私見ベトナムの歴史47


1418年レ・ロイの即位から始まったレ朝は1422年にレ・タイン・トンの時代に光順中興という一大発展を遂げます。この時に科挙制度の整備、全国村落地図の作成が始まります。
チャンパを破り、現在のジャール平原を押え、インドシナ半島の戦略的地位を占めるに至ります。

歴史編纂、律令の制定を行います。1483年に公布された「洪徳律例」はその後18世紀までベトナム統治の基本とされました。
国運営に必要な措置は、定まった法律、治安、土地権利の明確化が農業国家には大切なことです。法律が定まっていなければ行動が出来ず、治安が悪ければ流通が阻害されます、農地の面積が分からなければ財政計画が立ちません。

この後200年に及ぶベトナムの混乱は王朝の基礎がかたまり始めた直ぐ後に起ります。

1505年に即位したレ・ヴィ・モク(黎威穆)は毎日宮殿で酒宴を催し逆らう者は即座に処刑したそうです。上が腐敗すれば下も腐敗するもので、官僚は蓄財に勤しみ民衆を絞りあげました。いとこ(後のテウオンドウック帝)が民衆の支持のもと義軍を組織し進軍を開始します。この時には既に誰もレ・ヴィ・モク(黎威穆)の周りにいなかったといいますから、いかに人徳のない人物だったかが分かります。まるでドラマの悪役そのものです。
后妃は首をくくり、レ・ヴィ・モク(黎威穆)は毒薬をあおって死にます。

王宮に入ったいとこは自分の父母兄弟が既に処刑されたことを知り、レ・ヴィ・モク(黎威穆)の死体を大砲でもって爆破します。

このいとこが即位しテウオンドウック帝(襄翼帝)となります。最初は善政をしていましたが、土木工事を盛んにして城、寺を建てることが多く結局は舟遊びにうつつをを抜かすようになってしまいました。

土木事業について私見。

ベトナムにはよく分からない塔があります。烈士の塔は戦争中の戦死者のためのものですから仕方がないとしても、あれほど大きく作る必要が何故あるのかある意味不思議に思います。
戦後当時の国家財政には安い出費ではなかったはずです。
私は家に帰るために国道1号線を走るのですが、XuanLocに新しく出来た公園にそびえ立つ小銃をもった女性の像をみて「これはいったい何だ?」と思ってしまいました。カンボジアも89年には戦争が終わりましたから、その10年後に建立した訳です。
「この意味する事はいったい何であろう」と誰もが思うでしょう。
同じような例が日本の公共事業にも見られます、一村一品運動なんて今見たらギャグの宝庫ですね「鬼が手を付いた岩」「秀吉が腰掛けた石」なんて名前を付けて大金掛けてやっていたんですから。一番利口だったのは「1億円の金塊」を展示した村でしたね。
こう見るとこのような無意味な建造物は、目先の利益を狙ったどこにでもある現象なのかもしれません。
でも、金余りの日本がとち狂ったのとベトナムは違うと思うのですが、納得いく理由が今でも見付からないでいます。
(2002、10、9)




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