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雪月花
モデルテキスト考
源氏物語中の有名なエピソードの一つは、源氏物語第9巻「葵」の中のものであろう。六条の御息所の生き霊が物怪となり、身重の葵の上を憑き殺すという場面である。この場面は、女の嫉妬の美しさと悲しさ、葵の上のはかなげな表情や御息所の苦悩など、様々な味わいをたたえている。そしてこの場面は後に、「能」に「葵上(あおいのうえ)」として取り上げられて演じられた。さらにその後、この「能」になった「葵上」を元にして創られたのが、三島由紀夫による近代能楽「葵上」である。モデルテキストとしての源氏物語を考える時、その影響の大きさは、オリジナルからすれば「孫」にあたる作品までが存在する、というところに見えるのではないかと考え、論を進めていくこととする。まずはじめに、これから取り上げる三つの作品を整理しておく。
1)源氏物語第9巻「葵」(紫式部。1008年頃、成立。物語。)
2)能「葵上」(作者不詳。成立は14世紀後半~15世紀初。能。)
3)近代能楽「葵上」(三島由紀夫。1955年初演。現代劇に近い。)
さらに、この3作品のそれぞれのあらすじをまとめておく。オリジナルはさておき、2)と3)にはストーリーに明らかな違いがあるのが興味深い。
1)身重の葵の上へ、嫉妬に身をやつした六条の御息所の生き霊が襲いかかる。六条の御息所に自覚はなかったが、源氏の君はその生き霊の正体が御息所であると知る。人々の噂により、葵の上を苦しめる物怪が自分であると気付きはじめた御息所は苦悩するが、葵の上は若君を生んだ後に息を引き取る。
2)葵の上に取り憑いた物怪を祓うために、照日の巫女が梓の弓の音でその霊を呼び寄せる。弓の音に惹かれて、六条の御息所の生き霊が破れた車に乗って登場し、昔の話や、葵の上に対する恨みつらみなどを語る。御息所の生き霊を祓うために、横川の小聖が呼ばれ、小聖は懸命に祈祷をする。鬼女と化した御息所はこれに抗おうとするが、ついに退散する。
3)旅先で妻「葵」の入院の知らせを受けた夫「光」は、急きょ病院に駆け付ける。病室では妻がベッドに寝ており、光は看護婦と話をする。看護婦がいうには、毎晩決まって見舞いに女が来るという。その女は、光の昔の恋人、六条康子であった。彼女は葵を苦しめ、光と再び愛し合いたいという。そのうちに六条康子は光を自分の幻想の世界へ連れ込むが、いつの間にか康子は消え、光は一人病室に残っている。病室の電話機から康子に電話をすると、彼女は今まで眠っており、病院になど行っていないという。その時廊下から、康子の声が光を呼ぶ。その声につられて光は病室を去り、残された葵は死ぬ。
どの作品を見ても、源氏の君/光の妻である葵に嫉妬した六条の御息所が生き霊となって葵を苦しめるという大筋は同じである。だが、結末や、御息所の描かれ方にはそれぞれ違いが見られる。1)と3)では、葵の上の死がはっきりと描かれているのに対し、2)では葵の上は実際の役者としては登場せず、実質的な主人公はあくまで御息所となっている。また、その御息所の描かれ方を見てみると、
1)自分の生き霊が物怪となり葵の上を苦しめていることの自覚はなかったが、人の噂や衣の香りによってだんだん気付きはじめると、その事実に苦悩する。
2)はじめは昔の話や恨み言を語っていたものの、聖人である横川の小聖と対峙し、ついには鬼女となる。だが、最後には小聖の祈祷により退散する。霊としてのみ描かれ、人間としての御息所は登場しない。
3)葵の病室を生き霊となって訪れ、彼女を苦しめる。そして、見舞いにきていた光を誘惑し、幻影を見せ、元のようになりたいとすがる。人間としての六条康子は自宅で眠っていたが、生き霊六条康子は光を病室からおびき出し、そして葵は死ぬ。
こうして比較してみると、能の「葵上」2作品では、六条の描かれ方が「生き霊」メインであることが伺える。オリジナルでは、生き霊となり物怪となった六条の具体的な姿はほとんど描かれておらず、むしろ人間としての六条の苦悩や変化に重点が置かれているといえよう。これは、オリジナルをモデルとして創られた「能」という媒体にとって、「人間」ではなく「霊」というものを主人公に据えることがドラマ性をかき立てたためだろうか。「能」になった源氏物語「葵」の主人公が、揃って六条の霊であることが興味深い。
さらにいうならば、これらの能のタイトルが「六条」ではなく「葵上」であることも同じく面白い点である。三島の「葵上」というタイトルは、元々の能「葵上」のそれを引き継いだものと考えられる。ではなぜ、2)はそのタイトルを「六条」ではなく「葵上」としたのであろうか。その理由として考えられるのは、この能が、源氏物語をモデルにしているという、当たり前の事実である。源氏物語の「葵」の巻からストーリーを得た以上、能の主人公が六条の御息所であったとしても、タイトルにはオリジナルの巻と同じように「葵」の名を入れるのが道理なのかもしれない。
ここまで、1)オリジナルの源氏物語「葵」、そして2)能「葵上」、3)三島由紀夫の能楽「葵上」を見てきた。ここからは、これら三つの作品の関係性を考えたい。まず、2)の能は、1)のオリジナルをモデルとして生まれた。これは間違いのないことである。考えたいのは、3)、三島由紀夫の「葵上」の位置である。このレポートの冒頭部分で私は三島の作品をオリジナルにとっての「孫」と称したが、それは正しいのであろうか。つまり、三島由紀夫による能「葵上」が、先行する2作品に対し、
・1)←2)←3)
・1)←2)、 1)←3)
・[1)←2)]←3)
のいずれにあたるのだろうかという問題である。なにやら数学の式のようになってしまったが、
・1)は2)をモデルとし、3)は2)をモデルとする。
・2)と3)はそれぞれに、1)をモデルとする。
・3)は、1)と2)の両作品をモデルとする。
と考えてみた時、どれが最も妥当であろう。三島由紀夫氏本人に聞いてみることはできないが、彼の「葵上」が収められた『三島由紀夫 近代能楽集』に寄せたドナルド・キーン氏のあとがきによれば、三島氏は近代能を書くようになった動機をこう説明している。「『能楽の自由な空間と時間の処理や、あらわな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シテュエーションのほうを現代化したのである』(230頁)」。さらにキーン氏によれば、三島氏は能を近代能に作り替える際、「能のコトバよりも能のココロ」に重点を置き、「ココロ」を守る限りにおいては、台詞や物語の筋を変えることは厭わなかったという。
そうすると、先ほどあげた3通りの3)の位置について、二つ目の案はおのずと消えることになる。なぜなら、元に2)がなければ、3)は生まれなかったと言えるからである。筆者としては、三つ目の案が最も有力だと思われる。確かに三島氏は、既存の能「葵上」に強く影響を受けて自作の近代能「葵上」を完成させた。しかし、2)には出てこないはずの1)のディテールが、3)に使用されている箇所もあるのだ。これは、三島氏が、2)をモデルとしながらも、1)もまた視野に入れていたことになる。
源氏物語のように、その影響を大きく後世に残す作品は、幾重にもモデルテキストとなりうることが分かった。だがその場合、今回例としてあげた3作品のように、一つ一つが直系的につながるのではなく、新たに生まれるテキストは、先行する複数のテキストをモデルにしていると考えられる。三島由紀夫の近代能「葵上」は、源氏物語「葵」の巻、14世紀の能「葵」の双方を親としていたのだろう。
・引用文献
『近代能楽集』。三島由紀夫。新潮社。1968年初版。
・参考文献・ウェブサイト
『源氏物語 巻二』。瀬戸内寂聴訳。講談社。1997年初版。
『花と幽玄の館』より「能楽鑑賞 葵上」。
http://homepage1.nifty.com/HanaYugen/Aoi/
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