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最近ネット集団自殺が増えていることに関して石原都知事が「最近の若い人は我慢ができないんじゃないか、父親が弱くなってしっかりした教育が出来ていないんじゃないか」と発言していた。果たしてそれだけだろうか?それはちょっと表面的だと思うね。要するに社会に希望が持てないんじゃないかな。食べることに必死の時代はあんまり本質的なことを考えられないけど、衣食足りて「生きる意味」を考えるようになると、この世界での幸せってのが儚いものだと気づくようになる。これくらい努力すれば、これくらいのレベルの生活になるとはっきりわかってしまうと、なんだかやりきれない気持ちになる。宗教というと怖いとか「生きる意味」を考えさせない教育を戦後定着させてしまった。そんなこと考えたって仕方がないとかね。石原都知事の世代がした教育ってそういう教育だから。そこが一番の問題だと思うんですがね。そういうことを無視して我慢とか辛抱っていったって無理が来るに決まっている。「人は何のために生きているのか」それが問われているのだ。チベットの死者の書にはその答があるんだがなあ。
Sep 27, 2005
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この世界の幸せって泡のように消えてしまうものなんだ。それは考えたくなかろうと見たくなかろうと真実なんだ。
Sep 24, 2005
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死は誰にでも訪れるもので汝だけにおこるものではないのだ。
Sep 5, 2005
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以前、ある爺さんに占いの話をしたら「そんなんで未来が決まるなら努力する必要なんかないだろうがバカもほどほどにしろ」って怒られたことがある。こういう爺さんみたいな勘違いをする人は多いと思う。要するに「運と努力とどちらが大切か」というわけだ。でそういう爺さんの答えは「運」か「努力」か2つしかないと考えているんだ。でももう一つ答えの選択肢がある。それは「どちらも必要」という答えだ。つまり答えの選択肢は2つじゃなくて3つあるということ。これは日本人が陥りがちな穴だと思うね。最低限努力はしていないと運はついて来ない。努力と運というのは別の次元の話だから「運と努力とどちらが大切か」という質問自体ナンセンスなんだけど、どうもそういう質問を言いたがる人がいる。どちらが大切ではなくてどちらも大切だ。また運というのは偶然ではない。今までにあなたが他人に与えたもので決まる。これは因果応報ということ。だから運は良くすることも悪くすることもできるし、今、運が良いのも悪いのも過去の行い(過去世も含まれる)ということだ。だから悪いことが起きたときに「日頃の行いが悪いからだ」とからかったりするのは本当は正しいと言える。
Sep 4, 2005
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