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幼い子どもたちはみんな将来の夢を持ったものです。スポーツが得意な元気な男の子たちの多くがプロ野球の選手に憧れたものです。 内川雅人くんですか。彼は手塚治虫のような漫画家に憧れました。いつも広告の白い後ろ紙に、鉄椀アトムに登場するひげオヤジやお茶の水博士たちをとても上手に描いていました。そんな彼の右手の中指にはペンだこ、おっと鉛筆だこがポッコリ出来たものです。 小学校の授業中も先生の話を聞くふりをして、彼は教科書の余白部分に手塚漫画のキャラクターを描いていたものです。とにかく手塚漫画のキャラクターを描かずにはおれなかったのです。 そんな手塚漫画を描くことが大好きな彼に、4才年上の従兄弟の威ちゃんがとても貴重なアドバイスをしてくれました。本当に漫画家の道を目指すなら手塚漫画にそっくりなものを描いていては駄目だよってね。威ちゃんがいいたかったことは、雅人くんならではのオリジナルな漫画が描けないと駄目だよという忠告でした。 それからです、雅人くんは漫画を描くことにスランプに陥ってしまいました。雅人くんなりの漫画を描くってどうすればいいのでしょうか。どうやっても描けません。雅人くんはこのとき漫画家になることをあきらめました。小学校五年生の頃に味わった挫折でした。しかし、勉強嫌いの雅人くんの右手中指には鉛筆だこがしっかりと残っていました。いや、いまも雅人くんの右手中指には鉛筆だこがあるんですよ。なにか悲哀を感じる右手中指の鉛筆だこです。
2018年08月30日
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内川雅人くん一家が祖父母の大豆山(まめやま)町に身を寄せていた頃の話です。 玄関に四輪の手押し式木製荷車が置かれていました。まだ幼かった雅人くんに彼の母親が、この荷車を指差しながらいろいろな思い出を語ったものです。 戦後の食糧難の時代、配給制が取られており、遅配や欠配が続き、町の人々は闇市で高額な値段の食糧品や基本的必需品を購入するか、農村部に直接買い出しに行って手に入れる必要がありました。 雅人くんの母親も、故郷の台湾から夫の実家の奈良市に引き揚げたときに持ち帰った嫁入り道具の着物などを荷車に乗せて農村部に買い出しに出掛けたそうです。 雅人くんの母親は、当然持参した着物などを農民たちは高く評価してくれて、沢山の食料品が手に入るものだと思い込んでいました。しかし、彼らは町の人間が食糧難で困っていると足もとを見て僅かな食糧品しか渡してくれませんでした。雅人くんの母はとてもくやしい思いをして、そのことを物心のついたばかりの雅人くんに何度も語ったものです。 この木製の荷車はまた乳母車の役割も果たしてくれました。粗末な木箱をその上に乗せ、幼い雅人くんを入れて、手押しでゴロゴロと舗装されていない道を歩く女性の姿こそが、最初に振動音ともに記憶された雅人くんの母親の姿でした。 l
2018年08月12日
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1953年12月に奄美が復帰しましたが、それから50年後に私が勤務している短大から奄美在住の生徒のために実施していた推薦入試のために名瀬に赴きました。名瀬の街のいたるところに「奄美復帰五十周年記念」の貼り紙が張られていましたので、推薦入試の受験生たちに軽い気持ちで「奄美復帰と言っているけれど、どこから復帰したの」と訊きました。すると受験生たちはだれもが首を傾げ、苦し紛れに「ソ連」、「中国」、「韓国」なんて答えるのです。受験生を苦しめてはいけませんので、四、五名質問してから、こんな「難問」を訊くことを止めにしました。 佐竹京子さんが2003年1月に南方新社から初版を出され、今年重版を出された『軍政下奄美の密航・密貿易』を送っていただきました。奄美は戦後に沖縄、小笠原同様に日本から行政分離されアメリカの軍政下に置かれました。行政分離後、鹿児島市の伊敷町旧歩兵第四五連隊跡に奄美への引揚者収容所が設けられています。いまは県立短期大学の敷地となっており、私は以前よくバスで三号線上にあるこの県短横を通り過ぎておりました。この奄美への引揚者収容施設から定員150人を遥かに超える乗客が密航船「宝栄丸」に乗船し、錦江湾を出港し、中之島沿岸で多数の死傷者を出しています。この他、日本から行政分離時代の教科書密航、密貿易等が詳しく紹介されています。 特に興味深かったのは、行政分離後の奄美の二人の教員が日本本土の六三三制となった新しい教育状況を知ろうと金十丸に乗って密航し、東京、神戸、鹿児島で教科書や教育資料を集め、奄美に持ち帰って役立て用と努力した事実です。でもこの二人の教員は密航の罪で教壇を追われてしまったそうです。
2018年08月08日
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