雪月花

春の夕暮れ




 暖かい春の夕暮れは苦手だ。
 今まで堅く凍っていた亡骸が、許されたようにだらしなく、溶けて滲んで臭いを放つ。

 私に逃げ場があるはずもないから、諦めることもできず、かといって泣いてしまうほどでもなく、過去をあらためて愛し直そうとさえ、してしまう。

 目を閉じて、過去の出来事の放つ臭いに体を、犯されるままにしている。
 次に目を開けたとき、死を明日にも控えた老婆になっていたら、などという馬鹿げた賭け事をしてみるのだが、真剣にそのありもしない可能性にすがって目を開けても私はやはり、それなりに若い。そしてまた混乱を続ける。

 どうすればいいのだろう。
 どうしたいのだろう。
 どうすれば、よかった。

 人々は皆、どうやってこの過去の臭いと渡り合って毎日を過ごしているのだろう。

 どこかに強引な人がいてくれたらいいのだけれど。そう思ってから気付くのは、それこそが私の繰り返してきた数々の事件に共通するたったひとつの鍵だという事実。強引な誰かを造り上げ、そしてしばらく自分を任せ、飽いたところで歩き去る。だから私の過去はどれ一つをとってみても、完全には死んでいないのだ。確実に、息の根を止めるべきだった。
 あのときやあのとき、私が最後にいい人でいたのは、私がいい人だからという理由では決して無くて、いつかもう一度泣きつける、非常食を自分に残しておくような意味合いだったように思われる。何度振り返ろうと、過去がきちんと死んでくれるわけでも無いのに、私は凝りもせずにこんな行為を繰り返している。過去からも未来からも放り出された今、私の脚は歩き方を忘れた。

 ほとんど愛していなかった人もいる。

 私は一体、何が欲しかったのだろう。

 ただ一人との関係を除けば、私はいつも投げやりだった。丁寧に始まった関係などなかった。私の中の何かが、吹っ切れたり壊れたりするのを願いながら、飛び込んでは任せ、任せては物足りずに逃げ出した。悪いことをしたと思う。悪いことをしたと思う。怖かったのだ。本意で無いことを心のどこかで知っていた。そしていつも冷たい目で、自分を眺めていた。今度はいつまで続けるの、と。

 たとえ守られなくても、そこに約束があることが幸せだった。約束というもの自体が、嬉しくて安心だった。けれど今は。実体の無い約束の重みに耐えきれずに疲れ果てた。そういうことなのだろう。私はなにも冒険家とか、挑戦者とか、そんなんじゃなくて、もっともっとありきたりなものが欲しかった。ただ傍に居て、触れたり見たり笑ったりできて、先のことなど分からないけれど無責任に夢を語って心配など知らぬ顔で、今を安心して生きられればそれで良かった。首を傾ければ肩が差し出されている。それだけで良かった。裏を返せば、いくら愛していようとも、触れられない体に意味は無かった。だからといって、触れられるだけの体に触れてみても、そこにもやはり意味は無かった。私はきっと、いちばん欲しいものにぎりぎりまで近付いていたのだと思う。

 私にはもう、書くべきことが何も無い。

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