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雪月花
ラプンツェルの夢
ラプンツェルの夢
ここからあたしを出さないでね、塔子は言った。あたしを逃がさないでね、と。その言葉にトオルは頷いた。約束する、君をずっと閉じ込めておく。
ケンは探していた。塔子はケンの恋人だった。だから。彼女をどこへやった。怒りと焦り、いや、自分本位な嫉妬の中で、誰とも知れぬ犯人に向かって毒づいた。
ただいま。
仕事を終えたケンが家に帰ると、塔子の姿はなかった。二人で暮らし始めて一年が経ち、二度めの夏が終わろうとしていた夕方のことだった。おおかた買い物にでも行ってるんだろう。ケンはそのまま塔子を待っていた。蝉が泣き止んで日が暮れた。帰らない。鈴虫が泣き出した。戻らない。おかしい。電話をかけた。つながらない。待った。待って、待って、待った。探した。方々に電話もした。見つからない。そして三日目の朝、ケンは警察へ向かった。家を出る時になって気が付いた。この三日間、何も食べていなかった。しかし空腹は感じなかった。
塔子がいないんです。
友人に付き添われて行った警察で、ケンはそれだけ言うのが精一杯だった。ざわざわとした署内、うそ明るい蛍光灯、そして何より目の前の書類と制服の警官が、彼に事の重大さを思い知らせた。全てがおままごとではなくなった瞬間だった。どうにか捜索願いを出し終えたケンは、膝をついた。塔子。彼は、塔子が事件に巻き込まれていて、しかも無事であることを願っていた。自分の意志で彼女が去ったとは、考えたくもなかった。それは許せなかった。そういう男だった。自分を愛しているだろう塔子を愛し、塔子を愛しているだろう自分を愛していた。その自覚はないままに。そういう男だった。
はじめまして。
買い物帰りの塔子に、トオルは声をかけた。塔子はトオルを知らないが、トオルは塔子を知っていた。トオルがこの辺りでちょくちょく見かける顔だった。よく見る顔のひとりに過ぎなかった。けれど。塔子の買い物袋の中身が、ひとり分ではないと確信した時から、トオルは彼女を欲しがる自分の心に気付いていた。始めて声をかけた時の塔子は、とても驚いた顔をしていた。それはそうだ、だってあの時の君は僕を知らなかったんだからね。もし君が僕だったとしても同じ顔をすると思うよ。
覚えてる。
あなたが最初に言った言葉は、はじめまして。その次になんて言ったと思う?トオルと言います、僕に誘拐されてくれませんか、だって。たちの悪い冗談だと思った。新手のナンパか、変な罰ゲームか、本当に少しおかしい人なのかも知れない、ってね。でもあなたはなぜかものすごくまともに見えた。だからあたしも真面目に答えたの。あなたに今誘拐されるわけにはいかない、これから帰って夕飯を作らなくちゃいけないし、それに、あたしがいなくなったら心配する人がいると思うから、って。それであたしたちは喫茶店に入ったのよね、確か。「それで」っていうのも変な話だけど。だってあなたが、ちょっと説明させて欲しいなんて言い出したし、まだ夕方だったから。今考えれば全部が全部変な話だわ。トオルのことだけじゃなくて、本当に全部。変な話よ。
僕はあなたをさらいたいんです。
だって他にどう言えばいいか分からなかったんだ。一応の大人になって、何にも関わりがない「誰か」を好きになってしまった時、どうやって知り合えばいいか分からなかった。自然な知り合い方なんて思い付かなかったしね。新しく誰かと知り合うということは、お互いの人生に割り込むということだと僕は思ってる。割り込む。力ずくな響きがしないかい?もういい、僕は君をさらおう、どうせ不自然な出会いなんだから、そう思ったんだ。それを君に説明したかった。そして、僕にさらわれて欲しいと。いいかい、あれは告白だったんだよ。僕の顔が夕日に照らされていて良かった。
それだけ言ってトオルは、塔子の長い髪を撫でた。塔子は満足げに目を閉じた。ここへ来て1週間が経つ。トオルの部屋、トオルの手、トオルの匂い、あたしの髪。なんて幸せなんだろう。囚われの身という甘い響きと夕焼けに酔った。非日常。限りなく自由な気がしていた。
塔子を見かけませんでしたか。
ケンは仕事も休み、近所中に話を聞いて廻った。もちろん塔子の写真を片手に。見せて廻るための写真は、塔子が美しく笑う横で、自分が彼女の肩に手を回している一枚にした。到底本気になっているようには思えない警察の動きとは別に、自分の足で動き始めて三日目。僕は塔子を探している。塔子が僕のものだからだ。理由はそれだけと言えばそれだけだったが、ケンにとってはそれこそが重要なのだ。そして。駅前の喫茶店で、思いがけず塔子の情報に行き当たった。これでこの騒動が終わってしまうかも知れない。なぜか少しがっかりしながら、ケンはウェイトレスの話を聞いた。あまり芳しくない情報だった。
男の人と二人でした。
親しそうだったか?
どんな男だったかと聞くよりも先に、ケンはそう尋ねていた。いいえ。その答えに安堵してから、再びウェイトレスに聞いた。どんな男だったか。この辺りでよく見る顔か。その情報はすぐさま警察に伝えられた。
あの人、結婚しようって言ったの。
そう、あたし、恋人にプロポーズされてたのよ、塔子はそう言って笑った。そうだったのか、じゃあ悪いことをしたかな、僕は。
トオルの困った声も好きだ、塔子はそう思って寝返りを打つ。そんなことない、だって、怖いじゃない、結婚とかそういうの。あたしはいつだって、自分の人生のヒロインでいたいんだもの。なのにあの人は。
ごめんな。
トオルは塔子の顔を覗き込んだ。塔子は泣いていた。どうした。トオルは初めて焦った。彼女の泣き顔を見るのは初めてだった。やはりこれは誘拐だったのか。もう少しうまい方法はなかったのか。彼は混乱した。帰りたいのか?違う。怖いのか?ううん。悲しいのか?返事がなくなった。つまりそうなのだろう。塔子は、今、悲しくて泣いている。だが、その答えはますますトオルを混乱させた。何が悲しいんだ。君が帰りたいなら帰ってもいいんだよ。そうなれば僕は悲しいけれど、所詮誘拐犯だ、ここも遅かれ早かれ見つかるだろうし、わがままは言えない。引き止めはしないよ。声も出さずに泣き続ける塔子に話しかける。返事はない。月が明るい。もう秋だね。今夜は涼しいから。そう言って塔子の肩に毛布をかけようとしたトオルの手を、塔子の手が掴んだ。
ラプンツェルって知ってる?
昔話のお姫さま。あたし、小さいころからあの話が大好きだった。ずっとずっと思ってた。いつか王子様がって。あたしを助けに来てくれて、そして自由にしてくれるんだって。笑うでしょ。始めはただの憧れだったけど、そのうち本気で信じるようになってた。いつの間にかあたしは、物語の中のラプンツェルよりも大人になってた。そして、ケンと出会った。彼はきっと今、あたしを救い出そうとして躍起になってるはずよ。あたしがこの話を好きなこと、彼も知ってるし、プライド高い人みたいだから。あたしにとっての塔と王子様が本当は何かなんて、あたしにしか分からないのに。仕方ないわね。みんな自分が主人公でいたいんだから。
そうか。やっぱりこれは誘拐なんだね。
どう見たって誘拐よ。端から見ればね。
塔子はトオルの、トオルは塔子の名字も知らない。そんなものはどうだっていい。これが誘拐だっていい。ただし、純粋な誘拐だ。金目当てでもなんでもなく、本当にその人が欲しくてさらった僕は、いっぱしの誘拐犯だ。そんな風に考えて、トオルは少し笑った。泣き止んでいた塔子は眉で尋ねた。どうしたの?いや。僕は本当に誘拐をしたんだなって思ったんだ。そう言ってトオルは塔子の長い髪を撫でる。変な人。
男の身元が分かりました。
居場所もですか?警察からの連絡に、ケンの声は震えた。どうやら、塔子と一緒に喫茶店で目撃された男は、自分のアパートで今も普通に生活しているらしい。そこに塔子がいるのか。湧いて来るのはやはり嫉妬だった。塔子。その男の部屋まで、警察と共に行くことにした。本番だ。ケンの胸は高鳴った。塔子が戻って来る、そのことよりも、塔子を取り返す、その瞬間に思いを巡らせて。
忘れないでね。
塔子はトオルに言った。あたしたちがここにいることは、もうすぐ分かるんでしょう。そうすれば、きっと離ればなれになるわね。でも、忘れないでね。あたしのことを。あたしがあなたを忘れる日が来ても、あなたはあたしを忘れないでね。それは悲しすぎる。だって。
だって、何。
トオルがあたしを自由にしてくれた。
目が覚めると、塔子はいなかった。まるで最初からそんな女なんかいなかったように、きれいさっぱり消えていた。警察は僕の家に来て、しつこく色々なことを聞いて行ったが、彼女が跡形もなく去っていたおかげで、僕が誘拐犯として捕まることはなかった。警察と一緒に来ていた彼女の恋人という男が少し気になった。あの目は全く緑色だった。嫉妬というやつだ。男の嫉妬は怖い。人のことは言えないけれど。
塔子はどこですか。
掴みかかって来たあいつに、僕は正直に答えた。知りません。だって本当にそうなんだから。だけど、僕だって知りたいんですとまでは言えなかった。捕まらなかったけれど僕は誘拐犯。捜索願いを出したいのは僕の方だ。でも。やっぱりわがままは言えない。
それにしても、完璧だな。
塔子が去った部屋を見まわして思う。完璧に去ってしまった。ただし、僕の頭の中を除いては。参ったな。僕は泣く。ずるいじゃないか。忘れられなくなってしまう。それが君の希望だったとしても、なぜ。
ラプンツェルの物語を思い出した。高い高い塔から王子様に助け出され、自由になったラプンツェル。自由の身になった彼女がその後どうしようと、彼女の勝手なのかも知れない。だけど。
これはひどいよ。苦笑いの頬の皺を涙がなぞる。
君が自由になった途端、今度は僕が閉じ込められた。
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