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今日は東京はよいお天気。クリニックのお引越しです。旧クリニックと新クリニックは場所は同じ町内で、すごく近いのですが大型機器の移動や搬入などがあるので大きな作業です。お天気で感謝します。11月2日に簡単なお披露目をして5日から通常の診療開始です。私も主人(院長)と一緒に診療にでます。といっても、守備範囲はひろくいきたいので主流医学以外の引き出しをうまく使っていきたいと思っています。また、何より、私の体験から信じるところの意識の変容が変化の前にある、ということそれを実感していただくための触媒でありたいと思います。皆が自分自身のなかにある「大いなる恵み」に気がついて人は皆、個性的であっても上下はなく素晴らしい存在だと感じられるよう心を配っていたいと思います。では、行って参ります!皆様もよい1日を~
2008年10月31日
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以前の私は何でも1人で出来ます、大丈夫です、そんな感じでいることが多くて結局孤軍奮闘。できちゃうんだけど、自分で抱えておいて大変になってでも大変だから手伝ってと言いにくくてとっても扱いにくい素因をもっていました。きっと周囲の人も手伝いにくかっただろうし私自身も手伝ってもらってもなんだかホッとできない、そんな感じでした。そういう側面、誰でも多少あるかと思います。今では、だいぶその素因に気がついているので自分から大変そうなことは抱え込まないようにシェアしていくようにしています。そして、身体もエネルギー体も心もメンテナンスをしています。私が診療で、お話やマッサージなどで心や身体をほぐすお手伝いをしていて以前の私みたいと感じることがあります。皆さん、非常に優秀でやりくり上手、時間管理もうまいしマイペースも保っていて本人的には「まったく問題ありません。もっとできます。」そんな感じなんですよね。でも、お身体はそうではありません。この世をしっかり生ききるための大事な乗り物♪心臓が動いて、息ができて、排泄ができてようやく私たちは生活できるのです。でも普段私たちはそんなことに注意を払う時間がありません。そういうことが大切だってほとんど教わらず生きてきています。身体が当たり前に動いてくれて当然、そんな扱いです。お風呂で身体は洗ってもエネルギー体は手付かずだし身体の中(内臓)や筋肉や脳にも感謝の一言もないのです。そして、不具合が生じるとねぎらう言葉もなく、具合が悪くなったことをあたかも身体のせいであるかのように扱います。日頃から、身体をしなやかにすこやかにこの世界を楽しんで生きる為のとても大事なパートナーとして扱いましょう。そのために、マッサージに行くもよし氣功を習うもよしボデイワークを受けるもよし操体法を取り入れるもよし食事をかんがえるもよし呼吸を深くするもよしダンスをするもよし運動をするもよし泳ぎにいくもよし。自然療法もいいですよ。普段から身体と仲良く、コミュニケーションをとっていれば少しの変化に気がつくようになるし自分の弱いところも気がつきます。そして、病気や不具合を自分の敵扱いしないで大事なサインを出してくれたと感謝することができるでしょう。自分で自分の身体をメンテナンスすることは当然です。自分の家の庭(自分)は自分で手入れしますよね。管理人や庭師(医療者)を頼むこともありますが毎日ではありません。庭師や管理人はあなたの意見を聞くはずです、「どうしますか?」と。どんな庭にしたいのかどんな花や実を収穫したいのか自分で決めるのです。健康を維持して長く健康でありたいのなら自分の庭は自分が普段は責任を持つのです。庭師さん、あなたの好きなようにしてください、と言ってはいけないのです。アドバイスは取り入れますがこうありたい、という自分のビジョンは自分で描きましょう。大事なことです。
2008年10月30日
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うーーん、めずらしくそのまんまの言葉ですが本当の自分(Trueself・真我でもハイヤーセルフでもお好きな言葉で♪)はもっともっと話しかけ、頼まれごとをしてもらっていいそうです。現実的な問題を訴えて「お願いします」でももちろんいいし「今日これこれこういうことがあって怒り心頭だった」とか「こういうことがあって傷ついたよー」とかグチでも相談でもなんでもいいので伝えてもっともっと気分をよくするためにどんどん活用して、と。なので、今まで以上に自分の気持ちをぶっちゃけて解放する手段にカウンセラー役をお願いすることにします。言っても言わなくても実は全部お見通しなのですから私の精神衛生上、活用させていただきます!
2008年10月29日
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陰陽のシンボルは二つの異なるバイブレーションが調和しているシンボル。陰と陽。男性性と女性性。天と地。人と霊。プラスとマイナス。私たちの中にはこれらが共に存在していて、バランスをとって螺旋状に上昇していきます。1人の中にどちらも共にあるのです。女性にも男性性と女性性があるし男性にも男性性と女性性があります。人(身体意識)としての側面と、霊(魂意識)としての側面も。今までは、どちらかに偏ってその立場でものを見て考えてきました。偏在すると螺旋はくずれ、バランスを保つのが困難になります。そして、それが身体症状に現れることもあります。私たちは、どちらか片方に偏在する生き方や考え方はもう充分経験しました。それを貴重なデータとして、これからは二元性を超越して上から陰陽を眺めるのです。異なる2つのバイブレーションを1人の中でバランスをとっていく、ということです。誰かに許可を求めたり、役割分担をしなくても自分1人でも完結できるのです。その上で、ともに歩く仲間としてお互いを尊重し合い、認めていけます。私自身へのエールでした♪
2008年10月28日
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重い荷物をもっている場合その荷物の上にハエがとまっても気がつかないけれど手の平に羽根を持っている場合、その上にハエがとまったらその重みのわずかな違いに気がつくことがあります。わずかな力で動作をする場合脳が変化を受け取りやすいというわけです。この仕組みを運動に応用したのが「フェルデンクライス」といわれる一連の運動統合システムです。故モーシェ・フェルデンクライスが開発しました。このわずかな動きが脳に変化を感知させ、エネルギー効率のよい方法を脳が上書き選択するということは非常におもしろい、と思うんです。ホメオパシーでも分子は入らないほど希釈されると情報が効果的に発動する、という考え方と似ている気がするし。私には、わずかな動きが大きな現象への1歩という見方が今の私たちや地球と重なります。1人1人のわずかな意識の変化が、わずかな心の持ち様が、見えない世界もふくめていま、全体で統合されている最中で新しくすべてに効率のよいシステムになろうとしているように感じられて少し、その中にいる自分を認めてあげたくなりました。そして、毎日目立たず、懸命に眼をひらいて、眠りに落ちていく同胞を慈しみながらも本当のじぶんを生きているどこかのあなたへも私のこの感謝が伝わりますように。
2008年10月27日
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1年生の下の子が1カ月前から一輪車を練習しています。まだ自転車は補助ありなのに!学校の上級生(3年生)に一輪車ですいすい走る女の子がいてその姿にあこがれてはじめたみたい。一輪車を買って、と強く主張。3000円くらいのものでしたが、毎日練習するとは正直思えませんでした。でも、彼女の中で、あこがれの先輩のようにああいう風にスイスイ乗りたい、という強い願望があって、自分もできるんだという周囲の後押しもあって、自分がスイスイ乗っていることを詳細にイメージできて毎日練習して少しずつ上達するのが楽しくてという好連鎖が。先ほど見ていたら何にもつかまらず、背筋をスッと伸ばし円を描いて乗れていました。アッパレ!「◎△ちゃんはちょっとだけできるんだよ。**子は1年生では一番乗れてる!」「乗れるときは、すーってすっごくいい気持ち!」とアピールしていました。笑この自分を疑うことのない感じ、見習わせていただきます・・・・アメリカの農場で生まれた少年がサンショウウオを飼っていて、尻尾が切られても、自然に生えてくることを体験で知っていました。その少年が5歳くらいの時、農場の器械にはさまれて片足の大腿以下を切断してしまう事故にあいました。少年は飼っていたサンショウウオの尾再生が自分にも適応されると露にも疑わず、実際、切断部から足がはえてきた、という実話。(これは映像で撮られているそうですが、放映はされていないそうです。)人間の本来もつ力はこれほどまでに自然で限界がないまさに「天の力」。きっとできない、こんなのもう無理だ、私はダメ。そういうことは自分で作り上げている限界。言葉(や思考)には大きなエネルギーがあるのだから、積極的に使っていこう、そう思います。
2008年10月26日
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自分のめんどうをしっりみた上で他者へも協力をおしまない、という態度は心のあり方を善き方向にベクトルさせておく大事な態度だと思っています。自分が中心で世界はまわっているのですが多くの場合、自分の視線だけで世界を眺めているのです。そして、それに気がつかず、そのあり方が通常だと思ってしまっています。D・E・ハーデイングの著書「心眼を得る」の中の新しい見方を身につける簡単な訓練をご紹介します。自分のあたまがなくなったと想像してみます。そして、周囲を見渡してみる。その頭のない状態で。目でみるのではなく、かしこい頭脳で解析するのでもなく、見ている世界で世界を見る!この練習は、通常の「私は意識をもっている」というあり方から、「意識が存在する」というあり方にシフトします。「全体的なマインド」から物事を眺める時、「私」は「世界」に一体化して、それでも世界の個々を識別できているという新しい目線を得ています。その状態で周囲を見続けようと決め、軽く練習していくとそのときの視点が「私」なのか「全体的なマインド」なのか自分で気がつくようになっていきます。「全体的なマインド」でみることで恐怖や不安や心配を脱ぎ捨てることができるし、「闘え、逃げろ」というアドレナリン・モードをトーンダウンすることができます。自分で視点を変えることが自分の態度を変え、自分に起こる出来事をかえることになるわけです。誰も自分の代わりに見てくれないし、代わりに見ることもできないし、自分で見ることしかできないのですから自分のあり方が、全体的なマインドであることは誰の為でもなく自分のためであり、他者への協力にもなると思っています。
2008年10月25日
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アメリカの精神医学者、ヘンリー・リード博士の書いたものを読んでいたら面白い視点を発見。リード博士は、エドガー・ケイシーを研究していたり大学でユング心理学のコースを教えていたりという経歴の精神医学の研究者です。直観について、私たちは皆人生のあちこちで、大小あってもなんとなく経験したこともあるし(カンと呼んで)軽視しているのかも、と考えさせられた内容でした。リード博士は直観を超感覚認知(いわゆるESP)に劣る未熟なものとは思っておらず、むしろESPに「プラス」されたものと見なしています。故エドガー・ケイシーも同様で、他のいわゆる超能力を開発するより直観を磨くことをよいと勧めていた、というのです。ケイシーはそれを「より高度な進歩」と呼んでいて、「直観は全人的な知性(しばしば静かで内なる声という言葉であらわされている)であり、事実だけでなく、可能性や個人的価値、必要性をまとめ、何らかの機会にむかって背中を押したり、有用、実用的、また、確実な結果を導き出すもの」としています。つまり、いわゆる「超能力」が単なる事実であるのに対して直観は事実から見てどこにいくのか、何をすべきかを探り出す・・・・リード博士は次のような例え話を挙げています。例えば、私がある概念を理解しようとして、書棚の前に立っている。その中の1冊には私にとって有用な情報が書かれている。純粋なESPは、例えば透視ができたならそれぞれの本の内容を見ることができるだろう。そうしてはじめてどの本が役にたつかわかるだろう。一方、直観は、特定の1冊を選び、その本を「適当に」拾い読みしてそのうちに何かがパッとひらめくような1節にぶつかるだろう。直観は私をまさしく必要なところへ導いてくれるのだ。直観自体が、目的をもっている。そのとき理由ははっきりしないことでも、でまかせにおこるものではないそういうことなのだと思います。直観には制約はなく、ただその知識を使うようにと促されているからこそ、直観なんだ、と妙に腑に落ちました。直観を認識して発展させるために、何かを知りたいと思う気持ち、または、強く知る必要性が基礎にあることが多くそれが原動力の1つになって直観を刺激していくのかもしれない!リード博士によると、手始めに直観を発展させるのには目前にある問題をよく調べてYES・NOで答えられる範囲までに質問にねりあげ静かな時間をもつことが有用なようです。静かな時間を持つには私の日常はあまりに早すぎますが少し静寂な時間をもつのは自分に許可をだすことになるのでやはり大切なんですね。東京の今日のような雨の日はすこしはできそうです。
2008年10月24日
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罪悪感を手放すことを希望しながらかなり長い間そうできないでいたのは罪悪感が重たいからとか難しいことだからとか大変だからということではありません!私のケースでは、私が「罪悪感」に非常にこだわっていたからだからだと今は思います。「イヤだ、イヤだ、あっちにいって。罪悪感はまだ私にあるじゃない」そう思っているのは欲しい・欲しい・まだまだ罪悪感をくださいなそう宇宙に言っていることと同じなんです。だから、罪悪感を感じていて以前の私のように手放すことがなかなかできない、と感じている人がいればフラワーエッセンスをとったりカウンセリングを受けたりするのはそこそこにしてもポイントは「ただただ罪悪感をもつ自分も、その出来事も全部受け止め引き受けること」判断なく、私のものです、と宣言することで実は罪悪感を統合したことになるのです。手放そうと必死になるより(これではまた自分に出来事として罪悪感を期待しています)とても簡単にできます。有効です。(経験者は語る)それを追記させていただきます。
2008年10月23日
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10月23日、今日は大事な記念日です。1年前の10月23日の夜、私は長い間の罪悪感を手放すことができた、そう確認できた、私にとってとても嬉しい日。長い間、私のテーマにいつもあがってくるのは「罪悪感」でした。「罪深い」っていまどき使わない言葉だけど何とはないことに罪悪感を感じていた私。勿論、いつもいつもそう感じているわけじゃないですが何か自分自身を考えるようなことに、必ずからんでくる感情でした。子供を0歳から保育園に入れて働くことの罪悪感。(よく見学して吟味して最高の保育園に入ったのに)家事が満足でないことへの罪悪感(別に誰も不満や不平をもっているわけじゃないのに)仕事がふがいないことに対する罪悪感などなど挙げればたくさん。自分がよき道の上にいても、罪悪感をしょって歩いていました。今、感じるには、大きな大きな十字架を背負って一人私は罪を受けて当たり前の存在、そう深いところで信じていた、そんな風にイメージできます。だから、幸福に普通に生きていてもどことなくつらかったんです。あるときから、本当の自分を知り統合していくため、罪悪感を強烈にテーマに感じた私は多くのことを試みました。フラワーエッセンスのなかの罪悪感を解消する助けになるものは1年くらい飲んだしホメオパシーもセルフヒーリングも。罪悪感はもう解消した、と思っていてもまたいつの間にかあって、やる気がうせたりしたこともありました。とにかく、罪悪感は自己成長のために全く意味がないし足踏みさせてしまう、そうわかっていても感じていたんです。・・・・・・・・昨年の10月23日の2日前、いつもいくスーパーでふとたまっているポイントを使用します。9000円近くたまっていて、食料品をたくさん買っても1000円くらいの支払いで。他にもパン屋さんのポイントカード分を使ったり。10月23日、夜子供2人とタクシーで出先から帰宅。下の娘がタクシー内で寝てしまい、支払いしてだっこで降りる。支払いして、降りる前、カバンやタクシーの座席、足元、全部をざっと確認して。家に到着してカバンをみたらお財布だけがない。お財布には運転免許証・カード・現金・保険証などなど全部入っていました。すぐ、あちこちに電話してカード止めたりいろいろ雑務を。30分ほどやるべきことをやり、落ち着いてきたら、ふと、心の内側、深いところから何ともいえない平穏の気持ちが広がってきました。「これで完了」「こうする必要はまったくなかったが、これで清算と、自分で納得できる出来事を必要としていた。だから、これは罰やこらしめではなく、自分で完了したと確認するための儀式的出来事として起こった。」そう内なる声がしっかりといっていました。本当のわたしが計画していたんです。だから、事前にポイントも使ったし、タクシーの中を確認して降りたんです。これで、よかった、全財産をいれていたお財布をなくして、こころからそう思え笑っていました。何で深い罪悪感を抱えていたのか、この自分ではよくわからないけど全部を理解することはできませんからいいんです。私にとって1年前の10月23日は印象に残る大事な日。その後、罪悪感とは縁を切り、「反省」のみで次にいくようにしています。「反省」はいいですね、そのときで終り、いつまでも考え続けたりしないで新しい方法を探しながら次に歩いています。軽やかです。今日は記念日にふさわしいいい日です。
2008年10月23日
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「達者でポックリ。」 帯津良一 著 東洋経済新報社をさっくり読みました。帯津先生は、私の所属する日本ホメオパシー医学会の大先生ですが非常に気さくで優しいおじさま先生です。お話もおおらかで患者さんは話しを聞くだけで不安が解消されるだろうな・・・といつも感じています。最近でたこの本に私と同じご意見がたくさん載っています。嬉しい。中でも、とても共感するのが「死に時」。人間にはちょうどよい死に時があると説いています。帯津先生のこの表現がいい感じ~♪「もうひとつ大事なのは日頃からの養生です。日々、生命のエネルギーを高め、最後を迎えるまで自立してすごすことが達者でポックリのためには欠かせない条件です。その日を迎えるまで、健やかで充実した生を送り、その日が来たら迷わず向こう側の世界に飛び込んでいく。それが最高の達者でポックリです。」そうですよ~。とびこんでいく!最高です。死は終りではなく、卒業。死後の世界がもっともっと知られるようになるといいな、と本当に思います。今はまだ、信じる、信じないの世界にとどまっていますから。死後の世界をうまく描写する本はたくさんあるし論理的なものが好みならエリザベス・キュプラー・ロス博士の一連の本もいいです。子供の頃から、お葬式や告別式、お別れ会に機会があれば参加して「死」が生活からあまりに切り離されないように心を配りたいものです。昔は、自宅で祖父母や親戚が亡くなるのは普通でしたから子供もおおよその状況を把握できたのですが近年は殆どの方が病院で亡くなりますので子供は人が死ぬということがどういうことかイメージできないんです。自分とは関係ない、と感じるか、親の態度や言葉で「ふれてはいけないらしいもの」と感じます。死は必ずおこるものなのに、誰もほとんど何も教わらず大人になって社会に出て行きしゃかりきに働くだけ。いつの間にか「死」は考えないほうがいいものでこわいものになっているのです。でも、毎日朝、また同じように起きるとは誰がわかるというのでしょう?何歳でも、今健康でも、日に一度は自分の死について考えをめぐらせる、それは今を生きるうえでかなり大切なことです。帯津先生も本の中で同じ事を説いていました。先生は夕方、死に思いをはせるそうです。朝って感じじゃない、って書いてありましたが私は朝派です♪笑朝、またおなじように健康でおきて命あることをまず感謝しています。今日死ぬなら、子供にも優しく、夫にも笑顔で、自分にもしなやかに。そして、誰にでも優しくあろうとすることでしょう。せめて、今日だけは、今日一日だけは、そういう心がけで生きよう、そう思い起きます。・・・・おきると、いろいろあるけど、それも人生♪帯津先生の本はおおらかで気持ちが明るくなるので患者さんにもよくおすすめします。達者でポックリ逝くコツものっていますので楽しめますよ。
2008年10月22日
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親友とか仲良しの友達ではないけれどよくお世話になっていてかなり信頼もしている人がやっぱり私とは違うところがたくさんあるんだ、そう実感した昨日。はじめは、それで正直なんとなく落ち着かない気分があったのだけどそれって(私とその方の思想?の違い?)当然だ、と。私が感じた落ち着かない気持ちはその方にも私と似ていてほしい、似た考えで、似た思想であるってことを知らず知らずに相手に期待していたから。こういうこと、ってあるんだなー。かなり私は期待が高いのかもしれません。自分への期待、家族への期待、他者への期待。それは自分が充分でないかもしれないとまだ思っているし、だからこそ自分をもありのままを受け取るということが難しい、ということ。人生お勉強になります。ありがたいことです。生きている間に葛藤をなくしひらいた本来のわたしのできるだけ近くに歩みよりたいんです。だから、昨日のなんとなく感じていた落ち着きのない気持ちも出所が判明して嬉しい。ありがとうございます。客観的に曇りのない目でありのままに受け取る、ということの大切さをさらに感じました。この視点は、人生の多くの出来事の新たな解決をまねきいれる鍵と言えますねー。
2008年10月22日
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ブログセミナーでご一緒したまんぷくまんちゃん♪さんの8月12日の日記にとてもとても共感します。ホメオパシーはドイツ人医師のサミュエル・ハーネマンによって1810年に体系化された療法ですが、病気だけでなく、その人を全人的にみるものです。古代から、治癒の法則「Simila similibus curentur」似たものは似たもの治療させよ、という格言があります。これはつまり、病気の治療だけにとどまらず、私たちが受け入れがたいとおもう人生の局面こそ、その状況に対する私たちの反応を癒す助けになる、ということと私は解釈しています。それをいいあてた、まんぷくまんちゃん♪さんの洞察力には敬服しています。ホメオパシー的考えでは、治癒は中から外へ、つまり治癒は、人間の深いところ・感情や精神のレベルではじまりそれから外にむかって肉体レベルに広がる、と言っています。でている「症状」は生体が自分を守り、治癒しようとするその現れであると考えているわけです。決して症状を取り除くことに主題をおくのではないのです。治癒の過程では、「症状」はむしろ、ありがたい存在です。なのに、なにか身体に不具合がおこるとあたかも従順な手下が攻撃したかのようにふるまう私たち・・・・。ホメオパシーという分野では「同種療法」似たものが似たものを癒す、ですが私はこの狭い「医療」や「治療」だけの話しではないと思うのです。私は、ご縁があり私のところに来てくださる方やご連絡くださる方はどんな症状でも、「私」が起点と考えています。たとえていうなら、「私」に発信装置があるんです。そこではいろいろな音波が流れています。すてきな音も、そうでない音も。同じ音波を持つ人は「私」をみつけてやってきます。だから、医師・患者という関係ではなく一人の人間・一人の人間という関係です。私は、多くの不具合や問題を抱えた人にお会いしますがそれは、「私」の症状でもあるわけです。現実で私が同じ身体症状で悩んでいるというわけではありません。特に心にひっかかり、心をかき乱される場合は自分の中にまだ未完了の種がありますよ、という天からの招待状です。だから、そういう方にお会いする時、パーソナリテイの私は動揺することもありますが本当のわたしは大歓迎で、こころからそのチャンスに感謝しています。そして、ここにいる「私」もできるだけその気持ちでいようと思っています。私の中でこの思想は、私のいままでの医師としての、または人としての厳しい経験から難産のすえ生み出されました。そう思って生きていると、過去にもバッチ博士やハーネマン、もっと古くはヒポクラテスやパラケルススもユングも同様な思想を説いていたことを学びました。私が強調したいのは、次のことです。私たちの感情を強く、強くゆさぶるような出来事は、どんなことであっても自己の内側にあるとても繊細でやわらかい、そしていつもしっかりガードされていて普段は見つけられない、一番治療の必要なところへ導きます。そうして、普段はアクセスしにくい無意識の情報を意識のレベルに運んでくれて、それで私たちはようやくその「問題」に取りかかることができるのです。身体症状だけでなく、社会的な人間である私たちはまんぷくまんちゃん♪さんの洞察の通り私たちが実際にお互いの存在がホメオパシー的なんです。気の会う人だけじゃなく、こころを乱されるような人こそ、私の中の未完了の種に対する新しい答えを私が自分で選びなおす、そのとっても貴重な、奇跡的な機会を与えてくれている魂の恩人なのだと思うのです。だから、私たちが相手が誰であれ、互いに優しくしあえばしあうほど、私たちの治癒効果が大きくなると思っています。そして、自分の中にすべて鍵がある、と思うのです。
2008年10月21日
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しつこいけど私の伝えたいこと、分かち合いたいことそれは、自分の中にすべてある、ということです。フラワーエッセンス、ホメオパシー、漢方薬、カウンセリング、何でも、はたまた自分の趣味でも仕事でも私の力が入るポイントはいつもそこです。いまの時代は、**で治る、という時代ではありません。自分で自分をひらいて、本来のあり様にもどっていくんです。その過程に、自然療法をつかってももちろんいいわけですが、それも自由選択。私は、「これをしないと」「これじゃないと」というのはどうしても抵抗があります。みんなができること、みんなが取り組めること、そうでないとイヤ!私たちの前を開拓してくれている多くの先人達のお陰で私たちの歩く道もいくらか太い道になりつつあります。でも、歩くのは自分です。自分でこの道を歩きはじめる前はだれでもそうであるように大変そう、あーなったらどうしよう、こーなったらどうしよう、と心配ばかりしてしまうのです。ところが、歩きはじめてみると驚くほどの助っ人が現れるのです。現れるというより、もともといたんですけど私たちが心配ばかりして不安ばかりもっていて、こういう心配や不安やありとあらゆるメガネをかけて物事をみていたのでしかも、メガネをかけていることすら気がついていなかったので、助っ人の存在も見えないし聴こえないし感じられないという状況でした。メガネをはずすと視界がよくなり聴力もよくなり感覚鋭度もあがります。メガネをはずしても意識し続けていないとまたすぐメガネをかけてしまうけど気がついたらメガネをはずす、この選択をずっと続けます。他人からメガネを渡されても受け取らない。メガネに怒ったり、たたいて壊すのではなく、誰からもらったとか、どうして受け取ったか考えすぎず、ただただはずす。はずしていく。それくらいは、私たちにはじゅうぶんできるのではないでしょうか。その先に、自分の中に創造の力があることを「わかっている」状態があるのかな、そう思っています。
2008年10月20日
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内なる子供に続いて、私の中の「内なる戦士」について。内なる戦士は私の中で真実の正義を生きています。闇をただ認め、かわりに光を選択するのをいつも助けてくれているけどいつも私がそれをうまく翻訳できて選択できるわけじゃない。内なる戦士の意見をきちんと受け取ることができないと私はむなしく闘う革命家になります。そしてそんな時はよくこう思う。「みんな、なんでわかってくれないの?」「どうしてまた同じ事を繰り返して先に進まないの?」「闘う気があるわけ!?」内なる戦士はかわりに静かにしている。ただいるだけでその発するエネルギーから周囲を観察して脈がありそうな出来事を引き寄せてくるんです。そして内なる戦士はいつも穏やかで心地よい感じ。「全世界に同じ事をさせようと努力するよりも、自分が好きなことをさせようとするよりも誰でも皆、自分自身の好きなことをして、好きなことを話して、好きなように振舞う、そういう権利があることを認めることを選ぶ。そして、思考の力を使って、ただ自分と調和することだけを自分の周囲にまねきいれることを意図する、このほうがずっといい。意識して考えていることを引き寄せ、人生によびこむことになっているんだから。」そう言っています。時に私は、他人が自分とは違う行いや考えをしているとイヤな気持ちになります。イヤな気持ちは、実は自分の中に似たものがあるから、そしてそれを隠し持っていて意識に浮上させたくないから相手を批判するというずるい方法で真実から逃げているのです。私は自分のこの部分を暗黒面と呼びます。暗黒面は、「ある」と私が宣言した時点ですでに暗黒面ではなくなっているのですがでもときどきイヤな気持ちになることでまだその存在を教えてくれます。だからイヤな気持ちにも暗黒面にも感謝していて心の中では「暗黒面」じゃなくて「白光面」になっているんだけどそのネーミングじゃ迫力がないから「暗黒面」のまま~♪笑内なる戦士の存在をしっかり認識すると闘う革命家は活躍できなくなり心の平和が得られます。私の心の中の出来事は、非常に小規模なことですが闘う革命家が大活躍するとこれがグローバルな視点では「戦争」になります。世界の戦争は自分の意見と相手の意見が違うことが元で始まっているのです。世界の平和に貢献するには、自分の中から変化をおこします。私の中に、闘う革命家はいるのですが、内なる戦士を常に自分の司令塔に任命するのです。そして、ずっと任命し続けます。自分の心の中が穏やかであればそれが広がっていき子供たちには平和な世界の序章を残すことができるでしょう。そのビジョンをみながらいま自分ができることをだたやるのみです。
2008年10月20日
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今、健康状態が思うような状態でない人、人間関係がギクシャクしている人、仕事がうまくいかない人、親子関係に悩みを抱えている人、自分のあり方に葛藤がある人、いまのその状態は、よく言われているように過去からつい先程までの思考の積み重ねの産物(結果)です。これは、本当です。ですから、健康状態、人間関係などなどを改善したいのであれば今から思考のむけ先を思う方向にとばさなくてはなりません。希望する健康状態でないときに、そこからよい健康状態に意識をむけ続けるということは難しく感じるかもしれません。はじめの一歩は、心の中でビジョンを描くことからです。変化は思考が先、行動をおこすより、考えが変わるほうが先なのです。結果の先取りといわれています。どういう状態にありたいか、そのイメージを見つけたら自分がすでにその状態になっていてどれほど心地いいか、どれほど満足か、どれほど嬉しいか、ありありと感じます。人間関係や仕事ではこのテクニックが使えても自分の健康状態になると鍵を医療者にあずけてしまうことがあまりに多いのです。病気は医者にみてもらう、治してもらう、と当たり前に浸透しているからかもしれません。でも、変化は考えから始まります。自分の健康についても同じです。不健康な今の状態を嘆いてばかりいてはその状態をアピールしてもっと、もっと、それがほしい と言っていると思われるのです。まずはできる範囲から1歩を。まずは今いるところからこころからの感謝を。そうやって、少しずつ少しずつでも、変化をおこしていけますように。
2008年10月19日
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昨晩考え事をしつつもボーッとしていたら内なる子供と会話することができました。私の中には内なる子供がいて(みんないますよ)まだキラキラの笑顔ではない子がいます。その子は6,7歳くらいだけど伏目がちでなかなかうちとけないし、時には笑うけどまだ完全にわかってもらってない、という気持ちが残っているのを感じます。多分、両親のことを怒っているのだと思います。頭で理解するのと内なる子供がOKをだすのとは違うのです。内なる子供は純粋です。こんなんじゃ世間はわたれないよ!と思うことも多々あるけどこの子は、事実、純粋できれいなエネルギーにふれていないと喜べないのだから仕方ない。内なる子供は昨日こう教えてくれました。「ドミノ倒しのようにどこからでもドミノが倒れるとつながっているからどんどん倒れていく。それは、流れであるからドミノ自身でコントロールできることじゃない。はじめのドミノが倒れるきっかけは個々で違うけれど、一度倒れたら後は倒れるしか起こらない。なのに、無理に倒れないように踏ん張ったり倒れたと大騒ぎしているなんて不思議でしょうがない。倒れ続けることが流れなのに。はじめのきっかけを意識していてもしていなくても、自分の最適なタイミングで何かがおこって倒れることを余儀なくされる、という場合が多い。それに抵抗しないで倒れること、その援助やサポートは、実際倒れ続けているからこそ、できること。」そんな内容のことでした。私の内なる子供は言い終わると久しぶりに笑顔になって注目してくれたこと、自分の気持ちを認めてくれたこと、自分の気持ちにフタをしようと身構えなくなったこと、を感謝してくれました。とてもスッキリしました。私の内なる子供はもしかしたらまだ完全な笑顔じゃないかもしれないけどでも、そのままでもいいなあ~なんて思ったりして。理解して・・っていうか話をよく聞いてなるほどね~って思えるように私が成熟してきたのかなそこまで共に歩いてきてくれて(だまって)、と感謝の気持ちがわきあがってきました。内なる子供は笑顔で輝いているのが一番です。また心を落ち着けて内なる子供のお話を聴きたいです。
2008年10月18日
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「生涯を通じて祈るときに<感謝します>としか口にしなかったとしても、それだけでじゅうぶんである。」 マイスター・エックハートこころからの感謝は、対象が何であれそれ自体が高エネルギー状態であり、その状態を充分に保持していれば、それに応じて自分にとって助けとなるものや事柄や状況や本などをまねきいれることになります。だから不満や文句を言う前に、他者を批判する前に、自分のエネルギー状態を高めましょう。自分の状態いかんでまねきいれるものが異なってくることを頭で理解している人は増えていますが自分で経験して体得していることが大切です♪その状態に生きている、ということが楽々とすすむポイントですね。
2008年10月17日
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ブルース・モーエンというアメリカ人のエンジニアがヘミシンクを通して異次元世界を体験した出来事が本として出版されています。(「死後体験シリーズ」で有名な坂本政道さんの訳です。)その中に 「死後探索3」純粋な無条件の愛という本があるのですがこの内容を今日はブログに取り上げます。シリーズでお読みの方はともかく、ヘミシンク自体をはじめて目にするという方もいるかもしれません。ヘミシンク(Hemy-Sync)とは、米モンロー研究所で体系化されている脳半球同調の状態を維持するワークで異次元を探求する技術の1つとして知られています。ブルース・モーエンはエンジニアですがあることがきっかけでヘミシンクを体験し異次元世界を探求していくことになります。その中で自分の現在の病気が治癒したり異次元世界の住人やエイリアンともコミュニケーションをとっていてその内容が詳しく書籍になっています。この「死後探索3」では「アース・チェンジズ」についての記載がありその出来事がどうこうということもそうなのですがちょっとでも気になる方がいれば是非読んでみてほしいな、と思い以下お知らせしたい内容を抜粋させていただきます。本の中で「アース・チェンジズ」EARTH・CHANGESは以下の様に解釈されています。・・・・・・・・・・・・・「地球の核のクリスタル」が何か非常に遠くにある物体と整列することでこの銀河をこえた規模の整列によって、この遠くの物体のエネルギーを地球の非物質的な環境にもたらすような接続が生じる。この整列をもたらすエネルギーは愛のエネルギー、「純粋な無条件の愛」のエネルギーだろう、全人類の意識にそういうエネルギーが圧倒的なレベルで洪水のように押し寄せ、その洪水が長い間続くとしたら・・・天文学的な整列から考えるとこの整列はスイッチを入れるように突然起こるのではないだろう、その一部は完全な整列がおこるはるか以前からより低いレベルで始まっているかもしれない、・・・・・・では、こういうことはみな、何を意味するのだろうか?「アース・チェンジズ」は好機到来ということかもしれない。「純粋な無条件の愛」エネルギーが地球生命系の全住民に(生者も死者も含めた全住民に)降り注ぐ機会なのだ。このエネルギーになじみのない者たちは、それに気がついて、自分の信念や思考や生活を変える機会を与えられるだろう。もし、私たちのうち充分な数の者がそのような変化をとげるなら、私たちは整列が終わった後も長い間、地上の天国で暮らすことになるかもしれない。「アース・チェンジズ」は地球生命系全体を永遠に変えてしまうかも知れない。このエネルギーをハートに取り込む者があまりに少なければ、またこのエネルギーを経験し表現することを学ぶ者があまりに少なければ、整列から後の私たちの生活は、元の古いやり方に戻るのがせいぜいだろう。もしも、この出来事が何らかの最高点であり、いつか起こると私たちの創造主が常に承知していたことだったとして、私たちがこの機会を見過ごしてしまうとしたら私たちの未来はもっと寒々としたものになるかもしれない。・・・・・ 抜粋終りいま自分や周囲におこっている様々な出来事はこのアース・チェンジズと無関係な出来事でないと書かれています。純粋な無条件の愛のエネルギーをみたことも感じたこともないに等しい私たちがこのエネルギーを洪水のように長期間あびている状態が今現在です。同じような表現は、言葉は違いますが多くのアカシックレコード・リーダーの本でも述べられています。物理学者や科学者が莫大な研究費をかけて異次元を科学するような時代でもあります。いま、私たちができることはなんでしょう?ブルース・モーエンいうところの「純粋な無条件の愛」エネルギーを経験して、そして、表現していくことかな、って私は思ってます。私も、このエネルギーにはなじみのない人でした。でも、自分と周囲におこる経験をよい悪いの判断なくうけいれていくことでなじみ、扱い方を学んでいます。はじめての赤ちゃんのお世話に似ています。泣いててもどうしたらいいのか不安だったり熱を突然出して心配したりしますが次第に知識を得て慣れてくるものです。それでもまた不安や心配も失敗もおこるのですがまた道に戻ります。試行錯誤を繰り返し自分の育て方を探求していくわけですね。だから、投げ出さないで自暴自棄にならないでいずれにしろ、いま地球から逃げ出すすべはないわけですからだったら楽しんで冒険しないと!いまは奥の手もたくさんあるし、このエネルギーの波でサーフィンする楽しさをみつけていたいです。是非読んでみてください!
2008年10月17日
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MRIってご存知ですか?大きな病院などでみられる医療診断機器です。MRI(磁気共鳴画像診断装置)-Magnetic Resonance Imaging- 磁気共鳴現象を利用した診断用撮影装置で、疾患状態をデジタル画像で写し出します。明暗がはっきりと写りやすいので正確に解析しやすく、また、さまざまな方向から写すことができるという利点があり、放射線をまったく使用しない特徴もあります。とても高価な(!)診断装置で診療所レベルでおいている医療施設はそう多くはありません。良いところは、身体の中あらゆる部位を輪切りだけでなく縦切り(って失礼な言い方だけど)もできるところ。関節内や背骨、脳など水平断だけじゃなくて垂直にもわって中の信号をよみとるためことのできる診断装置です。さきほど午前中、MRIの試運転の被検者になりました。左の肩関節を撮影してみました。移転・拡張するクリニックにはオープン型のMRIが入ってます。よくあるMRIは、閉鎖型で、筒の中みたいなことに入って中では検査時の音がガンガン大きくて閉所恐怖症の方や音に敏感な方には辛い状況でした。今のクリニックにはMRIはありません。強調して恐縮ですがとーーーーても高価ですしスペースも足りなかったのです。移転後のクリニックでは今日私が試したオープン型MRIが活躍することになります。閉塞感もないし、音はするけど私は寝てしまったくらいだから許容範囲です。夫の専門は整形外科・スポーツ整形外科で論文の研究テーマもMRIについて。だから新クリニックでMRIを導入するかどうかは上位検討事項でした。だって高価なんだもん!10ヶ月くらい前でしょうか、夫と電車に乗って出かける用事があって電車内で「MRIいれたいなあー」「でも高いからなあー」って夫が言って、私「入れる方向で考えてみようよ」と答えました。2人である場所にむかっていたのですが目的地の駅を降りて歩いている途中、目に飛び込んできた看板!そこには、「MRI」の文字・・・・。驚きのあまりしばらくこのことは口に出せませんでした。つい先日、再び同じ場所を通る機会があり思い出深くその看板をみるとじつは「MRI分室」って書いてありました。会社の名前だったみたいです。あの日、あの看板のサインを私は答えだと受け取りました。でも、他の人から見たら根拠には不足だと思うでしょう。なんてったって高いんですから!笑事実、新クリニックの青写真を現実にしていく過程では、お金の問題で悩んだりMRIはあきらめよう、という意見がでたりしました。多くの専門家達の意見が、クリニックでMRIを導入することは高価で高リスクだという中で、それでも心のよりどころとなったのはあの「MRI」の看板でした。直観です。宇宙に質問するには、自分の希望をはっきりさせたほうがいいのです。MRIを入れたほうがいいですか?入れないほうがいいですか?それは自分の希望がはっきりしているといえるでしょうか?MRIをいれたいです、しいては、私のこの希望や決断が宇宙の意思にも沿うものかどうかどうぞ答えを下さいそう問いかけます。そして、注意深く、かつ、こころを広げて穏やかに待ちます。必ずサインがあります。音楽、ラジオ、本の一節、広告、隣の人の会話、内なる声、TVドラマのセリフ、子どもの動作、みた夢、などなど。思いがけない答えがきても無視しないで。それが答え。そして、そこからまたその答えを、現実のこの生活の中に自分で落とし込んでいくわけです。ここで問題や難題が持ち上がると、宇宙からの答えにしては大変すぎる!と回れ右をしてもとの道にもどってしまわないように。この難題にみえる問題は自分の成長のために自分でおいたハードルです。だから、らくらくと飛び越えるか、ハードルをとばないで横を歩いて前に進むかハードルを自分でさらにたかーくしてしまうかなんでもありで、しかも必ずクリアできます。だから過程に何か難題だと思えるお試しがあってもそれこそほんとうの道を進んでいるという証拠です。ビジョンをもっていれば、そして、先をよめるほんとうの自分にハンドルを預けると難題は実は難題ではなくなります。楽々と、軽やかに~♪いきたいです。
2008年10月16日
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「食育」や「身体は食事が作る」などの言葉がよく聞かれるように当たり前にいただいている食事の質に多くの人が注目するようになってきました。毎日2,3、回口にはいるものですものね。1日3回として生きている間、食べて食べて食べ続けることになります。銀座まるかんで有名な斉藤一人さんのお話で「癌」という字は「やまいだれに品(食物)を山ほど食べると書く」というのがありましたけど確かに食事はキーワードですよね。毎日3回の食事に対して、買い物いってメニュー考えて支度してって私も主婦なので頭を悩ませること度々です。子どもがまだ小さいと時間的に余裕もないでしょうし地域によっては食材を選ぶということも限りがあるでしょう。私は、サプリメント等をすすめるというのもかえってどうかと思う人です。構成成分や材料が問題なんです。100%天然じゃないビタミンCをサプリでとっている人のなんと多いことか。合成サプリのんでも消化するのは自分の消化器官です。身体は賢いから、合成か天然か必ず見分けられると思います。身体がその判断をできないまでに軟弱化しているとは思いたくもありません。できるだけ天然でとるのがベストです。なのにプラスチック容器に入っているサプリのおおいこと。環境ホルモンといわれる目にみえないものが口にはいるものに溶け込んでも今の私たちにはほとんど知るすべがありません。だからよーく考えて選択する賢さが大切ですよね。でも毎日のことだし気にしずぎて無力感を味わうのもおかしいからホドホドです。少なくとも、私たちが普通と思ってる食事は全然普通じゃないってことを知ってることは新たな視点をもつきっかけになります。ちなみに私のとってるサプリは(・・・というかこの2つはサプリというには素晴らしすぎるから厳密な意味ではサプリではないです・・・・)・シナジーカンパニー・ジャパン社 ピュア・シナジーANDピュア・ラデイアンスC・万田酵素心掛けていることは・食事に至るまでの思いつくすべてに感謝していただく・調理する時の自分の感情に気をつける(イライラしながら調理しない)・ヌカ、発酵食品・味噌類を多くとる・乳製品は控える・腹8分めを心掛ける・とにかく何でもおいしくいただく・水やハーブテイーをたくさんのむ・野菜と果物を食事前にとるなどでしょうか。皆さんのよきアイデアやアドバイスがありましたら是非教えてください。シナジーカンパニージャパン社万田酵素
2008年10月15日
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今日の心に響いた言葉♪自信がないから踏み出せないって違う!踏みだして歩いていくから自信がうまれてくるんだ。歩きだしてしっくりこなければ修正修正していけばいいだけ。考えすぎないで心配しすぎないでそれは思考のクセに過ぎない。歩き出してスキップして楽々と軽やかにいこう。
2008年10月14日
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昨日に続き本日も息子の野球の試合。今日は勝ちました。三連休、一度も寝坊できないと息子はグチを言っていたけどお天気にも恵まれてカラダを動かすことができるなんてなんて幸せ。勝っても負けても子ども達は輝いています。純粋でなんか光ってる。いいなあ~。
2008年10月13日
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日常は毎日をできるだけ快適に健やかに過ごす為の雑多なことにあふれています。どの家庭でもどの会社でもどの人でも、買い物をし、食事を準備し、ご飯をいただきお風呂に入り、掃除をし、洗濯をして子どもの習い事の送り迎えをしたり、もっと子どもが小さければオムツを代えたりミルクをあげたりお付き合いや会議、そしてトイレにもいくし、どこかで睡眠もとる。そんな何とはないことで流れていきます。でも、みなが同じように雑多なあれこれをやっているその中でも自分や社会、世界がなりうる最高のビジョンをみることができる、そしてそれを見続けることができる人達がいます。過去にもそういった偉人はいました。今も私たちを鼓舞してパッションを与えてくれる言葉もあるし、そういう人が多くいます。今自分がやっていること、おかれている状況、いまのその場所で、その中からビジョンをみることはできます。私もそうしています。ビジョンをみる自由も持つし、それを見続けることを選択しています。私も状況はバラ色とかいいことばかりではありません。リスクをたくさん負っているし子ども達へのつとめも多少はあるでしょう。時間を見ながらご飯も作るしあれこれとこなすことはたくさんあります。この世界で生きていくとはそういうこともあるってことです。でも、「もう我慢ならない」そうは思いません。バランスなのかなって思います。もし「もうつらい」「こんな状況は勘弁!」と感じる出来事があったらそれはサインかもしれませんね。もうあまり時間がありません。その出来事(現象)から奥深くの意味をじっくり感じてみましょう。・人間関係で疲労困憊・磨耗してばかり、もううんざり→自分の中でこのテーマを繰り返しているのならまわりに合わせて自分の考えや感情を抑えていることに気がつきバランスをとることを必要としているのかもしれません。・恋人にふられてばかり→自分の奥深くに「パートナーがいると成長しない」「パートナーとうまく愛情をもってコミュニケートできない」などなど思いがけない意識が残っている為かもしれません。・何もかもうまくいかない→自分がすべての種を植えたことを忘れているかもしれません。カブの種からはカブが、トマトの種からはトマトが育ちます。今の現象は自分で種をまいていたのかも。視点を新たにしてみましょう、というサインかもしれません。個人個人で現象からの奥深くの意味は異なります。だから自分でこころ落ち着けて、可能なら自然の中で意味を尋ねてみます。自分の問いの答えは自分が知ってるなんてなんだかおかしくて笑ってしまいますね。でもだからこそ、自分でできることなんですよね。
2008年10月13日
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今日は上の子の少年野球の試合でした。惨敗でした。出だしのミスが最後まであちらこちらに継続して出没して力を発揮できずにいました。子ども達はこういう試合から何を感じとるんでしょう。願わくば、切り替えを試合中に意識しつつも抵抗なくサクッとできるように成長していくといいなあ・・・なんて、今日の試合を見ながら思いました。指導者やコーチ、保護者は「きりかえろー」とか口でいうだけだけどミスや三振のあとまた引きずらないためにはナイスバッテングやナイスキャッチのときの身体イメージといきいきした感情をともにイマジネーションで味わうことが脳に好影響。すると、脳はイヤな記憶をメモリーしても上書きしてくれるから悪循環や泥沼から脱することができます。明日も試合があります。野球場が変わるから、気持ちも変わって明日は好循環の一日になりますように。お疲れ様でした~。
2008年10月12日
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自己免疫疾患のある方。合成薬で1年くらいとても快適にすごしていたけどしばらく前からまた症状がきつくなってきたとのこと。ご自分から他のアプローチはどうでしょう・・・と。これは最高のパターンかと思います。1年前も「別のアプローチ」は耳に入っていたしそれを選択することもできたけどしませんでした。今、おそらく「適切な時期」に別のアイデアを受け入れようと思えるようになった、ということ。そう自分で踏み出すことこそ、ひじょうに大きな1歩です。でも合成薬を使った経験があったからこそ、なのかもしれません。アレルギー、自己免疫疾患の方には牛乳や乳製品はとらないようにアドバイスします。よき本を勧め、その上で、その方の入りやすい方法をともに探ります。漢方薬、鍼灸などとてもいいですよね。ホメオパシーもおすすめし、ともに信頼する先生にご紹介しています。眠れる預言者エドガー・ケイシーはこういいました。「ペニシリンの意識にはペニシリンを」そうなんです。いくらあれがいい、これがいいと他人が言っても「自分が」「自分の意識が」どこにいるかこれは結果(表出・現象)にかなり影響します。漢方薬を信頼していない人に、フラワーエッセンスを信じられない人に、ホメオパシーを信じられない人にだって、確かにそれでも効果はでます。エネルギーには必ず働いているんです。でも、意識がどこにあるのかそれを深く洞察するのはとても大事。相手にただ押し付けるのでは、私の都合になってしまいます。一人一人の「適切なタイミング」を感じとるのがコミュニケーションの真髄であり自分の学びでもあるかな。意識して生きることは深いです。
2008年10月11日
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フラをやりたくてレッスン教室を探しています。昨日も自由が丘で看板を見かけてふらふらと引き寄せられてショップカードを頂いてきました。なかなかスケジュールがあわないのが悩み。やっぱり日曜日とか平日夕方の時間設定が多いんです。みなさまお仕事帰りにいくのかしら?私の希望はある決まった平日の曜日の午前中かお昼あたりの時間。11月以降、仕事が忙しくなるからなあー。あのゆったりしたリズム、音色も好き。すべて奥が深そうで興味しんしん。神様にささげる踊り♪私の通う教室が近くにあるはず!いつ出会えるかな?楽しみです。
2008年10月11日
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ここ数日頭の中をチラチラチラチラするこのフィーリングうーーーん、今・今・今にとどまる事のなんと困難なことか!道をすぐ脱線してしまい、さらにそれに気が付かないこともしょっちゅう。私は何か考え事があると情報収集して、知性をフル動員して、そして祈って決断!だけど脳科学でもいわれているように実際に眼に見えた形で反応・行動する前にすでに脳内ではその反応が引き起こされている、という内容のことをこの数週間で再々度たて続けに眼にしてそうそう、そうなのよ、と思いつつも・・・・で、どうしたらいいわけ?!すると答えは「ただそのことを知ればいい」はあーなんですか?知っててもできないこともあるから言っているんです!!これって葛藤でしょ?葛藤はイヤなんですけど。脳の編成を変えていただけません??バージョンアップしてください!!となかば言いつける反抗的ないけない私。感謝モードじゃ全然ないけどもう考えちゃったもん、仕方ない。笑きっと宇宙は苦笑いしていることでしょうね・・・吐き出してスッキリしたら新たな洞察が入ってきました。自分で決断して行動していると思っていてもそうでなくでもいずれにしても私がやってる。でも、「脳」が「私」より1歩先に反応しているのを「知っていれば」それは本当にじぶんのしたい選択なのか?そう問いかけることはできる。だから、常に今・今・今どうしたいのか過去や大昔のなんやかやに選択させておかないで常に自分に問いかけその「前提」を知っておくこと。でも、その「前提」をどうにかこうにかしようとしないで!そう、そして昨晩本棚の1冊の本。本が私をよんでいる~丁度しおりが挟まっていて、そのページにはこうありました。<みなさんに心からお願いしますが、どうか自分の「悪い癖」をどうにかしようとしたり、自分に「罰」を与えようとしないでください。宇宙はそれ自身、あなたの現実の映像を完璧かつ非個人的に再構築するのです。もしあなたが自分のここがいけないとこ、罰されなければならないという映像を抱いていれば、宇宙はその嫌悪感のまわりに再構築されます。今回の人生での悪いところを処理したら、次はほかの転生での悪いところを処理、さらにその次は惑星そのものの悪いところを処理・・・・!もうやめてください。「グレース」の力はそうしたことが必要なくなるために地球に存在しています。どうかそれを使ってください。あなたがたのもつもっとも偉大なる財産です。>(ご興味がある方は「ライトボデイの目覚め」改訂版 をどうぞ。)なんと美しい言葉。「宇宙は完璧かつ非個人的に」って言葉にアートを感じます♪ということで、今・今・今を常に選択して常にほんとうのわたしとともにいることができるように精進精進です。宇宙ブラボー♪ 感謝です。
2008年10月10日
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私たちは無力な存在なんかじゃない。だから、世界の不安や心配に同乗しないように自分が叡智と結びついて、しっかりと生きることができるように今までの被害者意識に流されないように今までの古い無力感に押し戻されないように意識して眼をしっかり開いていられるようにどんなときでも方法がたくさんあって選択肢は自分がもっているということを忘れないように。自分の力は、自分と世界のために使うことができます。そして、ひとたび自分でそう決めればそして、それを考えるだけでなく実際自分で体験していく過程であらゆる助けがあることに気が付くでしょう。だから眼をしっかり開けて嫌な思いをするのがイヤだとさけないで、美しいものにもそうでないものにもともに自分へのギフトがあることに感謝しましょう。
2008年10月09日
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想像力っていうとどんなイメージでしょうか?今見えていない、つかめていない、未体験の事柄に対して思いをはせること?もっと単純には「梅干」を脳で考えると(イメージ)→つばが口の中に出てくる。このとき、「梅干」を絵で思い描く場合、味で思い描く場合、最近食べた梅干の情景(誰とどこでどんな場面で・・・)で思う場合、カリカリなど「梅干」を食べる音で思う場合、さまざまなイメージがあります。梅干の場合は、圧倒的に「絵」と「味」がほぼ同時という人が多いでしょうがこの「想像力」は自分の不具合にも応用できるので自分の得意な感覚をつかんでおくといいかもしれません。有名なサイモントン療法などのようにイメージワークは非常に助けになります。例えば、・ビーム光線が腫瘍を消退する様子をありありとイメージする・皮膚炎のある場所がきれいな特別の治療水で流されつるつるになる様子をイメージする・あたたかい湧き水に足がつかっているのをイメージしてレイノー症状を軽減する・掃除機でケガ周囲の炎症が吸い取られていく様子をイメージするなどなど応用方法はたくさんあり、自分の好きで得意なものを使えばオーダーメイド治療です。たとえば、アメリカでは銃で腫瘍を撃ったりするイメージワークもあるそうですが日本人はそれでは気持ちがのらないでしょう。自分が気持ちがのってかつ、ありありとその情景を思い描くことができるツールを選びます。そして、バランス呼吸で吐いて吸ってリラックスして自分の内側に入ります。リラックスって脳もそうですが、身体もゆるんでいるほうがいいですからプラプラ、ブラブラ身体をゆらしてあー とか、うー とか声もだして震わせてエネルギーをまわします。そして、しばらく自分の好きなイメージワークをします。寝る前にこれをやるならば、「寝た後は、その後の最善のフォローお願いします」と本当のじぶんに頼めますね。らくチン♪積極的にイメージすると自分が驚くほどの力をもっていることに気が付きます。自分で信じているから、そうなるって知っているから妄想ではありません。よき想像力を自分のために使いましょう。あれこれ考える妄想では目的地にはなかなかたどりつけない。私の経験談です♪
2008年10月09日
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今日私が感謝できること・・・雨で庭のブルーベリーやお花たちが喜んでいること子ども達がお友達と仲良く楽しく遊んでくつろいでいること子ども達が笑っていること屋根のある快適な家で好きな本を読めることスーパーにいくとたくさんの食材が選べること仕事の依頼がたくさんあること「ありがとう」と言ってもらえたことお会いしたことはない人と、ブログで生まれた輪を感じることができたこと食欲があり何でもいただけること多くの方に気にかけてもらっていること頭で考え心で感じ、身体を自由に動かせる自由があること毎日ブログを書けること電気と水道と空気に不自由しないこと毎日快適な睡眠をとれること家族が多忙ながらも健康で過ごせることいま、生きていること本当のわたしとつながっているのを知っていること人を許し感謝する自由を知っていることこんなにたくさんのことに心から感謝できること
2008年10月08日
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ウエルネスに大切なこと、<その・2>は呼吸でしょうか。(私の<その・1>は健全な自尊心♪)呼吸って寝ている間もずっと意識せずにしています。呼吸法にはおおくの「正式」な方法がありますがうまれてからずっと自動的にしているので「正式」をとりいれるのって苦労します。私の呼吸は多くは普通の呼吸。これは自動的にやっているから浅くただ呼吸しているだけ。でも、自称「バランス呼吸」をするときは口をしめて鼻から臍下丹田に吸い込みます。1.2.3.4.5というゆったりリズムで。次に口をぽかんと開いてはき出します。1・2・3・4このとき、ため息をつくみたくハアーと声がでることもあります。呼吸のリズムがバランスを崩している時は私の場合は感情もアンバランスかな。だから毎日を過ごす中で怒ったり悲しかったりする時もそのときの感情を充分感じて時には優しく抱擁して呼吸をバランスさせます。自分にとってつらいような感情も、それを感じつつ呼吸をバランスすると大きな本当の自分が、その感情をうけとめてくれて私は叱られるどころかよくぞ持ち帰ったとほめられます。「バランス呼吸」は、正式な呼吸法のアレンジだけどお手軽にできて重宝です。
2008年10月08日
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自分の身におこる事をコントロールしたいっていう気持ちは何なんでしょう?本当に多くのことを把握していたい・・・・というか把握することが安心につながると思い込んでいる?訳がわからない、ということが怖いのかもしれません。先がよめなくて不安なのかな?10日位前から尾骨に違和感があります。咳をすると響いて痛いし嫌な気分。特に思い当たることもなかったからいつものように原因を探っていました。・何か解放する信念体系が浮上してきてくれたのかな?・何がエネルギーの流れを遮断しているのかな?・何が?・何が???・・・・そして昨晩、心をひらくと内なる声が!「原因を探らなくても、なぜなのかその理由を頭で知らなくても、いつの間にか気になる症状(私の場合は尾骨の違和感)が消えることをなぜ受け入れないのか?」つまり私のレッスンは「あらゆることをコントロールしたい」ので運転席でハンドルを握り締めたまま、より道にくわしい人にハンドルを預けることができないこの状況を客観的にみること!思いあたります・・・・。何が原因なんだろう?何がいけなかったんだろう?そう過去に思いをはせるのはこう言っているのとそうはかわらない。「もし私が**しさえすればこう(尾骨の違和感)はならなかった」これは、ベースに「くやむ気持ち」「充分でなかった」という信念が感じられます!だけどいつのことだか知らないけれど私はそのときしたこと、感じたこと考えて行動したことそれがそのときのベストだったんだ。だから「今」それを悔やんでも原因を探ってもきっとわたしのためにはならないのかな?私の尾骨の違和感はきっとハンドルをあずけることをよしとして後部座席でくつろいでも安心していられると実感できたとき最終的になくなる気がします。これにリンクしてもう1つ告白を。先週仕事と仕事の合間にいつも行くお気に入りの神社にお散歩にいきました。木陰で手をあわせ感謝をささげていました。最後に尾骨の違和感を感じるとそこには「アリ(蟻)」のイメージが。そして私は??と思ったけどミスをおかしシンボルにたずねることはなく自分で考え始めてしまったのです。「アリ」→「砂糖」→「要デトックス」と。エネルギーワークやイメージワークでアリが出て行く様子や小アリ化する様子をイメージするけどどうもピンとこない。そして、昨晩の洞察!「アリ」はおそらく「自分の位置する平面しか認知しない、そのものの見方」をシンボルしていたのでしょうね・・・・。「アリ」がきた時点で私の頭で考えずにたずねるべきでありましたね~。ここでもハンドルを握っていたい私がみえます。ま、解決したし(多分ね)学びもあったからこれも感謝です。・・・これも皆様の何かのお役にたてばいいのですが!
2008年10月06日
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「人に何かを教えることなどできはしない。できるのは、人が自分のなかにあるものを発見するのを手伝うことだけだ」 ガリレオ・ガリレイ病気も身体の不調も同様です。調和の状態にもどすことができるのは自分自身です。他の人のサポートは大いに力になるでしょうし家族の愛情や思いやりは治癒系の働きを促進させます。また、適切なレメデイなどのサポートも治癒への触媒になりえます。不調をもとに戻そうと、そのはじめの一歩に多くの人はいまのところ、医師のもとを訪れますから治癒系を積極的に活性化するという明確な意図をもって診療にあたることは、これからの医療では必須となります。私はますます精進しなくてはなりませんね。ひとつひとつのテクニックやワークにはそれぞれの主張や思想があるでしょう。根拠とされているものや効果があるものも多くあります。その上で、今はわたしは「すべての人は、自分自身がどうすればいいのか深いところで感じることができる」そう思っています。わたしが試行錯誤しながら、いま歩いている道でもあるからです。本当の自分とのコミュニケーションといってもはじめは何がなんだか??で、戸惑って困惑してしまいます。わたしもそうでした。でも、歩き出して慣れてくるとコツがあるなあ、と気が付きます。一人一人そのつかみ方は異なるでしょうがそれでも自分を深く知る、その許可を自分に出すことそれが一番の処方箋です。(出だしで何かつらくてもやめないで。じきに慣れてきます。)その許可証には多くの手法がありますがその後も有効に働くことを意図するなら自分におこることの責任は素敵なこともそうでないことも例外なく自分のなかにあるそう言い切る潔さが前提となります。これがないと、わたしの経験からですがうまく働かないんです。でもこれは決して自分を罰するためではありません。ここで罪悪感が生まれると(おそらくは必ず生まれるのですが)落とし穴にはまります。罪悪感がでてきたらさっさと水に流すこと。過去のことで変えられないのですから。ここではフラワーエッセンスやボデイワークも大いに助けになります。(わたしの経験から言えます)そのうえで、人によって許可証は瞑想だったり音楽だったり、踊りだったりこころからの感謝だったり、自然への旅行だったりセラピーを受けることだったりお祈りだったり、お花を生けることだったり絵を描くことだったり文章を書くことだったり様々です。結果、気分がよくこころが広がって世界を別の視点でみることができればうまくいっています。病気や不具合になってもならなくても、本当の自分と触れてつねにそこにいることを選択する、そういうふうに私はありたいです。そしたらきっと病や不具合からもいつの日にか卒業できることと思います。そしてそれがわたしなりの平和への道(ピースプロジェクト)でもあります。いまの私の様に、それを多くの人が楽しんでできるようになれば、世界はきっとかわるのです。
2008年10月06日
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心からの感謝は、毎日の私の意識することNO・1です。ただ単に「ありがとう」という言葉以上の自分すべてをのせての「価値を見出します、ありがとう」というスタンスです。でも、毎日2,3度する食事前のご挨拶「いただきます」にしても習慣や礼儀からではなく、こころから唱えている人はどれほどいるでしょうか?食卓に並び、口に入り滋養・栄養となるまで本当に多くの物語があることでしょう。レタスやキャベツの農家ばかりか、それを育む土、川の清流、太陽の日、雨の日、きれいな空気、そして、収穫にたずさわる多くの人。運搬手段、その過程の多くの人の手。器をつくる土、作り手。そしてスーパーでも多くの方の作業で自宅に運ばれだれかが調理してやっと口に入ります。このつながりを意識して、こころから感謝する「いただきます」や「ごちそうさま」ですが今ではこころから唱えることがどれほどあるでしょう。本当のじぶんと触れ合うのに何も難しいことから入ることはありません。日に3回ほどの食事の際、自分に到達するまでの本当に多くの物語に思いをはせればただ習慣から「いただきます」と言葉を言う以上に本当のじぶんを意識することになると思います。心からの感謝は、それ自体がギフトです。周囲がどうであっても、その「感謝」の状態(バイブレーション)にい続けることがたやすくなれば、本当のわたしとのつながりがしっかりしている証です。でも、私たちはとても忙しいし、考え決断することが絶え間なくおこります。だから、自分で意識してい続けるために食事をいただくとき、水を飲む時誰のためでもなく習慣や礼儀だけからでもなくわたしのため、わたしが本当にわたしでいることをしっかり思い出すためこころから「つながりに思いをはせ、その価値を大いに認めて、いただきます」と唱えます。祈りといってもいいのかもしれません。日々自分のできることから、そして、もし忘れてしまってもだれも責めません。また、その道に静かにもどればいいんですから。
2008年10月06日
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今日は私の歩いている道の方向性がそのままでよいんだってことを認識した日となりました。同時にまた、その道は決して楽でミラクルばかりでもないこともそしてそれでもその道を歩いていくんだとコミットし続けることが大切だということも理解しました。ともに感謝の気持ちで受けとめたいと思います。
2008年10月05日
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今日もとてもさわやかないいお天気です。9時から子どもの運動会があります。今からお弁当もっていってきます。大きな声で応援したり笑ったりするのってこういう機会がないとなかなかしないようになってしまいました。今日は気持ちのよい青空のもと、たくさん声をだして応援してこようと思ってます。皆様もよい一日を!
2008年10月04日
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適切な時期、または、タイミングっていういい言葉がありますね。感じたことありますか?3年とちょっと前、私は、そのときの自分を振り返るのに適切な時期にいました。それから試行錯誤しながらも「統合」を意識しています。人生の長期目標かな?統合されている(integrated)ってどういう意味でしょうね、高潔さ(integrity)といってもいいかな。自分自身を知り自分自身であること。自分自身を知り自分自身であることで、(別の言い方:Trueselfを招きいれ自己がTrueselfであること)「身体・心・感情・行いは協力しあってそれぞれをあわせたより大きな全体を形作る」 ダン・ミルマン自分がなりたい人とかじゃなくって、ほんとうの自分を受け入れるそこが出発地点になる気がします。以前の私は自分のことを深く考えることもなくただ過去を悔やみ、未来を心配して、目の前におこることにはただ「反応」していました。でも、もがいていた時期にある夢をみたんです。夢の中で私は先生の講義を聞いていました。その先生はこういっていました。「あなたは自分で考えてそれに基つ``いて行動していると思い込んでる。でも、行動の前にすでになされることは決まっていて、それは多くの場合は無意識レベルでただ反応しているだけ。自分で思考のうえに行動したんじゃない。」わたし「そんな!だってそんなこと誰にも教わってないし、知らなかった。」先生「無意識に何があるかも見ないで、整理もしないで、ただ自動的に反応させておくのでいいのか?」わたし「いったい私はどうすればいいんでしょう・・・・」先生「自分の無意識を整理したら?たとえていうならあなたは自分ではまだ存在を知らない部屋が4つあって、そのうち3つの部屋はパンパンにあふれている。これをそのままにしておくと部屋全部がただ乱雑なまま過ぎ行く。もしあなたが今から整理にとりかかれば間に合うから。」わたし「それって大変?なんだか大変そう。もともと私、掃除とか整理とか得意じゃないんです・・」先生「あなたがとりかかる、と心から決めたなら、驚くほど多くの助けがやってくるだろう。自分ひとりで孤独な作業だと決める必要はない。それに、部屋を整理することは自分に罰を与えたりこらしめるためにするわけじゃない。大昔のなつかしい写真をみて、まだ手元においておきたいか、もう処分してもいいか、ただ決めていくだけ。実に前向きな作業だよ。」・・・・・・・朝起きてこの夢を思い出し非常に印象深く、それからなんども思いめぐらせていました。はじめのころは、その意味することがよくわかりませんでした。どうやってやるの?お手本がない!いつからか、「統合」っていう言葉が入ってきて目標とするようになりました。今まだ続いている、私の「統合中」の経験が他の人にもあてはまるのかはわかりません。でも、適切な時期にみた、この夢に感謝しています。かといって、「統合」は私の中では、すべてが光に満ちた素晴らしい道を約束する手法ではありません。未整理の部屋をあけると私のばあい、そこには私が「暗黒面」と呼ぶまだ癒されていない私の一部がおきざりです。だからこそ、毎日の些細に思える経験や感情やいろいろがすべて私へのヒントでありサインであります。「人生はすべてわたしのために」そう思っています。そして、私は自分が何を知っているか、何を言うかではなくいかに生きているかで人の心に触れて生きたいと強く願っています。
2008年10月03日
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6,7歳くらいまでの子どもって、ほんとうの自分(trueself)とのつながりが驚くほど強いって感じます。シュタイナーの教育本で7歳くらいまでエーテル体の成熟がすすむって確か書いてあったけど、絶対それに関係してるんじゃないかしら・・・。生まれて数年、制限を感じるといってもまだまだのびのび~なのでしょう。少し前までの私は1秒刻みのスケジュール、周囲を感じる間もなくただただ「すべきことリスト」をこなして駆け抜けていました。走って走って過ごしていて、「これでいいのか?」なんて忙しすぎて考えることもありませんでした。いまは、意識して意識的に生きようとしているから「これでいいかな?」ってふりかえることもたくさん。それはそれである意味悩ましい。反応がほしくなります。これが最善?自分では最善を選択しているつもり、でも、果たしてそうかな??そんなとき、私は祈ります。求めよ、さらば与えられん って本当です。「わたしはコレが最善だと選択して行動しています。コレがあなたの(っていうか本当の自分なんだけど)最善でもあるなら、どうかわかりやすい方法で後押しをお願いします」私は何回もこの方法でこころ踊る反応をキャッチしました。もし小さい子どもがいるなら、子どもがメッセンジャーになってくれる可能性大です。私はまだ娘が3歳の時、ひらがなを覚える為トイレにあいうえお表をはっていたんですが、娘にトイレに連れて行かれて指さすひらがなを読んで、とクイズを出されました。そのとき、娘の指差す文字・・・「か」「み」「さ」「ま」「の」「い」「う」「と」「お」「り」「に」「し」「な」「さ」「い」って「神様のいう通りにしなさい」でした。ちょうど、悩んでいたことがあってハッとしました。もちろん、娘は全然そんなつもりじゃなくってただ「クイズ」してるだけ。またあるときは、保育園のお迎えの帰り、園庭のブランコをこぎながら「ママ~、やってみればいいんだよー。やってみてできなければまたかんがえてくれるからさ~。」と叫んでくれたり。子どもってほんと、ひたっているんですよね。おとといはまたまた素晴らしいことがありました。6歳の娘が洗面所の鏡の自分にむかって笑顔で笑いかけたり、いいお顔つくってみたりしていました。(いつもしてます)タオルを引き出しにいれようと洗面所にいって何の気にはナシに居合わせたのですが娘は、鏡の笑顔の自分にむかってこういっていました。「@*子ってすばらしい!」「@*子ってすごい!」あまりにも自然にしていたから思わず手をとめて見入ってしまいました。なんだか子どもに対する接し方や言葉のかけ方について考えたりしていて、「うーーーん?」って思っていたのもあったけど「これでいいのだ~♪」っていわれたようですごく嬉しかったです。自分でこうしよう、そうおもって歩き出していてもこの道が素晴らしいって思って行動していても途中で応援・声援してくれる声があったらどれほどこころ強いでしょう。その声は、必ずあるんです。でも、私たちは日々とっても忙しすぎるし頭の中は考え事ばかりそれに、まず「もとめない」。でも、本当の自分とのコミュニケーションは必ずしも声を聞くことばかりではありません。それは目に入ってきた本の一節かもしれないし看板の文字かもしれないし上司の一言かもしれないし子どもの言葉や動きかもしれません。「問いを持つ」と「答えは必ずくる」んです。自分なりのやりやすい受け取り方をみつけるといいですね。こどもの、期待なしの「今」にいる心がお手本かな。
2008年10月02日
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今日、10月1日は都民の日。東京にある学校はお休みになるんです。6歳、1年生の下の子(女)と一緒に映画「崖のうえのポニョ」を観に行きました。おくれてる~?夏も終わりましたが今日は混んでいました。私は、そうすけのママのりさが好き、そう思いました。保育園にそうすけを連れて行き隣のホームでお仕事って少し前の自分とちょっとだぶってなんだか保育園時代を懐かしく思ったりして。娘はポニョの唄をピアノで練習中。「ポニョは女の子になったから魔法は忘れたけど、そうすけとりさといるから思い出すんだよ」そう笑って言っていました。
2008年10月01日
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患者さんと触れていて感じるものには個人個人の違いはあるけど男性の多くは殻がかたくて感情表現がむずかしいんだなーと感じることがとても多いです。日本人というお国柄もあるのでしょう。多くの人は感情をだしてしまうことをはしたない、とか、弱い、と感じています。まるでそんなことありえない、という感じ。でも、違う。自分の感情をみつめないことの方が「弱い」んだって思うんです。男性の多くは(って女性もそうですけどね)悲しみを怒りで表現しているように思います。意識して変換しているわけではなく、気がつかない意識のレベルで境目なく行われているものです。怒りのほうが、自分でも受け入れやすいのでしょう。男の子だからもう泣かないの!って言われて育ってきてもいるし男親が悲しみやつらさをありのまま表現する場に居合わせることもないでしょう。アルコールやタバコや趣味嗜好に偏り怒って不機嫌になるなーんてなんだかさみしいです。企業戦士だった男性が肩や手の慢性痛でみえています。家族のため、会社の為、部下の為、上司のため肩に背中にいろいろ背負って歯を食いしばって何十年と生きてきた様子が感じられます。感情を表現することもなく自分の中にためている悲しみや不安や・・・心を通わせるには硬い殻が。外見やお話してもおそらく普通の善い人にしか見えないでしょう。でも身体は硬く、もう傷つかないようにこころを閉めています。・・・・・・・・・・私はこれからの子供たちに、そういうアイデアを引き渡したくないと思うのです。自分のどんな感情をも認めてひきうけるのは、とても健全で強い!弱いのは自分の感情をみないでおくこと。まずは大人がお手本をしめしていきたいです。つまり、まずは私が。感情をみて、へばって一時的に弱くってもいいけど見ないでそのままにいる弱さはナシにします。
2008年10月01日
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