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永澤 護·2017年5月26日金曜日·1分前表示35件
非思量[Non-Thinking]・兀兀地:[Steadfast Sitting]
今のところまだ必要とされている人工汎用知能(AGI)開発者は #禅 の言葉でいう《 #非思量 》の領域で格闘している。それは《non A》という #無限判断 領域である。それは例えば東浩紀 のいう #否定神学 領域「ではない:《non A》」。
この決定的な違いを押さえておくことは、人工汎用知能開発がグノーシス主義または(もちろんこの「または」は=ではない)ユニテリアニズムを基盤としたプロジェクトに回収されないために死活的に重要である。この人工汎用知能開発のグノーシス主義またはユニテリアニズムを基盤としたプロジェクトへの回収という人類史上最大のリスクに関して、かねてから私は友人の綱覇佳秋氏と対話してきた。もうかなり以前になるが、最初の問題提起は綱覇氏からである。綱覇氏がこのリスクの存在を明晰に見抜いた世界的に見ても最初の何人かの内の一人であるのは間違いない。

「プログラマたちは将棋がどういうものであるか、うまくコンピュータには伝えられませんでしたし、それは今後も永遠に成功しないでしょう。」
#山本一成 『 #人工知能 はどのようにして「名人」を超えたのか?』
http://amzn.to/2r1U8JT
p.52.から引用
いつか(だがそれがいつなのか《我々人間》の「時間」で理解することはできない)再帰的に自己を更新し続けるプロセスを通過しながら《我々人間》には決定的に未知の《何か=X》となるであろうその《何か=X》も自己を記述し続ける。《我々人間》にはその爆発的な「自己創造プロセスそれ自体」をコントロールするどんな可能性もないだろう。
参考:
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C8%F3%BB%D7%CE%CC
以下転載


非思量
【定義】
本来は、三祖僧璨禅師の『信心銘』に見られる語ではあるが、これを坐禅に於いて用いたのは、青原下の #薬山惟儼 禅師である。
【内容】
薬山禅師による、非思量に関する問答とは以下の通りである。
薬山弘道大師坐する次で、僧有って問う「兀兀地、什麼をか思量せん」。師云く「箇の不思量底を思量す」。僧曰く「不思量底、如何が思量せん」。師云く「非思量」。 
『 #正法眼蔵 』「 #坐禅箴 」巻
この場合、非思量というのは、思量という意識活動を除去するかのような意識状態ではなくて、脱落の思量であり、思量しながらも、その思量に伴うとらわれを脱した思量である。 #道元 禅師は「坐禅箴」巻で、この非思量について、以下のように提唱される。
大師いはく、非思量。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちいるなり。非思量にたれあり、たれ、我を保任す。


以上転載終了
以下に薬山のエピソードを巡る『正法眼蔵』「坐禅箴」巻のより包括的な引用を行う。
以下引用


『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻
薬山弘道大師坐次、有僧問、
「兀兀地思量 什麼」。
師云、「思量箇不思量底」。
僧云、「不思量底如何 思量」。
師云、「非思量」。
大師の道かくのごとくなるを証して、
兀坐を参学すべし、兀坐証伝すべし。
兀坐の仏道につたはれる参究なり。
兀兀地の思量 ひとりにあらず といへども、薬山の道は其一なり、いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。
僧のいふ、不思量底 如何 思量。
まことに 不思量底 たとひふるくとも、さらにこれ 如何思量なり。
兀兀地に思量なからんや、
兀兀地の向上なにによりてか 通ぜざる。
賤近の愚にあらずは、兀兀地を問著する力量あるべし、思量あるべし。
大師いわく、非思量。いわゆる非思量を使用すること玲瓏なりといえども、
不思量底を思量するには、かならず非思量を用いるなり。非思量に誰あり、
誰我を保任す。兀兀地たとえ我なりといえども、思量のみに非ず、兀兀地を挙頭するなり。兀兀地たとえ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん。しかあればすなはち、兀兀地は仏量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。


以上引用終了
人工知能の核心 (NHK出版新書 511) 新書 – 2017/3/8
#羽生善治 (著), NHKスペシャル取材班 (著, 編集)
http://amzn.to/2qEtvc7
における羽生 善治氏の以下の発言(洞察)も参照。
以下の引用における羽生氏の
「人間は、他にもヘリコプターや飛行機のような、ドローンではない空を飛行する存在を知っています。おそらく、そうした知識をうまく組み合わせて、答えを導き出しているのだと思います。しかし、こういうことは、まだ人工知能が苦手とする部分です。個人的には、ここがクリアできると、だいぶ人工知能やロボットが人間に近づくのではないかと感じています。」
という洞察は、上記「《non A》という無限判断領域」というテーマとの関わりで決定的に重要な意味を持つものだと思われる。
以下引用(前掲書 p.170-171)


最近知って面白かった話に、「人工知能はまだ『学習』と『推論』を同時にこなせない。」というものがありました。例えば、ドローンが空を飛んでいる姿を見て、人間ならばせいぜい二、三機も見れば、次の対象を知覚したときに、「これはドローンだな」と、「推論」できるでしょう。数少ないケースやパターンで特徴を抽出できるのは、人間ならではの能力です。
 翻って、人工知能はどうでしょう。
 人工知能は、ビッグデータなしに学習できません。推論できるのはその後です。つまり、ドローンの画像を何百万、何千万枚と読み込ませて事前に「学習」を終えて、初めて「これはドローンだ」と「推論」できるのです。
 なぜ人間には、「学習」と「推論」をスムーズに同時に行うことが可能なのでしょうか。
 そこには、人間が複数の概念を組み合わせて理解する能力を持っていることが影響している気がします。人間は、他にもヘリコプターや飛行機のような、ドローンではない空を飛行する存在を知っています。おそらく、そうした知識をうまく組み合わせて、答えを導き出しているのだと思います。しかし、こういうことは、まだ人工知能が苦手とする部分です。個人的には、ここがクリアできると、だいぶ人工知能やロボットが人間に近づくのではないかと感じています。


以上引用終了
以下の記事も参照
http://bit.ly/2qGL24h
以下引用


5年前、画像読み取りソフトウェアの精度を高める点で、研究者は突如飛躍的な進化を成し遂げた。背後にあるテクノロジー「人工ニューラル・ネットワーク」が最近の人工知能開発の急激な盛り上がりを支えている(“10 Breakthrough Technologies 2013: Deep Learning”参照)。だからこそ、グーグルやフェイスブックで、ユーザーは自分が保存した写真を検索できるし、顔認識といった新機能を使えるようになった。
フェイスブックAI研究所の所長を務めるニューヨーク大学のヤン・ルクン教授は、マシン・ビジョン用途でニューラル・ネットワークを利用するにあたって先駆的な役割を果たした人物だ。ラクン教授によると、いまだに発展途上な部分はあるが、コモンセンス(常識)を備えたソフトウェアの開発につながる可能性があるという。
現時点でマシン・ビジョンはどれだけ進化していますか?
主役となるモノが目立つ形で写る画像で、最優先課題が被写体を分類することなら、実にうまく行きます。訓練用データが十分にあれば、ひとつのカテゴリーにつき1000ほどの被写体画像データがあれば、自動車ならブランドまで、植物なら種類まで、犬なら犬種まで、モノであれば非常に具体的な形で認識できます。もっと抽象的なカテゴリーの画像、たとえば、画像が風景なのか、夕日、結婚式、誕生パーティーなのかも判別できます。ほんの5年前、この種の課題を完全に解決できるか、はっきりしていませんでした。ただし、ビジョン(視認)という課題が解決できたわけではありません。
「未解決」の重要課題は何でしょうか?
何年もかけて、画像や映像に簡単な解説を付けようと、多くの人が研究を進めてきました。表面的には素晴らしい成果がありそうに見えるのですが、実際はデモンストレーションほどには進歩していません。どんな分野で機械を訓練しても、得意な分野はたかが知れています。ほとんどのシステムは、異なるモノが一緒に映った画像を見せたり、初めて目にするような変わった風景を見せたりすると、完全にでたらめな答えを返してきます。機械学習はコモンセンスを学習させるまでは進んでいないのです。
ビジョンとコモンセンスの関係とは何でしょうか?
話を聞く相手によりけりですよ。フェイスブック社内ですら、コモンセンスを獲得できたといえるかの基準にはさまざまな意見にわかれています。完全に言語のみを介して人間が、人工知能と関わることも不可能ではないでしょう。問題は、言語は非常に帯域幅の狭いデータ伝送路だということです。言語を使って多くの情報をやり取りできるのは、人間にはその情報を解釈する背景知識がたくさん蓄積されているからです。
Yann LeCun, director of Facebook’s artificial intelligence research group.
フェイスブック人工知能研究所のヤン・ルクン所長
AIシステムに十分な情報を覚えさせるには、画像認識の基礎を叩き込むしかないと考える人もいます。画像認識は、言語に比べて情報量がとてつもなく大きいですから。機械に対して、「これはスマホ」、「これは蒸気ローラー」、「押せば動かせるものもあるけど、動かせないものもあるんだよ」と教え込めば、ひょっとして機械が世の中の仕組みについて学習するかもしれません。赤ん坊の学習方法みたいなものです。
赤ちゃんは明確に指示しなくても色んなことを覚えてしまいますよね。
我々が研究所で本当にやりたいことのひとつが、映像や他のデータ伝送路を通じて現実世界を観察させるだけで、機械が現実世界の制約に関する事実を非常に多く学習できるようにすることです。それができてこそ、機械は最終的にコモンセンスを身に付けられるでしょう。生後数カ月の動物や赤ちゃんはそうしてますよね。単に観察するだけで、人間は世の中について途方もない量の情報を身に付けるのです。現段階では、機械は世の中について非常に限られた知識しか持っていませんから、機械を欺くやり方はいくらでもあります。
観察によってソフトウェアに学習させる点で、どのような進歩が起きていますか?
我々が非常に興味を抱いているのは、学習型システムは将来を予想できるようにすべきだ、ということです。映像のほんの数コマを見せると、その後どうなるか機械が予想するのです。未来を予測できるようにシステムを訓練できれば、教師なし機械学習の根底となる手法を開発できたと見なせると思います。私の考えでは、今後興味深い研究成果が生まれてきそうなのはこの分野です。ビジョンはAIを進化させようという我々の研究でも大きな部分を占めていますが、応用できる分野は必ずしもビジョンに限りません。。
(ソフトウェアにビジョンを利用させることで世の中を理解させる研究プロジェクトについては以下の記事を参照:”Facebook’s Artificial-Intelligence Software Gets a Dash More Common Sense,” “How Google Plans to Solve Artificial Intelligence“)


以上引用終了
カントの無限判断については以下の解説が優れている。
http://amzn.to/2qlNEEp
カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む 2017/1/20
冨田 恭彦 (著)

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