うりぼうず

うりぼうず

お勉強・お受験


 新美南吉の「ごんぎつね」、小学校のほとんどの教科書で教材として取り上げられているらしい。教科書に出てくるということは、ほとんどの日本人が一度は読んでいるという、お化けのような存在ということ。この「ごんぎつね」も、赤い鳥に投稿した時点で、鈴木三重吉がかなり大幅に手を入れて掲載されたらしい。また、教科書に載せる場合、出版社によって、かなり原稿に手を加えることもあることも知った。中には最後にごんが死ななかったかのように、手を加えている出版社も過去にはあったとのこと。また、時代によって、その読まれ方も変わってきていることなど、固い本だが、面白かった。
 子どもに頼まれて、図書館でごんぎつねを探したときに、見つけた本です。

 ★「子どもの日本語力をきたえるーー親子で読む理想の国語教科書」(齋藤 孝、文芸春秋)
 齋藤孝本だが、恐ろしく早く読めてしまう。これは、筆力があるから読みやすい文章を書けるのか、それとも、大量の齋藤ワールドを繰り返しているから、早く読めるのか。
 まあ、それはさておき、自分が小学校高学年からいかに本を読んでいなかったか、痛感してしまう。別になにも読まなかったわけではない。当時読んでいたもので、記憶に残っているのは、レイテ戦記とか、朝日ジャーナルとか。レイテ戦記などは、戦後文学史に残る傑作なんだろうが、ここでいうような作品とは、ちょっと違う。今はなき朝日ジャーナルなども、それなりに社会への関心を(とんでもない方向にも)呼び覚ましたが、いわゆる日本語のお手本的なものとも違うだろう。
 たしかに、ここに書かれている漱石の夢十夜、シェークスピアのマクベスなど、この時代に読んでみることができたら、それなりに意義深いものだったのだろうが。
 でも、親子で三色ボールペンを引きながら読むというのは、面白いが、読書の面白さとはちょっとズレてくるような気もする。トレーニングとして課すことが、果たしてどこまで有益なのか。
 でも、一流といわれているものを、早い時期に触れてみるのは重要でしょうね。

★「なぜ教育論争は不毛なのか~学力論争を超えて」(苅谷剛彦、中公新書ラクレ)
 著者の主張する、教育の階層化というのは、確かにこれまでタブーとされてきた問題。今の自由主義的な教育改革論者によれば、これも自己責任であり、自由な競争なのだろうが、今の学校現場を見ると、これが最大の問題なのかもしれない。中学受験などを見ると、ひたすら勝ち組を目指す、経済的にも、負担にたえ、親にもそれなりの学歴的な背景のある層と、経済的にも、家庭の学習環境からも、初めからドロップアウトしているかのように見える、子ども、あるいは家庭の格差が目立ってきているように思える(もっとも、各家庭に、均質的にそういった意欲、環境があった時代が果たしてあったか疑問もあるが)。
 たしかに、ゆとり教育こそ、家庭環境、教師の質によって、生じる差があまりにも大きい分野である。 

 ★「子どもと遊ぶ算数教室」(広瀬智子、岩波アクティブ新書)
 どうにかして、子どもに「算数は楽しい」ということをわからせてみようと、図書館で借りてきた。たしかに、算数というと、図形、立体なども、自分で工夫して形を作ってみれば面白いんだろうなということはわかる。でも、子どもと、これをじっくりやるのは、大変そう。こちらの不器用さも足を引っ張りそう。

 ★「学校へ行こう~親子で後悔しない中学受験」(永田洋光、ランダムハウス講談社)
 不登校に陥った娘が、中学受験し合格するまでを描いたもの。著者は、ラグビーを得意分野とするスポーツライター。受験を決意したのが、小六の十一月。勉強だけでなく、精神面での不安を抱えながらの受験など、こちらとしては、とても恐ろしくて。まあ、三ヶ月の短期決戦だったからこそできることかもしれない。これだけ、親の方に強い動機漬けがあると、親も死に物狂いになれるかもしれない。ウチなどは、とても無理だが。でも、私立の考え方などは、参考にするところ大。やっぱり、それなりに学校研究をしなければならないことは痛感。
 就職前だって、いろいろな企業研究をしなければならないのだから(ワタシは、なにもしなかったが)。


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