全23件 (23件中 1-23件目)
1
クロニクル 新宿コマ劇場閉館平成20(2008)年12月31日もう13年になるのですね。13年前のこの日新宿コマ劇場は閉館しました。入場者減に伴う業績不振で、閉館に追い込まれたというべき閉館でした。新宿コマ劇場は、大阪の梅田コマスタジアムの姉妹劇場として、鳴り物入りで昭和25(1950)年10月28日に開場しました。当初はミュージカル公演に力を入れ、大ヒットして全国公演にまでなった、『アニーよ銃を取れ』『努力しないで出世する方法』『南太平洋』『ピーターパン』などの初演劇場として知られました。また演歌の殿堂としても知られ、北島三郎、小林幸子、氷川きよしらが毎年のように特別公演を催し、山口百恵やサザンオールスターズなども、何度も公演を開いていました。しかし、70年代から80年代初頭にかけての最盛期を過ぎると、次第に客足が落ちるようになり、1990年代に入って演歌の人気が下火になると、次第に劇場運営会社の業績が低迷するようになり、何度か経営再建策を打ち出したものの、業績回復の決定打は示せず、この間も客足は減り続けたため、遂に2008年の年末を待って閉館、老朽化した建物を解体し、隣接官と共に大規模ビルを建設することが決まったのです。こうして跡地には2015年月、高さ130メートル、地上31階地下1階、延べ床面積55,390㎡の新東宝ビルが開業しました。
2021.12.31
コメント(11)
クロニクル さらば「銀巴里」1990(平成2)年12月29日「銀巴里」は銀座にあったシャンソン喫茶です。戦後の焼け跡がまだあちこちに残っていた、1951(昭和26)年に産声をあげた、日本で最初のシャンソン喫茶です。石井好子、芦野宏、中原美紗緒、美輪明宏、戸川昌子、金子由香里ら、日本の代表的なシャンソン歌手が、銀巴里を拠点に活動し、多くの観客を集めていました。60年代前半の学生時代、ワンステージに飲み物がついて500円の料金は、学生には高かったのですが、家庭教師のバイト代が入ると、先ずは銀巴里に出かけていました。その「銀巴里」が31年前の今日、49年の歴史の幕を下ろしたのです。シャンソンブームが去り、来客数が激減し、支えきれなくなったのです。「銀巴里」の閉店後、「東の銀巴里、西のベル・エポック」と並称されていた、吉祥寺駅近くのシャンソン喫茶「ベル・エポック」が孤軍奮闘、営業を続けていたのですが、その「ベル・エポック」も遂に音をあげ、12年前の2009年10月31日に店を閉じました。「銀巴里」が店じまいして30年余。シャンソンに活気が戻る日が、いつか来ないかと、待ち望んでいます。
2021.12.30
コメント(12)
クロニクル カラーテレビの実験局開局1957(昭和32)年12月28日 64年前のこの日、NHKと日本テレビが、カラー放送の実験局を開局しました。日本でのテレビの本放送が始まって(当初は1日4時間の限定放送でした)まだ4年。家庭へのテレビの普及もまだ限られていた頃です。日本シリーズや大相撲、力道山のプロレス等の中継があると、テレビを備えた隈のお金持ちの家に、近所の子供達が(なかには大人も)上がり込んで、見せてもらっていたものでした。 そんな時代でした。映画こそ総天然色が謳われましたが、テレビのカラー化など、夢のまた夢の世界だったのです。因みに、国内のテレビ普及率が、ようやく100万台に達するのが58年5月(受信拒否の先ずない時代でしたから、NHKの受信契約数での判断です)、なおテレビよりもラジオの全盛期で、同年11月にラジオの受信契約は1,481万世帯に達していました。それでも、ようやく本格的な上潮に乗りつつあった日本経済の好調もあって、テレビの普及は60年代から急加速します。そうした中、1960年9月にはカラーテレビの本放送が始まり、各テレビ局は一部の番組をカラー放送に切替えはじめたのです。この頃には、テレビの放送時間も大幅に延び、朝6時から夜11時頃まで放送されたのですが、新聞の番組欄の冒頭にカラー放送番組には、cと記されるようになったのです。カラーテレビの普及は、東京オリンピックと重なります。確か早川電機だったでしょうか、「オリンピックをカラーで見よう」というコマーシャルを、何度も何度も流していたことが、今でもつい最近のことのように、思い出されます。当時のカラーテレビ、色はついていましたが、あまり褒められる色ではなかったですね。
2021.12.28
コメント(8)
クロニクル 所得倍増政策閣議決定1960(昭和35)年12月27日61年前のこの日、閣議は、11月1日に経済審議会が答申した「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」を了承して、所得倍増政策を来年度予算編成の基本とすることを決定しました。こうして、10年間で国民総生産を倍増させるという、明るい未来を掲げた経済計画がスタートしました。国民総生産が2倍になるだけでは、その間に人口が増加することが見込めますから、これでは1人当たりの国民所得は2倍になりません。そこで政府は10年間の年平均経済成長率を7,2%とし、10年間で国民総生産を2,7倍、人口増を見込んだ国民所得を2,4倍にすることを目標としたのです。+こうした市場の拡大は好循環を生み、所得倍増政策は10年もかからずに、その達成を見たのでした。池田首相の、「経済の事は、この池田にお任せください」は、当時の流行語になりました。
2021.12.27
コメント(6)
クロニクル ソ連邦消滅1991(平成3)年12月26日もう30年になったのですね。30年前のこの日、ソ連最高会議はソヴィエト連邦の消滅を宣言、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、地上からその姿を消しました。この年8月19日、ソ連共産党保守派がクーデタを起こし、ゴルバチョフ書記長兼大統領を軟禁しましたが、ロシア共和国大統領のエリツィンらが反対、クーデタは僅か4日で失敗に終りました。この事件によって、共産党の権威は完全に失墜、エリツィンはロシア共和国内における共産党の活動を全面的に禁止し、ゴルバチョフも8月24日にソ連共産党中央委員会に自主解散を要求、党資産の全面接収に踏みきりました。こうして共産党は事実上消滅するにいたりました。その後、既に独立を宣言していたバルト3国に続いて、ウクライナやベラルーシなどが、続々とソ連邦からの独立を宣言、12月21日には、バルト3国とグルジア(現ジョージア)を除く11共和国の首脳がCIS(独立国家共同体)の結成を宣言、ソ連邦存続の道が絶たれたのでした。ここにいたって、ゴルバチョフソ連邦大統領は辞任を決断(25日)、この日のソ連邦消滅宣言に到りました。社会主義が一世を風靡した1つの時代が、ここに終了をみたのでした。ソ連邦の解体後、NATOが東方に拡大、プーチンの世となったロシアはその点を憂慮し、現在はともかくウクライナのNATO加盟を阻止することに全力を挙げ、原油と天然ガスを武器に、欧州諸国に揺さぶりをかけています。
2021.12.26
コメント(8)
クロニクル エジプトとイスラエルの和解への1歩1977(昭和52)年12月25日44年前の今日、エジプトのサダト大統領は、イスラエルのぺギン首相の招きに応じてエルサレムを訪問、ぺギン首相との会談によって、両国は和平への道を歩み始めました。サダト大統領は、1970年のナセル大統領の急死を受けて、エジプトで2代目の大統領に就任。1973年の第4次中東戦争で、イスラエル軍に大打撃を与え、イスラエルの不敗神話を撃ち破って、国民の支持を固めると、その後は一転して、イスラエルとの関係改善に勤めました。その結果が、この日のイスラエル訪問となったのです。この訪問がきっかけとなって、翌年のキャンプ・デービット会談での、両国の歴史的和解を実現して、第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の無償返還に成功しました。イスラエルは、エジプトにシナイ半島を返還しましたが、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原は返還せず、パレスティナ人やヨルダン、シリアと抗争を続けており、現在でも中東全面和平への道筋は、まったく見通せない状態が続いています。
2021.12.25
コメント(9)
クロニクル 新宿クリスマスツリー爆弾事件1971(昭和46)年12月24日50年前の事件です。この日、新宿三丁目の警視庁四谷署追分交番近くで、買い物袋に入った高さ50cmほどのクリスマスツリーが爆発し、警察官2人と通行人7人が重軽傷を負う事件がおきました。クリスマス・ツリーに偽装して、時限爆弾が仕掛けられていたのです。この事件の6日前には、土田警視総監邸でピース缶爆弾が爆発する事件があったばかりでしたから、いよいよ新左翼の爆弾テロが、市井の人々を巻き込んだ無差別テロにまで広がり始めたのかと、世間の注目を集めた事件でした。
2021.12.24
コメント(7)
クロニクル ドストエフスキーに特赦1849(嘉永2)年12月22日空想的社会主義者のサークルに所属していたとして、172年前のこの日に結審した裁判で、ドストエフスキーは死刑判決を受けました。ところが判決が出ると同時に、直ちに皇帝ニコライ1世が介入して、彼に罪を減じる特赦が与えられました。ただし、それは無罪放免ととするのではなく、シベリアはオムスクにある施設へ護送する流刑への減刑だったのです。こうしてドヅトエフスキーは1854年まで、4年半以上をシベリアに暮らし、54年の解放後もシベリアで軍務に就き、ようやく58年になってペテルブルグに戻りました。シベリアでの流刑体験から、『死の家の記録」が生まれ、また死刑を宣告された際の恐怖の感情は、『白痴』に表現されています。タイミングが合いすぎていますから、彼への死刑判決と特赦は、皇帝の人気を高めるための意図的な作為で、本気で彼を死刑に処すつもりは、最初からなかったと考えられています。
2021.12.22
コメント(15)
クロニクル 国債依存度30%以内を放棄1977(昭和52)年12月21日不況は財政規律を骨抜きにします。そしてその都度国家財政の赤字を大幅に増やし、破滅の淵へと近づきます。長かった安倍政権も、そして現在の岸田政権も、財政規律を無視した大盤振る舞いの予算原案を発表し続けています。個人と違うので、国家は無くなることはないので、獅子さえ原会い続けることが出来らば問題ないの一点張りで…ここに記したのは、44年前の福田赳夫内閣による、1978年度予算編成方針の決定を指します。この日、閣議は、予算編成における国債依存度を予算全体の30%以内とすることを定めた、佐藤内閣以来の財政規律、国債への過度の依存を戒めるための、内閣の掟を踏みにじりました。国債依存への歯止めをぶち破って、財政状況の悪化を省みずに、第1次石油ショック後の不況対策として、いわゆるバラ撒きを実施しました。しかし、経済規模の拡大した日本経済に刺激を与えるには、予算のバラ撒き程度では、そう大きな効果は期待できません。結局財政赤字を膨らませるだけに終わり、次の大平内閣は、財政再建を公約にせざるを得なかったのです。次に財政規律を無視した大盤振る舞いを実行したのは、日本型金融危機の最中にあった99年度及び2000年度の予算編成に当たった小渕内閣でした。そして、今回が3度目が麻生内閣。続いて2012年末の安倍内閣の誕生からは、底なし沼にどっぷりつかったような大盤振る舞いを続けて今日に至ります。それでも十分な敬愛刺激効果は、見られずにいます。アメリカを遥かに超える財政赤字は、表面の国及び地方自治体の公的債務だけで、GNPの2.3倍を大きく超え、経済先進国では最悪の水準を独走しています。国債の発行残も1千兆円を超えてきています。子孫にツケを残す、最悪の道を走り続けていることに、注意が必要なように思われます。
2021.12.21
コメント(7)
クロニクル ドゴール氏フランス大統領に当選1958(昭和33)年12月21日63年前のこの日行なわれたフランスの大統領選で、対独レジスタンス運動の英雄ドゴール元将軍が当選、大統領として、公約に掲げた泥沼のアルジェリア独立戦争の解決に向けて、全力投球を行う事になりました。ドゴール大統領は、1962年にはアルジェリアの独立を認めて、フランス軍の名誉ある撤退を実現して支持を広げました。1968年に学生主力のパリ5月革命によって、退陣を余儀なくされるまで、10年間にわたって、フランス政界の再編に全力を尽しました。
2021.12.21
コメント(7)
クロニクル 小学校6年制へ1906(明治39)年12月19日1873(明治6)年に学制が発布された時、義務教育とされたのは、4年制の小学校でした。その当時5年制だった中学校や女学校に進学するためには、義務教育を終えた後に、さらに2年間高等科や4年制の高等小学校で2年間学ぶ必要があったのです。しかし明治30年代に入ると、高等小学校に進む児童が増えてきたこともあり、また日露戦争の勝利による教育熱の高まりを受ける形で、115年前の今日、政府は小学校を4年制から6年制に改め、義務教育年限を6年間に延長することを決定、翌1907(明治40)年から、ただちに実施する旨を布告したのです。現在に連なる6年制の小学校は、こうして誕生しました。西郷の話ですが、彼の顔写真、ちゃんと写っている写真は、1枚も残っていないのです。そのため彼の銅像の顔が似ているのか否かは、分からないのです。彼を知る人が語った話というのが、いくつか伝わっていますが、それも食い違いが多々あります。あちこちに乗る西郷の図は、かなりの修正が施されていますから、信用性は低いとお考え下さい。
2021.12.19
コメント(8)
クロニクル 上野の山に西郷どん1898(明治31)年12月18日18日の早い段階でしょうか、気付かないうちに、皆様にご訪問いただいた回数が400万回を超えておりました。ありがとうございました。ブログを開設し、最初の1歩を踏み出しましたのが2006年の10月2日でしたから、15年と2か月半でした。来年には傘寿を迎える身、何時まで続けられるか分かりませんが、今しばらくは続けられそうです。どうぞ今後ともお付き合いください。さて本日は西郷どんです。123年前のこの日は、有名な上野の山(正しくは上野公園)の西郷どんの銅像の除幕式が行われた日なのです。つまり上野の西郷どんがデビューした日なのです。西郷隆盛は、言わずと知れた明治維新の功労者ですが、薩摩の不満分子の先頭に立って、天皇の政府に弓を引いたため、逆賊とされましたが、明治22(1889)年の大日本帝国憲法の発布に伴う大赦によって、逆賊の汚名が解けたことから、銅像建立の議が持ち上がり、西郷を父のように慕った明治天皇の強い意向もあって、宮内省が建立費の一部として500円を補助したことも効果的に働き、全国25,000人の西郷ファンからの寄付も集まり、高村光雲氏に政策を依頼、西郷の従兄弟にあたる大山巌元帥の助言で、最も西郷らしいのは普段着姿で愛犬の薩摩イヌを連れて、大好きなウサギ狩りに出かける姿だとするアドヴァイスに従い製作されました。現在でも人気の西郷どん、渋谷のハチ公像と並んで、待ち合わせの名所になっていますね。
2021.12.18
コメント(7)
クロニクル 介護保険法公布1997(平成9)年12月17日24年前のこの日、介護保険法が公布されました。ただし、実際に施行されるのは、2年3ヶ月後となる2000(平成12)年4月1日とされました。介護保険料の徴収と介護サービスの実施が、この法の柱ですが、実施から21年半経過した今日まで、行政の側は、保険サービスの内容を、何とか赤字にならない範囲に収めようと考えているのではないかと、勘ぐりたくなるくらい、頻繁に要介護者が受けられるサービスの内容を変え、請求書類を変えと、要介護者泣かせの朝令暮改を繰り返しています。この点を改め、使い勝手を良くすることが、すぐにでも解決すべき課題なのですが。政府と担当官庁の動きは鈍いままです。
2021.12.17
コメント(8)
クロニクル 東京・横浜間の電話開通明治23(1890)年12月16日131年も前の事です。この日、東京市内と横浜市内との間で、日本初の電話事業がスタートしました。当時の電話は全て電話交換局を通して相手方に繋いでもらう方式でしたから、この日は、東京市千代田区に設けられた電話交換局が営業を開始した日だったのです。当日の通話回数は分かりませんが、開通に備えて設置された加入電話の台数は、東京が155台、横浜が44台だったことは分かっています。交換局に勤務する電話交換手は女性が7人、夜間通話専門の男性が2人の9人体制でした。当時の電話料金は、定額料金で東京が40円で横浜が35円でした。この時期1円で米が約15kg買えたことが分かっていますので、現在の米価で換算すると、16万円~24万円に相当することになります。当時の電話は、まさに大変高価なサービスだったことが分かります。皆様ご存知のグラハム・ベルが電話機を発明したのが明治9(1876)年でした。日本の工部省は、この情報を得ると、直ちに電話機を購入して実験に移り、電話機の国産化に動いたのです。1890年の電話局の営業開始は、その成果でした。かくして今日12月16日は「電話創業の日」なのです。なお電話の登場以前は、電信での伝達が行われていましたが、電信の営業は早くも明治2(1869)年に開始されています。
2021.12.16
コメント(8)
クロニクル 映画『風と共に去りぬ』公開1939(昭和14)年12月15日今から82年前の1939年は、9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻を契機に、第二次世界大戦が勃発した年でした。米国はまだ戦争に加わってはいなかったのですが、ポーランド侵攻後のドイツは、デンマークから北欧の攻略に向かい、フランスの北部国境地帯に築いたマジノ線沿いに展開して、ドイツ軍を迎え撃つ姿勢を築いた仏英連合軍と、ドイツ軍との戦闘は、まだ始まっていない、奇妙な小康状態が続いていた時期でした。こうした異様な雰囲気が漂う中で、この日、マーガレット・ミッチェルの世界的ベストセラーを原作とした、映画『風と共に去りぬ』が、アトランタで初公開されました。主演がヴィヴィアン・リーにクラーク・ゲーブル、黒人のメイド(女中頭)マミーには、ハティ・マクダニエル、監督はヴィクター・フレミングという顔ぶれでした。映画は3時間42分という大長編でしたが、空前の大ヒットを記録しました。戦争中ということから、日本での公開は遅れ、戦後7年経った1952年9月10日に初公開され、その後、何度も上映されています。因みに私は、中学3年だった1957年に原作を読み、映画を見たのは、1960年代に入ってすぐの頃でした。戦前に全編きれいなオールカラーで3時間の映画を撮っていたなんて、アメリカという国は凄い国だ、こんな国に戦争を仕掛けるなんて、何と無謀なことをしたんだろうと思ったことを覚えています。
2021.12.15
コメント(9)
クロニクル 石橋湛山総裁誕生1956(昭和31)年12月14日 60年前のことです。この日行われた自由民主党総裁公選において、石橋湛山氏が第2代総裁に選ばれました。 前年11月15日に、自由党と民主党が保守合同を成し遂げ、鳩山一郎民主党総裁が初代総裁に就任しました。鳩山総裁は日ソ国交回復を花道に辞任することが確実視され、後任には旧自由党総裁にして、当時自民党副総裁の緒方竹虎氏の就任が確実視されていました。ところが緒方氏は、この年1月28日に急性心不全で急死されたのです。そのため総裁選びは混沌とした情勢になりました。ここに総裁選はは、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(シャンソン歌手の石井好子さんは、ご令嬢です)の3氏の争いとなりました。総裁レースは、札束乱れ飛ぶ猛烈な票の奪い合いの中、週刊誌の命名したニッカ(2つの陣営から金をもらう議員)、サントリー(3陣営全てから金を受け取る)の語が流行する中、この日早暁、石橋、石井両派の会合で2,3位連合の密約が結ばれたのです。資金力に勝る岸氏優位の情報の中、両派は激しい2位争いを演じて票を伸ばし、第1回投票で1位となった岸氏の票は、過半数を割り込みました。ここに2位となったた石橋氏との決戦投票が行われ、石橋氏が岸氏に逆転勝利して、第2代自民党総裁に就任したのです。石橋氏は首班指名を受け、内閣をスタートさせましたが、病に倒れて国会での所信表明演説に立つことが出来ず、就任2ヶ月で辞意を表明、札束飛び交う総裁選への世論の批判も強かった事から、岸氏への禅譲を発表したのです。こうして57年2月に岸内閣が誕生する運びとなったのです。
2021.12.14
コメント(8)
クロニクル 婦人参政権獲得期成同盟会の結成1924(大正14)年12月13日97年前のこの日、東京婦人会を中心に、婦人参政権獲得期成同盟会結成されました。理事には久布白落実(くぶしろおちみ)氏や市川房江氏らが名を連ねました。25才以上の男性全てに選挙権を付与する男性普通選挙法の実現は、翌年3月29日のことなのですが、大正デモクラシー運動の大目標であり、全国民的な悲願でもあった普選の実現が近づくに連れ、もう一方の性である女性の選挙権が無視されるのはおかしい、1部先進国は女性の選挙権を認めているではないかと、女性の手による、女性の参政権獲得運動が日本でも始まったのでした。現実に女性が参政権を手にするのは、これから21年後の1945年12月のことです。この時、女性は選挙権と共に被選挙権も獲得しています。そして実際に女性が選挙権を行使して、1票を投じたのは、翌1946年4月10日の事でした。
2021.12.14
コメント(6)
クロニクル 「モナ・リザ」発見1913(大正2)年12月12日レオナルド・ダ・ヴィンチの名作「モナ・リザ」。ルーヴル美術館の至宝とされています。ダレオナルドが晩年を過ごしたフランソワ1世の宮廷で、彼自身がその行為に感謝して、フランス王フランソワ1世の懇請を入れ、4千エキュで彼に譲ったものです。こういうわけでルーヴルにあるのですが、実は1911(明治44)年8月22日に盗難に遇い、フランス警察の必死の探索にも関わらず、2年強行方不明になっていたのです。その「モナ・リザ」が108年前のこの日、フィレンツェで画商に売られようとしているところを発見され、イタリアで展示後、フランスに返還されました。危ういところでした。もし売られていたら、どこかの誰かが死蔵して、再び公の場に出ることは無くなっていたかもしれません。ところで犯人ですが、「モナ・リザ」に取り付けられた保護ガラスを製作した職人でした。眼の調子が悪く、眼科のドクターの指示で、1週間PCをストップしておりました。ご心配をおかけしました。訪問はボチボチとさせていただきます。
2021.12.12
コメント(10)
クロニクル スターリン憲法成立1936(昭和11)年12月5日85年前になります。この日、第8回全連邦ソヴィエト大会は、スターリンが提出した新憲法案を満場一致で採択しました。この憲法はスターリン憲法と呼ばれ、34年12月に始まる大粛清とこの憲法によって、スターリンは独裁者の地位を獲得したのです。独裁者の地位を確立した後も、スターリンの粛清は続き、軍内部で信頼の厚い将軍たちは、次々に粛清の対象とされ、無念の死を遂げていったのです。まさにスターリンがいかに部下のクーデタを恐れていたかが伺われ、独裁者の孤独が際立ちますね。彼の粛清がピタリと止まるのは、独ソ戦が始まり、勝利以外に権力維持が不可能となった時でした。有力な将軍を粛清で欠き、イエスマンばかりの無能な将軍たちが指揮するソ連軍は、ナチスドイツの前に連戦連敗を続け、首都モスクワにドイツ軍が迫る状況まで追い込まれ、ここにスターリンも人材粛清の誤りを悟って、有能な将軍との協調路線をとるようになります。その結果、ジューコフ将軍らの活躍によって、スターリングラードで形勢を逆転することに成功、多大な犠牲を払って独ソ戦に勝利したことは歴史の示す通りです。その結果、スターリンの権威はさらに重みをましたのですから、皮肉ですね。ソ連の後継国家ロシアの大統領プーチン、彼は第2のスターリンを目指しているのでしょうか?中国には、第2の毛沢東をはっきり目指している人物がいますが…
2021.12.05
コメント(11)
クロニクル 筑波大生の集団買収発覚1978(昭和53)年12月4日茨城県議会議員選挙において、良い小遣い稼ぎと考えたらしい筑波大生141名が、1人3000円で買収され、集団で不在者投票していた事実が、43年前のこの日明るみに出ました。当時は筑波エクスプレスもなく、陸の孤島に出現した筑波大学では、学生の多くは寮生活を送っていたので、当地で選挙権を行使したのですが、当然地域への帰属意識が働くことはなく、当然ながら地方議会の選挙になど関心が持てるわけもなかったのです。無用な投票権が、不在者投票に参加するだけで、3000円になるのであれば、効率の良い話だと考えただろうことは、想像に難くないことでした。積極的に仲間を誘った学生は,仲間から感謝されたとの報道もありました。 成る程と思う反面、国立大学学生の知力の程度と、地方議員のレヴェルの実情に、肌寒いものを感じざるをえない一幕でもありました。日本における学力の低下は、今に始まることではないこと、それは「ゆとりの教育」が生み出したものなのではなく、もっと根が深く、既に70年代の末頃に芽があったことが、ここから分かります。あれから43年、地方議員の質は一向に向上しないばかりか、益々劣化が進んでいるように見えますし、今や国会議員の質もお寒い限り、困ったものですね。
2021.12.04
コメント(11)
クロニクル 対人地雷禁止条約調印1997(平成9)年12月3日24年前の今日、カナダのオタワで、対人地雷禁止条約が調印されました。オタワで結ばれたため、この条約はオタワ条約と呼ばれています。地雷は殺人を目的とした兵器ではなく、人を傷つけることで、肢体不自由者を大量に生み出し、要介護者を大量に作り出すことで、敵方の戦力と経済力を大きくダウンさせることを目的とした兵器です。そのため、極めて簡単な作りで、製造も容易、単価も安いため、資金繰りの厳しいゲリラ組織なども大量入手が可能な兵器です。しかも、1度埋設されると、どこに埋まっているかの探知が、探知機なしには難しく、ために除去には膨大な人手と資金が必要になる、厄介な兵器です。簡単な地雷は1個3ドルで製造できるそうですが、その除去には1個につき300ドルはかかるという厄介者なのです。こうした対人地雷の非人間性を憂慮した各国のNGO団体が、対人地雷禁止条約の締結に向けての運動を続け、NGOの地道な活動が、各国政府を動かし、ついに締結に漕ぎ着けたのが、このオタワ条約でした。出発は、1991年のアメリカとドイツの退役軍人が中心となったNGOの呼びかけでした。翌92年には、欧米の6団体がニューヨークに集って、「地雷禁止国際キャンペーン」(ICBL)を立ち上げます。そして95年には、ベルギー政府が世界で始めて、対人地雷の製造、販売、使用を禁じる法律を作成、対人地雷禁止に向けての空気が大きく膨らみました。これを受けて、対人地雷の禁止に向けての国際会議が、96年にオタワで開かれ、97年9月にノルウェーのオスロで、法案の条文が作成され、そしてこの日、オタワで調印されたのです。日本もこの日に、条約に署名し、条約の原加盟国の1つとなりました。ところで、条約案は調印国が40ヵ国に達した日の6ヶ月後に、条約として発効すると定めていたため、条約の発効したのは、約1年3ヶ月後の、1999年3月1日のことでした。なお2020年段階での加盟国は164ヵ国に達しています。なお、この条約は、NGOの努力が国際条約に結びついたはじめてのケースとしても知られ、ICBLの事務局長を務めたジョディ・ウィリアムズは、97年のノーベル平和賞を受賞しています。ノーベル平和賞は、妙な政治臭が強く、私はあまり評価していないのですが、時々ジョディのようなまともな受賞が挟まるので、評価が厄介です。
2021.12.03
コメント(9)
クロニクル 主婦の店ダイエー神戸三宮店開店1958(昭和33)年12月2日 63年前のことです。この日、主婦の店ダイエーの神戸三宮店が鳴り物入りでオープンしました。良い品を安く大量に、主婦の目線で選びましたというキャッチフレーズが評判を呼び、大変な盛況になりました。大量販売、廉価販売、セルフサービスで値段をギリギリまで抑えた薄利多売方式は、ダイエー方式と呼ばれるようになり、やがてマスコミから流通革命の騎手と持て囃されました。 もっとも日本におけるスーパーマーケットの草分けは1953年に東京青山に誕生した紀ノ国屋であるとされており、関西でもダイエー以前に、大阪のはとや、京都の大友といったスーパーが誕生しており、ダイエーの1号店も1957年の大阪店でした。しかし、スーパーマーケットの名を一躍全国に轟かせ、メジャーなものにしたのは、何と言ってもマスコミを賑わせた、ダイエー神戸三宮店の誕生だったのです。 ここに、スーパーの時代の幕があがったのです。そのダイエーも今やなし。栄枯盛衰は世の習い…ですか。スーパーを追いつめ、小売業のトップバーターにのし上がったコンビニも昨今はネット販売に押され、転換期を迎えつつあるようですから、この業界の栄枯趨勢は早いですね。
2021.12.02
コメント(8)
クロニクル 西ドイツ大連立政権誕生1966(昭和41)年12月1日55年前のことです。この日、当時の西ドイツで、CDU・CSU(キリスト教民主同盟・同社会同盟)と社会民主党の大連立内閣が誕生しました。首相にCDU党首のキージンガー、外相に社会民主党党首のブラントが就任しました。戦後政権を離れていた社会民主党ですが、ブラントは大連立の成果をもとに、政権担当能力を国民にアピールすることに成功、東ドイツとの関係改善を進める東方外交を武器に、3年後政権奪取に成功します。その後の西ドイツ並びにドイツでは、社会民主党中心の内閣とCDU中心の内閣が交互に政権を担当する、実質的な二大政党制が機能しています。翻って日本を見ると、民主党の失敗の原因がはっきりします。種々批判されるのですが、小澤一郎という人物は、見るところをちゃんと見ていました。 彼が党首の時代に、彼の側から時の福田首相に連立政権を持ち掛け2人の間では、実質的に合意が出来ていたのに、民主党内の反対でご破産になったことがありました。あのとき私と同年の小澤一郎の頭の中には、西ドイツとブラントの成功が、見習うべき事例として行き来していたと、私は想像しています。果たせるかな、政権運営即ち官僚操縦術を学ばなかった民主党は、見事にというか小澤一郎の危惧した通りに政権運営に失敗し、弱小政党に転落してしまいました。転落は自業自得なのですが、結果として日本における二大政党制確立のチャンスを潰し、以前に比べ下品で乱暴な自民党の事実上の独裁を許してしまった責任は、非常に重いと指摘せざるをえません。後悔先に立たずですが、残念でなりません。
2021.12.01
コメント(8)
全23件 (23件中 1-23件目)
1

