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クロニクル 『日本の下層社会』出版1899(明治32)年4月30日121年前のこの日、横山源之助著『日本の下層社会』が教文館から出版されました。著者の横山は大阪毎日新聞の記者でした。 横山は二葉亭四迷の門を叩いて、文学と社会問題の関係を深く考察する必要性を自覚したことから、1894(明治27)年に大阪毎日新聞に入社し、ルポルタージュ記者として、才能を開花させました。 日清戦争後、社会の底辺で生活する貧しき人々の生態に関心が集まってきていたため、横山の現地からのルポは評判を呼び、貧しき人々の生活に焦点を合わせて、その生活の実際を素直に表現したものとして、高い評価を得たのでした。この著作は、関西と北関東、そして東京の3地点での調査を踏まえて記されており、貧民の諸階層の生活を冷静,沈着に調査、観察している点で優れていました。ここに、日本資本主義においても、貧民問題は必然的な社会問題であることが、明確に理解されるに至りました。なんだか、21世紀に入って、再び貧民と貧困が問題になってきつつありますね。このままで大丈夫なのでしょうか。大いに疑問です。
2020.04.30
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クロニクル IOC日本とドイツの五輪復帰承認1949(昭和24)年4月29日71年前のことです。この日開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会は、日本とドイツのIOC再加盟と五輪への復帰を承認しました。 第14回ロンドン五輪は、前年(1948年)に終了していましたから、この決定により両国は、1952年開催の第15回ヘルシンキ大会からの五輪復帰が決まったのです。もし48年のロンドン五輪に参加できていたとしたら、古橋・橋爪の両エースを抱えた日本の水泳陣は、自由形中長距離の400mと1500mを、ぶっちぎりで制していたでしょう。当時の日本水連は、五輪に参加できない選手たちの無念を思いやって、ロンドンでの決勝が行われる同じ日に、水泳の日本選手権を開催し、ロンドンの記録と突き合わせて、選手の無念を晴らす、粋な試みを実行したのです。1500mの古橋、橋爪両選手は、最後のターン後も大接戦を演じ、僅差で古橋選手が優勝したのですが、2人の記録は見事に当時の世界記録を1秒以上も上回っていました。コロナの影響で、大会が開けない中学生や高校生、そして大学生や社会人の選手たちのために、かつての水連のような粋な計らいを、秋以降の時点で、考えてくれる団体が続出してくれると良いですね。49年に話を戻すと、この時点では、ドイツはなお、一つのドイツでしたが、米ソ冷戦の激化の中で、この年9月に西ドイツが、1か月後の10月に東ドイツが誕生することになり、ドイツは東西が別々に五輪に参加することになりました。52年のヘルシンキ五輪、小学校4年生の私は、まだ疎開先の桐生におりました。古橋選手の水泳や人間機関車と呼ばれたチェコのザトペック選手の活躍(彼はマラソンだけではなく、5000m、10000mを合わせ、3種目で1位を独占しました)を、夢中になってラジオにかじりつきながら応援していました。昨28日に訃報が流れたマラソンの山田敬蔵さんは、ヘルシンキ五輪では下位に沈みましたが,そこから発奮して練習に励み、翌年のボストンマラソンで見事優勝を果たし、当時の国民を大喜びさせてくれたこと、まだ覚えています。なお五輪の歩みの中で、1940年の第12回東京大会と、1944年の第13回ロンドン大会の2つの大会は、第二次世界大戦の最中ということで中止され、実際には開かれていませんが、五輪の大会にはカウントされています。
2020.04.29
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クロニクル 日本OECDに加盟1964(昭和39)年4月28日前回の東京五輪の年ですから、56年前になります。この日、日本政府はOECD(経済協力開発機構)への加盟を、正式に閣議決定しました。OECDは1961年9月に発足した欧米の経済先進国20ヶ国が加盟する組織で、日本は21番目の加盟国となりました。OECDは、加盟国の協調によって、加盟各国の経済の安定的な成長と、途上国への経済援助を目的としており、資本主義的世界経済のリード役を自認する存在でした。このOECDへ無条件で迎えられた(閣議決定で即加盟したことになったのは、日本が決断すれば無条件で受け入れる旨の連絡を既に受けていたからです。問題は国内にあったのです)ことで、日本は、米・英・仏・西独(当時)と肩を並べ、完全に経済先進国の仲間入りを果しました。 既に4月1日、海外旅行の自由化(それまでは、留学並びに商用以外の海外渡航は許可されませんでした)とIMF8条国への移行を実現し、経済開放への道を徐々に進み始めていたのですが、OECDへの加盟を果したことで、今後は資本の自由化への道を、歩みを始めることになりました。 現在のOECD加盟国は37ヶ国に増えています。
2020.04.28
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クロニクル サントリービール発売1963(昭和38)年4月27日 東京オリンピックの前年の話です。57年前のこの日、洋酒のサントリーがビールの生産に乗り出し、サントリービールを発売しました。何故サントリーがビールを?それには、同社ならではの事情がありました。サントリーのウィスキーが売れすぎ、洋酒業界では、ダントツのガリバーになりすぎたのです。このままでは独占禁止法による会社分割の対象にされてしまう。こういう危機感を同社は持ったのです。 幸い、洋酒も酒類の分類でしたから、洋酒以外の売れない商品を出せば、サントリー全体の酒類のシェアは下がり、分割の畏れはなくなります。サントリーはこれを狙ったのです。当時の佐治敬三社長は、ビール部門に対し、「急いで売れる商品に仕立てなくてよろしい。時間はかかっても、良いものを育てて欲しい」と、訓示したそうです。こうして時間をかけて育てることが出来たからこそなのでしょうね。それこそ、初期の少しも美味しいと思えなかったサントリーのビールも、2000年代の中頃には良い味を出すようになり、矢沢永吉をCMに起用した「サントリープレミアムモルツ」など、、飲み応えのある美味しいビールになってきました。ただ、ダルマなど低・中級のウィスキーの味は、落ちているように感じます。
2020.04.27
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クロニクル チェルノブイリ原発事故発生1986(昭和61)年4月26日 今日で34年が経ちました。この日午前1時23分に、当時のソ連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で大きな事故が発生しました。世に言う、チェルノブイリ原発事故です。ソ連国営のタス通信によって、この事故の模様が発表されたのは、事故2日後の28日夜のことでした。この28日にスウェーデンの東海岸一帯で、異常な数値の放射能が検出され、風上のソ連における原発事故の発生が推測されていたところでしたから、ソ連の報道の早さが余計に際立ち、正直に事実をありままに伝えた姿勢に、前年に就任したゴルバチョフ書記長による、新思考外交と情報公開の姿勢が、単なるポーズではなく、本物であることが、世界に認められました。最近では2日も経ってからでは遅いじゃないかと主張されますが、当時のソ連の隠蔽体質を知るものからすると、大変な早さだったことは事実です。さて、事故に戻りますと、事故は緊急時の発電実験中に、過剰な出力が発生して炉心が「溶融」して原子炉が大爆発を起こし、建屋が炎上した事故でした。事故で2人が即死し、消防士等29人が放射線被爆により死亡。8月までの急性放射線障害者数は203人に上りました。また、半径30km圏内の住民に避難命令が出され、住民13,5万人が住み慣れた故郷を後にしました。 今日に至るも、耕作放棄地はそのまま残され、周辺住民の避難も解除される見通しは立っていません。周辺住民の癌発生率は異常な高さを示し、放射線被爆の影響が指摘されています。周辺の放射性物質の濃度は、今でも異常値を示しており、原発の最終処理には、なお長い年月が必要とされているようです。 福島も、どれだけの時間が必要なのでしょうか。少なくとも政府や東電の公式見解の通りに運ぶとは思えません。
2020.04.26
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クロニクル ラ・マルセイエーズの誕生1792(寛政4)年4月25日フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」と、アメリカ合衆国国歌「星条旗よ永遠なれ」の2曲は、歌詞はご存知なくとも、メロディと曲名については、ご存知の方が多いと思います。アメリカ国歌、「星条旗よ永遠なれ」は、1812年~14年にかけての米英戦争の初期の頃に作られた軍歌と呼ぶべき曲です。フランス国歌、「ラ・マルセエーズ」は革命歌です。この曲は、元々は「ライン軍団の歌」と言い、1792年の今日、初めて披露されたのです。作曲者はルジェ・ド・リール。仏軍の砲兵大尉だった人物です。5日前の4月20日、フランス革命政府は、オーストリアに宣戦布告し、革命フランスは反革命派から、革命を防衛するための戦争に入りました。そして、ライン方面軍として戦地に向かう兵士たちに捧げる行進曲として、ルジェ・ド・リールがこの日披露したのが、この曲でした。題して「ライン軍団の歌」です。それがどうして「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれるようになったのか。この曲は当初、ライン方面=アルザス地方でのみ歌われていたのですが、国王ルイ16世と通じる将軍達の裏切りによって、戦局はたちまち不利となり、同年7月11日、革命政府は「祖国は危機にあり」と、非常事態宣言を発して、義勇兵の募集を始めたのです。この檄に答え、マルセイユ方面からの部隊が、ローヌ川を遡り、アルザス方面を経由して、パリに到着したのは、8月8日頃のことでした。 彼らは、アルザス地方でのみ歌われていた「ライン軍団の歌」が大変気に入り、パリッ子たちの大歓迎を受けながら、パリへ入場した際も、この曲を歌いながら入ってきたのです。たちまち勇壮なこの歌は、パリッ子たちの心を捉えました。そしてパリっ子がつけた名前が、マルセイユの義勇兵の歌を意味する「ラ・マルセイエーズ」だったのです。
2020.04.25
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クロニクル ベ平連、初のデモ1965(昭和40)年4月24日 日本の昭和史、特に戦後昭和史を語る時に、欠かすことのできないことの1つに、ヴェトナム戦争との関わりをあげることができます。そしてヴェトナム反戦の運動の中で産まれ、新しいタイプの市民運動の嚆矢となったのが、「ベトナムに平和を!市民連合」(略称ベ平連)の運動です。べ平連は、小田実、開高健、小中陽太郎らを代表世話人にして発足しましたが、がっちりした組織体を持たず、「参加者が暴力に走らない範囲で、自分達に可能な運動を出来る範囲でやる」ことをモットーにした運動体でした。ですから、英語が堪能な人達は、当時日本各地に多かった米軍基地に出かけて、英語でヴェトナム反戦を呼びかけ、米軍からの脱走を勧めたり、実際に脱走した米兵をかくまい、身の安全な北欧諸国への亡命を支援したりする運動を展開していました。勿論、広範囲に呼びかけてのデモ行進も頻繁に行われました。そして、ちょうど55年前のこの日行われたのが、ベ平連が活動を開始したことを、世の中に周知するための、挨拶デモでした。当時の記録によると,高校生の参加も多かったとあります。これは政治運動ではなく、平和のための運動であるとする生徒達のアピールを受け入れた高校が多かったからでした。
2020.04.24
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クロニクル 三国干渉1895(明治28)年4月23日125年前になります。清国との日清戦争に勝利した日本は、4月17日に締結した下関講和条約において、遼東半島を獲得しました。それから僅か6日後のこの日、ドイツ、フランス、ロシアの三国が、共同で日本に対し、遼東半島の清国への速やかな返還を申し出てきました。世に言う三国干渉です。 日本への申し出、勧告という形をとっていましたが、勧告に従わなかった場合、実力行使も辞さずという脅しが、しっかり伴っていましたので、日本はやむなく勧告に従う形で、遼東半島を清国に返還しました。この干渉の主導国は、一般にはロシアと考えられていますが、実はドイツ皇帝ウィルヘルム2世の世界政策によるものでした。露仏同盟に挟まれ、孤立状態にあったドイツは、両国、特にロシアとの関係改善を狙って、日本への干渉を考えたのです。この狙いは見事に当たり、西洋におけるドイツの立場は、一時ですが大いに改善されました。
2020.04.23
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クロニクル 第1回ミス日本コンテスト1950(昭和25)年4月22日 70年前になります。敗戦から、間もなく5年。戦後のハイパーインフレを、ドッジラインと呼ばれたデフレ政策で乗り切ろうとしていた日本は、経済的には1番苦しい時局を迎えていた時期でした。 2ヶ月後に朝鮮戦争が始まり、その戦争に依る特需で、日本経済が息を吹き返し、短期間にデフレを克服するなどとは、知る良しもない当時でした。 暗い世相だからこそ明るい話題をと……考えたのでしょう。この日、第1回『ミス日本』コンテストが行われ、後に大女優になられた山本富士子さんが、ミス日本に選ばれました。
2020.04.22
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クロニクル 忠犬ハチ公の銅像完成1934(昭和9)年4月21日 渋谷駅の道玄坂方面の広場に、ハチ公の銅像があります。今も待ち合わせのメッカです。日中から人待ち顔の若人の活気のある姿が、溢れています。86年前の今日、忠犬ハチ公の銅像が完成し、まだ元気だったハチ公自身も、この日行われた除幕式に出席しました。 秋田犬のハチ公は、1923年11月の誕生で、翌24年から、現在の東急百貨店本店周辺に住んでいた上野英三郎さんに飼われ、いつの頃からか朝夕出勤する上野さんを渋谷駅まで送迎するようになったと言われます。ご主人の上野さんは、1925年5月21日に急死してしまうのですが、ハチ公はその後も毎日渋谷駅に出かけ、上野さんの帰りを待ち続けました。この事実が東京朝日新聞で報道されて、ハチ公は全国的に有名になり、忠犬ハチ公と呼ばれるようになりました。ハチ公は銅像の出来た翌年1935年3月8日に亡くなっています。遺体は解剖され、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生しており、それが直接の死因になったことが明らかにされました。なおハチ公は剥製とされ、現在も東京科学博物館に保存されています。
2020.04.21
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クロニクル モナ・リザ日本へ1974(昭和49)年4月20日46年前になります。この日、東京は上野公園内の国立博物館で、フランスのルーヴル美術館の至宝、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」が特別公開されました。大変な混雑だったのを覚えています。公開は、同年6月10日までの52日間、この間の総入場者数は、1,505,239人と記録されています。 東京国立博物館は、明治5(1872)年に創設された日本で最古の博物館です。
2020.04.20
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クロニクル 伊能忠敬蝦夷へ…1800(寛政12)年4月19日 今日は地図の日です。それは220年前の今日、日本の地図の父とも言える伊能忠敬が、5人の仲間と共に最初の測量開始の地である蝦夷へ向けて出発した、ちょうどその日に当たるからです。 忠敬はこの時56才。上総で酒造業を営んでいた忠敬は、この4年前1796年に家督を息子に譲って隠居、江戸へ出て高橋至時(よしとき)に弟子入りして天文学を修得、緯度1度の長さを測るべく、地形の測量を思い立ち、幕府の許可を得て、自費による蝦夷地の測量を実施する決意を固めたのです。 函館から襟裳岬を通って、厚岸から根室へと、蝦夷地の東端まで測量して帰路に着き、10月21日に江戸に帰り着きました。この旅に忠敬一行は100両の金子を持参したのですが、帰着した時の一行の所持金は、僅かに1分と、ほぼ100両のお金を使いきっていました。幕府は22両1分を下賜してくれましたが、忠敬の持ち出しは大きかったのです。 測量を土台とした地図の製作は12月21日に完成します。出来上がった地図は幕府に献上されました。地図を見た幕府要人は、忠敬の測量技術の高さに驚き、改めて忠敬に日本全国の沿岸測量と地図の作成を依頼、1816年の完了まで、忠敬の測量の旅と地図作りが行われるのです。それにしても、完成時の忠敬は72才。健康と健脚には驚きを禁じえません。彩色の伊能図は大図214枚、中図8枚、小図3枚からなり、現在国立国会図書館に保存されています。幕府が密かに秘蔵していたため、伊能図を元にした地図が発行されたのは、1865年のことでした
2020.04.19
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クロニクル 霞ヶ関ビル開館1968(昭和43)年4月18日霞が関ビルの竣工は、この年1968年4月12日のことでした。竣工から6日後、52年前の今日、東京霞ヶ関に、三井不動産が建設した本邦初の超高層ビル、「霞ヶ関ビル」が開館、営業を開始しました。地震の揺れは、建物全体が揺れに身を任せながら吸収する、柔構造方式を採用した最初の建物でもありました。 霞ヶ関ビルの成功から、70年代に入ると、日本も本格的な超高層ビルの時代に入ってゆきます。今では、あちこちに超高層の建物が見受けられます。しかし、超高層ビルは、中国の方が圧倒的に多いですね。ともかくどこもかしこも凄い数の超高層ビル群です。 大丈夫だと良いのですが......
2020.04.18
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クロニクル 解放勢力ブノンペン制圧1975(昭和50)年4月17日45年前のこの日、カンボジャの解放勢力、ポルポト派がブノンペンを制圧、右派のロンノル派の政府軍は降伏し、解放勢力がカンボジャの支配権を手中にしました。ヴェトナム・ラオス・カンボジアの旧フランス領インドシナ三国の中で、カンボジアはシアヌーク国王の個人的な人気もあって、最も政治的に安定した国家だったのですが、手前勝手に南ヴェトナムの解放に反対してヴェトナム戦争を作り出しておきながら、民族の抵抗に苦戦を強いられていた米国が、戦線をカンボジアにまで拡大、ヴェトナムとの国境に近いカンボジア東部一帯を無体にも空爆するに及んで、情勢は一転、米国寄りの右派(ロンノル派)とヴェトナムに呼応して民族解放を叫ぶ左派(ポルポト派)が激突、中庸を旨とするシアヌーク派の立場は弱まり、この日遂に解放勢力によるブノンペン制圧が実現するに至ったのです。南ヴェトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)解放の13日前の事でした。 米国の血迷った行動がなければ、カンボジアはシアヌーク王政が続いていたでしょうから、まさにアメリカのお節介が作り上げた社会主義カンボジアの誕生でした。その結果が、やがて明らかになるポルポト派による、都市住民特にインテリ層の大量虐殺に繋がったのですから、カンボジアの被った損害は、実に大きかったと言わざるをえません。そして、アメリカのお節介はその後も続き、アフガン、イラク、シリアなどなど、政治の安定を失ってしまった諸国で、普通の人々が、平穏で無事な日々を奪われ、苦しんでいる現実が今も続いています。
2020.04.17
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クロニクル 初の革新都政誕生1967(昭和42)年4月16日53年前の話です。この日は戦後6回目の東京都知事選の投票日でした。選挙は自民・民社両党推薦の松下正寿前立教大学総長、公明党推薦の阿部憲一氏、そして社共両党推薦ながら無所属で出馬した美濃部亮吉東京大学名誉教授の3人の争いとなりましたが、テレビの「優しい経済学」でお茶の間に親しまれていた美濃部氏が、ソフトな語り口と、東大の教え子たちの「先生を落すな」の肩入れ、そして「物価の美濃部」の知名度から、革新票の他に浮動票を大量に獲得、松下候補に大差をつけて、早くも午後8時前には当選を確実にし、圧勝したのです。 美濃部氏はその後、3期12年にわたって都政を担当、公害、福祉、物価問題に焦点を当て、弱者保護の都政の実現に腐心しました。 無認可保育所への公費助成を実現するなど、地方自治の新展開をリードして、いくつもの業績をあげましたが、歳出を膨らまして、都財政の赤字が膨らみ、美濃部後を革新都政で繋ぐことは出来ませんでした。
2020.04.16
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クロニクル 自由学園開校1921(大正10)年4月15日99年前のこの日、羽仁もと子さんが設立した自由学園が、東京豊島区の雑司が谷で開校しました。自由学園は当時の高等女学校令に依らない学校でした。ここでは26人の生徒を五つの家族になぞらえ、用務員をおかず、全ての日常生活を、この小集団で自立的に管理する方針が取られました。 羽仁もと子さんは、夫君と共に『家庭之友』(のち『婦人之友』と改題)誌を編集発行していたのですが、日本の家庭の近代化は、教育を通して実現できると考えるようになり、学園の創設を考えるに至ったのだそうです。そして自らの信じる、キリスト教精神に基づき、「思念しつつ、祈りつつ」を標語に、自由と自治に依る教育を目指しました。自由学園は、大正自由教育運動の主旨に賛同して出発した学校の中でも、異色の学校として知られています。なお、現在地の東久留米には、1934(昭和9)年に移転しています。
2020.04.15
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クロニクル アフガン和平協定調印1988(昭和63)年4月14日32年前のこの日、ソ連は、アフガニスタンとの和平協定に調印しました。この結果、1979年以来多くの犠牲を払ってきた、ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、アフガンに安定した親ソ政府をつくることに失敗し、具体的な成果無しに撤退することになりました。まさに、アフガンはソ連にとって、米国にとってのヴェトナムと同じ意味を持ったのです。ソ連軍のアフガンからの撤退は、1ヶ月後の5月15日に始まりました。そのアフガンに、今度はアメリカがのこのこ出かけ、こちらもまた、ソ連同様不毛な戦いに消耗し、不名誉な撤退に追い込まれながら、ばお少数の兵士を残し、アフガニスタンにおける親米勢力の存続を図ろうとし、アフガンにおける平和の訪れを妨げています。その結果、アフガンの人々は、今なお無政府状態に苦しめられています。そして、米国も小国を苦しめた責任はとらないままです。
2020.04.14
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クロニクル 全国サラリーマン同盟結成1969(昭和44)年4月13日51年前のこの日、中村武史、青木茂両氏らを中心に結成された全国のサラリーマンの横断的な組織として、全国サラリーマン同盟が結成されました。サラリーマン減税や源泉徴収の廃止、必要経費を認めることなどを要求して、サラリーマンの支持をある程度集めましたが、大きな支持を得るには至りませんでした。1982(昭和57)年、参議院に比例代表制が導入されると、サラリーマン同盟は、83年に青木茂氏を代表にサラリーマン新党を結成、2名を参院に送り込み、次の86年選挙でも1名を当選させましたが、やがて解党に至り、ここでも支持は伸び悩みました。サラリーマンと言っても、その存在は多岐に渡り、団結するのは容易でないことを証明する結果となりました。
2020.04.13
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クロニクル 地球は青かった1961(昭和36)年4月12日59年前のこの日、日本時間午後3時7分頃に、ソ連は人類初の有人人口衛星ボストーク(東方)1号の打ち上げに成功しました。ボストークは地球軌道を一周した後、午後5時5分前頃、地球への帰還にも成功しました。この間約1時間50分でした。 「地球は青かった」はボストーク1号に搭乗していた、ユージ・ガガーリン少佐(当時27才)が、帰還後の記者会見で、宇宙から見た地球の印象を聞かれて答えた言葉です。 「空はとても暗かったけれど、地球は青かった」と...。この言葉は、この年世界の流行語となりました。宇宙飛行士は、その後随分増えましたし、飛行時間どころか、飛行日数も飛躍的に増えましたが、ガガーリン氏は、宇宙飛行士のパイオニアとして、その後、地球環境問題などで、米ソの宇宙飛行士が手を携えて発言し、行動してゆくまとめ役として、活躍しました。 「青と緑の美しい星を守れ」と......。 その彼は1968年3月飛行訓練中に事故死しています。宇宙飛行から7年後、34歳の若さでした。
2020.04.12
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クロニクル 春闘で空前の交通スト1974(昭和49)年4月11日46年前のこの日、総評系を中心とした春闘共闘会議は、諸要求の実現を目指して、交通機関を中心としたストライキに突入しました。 国鉄(現在は分割民営化されてJR各社になっています)は史上始めて、全路線で全面運休となり、他に大都市圏の私鉄も加わって、スト参加者は全国で600万人に達する、大規模なものとなりました。 当然、各地の学校は休校または自宅学習の措置をとり、企業もまた社員が出社できず、開店休業の状態におかれる会社が続出しました。このストは、48時間に渡ってぶち抜かれ、3日目に入った13日の早暁、経営側の一定の譲歩を得て、収拾されました。労働運動が大きくかつ輝いていた時代のことでした。春闘では、JRや私鉄といった交通機関のストがつきものの時代で、気楽な身分の学生や生徒は、ストになれば学校が休みになると、責任のない立場にあることを良い事に、ストを期待し、国・私鉄の労働者に「頑張って!」とエールを送っていた、あくせくしない時代でもありました。最近は労働者も、学生も元気がないですねぇ。アメリカでは、若い世代の支持を背景に、民主社会主義者を自称する民主党のサンダース候補が、かなりの支持を集めているというのに、日本では実にミスの多い安倍内閣がいまだ安泰とは…「ストは何処に行った」なんて歌が、そのうちはやるのでしょうか? 少なくともコロナウィルスによる席の見えない登校禁止のお休みよりも、ストによるお休みの方が良いですよね。
2020.04.11
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クロニクル 日本映画グランプリ獲得1954(昭和29)年4月10日66年前のことです。この日、フランスのカンヌで開かれていたカンヌ映画祭において、衣笠貞之助監督作品『地獄門』がグランプリに輝きました。 戦後の混乱を抜け出しつつあった当時の日本では、映画は手軽な娯楽として人気が高く、映画館も乱立気味でしたが、それでも観客は集まり、映画産業の全盛期の入り口にありました。そんな時のグランプリの報に、日本中が沸き立ち、3月のビキニ環礁での第5福竜丸の被爆事件で、暗くなりがちだった世相も、明るさを取り戻しました。51年秋の黒沢明監督作品『羅生門』のヴェネツィア国際映画祭での、グランプリに続く、衣笠作品の受賞で、日本映画に対する世界の注目度も、大いに高まりました。
2020.04.10
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クロニクル 無党派知事当選1995(平成7)年4月9日25年(四半世紀)前になります。この日行われた東京・大阪の知事選挙で、東京では青島幸男氏が、大阪では横山ノック氏が当選しました。2人は、共に政党の推薦を断り、無党派で出馬して風に乗り、共に大差で対立候補を破って当選を果たしました。 2人は共に参議院議員を務めていましたが、その参院選挙の経験を生かし、政党推薦を受けるよりも、無所属を貫いた方が、多くの支持を得られる事を直感し、若者を中心に支持を広げ、見事に当選を果たしました。しかし、共に行政経験を持たなかった上に、行政経験豊富な参謀格の人物(黒子)を持たなかったために、やがて行き詰まり、青島氏は1期で野に下り、横山氏は2期目の当選を果たしたものの、選挙期間に女性の運動員に破廉恥行為に及んだとして逮捕され、辞任に追い込まれました。2人共に知事として大きな功績を上げることは出来ませんでした。
2020.04.09
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クロニクル NHK『夢であいましょう』放送開始1961(昭和36)年4月8日59年前になるのですね。この日NHKで、バラエティ番組『夢であいましょう』の放送が始まりました。タイトルの如く、土曜日の夜10時過ぎの番組でした。放送は1966(昭和41)年4月2日まで、丸5年間続きました。 番組では、毎月1曲、永六輔作詞・中村八大作曲のコンビで、「今月のうた」が作られ、その中から数々のヒット曲が誕生しました。 代表作に、坂本 九『上を向いて歩こう』、ジェリー・藤尾『遠くへ行きたい』、梓みちよ『こんにちは赤ちゃん』、デューク・エイセス『おさな馴染み』などがあげられます。いずれも、今でも歌い継がれている曲ばかりです。
2020.04.08
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クロニクル カラーTV輸出自主規制へ1977(昭和52)年4月7日43年前の話です。この日、日米両政府は、両国間の貿易摩擦の焦点として、懸案となっていた日本製カラーTVの対米輸出について、日本側の自主規制という形で決着したことを発表しました。60年代の繊維輸出、60年代末~70年代初にかけての鉄鋼輸出に続く、3度目の摩擦がカラーTVでした。やがて、80年代に入ると日米自動車摩擦が喧伝されるようになって行きます。 最近の米中の摩擦報道を見聞きするに連れ、日米摩擦がいつの間にか、米中摩擦に変わってしまっていることが読みとれ、大きく時代が変化していることが、伝わってきますね。ソニー、松下(パナソニック)、シャープの苦戦、時代の変化を読んでの経営戦略の転換が出来なかったことに尽きますね。これは経営に人を得なかったこと、後継者選びの失敗の結果ですね。
2020.04.07
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クロニクル 『星の王子さま』初版発行1943(昭和18)年4月6日77年前になるのですね。時あたかもアジア・太平洋戦争の最中。前年10月後半生まれの私が、生後半年弱の頃です。この日、フランス人の飛行士で小説家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『Le Petit Prince』(邦訳名『星の王子さま』)が、英語版とフランス語版で同時に出版されました。しかし、フランス国内での発売は、戦争終了後の1946年になってからとなりました。テグジュベリは、第二次世界大戦期、空軍の偵察部隊に属していましたが、ペタン政府がドイツと講和したため、アメリカに亡命したのですが、この書の出版後に再度志願して、当時サルディーニャ島にあった原隊の偵察部隊に復帰します。そして運命の日、1944年7月31日に、フランス南部の偵察に飛び立ち、そのまま帰らぬ人となりました。 彼の墜落現場が、地中海のマルセイユ沖であったことは、世紀末の2000年5月に明らかになりました。あの時の騒ぎ、覚えていらっしゃいますか。この物語、現在でも読み継がれていますね。ウィキペディアによりますと、2015年現在で日本語版が800万部、世界全体では1億5千万部の売り上げを記録しているそうです。凄いですね。
2020.04.06
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クロニクル 上野駅新装開業1932(昭和7)年4月5日88年前の話です。東北、上信越方面への玄関口である上野駅は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大きな被害を受けた後、急ごしらえのバラック建築で凌いでいましたが、8年7ヶ月後のこの日、ようやくにして新装開業に漕ぎつけました。 総工費は当時のお金で250万円だったと記されています。震災後の経済不振に続き、世界恐慌の嵐にも見舞われ、日本の財政も火の車状態でしたから、上野駅の工事も緊縮財政の影響を蒙り、当初3階建の予定だった駅舎を2階建に変更することで、ようやく竣工に漕ぎつけたと記録されています。
2020.04.05
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クロニクル 竹槍でちょいと突き出す二分五輪1877(明治10)年1月4日143年前になるのですね。確かに明治は遠くなりました。この日明治政府は、貧農層を中心とした「地租改正反対一揆」の激しさを考慮して、地租の額を地価の3%と定めた法令を撤回、地価の2,5%に引き下げると決定、ただちに布告しました。 貧農層は、この結果に大いに気を良くした結果が、標題の落首となったのです。しかし、これは巧妙な政府の作戦勝ちでした。地価の3%の地租というのは、いったいどのくらい重いのかを、簡単な計算式で示しますのでご覧下さい。 問題は地価にあります。これは明治6年の地租改正令で定められたのですが、1つには個人の土地所有権を認めたことに、大きな意味がありました。そして土地所有者に地価の3%の地租の納入義務を負わせたのですが、その地価は、その土地の過去3年間の年間収入の平均額を20倍したものと定めたのです。ですから、例えば平均で100円の収入のあった土地の地価は、20倍の2千円になります。ですから地租は2千円の3%、つまり60円です。実に年間収入の60%が税として吸い上げられるのです。これでは封建社会よりもひどいではないか。と貧農が怒るのは当然ですね。 果たせるかな轟々たる非難と一揆の嵐が吹き荒れました。先刻そうなることを予想していた政府は、頃合を見計らって規定路線の0,5%の引き下げを発表したのです。これで地租は年間収入の50%に軽減されたのです。 何のことはない五公五民の江戸時代とほぼ同じ水準に収めたのです。最初から50%と出していたら、果たしてそこで収まったでしょうかね。明治政府実に巧妙でした。私は常々この事実に、「お主やるのう…」と唸っています。
2020.04.04
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クロニクル 沖縄の土地収用令公布1953(昭和28)年4月3日67年前になります。この日、米国占領下の沖縄で、在沖縄の米民政府は、土地収用令を公布しました。この強制令は、米ソ冷戦の強化、対中圧力の強化を狙う在沖米軍が、沖縄の軍事基地機能を強化するために、軍施設の拡大強化を目指して、沖縄農民の抵抗を排して、自由に希望する場所で、基地を拡大できるようにするために、公布したものでした。 以後、米軍による軍用地の強制収容が続発することになったもので、沖縄住民は土地の強制収容に強く反発、島ぐるみ闘争に発展して行きました。今に続く沖縄住民の苦難は、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障条約の下で、より重く苦しいものになっていきました。
2020.04.03
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クロニクル 小渕首相倒れる2000(平成12)年4月2日もう20年になるのですね。20年前のこの日は、確か日曜日でした。夜のニュースで小渕首相の緊急入院の様子が報じられ、驚いたものです。皆さんは如何でしたか。 重篤な脳梗塞で、2日後の4日には、本人の意識が回復しないままで内閣総辞職。密室の談合で森喜朗氏が後継指名され、5日に森内閣が誕生しました。小渕首相は、結局1度も意識を回復しないまま、5月14日に62才の生涯を閉じました。 戦後、現職首相の病気入院による交代は、小渕氏以前に2回あります。1度目は1957(昭和32)年2月の石橋湛山首相でした。この時は、前年12月の自民党総裁選で、僅差で岸信介幹事長を破っての当選でしたから、特に異論もなく、岸氏が後継総裁に収まりました。2度目は1964(昭和39)年10月の池田首相の病気退陣です。この時も夏の総裁選で、池田氏と争った佐藤栄作氏が、後継候補1番手の地位を確立しておりましたので、やはり異論なく総理総裁の地位を受け継ぎました。それに比べて、小渕⇒森のケースは、後継の備えもなく、本人の意思も確認できない状態での、密室での選出でしたから、党内からも様々な異論が唱えられ、次の森退陣の時の総裁選びは、全党員対象の代議員選びなど、ガラス張りの選考を強いられましたました。ムードに乗った小泉純一郎元首相が圧勝したのですが、この事態の伏線は、密室の森首相選出にあったように思われます。
2020.04.02
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クロニクル 500円硬貨の登場1982(昭和57)年4月1日これはエイプリルフールではありません。38年前の今日、500円硬貨が初めて発行され、市場にお目見えしました。それまでは500円紙幣、明治の元勲の1人岩倉具視卿の肖像が刷り込まれた青色の札でした。そういえば、100円札の自由民権運動の雄板垣退助翁も、千円札のち1万円札の聖徳太子もお目にかからなって久しいですね。ところで、紙幣には日本銀行券の文字が必ず刻まれ、発行主体が政府ではなく、日銀であることが明記されています。「日銀は通貨の番人としての仕事もしている。」と中学校で習いませんでしたか? 通貨の供給量を調整することで、物価の高騰を抑えているのです。その日銀、紙幣と違って硬貨は発行しておりません。何円でも構いません。硬貨のオモテとウラをとくとご覧下さい。そこには日本国と刻印されています。紙幣の発行は日銀ですが、硬貨の発行は国が担当しているのですね。硬貨をいくら大量に発行しても通貨の安定を脅かすことはないからなのでしょう。全てを政府が扱うと、大量に発行しすぎて、通貨の信用が失われ、大変なことになってしまうけれど、補助貨幣の硬貨なら、いくら発行してもしれていると、すっかり見透かされているようですね。その通貨の番人のはずの日銀が、黒田総裁になった途端、従来の態度をガラリと変えて、金融機関を通じて大量に国債を買い集め、市中に紙幣を垂れ流すというとんでもない行動をとり続けています。それだけでは足りず、金利に構わず国債を買い集めることで、国債の金利を限りなくゼロに近づけることで、国の利子負担を大きく軽減して、本来国債購入者に支払われるべき金利を、政府のために強引に取り上げてしまっています。金利収入がゼロに近いのですから、国民のなけなしの預貯金は、一向に増えません。そのため、財布のひもは固くなる一方で、いくら笛を吹いても、消費は一向に増えないのです。まさに自衛のためですね。GDPの60%強を占める消費を刺激する政策を執らず、GDPの僅か16%程度を占めるに過ぎない製造業を優遇しても、GDPの伸びはごくわずかにとどまってしまいます。さらに悪いことに、日銀は中央銀行のなすべきことではなく、本来の業務にもないはずの、民間企業の株式を、ETFの購入という形で、大量に買い集めています。日銀が株価を下支えしているおかげで、黒田総裁就任後の日本株の平均株価は、2012年の8千円台から2万4千円台まで、上昇したのですが、ため込んだETFを日銀はどうするのでしょうね。ETFを売らない限り、投下資金は回収できません。大株主の日銀が売りに出れば、間違いなく株式市場は暴落します。どうするのでしょうね。俺は売らずにやめるから、損失は次の総裁がかぶればいいとでもいうのでしょうか? ともかく困った葬祭です。買いこんだ国債については、金融機関を通しての買いなので、国債の直接買い入れではないと強弁していますが、結果として政府の財政規律は大きく緩んでおり、他方で景気はさほど良くなったとは言えません。黒田氏は日銀総裁に最も相応しくない人物に思えてなりません。既に手遅れかもしれませんが、彼と彼のお仲間の日銀審議委員には、一刻も早く退場してもらいたいものです。
2020.04.01
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