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今年(2016年)7月の鹿児島県知事選で脱原発を掲げた三反園訓(みたぞの・さとし)氏が四選を目指す現職を破って当選し、地元の川内原発に対する対応が注目されました。原発には全く素人の私ですが、東日本大震災の福島原発事故の悲惨な現実を知らされ、さらに隣県の熊本県で大地震が起こったこともあり、川内原発への影響が心配され、三反園知事が九州電力川内原発の安全性などを確認するための第三者委「原子力安全・避難計画等防災専門委員会」の設置されるとのニュースには大いに関心を持たされました。 その第三者委員会のメンバーが19日に発表されました。そのメンバーについて朝日新聞デジタルの2016年12月19日午後3時半の記事は「川内原発の第三者委、12人の委員公表 鹿児島県」との表題でつぎのように紹介していました。「委員には、東京電力福島第一原発事故の検証を続ける新潟県の有識者委員会で座長を務める中島健・京都大教授(原子力工学)ら、ほかの立地自治体で同様の組織に加わる6人のほか、鹿児島大と九州大の地震・火山、防災、原子力などの専門家5人が入った。反原発派が県側に要望した専門家は含まれていない。 三反園知事は『賛成か反対かを議論するのでなく、専門的見地から公平公正に判断してもらえる人を選んだ』と説明した。委員が電力業界から報酬や寄付を受けたことがあるかどうかは調べていない。(後略)」 正直言うと、三反園知事の言うような「専門的見地から公平公正に判断してもらえる人」なんて原子力関連の専門家にいるのだろうかと大いに首を傾げていたのも事実です。 しかし、第三者委というのですから「委員が電力業界から報酬や寄付を受けたことがあるかどうか」ぐらいは最低の基準ですから、当然のことながら電力業界から報酬や寄付を受けてたことのない人たちが選ばれるだろうと思っていましたら、昨日(12月28日)午後6時37分のMBCNEWSがつぎのようなことを報じました。 「28日に初めて会合を開いた、原子力安全・避難計画等防災専門委員会のメンバー12人のうち、少なくとも2人が九電や原発メーカーから、寄付金などを受け取っていたことがわかりました。寄付を受け取っていたのは、鹿児島大学大学院の宮町宏樹教授と、九州大学大学院の守田幸路教授の2人です。宮町教授は4年間で、九電と6000万円の受託契約を結んでいたほか、グループ会社からも500万円の寄付金を受けていました。一方、守田教授は、三菱重工業から3年間で300万円の寄付を受けていました。」 これでは第三者委による川内原発の安全性等の確認についてどのような結論が出るかは火を見るより明らかではないでしょうか。
2016年12月29日
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内川さんが小学校2年生のころであったろうか。彼の母から父に対して、浮気相手やその相手との関係について「バイシュンフ」とか「ニクタイカンケイ」なんて幼い子どもには理解しがたい言葉がつぎつぎと発せられたのは。激しい両親の諍いに内川さんはその幼い心を痛めながらも、「バイシュンフってどんなハエなんやろか?」とか「その女性との関係、おかあちゃんにはきっとニクタラシイ関係なんやろな」なんて考えたものである。 内川さんの母は非常にプライドの高い女性でした。内川さんの父親はそんな母親のプライドを平気で何度も何度も繰り返し踏みにじる人でした。特に彼の家の庭に建てられた離れの小さな一軒家に間借りした女子学生(母の後輩に当たります)と父がニクタラシイ関係(?)になったことを知った母の憤りは激しく、まさに般若の如く怒り狂ったものでした。 そんな母は学校の教師をしていましたが、勤め先の学校の生徒たちが発行している新聞部の企画として恩師訪問というものがあり、生徒たちが内川さんの家に取材にやって来たことがありました。そのころ、内川さんの両親は諍いの真っ最中でしたが、その日ばかりは二人は生徒たちにこやかな笑顔を見せ、幼い彼も同席しました。 さて生徒新聞にはどんな記事が掲載されたのでしょうか。内川さんは全く覚えていませんが、きっと先生のご主人も教師をしておられる仲良しの教師夫婦でしたなんてことが書いてあったに違いありません。そして「仲良し教師夫婦」とその間に幸福そうな笑顔を見せる坊やが撮られた写真が載っていたことでしょう。
2016年12月23日
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創作短編:恩師の東町先生 魯迅の小説「藤野先生」には「どういう訳か私はやはり頻繁にあの方のことを思い出す。私が師と思った人の中で、私が最も感激し、私を励ましてくださったおひとりだ」とあるが、もし内川さんが、魯迅にとっての藤野先生に当たる恩師がいるとすればどなたかと問われれば、即座に東町先生のお名前を挙げるであろう。 内川さんが東町先生にもう何年ご連絡を差し上げていないだろうか。先生から電話があり、ある書店から出版されることになった講座本の第4巻への執筆依頼があり、辞退に辞退を申し上げた挙句に引き受けてしまい、遅れに遅らせたため原稿執筆に何度も繰り返し電話でご催促をいただいたにもかかわらず、なんだかんだと理由を付けて出稿を遅らせに遅らせ、やっとなんとかまさにお粗末な拙稿を書店に送って以来のことだから、もう16年以上経つことになるだろう。 東町先生との出会いは、内川さんが大学4年生のときのことであった。彼は歴史を学びたいと一浪して第一志望大学を受験したにもかかわらず失敗し、予備校で英語の成績が他の受験科目のなかで一番よかったことから第二志望校として母校となった大学を受験して合格し、その大学で学ぶことになったのである。 内川さんは、入学当初から大学院で歴史関係のことを学びたいと思い続けていた。しかし、四年生になったとき、同級生たちが私服姿から学生服姿(当時のリクルート姿)に着替えて学内を歩く姿を見掛けるようになり、さらに誰それがどこそこの企業に内定が決まったとの話がつぎつぎと耳に入るようになり、大学院への進学を依然として考えていた彼は、学問的なことは西も東もなにも分からずただ焦るばかりであった。 そんなとき、内川さんが中国近代史の授業を受けていた東町先生のその授業内容に大いに興味をそそられたこともあり、思い切って大学院進学についてご相談申し上げたのである。 東町先生は「大学院に進学するなら乞食になる覚悟が必要だよ」とおっしったが、怖いもの知らずの若い内川さんはそのとき「はい、その覚悟です」と即答したものである。そうして東町先生から繁畑敦先生という17世紀中頃の中国経済史研究をしておられる新進気鋭の方がおられ、この先生が勤務しておられる大学の大学院で研究方法を学んだらいいのではないかとアドバイスを受けることができたのである。 内川さんは東町先生からは大学院進学のことみならず進学後も大変お世話になり、いろいろな研究会に参加させてもらい、また論文投稿や書籍原稿執筆に力を貸していただいた。内川さんが勤務するようになった短大で1989年から海外留学が可能となったとき、彼は東町先生に留学先について相談に乗ってもらい、1989年夏より1年間に渡って上海の復旦大学に留学することになった。しかし、同年6月4日に天安門事件が起こり、中国で混乱が続くかもしれぬとの情報もあり、気の弱い彼は留学を急遽中止してしまったのである。 それだけではない、内川さんがその頃に研究対象にしていたのは、人民日報記者で政治の民主化の必要性を鋭く主張していた劉賓雁氏だったが、当時アメリカに留学していた劉賓雁氏がそのままアメリカに亡命し、中国国内での活動が不可能となってしまったのである。 このときから内川さんは中国に対する研究意欲を完全に喪失し、上記に書いたように東町先生からの折角の原稿依頼も遅らせに遅らせてしまい、その挙句にお粗末な原稿しか提出できなかったのである。先生はさぞかし呆れられたことであろう。それから先生からのご連絡もなく、彼の方からも近況報告をしても失望されるだけであろうと恥ずかしくて連絡を差し上げられず、そのまま音信不通となってしまったのである。 こんな不肖の弟子であるが、彼はいまも東町先生から受けたご恩は忘れられないでいる。いまでもよく先生のことを思い出す。彼はよくこう思う、先生が彼にかけて下さったご期待やお教えは、小にしては、卒業を目前にしながらも進路に迷っている一人の受講生のためであり、大にしては学術のためであり、つまり先生の後継者を育てることにあったろうと。そんなことを思うと、こんな言い訳がましい文章を書いていることに彼はただ恥じ入るばかりであった。
2016年12月10日
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私の義父の本田又雄が先月中旬に他界しました。享年90でした。本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。 義父の葬儀も無事に終わった後、関西に勤務する私の長男、次男から「じいちゃんの思い出」についてのメールをもらいましたので、義父への追悼記念としてこのブログにアップさせてもらいます。 なお初孫のはんちゃん(明石の福祉施設勤務)は、福岡の病院で産まれています。当時妻の実家が福岡に在ったからです。義父は毎日仕事帰りに初孫の顔を見に病院に通いました。鹿児島に帰った初孫のお食い初めの日には義父が福岡から駆けつけて祝ってくれました。妻がはんちゃんを連れて福岡の実家に里帰りしたときには、いつも義父が嬉しそうに「はんちゃん、はんちゃん」と言って初孫と一緒にお風呂に入っていたものです。また自転車に乗せて散歩によく出掛けており、そのおじいちゃんと孫のほほえましい姿が忘れられません。大泉逸郎が「孫」という題名の歌謡曲で「なんでこんなに可愛いのかよ/孫という名の宝もの」と 歌っていますが、まさにその通りの思いを持ったおじいちゃんがそこにいました。 妻の両親が鹿児島に移ってからも、明石に就職したはんちゃんが鹿児島に帰って来たときはいつも義父母の家に立ち寄っていました。義父が88才になったとき、はんちゃんが米寿のお祝いを率先して企画し、4人の孫たちがおじいちゃんに帽子や花束を贈呈していました。はんちゃんが帽子をじいちゃんの頭に被せたときは、些かはにかみながら祝いの席のみんなに披露していたものです。 義父ははんちゃんが年頃になったとったとき、「はんちゃん、結婚はまだかい」といつも声を掛けていましたから。そんな初孫が結婚すると聞いたときは大喜びしたものです。ところが彼の結婚式の約1ヶ月前に腰骨を折ってしまい、神戸での結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。はんちゃんは初孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。 そんな初孫のはんちゃんがじいちゃんの思い出としてつぎのようなことを書いています。「まず1つは焼酎です。福岡の福間に遊びに行き、私はじいちゃんの膝や傍に座り、みんなで食事を囲んだときに、必ず焼酎にポットからお湯を入れて、お湯割りを飲んでいました。あの、芋焼酎とじいちゃんの匂いは今でも思い出します。 次に2つ目は自転車です。孫達みんなじいちゃんの自転車の後ろには乗せてもらってます。色々連れて行ってもらいましたが、行き着く場所の思い出ではなく、私は、真面目なじいちゃんが道行く若い女性に『お姉さん! 今何時ね?』と熊本弁で声をかけたことを鮮明に覚えてます。なぜかというと、真面目で真っ直ぐなじいちゃんが、若い女性に声をかけるだなんて、と驚いたからです。ただ時間が知りたいだけの事だったんでしょうけどね。 3つ目は、マッサージと就寝の時間厳守です。これも福岡の福間に孫が遊びにきても、6時半か7時半くらいか忘れましたが、必ず決まった時間には二階に上がり、マッサージのベッドでマッサージしてましたね。それから就寝するようで、朝まで下りてくることはありませんでした。孫が来ようが自分の決めた時間を守るじいちゃんでした。 この3つ以外にもたくさんエピソードはあります、初孫として愛されていたことはパパさんの方が知ってるのではないでしょうか。福間の広い家に優しい笑顔で迎えてくれたじいちゃん。いつも笑顔で、親しみやすかったですね。結婚はまだかと手紙が来たり、冗談なのか分かりませんがもう諦めたなんて手紙が来たりしたものです。私の結婚式には喜んで参加してくれましたね。晩年は耳が遠いのもあったのか、あんまり思いを話せる事はなかったですが、手紙をたくさん頂きました。手紙を返す事が少なくすいません。 真面目で2人の娘にも4人の孫にも、ばあちゃんにも愛されていたじいちゃん。みんな誇らしく思っています。最後は遺す言葉も伝えられず無念だったと思いますが、きっと私達の声は届いていて、私の休みに合わせて旅立ちましたね。最後まで人様に迷惑かけないように、真面目なじいちゃんらしいな思しました。本当にありがとうございました。私の子供達にもしっかり伝えていきます。」 また次男ののんちゃん(大阪の病院に社員として勤務)も下記のような本田のじいちゃんについての思い出を書いています。なお彼は、鹿児島で産まれています。「僕が小学校入るか入らないかだった頃、両親と兄と4人で鹿児島から福岡の福間まで在来線と特急電車に揺られて会いに行ったことをいまでも覚えています。当時で片道5時間くらい、普段の生活で電車に乗る機会がないので、それだけでわくわくしたものです。福間駅に着くとおじいちゃんとおばあちゃんが改札口に待っていてくれて、『よく来たねー』って本当に笑顔で喜んでくれたのが、いまでも忘れられない嬉しい思い出です。いま思えばこの時に、僕の中でのおじいちゃん、おばあちゃんっていうのは、離れていても温かくて優しい存在なんだなってことを強く認識させられたように思います。 そんなおじいちゃんは、うる覚えですが自転車の後ろに僕を乗せて、買い物やプールに連れて行ってくれたような記憶があります。僕を楽しませるために家の近くを何度もぐるぐる回ってくれたときに、『じいちゃんこの道さっき通ったよ』って僕に突っ込まれたみたいで、そのことを晩年よく楽しそうに語ってくれました。 鹿児島に帰省したときも、僕の同級生のプロ野球選手のことを話のきっかけにして、僕の仕事のことをとても気にかけてくれました。また戦時中のことなど話してくれました。どれにおいても忘れられない思い出です。 最後に一つだけおじいちゃんに謝らないといけないことがあります。それは何回か手紙をもらったにもかかわらず、返事を書けなかったことです。ごめんなさい。もうおじいちゃんに返事は渡せないけど、心の中にいるおじいちゃんに感謝し、生きていきたいと思います。おじいちゃん本当にありがとう。」 本田のおじいちゃん、本当にありがとうございました。真面目な勤め人であり、また優しい家庭人だったおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思いますよ。
2016年12月02日
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