国栖
らが 春菜摘むらむ 司馬
の野の しばしば君を 思ふこのころ
(万葉集巻 10-1919
)
(国栖たちが春菜を摘んでいるだろう司馬の野ではないが、しばしばあなたのことを思うこの頃です。)
<注>国栖=古代、大和国吉野山中に住んでいた土着の民の称。
司馬=吉野の奥の地名であるのだろうが、所在は不明。
上三句は「しばしば」を導くための序詞である。
クズは、その根からデンプンを抽出してできる葛粉が食用に利用されるが、古来吉野川上流
(宮滝から5kmほど上流)
の地、国栖がその産地で、国栖の人たちがこの植物や葛粉を売り歩いたことから、国栖
(くす)
と呼ぶようになったのが、その呼称の語源であるという説もあるとのこと。
国栖の人たちは、壬申の乱では、大海人皇子側についたようで、近江朝廷側の追手の兵から皇子を匿うべく、小舟の中に隠したところ、追手の兵が連れていた犬が、小舟を嗅ぎ出したので、この犬を殺して皇子を守った、という伝承が伝えられていて、今でもこの地では犬は飼わないのだという。
また、南国栖の浄見原神社には、近江から逃れてきた大海人皇子が、身の半分を食べた魚を、「私が再び都に戻ることができるのであるなら、生き返れ。」と言って川に放ったところ、その魚は生き返って泳いで行った、という伝承が伝えられているそうだ。
これは、壬申の乱を題材にした能「国栖」の中にも同じような場面が出て来るが、神社の伝承から能の話が作られたのか、能の話が神社の伝承に付会したのか、どちらなんだろう。
国栖人は、日本書紀
(神武天皇即位前紀戊午年八月の条と応神天皇紀十九年十月の条)
にも登場している。いち早くに大和朝廷に服属した土着民集団であったのだろう。
日本書紀・神武天皇即位前紀では、尻尾の生えた人間と書かれているが、これは、獣皮を身にまとっていたので、それが尻尾に見えたのかもしれない。同・応神紀では、天皇に酒や産物を献上し、歌を奏上したことが記されている。
<参考 1>日本書紀の国栖人の記事
〇
更
少し進めば、 亦
尾有りて 磐石
を 披
けて 出
れり。 天皇
問ひて 曰
はく、「 汝
は 何人
ぞ」とのたまふ。 対
へて 曰
さく、「 臣
は 是磐排別
が子なり」とまうす。此則ち吉野の 国巣部
が 始祖
なり。
(注)国巣の「巣」は原文では木ヘンに巣という字。
〇同・応神天皇紀十九年十月の条より
十九年の冬 十月 の 戊戌 の 朔 に、 吉野宮 に 幸 す。 時 に 国巣人 来朝 り。 因 りて 豊酒 を 以 て、 天皇 に 献 りて、 歌 して 曰 さく
橿 の 生 に 横臼 を作り 横臼に 醸 める 大御酒 うまらに 聞 し 持 ち 食 せ まろが 父
歌
既に 訖
りて、 則
ち口を打ちて 仰
ぎて 咲
ふ。今 国巣
、 土毛
献る日に、 歌
訖
りて 即
ち口を 撃
ち 仰
ぎ 咲
ふは、 蓋
し 上古
の 遺則
なり。 夫
れ 国巣
は、其の 為人
、甚だ 淳朴
なり。 毎
に 山 の 菓
を取りて 食
ふ。亦かへるを煮て 上味
とす。 名
けてもみと 曰
ふ。其の 土
は、 京
より 東南
、山を隔てて、 吉野河
の 上
に 居
り。 峯嶮
しく谷深くして、 道路
狭
くさがし。 故
に、京に遠からずと 雖
も、 本
より 朝来
ること 希
なり。 然
れども 此
より 後
、しばしば 参赴
て、 土毛
献る。其の土毛は、栗・ 菌
及び 年魚
の 類
なり。
(注)豊酒の「豊」は原文では酉ヘンに豊という字。
以上です。
今
日は、クズと国栖の話でした。
<参考 2>
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