こんなものですが

こんなものですが

日露戦争における『広報外交』


 これが活用された例として、日露戦争を論者は挙げている。

 当時の明治政府は、大国ロシアを相手に「限定戦争」を戦略とした。まず戦闘地域(北進してもハルビンまで)と戦闘期間(1年位)を想定し、何とかして戦局を6分4分の勝ち目に運ぶ。その間に、仲介役となってくれる有力な第三国を見つけ、有利な条件で講話に持ち込むものだった。
 そのためには、人種的、宗教的な偏見に基づく当時の「黄禍論」を抑え込む必要があった。ロシアは、その黄禍論を世界に吹聴し、黄色人種で異教徒の国・日本を、新しい十字軍を結成してたたこうと謀った。
 日露戦争の開始とほぼ同時に、政府首脳から特命を託された貴族院議員の金子堅太郎は、米国民の国民性をうまく利用して広報活動に尽力した。当初はロシア支持の強かった同国の世論を、「1年余で、80%までも日本びいきに転換させることができた」(金子)。その結果、セオドア・ルーズベルト大統領に依頼して、ポーツマスでの日露の講和交渉を仲介させ、条約調印にこぎ着けた。
 同じころ、同様の特命でロンドンを中心に欧州に赴いた同じ貴族院議員の末松謙澄や、ベルリンに滞在しドイツ語系諸国民の対日友好関係の強化に奔走したアレキサンダー・シーボルトもいた。当時54公館を数えた日本の在外諸公館による積極的な広報文化活動のほか、米国に滞在した日本の民間知識人や、日本に非常な好意を寄せた米国の民間知識人らの言論活動も、功を奏した。
 このように見れば、対外的な国力には、軍事力と経済力のほかに、広報力も大きく影響することがわかる。

【平成17年7月22日付け読売新聞から】

 『黄禍論』~ジャパンバッシング~に日本としてどう対抗するかというときに、2名の貴族院議員を特命で派遣し、日本の広報活動を行うことによって、米欧の理解を得、講和条約締結に持ち込むことができた、というのだが、当然、それだけでとは思えないし、具体的にどのような行動をしていたのか不明である。
 ここでは、在外公館挙げて、つまり、外務省を巻き込んで、積極的に広報文化活
動を行ったという点に注目したい。軍事力、経済力だけでは近代戦を勝つことはで
きず、広報力、言い換えれば、情報力が重要であること、その日本外交の成果とし
て日露戦争があったということだろう。

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