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クロニクル START調印1991(平成3)年7月31日29年前のこの日、米ソの戦略兵器削減条約(START)がまとまり、調印式が行なわれました。89年12月のマルタ会談(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)での米ソ冷戦の解消など、雪解けが進んだ両国関係を背景に、ここに戦略兵器の相互削減が合意に至ったのです。これは、財政難に悩む両国にとって、軍事費を大きく削減できるメリットがあったからです。この結果、米国の財政収支は、次ぎのクリントン政権の時に大きく改善しましたし、ソ連では、核軍縮に反対の軍部と保守派による反ゴルバチョフクーデタが起きるなど、混乱は長引いてゆきました。 食えなくなったソ連の技術者や学者の1部が、高給を積んでの北朝鮮の誘いに乗ったことが、北朝鮮の核開発と言うオマケを招くなど、その負の連鎖も、忘れるわけには行かないのですが……戦略兵器の削減交渉はその後も続けられますが、要するに米ソの冷戦の終結を経て、共に持ちすぎている核兵器(保管にかかる経費も半端じゃありません)を3千発程度に減らそうという内容(後、21世紀に入ると、2千5百発になります)で、テロとの戦いに軸足を移すためでもありました。今日で7月も終わりですか。商用で目の前の中学校と小学校を訪問したのですが、普通に教室から子どもたちの元気な声が聞こえてきて、例年なら夏休みで閑散としている時期なのにと、続く梅雨空と低温と共に、普通とは遠いコロナの夏を実感してきました。 状況は4月5月より、ずっと悪いように思います。皆様もどうぞお気をつけを。
2020.07.31
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クロニクル 小渕恵三内閣成立1998(平成10)年7月30日22年前のことです。7月24日の自民党総裁選で勝利した、小渕恵三自民党総裁を首班とする小渕内閣が、この日成立しました。内閣の目玉は、首相が三顧の礼を持って迎えた元首相の宮沢喜一蔵相と、民間から迎えた堺屋太一経済企画庁長官でした。この2人の積極財政論者による、財政の大盤振る舞いで、落ち込んでいた景気は多少持ち直しましたが、赤字財政に苦しむ中、隠しおおせなくなった不良債権のヤマの中で、資本の毀損が著しい大手金融機関への公的資金注入が不可避な状勢になっていたため、継続的な財政資金の投入はためらわれる事となりました。こうして、やがて経済の減速が明らかとなり、他方で蔵相が是非にと拘った長銀の救済は、相手方と頼んだ住友信託銀行の足並みが揃わず、遂には、一時国有化という荒療治が仕組まれるなど、日本経済は、やがてどん底へと落ちていくことになりました。電話魔だった小渕首相は、プッチホンの愛称で知られましたが、首相として何をしたかについては、最近トンと見かけなくなった2千円札の発行者ということでしょうか。…
2020.07.30
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クロニクル 沖縄の米軍機、南ヴェトナムを爆撃1965(昭和40)年7月29日55年前のこの日、沖縄の嘉手納米軍基地を飛び立ったB52爆撃機30機が、南ヴェトナムを爆撃しました。このB52爆撃機の根拠地は、米国のグァム基地でしたが、同地がハリケーンに襲われたため、前日に沖縄に避難していたものでした。ハリケーンを避けて飛来していたとはいえ、沖縄からヴェトナム戦争の前線直接出撃したのは、始めてのことでした。 未明に発進したB52は、お昼過ぎには嘉手納基地に再び姿を現しましたが、沖縄米軍は行き先を公表しなかったので、日本国民が事実を知ったのは、サイゴン(現ホーチミン市)からの外電によってでした。 国務省は、「沖縄基地の米軍機のこのような使用は、日本政府との事前協議の対象にならない」との談話を発表しました。日本政府も翌日、「日米安全保障条約上は問題がない」との談話を発表しますが、一方で「しかし日本国民の感情を無視したものだ」と不快感を表明、米側に善処を要望しました。 当時沖縄は米国の占領下にありましたから、沖縄の米軍機が直接南ヴェトナムでの戦闘に加わったということは、沖縄が報復攻撃を受けることもありうるということに繋がります。このため、野党は一斉に抗議の声をあげ、琉球立法院もまた超党派で抗議の決議を行いました。ヴェトナム反戦運動と、沖縄返還運動が繋がり、多いに盛り上がるきっかけとなった出来事でした。 当時は現在に比べると、平和主義と反戦運動が広く国民の共感を集めていた時代でした。集団的自衛権を巡る政府の強引さは、こうした平和運動の退潮見越してのものと、分かるだけに辛いものがありますね。
2020.07.29
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クロニクル 劇団『民芸」の誕生1947(昭和22)年7月28日73年前です。この日、滝沢修、宇野重吉らによって、民衆芸術劇場(略称民芸)が結成されました。第1回公演は翌48年1月に、有楽座で上演した島崎藤村の「破壊」でした。この第一次民芸は、2年後の1949年7月に解散、翌1950年に第二次民芸に編成替えされました。奈良岡朋子、森雅之らが加わった、この第二期民芸が長く続き、親しまれてきました。 現在は私の地元、川崎市麻生区に拠点を定めて、活動しています。 本日は、ちょうど106年前に、オーストリアがセルビアに宣戦を布告した日、第一次世界大戦がはじまった日に当たります。誰も世界大戦になること、4年以上に及ぶ長く苦しい戦争になることなど、想像もせずに始めた戦争でした。
2020.07.28
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クロニクル 朝鮮休戦協定調印1953(昭和28)年7月27日67年前になります。前年の大統領選に際し、「自分は朝鮮戦争を終らせる」をスローガンに掲げて支持を広げ、見事に勝利した共和党のアイゼンハワーは、この年1月に大統領に就任後、積極的に対話を続け、遂にこの日、調印に漕ぎつけました。アイゼンハワーは、第2次世界大戦におけるノルマンディ上陸作戦を指揮した英雄でしたから、軍部の信頼も厚く、和平の実現の為には、うってつけの人物だったのです。こうして、38度線を中心に非武装地帯を設け、国連軍が常駐して停戦を監視する形で、朝鮮戦争は一応の区切りを迎えました。結果的に元の木阿弥。南北朝鮮双方の国民に辛い犠牲を強いただけに終わったのです。まさに冷戦の悲劇そのものでした。
2020.07.27
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クロニクル スエズ運河国有化1956(昭和31)年7月26日64年前の今日です。54年4月に実権を掌握し、この年56年にエジプト大統領に就任したナセルは、この日スエズ運河の国有化を宣言し、即日実施しました。スエズ運河は、フランス人技師のレセップスの計画によって着工され、7年の歳月を経て、1869年に完成しました。エジプトは、当初スエズ運河会社の株式の43%を所有していましたが、財政上の理由で、その株式をイギリスに売却してしまい、利益金の取得権もフランスの金融資本に売却していました。こうして1956年まで、スエズ運河は、イギリスとフランスの所有物のようになっていたのです。こうした事情がありますから、大統領に就任したナセルは、思いきってスエズ運河の国有化を宣言しました。困った英・仏は、軍の派遣を模索しました。そこに渡りに船とばかりに、10月29日にエジプトに侵入したのが、イスラエル軍でした。翌30日には、渡りに船と、英・仏軍もスエズに進撃。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発しました。ナセルを中心にエジプト軍は、良く奮戦して引かず、侵略軍は何の成果を上げることなく、12月22日の国連決議を受けて、撤退に追いこまれたのでした。ここにナセルのエジプトは、一躍中東地域の政治的リーダーにのしあがったのです。 そんなエジプトの栄光も、今や昔の話になってしまいましたね。今のエジプトに、当時のような存在感はありませんね。
2020.07.26
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クロニクル 山陽本線の全線電化完成1964(昭和39)年7月25日ちょうど東京オリンピックの年でしたから、56年前のことになります。10月1日には、東海道新幹線が営業を始める事になる2ヶ月と6日前のこの日、山陽本線の全線電化が、ようやく完成を見ました。ここに、高度経済成長を続ける日本経済の大動脈、太平洋ベルト地帯の貨物輸送のスピードアップが、ようやく実現を見ることになり、70年代前半までの高成長が、短期間の適度な調整を鋏みながら、続けられることになったのです。
2020.07.25
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クロニクル 芥川自殺1927(昭和2)年7月24日93年まえのことです。この日未明、芥川竜之介が田端の自宅で、睡眠薬自殺を遂げました。36才でした。 芥川は、東京帝国大学在学中の1916(大正5)年に、『新思潮』に短編「鼻」を発表して、夏目漱石に激賞され、作家としてのスタートを飾りました。「羅生門」「地獄変」「芋粥」「蜘蛛の糸」など、古典に題材をとった完成度の高い作品を発表しましたが、やがて題材を現代に変え、晩年には強度の神経衰弱に悩まされていたようです。 自殺の動機について、芥川は、遺作となった「或旧友へ送る手記」の中で、「何か僕の将来に対する、唯ぼんやりとした不安である」とのみ、記しています。 作家に限らず、芸術家の営みは、孤独な作業です。そんな作業を営々と営み続ける中で、生とは何か、死とは何かなど、人の営みの根源を問うこともあるでしょう。そんな営みを通じて、死への誘惑にかられることも、多いのかなぁ…と、そんなことを考えました。でも、誘惑には負けたくないですね。
2020.07.24
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クロニクル 「ヤマが動いた」1989(平成元)年7月23日31年前のこの日は日曜日でした。どうして曜日まで分かるかというと、参院選挙の行なわれた日だったからです。この年4月1日、3%の消費税徴収がスタート、そこに前年明らかになったリクルート事件への批判が高まり竹下首相が辞任。有力候補に次々就任を辞退されて、消去法で選んだ宇野首相は、女性問題が暴露されて、これまた散々の悪評を蒙り、そうした中での参院選のスタートでした。 開票の結果、自民党は過半数を大きく割り、当時まだ健在だった社会党が大きく議席を伸ばし、野党第1党となりました。当時の社会党委員長の土井タカ子氏、ご自身の予想を超える議席の伸びに、思わず「ヤマが動いた」と正直に勝利の感想を述べ、この言葉が大流行となったのも、記憶に新しいところです。その社会党は、その後の変遷について行けず、短い間に見る影もなく落ちぶれ、今やその存在すら消えようとしています。対する自民党は、その後2度ほど政権を離れましたが、敵失に助けられて、たいした自己改革もしないままに、その都度復権、今も我が世の春を歌っています。そんな調子ですから、危機管理能力は、こちらもお粗末で、コロナ対策では、呆れるほどのミスばかり、繰り返しています。8月の感染者、日に1,000人を超してくるんでしょうね。ヤレヤレ。
2020.07.23
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クロニクル 米軍フセイン大統領の息子射殺2003(平成15)年7月22日17年前のこの日、米軍は、賞金で誘惑した内通者の垂れ込み情報に基ずき、フセイン大統領の長男ウダイと次男クサイ両人の隠れ家を急襲、2人を射殺しました。この襲撃の成功は、米軍独自の探索活動の成果ではなく、多額の償金をエサにして、フセイン一家の身近の人物の裏切りを唆した金の力によるものでした。やがて、フセイン大統領自身も、米軍の高額賞金に目のくらんだ側近女性の裏切りによって、逮捕処刑されるに至りました。 あれから17年、米軍が独裁者を排除したイラクは、平和で安定した国民にとって平和な国家になったのかというと、まさにその真逆な不幸せな国の状態に留まっています。ここでも米国のやることは…?を見ることが出来ます。
2020.07.22
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クロニクル インドシナ休戦協定調印 1954(昭和29)年7月21日66年前のこの日、ホー・チ・ミンの指導するヴェトミン(ヴェトナム民俗解放戦線)とフランスとの、ジュネーヴでの和平交渉(ジュネーヴ会儀)が合意に達し、インドシナ戦争の休戦協定が調印されました。 合意の主たる内容は、以下の3項に要約できます。 (1)フランスはヴェトナムの独立を認める。 (2)当面ヴェトナム軍とフランス軍を平和裏に引き離すために、ヴェトナム軍は17度線の北に、フランス軍は同じく南に移動する。 (3)協定発効後、2年以内にヴェトナム全土で総選挙を行い、その意志に基づいて、ヴェトナム民族の独立と統一の問題を決定する。このジュネーヴ協定を、フランス政府は誠実に遂行し、2年後の南北ヴェトナクの統一を願っておりましたが、中国封じ込めにやっきとなっていたアメリカ政府は、フランスに替わって、南ヴェトナムに傀儡政府を樹立して、2年後の総選挙の実施を無視させ、ヴェトナムの南北分離状態を固定化しようとしたのです。一般にインドシナ戦争と呼ばれるヴェトナムとフランスの戦争の実態は、まさにヴェトナムの独立戦争そのものだったのです。ボー・グエン・ザップ将軍の名采配の下に始まった、3月13日からのヴェトナム北部、ディエン・ビエン・フーの戦いは、5月7日までの56日に及ぶ激しい攻防戦の結果、フランス軍が白旗を掲げて終了しました。ヴェトナム軍が植民地宗主国の軍隊に圧勝したのです。ここに開かれた全ヴェトナムのフランス支配からの独立に、横槍を入れてきたのが、アメリカでした。この結果、ヴェトナムの人達は、1973年まで、再度血みどろの南ヴェトナム戦争を続けざるを得なくなって行ったのです。
2020.07.21
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クロニクル 人類月に立つ1969(昭和44)年7月20日51年前の出来事です。この日、米国のアポロ11号から切り離された月面着陸戦イーグルは、人類初の月面着陸に成功しました。 米国東部時間で、午後4時17分でした。乗員のアームストロング船長が、月面に降り立ったのは、午後10時56分だったと、伝えられています。それから18分後には、オルドリン飛行士も月面に降り立ち、2人は都合22時間に渡って月面に滞在し、2時間31分に渡って、船外活動を行ないました。 2人の船外活動の模様は、衛星中継を使って、全世界に同時放映され、丁度昼日中ということもあって、日本では、特設テレビが街頭に設置されて、各地に黒山の人だかりができ、都心部の交通量は半減したと報道されました。この衛生中継は、全世界で5億人の人が映像を見たともされています。アポロ11号は、24日午後零時50分に、ハワイ南東の海上に着水、無事に帰還しました。 日本では、真夏の太陽が照りつける、酷暑の午後早い時間だったように記憶しますが、自信はありません。
2020.07.20
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クロニクル 「青い山脈封切り」1949(昭和24)年7月19日71年前になります。この日東宝系から今井正監督作品「青い山脈」第1部が公開されました。石坂洋二郎の同名小説の映画化でした。映画化権は、東宝と松竹が激しく争い、松竹は木下恵介監督を、東宝は今井正監督と、共に当時の有名監督を前面に出して、作者の石坂氏の軍配を仰いだのですが、石坂氏は東宝を選んだというわけです。 当時の日本は、戦後の悪性インフレを是正すべく導入されたドッジラインによる、厳しいデフレ政策がとられていたのですが、そうした暗い世相を吹き飛ばす、明るい作風、明るい作品として、大変な人気を博しました。 主役の寺沢新子には杉葉子、六助に池辺良、島崎先生に原節子、そして沼田校医に龍崎一郎という顔ぶれでした。 映画の公開に先立って、発売された主題歌は、藤山一郎と奈良光江のデュエットで発売され、これまた大ヒットとなりました。ご存知ですよね、「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く 青い山脈 雪割桜 空の果て 今日もわれらの夢を呼ぶ」 作詞の西條八十と作曲の服部良一の名コンビによる、明るい曲は、映画を知らない人たちにも、好んで歌い継がれました。 映画はその後、57年、63年、75年、88年と都合5回も製作されました。私が見たのは、57年製作の第2作でした。主演の新子に雪村いずみ、六助に久保明、島崎先生に司洋子、沼田校医に宝田明という顔ぶれでした。63年の第3作では、新子と六助を、吉永小百合と浜田光夫の当時の日活のゴールデンコンビが演じ、島崎先生を芦川いづみ、沼田校医を二谷英明が演じました。
2020.07.19
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1952(昭和27)年7月18日68年前のことです。この日の朝、前年1951年の3月に、千葉市検見川町の泥炭地の地下6メートル地点の弥生時代の遺跡から見つかった、2000年前の蓮の実が、見事な薄紅色の花を咲かせました。この蓮の実は遺跡の丸木舟の中から3個見つかったものでした。鑑定した大賀一郎博士は、発見された場所や蓮の実の生存年限からして、この古代蓮の実は生きていると推定、栽培をはじめました。 博士の推定通り、植え付けられた蓮の実は、前年5月に3個揃って発芽したのですが、1本は枯れ、もう1本も成長しませんでした。頼みの綱の残された1本は、千葉県農業試験場で育てられ、この年(1952年)4月に、3つに根分けされて、慎重に育てられたのでした。 開花したのは、その内の1本で、千葉市畑町の伊原茂さんが、植えたものでした。この2000年前の古代蓮は、この実が生きていると見抜き、生育を強く主張した育ての親にして、命の恩人でもある大賀博士の名を取って、「大賀ハス」と命名されました。現在では、各地に分根されています。 現在は、各地に株わけされたり、種子を譲り受けたりして広められ、かなり広い地域で見ることが出来るようです。 植物の生命力って凄いですね。
2020.07.18
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クロニクル ポツダム会談始まる1945(昭和20)年7月17日75年前になります。ドイツの降伏から、2ケ月と少々が過ぎたこの日、ベルリン郊外の保養地ポツダムで、米・英・ソ三国首脳によるポツダム会談が始まりました。2月のヤルタ会談に出席した、F・ローズヴェルト米大統領は、4月に心臓発作で死去、副大統領から昇格したトルーマン大統領が初参加しました。イギリスとソ連からは、この戦争を指導したチャーチルとスターリンが出席していましたが、総選挙中のイギリスでは、生活苦に追われる民衆は、チャーチルの保守党にノーを突きつけ、チャーチルはアトリーの労働党に完敗、イギリスの代表もアトリーに替わりました。さて、この会談は、日本の降伏条件を煮詰め、26日にポツダム宣言が発表されるのですが、このほかに戦後の枠組に関する議論もまた、重要なテーマとしていました。
2020.07.17
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クロニクル 駅弁の登場1885(明治18)年7月16日135年前のことになりますが、この日現在の東北本線の、大宮~宇都宮間が開通しました。この開通を記念して、宇都宮の旅館「白木屋」が、日本鉄道宇都宮駅で握り飯2個とたくあんを竹の皮に包んだものを発売したのです。ここから、7月16日は広く駅弁記念日に指定されているのですが、宇都宮よりも早く駅弁を売り出したと主張している駅が、いくつか存在していることを、付言しておきます。一応ここでは、駅弁記念日に敬意を表しておきます。なお、現在のような折詰に入った駅弁は、1890年に姫路駅で「まねき食品」が発売したものが最初とされています。これには異説は存在しません。 現在では、多種多様な駅弁が発売されていますし、各地のデパートなどで、駅弁フェアが開催されたりするほど、駅弁人気は高いですが、やはりローカル線ののんびり旅を楽しみながらの駅弁の味が格別ですね。参考までに、時刻表の欄外に細かい字ですが駅弁情報が掲載されていますので、是非参考になさって下さい。
2020.07.16
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クロニクル ファミコン登場1983(昭和58)年7月15日37年前の今日、任天堂はファミコンを発売しました。今やスマホなどに押されていますが、一世を風靡して本格的なテレビゲーム時代の到来に道を開いた、ファミコン誕生の瞬間でした。それまでは家庭用ではなく、ゲームセンター等でのテレビゲームで、インベーターゲームなどが流行っていましたが、家庭用ゲーム機が主力となっていく契機となったのが、ファミコンでした。ファミコンの発売で、それまではトランプや花札が売り上げの主力を占めていた任天堂は、一躍ファミコンの任天堂として、世界に名を知られるようになりました。85年に大ヒット作「スーパーマリオ・ブラザーズ」が発売され、本体と共に、爆発的な売れ行きを示しました。 何しろファミコン本体は、メーカー希望小売価格が14800円でしたが、販売終了までに、世界で6291万台を売り上げ、そのうち日本での売り上げは、2000万台弱、世界販売は4000万台超える人気となりました
2020.07.15
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クロニクル ノーベル、ダイナマイトの特許取得1867(慶応3)年7月14日153年前、秋に大政奉還のあった年です。この日、アルフレッド・ノーべルは、ダイナマイトの製法に関する特許を取得しました。ノーベルは先輩化学者アスカニオ・ソブレロが発明した危険な爆薬ニトロ・グリセリンに改良を加え、実用化することに成功します。そしてそれをさらに安全に使えるように改良して、ダイナマイトと名付けて発表しました。ダイナマイトは、工事現場における岩盤の破壊などの作業を効率化するものとして、広く普及しました。その結果、開発者のノーベルは巨万の富を築き、その資産を基礎にノーベル賞を制定するに至ります。
2020.07.14
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クロニクル 都教委学校群制度導入1966(昭和41)年7月13日54年前のこの日、東京都教育委員会は、高等学校の入試改革の一環として、都立高入試に学校群制度の導入を決め、同時に試験実施教科を5教科(国・社・数・理・英)から3教科(国・数・英)に減じ、受験生の負担を軽減する方向に踏み出しました。 志は悪くなかったと思うのですが、この制度によって、受験する群は選べても、郡内の学校のどこに入学するかは、自らの意志で選べなかったことから、いきおい学校を選べる私学への志願者が急増することになりました。その結果、私立校受験がヒートアップするなど、入試改革としては、決して成功したとはいえない結果となりました。 あれから半世紀以上が経過しましたが、入試改革は相変わらず日本の教育制度の喫緊の課題であり続けています。
2020.07.13
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クロニクル そごう倒産2000(平成12)年7月12日20年前のこの日。1兆円を大きく超える借入金を抱えたそごうグループが民事再生法の適用を申請して、事実上倒産しました。借入金総額は、何と1兆8700億円ということでした。1997年11月の拓銀や山一証券等の破綻、98年の長銀・日債銀の破綻を経て、日本の金融危機は頂点に達した感がありましたが、なお多額の不良債権を抱えた問題企業は山済みになっていました。そうした一群の問題企業の中に、そごうやダイエーが含まれておりました。 当時そごうの会長は、「借金が1千億円を超えると、貸主の銀行より、借主である企業の方が強くなる。銀行が倒産による回収不能を怖れて、追加貸しや利息の減免に応じるようになるからだ」とマスコミに堂々と語っていました。そして借りも借りたり1,87兆円も借り続けたのです。しかし、長引く金融不安に、膨らむ一方の公的資金という名の税金の投入に、もう借り得を許容する雰囲気はどこにもなく、金融機関も不良債権の処理を進めることを迫られ、無謀な拡大路線を取り続けたそごうを見放すしかなくなっていったのです。こうして、この日、遅きに失したのですが、ようやくにしてそごうの倒産が日の目をみたのです。先送り体質が損失を大きく拡大し、事態を大きく、複雑にした倒産劇でした。その先送り、欧米で大きな問題となりましたが、やっていることは、当時の日本とあまりに良く似ているので、不謹慎ですが、思わず笑ってしまったのですが、それを今度は中国が真似しているようです。ヤレヤレ…。
2020.07.12
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クロニクル 総評結成1950(昭和25)年7月11日70年前のこの日、日本労働組合総評議会(略称 総評)が結成されました。総評は、企業別の単位組合が参加する組織ではなく、企業別組合が同業種毎に結集した産業別組合(これを単産と呼んでいました)が参加する形式をとっていました。ですから、炭労、私鉄総連、全国金属、電機労連、造船・重機、出版労連、私教連、日教組、国労、自治労、全逓等々が加わった組織でした。 朝鮮戦争が始まり、日本社会の右傾化の第1歩が記され始めた時の結成でした。当時の日本は、まだ占領下でしたから、結成にもGHQの許可が必要でした。ですから、結成当初の総評は、非常に穏健な労使協調路線に立つ組織体でした。その総評が、次第に労働者のナマの声を反映する組織に脱皮し、やがて、春の新卒社員の入社に合わせて賃金体系の改訂を迫る、春闘を編み出して大きく支持を伸ばし、1950年代後半~60年代にかけて、黄金時代を築きました。しかし、その総評も今はなく、後継組織の同盟も次第に組合員の減少に悩まされるようになり、今や組織を挙げて推薦し、選挙運動を手伝ったりしている政党系の候補を、当選させる力も大きく衰えてしまっています。その上、旧民主党(後の民進党)系の政党も分裂したまま。まさに絵に描いたような衰退の道を歩んでいるようです。
2020.07.11
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クロニクル 朝鮮休戦会談始まる1951(昭和26)年7月10日 前年に始まった朝鮮戦争は、この年1951年の1月に入ると、次第に北緯38度線を挟んで一進一退を繰り返すようになり、春には膠着状態に陥りました。こうした中、この日朝鮮休戦会談が始まりました。しかし、互いに相手の非を鳴らし、一方的な主張をぶつけ合うだけに終り、はじめのうちは実りある成果を生む気配は見えませんでした。 休戦協定の締結に至るには、なお2年の歳月と夥しい犠牲者が必要とされたのです。これも米ソの代理戦争故の悲劇でした。 休戦会談の開始から、今年で69年です。冷戦の犠牲として分断された国家のうち、南北ヴェトナムは1975年に、東西ドイツは1990年に統一を実現しました。それなのに、南北朝鮮は、いまだに統一の機運が見えてきません。統一があるとすれば、いかに対等を主張しあっても、実質的に南が北を飲み込む形でしょうから、中国とロシアにとって、とても認められる話ではありませんから、まだ当分は無理なのでしょうね。
2020.07.10
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クロニクル エカチェリーナ2世即位1762(宝暦12)年7月9日258年前になります。この日ロシアの女帝、名高いエカチェリーナ2世が即位しました。彼女は、義母エリザヴェータ女帝の甥で、皇太子のピョートルの妻でした。義母のエリザヴェータが、ドイツかぶれの皇太子妃にと、プロイセン王フリードリッヒ2世に、国王の養女をと依頼した結果、フリードリッヒが北ドイツの小領邦君主の娘だったゾフィーを推薦、ゾフィーはロシア皇太子のお妃候補として14歳でロシアに迎えられました。ロシア入りしたゾフィーは、1年でロシア語をマスター、乗馬好きの彼女は、ロシア軍の軍服の色である緑色の服を着ては乗馬に励み、軍人の支持を受けて、ドイツ好みの夫ピョートルとの違いを際立たせる行動をとり、軍幹部との親密な関係を築いたことが知られています。1762年1月5日に、エリザヴェータが急死し、夫ピョートルがピョートル3世として即位したのですが、ドイツかぶれの彼は、ロシア軍が苦心を重ねて、プロイセン軍を追いつめていたプロイセンとの戦いを、急遽中止し、一方的にプロイセンとの講和を結ぶに至ります。その上、ロシア軍にもプロイセン方式を取り入れることを強要して軍部と対立、軍部はエカチェリーナ皇后をいただいてのクーデタを画策、この日実行に移したのです。彼女自身も、クーデタに乗り気で、ロシア軍の緑色の軍服姿で、みずから指揮を執ったともいわれています。クーデタは無血で成功し、ピョートル3世は座敷牢に幽閉され、1週間後に獄死しています。証拠はないのですが、彼女の意向を忖度した側近の誰かが、毒殺したものと推測されています。ロシアの啓蒙専制君主にして、名君の誉れ高いエカチェリーナ女帝の誕生物語でした。1796年、脳梗塞により死去。
2020.07.09
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クロニクル 浅間山大噴火 1783(天明3)年7月8日237年前の今日、浅間山の大噴火が起きました。有名な鬼押出しを作り出した、あの大噴火です。この年浅間山は4月8日から、断続的に噴火を繰り返していたのですが、2日前の6日から様相は激しさを加え、この日午前10時、大音響をあげて爆発、幅50m、高さ100mに及ぶ(当時の記録から)火炎を噴き上げました。火口から噴出した溶岩は、北側斜面の土砂を巻き込み、巨大な火砕流となって5分後には、約15km離れた標高900m地点にある鎌原村(現在の群馬県嬬恋村)を襲い、さらに下って吾妻川に達しました。 鎌原村の93軒の民家は全て押し流され、同村の高台にあった観音堂の50段の石段も15段を残して埋め尽くされ、村人597人中、466人が死亡しました。生き残った人達は、他村に出かけて難を逃れたか、観音堂の石段を駆け上がって助かったかのどちらかだったそうです。 被害は火砕流によるだけではありませんでした。吾妻川に流れ込んだ火砕流は、各地で川を堰きとめ、鉄砲水となって川下の村村を押し流したのです。被害は55カ村に及び、水に流された人馬の死体が利根川や江戸川の下流に流れ着いたと記されています。中には赤子をしっかり抱いた死体もあって、行き交う人々の涙を誘ったとも記されています。 徳川幕府は、この時の死者を約2万人と公式記録(『徳川実記』)に記しています。また降灰の被害は関東平野を中心に10余ヶ国に及び、江戸の町も3cmの降灰を記録しました。それだけではありません。この大噴火は北半球に異常気象を齎し、天明の大飢饉との関連も指摘されています。浅間山の観光スポット、鬼押出しは、鎌原村を襲った火砕流に続いて流れ出した、粘性の高い溶岩が凝結して出来たものだそうです。この浅間山の大噴火、江戸近郊でも大きな話題となったらしく、私の住む旧王禅寺村の名主だった志村弥五右衛門なる人物が書き残した記録が、現存しています。
2020.07.08
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クロニクル 鹿島アントラーズ優勝1993(平成5)年7月7日6月19日にプロ野球が、そして7月4日にJリーグの1部リーグが、ようやく開幕したり、再開したりと、スポーツのTV観戦が出来るようになりました。自粛生活に多少の潤いが付与されたようで、いくらか明るさが戻ったように感じられます。そこで、今日はJリーグから話題を拾いました。27年前の七夕の日、この年から始まったサッカーJリーグで、鹿島アントラーズが前期の優勝を決めました。ドイツワールドカップの日本チームを監督として指揮したジーコ氏が選手として活躍、若い選手を良く鍛えて、まとまりのある良いチームに仕上げていたのが目を惹きました。 昨日記した下山事件ですが、当時の日本警察は、マスコミが注目した事件になればなるほど、大変強引な捜査をして、時には証拠を捏造することまでして、犯人をあげています。その警察が詳しい操作もせず、比較的早い段階で捜査を打ち切り、事件は迷宮入りしたことに注目すると、日本の官憲の手出し無用の世界の出来事という構図が浮かんできます。事件の背後にはCIAが絡んでいたのだろうと、私は推測しています。
2020.07.07
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クロニクル 下山事件1949(昭和24)年7月6日71年前の出来事です。当時私は小学校の1年生。日本がまだGHQの占領下にあった時代の事でした。 当時の下山国鉄総裁が、前日の7月5日の出勤途上で行方不明となり、翌日(つまり71年前の今日)未明(午前0時30分頃)に、轢死体で発見されたのです。国鉄常磐線の北千住・綾瀬間でした。 下山総裁の死をめぐっては、自殺説と他殺説が激しく対立しましたが、遺体の損傷が激しく、解剖によってどちらとも特定することが難しかったこともあり、警視庁は公式の調査結果を公表することなく、捜査を打ちきりました。 戦後の混乱期のことでした。
2020.07.06
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クロニクル 三和、東海、東洋信託合併へ2000(平成12)年7月5日20年前のこの日、三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行の3行の頭取が会見し、翌年4月1日を期して経営統合する旨を発表しました。ここにUFJグループの誕生が宣言されました。 不良債権の増加に悩む都市銀行,信託銀行等は幾つかのグループへと再編されることとなり、三井系のさくらは、系列を越えて住友と合併、三井住友銀行となり、富士・第一勧銀、興銀はみずほグループとなり、ここに誕生したUFJはさらに東京三菱と経営を統合するに至ったのは、周知の事実です。 残されているのは、2003年4月に公的資金の大量投入を受けて破綻を免れ、昨今ようやく投入された公的資金を完済したりそなグループが、どこと組むかです。生保の雄日本生命、証券界の国内トップ企業野村証券などが候補に挙がるのでしょうが、さて3社の経営統合がなるのか、3社でなく2社になるのか、先が読めない状況が長々と続いているのが、いかにも日本的に見えます。いずれにしても11月の選挙で、バイデン政権が誕生すれば、米国のTPP復帰が実現するでしょうから、そうなれば米国系の銀行、証券、生損保の攻勢が新たな黒船になるでしょうから、それに備える意味でも、日本の金融機関は、さらなる統合によって、体力強化を図ることを急がなければならないのですが……
2020.07.05
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クロニクル 鎌倉幕府滅亡1333年7月4日( 旧暦 元弘3年5月22日 )687年前の話です。この日新田義貞軍が鎌倉に攻め込みました。戦い敗れた執権の北条高時ら、北条一族約800人は、北条氏の菩提寺にて、自刃して果てました。ここに鎌倉幕府は滅亡しましたこの政変は、武力を握る武士たちの活躍によって実現したものですが、政権回復に有頂天となった後醍醐天皇ら、宮中の貴族たちは、幕府に不満を持った武士たちの要望に応えるすべを知らず、僅か2年で、再び政権中枢を追われることとなりました。時代の移ろいを理解するアンテナを持たない者の末路というべきでしょう。
2020.07.04
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クロニクル イエスの方舟ー心の軌跡ー1980(昭和55)年7月3日40年前のことです。この年1980年の2年前、78年5月に、東京国分寺の教会を出奔して以来、行方不明となっていた、ほとんどが若い家出女性の集団が、この日熱海で見つかりました。 教祖の仙石イエス氏を中心とするこの集団は、自分たちを「イエスの方舟」と称し、信者の女性達は、仙石イエス氏を「おっちゃん」と呼んで慕っており、教会を抜け出した後、各地を転々としながら福岡に落ち着き、女性達が市内の飲食店や飲み屋で働きながら生活を支えていたことをこもごもに語りました。また、「人格を認め合った生活は楽しかった」とも語り、いったん家に返された女性達の多くは、再び家出して福岡に戻り共同生活を再開します。女性達の失踪後、仙石氏による女性拉致の線を追っていた警察とマスコミは、当初の思惑と異なる展開に戸惑いを隠せなかったのですが,信者全員の供述が一致する中で、仙石氏を誘拐罪に問う事は出来ず、やがて仙石氏も不起訴となって、女性達の待つ福岡に向ったのでした。この事件では、興味本位に「イエスの方舟」追跡キャンペーンを展開して、信者の女性達に付きまとったマスコミの報道姿勢が,世論の厳しい指弾を受け、マスコミ報道の客観性が問題にされた事件でもありました。 家や地域に居場所を見出すことの出来なかった心淋しい彼女たちにとって、自己の存在を認めてくれ、自分を必要とする人達がいるんだという発見は、大変に心楽しく、干天の滋雨だったのでしょう。人生で初めて心から落ち着け、かつくつろげる場所が見つかったのです。居場所がなく、自己の存在証明を見出すことのできない家族の下で、鬱々とした日を送るよりも、仲間と一緒のあの素晴らしかった日々に戻りたい。これが彼女たちの願いでした。この事件は、人を褒めることの大切さ、認め合う関係の大切さを教えてくれる出来事でした。認められ、必要とされることで、劣等感に苛まれている、人生から落伍寸前の、或いは落伍してしまった青少年にも、生きがいが生まれる事を教えてくれた出来事でした。 後日談です。仙石氏は2001年12月に亡くなりましたが、彼の死後も信者達は共同生活と活動を続け、近親者などの暴力から逃れようとする人たちの、駆け込み寺的な活動を続けています。
2020.07.03
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クロニクル タイ バーツ危機本格化1997(平成9)年7月2日23年前のことです。この日、タイの通貨バーツがドル・ペック制を止め、管理通貨制への移行を表明しました。バーツは厳密に言うと、主要国通貨との通貨バスケット方式をとっていましたが、円やマルクは申し訳程度に、バスケットに加えられていただけで、バスケットに占めるドルの比率は80%を超えていましたから、実質的にはドルペック制と呼んで良い性格を持っていました。そのため、対ドルレートで円やマルクが安くなると、ドルにペックしたバーツは、対ドル比で値下がりしないため、円やマルクに対して、実力以上に高く評価されてしまうため、輸出競争の面で著しく不利になっていたのです。 当時日本は、バブル崩壊後の経済危機の最中にあり、公定歩合は当時としては史上最低の0.5%になっていましたから、大口の資金は低迷する日本を離れ、金利の高い海外での運用を目指していたため、円は売られ、構造的な円安状況になっていました。マルクもまた、経済の論理を無視した政治的な判断で、東ドイツとの統一(実質的な併合)を果したため、東ドイツの不良債権や不良国有企業を1手に抱え、大変な経済不振に陥っていましたから、これまた金利水準は非常に低く、構造的なマルク安状態に陥っていたのです。 当然対ドルでのバーツの交換レートを切り下げ、円やマルクに対するバーツの割高感を是正する必要があったのですが、その措置が遅れている間に、バーツ切り下げ必至と見たヘッジファンドが6月下旬に入って、猛烈なバーツ売りを開始、タイ政府は1971年8月の、ニクソンショック時の日本政府よろしく、外貨準備を取り崩して、バーツの防衛に乗出しましたが、当然焼け石に水でした。こうして、270億ドルの外貨準備の内、180億ドルをバーツの買支えに投じた段階で力尽きたのです。それが、23年前のきょう発表された通貨バスケット(実質ドルペック)制を廃止し、管理通貨制に移行するとした、市場実勢に応じたバーツ切り下げ宣言だったのです。翌日からバーツは暴落しました。しかし、話はここに留まりません。バーツの暴落が連鎖的に他のアジア諸国に波及し、アジア金融危機と呼ばれる大きな経済危機に繋がっていったのです。
2020.07.02
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クロニクル EC発足1967(昭和42)年7月1日もう53年も前になるのですね。この日欧州共同体(EC)が発足しました。ECの前身は、1958年発足のヨーロッパ経済共同体(EEC)です。そのEECの前身は、1950年にフランスの外相が提唱し、ドイツの外相が積極的に賛意を表明したことから具体化し、1952年に実現をみた、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体(ECSC)でした。このECSCが経済の全分野に広がり、それが経済のみでなく、政治面にまで広がり、さらには通貨統合にまで踏み込んだ欧州連合(EU)にまで、成長するとは、まだこの時点では、考えもしませんでした。 参加国も、当初はフランス、ドイツ、イタリアにベネルックス三国を加えた6ヶ国。そこにイギリス(通過統合には未参加)が加わり、スペイン、ポルトガルが加わりと、次第に参加国も増えていったのですが、その中心は、長く争いの続いたフランスとドイツの連携にありました。 欧州統合の象徴ともいうべき、18か国の共通通貨ユーロが揺れていますが、劣等性の駄々っ子ギリシアや経済規模も、経済の足腰も違いすぎる東欧諸国までくわえたことで、かえって混迷を深めてしまったと、私は見ています。ところで、世界が驚いた独仏の連携でしたが、そのアジア版となると、日中の和解と連携が不可欠なのですが、独仏に比べると対立期間は短いのですが、小異を捨てて大同につくのが苦手な、双方の国民性からして難しいところへ、昨今の中国の強引すぎる膨張主義で、まったく望めない状況になってしまったことが残念です。
2020.07.01
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