
洋の東西を問わず、聖職者や僧籍にあるものが、存外に酒好きである例は多い。
禅寺で、酒を指す”般若場”なる隠語が生まれたのも、
『葷主(くんしゅ)、山門に入るを許さず』
という禁を破ることなく、しかもよいたいという破戒僧どものおおいなる知恵(=般若)のなせる技であったのかもしれない。
中世ドイツの宗教改革者マルチン・ルターの生涯も、ある意味で破壊の日々であったといえる。
古い威厳やしきたりを打ち破るところに、真の改革があるのだから。
例えば、当時の戒律では否定されていた結婚を、ルターは早くから周囲の牧師や修道僧に勧めている。
スコッチのラベルだが、ずばり『イ・モンクス(修道僧)』
残念ながら日本には輸入されてない
「神は人間を交わりのために造られたのであって、孤独のために造られたのではない。 神が人間を男性と女性の両性に造られたことが、そのひとつの証拠である。」
これがルターの持論であった。
そして、ルター自身も1525年6月13日、42歳の折に結婚。相手は脱走修道尼カタリーナ・フォン・ボーラだった。
この結婚から2週間後、ルターは広く知人を集めて祝宴を張っている。
このとき、市の参事会から1トンものビールの寄進があったという。
もともと、ルターはビール好きだった。宗教改革という難事に向かいながら、ルターの傍らにはいつもビールがあった。
また、このころヨーロッパ各地の修道院では、ビールの醸造を手がけるところが多く、
ルターの伴侶のボーラもビールづくりには長けていた。
「彼女は、馬車屋、耕作、放牧、家畜の購入、ビールの醸造、その他、色々な事をしている。
ところが彼女は、その合間に聖書を読むことをはじめた。だから私は、復活祭までに彼女が終わりまで読むなら、
50グルデンあげようと、彼女に約束した。」
これはルターが友人に宛てた手紙の一説だが、元修道尼ボーラの得意は、
聖書を読むことよりビール醸造だったことが窺えるのである。
ビールを作る昔の修道僧
たる出版刊『金のジョッキに銀の泡』より
これはルターが最後に残した言葉。
徒らな苦行や、やせ我慢で神に至ろうとする人文主義的キリスト教のやり方に、 自己中心的な思い上がりと虚しさを痛感していたルターだからこそ、
神の恵みとしての酒を、異性を、素直に受け入れようとしたのだろう。