朝もまだ身体がダルく、さっぱりするかとシャワーを浴びたら逆効果。気持ちが悪くなって再びベッドに直行。娘たちは、自分たちでスジュックや卵を焼き、昨日のパンと一緒に朝食を食べてくれた。その後、娘たちはコムシュ(隣人)のプール付きヤズルック(夏用の家、別荘)に招待されて遊びに行ってくれ、夕方まで寝たり起きたりを繰り返したおかげで、身体も少しは軽くなってきた。ところが今度は、コムシュに送り届けられて帰ってきたエミが、熱があるという。たぶんプールで長居して熱に当たってしまったんだろう。コムシュが早々に熱さましのシロップと抗生物質(とにかくすぐに薬を飲ませてしまうのは、私は絶対反対だけど)を飲ませたらしいが、熱を測れば38度3分。これから深夜にかけてもう少し熱が上がることだろう。 (実際上がったのは、39度2分までだった)アンタルヤの熱暑にもすっかり慣れたような気がしていたが、油断は禁物。気温の最も上がる日中に、拷問バス&ミニビュスを使って出掛けざるをえない私と、浜辺やバフチェで長時間遊ぶことの多い娘たち。ついつい水を持たずに出掛け、「喉が渇いた~!」と思ったら要注意である。熱が体内にこもったまま、身体が火照った感じが続いたときも。これからは、もう少し自分にも娘たちにも配慮してやらないと。。。アンタルヤの7月8月は、こんなものじゃないんだから。これからの季節。皆さんも、十分にお気をつけあれ!
2006/06/24
娘たちの学校、コレジ(私立学校)が閉鎖の危機に立たされていることを、3回に渡って紹介したと思う。学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(前編)学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(中編)学校閉鎖の危機と、私立学校裏事情(後編)それから1週間。私はアンタルヤ在住の友人で、ふたりのお子さんをデブレット・オクル(国立学校)に通わせてらっしゃるmehtapさんのアドバイスを受け、カレイチから車で5分ほどのデヴレット・オクルも見学に行った。アンタルヤ市内のデヴレット・オクルの中でも評判の高いこの学校には、父兄の寄付によると思われるが、クリマ(エアコン)や学級文庫なども各クラスに備わっているし、一クラスあたりの生徒数が40~45人というのを聞いて、悪くない印象を抱いて帰った。もう一つ、この学校に関心を持った理由は、バドミントンがアンタルヤ一だということ。昨年バドミントンのクラブができたばかりのうちのコレジは、2度の試合を通じてコテンパンに打ち負かされてしまったのである。もし、デブレット・オクルに通わせるとしても、エミのバドミントンはどうにか続けさせてやりたい。コーチを外から呼んでクラブを開いてもらうなど、私に出来ることは何でもするつもりだったから、優秀なコーチがいて実績のあるこの学校には、それだけの魅力があった。もし、学区制がかなり厳密なもので、居住しているマハッレ(地区)に対応する学校しか選択できないなら、もう行き先は決まっている。なんらかの手立ての余地があれば、この学校は有力候補に思えた。しかし、ナキル(転入)のカユット(登録手続き)は7月中旬からと、他のどの学校よりも早かった。コレジの動向がはっきりするのをギリギリまで待ちながらも、今から必要な書類の準備や根回しをする必要があった。カレイチの建物のイスカン(居住許可)手続きに奔走しながらも、私の頭の中は学校のことで一杯だった。それこそ学校をテーマに夜な夜な夢を見るほど。それから、コレジがデブレット・オクルになるかもというガセネタがあった以外は、学校の売買に関する新しい確実情報はなく、父兄の不安と緊張感ばかりが高まっていった。他のコレジのカユット締め切りまで残すところわずか。顔を見合わせれば、話題は一つしかなかった。私の中では、デヴレット・オクルに行かせる覚悟ができあがりつつあった。私は娘たちに対しても、コレジに別れを告げ、デヴレット・オクルに移る覚悟をさせておくつもりだった。学期の終了まで1週間を切り、すでに学校に出てこない生徒や、私服で登校する生徒が多い中、娘たちには最後まで制服を着させ休まず登校させるつもりだった。「あと1週間で、先生とも友達とも離れ離れになるかもしれないんだよ。だから先生や友達と最後の日までなるべく一緒に過ごしましょうよ」「その制服を着るのも、もしかしたら最後かもしれないのよ。だから最後まで制服で行きましょう」と、そういって。しかし、そんなセンチメンタルなことを考えるのは、私たちくらいのものなのかもしれない。この木曜日に企画されていたターティル・キョイ(休暇村)へのピクニックは、エミのクラスは、参加希望者はたったエミだけ!ナナのクラスも、ナナを入れてたった2人しかおらず、1年生と3年生だけが学校居残りという残念な結果になってしまった。1週間前からこれを心待ちにしていたエミは、ヤケになってしまうほど失望。一方の私も、子供が行きたくないからと、もう学校は終わったようなものと、きちんと最終日まで学校に通わせない父兄に失望していた。学校が閉校になるかもしれないという時に、最後の日々を、慣れ親しんだ友達同士で思いっきり遊ばせてやれる機会を放棄してしまうとは。私はここ1週間、送り迎えの度に校舎を見上げ、花の終わってしまった蔓バラの棚の下をくぐりながら、校庭のそこここに植えられた緑の美しさに目を細め、思わず涙ぐんだりした。アンタルヤに引越しするや否やエミを5歳児クラスに入学させ、それ以来5年間毎日ナナと通い続けた学校である。日本人として見れば不満はあったが、あらためて客観的に見れば不自由の少ない素晴らしい学校だった。私は、この学校への愛着が娘たち以上に強かったことを発見して、我ながら驚いたのだった。****昨日、木曜日。朝、学校に娘たちを送って行くと、ナナの担任教師が私の元に近づき、満面の笑みで吉報を知らせてくれた。前日水曜日の午後、学校が売れた!こと。買ったのは、地中海地方全域で公共事業など大きな建設事業を手掛ける大手の建設会社。私も、コンクリート・ミキサー車の脇などに入っている赤いロゴで、その会社の名前は知っていた。建設会社だが、以前にもAコレジが経営危機に陥った時、経営を立ち直らせるため援助した実績があるほど、資金が潤沢で慈善意識も高いらしい。つまり、学校はこのまま存続し、今まで以上に良くなる可能性が高いこと。すでに前日のうちにサインを済ませており、今日(木曜)はノーテル(公証人役場)で必要な手続きを済ませ、一両日中には完全に売買契約が完了するだろうこと。契約が済み次第、カンパニヤ(キャンペーン)を開始し、カユットも始まるだろうこと。失われた生徒を呼び戻すため、おそらく学費は昨年と同額程度になるだろうこと。学校の存続を信じ、このドタバタ劇の間もどっしりと構えていたナナの担任教師と、すでに涙目の私はひしと抱き合って喜びを分かち合った。学校の中は、喜びに満ち溢れていた。どの教師も、廊下のそこここで集まっては明るい会話を交わしていた。階段を下りて1階に行くと、ちょうどそこにエミのバドミントンの顧問である体育の先生がいて、すぐに私の元に駆け寄ってきた。彼女の顔も満開の花のように輝いている。彼女ともひしと抱き合って学校の存続を喜び合い、今日まで娘たちにどのように話して聞かせ、どのように一緒に覚悟を決めてきたか打ち明けるうち、私の目はみるみる涙で一杯になった。夫にもすぐにメールで報告。資金繰りが厳しいのは承知しているが、どうか娘たちをコレジに通わせて欲しいとお願いした。夫からも返事が届く。デブレット・オクルに決定したような素振りだった夫だが、コレジの存続を彼も素直に喜んでくれた。娘たちの幸せを一番に(妻の私より!)考える夫のこと、きっと何とかしてでも今のコレジに通わせてくれることだろう。エミは、「今日は、人生で一番幸せな日♪」といった。昨日午後、学校にて弁護士を挟んでの売買契約が無事成立したらしい。本日金曜日。新しいオーナーにより、学校の全教師を集めてのトプラントゥ(集まり)が開かれ、そこで正式に挨拶があったという。学校は今まで通り存続し、新しく生まれ変わること。今まで以上に良くなること。さらに、教師たちにお金の心配なく生徒の教育に専念してもらうよう、こんな言葉をかけたそうだ。「教育はあなたたちが。お金は私たちが」その言葉を伝え聞き、私は再び先生方と抱き合って喜びを分かち合った。もう2度と、学校が転売されたり競売にかけられたりしないことを。そして、コレジがかつての評判を取り戻し、生徒たちも父兄たちも、胸を張ってコレジの名前を言える日の近いことを心から祈りたい。
2006/06/16
ため息ものの愚痴ばかりじゃない。たまにはこんな軽いノリの愚痴でも。(ブログの面汚し?ものではあるが、黙ってられないので・・・)周りの人の汗の臭いの気になる季節。繁華街から帰るミニビュスの中でのお話である。窓側(といってもガラスだけで窓は開かない)に座る私のまん前、こちらは半開きになった窓の横に座っていた女性が降りたあと、その隣にいたオバチャンが即座に窓側に移動した。ノースリーブのブラウスを着た彼女は、すぐに窓を全開にし、あろうことか、手を頭の後ろにのせ、肘を思い切り上げて、脇の下に風を当てて汗を乾かし始めたのである!これがどんなことかお分かりだろう。窓から大量に吹き込む風とともに、汗の臭いが、真後ろにいる私の鼻腔を直撃しはじめたのである。グエッ!ゲホゲホ!も~う。たまらん!!普段なら、近くに座った人の汗の臭いや体臭がどんなにキツくても、知らん顔しながら息を止め我慢する私だが、今日はさすがにその臭いにも、彼女のテルビエスィズ(無作法)な行為にも我慢できなかった。思わず鼻先で手を振ってしまったあと、もう我慢するもんかと、鼻をつまみ口を手で覆い(ケシケ、ハンカチでもあったなら!)、それから15分ほど自宅近くのバス停に着くまで我慢して座り続けるしかなかった。私の横、通路側にはふたり座っていたので、彼女たちに断ってバス停でもない場所で急に席を立つのも、あまりに不自然だったから。熱い、狭い、臭いと三拍子揃ったミニビュスは、とかくイシケンジェ(拷問)に例えられるけど、逃げられないところへきて、このようなキツい汗の臭いを嗅がされるとは、まさに拷問のよう。オバチャンは、腕が疲れるのか、時々下げるので、そのたびに私はこれで終わりか?とホッとするのだが、またすぐ腕を上げて脇の下に風を当て始める。腕を上げた途端、風とともにモワッと押し寄せる臭い。。。。自分の汗の臭いや体臭に対する羞恥心が欠如していると思われるトルコ女性の中でも、こんな傍迷惑なオバチャンははじめて。もう、こんな迷惑行為は二度と勘弁してくれ~~~!皆さんの周囲にも、「自分さえ良ければ」というこんな人、居ますか?(居ますよね?ね?)
2006/06/14
私たちは、過去に一度も見学に行ったことのないコレジの中で、自宅から今のコレジの次に近いコレジを見に行くことにした。目と鼻の先にコレジがあるというのに、我が家の近所からわざわざ通っている子供もいるくらいなので、それほど酷いものだろうとは予期していなかったのだが・・・車窓からその校舎が見えた時、そのまま引き返そうかと思ったくらい、ショックを受けた。これが・・・コレジ?普通の4階建てのアパルトマンほどしかないそこは、隣にある運動場も猫の額ほどしかなかった。まさにアパルトマンを改造して作られたことが歴然。夫に「入ってみないの?」と訊かれたが、私は近づくのも嫌で車に残った。夫に促されて仕方なしに門をくぐり中に入ったが、外から見るよりさらに印象は悪かった。薄暗くて狭い廊下。廊下の向こうに小さいトイレが丸見え。一階分が一ダイレ(フラット)の広さしかない狭い校内。地下に設けられたイェメッキハーネに至っては、天井近くに明かり取りの窓が一つあるきりで暗く、昼間から電灯の下で食事を取ることになる。校長は、開口一番「うちはビナー(建物)ではなく教育内容を重視してます」と先手を打とうとしたが、それこそが施設の悲惨さを自覚している証拠だった。家庭的な雰囲気?生徒一人一人の役割分担が大きい?それはひとつの理屈ではあるが、環境が子供の心理に及ぼす影響は大きいはず。日中から電灯を燈さなければいけない薄暗く狭い教室に、走り回ったりふざけることもできない狭い廊下。真っ暗なイェメッキハーネ。何も言う必要のないことだろう。それで学費の方は、私たちのコレジの今期のそれより1千YTL安い程度である。「これならデヴレット・オクルに行かせた方がまだまし」その一言を口にした途端、そのアイデアが急に私たちの中で現実味を帯びてきたのである。私たちは、自宅の周辺地区と、カレイチの事業所周辺地区にあるデヴレット・オクルを、この金曜日に4つまとめて見学して廻った。カレイチ内にある唯一のデヴレット・オクルは、創立1929年と77年の伝統を持つ古い学校だが、建物の方も相当古く、小さく狭い。最悪なのはトイレで、戸外にあり、頭をぶつけそうなくらい丈の低い古い木の扉で閉ざされた空間には、電灯すらなさそうだった。3つ並んだ扉の前を小蝿がプンプンと飛び回っている。日本でいえば昭和30~40年代の風景だろうか。4つのデヴレット・オクルの中では最も混雑度が低く、クラスあたりの生徒数45人前後ではあるが、ここに娘たちを通わせることなど、到底考えられなかった。ふたつめに訪問したデヴレット・オクルは、カレイチから車で2~3分。徒歩なら10分くらいの距離にある、比較的規模の大きい学校で、きちんと管理されている印象を受けた。しかし、クラスあたりの生徒数も大変なもので、平均50~55人。一番多いクラスになると、68人!である。今のコレジでは、最大時36人になったことはあるが、大体15~25人という少人数クラスを経験してきた娘たちが、長机ひとつに3人4人とすし詰めで座ることに果たして耐えられるであろうか。その点が大いに不安だった。3つめのデヴレット・オクルは、自宅とカレイチとの中間地点で閑静な住宅街に位置する。他の3つの学校は、午前・午後の2部制だが、ここは朝から午後3時までの1部制であるのがいい。ただし、生徒数はやはり50~60人となる。4つ目のデヴレット・オクルは、自宅の校区内にある学校で、市の中心からは遠ざかる方面にある。近年に建設されたらしく校舎は比較的新しい。生徒数は45~50人程度。ある程度は予想していたとはいえ、デヴレット・オクルの混雑振りは想像を超えるもので、正直ショックだった。県外や郡部からの人口流入の激しいアンタルヤの学校不足は顕著。建築ラッシュの続く新興住宅地に国の対策は追いつかず、我が地区をはじめ地区内に1校も存在していないところも少なくなく、近隣区の学校へと押し寄せる結果となるわけである。その結果、1部制の学校は激減し、多くの学校が2部制へ移行。そしてクラスあたりの生徒数も50人前後かそれ以上というのが平均となってきたようだ。夫は、コレジが完全に閉鎖になるかどうか、まだ分からないというのに、娘たちをデヴレット・オクルに入れることを早々に決断してしまったようだ。4つ目の学校を一緒に見学に行き、父親の考えを聞かされたエミは、悲しそうな、憮然としたような、納得がいかないような複雑な表情を浮かべながら、「デヴレット・オクルなんて行きたくない。コレジに残りたい」と訴えた。娘に弱い夫は、「もちろんコレジが閉鎖にならなければ、そのまま残るだろうけど・・・」と最終決定でないことを匂わせた上で、「1年くらい、デヴレット・オクルも経験してみるのもいいんじゃないの?皆が通ってるんだから、悪いってことないでしょ。子供のうちに色んな経験をするのも大事なことだよ」と説得しにかかった。夫の考えにも一理ある。しかし、1年が決して1年では終わらないだろうことは分かっている。学費にお金をかけない状態に慣れてしまえば、余分な出費を何より嫌う夫のことである、年間100~200万円ものお金を新たに工面することが馬鹿らしくなるのではないだろうか。それよりなにより、私は娘たちの経験するであろうカルチャー・ショックの方が心配だった。コレジでの生活を通して、学校とはそういうもの、と学んでしまった娘たちが、デヴレット・オクルで出会う風景や人々をことごとく否定的に見て、溶け込もうとしないのではないか、疎外感を感じたりするのではないか、と。さらには、トイレに神経質なナナは、掃除の行き届いていない、トイレットペーパーの準備のないアラトゥルカ(トルコ式)のトイレに入れなくて、我慢し続けて失敗するかもしれない。人に邪魔されて集中力を失うのが大嫌いなエミが、ひとつの長机に3人4人とくっつきあって座ることに反発するのではないか。そんな余計な心配が、頭に浮かんでは消えた。子供の適応能力からすれば、あっというまに慣れて、案ずるより産むが易しとなるかもしれないが。そんな時、また新たな情報が耳に入った。ナナの担任教師、エミのバドミントンの顧問になる体育教師、リセ(高等部)の英語教師など何人かの教師が異句同音に言うことには、「学校はそんなに簡単には閉鎖できない。最低1年の猶予が与えられなければならないよう決まっている」というものだった。さらに、イスタンブールはバフチェリエヴレリにあるAコレジと現在話し合いが行われていて、もしかしたらAコレジが買い取って運営する可能性があるという。そしてさらに衝撃的なこんな話も。早々にBコレジへのトランスフェルの決まった校長が、副校長やレフベルリッキ・オーレトメン(ガイダンス教師)を含む多数の教師をごっそり、Bコレジに引き連れて行くというのだ。しかも、毎夜毎夜さまざまな父兄を集めて食事会を開き、Bコレジへの勧誘までしているとか。父兄から「学費が高い」の声が出れば、3割の値引きまで約束して勧誘に努めているという。校長はじめトップ陣が、今やまったく職務を放棄し、必要な連絡事項すら教師に流してくれないので、教師が自分たちで学校を運営しているというのだ。いったい、校長のそんな職務怠慢、自己保身が許されるだろうか。自分の利益を最優先し、自分の下にいる何百人もの教師、生徒の保護を完全放棄するとは!今のコレジの存続も、私たちがそこに残れる可能性も、今やはかない夢のような、ぼんやりとした現実味しか帯びていないのを私は感じていた。イスタンブールのAコレジ?もしAコレジが買い取ったら、今のコレジは校舎や校庭だけ残して消滅し、まったく新たなコレジが生まれるだけである。教師数も生徒数も半減し、規模は縮小。一方、学費は今までのようなわけにはいかない。おそらくイスタンブールの相場に合わせ、またブランド校に習って一気に高くするはずである。現在のような良心的な学費では採算が取れなくなっているのが、最近のアンタルヤのコレジ事情なのだから。コレジ間の熾烈な競争は激化するばかり。全国展開を狙うブランド校が、トゥリズムを中心に発展を続け、富裕層が急激に拡大しているアンタルヤを、受け入れ土壌も十分と見て、今後も次々と進出してくることが考えられる。小さく名もないコレジは、次第に淘汰されていくことだろう。そして、より優秀な教師や生徒、より裕福な父兄の争奪合戦。同じアンタルヤ市内で、このような限られたパイの取り合いが行われているのである。教師は給与の高さに、父兄は豪華な施設に惹かれ、我も我もとブランド校へ流れていく。クオリティを保つために当然学費は跳ね上がる。しかし、高すぎては思ったほど生徒は集まらない。今になって、B校が学費を3割、A校が2割下げたのも、すべて熾烈なレカーベット(競争)のためである。デヴレット・オクルへのナクリ(転入)手続きは、早い学校で8月下旬から、最も遅い学校で新学期の始まる直前である9月第1週、第2週あたりだという。それまでに、さらにアラシュトゥルマを重ねながら、コレジ間の動向にギリギリまで耳をそばだてていくしかない。猶予はまだある。ギリギリでもどうにかなるのがトルコだから。デヴレット・オクルであれば、クラスの人数がなるべく少なく、トイレをはじめとした施設が合格点を出せるもので、スポーツ活動や社会参加の機会の多い学校を選びたい。そのためには、もう少し走り回り、聞き込み調査を行わねばならないだろう。今年の夏も、私たちの日本行きは完璧に不可能となった。
2006/06/10
実は、今のコレジは、2002年にも経営者が変わっている。その時はすんなりと転売が行われた上に、新しく来た今の経営陣は、前の経営者時代に落ち込んだ学校を建て直し、若くやる気のある教師を積極採用したり、トイレや給食、セルヴィス(通学バス)の質を向上させたりして、なかなか検討していた。以前にそんな経験があったために、今回の件もすんなり新しい経営者が登場して一件落着となるような、淡い期待を抱いていたのである。しかし、なかなか決着せず、話が二転三転する状況を見て、さすがの私も強い不安に襲われるようになった。多くのトルコ人父兄のようには、それまで学校や教師に関してほとんどアラシュトゥルマ(調査)やデディコドゥ(噂話)をしたりしない私だったが、娘のクラス友達の母親と出会ったりした時、今回の件に関して思わず訊いてみるようになった。その多くは、「成り行きを待っている」という返事だったが、建前と本音の大きく違う、そしてまた土壇場で180度意見と態度を変えてしまうトルコ人のこと、裏で何を考えているか、どう行動しているかは窺い知れなかった。私は、4年生の娘を同じコレジに通わせている仲のいい友だちユリにどうするか訊いてみた。彼女だけは本音で話し合える数少ないトルコ人の友だちだった。彼女は、昨年開校した有名ブランド校Tコレジに転校させることを希望していたのだが、編入試験に落ちたのか、あるいは高い学費のためか断念し、今のコレジに留まり、昨年学校の近所に引越しまで済ませていた。ブランド好きの傾向がある彼女は、やはり今年9月に開校となるブランド校Bコレジに関心をかなり示していたが、学費が高いので難しい、「もし学校が閉鎖になれば」今のコレジと同様伝統のあるAコレジにするだろうと言った。そんな話を電話でした30分後、彼女から嬉しい一報が入った。例の、最初の競売でいったん購入を決めた実業家が、オルタック(共同経営)で買うことに決まったらしいと、友達から連絡が入ったというのだ。「これでほとんど決まりらしいわよ」彼女がきっぱりと明るい声でそう言うので、なにかと懐疑的な私も初めて安堵のため息をついたのだった。翌朝、副校長と校庭で出会った私は、この件について早速尋ねてみた。彼女も「今よりずっと良くなりますよ。1~2週間後には新聞にも発表されるでしょう」と太鼓判を押していたのだが・・・・。それから待てど暮らせど、公式発表はなかった。その間にも、エミはクラスの友達から聞いた噂話を自宅によく持ち帰ってくるようになった。「学校が閉鎖になるかもしれないって。そうなったら、誰々くんはデヴレット・オクル(国立学校)に行くんだって。誰々くんは、ベレキに新しく開校するコレジに行くって言うし」「売店のおばさんがやめたんだって。給料を3か月分もらってなかったんだって」などなど。恐ろしいことだが、父兄間のデディコドゥが子供の耳に入るのはあっという間なのである。中には、学校の事情を包み隠さず子供に説明している父兄もいるのだろう。それにしても、状況はいったいどうなっているのだろう?今週アンタルヤの自宅に戻った夫に、ムハセベジにきっちり訊いてもらったところ、衝撃的なことを言われたという。十中八九、学校は閉鎖されるだろうこと。今年はもうカユットも難しいから、諦めて他の学校を探した方がいいこと。そして、これまでの裏事情も・・・その裏事情とは、こうだ。現在のオーナー、実は購入予定の実業家から借金をしており、借金が返せないので学校をその人に売ることで借金を帳消しにしようとしていた。ところが、後になって借金先は自分だけではないことを知った実業家が、購入を断念する。その後、この実業家は再度オルタック(共同経営者)を見つけ売買契約の話合いに入ったが、現オーナーが、売っても借金返済で手元に残らないのが分かったか、もっと高く売れると欲を出したか、売り渋り出したというのだ。このような足踏み状態はまだ何ヶ月も続くだろうから、来期の開校はかなり難しい。少なくとも1年間は他の学校に通わせることを考えた方がいい。というのがムハセベジの意見だった。これを聞いて、私たちはすぐ上の娘エミの担任トゥーチェ先生に訊いてみることにした。エミともども、トゥーチェ先生を大いに慕っている私たちは、競売の話が公になって以来、彼女の動向も常に気にしていたのである。昨年Tコレジが開校した際には、トランスフェル(移籍)する先生を追いかけて(というより引っぱられて)クラス全員で転校していった例もあるので、もし本当に学校が閉鎖となるなら、彼女の行き先次第では一緒に転校するということも十分ありえる話だった。トゥーチェ先生の教えてくれた内容は、予想はついたが多少驚いた。今のコレジの小学部の校長は、もうすでに辞職を申し出ており、今年開校するBコレジにトランスフェルすることが決まっていること。この校長が一緒に連れて行く教師を何人も集めており、その中にトゥーチェ先生も入っていること。そのためトゥーチェ先生もBコレジとの面接を進めていること。そして、トゥーチェ先生の元には、私たち同様彼女の動向を気にして来ている父兄がいるので、近々外で集まりましょうという話だった。転校先として、Bコレジはとうに不可能と諦めている私たちは、ため息をつくしかなかった。昨年開校のTコレジに並び、今年開校予定のBコレジも、年間学費は給食費、セルヴィス(通学バス)含めて約1万3千YTL(今のレートで約100万円)だと聞いている。娘ふたりを通わせると、200万円!現在のコレジには、娘ふたり分の年間学費として、給食費込みで約1万3千YTL払っているが、建設資金のためにクレディ(信用貸付)まで受け、毎月の返済に追われている私たちには、学費が2倍になる学校になどとても通わせられない。Aコレジとて、学費、セルヴィス、給食費を合わせると、約1万YTL(約75万円)だというので、今のコレジの5割増である。他の中小コレジを当たってみるか、さもなくば、思い切ってデヴレット・オクルに入れるか。夫は来週早々帰ってしまい、9月まで戻らない。夫の留守中、学校に関する情報収集と準備は、私に残された仕事となる。のんびりと構えた夫を急かせ、「もしも」の場合に備えて、私たちは遅まきながらアラシュトゥルマ(調査)を開始したのであった。(後編につづく)
2006/06/09
ここ2ヶ月近く、私たち家族の頭を悩ませている問題がある。現在、ふたりの娘が通っているコレジ(私立学校)が、いつ何どき閉校となってもおかしくない状況に陥っているのである。現在の経営者は、2004年に私たちのコレジを買い取ったカイセリ出身の実業家であるが、学校経営を含む諸事業のために多額の借金を重ね、とうとう差し押さえ、競売という道を辿ることになってしまったのだ。予兆は4月半ばを過ぎてから、娘たちの口を突いて出た言葉に表れた。「今日、お昼ご飯何にもなかったんだよ~!」私はビックリして聞き返した。普段、チョルバ(スープ)、ピラフかマカルナ(パスタ類)、アナイェメッキ(主となるおかず、メインコース)の他に、イェメッキハーネ(食堂)の真ん中に設置された大きなテーブルにアチュックビュフェ(オープンバフェ)が用意されていて、何種類ものソークメゼ(冷菜)やサラダ類、デザートが並び、小学生には勿体ないほどの豪華な給食が提供されていたのだが、娘たちが言うには、チョルバとハンバーガーとフライドポテトだけで、サラダも何もなかったというのだ。私は、どうしたのだろう?と訝りながらも、なんとなく経営難の匂いを嗅ぎ取っていた。毎日の習慣として、娘たちが帰ってくると「今日はお昼に何が出たの?」と聞いていた私だが、それ以来、アチュックビュフェが復活することはなかった。チョルバ+ピラフ+クルファスリエ(白インゲンの煮物)などという簡素な食事で、新鮮な野菜や肉がほとんど登場しないのだ。いくらなんでも栄養のバランスに欠けている。ムハセベ(会計)に問い質しに行かねばならないなあ~と思っていた矢先だった。新聞のアクデニズ(地中海)版1面に、私たちのコレジが売却されたという記事が載ったのである。購入したのは、進学校アナドル・リセスィ(アナドル高校)のひとつに寄付によって家族の名前を冠した実業家で、私たち父兄の心配はすぐに期待感に変わった。この人物が、同じように亡くなった家族の名前を冠した小学校を欲しがっているという話で、彼が買い取ってくれれば、今以上に素晴らしい学校に生まれ変わるのではないかという期待が膨れていったのも当然だろう。彼が10日以内に指定のお金を支払えば、学校は彼のものになり、噂どおりであれば、新たな経営陣が連れてこられて、学校は継続するはずだった。しかし、彼はお金を払うのを断念し、売却は無効となってしまった。私たち父兄は、再び不安の渦の中に突き落とされた。次の競売は5月の半ば過ぎだった。私は、毎日を不安の中で過ごし、競売の行われた日、すぐにムハセベに確認しに行った。しかし、誰も購入する人物は現れず、流れてしまったという。次の競売がいつなのか、それすらはっきりと分からない状態が続いた。もし。もし学校が、単に金儲け目的の人物の手に渡ったら、学校は閉校、校舎は解体され、約1ヘクタールの土地は、周辺同様、住宅建設用土地に転用されてしまうことだろう。閉校に至らず学校が無事継続したとしても、経営陣が変われば軌道に乗るまでなにかとガタつくことは必至だし、いつまた転売という話が起こるか分からない。中には、最初の競売の段階でさっさと子供を他の学校に転校させてしまった機敏すぎる父兄もいた。今期も残すところ1ヵ月半で、授業は6月16日まで継続して行われるというのに。しかし実際、各コレジともすでにカユット(登録申し込み)の時期が始まろうとしていた。中には、4月中に面接・転入試験・クジ引きなどを経て来期の新入生・転入生を選び終えているコレジもある。今のコレジに未練のない、また子供の学費に糸目をつけない裕福な父兄は、早々に他のブランド・コレジへの転入手続きを始めていた。そんな中で、私たちもそうだが、今のコレジを気に入り、あるいは諸般の事情から今のコレジが最も都合がよく、ギリギリまで結果を待とうという父兄・教師ももちろんいる。娘たちの通うコレジは、創立26年。アンタルヤでも最も伝統のあるコレジのひとつで、当初は本当に素晴らしい教育が行われていたと、今でも地元の人に聞かされる。つい数年前まで、CHP党首デニズ・バイカル(アンタルヤ出身)の孫が通っていたのをはじめ、地元の有力者の師弟が多く通っていた時代もあったのだ。その歴史を惜しむ者。ここの卒業生で、大学卒業後教師として母校に戻ってきた者。担任教師が気に入っている者。学校の規模や雰囲気、学費等さまざまな条件が合う者などである。2001年秋にトルコに引っ越してすぐ、エミを5歳児(満4歳)クラスに入れた私たちにとって、とくに娘たちと私にとっては、5年間朝夕通い詰めた愛着ある学校である。自宅から徒歩3分。娘が忘れ物をすればすぐに届けてやり、学校からの手紙の内容が分からなかったり、子供たちに何かあればすぐに先生に聞きに行き、学校の雰囲気や設備の不備や変更など、些細な変化はすぐに目に入り、クラスの友達や他の生徒たちの様子が手に取るように分かり・・・・トルコの学校システムに不案内だったヤバンジュ(外国人)の私にとって、学校が自宅の近くにあるということは、この上ないアヴァンタージ(アドバンテージ)だった。今更、他の学校への転校を考えることは、なかなか受け入れがたかったのである。(中編につづく)
2006/06/09

キラズ(サクランボ)の季節。我が家でも、旬の味覚を味わいたくて、何週間か前からパザールで500gずつほど購入しては少しずついただいてきた。たぶん今年は、田舎から送ってこないことだろうし・・・・と。夫の郷里のキョイ(村)にあるアンネのヤズルック(夏の家)の隣の敷地には、夫が数年前に苗木を植えたばかりのサクランボ畑があって、ようやく実を結ぶようになった2年前から、この時期になると義妹や義兄が収穫してくれ、アンタルヤの我が家まで送ってくれていた。一昨年には4kgほどだったのが、昨年は19kgにもなって、かなり往生した苦い思い出がある。わざわざ19kg分も収穫してカゴに詰め、カルゴ(貨物便)で送り出してくれた義妹に文句を言えた義理はないが、受け取る方も相応の苦労をしたのである。まずは、義妹がカルゴ会社に持ち込んだのが金曜日。義妹はすぐに「発送したから、明日には受け取って」と連絡してくれたのだが、翌土曜日、自宅で待てど暮らせどやって来る気配もない。夕方になって痺れを切らしカルゴ会社に連絡してみると、「今日はまだ着いていません。アンタルヤまでは大体2日はみていただかないと。明日は日曜日で閉店ですが、月曜日には間違いなく受け取れるでしょう」という。昨年も同じように暑い日々が続いていた。金曜に収穫したばかりとはいえ、トラックの中や、クーラーもあるかどうか分からぬカルゴ会社の営業所で丸々3日置きっぱなしにされては、大方腐ってしまうに違いない!ここでは、日本と違ってクール宅急便なんて発達してないんだから。月曜日、朝10時頃だったろうか。カルゴ会社の営業所に、何時頃の配達になりそうか確認の電話を入れたところ、「これは宅配じゃなく、営業所留めになってますね~」というではないか!ゲゲッ!どうして、宅配にしてくれなかったの~!?「今から配達の車に載せてもらえませんか?」とお願いしたが、すでに配達の車は出た後とのこと。「朝一番で連絡してくれれば載せられたのに」と言われるも、後の祭り。仕方がないから、諦めてミニビュスに乗り、営業所へ。義妹がどれくらいの量を送ってくれたのか、あらかじめ訊いてもいなかったので、営業所の床の上に置かれているふたつのプラスティック製のカゴを見てドッキリした。なんと、あわせて19kg。料金着払いにしてあるので、しめて49ミリオンTL(当時)ほどを支払う。カゴは、義妹の配慮か持ち手付きだったので、19kgなら何とか持ち帰れるだろうと両手に提げ、営業所を後にしたまでは良かった。しかし、50mも行かぬうちに断念。細くて、断面が長方形になった持ち手が手に食い込み、痛くて我慢できないのだ。私は営業所に取って返し、友達のユリ(トルコ人)のところに電話して窮状を訴えた。ユリは、ご主人のヒロさん(トルコ人)に連絡してくれ、ヒロさんが車で拾ってくれ自宅まで送り届けてくれることになった。ヒロさんには、お礼としてカゴをひとつ丸ごと差し上げた。「もしかしたら、半分くらい悪くなってるかもしれないですけど」と、言い添えて。自宅に帰り、上に被せてあった新聞紙を破り取る。案の定、4割くらいがとうに腐っており、下の方には潰れた実から染み出た果汁が溜まって、サクランボの甘酸っぱい匂いが広がっていた。私は、腐ったものは捨て、痛みかけたものはジャム用に、きれいなものは生食用にと一粒一粒選別し、その作業ですっかり疲れ果ててしまった。それでも、生食用は2~3kgはあっただろうか。一方ジャムの方は、痛んだ部分をナイフで削り取り、2つに割って種を出す作業が面倒だった。種をえぐり取るうちに、爪の中まで真っ赤に染まってしまうのだ。フランスにはサクランボの種抜き器まであるそうだが、これだけジャム文化の発達したトルコで、なぜその手の便利な道具が販売されてないのか、無性に腹が立った。手間のかかった割には、ジャムはわずか一瓶と半分に収まるほどしかできなかった。ちゃんと手元に届いたかどうか電話してきた義妹に、営業所留めにした理由を尋ねると、「その方が早く取りに行けると思って」と答えた。車も持たない私が、19kgの荷物を営業所まで取りに行く方が早いと思ったなんて・・・。着払いの費用を考えると、結局パザールで買うのと金額的には変わらない。それに、せっかく送ってもらっても、腐っていては元も子もない。夫の畑のサクランボは、それは見事なナポレオンだけれど、わざわざ送ってもらうまでもない気がした。「もう来年はサクランボは送ってもらわなくていい。売って小遣い稼ぎにするなり食べるなりしてもらって」私は夫に事の顛末を話して聞かせ、夫も「そうだよなあ~」と、私の意見に同調。一度はズベイデに、「来年は必要ない」旨を伝えたはずだった。先週月曜日、アンタルヤに戻った夫が、急に思い出したように呟いた。「サクランボはもう出来てるだろうなあ。送ってもらわないと」去年、妹のズベイデに宣言したことを、夫はちっとも覚えてなんかいなかった。「送らなくていいって言ったと思うけど?ズベイデにそう言ってたわよ、あなたが自分で」私の言葉なんかまるで聞こえなかったように、さっさとズベイデに電話し、週末にはキョイに行って収穫し、アンタルヤまで送ってくれるよう頼んでいた夫。結局のところ夫も、自分の畑のサクランボの今年の出来具合を見てみたいのであった。しかし、今年は昨年の轍を踏まないよう、カルゴでなく夜行バスに載せてもらうことにした。夜8時半発のバスで、翌朝アンタルヤに到着する。今朝、夫は早めにオトガルに出掛けていったが、バスが着いたのは10時頃だったという。ダンボール一箱分。開けてみると、まだ色付きが浅いが、十分見事なサクランボたちである。大粒で、パザールならキロ3YTLはくだらないだろう。体重計に載せてみると、13kgあった。電話で義妹に無事受け取ったことを知らせた夫は、来週もう一度送ってもらうよう頼んでいた。まだ生りはじめたばかりで、本番はまだこれからなのだそうだ。こちらが、ババ(パパ)の畑で収穫されたサクランボ。熟すと赤黒い色になるのだが、色付きはまだまだ。早速口に含んだ夫も、「う~~ん、ちょっとまだ酸っぱいね~」と眉をしかめていた。
2006/06/04

連日、最高気温30℃を軽く上回るアンタルヤ。これだけ暑くなると、自然に冷たい飲み物が欲しくなるわけで、工事現場に毎日詰めていた昨年のこの時期はアイスティーが外出先での私のお気に入りだった。一方、自宅ではコーヒーが手放せない私は、自宅にいる間はもっぱらアイスコーヒーを飲む。それがなぜか、今年。この1週間というもの、リモナタ(レモネード)に凝っている私。きっかけは、先週のヒュリエット紙金曜版。“リモナタの最も美味しい店トップ10”を漠然と眺めていて、驚かされた。今まで、お店で出してるリモナタなんて、きっと濃縮リモナタやインスタントを水で薄めてるだけだろうと軽んじていたのだが、とんでもなかった。どのお店も当然のように自家製で、しかもオレンジを混ぜたりミントを混ぜたりと、オリジナルな工夫を重ねているらしい。中には、製法は秘密、というお店まである。パザールで黄色く輝いている巨大レモンが脳裏にちらついた。レモンの旬も少しずつ終わりに近づいている。この後は、もぎたてレモンは少しずつ姿を消し、保冷用倉庫で長期保存されている小型レモンがそれにとって代わる。いわば、今がリモナタ作りのチャンス!皮が厚くて果汁が少なく、レモン果汁をとるためには適さないかもしれないが、新鮮な香りといい皮のきれいな点といい、柔らかい酸味といい、値段の安さといい、今出回ってるレモンこそ、リモナタ作りにはピッタリではないだろうか?というわけで、思い立ったら即実行。先週の日曜パザールで、皮のきれいな大型レモンを1キロ強購入。さて、これをどのようにして漬け込むか?くだんの“トップ10”の、それぞれのお店の工夫も読みつつ、まずは私にとって一番手っ取り早い方法を試みることにした。皮を黄色い部分のみ薄く剥き、千切りにする。皮のすぐ内側の苦味の強い白い部分は剥いて捨て、中身をザク切りか適当なスライスにする。皮と実を合わせた重量の40~50%の砂糖を加えて、おたまの背などで押しつぶしながら掻き混ぜ、最低12時間くらい冷蔵庫で寝かす。時々、冷蔵庫から取り出して、つぶすようにして掻き混ぜておく。長時間寝かせたリモナタの材料を、粗い布(布巾など)で包んで汁を絞りとる。冷水で2倍くらいに薄めて、できあがり。さて、肝心のお味の方はどうか?簡単なのに意外に美味しくでき感心したのだが、色が薄くて風味がやや弱く、砂糖甘い感じに不満が残った。そこで、2度目のチャレンジ。昨日の木曜パザールで、同じように大型で皮のきれいなレモンばかり選んで1キロ強、1YTL分(約75円)を購入。自宅に戻り、早速仕込みにかかる。色と風味を増すために、今回は皮の黄色い部分を大根おろしでおろして加えることにした。中身は前回と同じザク切り。皮と中身をあわせ、重量の40%の砂糖を加えて、前回同様実をつぶしながらよく掻き混ぜた後、冷蔵庫で12時間以上寝かした。そして今日は、外出から戻って、絞り作業開始。今回のは黄色い色がよく出ているし、風味もたっぷり。なかなかいいぞ~!冷水で2倍強に薄めて・・・さて今度こそ、お味の方は?我ながら、今度は美味しくできた♪皮をおろして加えたので、皮そのものの自然な苦味も出て、砂糖とのバランスもちょうどいい。出来上がりは、こんな感じ。 (光線の具合で、あまりきれいな色が出てないのが残念だけど・・・) これでもう十分美味しいのだが、実はあともう一回くらいチャレンジしてみるつもり。完全に濁ってしまったのが、ちょっと気に入らないのだ。次回は、大根おろしではなく、もうすこし粗いおろし金を使ってみるか、それとも実を絞って果汁のみ漬け込んでみるか・・・・。どうやら、私の自家製リモナタ開発は、来週も続きそうである。* * * *こちらは、先週日曜日のコンヤアルトゥ海岸。朝9時頃から出掛けたので、人出も少なく、波のない静かな海だった。トマト+キュウリ+レタス+白チーズ、トマト+キュウリ+レタス+ツナという2種類の簡単サンドイッチを作り、ポットに自分用のコーヒーも用意して出掛け、パラソルと寝椅子をふたつ借りて(1台1.5YTL=約110円)、またもや3時間以上浜辺で過ごすことに。娘たちが水の中でたっぷり遊ぶ間、私はコーヒーを片手に、新聞に隅から隅まで目を通し、時間が余れば本を読むことにしている。寝椅子に転がって、ゆっくりと活字を追うこんな休日の朝が、私にとっては最高に贅沢なひとときなのである。
2006/06/02
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