祝祭男の恋人

祝祭男の恋人

May 24, 2005
XML
カテゴリ: 小説をめぐる冒険

12

 森田はいつも泣きそうな話し方をした。それは、羽の折れた鳩がぎこちなく、細かい雨に降り込められた低い空をしかし懸命に飛んでいく姿を僕に連想させた。彼は一見どこか危なげで、見ているこちらがひやひやするくらいに不安定な綱をおそるおそる渡っているように見えた。そんな様子じゃ途中で真っ逆さまに落っこちるか、諦めてすぐ引き返すしかないだろう、いずれにしても向こう岸まで辿り着くことはとうてい無理な話だ、と彼を見る人間は誰もがそう考えていたものなのだけれど、しかし、最後には、彼は誰も予想していなかった全く別の場所に辿り着いていた。そこが誰しもにとっての楽園であるか否かは別として、とにかく彼は我々の予想を越えて一つの到達点にいつのまにか立っているのだった。高校生の頃から、彼は人見知りが激しかったし、何を考えているのかよく解らないところがあった。森田はいつも自分の席で静かに本を読んでいた。僕が初めて彼に気が付いたとき――それは高校一年の秋の初めだったけれど――彼はプルーストを読んでいた。そして冬が終わる頃には、彼はチェーホフの戯曲を読んでいた。そしてそれはチャップリンの自伝やフェリーニの自伝に変わったり、ユングの自伝だったりした。とにかく彼はいつも本の中に閉じこもっていた。最後まで彼が自分から外へ出てくるということはなかった。彼にとっては自分の内側という世界がどこよりも住みよい場所だったのだ。その点では、人間は大きく二種類に分類できるかも知れない。すなわち、自分にとって最良の魂の部屋を見つけられた人間と、自分の内側の居心地が悪いために外へ逃げ出さずにはいられない人間、とである。森田は圧倒的に前者だろうと僕は思う。そして彼を見ていると、この世界にはその分類しかあり得ないのだという気さえする。

  森田の部屋にはすでに樫村さんが来ていて、ソファーに寝そべってテレビを見ながら、一人で缶ビールを飲んでいた。その部屋は一人暮らしをするには少し広すぎるくらいで、十畳ほどあろうかと思われるリビングに森田の姿があることはほとんどなくて、森田はいつもその隣の窓のない部屋で映画を見たり、その映画に関する原稿を書いたりしていた。
「あ、ソースの人」と樫村さんが塩野健を見て言った。

 樫村さんは五十を過ぎてもずっと独身生活を続けていて、真面目に仕事をしているのも見たことがなければ、シラフでいるところも見かけたことがない。一応市役所の都市整備課というところに籍を置いているということらしいのだけれど、それはまあ、嘘かも知れなかった。でも、僕はこの樫村という男に対して初めから漠然とした好感を抱いていて、それは多分森田も同じ気持ちなのだろうけど、樫村さんはどんな質問を投げかけても――もちろんイエス、で、質問は何だっけ?――と答えるのではないかと思わせる人だった。それでよくこの歳まで独身でいられたものだとは思うけれど、我々が集まるといつも決まって顔を出すからには、何か吹っ切ることのできないもやもやでも抱えているのかも知れない、などと考えてみることもあった。が、もし仮に学生の頃の我々が持っていただろう「若さのようなもの」に惹き付けられて近づいて来たのだとしても、むしろ樫村さんの方が我々よりずっとその役立たずな「若さのようなもの」を持っていると思う。それが良かったのか悪かったのかは別にして、樫村さんは、これまでの生活の途上で空から偶然垂れ下がってくる幾つもの梯子段に、多分興味さえ持たず、自分の足を掛けてみようなどと思いもしなかったのだろう。――でも、そんなことってあるだろうか?
「おい、兄ちゃんサインくれよ」と樫村さんが身を起こしながら言った。
「あ、いいスよ」と愛想良く塩野健が答えた。「紙とペンありますかね」
「ん、紙がねえなあ――あ、足の裏でいいや」
 僕は塩野健が単に切り替えが早いだけなのか、それとも愛想が信じられないくらいにいいだけなのか判らなかった。まだ慶子も玉も戻ってくる気配がなかった。塩野健が面白半分に足の裏にサインをし、きゃあきゃあ奇声を発しているのを横目に、僕は森田の部屋の扉をノックした。


「これ、うちの父親があんたたちにって」
森田は何も言わずにそれを受け取った。多分何かを言おうとしたのだがどんな言葉も出てこなかったのだ。一瞬皐は目を大きく見開いて黒目をぐるりと動かし、すぐまたもとの表情に戻った。束の間のうちに、我々の人格的価値があたかも水爆実験に使われた羊のように突如ぷつんと消滅してしまうか、あるいは使い物にならないほどに痛めつけられてしまうかのような黒目の動かし方だった。でも、森田が何か当たり前のお礼の返事を返すことができたとしても、皐の耳には届かなかっただろう。彼女はウォークマンのヘッドホンを両耳に当てたままだったし、恐らくそこからは大音量で音楽が流れ出ているに違いなかったからだ。


                       つづく





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  May 24, 2005 02:57:53 AM コメントを書く
[小説をめぐる冒険] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Favorite Blog

ブライスの自然の恵… ブライス 007さん
「ビジネス書の編集… ビジネス書の編集者さん
一日一回誰かを笑顔… 広瀬ミオさん
本との関係記 村野孝二(コチ)さん
電脳快感日記 blue-daisy-planetさん
Cosmopolitan Book V… Hemingwayさん
南包の風呂敷 南包さん
記憶の住処 黒川大和さん

Comments

海のくまさん@ チン型取られちゃったw http://onaona.mogmog55.net/inppioa/ 俺…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
もじゃもじゃ君@ 短小ち○こに興奮しすぎ(ワラ 優子ちゃんたら急に人気無い所で車を停め…
通な俺@ 愛 液ごちそうたまでしたw http://hiru.kamerock.net/w5d9ei9/ フ○…
地蔵@ 驚きのショックプライスw コウちゃんがこないだ教えてくれたやつ、…

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: