本庄氏の館

本庄氏の館

お城巡り

お城巡り写真館

★姫路城★
姫路城は別名白鷺城ともいい、今から約670年前、元弘3年(1333)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が護良(もりなが)親王の北条討伐の令に応じて兵をあげ、ここ姫山に砦を築き、その子貞範(さだのり)が館を設けたのがその始まりと言われていました。
 しかし、最近の研究では、黒田官兵衛孝高の祖父と父、重隆と職隆が主君、小寺政職の許しを得て天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間に御着城の出城として築いたという説が有力です。
 そして天正8年(1580)羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、中国攻めの根拠地として3層の天守閣を築きました。
 その後慶長6年(1601)徳川家康の娘婿で、世に「西国の将軍」といわれた池田輝政が、その豊かな財力と徳川幕府を背景に、当時としては、まさに第1級ともいえる大城郭を築きました。
 更に池田氏のあと入部した本多忠政が「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、ここに見られる姫路城が完成したのです。
 現存する完全な城閣としては、ほとんど唯一のものであり、貴重な遺構であり法隆寺とともに1993年12月10日、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産リストにその名が登録されました。


★岡山城★
宇喜田直家が元亀元年(1570)に石金光宗高を謀殺して、天正元年(1573)頃、備前平野を流れる旭川沿いの石山に築城したのがはじまりです。
 豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が本格的な築城に取りかかり直家の築いた城郭を取り込み、東の岡山に本丸を築き旭川の流れを北側から東側に変え、天守や櫓などを整備して慶長2年(1597)岡山城郭を完成させた。三重六階の堂々たる天守閣全国的にも珍しい不等辺五角形の天守台をしています。
 また、当時は築城技術の発達が著しい時期で、岡山城は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城と並んで近世城郭の魁となりました。その建築は8年にわたる大事業で、旭川の流れを変えて本丸の北面~東面を巡らせ、堀の役割を持たせました。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう」)と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられるため、「金烏城」の名もある名城です。
※戦前、国宝であった天守閣は戦災で焼失、現在は復元天守です。


★広島城★
広島城は別名鯉城といい、豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が1589年から10年かけて完成させました。江戸時代には、福島氏、次いで浅野氏が居城していました。築城以来の天守閣は昭和6(1931)年に国宝に指定されましたが原爆によって倒壊し、昭和33(1958)年に外観復元されました。平成元(1989)年には築城400年を機に内部改装を行ない、武家文化をテーマとした歴史資料館として再開館しました。


★松本城★
松本城は、戦国時代の深志の砦を創始としています。
 当時、この地方を治めていた小笠原氏が永正元年(1504年)一族の武将島立右近貞永に命じて築城させたものと伝えられています。
 その後、同族坂西氏が居城していましたが、天文19年(1550年)武田晴信玄がここを占領し、信濃支配の兵站基地としました。この時に、三重の水堀や馬出しがつくられました。          
 天正10年(1582年)のいわゆる「武田崩れ」及び本能寺の変後の混乱に乗じて、小笠原貞慶が徳川家康や旧臣の援けを得て深志城を回復し、名を「松本城」と改めました。堀と土塁で城を強化するとともに三の丸にいた町人を本町へ移しました。
 豊臣秀吉は天下統一後、家康を関東に封じると共に、小笠原秀政、家康配下の武将も関東へ移しました。
 代って秀吉の有力武将、石川数正が入城しました。数正は秀吉の威光を天下に誇示するために、松本城整備に力をつくしました。
 平城の経営に強い意欲をもつ石川氏は、小笠原氏の企図した城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手しました。数正は間もなく没しましたが、その子康長は父の偉業を継ぎ、天守(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ御殿、門、櫓、塀など主要建築物を築造し、城下町を整備しました。
 天守の築造年代は明確であませんが、今のところ文録2年から3年(1593~94)が定説となっています。
 天守閣群は築造以来400年余を経過し、現存天守の中では最も古く国宝に指定されています。


★会津若松城★
会津若松城は鶴ヶ城ともいい、東北最大の城郭で、古くは“黒川城”と呼ばれていた。黒川城は南北朝末期に蘆名直盛が築城した。天正十七年(1589)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして入城したが、奥州仕置きで豊臣秀吉は政宗の会津領を没収し、代わって蒲生氏郷が四十二万石で入封した。こうして奥羽の鎮城となった黒川城は名を“若松城”と改め、文禄二年(1593)には七層の大天守が完成した。氏郷の死後、その子秀行は宇都宮へ移封され上杉景勝が入封する。しかし、関ヶ原合戦後に景勝は減封されて米澤へ移り、蒲生秀行が再び入封した。三代続いて伊予の加藤氏と入れ替わり、このとき五層の天守閣に作り直された。その後、保科・松平と続いて白虎隊の悲劇で知られる戊辰戦争を迎える。慶応4年の戊辰戦争では、約一ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐えて、難攻不落の名城として、天下にその名を知らしめました。
 その城も戊辰戦争の6年後に取り壊されましたが、市民の要望などもあって昭和40年には現在の天守閣が再建され、閣内を博物館として、貴重な郷土資料を数多く展示しています。


★白石城★
白石城は中世期末期頃、地元の土豪白石氏の居城でしたが、慶長7年(1602)以降は仙台城の支城として伊達家の重臣片倉氏が代々居城し、元和元年(1615)の一国一城令後も例外的に「城」としての存続が認められました。
 明治維新時には、白石城で奥羽越列藩同盟が結ばれるなど歴史が大きく転換する時にたびたび登場し、重要な役割を果たしてきました。
  城は陸軍省、大蔵省へと管轄が移り、ついに大蔵省より明治7年に民間に払い下げ処分となり以後随時解体されました。白石城の復元は、平成7年に三階櫓(天守閣)と大手門を完成させました。


★二本松城★
二本松城は別名霞ヶ城ともいい、南北朝時代末期の興国2年(1341)足利尊氏によって奥州探題に任じられた畠山高国が居館を構えたのが始まりで以後九代に渡って居城としました。
 天正13年(1585)勢力を伸ばしてきた伊達政宗と争いで畠山義継は伊達政宗に降伏しました。その後二本松城は片倉小十郎景綱、のちに伊達成実が城代を務め天正18年(1590)会津に蒲生氏郷が入部すると、二本松城には蒲生郷成、町野重仍を城代とし、慶長3年(1598)に上杉景勝領となると下条忠親が城代を務めました。
 関ヶ原後再び蒲生氏が会津に入りましたが、寛永4年(1627)忠郷が没して無嗣絶家となると、松下重綱が5万石で入り、重綱が没すると松下氏は三春へ移り、入れ替わって三春から加藤明利が入りました。寛永20年に会津の加藤氏が除封されると、分家である二本松の加藤氏も除封となり、二本松は会津領より分離され、白河の丹羽光重に与えられました。光重は同年8月に二本松城に移り、以後明治維新までこの地を統治しました。
 ※戊辰戦争の少年隊といえば会津若松の白虎隊の集団自決が頭に浮かぶが、二本松少年隊の討死は悲壮さにおいて白虎隊以上のものがあったとされてます。 


★白河城★
白河城は別名小峰城ともいい、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が白河の地を結城朝光に与えた。五代目の親朝がこの地に城を建てたのが始まりで、以後結城氏代々が居城した。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の「奥州仕置」によって結城氏の所領は没収され、小峰城は会津若松城主となった蒲生氏郷の支配下に置かれ会津領の一部となる。その後、城主は徳川家の譜代大名が次々と入ったが、中でも寛政の改革を行った松平定信が有名である。


★高田城★
高田城は徳川家康の6男、松平忠輝により築城された天下普請最後の城で、太平の世を表すかのように天守のない平城です。城主は忠輝のあと、酒井氏・松平氏が続きましたが、松平氏のお家騒動による衰退から松平氏は領土を失い、その後はさまざまに城主を代え、明治維新を迎えることになりました。
 現在は平成5年に復元された西南櫓や堀が残り公園となっております。

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