記憶の淵に沈みゆくもの

記憶の淵に沈みゆくもの

||75||<十二国>

||75|| 年をとっただけの子供を大人と言うのか。

ああ、主上は今、楽俊殿と一緒におられるのか。
王気の微妙な変化を感じ取って、景麒はため息をついた。
雁国から主上の命の恩人(と、主上が仰っておられた)である楽俊殿が
大学編入という形で慶に来てから、どのくらい経つだろう。
主上の言うところの「あるばいと」というものを
楽俊殿は少し前から始めている。
いつかは役人になる人材に少しでも早く仕事になれてもらうために、という
主上のあの言葉を聞いたときには
なんと素晴らしい発想をされるのだろうと感動したのに。
何故だろう。
いつからかこの王気に気付いてからは。
なんだかもやもやとしたものを感じている。
自分と一緒にいるときにはない、この暖かさ。
それが自分の心に小さなさざ波を起こす。
そんなことを考えながら、書類を抱えなおして回廊を歩く。
ほんの少しだけ木々の葉を揺らした風が、なんだかとても冷たく感じた。

雲海に面した四阿の一つ。
その明るい日差しの中で、
主上が優しい笑みを浮かべているのがまず目に入った。
視線の先にはネズミの姿の楽俊殿がいる。
小さな手の動き、僅かに見えるしっぽの先の動きからして
何かを説明しているようだ。
主上の唇がなにかを形作った。
ああ、なにかを仰るつもりらしい、と思ったが
その言葉を聞きたくない、とも同時に景麒は思った。
だから。

「主上!」

思いも寄らぬ大きな声に、陽子はびくりと身を震わせた。
楽俊も首を傾げてその大きな瞳を景麒に向ける。
「ああ、景台輔」
小さな体で跪礼をとるその姿にちらりと視線を向けて
景麒はとがめるような眼差しを主に向けた。
「なんだ? どうした、機嫌が悪そうだな」
不思議そうに聞いてくる陽子に、
景麒は機嫌の悪さをむき出しにした声で答えた。
「どうしたではございません。
 どうしてこんなところで政務をおとりになっておられる?
 大事な書類を紛失してしまう可能性を考えておられないのか」
珍しく感情もあらわな景麒に驚いた顔の陽子。
その表情を見て、景麒は僅かにたじろいだ。
が、言葉は止まらない。
「台輔、実は……」
「あまり政務をないがしろになされるな。
 主上が王らしくいてくださらなければ、民も官も主上を侮りましょう。
 もうすこし王の自覚をお持ち下さい」
何かを言いかけた楽俊の言葉を押しつぶすように
言葉を重ねた景麒に対して、だんだんと陽子の表情が険しくなってきた。
言い過ぎた、と思ったときにはもう遅い。
鮮やかな翠の瞳がすい、と細められた。
「そうか。
 おまえは私が王の自覚を持っていないと言いたいのだな」
低い低い陽子の声。
主上、と袖を引く楽俊の姿。
それを視界に捉えた景麒の気持ちがさらに冷える。
無表情の景麒に、陽子は立ち上がった。
袖を引っ張って気持ちを抑えようとする楽俊に
柔らかな視線を僅かに向けて、返す瞳で鋭い眼差しを景麒に。
「おまえの言い分はよく分かった。
 私を王宮に捕らえておきたいということだな。
 今日は気持ちの良い天気だからと浩翰が外を勧めてくれたのだが
 おまえはそれすら王らしからぬ振る舞いと思っているようだ。
 よく分かった」
書類を押さえるための置物をどかし、書類を束ね。
慌てて書類を受け取った楽俊の手を引いて。
「おまえは私にはその慈愛を向けてはくれないのだね」
そう言い残して。
陽子は足早に景麒の脇を通り過ぎていった。
ぺこり、と頭を下げて、楽俊がその後を追う。
陽子の起こした風が景麒の髪を揺らしていった。

こんなはずでは、と景麒は思う。
なぜ主上はあんなにも気分を害されたのだろう。
いや、違う。
なぜ自分はこんなにまで気持ちを揺らがせたのだろう。
陽子に渡す筈だった書類を未だ抱えたまま、景麒は陽子の後を追う。
そうではない、と伝えなければ。
あんなことを言うつもりはなかったのだと。
だが、そうでなければ何を言うつもりだったのか。
そう聞かれたら、自分はどう答えればよいのか。
分からなかった。
自分は、なぜ……。

「ようこぉ……」
背中に怒りを滲ませながら先を行く陽子に
楽俊は何度も「主上」と呼びかけた。
だが、振り向いてくれる気配はない。
それどころか、怒りがさらに増した気がしたので
仕方なく名前で小さく呼んでみた。
ここは王宮内。しかも職務の最中で。
本来はこんなことはないのだが、これはもう非常手段だ。
それを感じ取ってくれたのか、
怖いまでの怒りの気配がなりを潜めた。
歩く速度がゆっくりになり、楽俊に並び、そして。
ほう、と大きなため息が陽子の口から漏れた。
「……なんであんなことを景麒は言い出したんだろう」
かなり傷ついているのが分かるその弱々しい声に、
楽俊は見上げる形で陽子の顔をのぞき込んだ。
「いつもはあんな方ではないだろう?」
うん、と小さく頷くその仕草は、まるで幼い子どものよう。
あやすようにしっぽでその手を軽く叩いて。
「じゃあ、どうしてと聞いてみればいい。
 おまえの半身は、それに答えないことはないだろう?」
もう一度、うん、と小さく動いた頭。
それを見てふっくりと笑って、楽俊は視線を後方に投げる。
はるか後方。
金色が止まっているのが見える。
ほれ、とまだ少し哀しげな陽子を促して。
「行ってこい。
 そして、聞いてこい。
 おいらは執務室で書類をまとめているから」

呆然と立ちつくしている景麒の前にたどり着いた陽子は
どう声を掛けてよいのか分からなかった。
だから、景麒が膝をついてくれたときには、正直ほっとした。
「さきほどは……申し訳、ありません……でした……」
深く項垂れる景麒の姿を見て、陽子は僅かに息を吐く。
どうやらなにかを反省しているようだ。
「なぜ?」
秘やかな声で聞いてみる。
この僕は、自分の気持ちを言葉に表すのが得意ではない。
聞き出したいと思うときには根気よく。
それが鉄則だ。
急いではいけない。
静かに立ち上がるのを促して、
俯いたままの顔をのぞき込んで。
もう一度、視線だけで問いかけてみる。
おまえはいったいどうしたのだ、と。
「私……は……」
絞り出すような声が僅かに漏れてきた。
「あんなこと、を、言うつもりは……なかった、のです……」
うん、と頷いて、静かに先を促す。
ゆっくりゆっくり時間を掛けて、景麒は心を言葉にした。
自分でもなぜあんなことを言ったのかわからないのだということ。
ただ、陽子の王気の変化が気になったのだと。
自分と一緒にいるときと、楽俊と一緒にいるときの王気は
僅かながら何かが違うのだと。
それが、とても不安でいらだっていたのだ、と。
それらを最後まで聞いて、陽子は呆れてしまった。
要は、やきもちを焼かれていたのだ。
それに気付いたら思わず笑いがこみ上げてしまった。
「主上?」
くすくすとついには漏れだした笑いに、
ようやく顔を上げた景麒が、不審そうに首を傾げる。
その頬に手を伸ばして、つんとつついてみる。
景麒の眉間に少しだけ皺が寄った。
それすら、なんだか笑えてしまう。
「おまえ……なんだか小さな子どもみたいだ」
さらに眉間の皺が増えた。
「私を子ども扱いされるおつもりか」
不機嫌な声。
だが、気付いてしまった。
少しだけ、喜びが混じっているのを。
「私はこれでも成獣しております」
「年をとっただけの子供を大人と言うのか」
笑いが止まらない。
もう一度、表情が少しだけ和らいでいる景麒の頬をつついて。
「おまえ……やきもちを焼くならもう少しわかりやすくしろ?」

盛大に笑い出した陽子を前にして
景麒は少しだけ自分の気持ちが分かった気がした。
そうか、あの感情を「やきもち」というのか。
そう、心の中でひとりごちる。
確かに自分は楽俊殿に笑みを向ける主上を見ると落ち着かなくなったし、
楽しげに話している姿を見ると不安になった。
ここから居なくなってしまうのでは、という不安。
楽俊殿に連れて行かれてしまうのではないか、という恐れ。
それは、母を奪われる子どもの心境と確かに似ている。
それに気付いて、やはり少しだけ。
しかし。
……そうか、あの感情を「やきもち」というのか。
景麒はもう一度、心の中で呟いた。

優しい風が二人の間を通り抜ける。
もう、景麒は冷たいとは思わなかった。

end




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寝る直前に思いついた話。
というか……だからかもしれないが、夢に出てきた。
王を思う麒麟はきっと、母を恋しがる子どものようなのでは、という
柚木崎的解釈で。
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