目指せ、一橋大学院

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動機付け



それは、外発的な動機を重視し過ぎてはいないか?というものであり、
又あなたの指導スタンスはそれで良いのか?というものである。

これは昨日の私の日記にも対応した内容で、掘り下げねばなるまい。

外発的な動機とは、塾や学校の教師に動機の起因なり契機がありそれによって
生徒がやる気になる事であり、一方内発的動機とは、生徒本人が自分の意思で
やる気を出す事である。

現実には、やる気の変動もあり環境もあり厳密に二分化することはできないが、
時期を短期に絞ることによって十分有効な見方であると言える。

便宜的に分かりやすく解釈しているが、若干のずれはご容赦いただきたい。


まず学習塾においては、経営的判断から外発的な動機を重視する必要がある。
「先生がこんなに頑張っているんだ」ということをシッカリと意思表示するのだ。
また其の(動機付け)効果がある事を主張するのが、他塾との差別化となる。
「やる気をあげる」といったキャッチフレーズは其の現れである。

それが実際に行なわれているかどうかはともかく、外発的動機付けというものが、
社会的ニーズであることは確かである。

多くの家庭では「塾でやる気を出して欲しい」と思っているわけであり、
又「塾=やる気育成の場」と言う見方は浸透している。

ここにおける問題点は、私が以前から指摘しているように、学習の受動化である。

やる気も方法論も自己管理も、ひいては時間管理さえも他者に依存する。
学校に依存できないから塾に依存する。分からない問題は、全て教えてもらう。

フロイトの言葉を借りれば、スーパーエゴ(超自我)的存在の他者である。

本来自分の心の中の葛藤(遊びたいけど勉強しなきゃ)が外部に移り、
遊びたい子供とそれを規制する存在との構図に移り変わる。

子供はイド(快楽原理)の塊りとなるわけであるが、本来自己規制は小学生時分から
身につくものである。しかし最近は精神的発達の遅れからか高校に入ってからでも
身についていない者が多い。

ちなみに条件付規制(進学、受験)の中では、本当の自己管理や規制など
つくものではない。進学したら遊べるという条件付縛りが、弱い子供をつくる。

これら塾を媒介とした発達においても、(当然塾は選べるのである)、
権威主義的な存在に対する忌避や逃避から、母性的な環境にとどまり又は
引きこもる等の弊害が起きる。

内発的動機或いは自発的動機は、自分の現状をしっかりと認識し将来の目標が
無ければありえないものであり、又厳しい自己否定をも必要とする場合がある。
第三者の否定ではない。第三者、それが親であっても、彼らの否定は子供の心を
屈折させ反作用的に無気力や現状肯定への固執となる。

受動化された状況では、外発的な動機付けは得てして本人の心に届くものではない。


(続く…塾の準備が…夜中に書きます…)


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