禁酒は非健康的である。
福沢 諭吉
「禁酒の発心で、酒とタバコの両刀づかいに成り果てぬ」
蜀山人
「わが禁酒破れ衣となりけり」
ヒポクラテス
「ワインは飲み物としては最も価値があり、薬としてはもっとも美味しい物」
イヴン・スィーナー
「ビールは体を養い、かつ浄化する」
酒仙とあだ名された李白の七言絶句の、有名な書き出しである。
李白の酒仙ぶりは杜甫が
「李白は一斗詩百篇」
と詠じたほど。
中国の詩人の中でも、酒飲みの代表的存在だ。
だが、この李白や杜甫が活躍した唐代を遡ること数百年、
東晋から宋にかけての時代にも“頗(すこ)るつきの“酒好きといっていい詩人がいた。
その名を陶淵明という。まずはその詩「子を責む」を見てみよう。
白髪両鬢(りょうびん)を被い(おおい)
肌膚(きふ)復(また)実ず(みちず)
五男児有りと雖(いえ)ども
総て(すべて)紙筆(しひつ)を好まず
阿舒(あじょ)は己(すで)に二八になるも
懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐい)無し
阿宣(あせん)は行々(ゆくゆく)志学なるも
而(しか)も文術を愛せず
雍(よう)と端(たん)は年十三なるも
六と七とを識(し)らず
通子(つうし)は九齢(きゅうれい)に垂(なんな)んとして
但(ただ)梨と栗と覓(もと)む
天運苟(いや)しくも此(かく)の如くんば
且(か)つは杯中の物進めん
陶淵明には5人の子供がいた。
その幼名が、舒(じょ)、宣(せん)、雍(よう)、端(たん)、通(つう)
〔阿、子は“ちゃん”“くん”というほどの意〕。
父親である自分が白髪まじりに年老いて、
子供たちは16歳をかしらに9歳まで年齢だけは積み重ねてきているのに、
いずれも勉強嫌いの怠け者。
そこで、
「これが運命ならば仕方がない、あきらめて酒でも飲むとしよう」
と、息子たちの不出来を嘆きつつ、詩人の手は思わず酒盃に延びるというのである。
だが、息子たちには何のかかわりもなく、この田園詩人は、もともと酒をこよなく愛した人物であった。
「飲酒」と題した詩作は20を数え、
また41歳で彭沢(ほうたく)の県令に赴任した折は、
公田の総てに酒の原料となるもち粟を植えるように命じ、一言。
「わしはな、いつでも酔っぱらっていられればそれでいいのだ」
そんな陶淵明の口にした酒は、どんな物だったろう。
まだ酒に銘柄など存在しない時代だが、
その流れを汲む酒といえば、陳年封缸(ちんねんふうかん)酒を置いて他にはない。
廬山(ろざん)の麓、陶淵明の故郷付近、江西省九江市で、
李白や杜甫の生きた唐代はじめから造られてきたと伝えられている黄酒だ。
「但だ恨むらくは世に在りし時、酒を飲むことの足るを得ざりしを」
これは、陶淵明が己の死を想定してつくった詩「挽歌」の結び。
この詩中、陶淵明は、人生の長短などは天命と軽く受け流しながら、
ただひとつ酒の飲み足らなかったのみを悔やんでいる。
飲み飽きてしまうほどの酒さえあれば、すんなり極楽浄土へ旅立てるといわんばかりに・・・。


