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シベリア犬クマ
平成十年度 ふれあい大学文集十三号「せせらぎ」より抜粋
鳥取県八頭郡郡家町中央公民館
「抑留者とシベリア犬クマとの哀歌」
郡家東区 井上 平夫
投稿者の井上平夫氏は私の母親の兄で、鳥取県八頭郡より出征しました。陸軍中野学校出で、近年まで事実を話すことはありませんでした。特に満州、内・外モンゴルあたりの諜報活動を行なっていたようです。
昭和20年8月15日の終戦を境に、シベリアに抑留され、諜報活動をやっていた関係から、最後の昭和31年12月28日に最後の送還兵として帰国しました。私は当時小学生でしたが、出生地の橋のたもとで日の丸の旗を振って迎えたのを今でも鮮明に記憶しています。伯父は帰国後、役所に勤務していましたが、今から10年ほど前、当時の状況を鮮明に覚えており、数百
ページに及ぶ「激動の半生」として自費出版しています。
昭和20年8月15日、陛下の終戦詔書により矛を納めた。我々日本人は国際法に基づき、速やかに故国に帰還できるものと判断していた。あに図らんや、ソ連は武装を解除した日本軍人及び満州国在住の日本人官憲をソ連領内各地に連行し、衣食住の最低最悪の環境の中でソ連兵が銃剣で追い、過酷な労働を強制した。
その為に、栄養失調になりその上に発疹チフスが流行し、多くの戦友が斃れた。その員11万3千人とも6万人とも言う。死に際して、皆同じように故郷に思いを馳せつつ、妻子・親の名前を呼んだ。中には、“腹一杯食いたいなあ”であった。
この様な状況の中で、明日の我が身を思うと暗澹憂愁の日々であった。昭和25年末までに抑留者の大分は送還されたが、我々2,700名余りは、犯罪人という名目の外交上の人質として残留させられた。その後、我々抑留者に対するソ連の取り扱いは何ら変化なく、生死の竿頭の継続だった。
昭和28年頃からスイスのジュネーブ国際赤十字から小包、昭和29年からは故郷のハガキ(3ヶ月に一度)及び小包が送られるようになった。それまで殺伐した抑留者の気持ちも和やかな雰囲気に変わり、栄養失調で骨と皮の体にも少しずつ肉が回復してきた。日本の小包で体力をつけ、ソ連の労働をさせられるのは、割り切れない気持ちだ。
そんな時に、作業場に捨てられていた黒毛の仔犬を監視兵の眼を掠めて収容所に連れて帰った。誰が飼い主ということはなく、無聊無逸の男ばかりの収容所、忽ち人気犬となり、小包でもらった食料を誰彼なく与えた。
この仔犬が1~2年前の食に飢えていた時であったら、誰かに殺されて食べられていたかも知れないぞと仔犬のために喜んでやる。この仔犬は黒毛で熊に似ているので「クマ」と名付けられた。「クマ」「クマ」と呼ぶと駆けてきて飛びついて愛嬌を振りまき、皆から可愛がられた。また我々抑留者を慰めてくれた。
仔犬も1年も飼うと成犬になる。このクマは中型位の犬に育った。困ったことに、このクマが日本人には愛嬌を振りまくが、ソ連兵や将校が所内に入ると大きな声で吠えて敵意をむき出して向かう。ソ連兵も度重なると怒って拳銃を出して殺すと息巻く。ソ連兵の巡視時間にはクマが吠えない様に匿った。ソ連兵も諦めたか拳銃を抜かなくなった。以後安穏だった。クマはソ連人社会より収容所で、日本人と一緒の方が好きらしい。
昭和31年10月、鳩山首相が不自由な体を車椅子に託して訪ソされ、日ソ協同宣言を締結、我々最後まで抑留された1,025人が最後の梯団として帰国できることになった。我々抑留者を慰めてくれたクマを連れて変えることは検疫とか種々の手続きで不可能であった。残念だが、生まれた地に残す以外に抑留者には対策がない。皆そう思い別れを惜しんだ。
12月21日夕方、ハバロフスク駅で列車に乗せられ、22日朝出発し、一路南下、翌23日ナトホカ港着、下車する岸壁に接岸した興安丸に日の丸が翩翻と翻っている。ああ11年余、至酷の世界から漸く抜け、帰国できることが現実になったと思うと、涙が雨の如く流れた。
岸壁から興安丸に架けられた急造の粗末な桟橋下で、日ソの係官立会いで一人ずつ呼名で確認し日本側に引き渡され、桟橋を上がり乗船する。甲板上では、看護婦さんが数人いて登ってくる帰国者の手を取り、「長い間ご苦労様でした」と眼を潤ませながら、甲板へ引き入れてくれる。返す言葉は、感涙に詰まって何も言えず、深々と頭を下げるのみ。24日朝ソ連の砕氷船が構内に張り詰めた氷を破砕し、興安丸を外港へ曳船準備する。
興安丸がゆっくりと岸壁を離れる。皆甲板に上がって11年5ケ月の諸々の思いを離れていくナホトカの山々を見つめて、抑留中に逝った友に心の中で別れを念じていた。その思いを破るように、「クマが海に飛び込んで船を追ってくるぞ」と叫ぶ。皆がそっちの舷側によって見ると、収容所で別れた「クマ」が興安丸が離れた岸壁から飛び込んだらしく、船に向かってくる。溺れ死ぬと思い、「クマ、引き返せ・クマ引き返せ」と口々に呼びかけるが、クマは尻尾を振って今船が掻き分けた砕氷の凸凹した上を右に左にと渡りながら、時には滑って海に落ち、這い上がっては身震いするが零下40度、毛に凍りついた氷は落ちない。尻尾に凍った氷が重くなり振り方も緩慢になる。
クマは一緒に日本に連れて行ってくれと哀願するように時々船を見上げる。必死に追うが船との距離はだんだん開く。それでもクマは断念しない。だが、我々には、如何する術もない。もどかしさで苛立つ。その時、興安丸の速度が落ち、停止する。クマは急いで興安丸に近寄って甲板の帰国者を見上げて全身を振るが、凍りついた氷は落ちない。日本人を追う一念である。早く助けてと叫んでいるようだ。
玉置船長のご厚意であろう。甲板から縄梯子が降ろされ、船員さんが氷上の下り、クマを抱いて船に上げられた。船内に歓声が上がり、クマが救助されたことを喜ぶ。看護婦さん達も眼に涙して喜んでくれた。我々帰国者の心にほのぼのとして温かさが湧いた。
私は、21日帰国列車に乗る時、誰かが密かにクマを連れて乗ったのだろうと思っていた。クマは舞鶴で家畜検疫所に引き渡されたと聞いていた。クマは願いどおり日本に来てよかったと喜んでやった。クマのように黒毛の中型の犬を見ると「クマはどうしたかな」と、思い出すことはあったが、その後の消息は知らなかった。
私達、長期抑留者会の機関紙の最新号に、クマが日本に上陸後の消息が報告された。それによると、我々帰国者の仲には、クマを帰国列車に乗せた者はいない。
クマは、ハバロフスクからナホトカ港までの1,000キロの距離を22日から24日朝まで、零下40度の寒さに耐えながら、昼夜を問わず、日本人の臭いを求めて走り続けたことになる。着いてから何処かに隠れていて、興安丸が岸壁を離れるのを見て海に飛び込んで、日本人の後を追ったのが事実のようである。クマは、共産主義を嫌って命がけの亡命をしたのだ。
クマは幸い、玉置船長の計らいで救助された。興安丸が舞鶴港に着いたとき、玉置船長がクマの身元を引き受けて検疫を受けられた。船長は、一匹のシベリア犬クマが日本人を慰めてくれた忠犬であり、日本人を慕って命がけで氷海に飛び込んで、後を追う行動にいじらしさと純粋さにいたく打たれるところがあると自分から切望して、クマを引き取り大切に飼育されたとのことであった。
あれから40年余、玉置船長さんは他界された。恐らく「クマ」もこの世にはいない。引き上げ話など今の世には、耳を傾けてくれる人も少なくなっている。一匹のシベリア犬クマが、あの殺伐とした収容所に笑いを与えてくれた「クマ」。あの酷寒の海に飛び込み、命をかけて飼い主の日本人を追った「クマ」。その「クマ」を停船して救い、日本に連れて帰り、飼育してくれた玉置船長。クマが船上に姿を現したとき涙を浮かべて喜んでくれた看護婦さん達。クマは幸せな犬であったと思う。その幸せを拓いたのはクマ自身である。
忠犬ハチ公の物語もあるが、戦後に帰国した我々1,025人にとっては、ハチ公に優る忠犬「クマ」であり、忘れられない思い出である。日本に眠る「クマ」の冥福を祈る。
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