雪月花

日本文学の英訳






1 日本文学の海外語訳

我々は、海外で書かれた書物は日本語訳を通じて読むことが多い。映画も芝居も同じだ。翻訳という行為を経て、ひとつの言語は他の言語に置き換えられる。最近では『ハリー・ポッター』や『指輪物語』など、海外の文学作品を翻訳で読むことは、我々の日常にとって自然なこととなっている。「翻訳」という言葉を聞くと、我々は海外のものを日本語にするというイメージが強いかもしれない。
しかし一方で、日本文学もまた外国語に翻訳されて輸出されている。ノーベル賞受賞作家の川端康成や大江健三郎だけでなく、その他の著名な作家たちの代表作は、ほぼ海外に輸出されているといっても過言ではなかろう。人気のある作品となると、翻訳にも複数のバージョンが生まれて来る。日本での例を挙げるならば、先日村上春樹が『ライ麦畑で捕まえて』*1の日本語訳を出版したことが挙げられる。それと同様、ひとつの日本文学作品に対し、外国語訳が同一言語において複数存在するものがある。では、その複数のバージョンの翻訳は、それぞれどういった風に異なるのだろうか。全く同じ翻訳であるのなら、何度も翻訳を重ねる必要は無い。ここでは、夏目漱石『坊ちゃん』*2の冒頭を例に取り、複数存在する英訳版を比較する。




2 夏目漱石『坊ちゃん』の五種類の訳

夏目漱石の代表作のひとつ『坊ちゃん』は、以下の一文から始まる。


・親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。


日本語を母語とする者にとっては、なんということのない文である。この冒頭文は、それぞれ翻訳者の異なる五種類の英訳版では、それぞれ以下のように翻訳されている。


・A great loser have I been ever since a child, having a rash, daring spirit, a spirit I inherited from my ancestors.
 (by Umeji Sasaki, 1922)*3

・Inheriting as I did a stereak of recklessness from my father, I have come off a loser in everything I did since I was a boy.
  (anon.,1939)*4

・From childhood I have suffered because of the reckless nature I inherited from my parents.
  (by Edward Seidensticker, 1956)*5

・Because of an hereditary recklessness, I have been always playng losing game since my childhood.
  (by Yasotaro Mouri, 1963)*6

・Ever since I was a child, my inherent recklessness has brought me nothing but trouble.
  (by Alan Turney,1971)*7

 (以上、翻訳年度順)


まず、大きく分けて、日本人が翻訳したもの、英語の母語話者が翻訳したもののニ種類に分類される。だが、訳文からはその翻訳者の母語から見られる差異は無い。ここで、もう一度原文と照らし合わせてみる。


・A親譲りのB無鉄砲でC子供の時からD損ばかりしている。
(傍線等、筆者による。)


原文を、「親譲り」「無鉄砲」「子供の時から」「損ばかりしている」という4つの部分に分けて考えることで、それぞれの翻訳がそれぞれの部分でどう異なるかを比較していく。




3 英訳の比較

A・「親譲り」


・a spirit I inherited from my ancestors (Sasaki)
・Inheriting as I did a stereak of recklessness from my father (anon.)
・the reckless nature I inherited from my parents (Seidensticker)
・an hereditary recklessness (Mouri)
・my inherent recklessness (Turney)


傍線を付した部分が、各翻訳において「親譲り」に相当する部分である。inherit、hereditary といった表現が多く見られ、それによって「受け継ぐ、遺伝する」といった意味を表している。また、興味深いのは、「親譲り」の「親」は誰なのかを示した場合に、それぞれ想定した「親」が同一ではないことである。ancestors 、father 、parents 、それぞれ直訳すれば「祖先」「父」「両親」である。日本人でも、「親譲り」という表現での「親」は誰なのか、はっきり認識している人は少ないだろう。
国語辞典『大辞泉』によれば、「親譲り」には「親」に関する指定は何も無い。だが、「親」そのものには祖先や発起者の意味も含まれている。「祖先」にまで無鉄砲さの根源を遡るのは行き過ぎで、「無鉄砲さ」=「父」とまで限定するのもいささか抵抗があるとすれば、parents 程度が最も抵抗が無いのかもしれない。



B・「無鉄砲」


・a rash, daring spirit (Sasaki)
・a stereak of recklessness (anon.)
・the reckless nature (Seidensticker)
・hereditary recklessness (Mouri)
・my inherent recklessness (Turney)


傍線を付した部分が、各翻訳において「無鉄砲」に相当する部分である。Umeji Sasaki 氏の翻訳を除けば、残りの翻訳には全て reckless が使用されている。この reckless 、また Umeji Sasaki 氏の翻訳にみられる rash 共に、英和辞典から「無鉄砲」を引けばそこに記されている英単語である。しかし逆に、これらの英単語を引いてもその意味は「向こう見ずな」であり、直接に「無鉄砲」という日本語の表現には行き着かないのが興味深い。この「無鉄砲」という表現の翻訳には定石が存在するのか、大きな違いは見られなかった。
どの訳においても、この「無鉄砲」という言葉は「無鉄砲な性格」として訳されている。しかし、文の構造上、この単語を主人公を表す言葉、つまり「無鉄砲な性格」ではなく「無鉄砲な人」という意味で理解することも可能ではないか。



C・「子供の時から」


・ever since a child (Sasaki)
・since I was a boy (anon.)
・From childhood (Seidensticker)
・since my childhood (Mouri)
・Ever since I was a child (Turney)


傍線を付した部分が、各翻訳において「子供の時から」に相当する部分である。五種類の英訳版の中でただひとつ、「子供」を「 boy 」としたのが、翻訳者不明の訳である。ここで、「子供」という性別を有さない表現に、boy という単語を当てはめてしまって良いのかという疑問がある。
だが、ここで言い添えておきたい事実がひとつある。上記五種類の英訳では、作品名は全てアルファベットの "BOTCHAN" なのだ。この作品名の意味は、それぞれの註において説明されている。つまり、作品名を見ただけでは、一般の英語圏の読者はその意味を理解していないと考えるのが妥当である。これに対し、日本の読者は作品名『坊ちゃん』を目にするだけで、主人公は男性であろうという見当も付けば、その語り口によっても主人公の性別の見当が付く。つまり日本の読者は、冒頭文に出て来る「子供」は「男の子」であることを、作品名の段階で既に知っているのである。それを踏まえて、英訳でも「子供」を「 boy 」とするべきか否か。どちらがより適切であるか、その判断は付けがたいが、あえて「子供」に性別を与え、日本の読者と同じ量の情報を英語版の読者に与えたアイディアは面白い。



D・「損ばかりしている」


・A great loser have I been (Sasaki)
・I have come off a loser in everything I did (anon.)
・I have suffered (Seidensticker)
・I have been always playng losing game (Mouri)
・recklessness has brought me nothing but trouble (Turney)


傍線を付した部分が、原文の「損ばかりしている」に相当する部分である。冒頭の一文を4つの部分に分けて比較してきたが、最も翻訳者によってその訳が大きく異なっていたのは、この「損ばかりしている」の部分であった。まず、それぞれを直訳してみる。


・大いなる敗者だった
・何をやってもだめだった
・苦しんできた
・いつも負けてばかりだった
・面倒なことが起きてばかりだった


原文では、なかなか軽い口調で語られている、この「損ばかり」の内容は、なかなか重大なものばかりである。家のニ階から飛び下りて腰を抜かしたり、ナイフで親指が取れそうなほど自分の手を切ったり、人の家の井戸を埋めて怒られたりといった主人公の行動を見ると、「 I have suffered 」も決して大げさではない。この部分の訳では、「 lose 」という言葉が比較的多いが、同じ言葉を使うからといっても表現まで同じというわけではなく、翻訳者によって表現は異なる。今まで比較してきた3つの部分に加え、最後のこの部分は、使われる言葉も表現の構造も翻訳者によって特に異なっている。



E・助詞の訳し方

冒頭文の各部分における翻訳の違いを比較してきた。では、それぞれの部分をつなぐ助詞は、どう訳されているのか。


・親譲り「の」無鉄砲「で」子供「の」時「から」損ばかりし「て」いる。


上記の助詞のうち、特に各翻訳で違いが見られるのが、「で」である。つまり、


・親譲りの無鉄砲「で」子供の時から損ばかりしている。


と、この一文の構造を「AでBだ」という形に見た時、このAとBの関係性を表すのが、「で」なのである。助詞ついては、それそのものを訳すというよりも、その助詞からどういった前後関係を読み取って翻訳に反映してるかが問題となる。「親譲りの無鉄砲」と、「損ばかり」の関係性にだけ注目し、その部分だけを直訳してみる。


・無鉄砲さを「持っているから」損ばかりだ。(Sasaki)
・無鉄砲さを「受け継いだから」損ばかりだ。(anon.)
・無鉄砲さの「せいで」損ばかりだ。(Seidensticker)
・無鉄砲さの「せいで」損ばかりだ。(Mouri)
・無鉄砲さ「が」損ばかりをもたらした。(Turney)


以上のように、主人公の「無鉄砲」さと「損ばかり」な生い立ちとの関係は、一様ではない。むしろ、原文における「で」が、上記の全ての訳のニュアンスを併せ持っているのだともいえよう。



F・文章の構造

最後に、各翻訳における文章の構造を比較したい。


・1親譲りの2無鉄砲で3子供の時から4損ばかりしている。


原文では、4つの情報が、「1234」の順で提示される。これに対し、英訳版ではどのような順序でそれぞれの情報が提示されるのだろうか。5つの訳文を、提示される情報の順序で表すと、以下のようになる。


・4321(Sasaki)
・1243(anon.)
・3421(Seidensticker)
・1243(Mouri)
・3124(Turney)


原文と全く同じ「1234」型の訳文は無かった。だが、Alan Turney 訳以外の4つの訳では、前後こそ入れ替わるものの、「12」と「34」は何らかの形で隣り合っていることが分かる。つまり、5で触れた


・親譲りの無鉄砲「で」子供の時から損ばかりしている。


という大きな前後関係は活かされていると考えられる。




4 結び

ここまで、夏目漱石『坊ちゃん』の冒頭の一文について、五種類の翻訳を比較してきた。本で読めばたったの一行、声に出してもほんの一息のこの有名な冒頭文は、翻訳者によって姿を変える。しばしば「あいまい」だとされる日本語に馴れていた私は、原文よりも翻訳の方が言葉の意味を詳細に定義していることが興味深かった。それは、「子供」に性別を与えるか否か、「親」とは誰を指すのかについて、それぞれの翻訳者が考えている点だ。また、それが翻訳された時に、翻訳者によってそれぞれの定義が異なっていたことも新鮮だった。
日本を代表する作家の代表作の冒頭文となれば、いい加減な翻訳はなされなかったはずである。それでも、翻訳者ごとに翻訳にここまでの広がりが出るとすると、翻訳という作業は、一体なんなのであろうか。
原書と翻訳との違いは、使用されている言語だけではないようである。言語が異なれば、語彙も当然異なってくる。ぴったりな同義語が存在しない場合や、文の構造が言語間で大きく異なる場合、どう訳すかは翻訳者の腕、否、主観によってくるのだと言えよう。原書は、翻訳者という機械を通して翻訳されるのではない。原書は、個性的なフィルターを持つ翻訳者という人間を通して翻訳されるのだ。翻訳書は、原書から生まれた別の作品であるという見方さえある。
だが、ここで更に興味深いのは、「どれが正しい」だの「間違っている」だのという議論は為されても、その議論に絶対の結論が出され得ないことである。もちろん、明らかな誤訳は指摘されて当然だが、細かい言い回しや解釈には、絶対はない。我々日本人が、源氏物語の現代語訳について討論しているところを想像すればいい。
翻訳者とは、翻訳を仕事とする人間である。しかし当然の事ながら、翻訳者は翻訳に取りかかる前には原書を読むのだ。つまり、読者の段階を経て翻訳に至るのである。一つの作品を読んだ時、それぞれの読者がそれぞれの感想を持つ。翻訳者は自らの作品に対する感情を翻訳に反映すべきではない。とはいえ、むしろ一般の読者よりも真剣に一語一語に向かい合い、自分なりの解釈を組み立てるのだろうということは容易に想像できる。
今回五つの英訳を比較することで、日本語のどのような点が、翻訳者を立ち止まって考えさせるのかが僅かながら見えて来た。そして、翻訳者も読者なのであるという事実をそこに見いだせたことこそ、今後翻訳書を読む上での、私の新たな視点となるだろう。










注解・引用文献


*1 J.D.サリンジャーの作品、"The Catcher in the Rye"(1951)は、野崎孝氏の翻訳により、『ライ麦畑でつかまえて』という題名で日本に紹介され(白水社、1964)、大ベストセラーとなった。同じ作品を、2003年に作家村上春樹氏が翻訳し、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)として発表したことが話題となった。
*2 『坊ちゃん』 夏目漱石(1867-1916、小説家、英文学者)の代表作 のひとつ。1906年発表。四国の学校に赴任した若い教師による、勧善懲悪の物語。
*3 Soseki Natsume, "BOTCHAN", translated by Umeji Sasaki, Charles E. Tuttle Co.,Inc.,(Rutland, Vermont & Tokyo, Japan, 1968), p.13.
*4 Anon., "Introduction to Contemporary Japanese Literature", Kokusai Bunka Shinkokai, Japan,1939, p.6,(翻訳者不明).
*5 Donald Keene edit., "Modern Japanese Literature -from 1868 to present day",("BOTCHAN",translated by Edward Seidensticker), Charles E. Tuttle Co., Inc.,(Rutland, Vermont & Tokyo, Japan, 1957), p.124.
*6 夏目漱石著、毛利八十太郎訳『BOTCHAN 英譯坊ちゃん』(金正堂、1963年)、1頁。
*7 Soseki Natsume, "BOTCHAN", translated by Alan Turney, Kodansha International Ltd., New York & Tokyo, 1972, p.9.



参考文献

・イルメラ・日地谷・キルシュネライト著『日本文学の翻訳は不可能か』、講談社『群像』、1994年11月号、182頁-190頁。
・E・サイデンステッカー、那須聖共著『日本語らしい表現から英語らしい表現へ』、培風館、1963年。
・E・サイデンステッカー著、安西徹雄訳『日本との50年戦争』、朝日新聞社、1994年。
・斉藤襄治著『日本の心を英語で 増補改訂版』、文化書房博文社、1989年。
・斉藤孝著『学術論文の技法 第2版』、日本エディター・スクール出版部、1998年。
・ドナルド・キーン著『日本文学に特有のテーマ』、講談社『群像』1994年11月号、168頁ー180頁。
・夏目漱石著、小林秀雄編集『現代日本文学館 4 夏目漱石1』、文藝春秋、1966年。
・マーク・ピーターセン著『英語で発見した日本の文学 -古き良き日本語と新しく面白い日本語ー 』、光文社、2001年。
・松村明監修『大辞泉』、小学館、1995年。









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