ゆきあけのボヤキ

弟の事


平成17年8月


久しぶりにこのHPのフリーページ作成にあたって、弟の事を書こうと思いました。

以前から私のHPを訪問してくれていた人は、私が一人っ子だと思っていたでしょうね。

私は2人兄弟の長女なのです。


私には2歳8ヶ月離れた弟がいる。

小さい頃、いや、ついこの間!?までは仲の良い兄弟だったと思う。

弟は今、世間のはみ出し者、そういう職についている。

私は弟が嫌いなわけじゃなく、そんな事をしている弟が嫌いなのだ。


弟は小さい頃とても体が弱かった。

小児喘息でいつも母がいないと駄目なママっ子だった。

私と違い、性格も弱虫だった。

私が大阪の祖母宅へ小さい頃から泊まりにいくも、弟は泣いて泊まらない子だった。

人との付き合いが下手なんだろう。

小学校に入っても中々友達が出来ず、出来たと思えばその子が転校してしまうといった感じで友達には恵まれてなかったと思う。

だけど動物が大好きで気持ちはとても優しい子だったので女の子にはモテた。

友達が多かった私はこんな弟を不憫に思ったこともあった。

中学生となり、弟はラグビー部に入った。

当時の私達の母校の中学校のラグビー部はいわゆるヤンキーの集まりだった。

ラグビー部じゃないと変形を着てはいけないとかいう変な決まりもあった。

弟はその頃決してヤンキーとかではなく、ただ単にラグビーがしたかったようだ。

体型は痩せ型だったが身長はあった。

運動神経も良かった方だと思う。

だからか1年生でいきなりメンバーに選ばれた。

ラグビー部の中に一人小さい子がいた。

どうやらその子がいじめに遭っていたらしい。

弟はその子を庇った。

メンバーに選ばれた事、庇った事、この二つが弟の今後の生き方を変えた。

いじめの矛先が弟になった。

とてつもないいじめだったようだ。

庇ってやった相手にまで裏切られた・・・

まだ弱かった弟はこのいじめに負けた。

しばしの登校拒否の後、ヤンキーと化した。

どこでどう知り合ったのだろう。

他校の生徒とつるむようになった。

学校へも行くようになった。

両親、そして私もこんな弟を責めることはしなかった。

出来なかった。やっと笑い合える友達が出来たのだからと・・・

安易に考えていた。

少しぐらいやんちゃでもいいと・・・・

でもこれがどんどんエスカレートしてきた。

隣りの中学校にWという親友が出来た。

もうその頃は今まで弟をいじめた奴らは弟にペコペコしている状態だった。

そんな弟を見てWは「お前甘いねん。今までのこと思い返してやり返したったらいいねん。」と言ったが、

「もうそれは別にいいねん」と答えた弟。

そんなところにも弟の本来の優しさ、甘さが見えた。

内心私も“やり返せ!!”と思っていた。

夜遊びはしたが何故か毎日帰ってくる弟。

普通はそんなんしてたら家出とかするんじゃないの?とか不思議に思っていた。

だけど両親は少しでも遅くなると弟を探しに出た。

一度私もついて行った。

弟のいそうなところを探し回る両親。

知っている子達の集まりを見れば寄って行き、弟がそこにいないと分かれば

「寒いからあなた達も早く帰りなさい」と言って缶コーヒーを与えた。

何でこんな子らにこんなんするん!?と私はイライラした。

でも必ず家に帰ってくる弟。

その辺りが過保護に育てたれた甘い行動だった。

警察のお世話になる事も度々あった。

でもその度刑事さんからは「あいつは根っからの悪じゃない」と言われた。

確かにそうだったかもしれない。

でも当時の私にとってはとても迷惑な話だった。

弟ばかりに目がいく両親に拗ねた事もあった。

今思えばかなり私も子供だった。。。

だけど弟の為に私も一生懸命してきたつもりだ。

私の家族を知っている人、友達は言う。

「何で弟がここまでになったか分からない」と。

私自身も分からない・・・

両親は一生懸命やってきた。

テレビなんかで子供がこんなになるのは親のせいと言う。

確かに、始めの暴走を止められなかった、ここまで止めれなかった親のせいかもしれない。

でも私はそんな両親の元、普通に育ってきた。

何でも親のせいにされる事が一番の怒りであり、悲しく辛い。。。

今、母が生きていたなら弟はここまでにならなかったのか・・・と疑問に思う。




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