御先祖様のその後



土佐から一時は四国全土を制覇しましたが、秀吉によって土佐一国に閉じ込められ、関が原では西軍について所領を失い、大阪の陣でも西軍について命からがら四国に渡り土佐にも帰れず阿波の南部の山奥に隠れ住んで帰農して名字も変えたんですね。徳川の時代には長曾我部は名乗れませんし、かなり強引に四国を我が物にしたので、各地には未だにうらみを持ち続けている地域もあるんですね。

祖父の時代までは、その地域一の豪農で一族も栄えていましたが、祖父が無くなってからは転落の一途で実家も無くなりました。ただ、祖母の家の2階の兜や鎧、刀を見た記憶があります。実家のあった地域の神社には当家の家系図が奉納されています。中学生の頃に家の成り立ちを初めて聞き、お家の再興を期待されて苦しかったものです。

明治になり名字を元に戻す事も可能だったのですが、うらみをはばかったのでしょう、長曾我部はあえて名乗らなかったそうです。すごく平凡でどこの地域にもある名字を名乗りました。

大きな大名家は明治になっても、現在でも名字を名乗れているので羨ましい限りです。私の一族の一部は各地に残っておられる御様子でプロフィールに載せておくと連絡が頂けれるのが唯一の楽しみですが、みなさまも名字を変えている御様子です、徳川の世を生きる手段だったんでしょう。

逆に現在、長曾我部を名乗れるお宅については少し疑問もあります、明治になり名字を自由に名乗れる様になり、名家の名前を頂いたお宅も多いと聞きます。できれば、一族であれば嬉しいです。

それと歴史に詳しい方からわざわざ教えて頂いたのですが、長曾我部のはるか昔の祖先は渡来人である秦氏であるとか。かなり多くの秦氏が全国に根付いて成功を収めているそうで会まであるそうです。名字は変わっている方が多いようですが古代からの歴史を正しく見ると日本人でなくアジア多民族の国家なんですね、天皇家もそうですもんね。

戦国の世とは言え、四国にお住まいの皆様にご苦労、ご迷惑をおかけしたことを心からおわび致します、お許しください。

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: