遠賀郡浅木の有吉家聞き書き


有吉さん
そうですね。場所が近いというのはたしかにありますね。わりとつながりのある家というのはやはり家が近いですね。もはや浅木とはほとんど縁切れ状態な気がします。
10親等や8親等もはなれていてよく続くものですね。ろですねうちはそこまで離れた家と付き合いないですね。
赤間にずっと住んでいながら親戚が100年もないとはなにか不思議なきがしますね。

末松の血は入ってないんですか。一方末松には出光の血が入ってるんですね。知りませんでした。佐藤家と出光家はかなりつながりが濃いですね。
(2005年07月07日 01時12分06秒)
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Re:RE:瓜生氏・末松
イデミーさん

有吉さん
>末松はまだ比較的我が家とつながりが残っている家です。
>遠賀郡岡垣町糠塚の旗生家,占部、黒山もわかりません。

うちの親戚付き合いをしている家は、赤間うちは結構古い付き合いがあります。松尾大黒屋。当主・松尾昭平(78歳、元福岡銀行常務)さんとは14親等。戦前まで盆には相互訪問した仲。

赤間うちにはあと2軒。1軒は萩尾鎌屋。当主・萩尾勝美(56歳、裁判所勤務)とは12親等。あとの1軒は隣の恵比寿屋本家、当主は浩(65歳、元サラリーマン)。ここは14親等。本当はもっと離れている親等ですが、両家とも酒屋蛭子屋から養子を貰って親等は実質近くなってます。ここも戦前まで盆に相互訪問。今は他人同様です。ただ、系譜は一党と確認できる間柄です。

本城の佐藤家(平野啓一郎で10親等)、糠塚の旗生家(現当主で8親等)も、ちょうど付き合いがなくなりかけたところですね。よく付き合いが続いたと感心しますよ。
場所が近いのが付き合いの長続きのコツでしょうね。
そいでもって、我が家は赤間に親戚がこの100年ないんですよ。変な話。

末松の血はうちには入ってないです。佐藤にはうちから2回婿、嫁がいってます。そして佐藤から1回うちに養子が来てます。で、佐藤も末松も出光の血が入ってます。旗生家の子供8人(明治30年没の旗生平一郎と佐藤五八郎の娘トキとの子供)のうち、本城の10軒栄えた佐藤の一族・医者の賢蔵(佐藤東、佐藤中、酢屋佐藤に対し、医者賢と呼ばれた家)や私の曽祖父、黒崎電車どおりの占部眼科は兄弟です。だから、佐藤家とは10軒中、3軒と親類。この家が医者をしているかどうか不明、付き合いありません。8親等の同年輩が居る筈。

だから、男の兄弟の付き合いは長いのです。嫁入りした家とは付き合いが希薄。私の見解です。 (2005年07月03日 21時20分15秒)
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ふと思ったのですが
有吉さん
高倉神社の狛犬に彫ってある有吉呉右衛門亘徳は有吉譽右衛門直徳の読み間違えではないかなと思いました。

長平直徳という名前で我が家に伝えられていて内藤さんが譽右衛門直則という名前を出すまで私は「譽右衛門」という方をすっかり忘れていました。あと以前祖母の実家で長平直徳(=譽右衛門直徳)が文政13年(1831)に書いた家系図を見たことをふと思い出し、その時見た直の字が亘に似ていたことと、文政13年にかようなものを書き残していて長年大庄屋を勤めた譽右衛門直徳が弘化四年(1848)に狛犬を奉納していてもおかしくないのではないかと思いまして。系図が手元にないため確実とはいえませんが。

こう考えますと私が今まで親子だと思っていた有吉長平直徳(譽右衛門直徳)と有吉呉右衛門亘徳は同一人物であり、私の5世代前の方になると思われます。はぁ手元に系図があればすぐに気付いただろうに。。 (2005年07月02日 22時34分52秒)
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RE:瓜生氏・末松
有吉さん
墓参りにいくときに通っただけですが底井野周辺はほんとに何もないかんじですね。

末松はまだ比較的我が家とつながりが残っている家です。佐藤・出光には末松の血が流れているのですね。しかし本当にいろんなところでつながっていますね。

遠賀郡岡垣町糠塚の旗生家はわからないです。あと占部、黒山もわかりません。あと私が知っている他家といったら黒崎の望月家くらいですかね。この家もけっこう古い家のようですが。

けっこう出光家は養子続きなんですね。うちも本来なら分家の家だったはずなんですが曽祖父が本家を継いだ兄の養子になったことで本家になってしまいました。

(2005年07月02日 00時07分06秒)
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Re:瓜生氏, 陣原の末松家
イデミーさん

有吉呉右衛門亘徳の子孫さんへ、

瓜生氏、私が底井野を訪ねた時(26年前)、底井野小学校の近くに分家がありました。本家は東京で物書きをしていると当時聞きました。もう亡くなってられるでしょうね。底井野は、宿場町はなくなってしまってます。月の瀬八幡宮と小田宅子跡だけが残っている始末、後は畑。びっくりですね。昨年の話。

陣原の末松家は、庄屋の家です。佐藤の3男坊・孔策が見込まれて養子に入ったんです。長男は我が家の祖先、次男は佐藤和八郎。末松で女の子を2人もうけています。末松を継いでいるのはその末裔のはず。あ、慶太郎は本城に帰っての子供でした? その弟は陸軍の軍医、若くして死亡。その蔵書を和八郎家が預っています。

いろいろ繋がりが明らかになりますね。遠賀郡岡垣町糠塚の旗生家を知りませんか?また、黒崎の電車どおりにあった目医者の占部、また、遠賀町芦屋の町長をした黒山高麿、彼らは私の曽祖父の兄弟集およびその子。

あ、うちは8、9,10、11代目と養子なんです。婿養子。 (2005年06月28日 19時33分08秒)
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瓜生氏ですか
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
私自身は鍵屋瓜生氏に面識はありませんし縁組があったかもわかりません。しかしうちの墓(納骨堂ですけど)もある浅木の西光寺にはけっこう瓜生姓の方の墓も多いので苗字だけはよく知ってます。

陣原の末松家はたしかうちとも親戚だったと思います。曽祖父の姉が嫁いだ家ではなかったかなと思います。福岡市南区の方に住んでる末松家の方の家に小学生くらいのとき祖父母と一緒に行った記憶があります。いろいろなところでつながっているのですね。

佐藤慶太郎氏すごいですね。東京美術館のことといい非常に太っ腹ですね。

きいたことがあるとかみたことがあるような気がするという曖昧な知識ばかりですいません。夏休み帰って祖母の家にいったときには先祖がまとめたものを全部コピーしようと思っています。とはいっても古いものをかきまとめたもので二次史料でしかないのですが。悲しいことに一次史料はほとんど散逸してしまっています。 (2005年06月28日 00時47分18秒)
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有吉呉右衛門亘徳の子孫さん へ
イデミーさん

底井野の鍵屋瓜生氏ご存知でしょうか?
我が家の幕末期、2代に亘って縁組あります。瓜生平十の次女が私の祖先のひとり。
また、黒崎駅久芳氏からも嫁入りあり。明和6年没。

石炭博士と呼ばれた佐藤慶太郎は、父・孔策が陣原の末松家に養子に行ったときに出来た長男。慶太郎も一時、石炭商・山本家に養子入り、その後佐藤姓に戻しています。昭和13年、若き日に世話になった5家(出光運平、佐藤和八郎、小野権次郎、幡生平一郎、佐藤本家)にそれぞれ1万円を贈与。佐藤和八郎(芥川賞作家の祖先)家では東京電力の株式購入、幡生家では、家の新築、我が家はまず家を購入、その後売却して田畑購入(800坪)。1万円は大金で、当時、小倉の三和信託銀行から若松の三井銀行に護衛が付いてきたほど。

佐藤家は折尾本城小学校の近くに10件ほど固まって反映している一族。大庄屋は、佐藤東家。和八郎家は佐藤中家、庄屋の家です。その前、小川(用水路=農業用水)をはさんで、慶太郎宅。だれも住んでません。芥川作家は、おじいちゃん(佐藤茂夫)の家で育ったのです。この家には、私も何度か足を運びました。彼が芥川を取る前の話。
1回目、31年前、私の嫁取り、(伯母は佐藤から嫁をもらうことが我が家の再興と思っていたようです、)
2回目、16年前くらい、伯母と一緒に茂夫さんの位牌を拝みに。
3回目、13年前くらい、伯母が亡くなり、拙著のはじめの部分のコピーを私に。
(2005年06月26日 17時42分30秒)
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Re:>イデミーさんへ
イデミーさん

有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
>大阪出光は70代の方からの電話だったそうなのできっとその方でしょう。
>うーんまさか平野啓一郎の母親がその特定郵便局の郵便局長だったとは…
>伯母様も特定郵便局長をされていたのですか?
>やはり庄屋やっていた家というのは特定郵便局やっている家が多いですね。
-----

庄屋連合で、情報交換すればいろんなつながりが分かるはず。参考に私の別の掲示板に宗像の大庄屋・石松の末裔が書き込みしてます。
http://jyozan.sub.jp/idemitu/joyful2/joyful.cgi?

(2005年06月25日 18時59分48秒)
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>イデミーさんへ
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
大阪出光は70代の方からの電話だったそうなのできっとその方でしょう。
うーんまさか平野啓一郎の母親がその特定郵便局の郵便局長だったとは…知りませんでした。。知らないことだらけで恥ずかしいかぎりです。イデミーさんのおかげでほんと勉強になりますしおもしろいです。
伯母様も特定郵便局長をされていたのですか?実はうちの亡くなった祖父も北九州市八幡西区の鳴水郵便局という特定郵便局の局長をやっていましたがご存知ありませんかね?父は結局後を継がなかったので今は貸してる形になっています。
やはり庄屋やっていた家というのは特定郵便局やっている家が多いですね。イデミーさんとは直接つながりはなくとも、どこかで人を介してどこかでつながっているようですね。
(2005年06月23日 20時53分21秒)
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Re:今日は父と会いまして
イデミーさん

有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
>佐藤慶太郎という人物については聞いた事はないが、本城にある特定郵便局長であった佐藤さん。
>親戚の小田家は自信はないけど芦屋の方が元々の出自ではなかったかなと申しておりました。残念ながら宅子さんの小田家とは別なのかな…。
>それともう一つ、つい先日祖母の家に大阪出光家の方から連絡があったそうです。
-----
1)佐藤慶太郎は、福岡県百科事典(西日本新聞社、昭和57年)に載ってます。知る人ぞ知る、篤志家です。大正10年、東京府美術館に100万円の寄付を、また国民生活改善のため新興生活館を設立。死後も遺志は受け継がれ、別府市美術館の収集品の基金などに多くの浄財が充てられた。玉井政雄の『刀と聖書』にも、佐藤慶太郎についてエピソードが語られています。吉田磯吉と国会議員選挙を争っているんです。

>小田さんは、たくさんいますので。
>大阪出光は、息子(40位)がイギリスに居て、その親(77歳)がまたまた、半年ほど息子夫婦のもとへ行くと、最近電話がありましたから、多分それじゃないでしょうか?

>あ、特定郵便局ね、平野啓一郎の母親(佐藤歯科の妹)が特定郵便局の郵便局長です。名古屋で旦那と死に別れ、こちらに戻って、生活ができるようにと親が図ってくれたんでしょうね。もう62,3歳位でしょうか?子供は1女1男。女は産業医科大学出の医者、男は法学士で作家の平野啓一郎。2人には会ったことはありませんです。芥川取ったときに、お母さんに電話でお祝いの言葉を述べただけの仲。
たまたま、私の母の姉が別の特定郵便局の局長を30ウン年やって、文化功労賞ですか、そういうのをもらった時にパーティに呼んでいるみたいです。伯母と啓一郎の母御は昵懇というわけです。 (2005年06月21日 21時07分38秒)
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今日は父と会いまして
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
父が知っていることについて聞きました。佐藤慶太郎という人物については聞いた事はないが、本城にある特定郵便局長であった佐藤さんは祖父の知り合いであったと申しておりました。特郵をやるくらいなのでやはりその佐藤家の縁者にあたるのかなとは思いますが…詳しいことはよくわからないようです。まだわずかでも情報があるうちにいろいろなつながりを記録に残したいものですね。あと親戚の小田家は自信はないけど芦屋の方が元々の出自ではなかったかなと申しておりました。残念ながら宅子さんの小田家とは別なのかな…。
それともう一つ、つい先日祖母の家に大阪出光家の方から連絡があったそうです。 (2005年06月18日 22時53分52秒)
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底井野宅子の会、佐藤慶太郎
蛭子屋イデミーさん
本日、月瀬八幡宮より『底井野宅子の会』の案内が届きました。前田淑さんの講演(500円)の案内です。テーマは、『近世女人の旅日記』。

佐藤慶太郎は、折尾本城の出身ですが、若松に佐藤公園(火野ヨシヘイ文学散歩道)があります。一部は、グランドホテルになっていますが、元は佐藤の本宅。すべて、市に寄付。それを市が西鉄でしたか、とにかく私企業に売っています。2,3人、養子の跡継ぎがいて、財産はみんな寄付されてます。というわけで、文無し。跡継ぎは大学教員なんかの、いわゆるインテリでしたが、どうなってますやら。

折尾の歯医者・佐藤の祖先と、慶太郎の父親と、私の祖先が兄弟なんです。私の祖先が一番長兄。そして、歯医者さんの祖先(この子孫が平野啓一郎)。
だから、年齢が狂ってきますが。 (2005年06月16日 21時02分19秒)
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なるほど~
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
出光一族の話勉強になります。
蛭子屋再興ですか…うちの父も小さい頃祖母から「吉屋再興」とイデミーさんの伯母様と同様のことを言われながら育ったそうです。なんとなく境遇似てますね。まぁ有吉家は残念ながら没落以来少しも成功をおさめたわけでもなく、援助もなくですが。。

そういえば再びイデミーさんのかかれたものをじっくり読んでいて気づいたのですが、高倉健の先祖に『東路物語』の作者小田宅子さんのことがでてきますよね。ふと祖父の従兄弟くらいにあたる親戚に小田という家があることを思い出しました。小田宅子さんは底井野出身ですからひょっとしたらこの親戚の小田家は関係あるのかなと思いました。

佐藤慶太郎氏については若松のほうでなにかみたことがある気がします。石炭王ですよね。うーん先祖の血縁関係調べていくのは本当に面白そうですね。
(2005年06月05日 00時52分35秒)
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佐三、万兵衛、勉
イデミーさん

明治18年生まれの勉(貿易商)は、隣家の出身の明治16年生まれの万兵衛(海軍中将、侍従武官、海軍兵学校校長)や、斜め前の家の出身の明治19年生まれの佐三(出光興産創始者)と同時代人で、3人は幼馴染でした。
勉は、彼らと競争の気概多いにあって、半分は成功していました。大阪の親戚筋にあたる川原商店で貿易を学び、シンガポールに長く滞留。メキシコの鉱山を買い占めましたが、戦争で資産封鎖、事業は頓挫。
赤間の蛭子屋が50町歩の田地田畑を売り払い、400坪の家屋敷の3分の2を売って、小さな借家に引っ越す、すなわち残りの3分の1は貸して生活費に当てるという没落を、勉はその多感な青少年期に体験してます。彼は、母御(後添え)とともに有吉家に身を寄せたのです。彼の父は、佐藤からの婿養子(私の4親等のご先祖)なのです。だから、彼は、佐藤と有吉の子供と嘯いたのです。でも、佐藤は出光からの血が2度も入ってますので、やはり出光の血を受け継いでもいたのですが。

彼は、人一倍蛭子屋再興の思いが強く、私の伯母(私が敬意を込めて私の先々代ということにしてます。教員暦38年、家の跡取り娘、平成3年84歳で没、確か有吉正さんと同じ年齢)の師範学校学資、化粧部屋、寄せ墓建立と、我が家の大恩人です。
伯母は、生まれついてから、再興再興と言い聞かせられて育った、家付きの跡取り娘。私はその実の子みたいに育ちました。43歳違いです。

我が家の今は、佐藤慶太郎(東京美術館に銅像あり)のお陰でもあります。1万円(昭和15年)が800坪の土地になり、そして今やアパートになってます。その1万円は、明治20年代に、佐藤が明治大学での遊学に親戚5軒が援助したことの、出世払いと彼の自叙伝で判明。昔は、ただお家再興の資金にと彼が無償の寄付をしたと言い聞かせられてました。慶太郎は私と7親等。
勉は私と5親等。勉は慶太郎と従兄弟です。 (2005年05月27日 20時40分42秒)
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歴史好きは遺伝ですかね
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
有吉家も祖父・父・私と三代続いて歴史好きですね。小学生のころから父や祖父とともに遺跡、古墳、城、寺などをよく見て回りました。今でもそういうものを見て回るのが趣味です。発掘もやり古文書もやりながらなぜ文学部でないのかとよく尋ねられます(- -;)本当にめちゃくちゃですよね。
イデミーさんもとても不思議な経歴ですよね。文学修士でも歴史を専攻していたわけではないですもんね。息子さんもそれだけ歴史好きならもしかしたら私と同じくゼミは法制史を選ぶかもしれませんね。

父の言っていた時代とかみあわなくなりますがその貿易商だったかたから頂いたというのが一番可能性が高いように思われます。父が話しを聞いたのは父の祖母(私の曾祖母)であったようなので、曾祖母自身が直接もらったわけでなくだれかに伝え聞いたものであってかなり曖昧だと思いますし。。イギリス製の毛布を貿易商であったI氏に何年前かははっきりしないけれども頂いたというのが一番可能性がありそうな気がします。
(2005年05月26日 00時01分15秒)
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Re:父にきいたところ
イデミーさん

有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
>父が小学生の頃当時ですでに80年くらい前(現在だと約120年前)出光家の方がイギリスにいった際のお土産として頂いた毛布を見たことがあるそうです。ちなみに私は康徳といいます。ヤフー検索「徳」を頂戴したものだそうです。
>永嶋弘康さん検索して見つけました。社労士として活躍されているようですね。戎屋激筆のほうも一通り拝読させて頂きました。>武丸の庄助さんは孝行息子として以前より知っていました。節婦おまさはイデミーさんのフリーページにて初めてどういうものか知りました。戦前はそれほど有名な話しだったんですねぇ。非常におもしろそうですからいずれぜひとも挑戦いたしたく思います。
-----

HP見ました。法学部で史跡発掘ご苦労さんdesu.
息子が、今、中央大学(法)の2年生。こいつが、歴史好き。私のクローンだというくらいです。私は経済学部(学士)、文学修士。目茶苦茶です。

イギリス帰りのI氏って、誰なんでしょうね。大阪I(孫、40歳代、京都大卒が今、製薬会社のイギリス支店)は、有吉と佐藤の子供と本人が言っておりましたが、明治18年生まれ、昭和30年ごろ没、貿易商でした。東南アジア、中南米は聞いてますが、イギリスは聞いておりません。うちの今の寄せ墓、化粧部屋、伯母の師範への学費など、我が家の恩人です。この人の母御は、明治末、有吉に身を寄せたのです。うち(醤油屋、両替商、質屋)が没落したのです。戸籍は、分家する、と唄っていますが、実質没落して実家に帰ったのです。旦那は、明治30年代に亡くなっています。

隣のI本家は、九州大学の講師でイランからの帰途、若死にした人がいます。昭和10年代の話、30代。

どちらも、80年~120年前には相当しないでしょうね。 (2005年05月24日 21時35分42秒)
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父にきいたところ
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
父が小学生の頃当時ですでに80年くらい前(現在だと約120年前)出光家の方がイギリスにいった際のお土産として頂いた毛布を見たことがあるそうです。ちなみに私は康徳といいます。ヤフー検索すると二件くらいひっかかると思います。ホームページやブログはもっていませんが…。ちなみに名前の「徳」は呉衛門亘徳など先祖によく使われていた「徳」を頂戴したものだそうです。
永嶋弘康さん検索して見つけました。社労士として活躍されているようですね。戎屋激筆のほうも一通り拝読させて頂きました。赤間を語る上でイデミーさんは欠かせない存在だなぁと感じました。今後どのようなことをされていくのかが非常に楽しみです。
武丸の庄助さんは孝行息子として以前より知っていました。節婦おまさはイデミーさんのフリーページにて初めてどういうものか知りました。戦前はそれほど有名な話しだったんですねぇ。非常におもしろそうですからいずれぜひとも挑戦いたしたく思います。 (2005年05月22日 14時58分46秒)
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有吉呉右衛門亘徳の子孫さん へ
イデミーさん

今、永嶋丸二屋の子孫・永嶋弘康氏と談笑して、このネットを見せましたよ。氏は65歳。九州大学卒、50代で会社に勤めながら修士号を取得した頑張り屋。社会保険労務士。論文も面白い。これから7,8年、彼が望めば大学で教鞭取れるでしょうね。HPで『永嶋弘康』で検索してください。出てきますから。私も、赤間戎屋、出光先生などで出てきます。ヤフーの方が多いんですよ。

有吉情報、いろいろ為になり候。

それから、『節婦おまさ』の件ですが、知ってる人は知ってます。戦前の帝国教育の教科書に載っていたのです。
親孝行の武丸の庄助、赤間の節婦おまさは、宗像の歴史研究家の入門編です。

法制史とのからみでは、非常に面白いでしょうね、またいつか挑戦して下さい。

庄屋連合が出てきますよ、永嶋半五郎(大庄屋)、伊豆善右衛門(大庄屋)、そして次の大庄屋の恵比寿屋、その親戚先の大黒屋がぐるになって、おまさに親のいいなづけより、大庄屋の息子への嫁入りを進める、強制する、おまさは義理と人情の板ばさみ、自決するという悲しい物語。親のいい名づけの家が没落してたんですね。だから、なおさら、おまさは、その義理を尊んだのかも。

自決を狂死と届けたから、10数年後、黒田の殿様の知れるところとなって、大庄屋の首の挿げ替え.
それに関連した次の大庄屋も、いずれお上の知れるところとなると思って、息子に大庄屋を譲ったか?
その息子も、たった1,2年で石松に取って代わられてます。いわゆる、告げ口ではなかったか?
実は、恵比寿屋、大黒屋は一党であること、いろんな『おまさ』の話に公然と書かれ、おまさを死に追い込んだ悪党ということになってます。

これは、現代語訳でその後語りということでまとめても、非常に面白いと私は確信してます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(2005年05月21日 20時36分38秒)
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有吉本家は
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
昭和初期に酒蔵を閉鎖して私財投げ打って浅木地区の区画整理を行い、残された屋敷は炭坑労働者の銭湯に転用され、その他のものも使用人の人にあげてしまい黒崎の方に引っ越し完全に没落しました。しかし有吉家は今でもつながりは強く『よしや会』という親戚の集まりがあります。私は参加したことはありませんが、参加してみて長老の方の話しをきくのもおもしろいかもしれません。
お政事件とはおもしろそうですね。法制史のネタとして十分使えそうです。しかしもう修論テーマ決めてやってしまっているので個人的に調査してみようかなと思います。その折にはぜひご教授ください。
修論おもしろいテーマですね。古文書を現代語に読みかえ考察しさらに英語で書くとは…頭が下がります。
平野啓一郎さんともつながりがあったとは驚きです。庄屋連合おそるべし。これはぜひ自分のルーツを調べなくては! (2005年05月20日 22時38分28秒)
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有吉呉右衛門亘徳の子孫さん へ
イデミーさん

うーむ、これは貴重な情報交換ですね。

もう、30年から40年になりますかね、ながらく続いた有吉家も、没落したという風の便りを聞いてましたね。庭の木々も売られてどこかへ行ってるなんてね。

とにかく、有吉家の存在は大きいですよ。いろんな家と繋がっている。ところで、高倉神社の狛犬の有吉と並んだ佐藤家の子孫に芥川賞作家の平野啓一郎(京都大卒、31歳)がいます。また、東京美術館に大正時代に100万円を寄付した佐藤慶太郎(昭和17年ごろ没)がいます。私も、その子孫の一人。平野啓一郎とは、10親等になります。
 実は有吉の血は私には入っていません。我が家の分家の大阪出光のみに入っています。

 ま、それでも、庄屋連合は存在していたわけです。陵厳寺の吉田は大庄屋格の家です。我が家は、2代、大庄屋をしています。ところが、短い。たった1,2年づつ。『お政事件』が影を落としています。おまさ事件を調べられたら、いい論文が書けますよ、きっと。

私も、サラリーマンを大阪でして、30になって、大学院に行きました。修士論文は、我が家の300年史です。特に、婚姻の地域性なんかをテーマに英語で全文、まとめました。指導教官がアメリカ人でした。系図で配偶者がずっと分かるので、面白いテーマだと思った次第です。参考になればと思い・・・、 (2005年05月20日 19時15分38秒)
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それはびっくりですね
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
では私とイデミーさんは遠い親戚にあたるんですね(笑
)今では完全に切れた親戚の縁をこのようにして確認できるはおもしろいですね~。
有吉正さんはきいたことがあります。有吉家の長老的存在でしたが92,3の高齢で亡くなられたと思います。小さい頃おうちにお邪魔したことがあるような気がしますがほとんど面識はありません。父はよく遊びにいっていたようですが。正さんの息子さんには祖父の葬式でお会いしたことがあります。
早川勇は有吉長平直徳の次男で早川家に養子にいったというのを幕末維新人名辞典などで見たような気がします。あと吉田家との縁組も実家に残された書置きで読んだ記憶があります。もう一度よくみなおしてみないとなりませんね。
私は今大学院で日本の中世の法制史をやっていて古文書も読めるようになろうと必死で勉強しております。ですからいずれ家に残された文書(浅木を引き払うおりにほとんど散逸してしまい、たいしたものはありませんが)を整理できたらなぁと考えています。いずれイデミーさんと情報交換できたらおもしろそうですね。 (2005年05月20日 14時30分04秒)
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Re:有吉呉右衛門亘徳
イデミーさん

有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
>出光氏文のところにでてきた底井野大庄屋有吉呉右衛門亘徳は私の先祖だと思われます。たぶん私の6世代前の方ではないかと。実家で家系図や先祖について近世に入ってまとめたものがあるので、実家に帰ったおりに有吉呉右衛門亘徳について調べてみます。まぁあまり研究のお役にたてるとはおもいませんが。
-----
ネットって、びっくりしますね。有吉家の子孫からこういうふうにつながりを持てるなんて。
先日も、東京にいる出光本家(出光万兵衛海軍中将の甥の子)から、メールで便りがありましたよ、私のいろんなネットを読んで。
また、宗像の大庄屋・石松家の子孫からのメールも頂き候。ネットって、非常に便利。また、それ以外の人も読んでるわけだから、気を害さないようにしないといけませんがね。
有吉家は、今ご存命なら99歳くらいの有吉正(遠賀町浅木828)さんを知ってられますか?彼が、そうですね、今から20年ぐらい前に、うちの法事に来られましたよ。大阪出光家の母親の実家ということで、大阪出光50回忌だったかな?赤間で法事をしましたよ。
有吉家は子供の数が多かったので、宗像のいろんな家とつながってますね。例えば、吉武の勤皇の志士・早川勇、神港の丸に屋(永島家)、陵厳寺の庄屋・吉田家、私の知っているところでは以上です。
 そして、有吉と本城の佐藤が高倉神社の狛犬を献上した頃、我が家は佐藤そして有吉と縁組を持っていったようですね。ま、びっくりですね、こういうふうに、昔のつながりを確認できる世の中になろうとは。 (2005年05月19日 15時37分47秒)
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イデミーさんへ
有吉呉右衛門亘徳の子孫さん
出光氏文のところにでてきた底井野大庄屋有吉呉右衛門亘徳は私の先祖だと思われます。たぶん私の6世代前の方ではないかと。実家で家系図や先祖について近世に入ってまとめたものがあるので、実家に帰ったおりに有吉呉右衛門亘徳について調べてみます。まぁあまり研究のお役にたてるとはおもいませんが。 (2005年05月17日 23時47分53秒)
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