yuuの一人芝居

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戯曲 「銀杏繁れる木の下で」を書いた後の心残り


戯曲 「銀杏繁れる木の下で」この作品は六十歳で書く事を辞めていたが、十何年かぶりに書くことになった。今田が原作を書き吉馴が脚色をした。書いていて、若い頃の事を思いだしていた。浅草のストリップ小屋の喜劇役者の方方に舞台の面白さを教えられ、新橋演舞場では、新派の北条秀司先生、台本を書いておられた池波正太郎先生に教えていただいたこと、また、岡山県下の多くの文学を志していた人たちとの交流の事、特に『新日本文学賞』を受賞したが断らせた大江壮さん、「女流文学賞」をとりながら作家になにらなかった梅内女史の事は心に残っている。小説を書いていた私を倉敷で演劇の世界に引っ張り込んでくれた、倉敷演劇研究会の土倉一馬さん、とその仲間たちから沢山の思い出を頂いた事。未熟な台本を公演してくれた事。それらは走馬灯のをように心の中で再現されていた。若かったころの夢物語である。
後に日本一の演出家、鈴木忠志さんにも手を差し伸べていただき、全国の演劇人たちと「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」を立ち上げる一役を担い、鈴木メソッド演劇の真髄を魅せられた。映画の世界では表現社の篠田正浩監督、鯉渕優さん、永井正夫さんらのプロデュウサー、岩下志麻さん他たくんさんの俳優さんと何作も仕事が出来たことも記憶を新たにした。それらの人との関わりで多くの思い出を貰った。そんなことを考えていたら書き上がっていた。子供たちと青年たちに支えられながら劇団滑稽座は存在した。子供達も育ち青年たちも成長していった。それも心に残る残照がある。私の我儘といたらなさのために傷を与えていたとしたらお詫びをするしかない。この作品は銀杏と言う自然の総体に対して人間の心の動きを追ってみた。私は無神論者で運命論者ではないが、何か不思議なものに導かれていると感じている。がむしゃらに走り抜けたが、年を経て気づくことが多い。この作品を手を差し伸べてくださった人達と支えてくれた人達、私と出会った総ての人達に捧げたい。不遜であるが…。                                      
吉馴   悠                              


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