Lily of the valley

わかりあえないとき、 その後

わかりあえないとき、 その後
このページのエッセイ欄に以前に、わかりあえないとき、
という題名で書いた。
 その友達とのその後の出来事である。

半年近くがたっていろいろなことがあった。
わたしは、悔しい思いやわりきれないことがいろいろつづいたため、
とうとう決心をして、
自分の本当にしたいレッスン、本当に必要と思われるものに踏み出した。

やはり、あらためてもう一度、体の作り方を見直したかった。バレエも、
本当に好きなスタイル(ロシア)にすこしでも触れたかった。そして、
一人で踊る舞台にも挑戦した。
結果、もっとはやくそうすべきだった、と思ったことも多々
あったし、今だからできたと思ったこともある。

自分の先生は自分でもなければならないから、
かしこくみ極めなければいけないときがあったのだ。
それが、以前に割り切れない気持ちを話して、
分かってもらえなかったというようなことがあったのだ。
 たしかに、私が大人でない部分もあった。
彼女はとても、大人なのだ。

今は、そのひっかかることがいろいろあったおかげで、
本当にやりたいことに一歩ふみだせたので、とても、
感謝している。もしも、あまりになにもかも、順調であったなら、
きっと、気づかなかった。ほんとうはもっとじっくり
取り組みたいことがあることに。

一歩踏み出したからといって、天国なわけではない。
結局なにをするにしても、自分しだいなのだ。
新しいところにいって、慣れなかったり、肩身のせまい
思いをしたり、いやみを言われたり、普通に考えたら、
つらいことのほうが多い。けれども、それでも、たとえ、
自分に教えてもらえなくても、教わりたいことが、
掴み取りたいことが、あったのだ。

とても、きれいなひと、よく、訓練されて美しくなった人
訓練によって、動けるようになったひと、を目に焼きつける
必要もあった。カンや運動神経や条件のよさできれいに見える人
ではなく。
だってそれらの人はほとんどまねできないではないか。

そして、そうやって学んでいくうちに自分のいたらなさや、

精神的に子供であったことなどに気がついた。
貴重な半年だったと思う。枠からはみ出すのには
勇気がいったけれど。

話が前後してしまったが、友達にもいろいろあった。
私とそのことについて話したころに彼女がもっていた
期待は裏切られた。まさか、そうなるとは思っていなかったようだ。 
そして、今も、思ったとおりにはならない。
まるで、それまでと、状況が変わってしまった。

そうなってしまって、彼女も、いろいろ、考えたり踏み出したり
しなくてはならなくなってしまった。
そうしていま、私たちはあることの見解については
一致するようになったのだ。

たとえ、わかりあえなくても、時が、そして、経験が
解決してくれることもあるのだな、と思い、
そういえば、わかりあえない、と書いたことが
たった半年で変わってしまったことに感慨を覚えるのだった。

多分、熱い私に対して、彼女はどちらかというと、クールなほうだから、
かちんとくることも、うん、といえない部分も、
今でもあるかもしれない。
 けれども、私たちはお互いのそれぞれの経験によって、
歩み寄ることとなった。

友達や他人は完全には理解しあえなかったとしても、
 関係をつづけることはすばらしいことなのかもしれない。
もしも、あの時きってしまっていたら、お互いに助け合うことは
きっとなかったから。

彼女をのこころを踏みつけないように気をつけながら、
これからも、大切にしていきたいと思った。
そして、今わかってもらえなくても、やきもきするのはやめようと思った。

きっと時があるのだから。
わかりあうのにも、愛し合うのにも、またはなれているのにも。



© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: