赤間宿奉幣使接待記録



元治元年(1864年)6月19日の接待記録より、赤間側の人間をすべて列挙する。

 新屋甚平、大国屋平作、米屋白木音右衛門、古手屋太右衛門、丸屋茂助、蛭子屋出光運平、鎌屋市右衛門、万屋六右衛門、大黒屋伊右衛門、大黒屋嘉右衛門、相模屋助十、糸屋三右衛門、油屋喜右衛門、米屋喜平、油屋藤右衛門、油屋半三郎、平兵衛、米屋仁右衛門、太田屋喜七、魚屋伝助、古森屋大助、金右衛門、卯三次、藤三郎、武助、塩屋彦五郎、弥平次、源右衛門、代助、綿屋伝次郎、新六、弥蔵、雄平、茂平、荒竹屋善五郎、五十君文山、蛭子屋惣吉、源四郎、喜助、渡辺順貞、徳平、久平、勝平、米屋吉右衛門、直次、又次郎、清蔵、孫蔵、以上である。


※京家人数174人(下宿24軒)

※御国方人数161人(下宿22軒)

 よって、総計人数335人

⇒青柳よりは御国の吉田家配下の神官、354名が行列に参加した。(門司文書による)

2003年12月13日 10時44分51秒


屋号論議

Re: 屋号とは? 戎屋 - 2003/12/11(Thu) 22:30 No.988

屋号と家業が同じなのもあります。例えば、赤間では、紺屋、飴屋、これは家業であり屋号です。

また、屋号と家業が異なるのもあります。こちらが多い。

その差はありません。だから、どうっていうことではありません。

萩尾釜屋は、宿屋。明治になって姓を名乗るとき、屋号を苗字として使用。すなわち、釜屋としました。藤原鎌足(釜足)の子孫ということで。のち、出身地の萩尾(姓は、はぎお、地名ははぎのう)にしました。

山本勝屋は、三郎丸で酒造りを創業して勝屋を名乗った一統です、いろいろ山本姓が三郎丸にはありますが、勝屋一統といえば、それである氏族を指すのです。

また、出身地で植木屋、王丸屋、讃岐屋といった屋号があります。これも、創始者の思い入れであって、土地の人の永年の呼び習わしによって、落ちついてきます。だから、屋号には色々な名前の成り立ち、経緯があるのです。

北海道の函館には、明治年間、屋号にも似た家印といいますか、それが流行りました。丸書いて、中に二を書いて、まるに屋、とかいって。ま、これも、屋号とは違うけれど、似たような、歴史的に面白いものです。今、残しておかなくてはと、屋号を集めている方もおられます。私も、非常に興味があります。どういういきさつで、恵比須屋を名乗ったのか? 赤間では、恵比須屋と大黒屋は一統ですが、他ではどうか?など。


Re: 屋号とは? 戎屋 - 2003/12/11(Thu) 22:45 No.990

油屋は、多分に、家業と屋号が同じ起源でしょうね、・・・

菜種油そして幕末にはハゼ蝋油、鯨油を扱ったのでは?


米喜が、そうですね、米半というのが分家ですが、姓は白木。

初め、米を主に扱っていたのでは? それが屋号になっていったのでは?米喜は、この半世紀は米を扱っていました。江戸時代は、宿屋でした。米半も宿屋でした。推測ですが最初は米に思い入れがあったのでは?


赤間の庄屋(おまさ事件発覚後)の船津久戸長は、吉武の久戸から出てきた長兵衛が興した家です。それで、屋号を久戸長といいます。150年くらいだったら、人の葉にも上り、語り継がれますが、200年以上前だと不明です。


⇒屋号と家業が同じ起源がかなりありますね。米屋から米喜、米半がつくられ、油屋から油長、以上は赤間の話ですが、魚屋から魚正、魚政などいろいろあります。釜屋(鎌屋)は宿屋だとばかり思っていましたが、明治8年の町並み復元は、宿屋、荒物屋、醤油屋と3軒あります。思い込みが世の中、多いものです。

2003年12月14日 10時06分02秒


屋号論議その2

屋号論議 投稿者:E屋 投稿日:2003/12/12(Fri)

赤間宿勅使休息の資料の登場人物の屋号、参考になりました。どこで、手に入りますか? 私、余生は赤間研究に励みたく。屋号はいい材料です。岩見屋さんも、ポイントが分かったんじゃない。

商売人の町は、屋号が通称でした、だけど赤間はかなり江戸期より苗字を持っていました、多分信じられないくらい!5割くらい。しっかり、資料研究しないと、うかつには発言できない内容でしょうね。

このポイントも、他の宿場や地域と比べると面白いでしょう。


⇒苗字は、50%もない。1864年の資料の持つ意味は大きい。白木、早田、萩尾、松尾、出光、渡辺、五十君、原、神山、庄野、ここまでは、姓の存在を確認できた。屋号も姓もなかった人達の中に、金右衛門あり。彼は、行橋出光の祖の母の父である。蛭子屋卯助の後妻の父。壬申戸籍では、出光金右衛門を名乗っている。蛭子屋ではない出光だ。





Re: 屋号論議 E屋 - 2003/12/12(Fri)




A屋さん、サンキュウです。高崎さん編纂の記録文書。

私所有は、青本(1986年)の『神鐘「平和の鐘」』、そして、

黄本(1991年)の『氏神八所宮のあれこれ』です。赤本の所在は知りませんでした。

それに、赤本は、特に赤間宿奉幣使接待の項目は、貴重な資料です。

米喜なんか、まさに米屋が業の初めであること明らか。屋号自体に変化がある、いい裏付け資料です。それと、蛭子屋出光が、屋号も苗字も名乗っている、いい資料でした。内部的には持っていましたが、公の資料でも、苗字・屋号の両方を使用している資料はお初でした。

高崎さんも、出光と言ったら、紺屋(佐三氏)と一統と思い込んでありました。あれだけ、郷土史を調べた人でさえ、今、有名である事は、昔も相当な者という思い入れでどうしても一統にしておきたかったようです。それに、彼の家は大黒屋に後寄りを出した家ということで、大黒屋、蛭子屋、紺屋と親戚としたかったのでしょう。有名になると、親戚・縁者が増えます。うちの親戚でも、どうしても、紺屋と一統であってほしいと思っている人、かなりいます。いちいち、違う違うというと角がたちますが、大事なときは違うと言ってます。このHPでも、多分、10数回、違うと既に書きましたよね!いつも、読んでくれている人は、分かってくれていますが、新たなお客様の為に、敢えて、ここで再々確認。






Re: 屋号論議 E屋 - 2003/12/13(Sat)




元治元年の勅使一行(335人)の接待割り当てに、佐三さんのじいさまの名前が見える、藤三郎です。その子が藤六.商人は屋号を大切にします。屋号があるかないかは、大問題なのです。自分で勝手につけても、民衆の認知がないと成立しない、それが屋号なので。だから多分20~30年の商売の継続が前提だったのでしょうね。佐三さんのところは、宗像郡誌に出てくる『藤助』を先祖に持っています、だから、勤勉、愛国、愛社(組織尊重)なのです。親に孝行、雇用主に忠誠、これがずっと代々受け継がれた家訓なのです。さあすが、大出光。

2003年12月15日 09時42分13


屋号論議その3

 A屋- No.1038

高崎幸誠さんもう1冊発刊されています。昭和60年11月1日発行「久戸郷土史」270ページの表装のしっかりしたもの。

その中に「久戸長」についての記述がありましたので一部を抜粋して記します。船津長兵衛氏(1858年生)船津長七氏の長男。船津家の本家の家柄であったが、商才の氣あり醤油醸造を思い立ち自宅にて製造。赤間町方面に小売を始められた処好評を得たため、思い切り業務拡長の為便利良き赤間町進出を計画。明治15年頃現在地の広大な敷地を購入。当時醤油醸造家少なく津屋崎に古くからある商店に匹敵する繁盛振りであった。・・略・・

久戸より出られた為長兵衛の長を取り「久戸長」と呼ばれていたが、屋号は「船津屋」の暖簾を掲げていた。・・略・・

屋号に関係のあるところを抜粋




 E屋 - No.1040

すごい資料ですね!

そうすると、赤間町並み案内板が、またまた、問題含みとなりますね。一般の人が、「久戸長」が赤間の庄屋と受け取るまとめ方になってますもんね。高崎さんの記述が正しいでしょう、というのは、あの家(今、解体の為、囲いがしてある)の築年を考えると、明治15年ごろ、業を始めたのが納得いきます。うちの、手ごわい競争相手となったということでしょう。うちの没落が明治20年代。28年には家屋を売っての破産、借金生活ですもんね。




A屋 - No.1042

長兵衛さんは1858年(嘉永1年生)~明治43年没

後継者は勘三郎氏その子供は女2人 長女がマツエさんです。

マツエさんに近くの徳郎氏が養子に入ってあるみたいです。今は久戸長4代目

2003年12月16日 08時55分04秒

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