本庄氏の館

本庄氏の館

本庄氏の系譜


 戦国時代の本庄氏は色部・竹俣ら下越の国人衆とともに揚北衆と称され、しばしば地域的連合を結んで守護代長尾氏に反抗した。永正四年(1507)長尾為景が守護上杉房能を追放したとき、本庄時長を中心とする揚北衆は反長尾の兵を挙げた。このため長尾軍に攻められ翌年降伏したが、永正六年房能の兄上杉顕定らが関東から侵入すると、本庄房長らは顕定に応じて再び長尾氏と戦い、一時は為景を越中に放逐した。
 為景は反撃して越後の実権を握るが、その死後、家督を継いだ為景の子晴景に国主の器量がなかったため、房長は色部・鮎川・小川らの諸氏と血判起請文で団結を確認、長尾氏に反抗した。しかし、これも晴景の養子となった景虎に抑えられた。天文4年(1539)守護上杉定実が伊達実元を養子とすることに反対して兵を挙げるが、伊達、中条らに攻められ庄内へ逃れた。その留守中に、実弟小川長資、大場沢城主鮎川清長らに本庄城を奪われた。これを聞いた房長は急ぎ帰城の途中に病死した。その六日後に房長が嫡子、千代猪丸(繁長)が生まれた。


秩父季長・・・本庄氏の祖、瀬波郡小泉の庄の地頭に任ぜられる。

秩父行長・・・武州秩父郡より瀬波小泉の庄の下向する(小泉または本庄と名乗る)

本庄長教

本庄持長・・・建武新政権に背き、新田義貞の追討を受け敗走

本庄有長

本庄憲長

本庄顕長・・・1394年耕雲寺建立(本庄氏の菩提寺)

本庄長員

本庄房長

本庄英長

本庄通長

本庄時長・・・1500年頃本庄(村上)の地に本庄城を築く。守護上杉房定に反抗するが、嫡子房長に家督を譲り、猿沢城に隠居し降伏する。

本庄房長・・・守護上杉家の養子問題に反対し中条藤資らに攻められる。出羽庄内に出兵中に実弟小川長資、大場沢城主鮎川清長らに本庄城を奪われた。

本庄繁長

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: