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拙サイト「やまももの部屋」に掲載していたやまももの短編集が17篇となり、内川雅人君の幼少年時代から彼の長男の結婚式までを一通り読み通すことが可能となりました。個々の短編を読んだときとはまた異なる感想を読者はお持ちになることと思います。ぜひ17篇をざっと読み通されたときのご感想や疑問・質問等をお寄せいただければありがたいと思います。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html
2016年07月31日
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内川さんが高校生だった頃(1963年4月~1966年3月 )、丘灯至夫が作詞し遠藤実が作曲し舟木一夫が歌った「高校三年生」が大ヒットし、あちらこちらで舟木一夫の「赤い夕日が校舎を染めて……」との歌声が流れていました。そんな流行歌「高校三年生」は、いまの内川さんには懐かしの思い出の曲ということになりますが、内川さんはこの流行歌を耳にすると、赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかった灰色の高校時代の情景と重なってなんとも表現しようのない複雑な思いに駆られるのでした。 ただし、団塊世代の内川さんが同世代の当時の思い出に触れている文章などを読むと、この流行歌の歌詞通りの懐かしい思い出を実際に体験している人などはほとんどおらず、この歌詞には現実には存在しない憧れの学園生活が描かれているだけだと書いてあり、例えばこの歌の作詞者の丘灯至夫は高校時代病気がちで「4日登校すると2日休む」状況で満足に学生生活を楽しんだ記憶がないそうですし、作曲家の遠藤実は高校に進学できなかった憧れの思いをこめて作曲したとのことです。内川さんはそんな「高校三年生」にまつわる秘話を読むとなんとなく呪縛から解放されたような気持ちになりました。 しかし、内川さんにとって、高校時代、ただ一人の友人もいなかったことはやはりなんとも辛い体験でした。特に昼食の時間、売店で買ったパンをただ独り椅子に座って黙々と食べることには耐えられなくなって、その昼食の時間に校舎の周辺を歩き回って時間をつぶすようになり、二年生後半にはついには不登校気味となってしまいました。内川さんの両親は共働きだったため、朝いつも時間通りに家を出る内川さんの不登校状態に長い間気が付かずにいました。 そんな高校2年生後半頃、内川さんは奈良市の興福寺五重塔前のベンチに所在なくぼんやりと座っていたことがあります。そのとき、当時クラス担任だった化学のN先生と遭遇したのです。ただし、そのときのN先生の雰囲気は、不登校気味の内川さんのことを心配して学校周辺を探し回ってやっと見つけられたというようなものではありませんでした。N先生とバッタリ顔を合わせたとき、内川さんはもちろん驚きましたが、先生もギョッとされたようでした。その日は自宅研修日だったのでしょうか、内川さんには先生が散歩途中と思われ、先生はなんとなく気まずい思いで、内川さんに「学校にちゃんと来なさいよ」と一言忠告されただけで、その場をすぐに立ち去って行かれました、 内川さんはほっとしたのですが、あの日のN先生との興福寺五重塔前の遭遇は、いまでもなんとも不似合いな「高校三年生」の歌をBGMにしてときどき思い出されるのです。
2016年07月29日
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私の両親は、台湾からの引き揚げ者で奈良市の父親の実家に身を寄せました。私が生まれたのは奈良市の高畑町の伯父の住んでいる屋敷内の鋤、鍬等の野良作業用道具小屋だったとのことで、なんだか馬小屋に生まれたキリストか聖徳太子を連想しますが、終戦直後の焼け野が原に多くの人が掘っ立て小屋を建てて住んでいた時代のことですから、野良作業用道具小屋でも素人が急遽作った掘っ立て小屋よりも作りはしっかりしており、文字通り雨露をしのぐことのできる家屋だったと言えるでしょう。しかし母はこの小屋内でムカデに素足を刺されて足が腫れ上がった痛い思い出を私に繰り返し語ったものでした。 その後、私の両親はすぐに奈良市の大豆山町(まめやまちょう)に住んでいた父親の実家(私の祖父母の家ですね)の二階に移り住みました。私の幼いころの記憶もこの大豆山町時代から始まります。 内気な私は、幼稚園から帰宅後、家の玄関内で近所の友だちが「遊ぼう」と声を掛けてくれるのをじっと待っていました。自分から友だちに「遊ぼう」と声を掛けることは絶対ありませんでした。近所のほぼ同世代の子どもでよく声を掛けてくれた男の子によしちゃん、よりちゃんがおり、彼らとビー玉遊びやコマ回し、ベッタ(メンコの奈良弁)打ち、さらに道路に「ろう石」で絵を描いたりして楽しんでいました。 しかし小学校1年生になると、奈良市内の油留木町(ゆるぎちょう)にある祖父の持ち家を借りていた家族が新居を建てて出て行くことになり、両親と私は油留木町のその家に移り住むことしになりました。この家と土地は江戸時代から寺侍(格式の高い寺院に仕えて警衛にあたったり、事務をとったりした武士のことです)だった先祖のもので、私が移り住んだ当時の建物はペリーが浦賀に来航した嘉永年間ごろに建てられた屋敷だったそうですが、明治になって職を失った曾祖父が本来の屋敷の半分以上を切り売りした後に残った平屋建ての家屋でした。 この先祖が残した家屋は、いまなら江戸時代の奈良市には珍しい武家屋敷造りの面影を残した家屋として評価されたことでしょうが、子どもの私の目から見るとただオンボロのやたら室内が暗い家で、両親も住みにくいこの家をすぐに二階建ての家屋にリフォームしたものです。 さて小学校の1年生から油留木町に移り住んできた私に、近所の友だちが出来たでしょうか。あいかわらず家の玄関内で友だちの誘いを待っているような私に近所の友だちは一人もできませんでした。しかし、小学校内にいつも遊ぶ二人の仲良し仲間ができ、私を含めてこの仲よし三人組は順繰りにお互いの家を訪問していつも楽しく遊ぶようになりました。漫画雑誌の貸し借りとかオモチャの連発銃(細長い紙に点々と少量の火薬が付いており、ひきがねを引いて撃つたびに爆発音がし、1回撃つごとに紙が排出されてくる方式でした)で西部劇ごっこをしたり、近所の川でザリガニ取りを楽しんだこともありました。小川のひんやり冷たい流れの中に足首まで浸けて歩きまわったときの心地よさは格別のものがありました。 家庭内には父親の浮気が原因で両親の諍いが絶えませんでしたが、小学校時代には仲良し三人組仲間とのこんな楽しい遊びの日々があったのです。しかし、中学校に進学してからはただ一人の友だちも出来ず、高校でも赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいませんでした。中学校、高校時代の私には、苦い思い出ばかりで、ただ書物だけが親しく語り合う相手でした。
2016年07月24日
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7月16日南日本新聞会館「みなみホール」で鹿児島市で第7回「立川志らく独演会」が開かれました。 まずこの独演会の前座をつとめたのが立川らくぼさんで、高座で「大工しらべ」を演じ、家主の因業ぶりに堪忍袋の緒が切れた大工の棟梁が家主に対する批判を立て板に水とばかりにまくしたる場面はなかなか小気味よかったですよ。 さて次に立川志らく師匠が高座に上がり「死神」を演じますが、そのまくらに笑点メンバーの変更と東京都知事立候補の顔ぶれを話題に出しました。 笑点では林家三平の「抜擢」に多くの落語ファンが首を傾げたことと思いますが、志らく師匠は「三平が笑点に出ることで、しばらくは彼の落語を聞かなくてすむ」と言って観客を爆笑させ、笑点の司会に春風亭昇太が選ばれたことに触れて、志らく師匠にも笑点メンバー入りの話があったが、「司会ならやってもいい、そのとき立川談春を座布団運びにして、談春、座布団三枚持って行きなさい」なんてやりたかったと言ったのでまたまた会場に大爆笑が起こりました。 都知事のことでは、桝添さんのようなネズミ男が公私混同疑惑に居直ったので、記者団の怒りが強まったと言って笑わせ、石原慎太郎の都知事時代には桝添さんがやったようなことを日常的に行っていたとし、批判されたら「なにが悪い」と激しく反論して黙らせてしまっただろうと言ったので観客はなんとなく納得。 都知事選に鳥越俊太郎さんが立候補したが、頭脳明晰な人だと思っていたが、「私は昭和15年生まれで、終戦の時20歳でした」なんて言って(終戦は昭和20年で鳥越さんは5歳になります)、簡単な計算もできなくなっているようですと笑わせ、同じく都知事選に立候補した小池百合子さんの「崖から飛び降りる覚悟」とう表現が「清水の舞台から飛び降りるような気持ち」なら分かるが、テレビのサスペンスドラマで最後は崖の場面にする設定を連想させる発言だと言って爆笑させ、自民党が増田さん以外を応援したら自民党を除名なんて言っているが、もし小池百合子さんが当選したら、自民党総裁の安倍総理は必ず「小池さんは我が党の人間です、都政を頑張ってもらいましょう」と言うだろうから、増田さん以外を応援したら除名と言っていた当初の方針に従うなら、総理も除名ってことになるんじゃないかと皮肉ったのでまたまた爆笑が起こりました。 まくらで大いに笑わせてから本題の「死神」に入りますが、この演目はいまや古典落語として多くの噺家が演じていますが、そもそもは三遊亭圓朝がヨーロッパの死神説話を日本に輸入し翻案したものと解説してから、志らく師匠風にアレンジして笑いをつぎつぎと生み出します。例えば、死神が主人公に「病人師匠がの足下に死神がいたら、つぎのように唱え、手を3回ぱーん、ぱーん、ばんと叩いたら元気に生き返る」と教えるときのその呪文がなんと「あじゃらかもくれん、石田純一、あなたはいったいなにをしたかったのでしょう」という言葉だと説明したので、会場に大爆笑が起こりました。 中入りの後、再度高座に上がった志らく師匠の演じた演目は「たまや」で、これは師匠が「天国から来たチャンピオン」をシネマ落語化した演目でした。志らく師匠の著作『シネマ落語』(河出書房新書、2009年11月)の第1話に文章化されたものが載っていましたが、高座で師匠が演じた演目としては初めて耳にした噺でした。若き花火職人の辰吉が川開きの前に馬に蹴られて不慮の死を遂げますが、これがあので死神の手違いと判明し、大店の旦那で妻に毒殺された大宮徳兵衛として生き返ることになります。そこで徳兵衛が取り壊そうとしていた長屋住まいのおたまと徳兵衛として生き返った辰吉とが不思議な恋に陥るという純情ラブロマンスが展開します。不思議な関係で出会った二人が、さらにまた不思議な関係で再会するラストは思わずほろりとさせられてしまいました。
2016年07月17日
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現在の政治状況は、選挙制度の歪みの影響もあって国会で自民党が圧倒的多数派を占め、公明党等の補完勢力の協力により憲法違反の安保法案が強引に可決されました。 シールズはこのような現政権に対抗するため、「立憲主義、生活保障、平和外交といったリベラルな価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます」と主張し、民主党(後の民進党)、共産党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの野党にデモ活動のみならず参院選での共闘も呼びかけました。このシールズによる共産党候補予定者の取り下げの働きかけるに応えてまず共産党が一人区での野党共闘を優先させ、社民党、生活の党もそれに賛同し、最後まで党内で意見の分かれていた民進党もなんとか共産党をも含む野党との一人区での選挙協力を承認しました。 その結果、参院選一人区の全32選挙区で野党共闘が成立しました。しかし、今回の参院選では自民党、公明党などの改憲勢力は改憲隠しで選挙に臨み、また32選挙区の一人区の野党共闘でも全てが共闘ならではの団結の力が充分に発揮されたとは言えず、各新聞社の予測では改憲勢力三分の二の勢い、野党伸びずと報じています。 こんな選挙状況の最終段階でシールズは「3分の2議席の鍵を握る候補者17人!」に絞って効果的応援しようとしています。 ↓ http://sealdspost.com/archives/4049 これらの候補者の選挙区でまだ参院選への投票先を決めていない方に参考になれば幸いです。
2016年07月09日
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私の長男の結婚式が7月2日に神戸の須磨離宮迎賓館であり、幸いにして天気は快晴で、人前式も披露宴も滞りなく執り行われました。 なお、私の妻の両親(新郎の祖父母)が今年90歳と86歳を迎えるのですが、鹿児島から神戸まで出向いて、可愛い孫の晴れ姿を見るのをとても楽しみにしていたのですが、祖父が結婚式の約1ヶ月前にバスに乗車しようとして、乗車口の取っ手をを攫みそこなって尻餅をつき、腰骨を折ってしまい、結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。 このことがあって、私の妻は夫の透析治療の送り迎えに加えて父親の病院通い、さらには神戸での結婚式に父親の車椅子参加の手配のために妹や甥っ子たちの手助け依頼とてんやわんやの大忙しで、かなりナイーブとなり、なんとも気の毒でした。それだけに車椅子の父親と足腰の弱った母親が無事に可愛い孫の結婚式に参加出来たことにほっと安堵の胸を撫で下ろしたと思います。 神戸の結婚式の披露宴は新郎新婦たちの工夫がいろいろ取り入れられ、参加者全員に感謝の言葉が送られたり、両親に感謝の言葉を添えた二人の成長を記録した写真帖を会場に配置したりし、新郎新婦の友人・知人からの心のこもった楽しいスピーチやパフォーマンスが続きました。 披露宴の最後に、私が新郎新婦の両親を代表して挨拶を述べましたが、式の最後のスピーチは極力短いものにすべきと考えて、臨席いただいた方々への感謝の言葉とともに新郎新婦へのプレゼントの言葉として「偕老同穴(かいろうどうけつ)」という四字熟語を贈りました。人生をいつまでも仲良く暮らしてともに老い、死んだ後は同じお墓に仲良く葬られましょうねという意味で、私が小学校のときに年上の従姉妹の結婚式での来賓の方の言葉として強く印象に残ったものでした。 なお、須磨離宮迎賓館(旧西尾邸)は兵庫県から重要有形文化財の指定を受けている由緒ある建物であり、式場のスタッフの接客態度の素晴らしいさにも感心させられました。しかし足腰の弱っている私のような人間には、人前式会場と披露宴会場との距離が離れており、また各建物の階段の上り下りも大変で、私の次男にはもっと便利な結婚式場を考えておいてねと注文を付けておきました。
2016年07月02日
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