海風に吹かれて
先日、新聞の投稿欄に埼玉県在住の若い一女性の書いた文章を見た。生後四ヵ月の赤ちゃんを育てているというその人は、日ごろ子供をおんぶして散歩しているという。子供も喜ぶし、自分にも良い運動になり一石二鳥と言っていた。この文は私に、はるか昔のある光景を懐かしく思い出させてくれた。
おんぶと言えば、近頃町で赤ちゃんを背負っている若い母親をあまり見かけない。子供の数が減っている上に、車の普及やベビーカーの使用などでおんぶなどという格好の悪いことは今の人はあまりしないのだろう。
私は子育ての頃はいつもおんぶだった。買い物中はもちろん、洗濯中も掃除中も、私の背中にはいつも子供がいた。心配性の私はいっときも子供から目が離せなかったのだ。おんぶしていれば安心だった。子供もまた私の背中がどこよりも居心地が良い所だったようだ。「あなたの背中にはいつも子供さんのいないことがありませんね」と同じ社宅の人に言われたことがある。
三十年近く前、私の一家は九州博多に住んでいた。夫が勤める会社の社宅だったその家は、博多湾から近く、海に出れば能(の)古島(このしま)がすぐ眼の前に浮かんでいた。作家の檀一雄が晩年二年ほど住んだという島である。
その頃は三人の子育ての最中だった。春先になり陽気が暖かくなると、ほとんど毎晩、夕食後に末の息子を手でおんぶして散歩に出かけた。まだ三歳くらいと幼かった息子は、この散歩が何より好きだった。背中の息子を後手で支え、二人とりとめのないおしゃべりをしながら、海とは反対側の電車通りまでゆっくりと歩く。八分くらいの道のりだった。
今は地下鉄になっていると思うが、その頃は昔懐かしい路面電車が走っていた。乗り物の絵本を見るのが大好きだった息子。何冊か汽車や、電車や、飛行機、また赤い消防車などの絵本を買って与えたものだ。
息子と二人、歩道に佇んで右や左からつぎつぎと走ってくる電車を飽くことなく眺める。三十分もして、「もう帰ろうね」といっても「もっと、もっと」とせがむ。心ゆくまで電車を見ると、ようやく帰途についた。
 途中、住宅街への曲がり角に一軒の駄菓子屋があった。ここで息子は必ず身を乗り出して「ぎゅうにゅう、ぎゅうにゅう」と店の中を指差した。店番のおばあさんが、「この子は本当に牛乳の好きな子だね」と笑いながら瓶入りを一本渡す。その頃、牛乳は瓶に入っていた。
息子は受け取るやいなや、それこそ一気飲みでゴクッ、ゴクッとあっという間に飲み干した。そして心底満足といった様子。「なんて飲みっぷりがいいんだろうね。この子はきっと大きくなるよ」おばあさんも小さなお得意さんに上機嫌である。「バイ、バイ、お休み坊や」の声に送られて家路につく。海からの涼しい夜風に優しく頬を撫でられながら。
 往きは元気におしゃべりしていた息子は、家に帰り着く頃には、私の背中にぴったりと顔を寄せてすっかり寝入っている。電車も沢山見たし、好きな牛乳もいっぱい飲んだし、母の背に揺られ、少し塩気を含んではいるが優しい海風に触れて十分に心満たされたのだろう。肩越しに見る幼い寝顔は本当に無心そのものだった。
 家では当時十歳と十二歳くらいだった二人の娘たちが布団を敷いて待っていてくれた。そこへ息子をそっとおろす。それきり朝までぐっすりと寝込んでしまう。この夕食後の散歩は、息子にとって眠りにつく前の心地よくまた大切なひと時になっていた。私と息子との貴重な心と身体の触れ合いの時でもあった。
 年の離れた弟を、二人の姉たちはとても可愛がった。息子がまだ赤ちゃんのころ、私が時折少し離れた街、おもに小倉だったが、そこへ買い物に行ったときなど、二人でミルクを飲ませたり、おむつを換えたり、お昼寝させたり、みな手際よくやってくれた。私は安心して用を済ますことが出来た。母親代わりも板についた二人だった。今でも息子が姉たちに一目置いているのは、年が離れているだけでなく、どこか心の深い奥底に、幼時のこの感触が残っているからだろう。
 色々あった博多時代のこと、今もあの美しい海や街の風景とともに懐かしく思い出す。あの駄菓子屋はもうないことだろう。路面電車も姿を消してしまっただろう。だが息子や二人の娘たちとの思い出は消えることはなく、今も私の心の中にありありと残っている。
二〇〇六年九月二十一日 執筆

青山霊園に祖父母の墓を訪ねる
連休直前の五月一日、妹と、妹の娘、私の三人で青山霊園を訪れた。広い墓地内は目の覚めるような美しい新緑で満ち溢れ、中の通路を爽やかな風が吹き抜けて、なんともいえず清々しい気分だった。
ここには私の実家の父方の祖父母が眠っている。実家の菩提寺は別にあり、先祖の霊は皆そこの墓地に葬られているのだが、この祖父母だけは、ここ青山霊園に祀られている。どうして二人だけ別の場所なのだろうか。私は一抹の疑問を抱いたが、もはや父母も、妹以外の兄弟も居ない今、詳しい事情を知る人もない。
 子供の頃、父と母に連れられ、兄弟たちと一度ここを訪れた覚えがある。七十年も前のことなので、はっきりとした記憶はないのだが、ただ、特有な墓石の形と、まわりに雑草が一面生い茂っていたことと、その草を抜く時、蚊の大群に襲われて難儀したということは不思議にはっきりと覚えている。
この墓に参ったのは少なくとも私の記憶ではこの時しかない。というのも、その後日本は先の見えない暗い戦争に突入してしまい、父母も菩提寺の寺に参るだけで精いっぱいで、ここ青山霊園にまで参る余裕はなかったのだろう。事実父はその後、十年足らずで母や子供たちを残し、一人死出の旅路へと急いでしまったのだ。また私自身も結婚後、夫の仕事の関係で九州や北海道を二十年近くも経巡(へめぐ)り心ならずも墓参は出来なかった。
墓石の形と場所の見当だけを頼りに園内を探したが、なかなか見つからなかった。無縁墓として処理されてしまったのだろうか。霊園の事務所の人に聞いてようやくその墓を見つけた。「ありますよ」と告げられたときは心底ほっとした。
それは広い霊園の一角に立っていた。今、何十年ぶりにまみえた祖父母の墓。感無量とはこんな気持ちだろうか。昔、草ぼうぼうだった墓域は綺麗に掃き清められていた。実は実家を継いだ甥が管理してくれていたのだ。
その墓は頂が三角形に作られてあり、石造りの板碑だった。やはり思っていた通りの形。子供の時の記憶は確かだった。
前面に祖父の生前の名前が端正な字体で彫られていた。「○○○○の墓」と。だが、戒名はまったく彫られてない。現世の名前のみである。
 裏面には祖父の生きた足跡が綴られている。明治の頃、和歌を教えていたという祖母の美しい文と筆跡で……。妹がその上に紙をひろげ、クレパスでなぞって拓本を取ろうとしたが、長い年月、雨風に晒されてきた文字は、多くが磨り減っていてはっきりとは読み取れなかった。だが、少しずつ読み進んでいくうちに祖父の生涯がおぼろげながら浮かび上がってきた。それは生前の父母から聞いていたものとあまり違わなかったが。でも詳しいことが判らなかったのは、残念だった。
 祖父は維新まで西国、某大名の江戸詰めの家臣だった。その後、たぶん長崎に留学したのだろう。蘭仏学、数学さらに新しい印刷技術を学んだという。その後、国の軍関係の学校で数学の教官をしていた。印刷事業も始めたようだが、少し世の中の進歩より早すぎたのだろう。うまくいかなかったらしい。やはり「士族の商法」というのだろうか。
 板碑の文面の終わりに祖母の和歌が一首彫られてあった。亡き夫の墓誌に祖母はどのような歌を残したのだろうか。是非読みたかったが、やはりかすれていてはっきりとは読み取れなかった。だが最後に書かれた祖母の名前と「明治二十八年八月建立」の文字ははっきりしていた。
明治二十八年とはいまから百十年も昔である。祖父は明治の世を真摯に生き、そして多分この年そのあまり長くはない一生を終えたのだろう。祖母はおそらく祖父の遺志によってここ青山にこのような墓を立てたのだと思う。
祖父の死んだとき私の父はまだ十歳にも満たない子供だったという。だが、祖母はその後、和歌の教師として生き抜き、三人の男の子を育てた。祖母の没年は不明だが、今は祖父と二人、この美しい霊園で永遠の眠りについている。
地下鉄「乃木坂」で妹たちと別れてから、私はまた先の疑問に取り付かれた。「祖父はどうして実家の菩提寺の墓に入らず、戒名も貰わず、ここ青山霊園に祖母と二人だけで鎮まっているのだろうか」という思いである。私だけの勝手な考え方かもしれないが、祖父は既成の宗教になにか飽き足らないものを感じていたのだろうか。新しい学問を学び、進歩的な考え方の持ち主であったらしい祖父は、お坊さんから戒名を戴き、お経を上げてもらい、先祖代々の墓に納まるという葬られ方は、なにか違和感を覚えて受けいれられなかったのかも知れない。それともほかに別の理由があったのだろうか。
祖父は孤高の人であったように思える。青山霊園の一隅に、百年を経て今も超然として立つその墓を見ると、死して後も生前の生き方を貫いた人という思いがする。そして和歌の先生をして生活を支えながら、三人の息子を育て上げた祖母に頭が下がる。
二〇〇六年五月十二日 執筆

道――博多再訪
昨年十一月、三連休を利用し、夫と息子、次女と私の四人で福岡県博多へ旅をした。三十七年前、夫の転勤で北海道へ旅立つまで四年半ほど一家が住んでいた街、博多。その前やはり福岡県の筑豊地方に住んでいた。それまでの筑豊の炭鉱町から移り住んできた家族にとって、博多はさまざまな思い出に満ちた、今でも忘れがたい街である。
明るい海と空、近代的で瀟洒な家並み、文化的にも整った環境、多くの歴史遺跡、大濠公園という美しく広い公園もあった。息子が幼稚園時代、そこの池畔の広場で行われた運動会のことなど、今もはっきりと思い出す。それまでの炭鉱町での日常は、私にとって子育てに夢中になっていた時でもあり、町の様子などあまり省みる余裕もなかった。しかも落盤、ガス爆発など悲惨な事件も多く、気分的に何か重苦しいものがあった。そこへ行くと博多での久しぶりの都会暮らしは私たち家族の心をのびのびと開放してくれた。
今回の旅行の目的の一つは、その博多への三十七年ぶりの再訪である。
言い出したのは夫。博多に聖福寺という古くて由緒のあるお寺がある。臨済宗の禅寺で、開山は栄西、源頼朝が建久六年創建したという。夫にはその聖福寺を再び訪れたいというかねてからの希望があった。
仕事のことその他で、博多時代多くの悩みを抱えていたようだった夫は、ある日訪れたこのお寺で座禅を組み、老大師のお話を直接にお聞きして深く感銘を受けたという。それから四十年近く経った今、人生の最晩年になって再び聖福寺を訪ねたいという夫の気持が分かるような気がして、私も一緒に九州に行くことにした。博多時代住み慣れた思い出の町々を、もう一度歩いてみたいという私自身の願いもあった。言ってみれば年を重ねてきた二人の、過去への感傷旅行とでも言えるかもしれない。
年寄り二人だけの旅を危ぶむ気持ちもあって、今回息子が同行してくれることになった。息子との久しぶりの旅は私にとってなによりの神様からのプレゼント。普段は特別に用事が無い限りあまり息子に電話も掛けないように心掛けている私にとって、今回一緒に旅ができるなんて夢にも思わない嬉しいことだった。
新幹線に乗り、途中広島県のF駅で下車した。ここには次女の家族が住んでいる。次女は「せっかく九州へ行くのだから、どこか温泉にでも一泊したら。湯布院なんかどうかしら。ご招待するわ」と言ったが、夫の目的はあくまでも聖福寺再訪である。次女の申し出をやむなく断った。それに腰を痛めている夫はあまり遠出は自信がないという。私は温泉一泊のほうがはるかに魅力的だったが、夫の気持ちは大事にしなければと断念した。
翌日、夫、私、次女と息子の家族四人水いらずで懐かしい博多の街を再訪した。この四人で旅をするのも久しぶりのことだ。今回は参加できなかった長女も一緒なら、なお良かったのだが。現在のような博多駅は、私たちが北海道に発つときはまだなかった。たしか、駅周辺の拡張工事が始まったばかりだった。それが今は地下鉄も走り、構内で迷うほどの大きな駅となっている。当時路面電車が走っていた道はもはや線路の跡もない。美しく植栽された街路樹が並び、瀟洒なビルが林立している。昔の面影はなかなか見出せない。博多ほどの大都市だ。三十七年の歳月を経れば変わるのも当たり前。けれど私の胸の中にある過去の追憶と現実の光景との隔たりはやはり余りに大きい。私はおのぼりさんさながら、道の傍らに言葉もなく立ち尽くした。博多時代の思い出が浮かんでは消え、消えては浮かんで胸の中がざわついた。
夫が「一日乗車券。福岡市地下鉄 六百円」という券をみなに買ってくれた。この券があれば博多の思い出の場所何処にでも行かれる。九州の大学に通っていた次女の息子も合流し、五人で乗り込んだ。
駅をでて最初に訪れたのは聖福寺だった。夫が再訪を強く望んでいたお寺。
夫がどのような気持ちで、昔ここで座禅を組んだのか詳しくは知らない。今広い境内には風格のあるお堂が立ち並び、さすが源頼朝建立の古刹だけあって、歴史の重みが十分に感じられる。私たち四人を残し一人お堂の中に入った夫は、暫く出てこなかったが、漸く姿を現したときは晴れ晴れとした表情だった。                                              
何回も、買い物にいった繁華街にある大きなデパート、大型書籍店みなそのまま残っていた。感無量という思いがする。
博多時代私たちは唐人町というところに住んでいた。今回、地下鉄に乗って、三十七年ぶりにこの駅名を見たとき懐かしさに胸がいっぱいになった。街に出てみると、賑やかな商店街が広がっている。どこか見たことがあるといった感じがする。でもはっきりと思い出すものは無い。少し歩いていくと漸く記憶が蘇ってきた。そう、ここは博多時代毎日買い物に歩いた道だ。当時を思い出し一歩一歩海のほうに向かって歩いた。この先に私たちが住んだ社宅が三軒建っていたはず。だが、それらしい家は一軒もない。三十七年も経っているのだ。無いほうが当たり前かもしれない。跡地には洒落れたマンシヨンが一棟。マンション住人用だろう。駐車場が広い面積をしめている。変わってしまったな。ちょっと寂しいような思いが湧いてくる。飼い犬のロックが死んだ家だ。
次女が「お母さん、学校がある」と叫ぶ。子供が通った小学校が昔のままのところに建っていた。裏門から校庭に入った次女が「校舎の壁の塗り替えはあるけれど、みんな昔のまま」と感慨深くつぶやく。息子が通った幼稚園は見当たらなかった。
その先は昔海だった。海岸沿いの道を息子と一緒に犬の散歩をしたのも遠い思い出。埋め立てされた海は今は陸地となり、マンションが林立している。海の片鱗もみえない。いつこんなに変わってしまったのだろう。思っても詮無いことだが、やはり何十年ぶりの再訪者としては感慨を覚えずにはいられない。
そう、長い長い月日が流れたのだ。十年一昔という。四十年近くたってしまったのだ。そのまま残っているものもあるけれど、永久に姿を消したものもある。それが人間の営みというものだろう。
歩きながら私は思った。建物は姿を消しても、風景は変わっても、唯一つ「道」だけは変わらないと。昔のままの道がそのまま残っている。私がまだ幼かった息子を背負い歩いた道、胃潰瘍になった高校生の次女を思って、今日はなにを食べさせたらよいかと思い悩みながらスーパーまで歩いた道。どれも数々の思い出と、私の当時の切ない心情の詰まった懐かしい道だ。その小さなスーパーが今でもあった。店の名もそのままに。長い年月を経てきたというのに……。懐かしくて胸が一杯になった。
昔懐かしい唐人町を四人で歩きながら、私の心はひとり追憶に浸っていた。
道は人々を導く。過去へも未来へも。どんな山奥でも人がいる限り道はある。道がなければ人々は何処へも行かれない。私と夫の今回の博多再訪はたんなる過去への感傷旅行だけではなく、二人の更なる生への第一歩のような気がする。
帰りの新幹線の車中で。夫と息子はぐっすりと眠っていた。旅の疲れもでたのだろうが、とても心地よさそうな眠り。私もひと眠りしたくなってきた。
二〇〇八年三月二四日 執筆

ある出会い          
国道沿いの道を一人で歩いていた。九月初めのある昼下がり、まだ残暑がきびしかった。
ふと前方に、見慣れぬ男性が歩道の端に立ち止まって、じっと向かい側を眺めているのに気がついた。歩道の脇は一面の林、樹木がうっそうと茂っている。雑草が道の中ほどまで伸びていて、道幅を狭めていた。道幅は元の半分以下になっていた。
 私は、立ち止まっている男性のすぐ脇を通り抜けようとした。その先の図書館分室に用があったからである。肩すれすれになったので、「失礼します」と一言、声をかけた。その時男性は顔をこちらに向けて、私をじっと見詰めた。野球帽を目深に被り、人相は定かではない。たしか黒いシャツに黒っぽいズボン姿だったような記憶がある。年のころ二十代中頃の若い男だった。
 男性が眺めていたのは、国道の向かい側に最近建ったばかりの、大きくて立派な建物だった。最初ホテルでも建つのかと思ったが、完成後の看板によれば、それは介護老人保健施設の専用リハビリケアセンターだった。青年はいきなり私に話しかけてきた。
「あんな所で働けたらいいのにな」
 黙って通り過ぎれば良かったのだが、私はつい相手になった。
「あぁ、こういう所で働きたいんだったら、ヘルパーさんの資格を取ったらいいんじゃないの。今はあちこちにヘルパー養成講座があるから、一生懸命勉強して資格を取れば、働けると思うけど」
「うん、だけど俺、年寄りの世話はあんまり好きじゃない」
 これでは話が噛み合わない。仕方がないと私は再び歩を速めた。するとその青年が更に追いかけるように言った。切羽詰った感じだった。
「俺、今日たった今、クビを切られたんだ。A町からここまで歩いて来たんだ」
 私は驚いた。A町といえばJRのB駅の近く、ここまで来るにはモノレールを四駅乗り、さらにバスで十五分以上。とても私のような年輩者に歩ける距離ではない。さぞ疲れたことだろう。でもさすが若い男と感心した。
「俺、今朝からメシ食ってないんだ。田舎へ帰りたいけど汽車賃が無い。七千円かかるんだ。おばさん、金、持ってないか。持っていたら俺にくれないか。五百円でも、千円でもいい。腹ペコなんだ」
 この言葉を聞いて、瞬間私の脳裏にひらめいたのは、(これは危ない)という気持ちだった。初対面の人にいきなり「金、くれ」とは。ちょっと普通ではない。この男とは一刻も早く離れなければ。この辺りの国道は、車は通るが歩道に人影は少ない。その時も近くには人一人いなかった。うっかり気は許せないと内心思った。
 ついこの間も、団地の回覧板に、最近この近くではひったくりが多いので、とくに高齢者は注意するようにとあった。この青年を前にして、私は心の中で身構えた。だが、私は一方では「人間の本性は善である。根っからの悪人はいない」と言う古人の説を信じている。私はこの青年をいきなり悪い人と決め付けたくはなかった。千円、せめて五百円でもこの男性に渡そうと思った。そのお金で一時的にでも空腹をみたせればそれでよいのではないか。そうすれば、ほんのささやかなことでも、私の気持ちには平安がもたらされる。
 私はその青年に五百円渡そうと思った。だが、瞬間、あることにハッと気付いた。あいにくと言おうか、その時財布の中にはいつもより少し余分にお金が入っていた。その後買い物の予定があったからである。小銭入れは持っていなかった。
 財布をあけた時、この青年の眼には、いやでもこのお金が眼に入る。その日リストラされて切羽詰っていたこの人は、それを見て瞬間何を考えるだろうか。人間とは弱いもの。若しかしたら、ふと悪い心の誘惑に駆られないとも限らない。悪くすれば、私はコンクリートの歩道に倒され、財布を奪われるということにもなりかねない。恐ろしい場面が頭に浮かんでぞっとした。  
「悪いけど私ね。今図書館に返本に行くところなの。それでね、お金持ってないの」
 私はとっさに嘘をついた。あの青年をだました。わが身を守ろうとする本能が瞬間働いたのかも知れない。
「そうか、本を返しに行くのか。ふーん」
 青年は、本で膨らんでいる手提げ袋をちらと眺めた。本当に本を返しに行くと、納得したのだろうか。
「この先少し行くと交番があるから、そこで訳を話したら、お巡りさんがパン代くらい貸してくれるかも知れないわ」
「交番はちょっと苦手なんだ。別に悪いことしてるわけじゃ無いけどね」
 程なく図書館分室の所まで来た。国道の反対側である。青年が再び話しかけてきた。
「あのね。この近くにお寺は無いかね。お坊さんなら貸してくれるかもしれない」
 この言葉を聞いたとき、私ははっきりとこの人は悪い人ではない、本当にリストラされて困っているのだと思った。もし悪い人ならば、お寺に行ってお坊さんにすがろうなどという発想は浮かばないのではないだろうか。
「あぁ、その四つ角に、どこかのお寺の名前と道案内が出ているから、行ってみたら」
信号が青になったので、「じゃぁ、ここで」と別れた。わざとらしいとは思ったが、ひとこと言った。
「頑張ってね。またきっと良いことがあるから」。 
青年は四つ角の方へ足早に歩いて行った。後ろ姿を見送りながら思った。どうか、お坊さんが仏の慈悲の心で、この青年に「一椀の粥」でも与えてくれないだろうかと。職を失って失意のあの青年に、少しでも人の心の温もりを感じさせてあげたかった。
 二、三日まえ、娘が遊びに来た時、この話をした。
「お母さん、オレオレ詐欺なんかもあるし、年寄りは狙われやすいんだから、よっぽど気をつけてね。だれも歩かない道など、絶対に通っては駄目よ」と真剣に注意された。
 確かに娘の言うとおりの怖い世の中。注意は十分にしなければと思う。やはり、あの時、お金を渡さなかったのは正しかったのかもしれない。けれどあの青年を信じて渡したほうがよかったとも思われる。どちらが良かったのか、私はいまだに分からない。過ぎてしまったことなのに、十日以上経った今でも、時々考え込んでしまう。
都会で、一人まじめに働いている若者にも、リストラの波は容赦なく襲う。あの、どこか人のよさそうにも見えた青年は、今、何処でどうして暮らしの糧を得ているだろうか。
 たった五、六分話しただけの行きずりの青年だが、また良い職について元気に働いて欲しいと願っている。
二〇〇三年秋 執筆

お地蔵様            
 十年も前のことだが、埼玉県の朝霞市に住んでいた頃、週一度木彫り教室に行く時、必ず通る川沿いの小道があった。
 その川はそれほど川幅は広くはなかったが、水量は豊富で、周囲の豊かな自然との調和が美しかった。
 私はこの道を通るのが好きで、静かに流れる川面を眺めたり、時々ザザッと泡立つ水音や、木々のざわめきに耳を傾けながら、ゆっくりと歩いた。おかげで、木彫り教室にはたびたび遅刻したが……。
 途中川を渡ると、橋の際に小さなお地蔵様が立っておられるのが目に付いた。未だ建って間がないらしい様子だった。最初のうちは露頭のままで雨風に晒されていたが、いつの間にか、こぢんまりとしたお堂が出来てその中に鎮座されるようになった。
 どうしてこの様なところにお地蔵様がいらっしゃるのだろう。私は歩きながら思いをめぐらした。もしかしたら、その辺りの川に落ちて子供が死んだのか、また、案外車も通るので、ここで交通事故死で亡くなったのか、親がその供養の為に建てたのかもしれない。
 木彫り教室への行き帰りには、いつもその前を通ったが、新しい花や、線香、供物が絶えることがなかった。私もここを通る時は必ず立ち止まって手を合わせた。なにか素通りできない感じだった。そしてその度に思うことは、人は死んだら魂はどうなるのだろうかという事だった。 
 人間は死ねば肉体とともに全て無に帰するのだろうか。それとも死と同時に魂は肉体から抜け出て、どこか宇宙をさまようのだろうか。若しかしたら遥か遠い宇宙などではなく、心を残してきたこの世の生者の近くにいて、その生者を守っているのかも知れない。
 私はこのお地蔵様の前を通るときは、ここで命を落としたかも知れない子供の魂の在りかや、その親の嘆きなどを思いながら、木彫り教室への道を歩くのが常だった。途中、美しい生垣のある広い霊園を過ぎると、その先が教室のある公民館だった。
 教室に入ると、既に何人かの人が一心に彫刻刀を動かしていた。その頃私は大きな額を彫っていた。花と戯れる一人の少女の姿が、まるで生きているように厚い板の中から浮かび上がって来て私に話しかける。この少女を美しく可愛く彫り上げたいとの思いでいっぱいだった。
 人の表情を彫る時、私はいつも誰か実在の人の面影を心に思い浮かべる。そのほうがイメージがはっきりして彫りやすいから。だがこの時、私の分身とも言える板上の少女の顔は実在の人ではなく、あの、私が教室への行きかえりに手を合わせたお地蔵様とそっくりだった。私は知らず知らずのうちに、あのお地蔵様のお顔にすっかり魅せられていたようだった。
 優しくて、穏やかで、ひっそりと笑みを浮かべていたあのお地蔵様は、きっと今でも赤い涎掛けをかけて橋の際に立っておられることだろう。このとき彫った「花と戯れる少女の額」は今も私の部屋の壁の上にかかっていて、時々、川沿いの小道や、霊園の美しい生垣や、教室の仲間たちを懐かしく思い出させてくれる。もちろん、あのお地蔵様の可憐な立ち姿も……。
二〇〇六年八月二〇日 執筆

あたし、もう四歳                                                                
柔らかい初夏の日差しがあたり一面に注いでいた。昼さがり、団地の自治会館の前の道を歩いていた時のこと。道路より少し高めの位置にある会館の玄関口へは、片側に躑躅(つつじ)の植え込みのある小道が繋がっている。この道、やや上り坂になっているので、たぶん高齢の来館者への配慮からだろう。植え込みに沿って緩やかな傾斜の金属の手すりがついていた。
歩きながらふと見ると、小さな女の子がその手すりにぶら下がって、しきりに逆上がりの練習をしている。私は横目でそれとなく眺めていたが、なかなかうまく出来ない。顔を真っ赤にして両足を何回も上げてはいたが、やはり失敗の連続だった。だが、めげずに頑張った甲斐があったのか、五、六回目にやっと成功した。
女の子は手すりの上に身を乗り出してにっこりと私を見た。
「お嬢ちゃん、逆上がり、とっても上手ね」
私は立ち止って褒め言葉をかけた。
「あたし、もう四歳なの。だから、こんなこと出来るの」
この子はこう言って、それまでなかなか出来なかったことなど忘れたかのように、なんともいえず嬉しそうな、ちょっと得意そうな表情をした。逆上がりが出来たことがこんなにも嬉しいんだなと私は思った。その時の言葉もなんとも可愛いせりふだった。もしかしたら、日頃母親から「もう四歳なんだから、なんでも一人で出来なきゃね」などと言われていて、その子なりに母親の期待通りのしっかりした四歳の女の子になろうとつとめているのかも知れない。
 周りには人は一人もいなかった。団地住民の殆どが車持ちだからか、この道路には、人はあまり通らないが車は結構走っている。今時の怖い世の中、誘拐とか車の事故とか何が起きるか分からない。
こんなところに一人でいて大丈夫かなと心配になってきた。自治会館では、週に何回か、囲碁、料理、ダンス、健康体操その他さまざまなサークル活動が行われている。多分この子の母親も中で何かの勉強をしているのだろう。夢中になって子供が外に出て来ているのに、気が付いていないのかも知れない。一人で退屈になって玄関の外に出て来たのだろうか。
女の子は手すりを降りて道路わきの私の傍に来た。なにか話したいようだった。逆上がりを褒めてあげた私に親近感を抱いたのかもしれない。人に褒められるのは誰だって嬉しいのだから。
その子はなかなか私の側を離れようとしなかった。暫く言葉を交わした後、ちょっと歩き出そうとした私について来そうな様子だった。私は思わず言った。
「お母さん心配するわ。お母さんのところに戻りなさいね」
「大丈夫、あたしのお母さん、心配しないの」
もう四歳になっているこの子。自分が居なくなれば母親が心配することは分かっていることだろう。でも、あたしのお母さん、心配しないから大丈夫と、あえて自分の心とは反対の言葉を口に出してまで、私の側を離れようとしなかった。母親が構ってくれなくて余程寂しくなってしまったのだろうか。
「そんなこと無いわ。貴女がいなくなったらきっとお母さん心配するわ。中に入ってお母さんのそばに行きなさいね」               
私はドアを開けた。今度は素直に中に入った。バイバイと手を振りながら、にっこり笑った。私はほっとして家路に向かいながら、心の中で「また会おうね」と呼びかけた。
この日、私の心の中には時折爽やかな風が吹き抜けた。あの子のあどけない表情とかわいいせりふを思いだした時に……。
二〇〇七年一一月二日 執筆

数字と向き合った日々  
夫の転勤で二十年近く九州や北海道と炭鉱町を巡り、漸く東京本社に戻った時、私は五十歳に間もなく手が届く年齢になっていた。
社宅から社宅へと何回もの引越し、子供たちの受験、夫の単身赴任など、本当にあっという間に過ぎた日々だった。東京を出る時、まだ幼稚園年少組と、二歳をちょっと過ぎたばかりだった娘たちは、すでに大学生となり千葉市内に下宿していた。九州で生まれた末っ子の一人息子も、もう中学生だった。 
帰京後、家族がそろって住み始めた社宅はマンションの三階で、それまでの田舎町では見たこともなかった文化的な施設が整っていた。最初、瞬間湯沸かし器の操作がわからず慌てたり、近くの大きなスーパーに始めて買い物に行った時には、品物の豊富さに驚いたりした。毎日の生活が格段に便利になって来て、どうやら、快適な都会生活が送れそうな予感もして来た。
だが、そんな街での暮らしにもだんだん慣れて来た頃、私の胸の中には、小さな空洞がぽっかり開いてきた。家族がみな会社や学校に出た後、私はいつも一人。もともと人付き合いは苦手だったが、あまりに社会との接点の無い生活、コンクリートの壁に囲まれた生活に、私はなにか空しさを感じずにはいられなかった。今のように公民館などでいろいろの講座などがある時代でもなかった。胸の中に次第に大きくなっていく空洞を埋めることが出来なかった。今から思えばたいした悩みでも無かったと言えるが、当時は真剣に悩んでいた。
おおげさに言えば、ただ自分が生きる意味を掴みたかったということだったろう。このまま一生を終わるのだろうかという漠然とした不安感にも襲われた。
幸い子供たちは大きくなり私の手を離れていた。田舎の社宅街での人間関係の煩わしさからも解放されていた。私は一度働きに出てみようと決心した。
結婚後は全くの専業主婦で、しかも五十歳近い自分がいきなり職を見つけることは、至難の業と覚悟して仕事を探し始めた。私は九州時代、子育ての傍ら一年間通信教育で勉強し、複式簿記二級の資格を取っていた。しかし、夫の転勤による慣れない土地での生活が続き、なかなかそれを生かすことはできなかった。
帰京してはじめて、就職活動を始めた時、こんなに早く職が見つかるとは思っていなかったが、暫くしてある中小企業の経理係として職を得ることが出来た。雇用情勢が良い時代だったのも幸いだった。
私は熱心に仕事に励んだ。だんだん面白くなってきて、毎日出勤するのが楽しくなってきた。朝、急いで家事を片付け電車に飛び乗った。娘時代以来久しぶりの通勤生活。混んだ車内も新鮮な刺激と受け取れた。
複式簿記の仕事は私に向いていた。学校時代から数学が好きな学科だったからか、事務机に向かって計算機片手に数字を扱うことがなんら苦にはならなかった。帳簿付けなど面倒と嫌う人が多いと思うが、私はそれが楽しかった。少し変わった人間だったのだろう。
どうしてこんなに複式簿記が好きだったのだろうか。今、思うと、それは複式簿記の「均衡の美」に強く惹かれていたからだと思う。この均衡の美とは、帳簿とか表の、左と右の金額がぴたっと一致して美しい平均を保つことをいう。何百万と、どんなに大きな数字でもどこかでたった一円でもミスがあれば、其の均衡はすぐさま失われる。会計帳簿の左と右、つまり借方と貸方の数値の正確な一致が絶対の条件である。もし合わないときは、どこかに間違いがある証拠と私は懸命に原因を探した。帳簿の隅から隅まで調べる。面倒な仕事だったが、嫌だとは少しも思わなかった。不一致の原因が分かって、左右ぴたりと一致し、帳簿や表が美しい均衡を再び取り戻した時は、満足感でいっぱいだった。そのために、記帳、計算、転記などに常に細心の注意が必要だと毎日肝に銘じて仕事をした。経理の仕事には一円のミスも許されないと、かつて上司に言われたこともある。
この仕事は天性私に向いていると思った。そういえば、女学校時代、数学、特に幾何が好きだったことも、これと合い通じているように思う。簿記で均衡の美を追求することも、幾何で正確な「証明」を考えることも、私にとっては同じことだった。何れもきちんとした結果を出すことが必要だったからである。またそれが出たときの喜びも同じだった。
今でも学校で幾何という科目があるのか、私は知らない。でも戦時中、私はH先生という背の高い男性教師にそれを教わった。勤労動員の合間の短い時間だったが、まるでパズルでも解くように、幾何のさまざまな問題の証明を考えるのはとても楽しかった。戦後何年か経ってクラス会が開かれ、先生の元気な姿に再会できた時は嬉しかった。先生が兵隊に取られたという噂があったからである。今でもそのときの写真が残っている。若かりし時の私自身の面影も一緒に。
夫の仕事の関係で埼玉に引っ越すまで、この職場で足掛け五年近く働いた。その間、さまざまな人生勉強も経験した。お金を得ることの大変さ、男性社員が家族のためにどれほど苦労して働いているか、上司や同僚との人間関係の難しさなどなど。でも仲の良い友人と出会えた。それらの人々は今、どうしているだろうか。
長いようで、短くもあったこれらの日々。充実してはいたが、さまざまな苦労もあった。そんな時職場の自席の前に坐るとまた元気が出た。そういえばあの席は上司の謹厳課長のまん前だった。
あれから二十数年の月日が過ぎ去った。好きな数字と向き合った日々の思い出は、多くがすでに遠い霧の中に、うっすらとその姿を残すのみになった。今では一場の夢といった思いもする今日この頃である。          
二〇〇六年二月一八日 執筆

私の散歩道
雨降りや用事のある時以外は、殆ど毎日散歩に行く。そのコースは三通りあって、行き先は出かける時の気分次第で決まる。「第一のコース、林」、「第二のコース、田んぼ」、「第三のコース、特養老人ホーム」。この三つである。 
「今日は林? それとも下の田んぼにする?」同行の夫と二言、三言話す。いつも一緒に行くので、あの夫婦は仲が良いなどと見当違いな誤解を受けているかもしれない。
 第一のコースは、杉木立の中を抜ける道である。この林道はいつも薄暗く、私は一人ではちょっと怖くて歩けない。三、四百メートルの距離だと思うが、途中めったに人には会わない。たまに犬連れの人に出会うくらいだ。夏には時折、蛇と出くわし、思わずぎょっとして後ずさりする。
 だが、ひとたびこの林を抜けると、広々とした畑が一面に広がり、気分がとてもすっきりする。思わず深呼吸をしたくなる。春から晩秋へと、様々な野菜がこの畑で育ち収穫される。散歩の道すがら、その育ち具合をじっくり観察するのは楽しい。農作業の苦労も良くわかる。「じゃがいもの花がこんなに咲いてるよ。どの野菜もよく育っているね」などと話しながら歩く。働いている農家の人たちに出会ったときは、ちょっと会釈して通りすぎる。
 去年の秋のこと。赤、白、ピンク、紫など、色とりどりのコスモスが広い畑を一面埋め尽くしていた。まるで絨毯を敷き詰めたように。幾千もの可憐な花たちがさわさわと風に揺れ動き、その見事な美しさ。ため息が出る程だった。だが、このコスモスは畑の肥料にするらしく、ある日突然一本残らず刈りとられてしまった。無残な刈り跡の光景だった。花時にはたっぷり人の目を楽しませ、最期は他の作物を育む肥料となって朽ち果てるこのコスモスの一生。頭が下がる思いだ。
 ピーナツ畑も穫り入れがすみ、積みあげられた豆殻の山が幾つも並んで、いかにも晩秋といった気配が漂う。カラスが頻りと頭上を飛び交い、畑の上に舞い降りる。ピーナツの落ちこぼれでも突付いているのだろうか。どうせ捨てられたもの。食べたいなら欲しいだけ食べなさいといった気持ちで眺める。
 第二のコースは、低い里山の間に開けた谷津田のそばを歩く道だ。夏のよく晴れた日など、たっぷりと水を張られた田んぼがきらきらと輝き、離れて見るとまるで巨大な鏡のように見える。ここも、稲作の一部始終を観察できる。だが今はすべて機械による農作業で、昔の田植えの風景など全く見るよしも無い。二、三年前まではあぜ道の傍らでゲッゲッと蛙の鳴声ものどかに聞こえていたが、近頃はさっぱり耳にしない。物言わぬ生き物が少しずつ減っていく。農薬散布など人間の行為の結果だろうか。
「第三の特養老人ホーム」というコースは数年前に建った特養施設の前を歩く道である。日曜日など、家族の人がお年寄りに面会に来るらしく車が何台も停まっている。けれど、外から見る限りは人の動く気配は全くしない。並んでいる二階の窓にも人の姿は一切見えない。ただ窓際に花鉢が一つ、二つ見えるだけだ。私はいつも不思議に思いながら前を通る。お年寄りは皆寝たきりなのだろうか。窓から外を眺めるなどと言うことはしないのだろうか。窓際に元気な姿がちょっとでも見えたら嬉しいのだが。
ホームを過ぎると道は下り坂になり広い稲田に出る。まん中の一本道を進むと、途中小さな川が横切っていて、橋の下には小さな堰がザアザアと騒がしく泡立っている。ここが散歩の折り返し点となる。一休みして引き返す。往復五十分ほどの道のり。一寸疲れる。
秋、彼岸の頃に真っ赤な曼珠沙華が近くのあぜ道に群生する。曼珠沙華とは梵語で天上の花という意味らしいが、一名彼岸花ともいう。この花は不思議な花だ。決まって彼岸のときに咲き出す。天上にいる死者の魂が、この時、人々の法要や墓参に合わせて、地上に姿を現す仮の姿かもしれない。     
私の散歩道――。寒さの厳しい今、どこもしんと静まり返っている。春、樹間を鳴き渡る鶯たちも、夏に賑やかな蝉たちも、秋、草叢に鳴く小さな虫たちも、どこに行ったのだろうか、みな姿を消した。今、林も畑も田んぼも静かで寂しい冬枯れの時だ。だが私は飽きもせず今日もこのコースを歩いた。やがて訪れる早春の息吹が、この寒さの中でもひそかに心と体に感じられるから……。 
二〇〇三年一月二十五日 執筆

詩の朗読ごっこ
数年前の正月、長女が子供たちを連れて遊びに来た。大学を出て既に社会人になっている一番上の子、大学生、高校生の三人である。午後のひと時、炬燵で温もりながら、「詩の朗読ごっこ」というちょっと変わった遊びを楽しんだ。この遊び、実は夫の発案である。
我が家に『世界の名詩を読みかえす』という詩集がある。かつて、夫が息子の本箱で見つけ、その後本屋さんで自身購入したもの。ヘッセ、リルケ、ハイネ、ケストナー、ゲーテなどの有名な詩人達の名詩の数々が載っている。さすが世界の名詩、珠玉のような作品ばかり。薄い小さな本だが、挿絵がまたとても美しい。良質なメルヘンを思わせる淡い色彩は見るものの心を詩の世界へといざなう。手に持っただけで心が揺らめくような美しい詩集である。
「詩の朗読ごっご」とは、各自がこの詩集の中からそのときの自分の気持ちにぴったり合った詩を選び出して録音しながら順々に朗読し、その後すぐ再生して皆で聞きあうという遊びである。別に朗読の仕方の上手、下手を競うわけではない。
沢山ある詩の中から短時間で一つを選ぶのは難しい。でもいくつか見ているうちに不思議とこれぞというのにめぐり合う。その時の自分の気持ちとピタッと波長があうのがある。
「さ、いいかい、もうみんな決まったかい」 夫の声に孫たちは「まだだよ、まだだよ」と大騒ぎである。
録音器を炬燵の上において先ず夫から始める。一寸しゃがれ声だがそれなりに風格がある。次は私、娘、孫たちと年齢順に読みはじめる。こんな遊びは始めてなので、幾分緊張するが、心を込めて朗読する。
その後、すぐに今度は同じ機器で再生する。詩を黙読するのと、声を出して読むのとは随分感じが違う。だが再生して聞くのはさらに異なる。声も実際のとはだいぶ違う。私は自分のかすれ声に驚いた。それに私はあまりに感情を込めすぎた。却ってわざとらしくて耳障りだった。淡々と読んで、しかも人の心を打つように素直に詩の心を表すのは難しい。そこへ行くとさすが若い人たちはとても繊細な感性をもっている。詩の選択も朗読の仕方も、素晴らしい。じっと聴いていると、なにか胸にぐっと迫るものがあった。
三人の孫のうち、末っ子の男の子が選んだ詩はヘッセの『ひとり』という詩だった。

この地上には
大きな道や小さな道がたくさん通っている
でも行きつく先はどれも
おなじ
馬で行くも 車で行くも
二人で行くも 三人で行くも よし
でも 最後の一歩だけは
一人で行くしかない
だから やりたいことは何でも
ひとりでするのがいい
それよりいい知恵も 方法もない

人間は結局一人ぼっち。それなら一人で生きていくほかはない。この子はまだ若いのに、既にこんな人生観をもっているのだろうか。友達も別に自分からは求めないのだろう。それにしてもその朗読には本当に心を打たれた。静かな抑制の利いた声で、しかも要所要所は巧みなメリハリが効いている。まだ子供だと思っていたが、いつの間にこんな繊細な感情表現ができるようになっていたのだろう。もう私など手の届かないところまで育っている。
あの時の録音テープをもう一度聴いてみた。
朗読と朗読の間の皆の会話がとても楽しい。本当に賑やかそのもの。こんな素敵な遊びを考えてくれた夫に感謝したい。そしてこんな素晴らしい詩集との出会いをもたらしてくれた息子にも。 
二〇〇七年六月七日 執筆

電車の中で                 
今年正月七日、夫と浅草の観音様に初詣に行った。
往きの車中でのことである。西船橋で総武線から東西線に乗り換えたとき、ドアのすぐ傍に腰掛けていた五十代半ばと思われる女性が、つと立ち上がり「どうぞ」と席を譲ってくれた。一度は遠慮したのだが、「次降りますから」と再び勧めるので、「有難うございます」と丁寧にお礼を言って腰掛けた。
 私は今まで電車の中で席を譲られるという経験はあまり多くは無い。といっても朝夕の混んだ電車にはなるべく乗らないようにしているせいもあるが。けれど譲られたときは、有難く感謝の気持ちで腰掛けさせていただく。
「失礼ね。わたしゃそんなお婆さんじゃないよ」などと内心むくれたりはしないようにしている。人の善意は素直に受けたほうが良いと思っているから。
 そのあと、日本橋で銀座線に乗り換えた。そのときはちょっと驚いた。というのは、ドアの右側に腰掛けていた中年女性がまたも席を譲ってくれたのだ。午前中のわずかな時間のあいだに二度も譲られるなんて……。私はよほどお婆さんに見えたのだろうと少しばかり悲観した。
その日、私は風邪気味で外出はちょっと無理かなと思ってはいた。でも毎年恒例の観音様詣が、あまり遅くなるのも気がかりなので、思い切って出かけた。顔には三角形の大きなマスクをかけ、長めの丈のコート、手袋、帽子、毛糸編みの襟巻きと、重装備をしていた。防寒対策は万全だった。でもこんな姿が余計に年齢よりも老けて見せたのかも知れない。まあ、これは多少負け惜しみかもしれないが。
 最初東西線で席を譲ってくれた五十代の女性は、そのままスーッとよそへ移動してしまった。次降りると言っておられたから、其のときちょっと会釈でもして感謝の気持ちを表そうと思っていたけれど。
 日本人はちょっとシャイなところがあるようだ。人に席を譲るという良いことをしたのに、まるで格好悪いとでも思ったように、どこか別の席に行ってしまう。そのまま譲った人の前に立っている人は少ない。好意を押し付けているように自身思われて、なにか気がひけるのだろうか。またお年寄りに席を譲ろうと思っても、行動に移る勇気が出ない人もいるらしい。これは若い人に多いようだ。
 ところが銀座線で席を譲ってくれた女性は、通路を隔てた向かい側の空席に腰掛けてにっこりと笑顔で私の顔をみつめている。人に席を譲ったことが自分自身の大きな喜びでもあるかのように。私の隣にはその女性の友達か夫かは不明だがやはり三十代半ばと思われる男性が二人腰掛けていた。この人たちも、優しくて親しみの溢れた微笑を投げかけてくれた。自分たちの仲間うちの女性が、他人に対して善意の行動を取ったことが、とても愉快でならないかのようだった。私は全くの他人からこんなに邪気のない笑顔をむけられたのは始めてだった。開けっぴろげで無邪気で素直な人たち……。心のままに感情表現のできるこの人達が多少羨ましかった。
 実はこの人たち日本人ではない。近頃テレビでよく見かけるアラブ系の人たちと思われる。目鼻立ちの大きくてはっきりとした顔が印象的だった。日本への観光旅行の途中なのだろうか。そうだとすれば、今、中東を覆っている戦争の影響は受けなかったのだろうか。戦争の惨禍から遁れられた人々なのだろうか。
同じ浅草駅で三人とも下車したが、降りるときも私の顔を見てとても親しげに微笑した。善意の溢れた笑顔だった。私も微笑みながら「有難う」と心を込めてお礼を言った。この日本語が通じたかどうかわからないが、でもこんな場合言葉など必要ないようだ。言葉はなくても双方で交わした笑顔で、お互いの気持ちは十分伝わったに違いない。
「文化や言葉には壁があっても笑顔には国境がない」
とはどこかで聞いた言葉である。それにしても、前の電車で私に席を譲ってくれた五十代の日本人女性と、このアラブ系の人たちと、どうしてこんなにも感情表現の仕方が違うのだろうか。どちらが良いとか悪いとかの問題ではまったく無いが、これは矢張り国民性の違いとしか言えないのかもしれない。
風土とか、歴史、文化、民族などの相違が影響して、長い間にこのような異なる国民性を作り上げたのだろうか。なかなか分からないことである。若い頃戦争の影響で十分出来なかった世界史の勉強をもっとしなければと今頻りに思っている。
 子供の頃、父が「アラビアンナイト」の童話本を買ってくれたことがあった。挿絵の中の髭を生やしたアラブ人が、子供心になにかとても怖い人たちに思えた。ことにあの「開けゴマ」の科白が不気味で、今でも恐ろしげな記憶として残っている。でも今回電車の中で会った人たちは、三人ともみな優しくて私に笑顔の素晴らしさを教えてくれた。 
笑顔は人間関係の最良の潤滑油という。笑顔を向けられて怒る人は多分いないと思う。また感情表現を豊かにするということも大切だ。あの三人のアラブの人たちのように、なんの飾りもなく心の中を素直に表現できるように私もなれたらと思う。暮らしの中で何気なく口にする言葉の中でも、日頃、書き綴っている文章の中でも……。
二〇〇五年四月二五日 執筆

葬送と再生    
<フォーレのレクイエム>       
美しい旋律が斎場の中を静かに流れていた。フォーレのレクイエムである。参列者たちが一本ずつ白い菊の花を献花する間、その心に染入るような調べは、途中途切れることなく続いていた。
 フォーレは一八四五年から一九二四年まで生きたフランスの作曲家である。歌曲、室内楽、ピアノ曲などにすぐれ、その叙情的な作風は数多くの人に好まれている。
その夜、埼玉県新座市の葬祭場で、妹の夫、和夫の通夜の営みがしめやかに行われた。斎場に流れたこのレクイエムは、和夫がまだ元気だった頃、一九九四年、池袋の芸術劇場で、仲間のオーケストラ楽団員とともに奏でたものだった。和夫は自らもその一員として演奏した音楽に送られて、黄泉の国へと旅立って行った。
「僕の葬式は必ずこの曲を流して音楽葬にして欲しい」
和夫は生前、妻の由紀子にこの様に言っていたという。
「あの人の望み通りの素晴らしい音楽葬をしてあげることが出来た。私は今満足感でいっぱいよ。何も思い残すことはないの」
 葬儀がすっかり終わったあと、彼女はしみじみと言った。六人兄妹のうち、今たった一人だけ残っている私の妹、由紀子。彼女のこの言葉には深い悲しみと共に、無事に夫を送った妻の安堵感も滲み出ていた。
長い闘病生活だった。約一年半、由紀子はともすれば希望を失いそうになりながらも、最期まで献身的な看護を続けた。途中うつ病の症状を呈した和夫が、「死にたい、死にたい」と何度も言ったとき、彼女はどれほど辛い思いをしたことだろう。
「死にたいと言われると、私も悲しくて死にたくなるの」
 電話でむせび泣く由紀子を慰めるすべは、私にはなかった。
 人は自らの死を意識すると、深い孤独感に襲われるのだろうか。和夫も何度も寂しさを訴えたという。
「寂しいから背中を擦ってと言われ、あの人のベッドに入って一晩中背中を擦ってあげたわ。眠れないとしきりに訴えるので、私も泣きながら子守唄を歌ってあげたこともあるのよ」
由紀子は涙ぐみながら、ぽつぽつとこんなことを語った。
 昨年十月八日、和夫は入院先の病院で最期の息を引き取った。七十六歳だった。意識はすでになかったが、苦しみもない静かな最期だった。
 翌九日、テレビやラヂオは、朝からしきりに台風来襲の警報を出していた。外出を出来るだけ控えるようにとのことだった。だが行かないわけにはいかなかった。その夜、和夫の通夜が営まれるのである。
夫と朝早く千葉の自宅を出た。石神井の息子の家までは無事に到着したが、その晩、台風二十二号はまさに関東地方を直撃した。夕方、石神井町から新座の葬祭場へ向かった車は、途中烈しい風と雨に見舞われた。折れかかった大きな木の枝がしばしば車の屋根にぶつかり、身の危険を感じたほどだった。視界もほとんどきかない。あたり真っ暗な中、息子が全神経を集中して運転し、ようやく会場についたのは式が始まる寸前だった。
車寄せから会場の玄関に入るまでのわずかな時間にさえ、夫も私も息子夫婦もコートがずぶ濡れという有様だった。豪雨の中、ほどなく長女夫婦も到着し、急いで着席した。
 外の烈しい風雨とは異なり、斎場の中は静かだった。見上げる正面壇上は、いちめん白い菊の花で覆われ、中ほどに和夫の遺影が飾られてあった。オーケストラのヴィオラ奏者だった和夫が、演奏会用のタキシードに身を包み、明るく笑っている。遺影の下には生前愛用していたヴィオラと弓が斜めに花の上に置いてあった。見ていると今にも和夫が音楽を奏でそうな雰囲気。那須の牧場で乗馬中の楽しそうな写真もあった。
 飾られた生前の写真を一枚一枚見ていると、あの穏やかな人柄が偲ばれてくる。音楽のほかは妻との旅をなにより楽しんだ人だった。普段大きな声も出さない優しかった夫に、今最期の別れを告げている由紀子の気持ちはどんなだろう。じっと遺族席に坐っているその横顔が、なにか痛々しくて正視出来なかった。
由紀子は定年まで、小学校の音楽教師をしていた。和夫とは同じ音楽学校の出身である。長年の教師生活のせいか、それとも本来の性格か、とても気丈な女性である。すでに立派に成人した息子や娘がいるのだが、葬儀では、自ら喪主として一切を取り仕切った。涙一滴こぼさず凛とした姿には、こちらがその胸中を察して涙ぐんだくらいだった。
 翌十日、本葬儀が行われた。あの烈しい台風ははるか北の海へと消え去った。お坊さんも、牧師さんもいない。読経の声も、賛美歌の合唱も聞こえない。ただ、あのフォーレのレクイエムだけが流れる荘厳ともいえる雰囲気の中、葬儀は静かに進行した。大学生の孫が「じいちゃん」とよびかけた。一緒に馬に乗った時の楽しかった思い出など、この孫には、語り尽くせないような楽しい日々の積み重ねが、祖父との間にあったようだった。
最期の出棺の時の光景が目に残っている。多くの参列者が、お棺の周りに集まり、最後の別れを告げた。その時、由紀子は、中に無言で横たわる和夫の額や頬をしきりに撫でながら、堪え切れずに泣いた。あの凛とした姿はもうそこにはなかった。夫との永遠の別れを前にした一人の女の悲しみ極まりない姿だった。
葬儀が終わった。あのヴィオラも、弓も、沢山の花に覆われた和夫の骸(むくろ)と共に、ひとすじの煙となって、秋の透き通った空の中に消えていった。 
 フォーレのレクイエムが、今、私の耳の中で静かに鳴り響いている。この美しい旋律がこれからも、折りに触れて由紀子の悲しみを包み、やさしく癒してくれることを祈っている。
<第三の人生>
葬儀から二ヵ月ほど経った。由紀子が私の招きに応じて、我が家を訪れた。迎えに行ったバス停の近くで、向こうからにこにこと手を振る様子に私は心底ほっとした。明るい表情だった。
 今までこれほど多くのことを話しただろうかと思えるほど、夜遅くまで二人で語り合った。二日目、急に思い立って彼女と、夫と私の三人でちょっとしたピクニックに出かけた。残りご飯を急いで握ってお握りを作り、水筒と有り合わせのお菓子と果物をリュックサックに詰めた。行き先は、片道歩いて四、五十分ほどの広くて美しい自然公園である。里山の下の一本道を三人でゆっくり歩いた。もともと歩くのが好きな由紀子は心底楽しそうだった。
 十二月半ばとも思えない温かい日で、風もなく絶好のピクニック日和。公園内の木々は殆ど裸木だったが、池の畔には、まだ鮮やかな紅葉が何本か水に影を落していた。下の池には可愛いい水鳥が水に潜ったり、浮かんだり、泳いだり。動物好きの由紀子を喜ばせていた。広い公園内は季節外れのためか、あたりに人影はまったくなく、三人だけの為のようなこの空間。広くて静かで、心が落ち着いた。芝生にビニールを敷いてお弁当にしたが、残りご飯でつくったお握りがなんと美味しかったことだろう。あまりに美味しく思わず三人で顔を見合わせて笑ってしまった。「おいしいねー」「本当に」、「楽しいねー」「まったく」。
まるで子供に帰ったような楽しい時間だった。幸せとはなにか、私は心の中でしみじみと思った。
そのとき初めて園内に人の姿を見た。二人連れの中年の男女が脇を通り過ぎた。私たちににっこりと笑いかけてきた。こちらもにっこりと笑い返した。
「きっと、年寄りが三人、誰もいない公園の芝生で、お握りなどおいしそうに食べている様子が、なにか場違いで季節外れで可笑しかったのでしょうね」
と話し合ったが、本当に楽しいひと時だった。きっと他人が見ても楽しそうに見えたのだろう。由紀子も暗い様子はまったくなく元気そのものだった。思いつきで来たが、ここへ来て良かったと心底思った。自然とはいかに人の心を癒してくれるか、私はこの時心から思った。
その夜、二人で布団を並べて寝た。由紀子は昼間歩いた疲れも出たのか、湯上がり後、あっと言う間に、すやすやと安らかな寝息を立てて寝入ってしまった。
自然公園からの帰途、田圃のあぜ道を歩きながら、彼女が語った言葉が忘れられない。
「これから私の第三の人生が始まるの。夫のいない一人だけの人生が……。子育てと教職に励んだ三十年を第一の人生とするなら、退職後、夫と二人、車で各地を旅して回った思い出深い二十年間が私の第二の人生。今私は一人になった。寂しいけれど生きていかなければならない。でも誰からも束縛されない第三の人生のはじまり」
「そうね、でも貴女はまだ健康。あと十年か二十年は元気で生きるでしょう。その長い時間をどのように生きるかが問題ね」 
 ちょっときつい言葉と思ったが私が言った。
「そうなの。私も今その事を毎日真剣に考えているの」
 茶色の切り株だけが並んでいる殺風景な田圃(たんぼ)に、なんという鳥だろうか。一羽の白い鳥がしきりに落穂拾いをしている。由紀子はその姿に目をやりながら、ゆっくりと言った。
「あまり焦ることはないわ。冬の間はゆっくり家にいてあの人の冥福を祈って過ごせばいいんじゃないの。貴女も心の癒しの時が必要よ」
 私は前のきつい言葉を取り消すような気持ちで言った。
しっかり者で努力家の由紀子のこと。これからも賢く生きていくことだろう。
三日間の滞在を終えて家に帰るとき、由紀子は明るい顔で「じゃー、またね」と手を振った。我が家でのこの三日間、いくらか彼女の心の慰めになっただろうか。そうあればよいと心から願いながら、「元気でね。また来てね」と、私も思い切り手を振って彼女に応えた。
二〇〇五年六月二九日 執筆

夫が恋しい             
夫が最期の息を引き取ったのは、去年八月二十日に夫が二度目の入院をしてからわずか一か月半後の十月五日だった。夜八時十八分、私に手をとられて夫は最期の息を引き取った。あれ以来四ヶ月。夫の最期の日々を悲しく思い出さずにはいられない。
臨終の時、私は夫の手をしっかりと握り締めていた。
「お父さん、由記子が来てますよ」 夫がかすかに頷いた。由記子が言った。「お母さんも、ここにいるよ」 二人で夫の手を必死で握り続けていた。だがその後小さな呼吸を二つした後、ついに息を引き取った。それが夫の最期だった。次女と長男は余りに急な病変に父の死に間にあわなかった。 
夫の魂は天に昇った。
その日、夫は病院の昼食を全部残さず食べた。私はいつものように、夫のベッドのそばに坐り夫の食事につきあっていた。夫が機嫌よく言った。
「味見してみるかい」
私はその頃の夫の様子をみて、このぶんなら近く退院できるのではと楽観的な思いを抱いていた。退院以後に備えて心臓病によい献立をいろいろ料理の本を読んで研究していた。そのことを夫は知っていたので、病院食の味見などといったのだろう。
だが、その後事態は急変した。食事を済ませた後、しばらくして夫が急に苦しみだした。
「これが僕の最期かな。だけど、此処で頑張らなくちゃな」
生前、夫はいつも私のことを心配していた。
「お母さんは認知症にはならないだろうけれど、うつになる恐れがあるんじゃないの」とも気遣っていた。また年を取って一人になるかも知れない私のことを心配しそれで日頃信頼している長女に私のことを頼もうとしたのではないかと思う。
広島で小学校の教頭をしている次女は父の最期に間に会わなかった。深夜バスで翌朝ようやく辿り着き、御棺の中で眠る父に向かって「お父さん!お父さん!」とまるで狂ったように泣き続けていた。父の既に冷たい額を、頬を撫で、手を握り締めて……。
その夜から通夜、葬式、四十九日の法事、いろいろの手続きと、忙しい日々が過ぎた。     
毎朝、夫の仏前にお灯明とお線香、お仏飯を供える。お花も欠かさない。そして般若心経を唱える。夫が生前毎日床の間の観音様に向かって唱えていたお経。夫の読経の声がまだはっきりと耳に残っている。夫の遺影の前でこの般若心経を唱えていると、夫も一緒に唱えてくれているようで悲しくも懐かしい。出来るなら生前の夫と一緒に唱えればよかった。夫にすまなかったと思う。
十一月半ば私は写経の会に入会した。写経用具はすべて夫の遺品である。
「お父さんの使ったものを使えば、お父さんといっしょに書いているみたいでお母さん気持ちが休まるんじゃないの」娘が言う。
一字、一字心を込めて写経する。上手に書けなくてもよい。ただ心をこめて無心に書き写す。次第に心が落ち着いてくる。夫の魂の平安だけをひたすら祈る。私自身の心も安らかになってくる。 
この会に入ってよかったと思っている。前回私の隣に坐っていた人は、四年前に夫を亡くしたそうだ。「夫を亡くした悲しみはそんなに簡単に癒されるものではありませんよ。私だって三年かかりました」この言葉は深く心に沁みた。写経の会に参加するような人は、やはりなにかしら心に悲しみを抱いているのだろうか。静かに筆を動かしているこの人の横顔を私はしばらく見つめずにはいられなかった。
こんなに夫が恋しいとは思いもしなかった。夫の遺影の前でお経を唱えていると決まって涙が流れ出る。でも今は思っている。泣きたい時は思い切り泣こうと。それ以外にこの悲しみから抜けでる方法はないのだ。泣き尽くせば、いつかは私の心の中の涙の泉もきれいに枯れるときがくるだろう。
 夜、一人でベッドに入るとき、私はどこかで読んだ詩の一節を心に思い浮かべる。
止まない雨は
ないんだよ
   明けない夜は
   ないんだよ
   明日は明るい
   日なんだから
私はこの素朴な言葉に慰められて、夜眠りにつく。
二〇一〇年八月三〇日 執筆

夫の看病
庭の一隅に満天(どうだん)星(つつじ)の樹が植えてある。秋、真紅の紅葉が見事に美しく、夫と二人窓から眺めて思わず感嘆の声をあげたこともあった。十数年前、この家を新築した時植木屋さんで購入して植えつけたもので、この間測ってみたら高さが三メートルもあった。 

あの時、一緒に眺めた夫は、今、家にはいない。去年十一月二十五日重症の心臓病に肺炎を併発し救急車で緊急入院した。翌朝には容態が急速に悪化し、主治医の先生に言われた。
「今日一日持つかどうか分からないので、お子さんやお孫さんを至急呼び寄せてください」
これを聞いた時の私のショックの大きさといったら無かった。「携帯電話使用不可」の二階循環器病棟から長い廊下を走り、一階の使用可能場所までエレベーターで行ったのか階段を下りたのか何一つ記憶がない。長女と次女、長男の三人に知らせた。
「お父さんが……、お父さんが……」
 傍目もかまわず半分泣き声だった。子供たちを待つ間、夫の寝顔を見つめて泣いた。この人ともうお別れなのだという耐え難い思いに胸が締め付けられた。今まで何故もっと優しくしてあげられなかったのだろう。悔いのみが残った。
その日午後から夜にかけて病院二階の夫の病室には娘二人、息子、それぞれの連れ合い、五人の孫たちが次々と駆けつけた。九州から、広島、神戸から、群馬、東京から、千葉から……。狭い病室は夫を案ずる身内たちで溢れた。

緊張した雰囲気で皆の見守る中、夫は奇跡的に一命を取り留めた。退院まで二カ月近く、私は殆ど毎日、バスを二台乗り継いで病院に通った。急ぐときはタクシーに乗る。夫のいない家の中はまるで空虚ながらんどうそのもの。昼間はともかく夜の寂しさは身に沁みた。夕方六時ごろ病院を出ると、短い冬の日は既にどっぷりと暮れ果てて、重い足で漸く辿りついた我が家はしんと静まり返っている。暗い玄関の鍵を開けて中に入るときの気持ちはとても言葉には表現できない。中から「お帰り」の声一つ聞こえるわけでもなく、買ってきたお弁当を一人箸でつまむとき、侘しい思いはもう、頂点に達して食欲もまるで湧かない。
 テレビを観る気にもなれず、本を読む気力も出ない。まして、何か文章を書いてみようなどという気持ちにはまるでなれなかった。新聞だけは夜寝る前、少しは目を通したが、これでは知的能力が衰えて、将来短いエッセイ一つ書けなくなるのではと心配になってきた。こんな中でせめてもの慰めは三人の子供たちからの電話だった。本当にどれほど慰められたことだろう。
 その頃、妹からも電話があった。妹は私の元気のない声を聞くといきなりぴしゃりと言った。
「貴女なんかまだいいわよ。病院に行けばちゃんと旦那がいるじゃないの。私なんかどんなに泣いても嘆いても夫が帰ってくるわけじゃないのよ。貴女なんて幸せよ」
三年半ほど前、夫を亡くした妹は気丈に生きてはいるが、時には悲しくて一人泣くこともあるという。
 確かに私の夫は今病院で生きている。必死に病と闘っている。私は行けば、病人ではあるが夫に会える。近頃夫は、昼食だけは、患者や見舞い客が利用する食堂で食べている。ナースステーションの前にある食堂まで車椅子で運んでもらって他の患者さんと一緒だ。ベッドでの食事に比べれば格段の進歩だ。私は病院の売店で買ったお握りやパンやお弁当などを夫の横に坐って食べる。入院以来まだ笑顔は見せない夫だが、でも私は一緒に食事が出来ることが有難かった。妹のいう幸せとはこういうことだろうか。一度死の淵に立った夫が、今また新しい命を得て私と一緒に食事がとれる。これを幸せといわないで何を幸せといえるだろうか。
「食べることも治療のひとつですよ」
看護師さんに言われた夫は、病院の食事を残さず食べる。「百パーセントですね」と褒められる。「これも僕の病気との闘いなんだ」という。また「死んでたまるか」と自分に言い聞かせているともいう。夫が一歩一歩、少しずつ回復してきているのも、勿論主治医の先生の適切な治療と、看護師さんたちの熱心な看護のお陰であることは言うまでもないが、夫のこんな生きようとする意思があったからだろう。
年が明けて一月半ば過ぎのある朝、乗り継ぎのバス停でバスを待ちながら、私は冷たい北風に吹き晒されていた。風が枯葉を彼方へ飛ばしている。コートの襟を立て枯葉の行方を追いながら、私は気持ちが深く沈んだ。長い夫の闘病生活、はたして完治するのだろうか。退院できるのは一体いつごろだろうか。さまざまな思いを胸に詰まらせながら二階循環器病棟へ行った私は、看護師さんから思いもかけない言葉をかけられた。来週半ば退院との事だった。まだ完治したわけではないのだが、入院治療から通院治療に切り替わったのだという。医者の手を離れて大丈夫だろうか。私の心に一抹の不安が湧いた。
退院後、長い冬を夫の看病で夢中になって過ごした。一日終わるともうくたくた。ベッドに倒れこむ毎日だった。始めは寝巻きを着替えることも洗面所まで行って歯を磨くことも一人では何も出来なかった夫。だが、この頃では一人で出来ることが多くなり、あまり手がかからなくなった。私も少しは落ち着いて本を読んだり、パソコンに向かって文章を綴ることも出来るようになった。夫は介護保険利用で、この四月から病院に付属している通所リハビリにも通いだした。自宅まで送り迎え付きで、週二回月曜日と水曜日に朝から午後四時まで行っている。その日はお昼ご飯も出るし入浴もさせてもらえる。もっとも夫は、入浴は自宅風呂にしているが。私も夫の発病以来、本当に初めて一人の時間を持てるようになった。今も夫のいない留守にパソコンを叩いている。

夫は発病以来、今まで出来ていたことが何一つ出来なくなり、ずいぶん辛かったようだ。その為か、病気になるまで大きな声も出さず静かな人間だった人が、退院後は、度々、苛立って大きな声を出して私を叱り付けるようになった。子供たちには「お父さんは病気なんだから、お母さん気にしないようにしてね」と何回も言われたが、私はそのたびに気が滅入って辛かった。何もかも嫌になり、時には一人で何処かへ行ってしまいたくなることもあった。
だがその分、子供たちが私を助けてくれた。長女は夫が入院中も退院してからも、週に二回は必ず車で五十分の距離を通い続けた。自分の家庭の仕事もあるのに、家事の他に介護保険のことも、ケアマネジャーとの交渉もみな私に代わっててきぱきと処理し、どんなに助かったか知れない。その分私は夫の世話に専念できた。息子は電車を乗り継ぎ、二時間以上もかかる東京の自宅から、仕事を遣り繰りして訪れ、主に夫の通院に付き添ってくれた。病院のあちこちの診療科を巡って、夫の車椅子を押しながら長い廊下を動き回った。広島で教師をしている次女は、連日帰宅時間が十時近い激務の中、新幹線のとんぼ帰りで、殆ど毎土、日曜日に訪れ、夫の看護に励んでくれた。広島から深夜バスで病院を訪れたこともある。私の手助けもしてくれた。本当にみなどんなに大変だったことだろう。
今考えてみると、子供たちの助けが無かったら、私は夫の看護を十分にはできなかっただろう。私自身疲労困憊しながらも、なんとか夫の病床生活を支えることが出来たのは子供たちのお陰だ。 

慌しい日常に明け暮れているうちに、自然はすっかり冬から春へ、春から初夏へと衣替えした。我が家の満天(どうだん)星(つつじ)は、少し前までは無数の白い小さな花を咲かせていたが、今は鮮やかな緑の若葉がそれこそ匂うように美しい。この季節、人も木々も花々も生きとし生けるもの皆、新しい命の芽吹きに満ち溢れている。
秋には真紅の紅葉に目を見張ることだろう。夫が生命の危機を脱して、いま命ある事の有難さを思う時、涙が出る……。近頃すっかり落ち着いて穏やかな夫と、またどこかに自然探勝の旅に出かけられるようになるのはいつだろうか。その日が待ち焦がれてならない。
二〇〇九年五月十九日 執筆

追記  その後夫は再び病状が悪化し、八月二十日再入院、十月五日午後八時十八分、ついに帰らぬ人となりました。

初盆  
  香取市(旧佐原市)の菩提寺で亡夫の初盆の供養を行った。自宅では夫の祭壇の前に真菰で編んだ精霊棚を設け種々の供物を供えた。胡瓜と茄子に割り箸で四本の足を作り、それぞれ馬と牛に見立てたものを置いたのはお盆に帰ってくる先祖の霊の乗り物とするためである。玄関の外には大きな盆提灯を吊るして出迎えの目印とした。
 盆の初日夕方に迎え火、最後の日に送り火を焚く。玄関前の薄い闇の中で手折った黍殻
に火を付けると赤い炎がゆらめく。炎の中に今、天上の世界から戻ったばかりの夫の霊が仄見える。「お父さん、お帰りなさい」思わず呟いて、胸が一杯になった。
夫の死から一年近く。悲しみは幾分薄らいだが、寂しさは増えるばかりだ。昔父や兄弟達と家の前の路地で同じことをしたのを思い出す。今は亡き人々となった私の懐かしい身内の人々は今宵帰って来てくれただろうか。
二〇一〇年十月二九日 執筆

夫を想う(抄録)
海の癒し
四月半ば、白内障の手術をした。一週間の入院だった。右眼と左眼と両方、水晶体が老化で白く濁ってしまい、人工的なものと取り替えなければならなくなった。そのための入院である。
病室は四階だった。病棟の前方部は、デイルームと呼ばれる広い談話室となっていて、そこは患者さんや見舞いの人たちが食事をしたり、テレビを見たりして、くつろぐための部屋となっている。
入院の日の午後、私はこの談話室へ足をはこんだ。この部屋、前面は、大きなガラス窓で覆われていた。ガラス越しにはじめて外を眺めて息を飲む思いをした。海がキラキラと光っていた。右から左まで青くて美しい海が一面に広がっていた。この一年、夫の看病に明け暮れていた私にとって、落ち着いて海を眺める機会などまったくなかったので、いきなり眼前に広がったこの美しい自然の風景に感動した。じっと眺めていると何か涙が出るほどだった。
こんなに広い海に面している病院に入院できてよかった。手術を前にして、少しばかり不安な思いを抱いていた私は、眼前の海の広さとその明るさにいくらか気持ちが落ち着いてきた。私の心から不安が消えたような気がした。
飽かず海を眺めていた私の後ろにふと人の気配がした。振り向くとそこに一人の男性が車椅子に乗って私と同じく前方に広がる海を眺めていた。去年十月亡くなった私の夫と同じくらいの年配の男性でやはり眼鏡をかけていた。私はほんの一瞬だが、その人の姿に、今は亡き夫の幻影を見たような気持ちになった。
しばらく海を眺めていた男性がふと声を出した。
「ああ、生きていてよかった……」
車椅子を自分で操作できるまで回復してきたこの男性は、もしかしたら、この病院で大きな手術をして、今、こうして、一つきりない命を再び得たことのありがたさを身に沁みて感じているのだろうか。
生きていてよかったという言葉には深い実感がこもっていた。
私は思わず胸を衝かれて返事を返した。この言葉が私に対して言った言葉かどうかはっきりとはしなかったが。
「そうですね。生きていさえすれば、またきっと何かいいことがありますよね。」
「生きていてよかった」 この男性の言葉が、もし夫が病を克服して、私に向かって言った言葉だったらどんなに嬉しかっただろう。でも現実には夫は長い闘病にもかかわらず、再びこの世に命をつなげることができなかった。病を克服できず私を置いて一人で天上の世界へ旅立ってしまった。
夫の死以来、私の心境は大層悲観的だった。今後、夫のいない一人の人生をどのようにして生きていったらよいだろうと暗く思い悩んでいた。人生になんの希望も持てなかった。
「そうですね。生きていさえすれば、またきっと何かよいことがありますよね」。
どうしてこのような人生を肯定するような言葉を私は咄嗟に言ったのだろうか。まったく意識もしていなかったのに。あんなに悲観的な私だったのに。私は男性の言った「生きていて良かった」の言葉に深く感動していたからに違いないと思った。その言葉には深い実感がこもっていた。「生きる」ということがどんなに素晴らしいことか、私は強く思った。どんなにに辛くても私は生きていかなければならない。夫の居ない寂しい人生だけれど……。病と最期まで闘い抜いた夫の分も。
私に与えられたこの人生を強く生きていこう。私は心に深く誓った。

 あの男性はその後どうしただろうか。病癒えて無事に退院できただろうか。これからも元気に生き抜いてほしい。生きていてよかったとより深く実感するために。私も夫の菩提を弔いながら、写経したり、できたら小さなエッセイを書いたりしながら元気に生きていこうと思う。そして、いつの日か私も本当に生きてきてよかったと心の底から思えるようになりたい。
退院の日の朝、談話室に行って素晴らしい風景を見た。まるで私への餞(はなむけ)のように白い富士山が海の向こうに輝いていた。
二〇一〇年一〇月二九日 執筆

夢の中で
我が家の床の間に設えた夫の祭壇には、亡き夫の位牌と遺影、高さ五十七センチほどの観音様の立像が祀られている。私はここで御仏飯と御水を供えお線香をともす。そして般若心経を一心に唱えて夫の魂の冥福をいのる。「私をどうか護ってください」と今日一日の無事をお願いする。
米寿の祝いを目前にして、一昨年秋、心臓病でなくなった夫はその後、せめて夢にでも出てきてほしいという私の願いもむなしく、天国に昇ったきり二度と会いには来てくれなかった。以来私は一人住まいの寂しさにずっと耐えてきた。
夫の没後、どのくらいの日時が経過していただろうか。たしか寒い冬の夜のことだったと思う。私はふと何かの気配を感じて浅い眠りから意識が戻ったような気がした。ふと見ると夫が祭壇の前に座っていた。座布団に端座していた。隣には私も一緒に座って手を合わせてお経を唱えている。夫が私のほうを向いてなにか話しかけたような気がするが何を言ったのだろうか。
そのとき、夫は黒い紬の和服を着ていた。通夜のとき、私が着せてあげた着物だ。色白の夫によく似合っていた。若いころは会社から帰るとすぐこの着物に着かえ、机に向かって本を読んでいた。懐かしい夫の後ろ姿である。この和服はその後長い間箪笥の中に大事にしまわれていた。
通夜の晩、花に囲まれてお棺のなかに、横たわっていた夫の和服姿が忘れられない。でもその空蝉の姿は火葬場から立ち上る一筋の白い煙とともに永遠に消え去ってしまった。骨壺を抱いた私の悲しみは言葉には言い表せないものだった。
だが、夫は夢の中に出てきてくれた。夢でも良いから一度会いたいと切に望んだ私の願いを天国の夫は聞き入れてくれたのだろう。
 夢の中で、夫と一緒に過ごしたこの時間は私にとって最高に幸せな時間だった。生前いつも夫が唱えていた般若心経を夢の中で一緒に唱えることができたのだから。
あの夢は生涯私の心の中から消えることがないだろう。悲しいときも喜ばしいときもいつも私を元気づけてくれるだろうあの夢は、私のこのうえない大事な宝物であり続けるに違いない。
二〇一三年一月一〇日 執筆
野良猫 ノラ
 近所につい一年ほど前に建ったばかりのしゃれた洋館がある。春になれば真っ赤なバラが白いフェンスに絡まり咲き乱れてとても美しく、通る人の目を楽しませてくれる。
 この家の駐車場の奥につながれている牡犬ロックは、その日も朝から無聊を持てあましていた。一日中鎖に繋がれ続け、まだ夕方の散歩の時間には大分間がある。もうたまらんと一声吠えた。その声に驚いたのか、フェンスの前をのっそりと歩いていた一匹の野良猫がふと立ち止まってこの牡犬の方をちらと眺めた。
「おい、おい、ノラちゃんよ。少しは僕の話し相手になってくれないか。実はあまりに退屈でノイローゼになりそうなんだ。本当にかなワンよ」
「あら、それはお気の毒。でもあんたはいいわよ。三食昼寝つきでしょう。気楽なもんじゃない。あたしなんか来る日も来る日も、生きるために必死になって食べ物を探さなくちゃならないのよ。退屈だなんて言っている暇なんかないわ。あんた、贅沢よ」
「そう言うけどね。君は自由というものがどれほどありがたいか分かってないんだ。もし一日中僕みたいに鎖で繋がれてみろよ。君なんか到底耐えられるもんじゃないよ。それにね、三食昼寝つきなんて言っても僕の食事なんてドッグフードだよ。そりゃ栄養はちゃんと考えてあるだろうけどね。味なんてまるで変化ないし、もうこの頃は飽き飽きしてるんだ。主人には飼ってもらっている手前文句は言えないけど、僕だって本音を言えば魚や肉のあのごつごつした骨付きを思い切りがぶりと噛んで食べてみたいし、実なし味噌汁でもいいからご飯にかけたぶっかけ飯も食べたいさ。昔は僕たちの食事と言えばみんなそんなものだったよ。でもそれが結構おいしかったんだよね。この頃は食べる楽しみも無くなってきたし、歯だって硬いものにありつけなくなったせいか、まるで年寄りみたいにがたがただよ。まったく情けないもんさ」
「あたしもね、よその飼い猫がキャッツフードとやらを食べているところをちょっと見たことがあるわ。けれど、あたしにとってはそんなの高嶺の花よ。魚屋の店先で怒鳴りつけられながら魚の尻尾をくわえてきたり、肉屋のおじさんが、時々腐ったような肉の切れ端を投げてくれるのをありがたく頂いたりして命をつないでいるのよ。本当に生きるって大変なことよ」
「そりゃ、君にそう言われてみれば、こうして食べるものに困らず、毎日散歩にも連れってもらえる僕なんか幸せなのかもしれないね。それにしても、君はどうして野良猫なんて不運な運命に生まれついちゃったのかね」
「あたしはね。生まれて間もないとき、あの奥の林道の脇に捨てられていたの。ほかの二匹の兄弟と一緒に段ボールに入れられてね。そのうちに一番上の兄さんがどこかの男の人に拾われていったわ。あたし必死になって、一緒に連れてって!って後を追ったけどまだ小さかったから追いつけなかったの。もう一人の兄さんもいつの間にかいなくなった……。あたし一人林の中に取り残されて、暗い夜なんかどんなに淋しかったことか。一晩中泣き明かしたわ」
「ふーん、まったく聞けば涙の物語だね。それで君いったいその後どうしたの」
「泣き疲れてやっぱり少しは眠ったらしいのね。ふと、気がついたら朝になっていた。木漏れ日がとても優しく感じられた。風も柔らかく吹いていた。なんだか不思議なんだけどその時あたし急に生きる勇気が出てきたの。もう泣くのはやめようと思った。それでね、町のほうへ歩いていったわ。最初は電信柱の脇にそっとすわった。そしたら小学生らしい女の子があたしを抱いてくれたの。ああ、人肌ってこんなにもあったかいんだなって本当にじーんときた。でも家には連れてくれなかった。その女の子の後姿を見送ったときよ。あたしが本当に一人で生きようと決心したのは」
「ふうん、それ以来、君はずうっと一人で頑張ってきたんだね。聞いててなんだか僕も涙が出そうになった。食べる苦労もしないで、ただ自由を求めるなんて、つまり君の言うように、たしかに贅沢かもしれない。自由を求めるか、それとも毎日の安定した暮らしを得るか、本当にむずかしい問題だよ」
「あれからどのくらいの時間が過ぎたのか、あたしにはさっぱりわかんないけど、でもやっぱり長かったと思う。だってこの頃、なんだかとっても疲れてきたような気がするの。食べる物のことなんか心配しないで少しは休みたいの。こんなの無理な願いかしらね」
「いや、そんなことないさ。また時々、僕と話しにおいでよ。ドッグフードで良かったら何時でも分けてあげるよ」
「ありがとう、本当にありがとう。あたし、この頃つくづく思うんだけど、今考えれば自分一人で生きてきたなんていうのはきっと思い上がりかも知れないわ。人様の情けにも随分すがったもの。お腹がすいてどうにも動けなくなって蹲っていた時、そう、公園のベンチの下だった。どこかの優しそうなおばさんがカップラーメンを持ってきてくれたの。暖かくてとっても美味しかった。あたしその時、本当に泣いた。ありがたくて嬉しくて、月並みな言い方だけどそれこそラーメンがあたしの涙で塩っ辛くなったくらいだった」

牡犬ロックと野良猫ノラが、フェンス越しに話した日々はそれからどのくらい続いたのだろう。今、ノラはめっきり歳を取り、衰えも見えてきた。都市郊外のこの住宅地にも、厳しい冬が訪れてきた。木々はすっかり葉を落とし、あれほど耳に響いていた虫たちもどこかへ行ってしまった。時々カラスがうるさく鳴き交わしている。
粉雪がちらちらと舞い降りたある日、あまり人も通らない林道脇に、野良猫ノラが無言で横たわっていた。必死に生きたノラが、その時、命を終えて天国へ静かに旅立って行ったのだった。
白い粉雪がノラの上に静かに降り注ぎ、いつの間にかあたり一面はすっかり白一色の世界になった。

赤やピンク、黄色。色とりどりの花が咲き乱れて、この世の風景とも思えない明るい春の野原にロックとノラが戯れている。自由に、奔放に、誰にも邪魔されないで……。幸せそのものに。
それは、暖かい春の日差しに、しばしまどろんだロックの浅い夢に結ばれた一場の夢幻のシーンだった。
二〇〇八年三月七日 執筆

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