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知性が蒸発した後には必ず焼き払われ汚染された広大な焦土と巨大な鉄の檻/身心の完璧なハイテク管理が出現する。今現在我々人間(特にこの国の人間たち)は極めてハイスピードでそこに向かっている。
日本人が本を読まなくなって久しく、知性がシステマチックに完全消去されているから今さらこんなことを言っても仕方がないだろう。あらゆる曲面で破局に突き進む(とりわけ政治的-地政学的な)状況は最悪だ。だがマックス・ウェーバーはまさにそんな末期の人間たちを予見して描き尽くしていた。
マックス・ウェーバー(ドイツ語圏だから本来ヴェーバーと発音表記すべきだが長年の習慣でウェーバーにした)は社会学という枠組みをはるかに超えた社会学総ての祖であるが、社会学をディスってる人は彼に出会って一度は巨大なショックでわけがわからない謎的状態に落ち込んでみるといいだろう。
個人的にマックス・ウェーバーで『プロ倫』以外に絶対に必読だと思うのが『古代ユダヤ教』である。私の亡き父が退職後死ぬまでの健康な内に最も長く深く読み込んでいた作品。預言者との関わりで部族的共同体的同胞倫理(対内倫理と対外倫理の二項対立的分割)分析の普遍的な射程は計り知れない。
彼の言葉①「『ファウンダー』観ました。絶対のオススメです。マック(マクド)創設者の座右の銘はドナルドトランプと全く同じ。Power of positive thinking 。ご存じ牧師の説教です。この説教どおりに生きるとマックが出来て大統領になる。これって『プロ倫』の出口なんですが」
彼の言葉②「これを観たあと『ソーシャル・ネットワーク』も観て下さい。T型フォード・プロ倫・マクドナルド・ドナルドトランプ・Facebookまで一枚の曼陀羅になってしまいます。」#マックス・ウェーバー
私の長年の友人の綱覇佳秋氏(仮名:シリコンバレーでネット創成期の土台を築いた一人)は一種の天才だが「映画『ファウンダー』は実に鮮やかにプロテスタンティズムの倫理と商人道(日本商人の倫理)との違いを描き出している。その点で鮮やかに『ソーシャル・ネットワーク』に接続すると語っていた。
マックス・ウェーバーの奇跡的な偉大さは計り知れないと思います。弟子であったカール・ヤスパースが、ウェーバーを「自分にとって乗り越え不可能な存在」とある本で語っているのを高校時代学校の図書館で知り、時が止まった様に愕然としたのを今でも覚えています。
906.2023
物質の詳細によらない普遍性 https://youte.com/watch?v=E3F4sAEJeXc…
「1/2」という数の普遍性にあらためて戦慄(何故か苦笑してしまうが)②→引用「数学においてリーマン予想(英: Riemann hypothesis, 独: Riemannsche Vermutung、略称:RH)は、リーマンゼータ関数の零点が、負の偶数と、実部が 1/2 の複素数に限られるという予想」「1/2」という数の普遍性にあらためて戦慄①→引用「理想的な系の熱平衡状態において、 1自由度あたりに平均で kBT /2 の運動エネルギーが割り振られ、 さらに調和振動子と見なせる自由度については 1自由度あたり平均 kBT /2 のポテンシャルエネルギーが割り振られる。」
デ・キリコ/マグリットへのオマージュ 『メタフィジカルトリップ』①②③
905.2023
なぜか検索で長期間この記事が頻繁に出てくる。Archives カント『純粋理性批判』 超越論的問いの場を巡る永井 均氏との対話|永澤 護 /dharmazeroalpha #note
植村さんのサイト あの頃が懐かしい。
参考記事 ウィトゲンシュタイン哲学の最深部を巡ってーー哲学者入不二基義氏との対話 | https://note.com/dharmazeroalpha/n/n3aae7695a95f…
903.2023
上巻と下巻の位置づけは、上巻が主としてカント論と永井 均氏の哲学-形而上学を巡るもの(入不二基義氏の哲学-形而上学が通奏低音)。下巻が主として永井 均氏と入不二基義氏の哲学-形而上学を巡るものとなる。
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』は、当初の予定を変更して上巻下巻の二分冊にすることにした。
確かに非常に根源的な形で「コギトは両者の界面のような在り方」であるほかないということが究極の問題ですね。
検証主義と懐疑論が可能性の地平または境界付けられた言語性/意味性の地平にとどまる(その地平に遮蔽された)同じ穴の狢だというのはまさに最重要論点だと思います。902.2023
「佐藤未悠@miyou_satou2023年8月31日 現実であると困るような悪いことが生じた時(これは夢なんだ!)と思い込むことで夢化しようとすることが度々ある。 その目論見が成功してその悪いことは悪夢として処理されてる。」の転載で佐藤未悠さんも登場する予定です。
入不二さんと植村さんのおかげでこれまでの探究が間違いではなかったことを感じ感謝の気持ちです!
そうですね。極めて微妙で問題ですが
入不二さんと2006年でしたか植村さんのサイトで対話しましたが、その際も一回性と反復性の問題が中軸であったことを思い出します。
はい。反復可能性は学生時代からデカルトのコギトとデリダ『声と現象』(もちろんそれ以前に『純粋理性批判』)との絡みで最重要テーマと捉えてきました。入不二さんとの今後の哲学的-形而上学的な対話が大変楽しみです!
私の記述では、「この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態」です。
私も同じラインでそれこそが私が現在執筆中の仕事の核です。
901.2023
もちろんその端的に与えられている現実の現実性の把握が我々意識主体によって覚醒と呼ばれます。しかしそれは既に言語の次元で夢または夢懐疑の次元との弁別は可能的な言語的な水準でしか「可能にならない」でしょう。
はい。ただし意識可能(従って「意識」)という次元は前提できないと思います。「意識」は私だけでは設定不可能です。「他の私」との対称的互換性なので。現実性は意識という次元に先立って端的に与えられていることにより現実の根拠であり「意識」によって可能になる次元は可能性の水準です。
確かに懐疑する夢はどこまでも夢ですね。しかしこの現実がその夢だったとしてもこの現実が決して終らない限りその入不二基義氏的な現実性において懐疑する夢または夢と区別する手立てはないのでは?
by ACAね(ずっと真夜中でいいのに。) 「どうぞよろしくと神は脱帽」 間違いなく神であって神ではない――どうぞよろしくと脱帽する神
この重ね描きという無内包の働きが、ウィトゲンシュタインの「紙の冠」と共鳴する。なぜなら、ウィトゲンシュタインの「紙の冠」も、この無内包の働きであり場だからだ。
大森荘蔵が発見した「重ね描き」が創出する「知覚正面の無限集合」という場とは、この<私>の<今>である。道元の言葉では「而今 Nikon」 図形と数といった数学的存在と「今」(既にアリストテレスはこれらには「実体性/実在性がない」と明確に述べていた)は、この無内包の場で出会う。
多分中学三年になろうとしている頃か
中学か高校の時に(どちらかなのかも判然としなくなっている)ルソーのこの作品の稲妻に打たれたが、多分それだったのだなと思う。
831.2023
ドイツ語的に発音表記してしまったが正確にはセーレン・キルケゴール
より厳密には、先程谷口氏も言及していたが、『孤独な散歩者の夢想』 なお人類史に無二という先の言葉に矛盾するが、私にとってはゼーレン・キルケゴールの『反復』とポール・ヴァレリーの『テスト氏』もだ。
できれば10代のうちに、または死ぬまでのいずれかのときに、ジャン=ジャック・ルソーという無二の稲妻に出会ってほしい。これは誰に言っているわけでもない独白に近いが、人類の歴史にこんなのもいたのか!!という鮮烈な感慨に襲われるだろう。
まさにアキレスと亀(走馬灯の最期にまた超超高速の走馬灯が始まるからいつまでも畳めない)
昔流行った「臨床哲学」なんかもそんな死生観に゙乗っかったものでした。源流に近い鷲田清一や中村雄二郎、清水哲朗などはまともな哲学者でしたが。あれは流行り的なもので今に至りますが、介護保険制度を核とした社会福祉システムが措置制度から利用契約制度に転換したのがマクロな条件でしょうね。
大森荘蔵を巡って⑥ 徹底したアンチカント主義者であるとともにその精神において徹底したカント主義者であった大森荘蔵
大森荘蔵を巡って⑤
大森荘蔵を巡って④
大森荘蔵を巡って③ 「重ね描き」と権利問題の地平
大森荘蔵を巡って② 「語り存在としての存在意味論」と言語ゲーム一元論的に解された『哲学探究』のウィトゲンシュタインの目に付きやすい接点の背後に潜む大森荘蔵の「知覚正面の無限集合」とウィトゲンシュタインの「紙の冠」という両者の無内包次元の交錯大森荘蔵を巡って① 幾何学の超越論的成立条件の探究
830.2023
この場合の「完全透明性」の様な哲学的概念/事態としての「完全X性」に対してはすべて「いかにして可能か」という超越論的探究が可能になる。これは基底的-メタ哲学的な肝なので殆ど気づかれていないかもしれない。まさにそのことを示唆しているのはこの極めて精妙で高密度のツイートだけだと思う。
katoshi氏の記事を考える素材にして記述する場の予定は「第4章 自己触発と汎用人工知能/AGI」の「直観 常識 <非思量> ランダムネスの<次元/場>へ」
登場する & 登場予定の固有名にkatoshi詩を追加した。氏の記事
829.2023
典拠 大森荘蔵の哲学のコアとしての、「何かを言い何かを思う度にわれわれは多くの普遍を経験しており」(大森荘蔵 『時間と存在』171頁)という記述に典型的にみられるような、我々の経験/我々の世界における「言うこと」と「思うこと」の同一視という地点
そして #大森荘蔵 がその探究を脱-超越論的方向における超越論的探究として継承した。つまり彼はプラトンから始まる幾何学との死闘という哲学の系譜において彼らと比肩し得る哲学者である。
828.2023
この問題については院生時代の原始草稿を素材にした論考でかなりの量を費して論じた(が終わりのない探究になる)。
非常に難しい問題でこの場ではとても論じられないのだが、大森荘蔵の存在意味論を貫く根底的問題は、この時空の連続性を恒常的継起/継起の恒常的連続性というヒュームが問題提起しカントに引き継がれた「権利問題」の地平と二項対立的に切り離して代案として提示していることである。
上記」「日常言語を時間空間的により精密にした言語」を始めとする引用符付表現はすべて大森荘蔵自身のもの。
今さらだが、 #大森荘蔵 は知覚の総合的統一における無限概念(「知覚風景」の「トータル」/「無限集合」)を前提している。また、「科学言語」(「日常言語を時間空間的により精密にした言語」)を含むあらゆる語りの背景としての時空の存在を前提している→ループ量子重力理論ではこの前提がない。
大森荘蔵の哲学のコアは、我々の経験(我々の世界)における「言うこと」と「思うこと」の同一視である。
つまり #プラトン #アリストテレス の哲学-形而上学の核心は、まさに「幾何学の超越論的成立条件」の探究なのである(「超越論的」に傍点)。それを継承したのが、デカルト、ライプニッツ、カントである。
大森荘蔵の「語り存在」の存在意味論も究極的には「幾何学」自体の成立条件の問題に行き着く。大森荘蔵自身もそれを打ち止めにしてある地点以上に(意外かもだが #プラトン #アリストテレス が開始した超越論的探究という方向で)問うことを我々の生活世界において無意味として排除している。
「後期ウィトゲンシュタイン」を言語ゲーム一元論的に解する研究者(または広く #ウィトゲンシュタイン 研究者)で、『探究』のウィトゲンシュタインと「語り存在」としての存在意味論を展開した #大森荘蔵 との哲学的な同一性と差異について考えた(そしてそれについて論じた)者はいるのだろうか?
827.2023
その通り。臨界期的なものを語るには数学にはあまりに高い抽象的普遍性がある。努力とよい方法が要るのはもちろんだがが必要80歳過ぎてからでも何ら問題なく中学数学の第一歩からまたは算数から大学数学まで進んでいけるだろう。
826.2023
まだ返答がないが改訂してくれるものと思う。
825.2023
ホワイトヘッドがとうの昔に #アリストテレス が先取り的にアポリアに陥る他ないとしただろう極限操作による点や線や面の構成をマジに試みたというのは非常にナイーブというか能天気(笑) 無論 #プラトン がそんな安易というかベタなやり方で満足しなかっただろうことは言うまでも無い。
実はその政治性の中身と機能は可笑しいでとても済まされない破局的な災厄を齎している。
可笑しいのは、フランクフルト学派までは維持されていた知的水準に現状の「政治的な」マルクス主義者がまったく追いついていないことです。差がありすぎます。
そうですね。ヘーゲルとマルクス(&マルクス主義者→アドルノやホルクハイマーなどフランクフルト学派も)を含むヘーゲリアンなら、破壊と持続の弁証法を言い立てるでしょう。まさに人間/人類の「持続可能性」への飽くなき欲求が環境破壊を持続的に引き起こしているのは間違いないですね。
823.2023
入不二基義氏の究極的なテーゼ「(無内包の)現実性こそ神である」は、最後の一点つまり盲点で彷徨うスピノザの救済を表現していたのだとも言えるだろう。だが、それは極めて重要だが一つの見方であり、無内包の現実性の哲学-形而上学はそれに尽きるものではない。
誤解はないと思うが、「それは極めて重要だが一つの見方であり」の「一つの見方」とは、入不二基義氏の上述のテーゼの「解釈/見方」を指すのであって、入不二氏の上述のテーゼまたは哲学-形而上学自身を指すのではない。
(以下はさしあたりデカルト関連から離れて)スピノザは幾何学の真理性に簡単に乗っかっているのだが(だからこそ『エチカ』は幾何学的秩序の下に記述された)、まさにその幾何学自体の存立条件についてプラトンとアリストテレスがどれほど格闘しアポリアに到達したのか少しは考えてほしい。
どうでもいいことだが、『エチカ』を読んだあとで出合った女性も『エチカ』を通読していた。フロイトとベルクソンも読んでいたが。
その後出合った女性はショーペンハウエルと空海の大のファンで『バガヴァッド・ギーター』のファンでもあった。ショーペンハウエルと空海のファンなのは私も同じだったので、両者が(特にショーペンハウエルが)縁だったのだろう。
ホワイトヘッドの『過程と実在』は二種類の日本語訳と原書があったが、日本語訳で読んだのはもう随分昔だったはず。学生時代だろう。多分通読しているはず。
後に二人ともラカニアンだった時期がある
『エチカ』をとりあえず日本語訳で通読していたのは(残念ながら事情によりラテン語原書は失われた→プレイアード版フランス語訳はまだある)多分三十代はじめ頃だと思うが、二十代には既に読んでいたと思う。
もちろん『エチカ』自体は主に三十代に少なくとも2度通読している。
『スピノザの世界』の検討作業の前に、本日届いた植村恒一郎さんの論文を先に読むことにした。
本質と実存は相互反転可能性を持つ分離可能性においてしか思考/記述できないという事態をスピノザの神あるいは自然つまり自己原因に関して吟味するという作業
本日11年振りに上野修『スピノザの世界』を一時間程でざっと再読する予定。概観的な作業なので再読とは言い難いかもしれない。
822.2023
永井均氏によるハイデガー&デリダの抹消記号の山括弧への転換-移行は、ハイデガー&デリダ(とりわけ非常に重要な『声と現象』)からの離脱過程の端緒を印づけていた。一見偶然に思える出来事とともに。
『知覚の現象学』から『見えるものと見えないもの』にまで行き着いたメルロポンティの現象学(奥行きまたは深さ)に対するドゥルーズによる自らのポジションの「差別化戦略」だと思われる。
または「表面」ドゥルーズ『意味の論理学』
上記の問題に対して、現在執筆中の仕事の「第3章<非-思量>という<次元=場> のⅡ<非-思量>と無限判断領域<non-P>およびⅢ<非/non>という<力/働き Aktus>で論じている
以下の山本氏の言葉に対してどう答えるかは無限判断をどう考えるのかに懸かっている。山本一成『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』「プログラマたちは将棋がどういうものであるか、うまくコンピュータには伝えられませんでしたし、それは今後も永遠に成功しないでしょう。」(52頁)
「逆比例的」というのが言い過ぎなら、「少なくとも正の相関関係にはない」と言える。ともあれここでの「表層的」と「得られたモデルかシンプルであること」はむしろ逆比例的関係にあると考えます。
ドゥルーズは「表層」を称揚していましたね。その刷り込みもあるかも。
821.2023
そのフーコーの『言葉と物』の記述について現代思想系の人間が哲学的な分析または考察をしているのを少なくとも二十代後半以来寡聞にして見たことがない。
簡単に言えば、カントの無限判断は、その様相的無内包性において「否定神学/肯定神学」というダイコトミーの外部にあるのではないかということで、小泉さんのツイートに直結する論点ですが、ここではこれ以上議論できません。
無限判断(もちろんカント『純粋理性批判』に限定してでヘーゲルその他のコメントは排除します)について真理判断と存在判断をどう考えられているのか興味があります。ですが、ツイッター/Xの場で論じられるようなこととも思われません。
ドゥルーズもだが。
「否定」という様相の問題あるいは否定判断と無限判断の差異について全く考えていない様に見える。
小泉氏に典型的に見られる様な現代思想系の言説スタイルの顕著な特徴は、解釈対象に対してかなり恣意的に投影され設定された「類的なものごとの連想ゲーム」だと思われる。簡単に言うと非常に表層的。
820.2023
しかしフーコーは現代思想または現代哲学の全般の現状があまりにボケそのものだったので呆れたせいか、その問題を純哲学的に探究するスタイルを最初から捨てていた。
言語の実存/現実性それ自体について思考し記述し得た極めて稀な哲学者が、『言葉と物』(のある箇所)を記述していたときの #ミシェルフーコー である。所謂 #現代思想 と呼ばれる領域においては他にいないと思われる。
もちろん人類史を貫通して現在にいたるまで超絶的にネガティブな作用に対する感度という意味において。
英国に対する地政学的な感度を欠く場合、文字通り淘汰され死なないまでも精神的なサバイバルはほぼ不可能になるだろう。
この循環運動を裏側から見れば、言語の言語性を内側から食い破る<私>の実存/現実性の運動になる。つまり、無内包の<隙間/裂け目>の生成とは、言語の言語性と<私>の実存/現実性との循環的捻じれを孕んだ闘争である。
819.2023
嘗ての世界大戦時も現在もやってることは同じだ。だがテクノロジーの進化が乗り越え不可能に思えるほど深刻な問題になっている。
817.2023
【非常に素晴らしい入門書】とは、非常にハイレベルな(しばしば理解にかなりの努力を要する)入門書という「矛盾的な存在」だが、実際ほとんどの場合理解にかなりの努力を要してかつ圧倒的にわかりやすいというものになる
816.2023
2012年以降の最先端をここで記述することにそもそも無理があるかもしれませんが。@hottaqu
はい。これは読了済なのですが、質問の意図は近年の幾つかの、中にはその実在性をに対する否定的な観測結果といったものが、そもそも理論的実証可能性の根幹に届き得るものなのか、という最新の評価です。かなり雑駁な問い方ですがこの場ではもちろん精密さに限度がありますので。
質問ですが、「余剰次元」の観測(可能性)についての現状は、実際の実証の試みとそもそもの理論的可能性レベルの検討の両面で概略どのようになっているのでしょうか? もちろん専門外ですのでこの場では一切掘り下げた議論はできませんが。
注のこの記述に序文の以下の記述が深く関わる。「この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態は、<まさに-この-私>が上記の不可能な作業を<今-ここ>で遂行せざるを得ないその不可避性を示している。」
815.2023
④「ここでの本質を言語と言い換えてよいだろうか?  私は『序論』および『本論』において「言語」ではなく「言語性」という言葉を使っているが、この場合の「言語性」は、言語の実存/現実性つまりこの私の言葉が現にあることに対する自己言及的な循環運動になる。」
③「本質と実存が一体不可分な神(自己原因/不動の動者/最実在的全体存在者等)や善のイデアなどもこれの変種(しかし端緒的な)で、つまり端緒の時点から変種的バージョン込みの「本質と実存」というセットだったと言える。」
②「つまり本質と実存は相互反転可能性を持つ分離可能性においてしか思考/記述できない。インド起源の哲学とりわけ縁起説はその本質と実存の不可分な分離可能性という厄介さがないかの様に隠蔽した様に見える。」
[注2]増補⇒①「本質と実存が現に分離可能であるにもかかわらず、相互反転可能な/完全対称的な分離可能性のもとでしか思考/記述できないという厄介さに少なくともプラトン(またはパルメニデス/ピタゴラス)以来のギリシア起源の哲学は巻き込まれている。」
非常に素晴らしい入門書またはそれに類したものとは、非常にハイレベルな(しばしば理解にかなりの努力を要する)入門書という「矛盾的な存在」だが、実際ほとんどの場合理解にかなりの努力を要してかつ圧倒的にわかりやすいというものになる。単に最初からわかりやすいというのはかなり低レベル。
つまり言語の言語的本質という自己言及
ここでの本質を言語と言い換えてよいだろうか? 私は言語という代わりに「言語性」という「言葉」を使っている。
分離可能なものとしてしか記述できないという厄介さ――つまり両者はいずれも「分離または切り離し可能」という形でしか思考/記述できない(となっている)。「本質と実存が一体不可分/区別無し」な神や善のイデアなどもこれの変種(端緒的な)で、つまり最初から変種的バージョン込みだったと言える。
本質と実存が実際に分離可能であるにもかかわらず分離可能なものとしてしか記述できないという厄介さ――少なくともプラトン以来のギリシア起源の哲学はその厄介さに巻き込まれている。インド起源の縁起説――とその系譜上の哲学と宗教はその厄介さがないかの様に隠蔽した様に見える。
812.2023
『本論』序文 [注1] [注2]を略形ではなく完全形で転載した。¿ろりじょ?
@R_O_R_I_J_O
氏が[注2]に登場
[注1]は既に昨日ツイートした。[注1] この「現に」という副詞的に働く現実性の力について、入不二基義 『現実性の問題』 筑摩書房 2020年 参照 『序論』および『本論』の記述は、入不二基義氏により探究されてきた無内包の現実性あるいは現実性という力の読解でもある。(以下略)
#塚本晋也 の作品は「実存」の映画である―― 「現に」の一撃を繰り返し叩きつけている。彼の描く反復強迫は強力過ぎて、反復すら内破してエロス的な記憶/物語を破壊する。
811.2023
#東京フィスト ニューHDマスター この映画を観終わって東中野の街に出ると、その街はまったく別の街に一変していた。
再投稿 最も深い哲学的−形而上学問題の一つは、この私の/による「想定」という唯一絶対の事態の形而上学的な身分という問題である。
これに関連して、現在執筆作業中の『本論』序文の [注2]「永井 均氏の一連の著作はその極めて稀有な(ほとんど唯一の)例外である。これに関して、永井 均『<私>の哲学をアップデートする』春秋社 2023年 における「内属性問題」を焦点化した記述を参照(同書 208頁から209頁)。」
参考wiki「1915年、ドイツ軍の砲兵技術将校としてロシアで従軍中、天疱瘡と呼ばれる痛くて稀な皮膚病に苦しむことになる。にもかかわらず、アインシュタインの一般相対性理論から重力場を記述する重力方程式から導き出された最初の特殊解(シュヴァルツシルトの解)を発見」
承前「ブラックホールの存在を示唆(略)論文発表から4ヶ月後、従軍中の病気が元で死去」
810.2023
「問題の核」つまり「風間くん問題」とは、「私が〈私〉ではなかった場合」は想定できるが「私は〈私〉ではない」と言える人は存在/実在しない.ということである。
前代未聞の仕事は、ウィトゲンシュタインや(重力場方程式の最初の解を見出した)シュバルツシルトの様に、(家族など一見普通の社会の場にいたとしても)前線の塹壕で暗号を書くようにして産み出される。両者とも人類史上初の世界戦争という最悪の地獄の戦場にて。
いえとんでもないです。あくまで一読者です。
彼は90年代シリコンバレーでインターネットコマース最初期/創成期の土台を築いた一人で現在は地方創生に取り組んでいる。
アントニオ猪木は入不二さんのような知的巨人ががっぷり取り組むに相応しい稀有な超人(的変人)でした。私のその友人も稀な知性の持ち主ですのでアントニオ猪木に拘ったら最後拘り続けているのだと思います。
私の友人もアントニオ猪木については何十年もこだわり抜いていますので紹介しました。
8.03.2023
最も深い哲学的−形而上学問題の一つは、この私の/による「想定」という唯一絶対の事態の形而上学的な身分という問題である。
この私の/による「想定」という唯一絶対の事態の無内包性。この事態は、「想定」の中身には一切関わりなく無内包性を帯びている。
もちろん、「あらかじめ言語によって仮想された事態」と「言語によるその事態の事後的な記述」の両者は、この<私>の記述として同一のものになる。つまり、この<私>の唯一かつ同一の記述として生成する。
想定された事態はそもそもの最初からこの<私>による言語的な想定であり、この<私>によるその事態の言語的な記述、すなわち唯一の<まさにこの-私の-記述>である。
8.02.2023
さらに言えば、ヨコ問題場面自体を裏打ちする基底的な次元自体の運動性をも指していますが。
私自身の探究の最重要キーワードの一つは「移行-変容」で、永井哲学の言葉で言い換えれば、「タテ問題」場面が「ヨコ問題」場面に転換するという固有な事態をそう呼んでいます。もちろん谷口さんのA変容とその核心部分で関与すると思われますのでまたの機会にじっくり議論しましょう。
8.01.2023
もちろんこの「境界」は「境界なき境界」といった概念を含む。
超越論的構成という次元の「境界画定」は、無内包次元の境界画定としてそれ自身がクラインの壺的な循環構造化の運動として生成する。
やはり谷口さんは「それに対応する出来事が何か世界の側にあるわけではない」という場合の(それ自体で無関係性を帯びた)「世界」を、「A変容」次元の世界として捉えているのでしょうね。「A変化」を含めた超越論的構成の端的な外部として。
増補改訂した。ポイントを繰り返せば、自-他の他者性つまり〈私〉という次元自体の消失と〈私〉にとっての絶対的な他者性の出現という二律背反的事態が同時に起こるということ。つまり〈私〉という次元は消失しかつ消失しない。ここには通訳可能性を保証するいかなる時空的-概念的/言語的形式もない。
731.2023
汎用人工知能/AGIの真の脅威とは、自-他の他者性つまり〈私〉という次元自体の消去というよりむしろ、〈私〉にとっての絶対的な他者性の出現という未知の、あり得ないはずの(あくまで今のところは想定上のだが)事態であるだろう。なお〈私-誰〉を巡る論述は削除した。
メモ 伝統的哲学用語と日常言語で意味が異なる代表例の一つは「単純(なもの)」だろう。伝統的哲学用語の意味は「それ以上分解できない(もの)」である。ところでこの意味は数学の群論での「有限単純群」の「単純」の意味と全く同じである。
730.2023
そのような洞察のマニピュレータとは、まだ汎用人工知能AGIが存在していないならそのような人間たちということになります。
そうですね。私は一種の冷厳な妄想として、まさにそのような洞察のマニピュレータこそがこの実在世界をマニピュレート/支配していると考えています。だからこそ顔アカウントさんのそうした道徳のメタフィジカルな追い詰めの意義があると。
「非常に長い時を経て私自身の修論等を再読することになった」の「非常に長い時」は常識に反する長期間を経てということだが、それでも通常の実在的な時間においては、ということにすぎない。つまりこういった哲学的-形而上学的探究にそうした実在的な時間間隔の長短等無関係なのだ。
728.2023
ほぼ毎回極めて凝縮したツイートをしているが、ツイート直後または非常に短時間でいいねがなされた場合まして毎回そうである場合ほぼ理解されていないか少なくともあまり理解されていないと判断せざるを得ない。または理解しているアピールの承認を求めているというツイートの型/習慣なのだと思う。
これが発端なのだがここに全てが凝縮されている。反射的にいいねと引用RTせずに、これが自分自身の理解の地平に対して何を言っているのか考えることに集中してほしかった。理解なしに反射的にいいね&引用RTで自分の意見を貼り付けるのは理解の否認の別形態なので今後その習慣は除去した方がいい。
つまり実は私は理解していたのだけどわざと相手に合わせてこう書いたという言い方をしている点に事後的な言い訳的な自分自身に対する否認的誤魔化しがあります。しかし真の問題は先の①本当にそのことを自覚/受容できるのかということ、②哲学において論でなく相手に合わせることのおかしさです。
727.2023
吉田氏とは吉田廉氏のことです。
「このこれ」の認知を可能にしたことこそが人間のみがなし得た最高の達成だという洞察については、一月ほど前の会合で『論理哲学論考』との絡みで吉田氏も語っていた。もちろんこのことの哲学的な含意(それが可能にすることとそれを可能にすること等)をさらに探究することができる。
2300年ぶりの今さらだが、「このこれ」の認知を可能にしたことこそが、他のすべての生き物とは異なり人間のみがなし得た最高の達成だというアリストテレスの洞察は、不滅の輝きを持っている。とはいえこの洞察は、補足説明なしには(今から予想される単純素朴な)誤解を招くおそれが大きいのだが。
上記主述の構文がやや不正確ですが「落とし込められてしまう」のはもちろん私の元ツイートです。簡単に言うと、引用RTを読んだだけの人は、最悪そんな(程度の)ことを元ツイートは言ってるのかと思ってしまう。全くそんなことはないにもかかわらず!
特に人工知能AIについての記述は今さら感に満ちた極めて退屈なもので、ラスト部分に至ってグローバルな既存の風潮に迎合したところは論の階層のショートカットにしか見えない。
この場合引用RTは元の私のツイートの問題内容の殆どすべてに近い本質部分を削除しかつ全く別か極めて狭い範囲の次元に落とし込められてしまう。
誤解を招くかもしれないので予防すれば、「非常に稀で殆どない」というのは婉曲語法で、先のツイートに「正確に該当する」のは一例のみです。
かなり抽象度の高い問題設定で、かつ問題にしている事態に矛盾が内在しているという指摘を限られた字数で行っているのに対して、そのキーワードだけ取り出して問題の極々一部しかもその矛盾には全く顧慮せずに引用RTされることが稀にある(非常に稀で殆どないですが)。
726.2023
いえそういう事じゃなくてその問題はここでは無関係だという事です。世界内的な実在領域においての「信」は何一つ日t4営されていません。実在性/事象内容的に「無寄与」という無内包性がそもそもクリアに捉えられていないのだと思います。ちょっと所要で出ます。
既述のように、やはりその路線だとヘーゲル的なプロテスタンティズムの護教路線になりますね。「(確)信(的に言いきれない)」という言い方/感じ方がそれですが。累進構造という厄介な問題が控えていますが、まずは「確信的に言いきれない」の真逆の「ただそれだけが現にあるという驚くべき特徴」によって〈現実に〉識別される矛盾的存在者がなぜかあるという無内包次元の事態を押さえる必要があります。「信」の問題ではないので(「独我論」は「信」の問題)。
あえて言うまでもないでしょうが、りゅうたろさんは、概念化された《これ》に〈現に〉をあらかじめ還元したところから出発する、つまり無内包の〈現に〉の次元があらかじめ消去されるという点で、全面的にヘーゲルパラダイムだと思います。ヘーゲル的なプロテスタンティズムの護教に繋がります。
725.2023
私の柄谷行人『力と交換様式』アマゾンレビューは一見ネガティブな批判に見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。少なくともアマゾンでの売れ行きにかなり貢献していると思う。
はっきり言って、AI 人工知能を巡る近年の議論ほど退屈なものはない。いちいちここでは説明しないけれど。
生態学的・人類学的にも大変興味深い。
哲学のロジックに置き換えても同じというのは比喩ではなく厳密な意味において同じということ。
「→」による図式化/直観を完全に排除して圏論を理解できるだろうか? もちろん問題は圏論に限らないが。
一対一対応の破綻または一対一対応に破綻の可能性が内在していることを示す作業は、まずは一対一対応の可能性を論の前提とするほかない。カントール、ゲーデルの証明から圏論にいたるまでこの可能性が前提されていることに変わりはない。数学にとどまらず哲学のロジックに置き換えても同じである。
現在章立て/構成と目次項目は部分的に改訂されている。
724.2023
圏論集合論を含む現代物理数学の先端的パラダイムに独立対峙可能な無内包の現実性の哲学−形而上学構築の要の一つ
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論 第1章Ⅳのタイトルを「総ての点は<絶対的端緒点=0>に回帰する――<絶対的端緒点=0>と<無限遠点=∞>との同時性 」に変更(根本的な改訂)
まとまったものは長らく読んではいないが、(広い意味で)思想系の文章というのは、どうしてこんなにものんびりとした能天気な雰囲気に満ちているのだろうか? だかその内実と雰囲気の能天気さにもかかわらず/だからこそ、その効果または機能はしばしば毒性高く破壊的である。
M氏とは少なくともその出自が数学系の方で人文社会学系の方ではありません。723.2023
ただし上記は厳密な意味で(学術)論文について述べているというよりむしろ、より広く哲学書を含む論理重視の著作一般について述べている。
佐々木健一氏だが、なぜそうしてはいけないのだろうか? 細心の感覚と推敲を要するだろうが、そうした方が文彩的変化が生まれてよいと思う。私自身も大抵〜である、〜だ、(〜である)だろう)を織り交ぜている。もちろんこれらの頻度はぎりぎり切り詰めていく必要があるだろうけれど。
確かに。しかし安部公房は、23歳時の処女作『終りし道の標に』1947年において、「終わったところから始まった旅に終わりはない」と書き記していました。トポロジカル・ループ
特に以下の記述が深く関係する→「統覚の分析的統一(例えば赤一般の思考)はあらかじめ思考された統覚の総合的統一を前提することによってのみ可能である」⇒カント『純粋理性批判』第2版演繹論「統覚の根源的総合的統一について」から
722.2023
カント『純粋理性批判』の読解にとってはまさにコアな問題だが、なぜか(ウィトゲンシュタインは別にして)殆どの哲学者においては、こういった問題がスルーされているかまたは非常に不鮮明な形で埋もれているように(もちろん寡聞にして)見える。
721.2023
ざっくり見たが、M氏の新刊は肝心の問題領域にはカスリもしないみたいだな。真剣に問題にぶつかって掘り起こしているツイートの方がはるかにましな場合が多い。まあ殆どの本はこういった感じなのだが。ヒントになる点も多々あるようだから月曜日から全体を通して読む予定だが。
興味深い言葉「数学者は、形式言語をそれとは全く無関係に存在する数学的構造を参照する方法として捉える傾向があり、一方、計算機科学者は、言語を純粋に記号的なシステムてして捉え、それ自体を超えた何かを「参照」する必要はない。John Longley and Dag Norman: 木原貴行氏による翻訳」
20.2023
現在執筆中の単著にこれまで登場した(および今後登場予定の)固有名①(おそらく日本人のツイアカを含む):『本論』前半には圧倒的に永井氏が登場する。ある程度先の時期から作業する後半になると次第に入不二氏の登場頻度が増える予定⇒カント 永井 均 入不二基義 レーベルク デカルト @halching1 さのたけとtaketo1024
谷口一平 アンセルムス 白井仁人 ゼノン リーマン ヒルベルト マンデルブロ(集合) ジュリア(集合) レヴィ=ストロース ラカン 久保元彦 実川敏夫 アリストテレス オイラー ネイピア(数)モンゴメリー オドリズコ (アキレス)風間くん(問題)ボストロム ベン・ゲーツェル ニーチェ 道元 クリプキ ウィトゲンシュタイン アインシュタイン ローレンツ ガリレオ 山本一成 羽生善治 安部公房 顔アカウント 堀田昌廣 マックス・テグマーク カルロ・ロヴェッリ レイ・カーツワイル ベイズ 仏陀 メルロポンティゲーデル ナビエストークス(方程式)ニュートン マンマのさんま ¿ろりじょ?
@R_O_R_I_J_O
マルダセナ(対応)スーパーサイエンスガール 中村 享 石川啄木 津田一郎 花村誠一 加藤敏 プランク ユドカウスキー 山極寿一 白隠 棚橋一晃 薬山惟儼 水野 弥穂子 ミンコフスキー マイケルソン・モーリーマクスウェル プラトン 魔神ぷー ベルクソン バークリ ヒューム みや竹 メビウス(の帯)クライン(の壺)
さらに、今後登場予定の固有名⑥ みいあ@path110 ショーペンハウアー ライプニッツ シュレディンガー 青山拓央 和田純夫 すし天ズ i.e. Jun Miura ダニエル・ベルヌーイ等
さらに今後追加予定
上記の「『本論』前半には」を「『序論』後半から『本論』の少なくとも第3章から第4章まで」に訂正 また、入不二基義氏は特に『序論』後半以降の「現実性」の<次元=場>の記述において、直接の解釈対象というより最初から常に通奏低音として登場している。
昨日ようやく読了。 #アリストテレス 『形而上学』の隠れた核心は、#プラトン 及びプラトン学派の「数論」に対する膨大な分量の執拗で超高密度の批判だった。
つまり #数 の創発と時-空の創発はワンセットで探究する必要がある。それぞれ個別で考えてもあまり実りがないだろう。
そのため未完に終わっている。
つまりアリストテレス自身のポジティブな数の規定は(彼自身の枠組みでは不可能というネガティブな形以外には)遂に提示されていない。
718.2023
事象内容的/内包的な違いは皆無でも、書くという行為によってのみ、本来全く不可能であるはずの「様相絵/人称絵/時制絵」を、《様相絵/人称絵/時制絵》として書くことができる。それは同時に無内包の<次元=場>の<様相絵/人称絵/時制絵>でもある。
本日 #安部公房 に関する記述作業を完了(あと一回は彼にスペースを割く予定)。「書くことによってのみ無内包性を書くことができる」という一見トートロジカルな事態こそ、安部公房が成し得た文学的創造行為とこの<私>による形而上学的探究を架橋する<次元=場>なのである。
#安部公房 の「書くという行為は、たぶん、何事も起らなかった場合だけに必要なことなのである」という言葉は、この実在的世界において「何事も起らなかった場合」という無内包の<次元=場>と「書くという行為」の不可分の関係性に言及したものとして極めて稀有であり注目に値する。
物理的な意味をモデル/理論が持つための不可欠の条件は、それがその根底において「時-空図」だということである。
これ繰り返しますが最終最大の問題ですからね(笑)
言語としての数がボトムアップに創発されるという極めて興味深い見方。この数の創発の<次元=場>と時-空の創発との関係性が最大の鍵になる。
アリストテレス『形而上学』におけるプラトンの数論批判の量的膨大さ、執拗さ、そして限界までに至る解像度の高さは大方の想像を超えるものであっただろう。
私自身はかねてから(遅くとも二十代半ばから)時-空は創発するという考え方に立っている。
717.2023
C級植民地
というか既に操作されている。
陰謀論概念の奴隷一揆は、ほぼ確実に奴隷飼育者階級やなよって戦略的-戦術的に背後で操作されると思う。
この「不定の二 aoristos dyas」への改訂の件について岩波文庫編集部から返信がないが必ず校正してくれることを祈りたい。
この点でカントは極めてアリストテレス的だったと言えるかもしれない。ただし彼はアリストテレスと同様プラトンの重力圏から離脱仕切ることはできなかったと思われる。
#アリストテレス 『形而上学』第13巻第4章末尾は、実質的に「「存在する」はリアルな述語ではない(にもかかわらず #プラトン の如くエイドス/イデアを持ち出して説明方式を二重化するのは余計である)」と論じられている。
716.2023
カント『 #純粋理性批判』 超越論的構成の閉域は、その内側からその閉域自身の外部に向けて突き破られなければならない。
遅くとも大英帝国・オランダ東インド会社時代から現在にいたるまで、つまりまさに現在、人類存亡の命運(究極的には核戦争の可能性)を握っているのは、相変わらず○○カンつまり○○ズス会らしいな--- もちろん民衆の予測不可能な力を別にすればだが。
はい。もちろんクレジットと日付付きで。。この解釈に関しては、今見つけられるなかで遅くとも大英帝国・オランダ東インド会社時代から現在にいたるまで、つまりまさに現在、人類存亡の命運(究極的には核戦争の可能性)を握っているのは、相変わらず○○カンつまり○○ズス会らしいな--- もちろん民衆の予測不可能な力を別にすればだが。
最も切れ味鋭いものだと思います。私は実在的内包次元の「記憶」と無内包次元の〈記憶〉を区別して論じる作業予定ですが、この魔人さんのテキストは絶好の素材になります。
『解釈学・系譜学・考古学』を読解する――永井均の「幸福論」|魔神ぷー(´・ε・`)
@luvsaaya#note https://note.com/luvsaaya/n/n675b97e271af…
切れ味よくまとまっている。後に引用転載してコメントさせてもらうかもしれない。
715.2023
https://youtube.com/watch?v=FDPqRyJbM5s&t=0s…
上記動画の49分40秒頃から「物理的な意味」の重要性についてヨビノリ氏が語っている。ざっくり言うと、 #数学 と #物理学 の違いを物理学サイドから見ると、物理学は単に数学的ではない「物理的な意味」を不可欠の成立条件としている。従って、トートロジーに見えるかもしれないが、物理的な意味がないまたは見いだせない世界記述の数学的モデルは物理学モデルにはなり得ない。
昨日顔アカウントさんのこのツイートとそれに対する私の引用ツイートに関して二時間ほどかけて書きました。いろいろありがたいです。
714.2023
現代の量子力学の解釈問題においても最大のトピックの一つは、「位置」に代表される時空座標の物理量(確率変数)とエネルギー・運動量の「確率分布」の不確定性関係をどう考えるかだが、これこそ『純粋理性批判』という次元の転換を経なければそもそも生まれてくるはずのない難問だ。
まあとにかくこの一事だけでも、最近の堀田氏がらみの哲学物理学ヒエラルキー論争のバカバカしさは明らかだ。無意味な論争は辞めた方がいい。
これは直観に過ぎないが、ハイゼンベルクがもし『純粋理性批判』を読んでいなかったとしたら、あの不確定性原理(不確定性関係)を着想し得なかっただろう。これら両者はの洞察は、哲学と科学の最深部において繋がっている。
こういった若い頃の哲学の読書と思索が彼らの創造的な仕事に深く繋がっていったことは明らかだと思う。上記の哲学を文学に替えても同様なことが言えるだろう。もしハイゼンベルクやアインシュタイン、シュレディンガーがそういった読書と思索を経なかったとしたら、あれだけの仕事ができただろうか?
amazon.co.jp/-/en/W-K-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF/dp/4622049716/ref=sr_1_1?adgrpid=134792866524&hvadid=658889510636&hvdev=c&hvqmt=e&hvtargid=kwd-334159904584&hydadcr=3195_13670840&jp-ad-ap=0&keywords=%E9%83%A8%E5%88%86%E3%81%A8%E5%85%A8%E4%BD%93+%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF&qid=1689288304&s=books&sr=1-1…
 ずいぶん昔に読んだが、ここに彼が10代の頃カントの『純粋理性批判』を読んでいたことが書かれている。アインシュタインがやはり10代の頃スピノザの『エチカ』を読んでいたこと、またシュレディンガーがウパニシャッドなどインド哲学に傾倒していたことはよく知られている
713.2023
簡単に言うと、“「自由」意志”という用語を使った時点でもうすでにダメな道行きが待っていると思われる。
〈私〉には、ここでの「他者」が謎である在り方そのままの在り方で、この〈他者〉がこの〈私〉という謎として組み込まれている。クラインの壺的循環構造
実際に起こっていると同時にそういった思考の問題もあるということでそれら両者は実在的には区別できないということです。
しかし必要ないと思っても現にその意図の無限背進は起こり続けていると思いますよ。
712.2023
つまり先の〈同時性〉の(メタフィジカルな)意味について全く感度がないということだ。多分パトナムはベルの不等式の破れの意味をさっぱり理解できていないのだろう。
まあパトナムは話にならないというのは既に定説になっているようです。
また132頁で上記の著作について「パトナムは、あらゆる力学的変数の値がすべて同時に正確であると主張した」ことに注意を促しています。つまりパトナムの主張はうまくいかないという示唆ですが、私もそれならどう見てもうまくいかないと思います。
白井仁人氏は『量子力学の諸解釈 : パラドクスをいかにして解消するか』2022年 森北出版 134頁で「量子論理を構築することは新しい論理を構築することだが、その新しい論理を議論するのに古い論理を使用してよいのだろうか。」と書いていますね。
一時期概ね90年代半ば以降の現代思想系のフェミニズムの著作を読んでいましたが、家父長制と訳されることが多い「パトリアキー patriarchy」というキーワードがやたらに(見たところ作法的に)使われていました。家父長権(力)という観念の承認が前提だと思いました。
21節の核心的な記述「無内包の現実性の存在こそが、それと対立する言語的世界像を可能ならしめたのである。世界把握の仕方として根源的に対立するこの二つのあり方は、同じく根源的であるという意味においてではなく根源が同じであるという意味において、等根源的であるといえる。」
上記は可能な限り圧縮して(情報理論的な意味でも)書いているが真に問われるべき殆ど全ての哲学問題が含まれている。
参考→トポロジーとグラフ理論の起源としてその筋にはあまりにも有名な「ケーニヒスベルクの橋問題」だが、またしてもレオンハルト・オイラー(溜め息)宇宙人オイラー
手書きの操作可能性についてもっとコアな要因は曲線による一筆書きの可能性ということになります。これはまさにグラフ理論的思考の可能性でもありますね。
つまり簡単に言うとゼロを出現させ得なかったような、「手を使っての操作困難な文字」だということになります。
確かに流行らなかった「最大理由」としてそれはよく言われていますね。なぜローマ数字からゼロが次の段階で出現せずインド圏で発見されたのかを考えるとやはり「筆算での困難さ」という操作上の要因になります。つまりゼロが出現し得なかったことはあくまで結果です。
アインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレディンガーという物理学の最巨頭たちの共通点は(ウパニシャッドや仏教を含むインド系哲学を含めて)哲学に造詣が深かったことですね。
私見ですが、(和風に言えば)草書体つまり手書きの自由な曲線への書体変換が困難または変換後のアルファベットに対する優位性が皆無だったからでしょう。
ポイントは最終段階だということ。しかもそれはそれほど長期的なものではないだろう。
私見ですが、(和風に言えば)草書体つまり手書きの自由な曲線への書体変換が困難または変換後のアルファベットに対する優位性が皆無だったからでしょう。
712.2023
真の形而上学的探究の最終段階が始まるのはまさにこれからである。プラトン、アリストテレス以降デカルトとカントがこの二人にガチで勝負を挑み、さらにウィトゲンシュタインを経由して現在に至った。#哲学
711.2023
永井均『カントの誤診 2』最終パラグラフ: 「作られた現象」であり同時に「現にそうなっている」という無内包の<現実性>と不可分な「我々」と「世界」の根源的な相補性(という驚くべき事態) そして「そこにいたる経路」という文字通り究極の探究課題
この観点によってのみラカンの「全てではない」のパラロジックは辛うじて意義を持つだろう。
かわうそに一瞬見えました(つまらない冗談です)
嘗てネトフリの「印象操作」について指摘したことがある。
DMがありませんでしたのでこちらで失礼いたします。岩波文庫のアリストテレス著『形而上学』(下)414頁末尾行から数えて5行目の“「不完の”は、“「不定の”の誤植だと思われます。極めて枢要な箇所だと思いますので校正よろしくお願いいたします。
やや抽象度を高くして見れば、言語ゲームの置き換え(敢えてすり替えとは言わないまでも)の操作/過程自体は不可視にした上で置換された言語ゲームの地平だけを(端緒のものとして)問題にすることで元々の問題が消去されているようだ。
710.2023
ご存知でしょうがカントの「君はやれる。やるべきだからだ。」実に真似できない可笑しみがありますね。
入門書程度でもかなり導出計算過程が複雑で難しかったのは私も経験があります。ただ当然ながら半導体工学と量子力学レベルの統計力学がほぼダイレクトに繋がっていることがわかり大変興味深いと思いました。
なるほどこれでしたね。超流動状態に相転移ですが純統計的レベルの位置づけがやはり気になります。
いや反交換関係も問題は色々ありますね。
識別不可能なものが同一になり(ライプニッツ原理)基底状態に無限に存在可能だというボソンは時空とどう関係するのかという問題
私は、永井均氏の言うタテ問題がヨコ問題に転換するという事態を(テクニカルタームとして)「移行-変容」と呼んでいる。
しかし言うまでもないが、「社会的真理/真実 Truth Social」というものは厳然として存在する。先ほど私は新たにそれを、しかも非常に重大なそれを発見した。
永井均氏の言う独在性次元としての<私>も、一方向的な無限の累進構造化の運動の最終打ち止め点である
究極的には無内包の<現実性>と<独在性>の問題になる。
二択とは超弦理論かループ量子重力理論か
物理学の根本問題でもある。時空自体の創発を認めるかどうかに基底的に関わる問題→究極理論としての量子重力理論の二択問題
アリストテレスによれば、生成-消滅と運動は類を異にする。では生成-消滅と運動のどちらがより基底的だろうか? あるいはこの問いは決定不可能だろうか? またもし生成-消滅が無限の相互反転運動であるならば運動でもある生成-消滅は運動よりも基底的だろうか。あるいはこの問いも決定不可能だろうか?
またもちろんgoodでない何かとも出会うはずです。善悪の彼岸なので。
そうですね。ただしevilでないことはどこかで善悪の彼岸の善に出会うはずです。
もちろん社会的という次元の限定を解除して。
「さしあたり」アリストテレスのパラダイムは気にしなくてもいい。
無内包次元の議論または探究が意味を持つのはあくまでAGI/汎用人工知能に関してであって昨今の生成AIを含む単なるAIではない。
私は先端的物理数学を形而上学的に読み替えた上でそれを探索することが求められていると思います。実際作業していますが。
簡単には論駁できない。
無限背進を認めないのは言うまでもなくアリストテレスは「不動の動者」を彼の全ての #論理 の(つまり「論理」それ自体の)前提としているから。つまり「論理」は最終打ち止め点である不動の動者それ自体かあるいは不動の動者から帰結するあるものだからである。アリストテレスなら後者になるだろう。
だからアリストテレスはダメなんだよねとは安易に言えない。
やはりメタレベルで「ならば」は除去不可能なのだろうか? アリストテレスなら除去不可能だから結局同じことだろ(つまり彼の定型的論駁のパターンである「無限背進だからやめようよ」)になるだろうが。
昨今の先端的物理屋は前者で解釈問題に勤しんでいますが、昨今の哲学屋はますますその対義語的存在になっています。個人的には実に残念です。
まさに伝道するか迷っていた(実際に伝導を決意し開始するまでの仏陀は)文字通り「一人も理解できないだろう」と思っていました(と記録されている)。
709.2023
全地球的世界覇権が崩壊するとき、少なくとも二千年に一度またはそれを超える人類史の転換が現実のものになる。
708.2023
完璧な技というものを、この演奏家たちの微細な動きの観察を繰り返すことで学んでいる。
https://truthsocial.com/group/the-philosophical-association-jp/members…
 先ほど「哲学会」に入会した。いよいよ革命の開始か…
プラトンのディアイレシスが誤差逆伝播法バックプロパゲーションの先駆という着眼ですね。
いえ念のため確認したまでで回答は予想したものでしたがそうなればこそ大変な難問が発生しますね。
面白いと思いますが、「反復強迫なしにコギトまでたどりつけるとも思いません」をさらに説明できますか?
山本一成氏の言葉「プログラマたちは将棋がどういうものであるか、うまくコンピュータには伝えられませんでしたし、それは今後も永遠に成功しないでしょう」
「のような」という表現は、その把握不可能な無限判断領域の無限性を示している。そしてこの「のような」には、例えば「将棋がどういうものであるか(山本一成)」の「どういう」が反響している。(この件でかなり書いたがここでは詳しい説明のスペースはない。)
精神分析家またはとりわけ現代思想関係を含む #ラカン 主義者には是非答えてほしい。ロバストな論拠とともに答えられないならラカンなんてやってる意味などないだろう。
ルサンチマンの自覚に関わりますが。
反復強迫または転移は認識論的構造レベルにとどまるのか存在論的レベルまで食い込めるのかどちらでしょうか?
707.2023
言語と不可分でありながら同時にその言語を食い破らざるを得ない何か
岩井氏のツイートの「分析(哲学)」という限定は除去できると思う。「英語で書く可能性を思いつかなかった」には何かしら哲学的な必然性のようなものを感じる(のようなものに傍点)。英語で書いてしまったら失われてしまうかもしれないと感じさせる、生で掴んだ洞察の超越性だ。
「それ」とは? 「気づき」としての自覚ですか?
「と」はどのような意味の「と」なのかよくわかりません。
自覚可能なルサンチマンの場合ですか?
もちろんそうも思います。言いたかったのは、ある特定の道元とか良寛とかの人物を称揚するのはバカだからやめようよということです。彼らの実践そのものを分離して捉えるのもどうかと思いますが。つまりこうした議論はそもそもあまり意義がないかもしれません。彼のタイトル訳は『ツァラトゥストラはこう言った』
『ツァラトゥストラかく語りき』氷上英廣訳そのものですね。ニーチェがそうであったかはまた全然別ですが。
私には明らかに道元より良寛の方がこの点ずっと高い脱却地点にいると思われます。
「この私があの空を眺めるとき、この<私>はあの空の無限の彼方の存在領域/<次元=場>を同時に眺めている」というこの<私>の記述は、《言語性》の次元に回収され尽くしてしまうことはない
より正確には、この私があの空を眺めるとき、この<私>はあの空の無限の彼方の存在領域/<次元=場>を同時に眺めている。
「存在領域を」であって「存在者を」ではない。
この私があの空を眺めるとき、この<私>はあの空の無限の彼方の存在領域を同時に眺めている。
「第一哲学/形而上学」としての「神学」は今も存在している。 #永井均 氏と #入不二基義 氏の哲学がその事例である。「現実性こそ神である――入不二基義」
つまり「知覚/指さすこと」ができるかどうかは、「科学的方法の根拠に成ることができるかどうか」の基準にはなり得ません。むしろ量子論・相対論革命以前から「知覚/指さすことができない何か」の探究が通常科学においても先立っています。
「量子」は「このこれ」と「知覚/指す」ことはできないです。
706.2023
氷上英廣、黒田亘、石黒ひで 今や伝説的な哲学者たちの講義に触れることができたことは僥倖と言う他ない。
道徳のこの二重性とはつまり相互反転性(「善くない? なら悪いよね」「悪くない? なら善いよね」)
道徳は常にこの二重性で防御しているから(権利上←同じことだが)鉄壁に見える。また事実鉄壁でもあった。ではこのプラトン、アリストテレス、カントも免れ得なかった不可避的な道徳の二重性はどこから来るのか?がコアの問題。
そうですね。まったく同じ人間のまったく同じコインの裏側で「(弱肉強食は善いことだけど)でもやっぱり悪いことでもあるよね」が貼り付いていそうです。
705.2023
ここ数日続いていたこのテーマに関する記述作業を先ほど漸く完了した
いや悪夢は現実であり夢との一般的な対立関係にはないです。良い夢と悪い夢という対立関係にはない。ただし私にとって悪いものであり得る。
技術的には既に可能でやる気満々の人たちがいる。
つまりカントの言う「単なる手段化でしかない」物件またはマイクロチップ/情報になり完全統制管理されるという悪夢です。
しかしカント的な手段的理性批判/目的合理性排除は無意味かというとそう簡単に言えません。人類史そのものがありとあらゆる不随意レベルのテクノロジーによる随意化と言えて、その問題の深刻さが頂点へと向かうのはまさに現在以降だからです。大多数の(究極的にはほぼ全ての)人間の手段化
つまりあまり真に受けると「何の(どういった目的の)役に立つ(手段/手立て)なんだよ」という最重要の問いが封じ込められる災厄が生じますね。
聞いてみないとわかりませんがカント的にはそれは目的合理的な手段的意志として却下されると思います。じゃあ「何の役に立つんだよ純粋善意志というわけのわからない何ものかは」という批判の対象になるでしょう。
大乗仏教的には批判の対象になるでしょう。
またある種の達人的ヨガ行者という集団的主体を設定してしまっていいのかという問題もあります。
考えてないと思いますが随意化したならそれも善意志にかなっているかが問われるでしょうね。ただしその場合善意志への適合が曖昧になったらじゃあ何のためにそんなことヨガ行者はするの?という疑惑に晒されるでしょうね。仏陀的にも無意味だろうと。さらにアリストテレス的傾きが出てきてしまいます。
704.2023
ここで「よく見れば」とは「よくよく見れば」の意ではなく「贔屓目に見れば」の意である。なぜならサーンキヤ学派もプロティノスもそれ自体哲学または形而上学で、単なる経験的自然学では毛頭ないからだ。
マクロンほどあらゆる点で確信犯的猿回し的な人物は珍しいですね。つまりここまで来ても戒厳令をしかない(かつ中途半端な警察力でむしろ騒乱をダラダラと長引かせる)のは意図的な不作為だと思います。やはり彼の言動は何から何までエージェント的で信用できないとしか言えません。
ドゥルーズはよく見ればサーンキヤ学派のプラクリティ=純粋質料の自然学バージョンの系譜でプロティノスも経由しているのでしょうが、それに先立つメタフィジカルレベルは最初から削除またはスルーしてますね。数学に関しては微分可能性の理解すら怪しい話にならないレベルだと思います。
その先の探索過程がかなりあり様々作業が必要になります。
だから〈現実性〉との関係性において〈私〉な無内包という点のみ異なりますが現在単著にまとめるべく厳密に論を構成作業中です。是非いずれ議論したいと思います。
もしカントが本当に敬虔なプロテスタントだとすれば、彼は自殺は善くないものだという前提があるのだろうか?
不随意な呼吸等生存に(即時的にも)不可欠なものは経験的空間のリミットであり、カントの倫理学パラダイム空間から最初から排除されているとすれば、まさにカント的倫理的思考肝腎な場面でかなりあってもなくても同じになりかねませんね。
カントの倫理学パラダイムでは回答不可能かも。真顔さんどう思いますか?
「私は今息をしたいのだが、息をすべきなのか?」になったならちょっとゾッとしますね。この問いは是非カントに答えてもらいたいが彼の論拠は何だろうか?
上記はドゥルーズやラカンの批判ではないが、彼らによって(実利的商業的な理由によるのは論外だが)哲学やそうした類のイメージが代表されるのだけは勘弁してほしい。それは不毛なお喋りを増殖させるだけで害あって利はない。
703.2023
まさに『秘密曼荼羅十住心論』に表現された順序での展開の階梯だと思います。
唯識と華厳を組み合わせたものとしての相応渉入構造という着想または洞察は空海の独創だということですね。
空海では最終的にこのバイナリーは消えると言えるでしょうか。あえてシンプルに問いましたが。
言うまでもありませんが、ドゥルーズ=哲学ではありませんね。ドゥルーズ理論は経験的レベルの自然学です。出発点を見れば明らかですが。ラカンも。
否定判断と無限判断の解釈が相互に入れ換わり得ることは、無内包の<現実性>レベルで否定判断と無限判断の作用が相互に反転することに由来する。つまり否定判断と無限判断の作用は<現実性>レベルの相互反転的な<力/働き Aktus>に由来する。
哲学者の感じる悲しみは、もしかしたら独特なものかもしれない。だが私は、本当にそうなのか知ることができない。
702.2023
@hottaquさん
了解いたしました。私も哲学または形而上学のスタンスですが、実在性の非実在的な記述理論(いわばメタ的情報理論)は除去不可能だとの立場です。
返信先:
@hottaquさん
このままでもいかもしれませんが(但しその場合でも「事前に決まっていないという《形で》」としたほうがいいでしょう)、より正確な記述表現により誤解を予防するために「この値が局所的に事前に決まって《いるという意味での》実在性を否定」としたほうがよいと思います。
もちろんもし存在したとしてもスーパーインテリジェンスにも不可能
しかし、もしナビエストークス方程式の一般解(つまり乱流を含む一般解)がないことが証明されれば、民衆の動きが乱流であった場合それをカバーできるシナリオはどんなAIにも不可能になる。
例えば「国家システム」対「反国家システム」というシステム間闘争の場合、それがシステム間闘争である限り、いずれのシステム=エージェントも自陣営AIのシナリオすなわち仮定された初期値とパラメーターおよび関数=規則性に従うことになる。
画像二つ目の式は運動の第2法則F=maに合わせて記述されている。wiki「ニュートン力学における運動の第2法則に相当し、運動量の流れの保存則を表す。」真にランダムネスなファクターは予測不可能な民衆の大津波であり最も高度な乱流である。ナビエストークス方程式はいまだ一般解が発見されていない。
ナビエストークス方程式の起源はオイラー方程式でその起源は ニュートンの運動方程式なのでこの方程式はニュートン力学の極北と呼ばれる。wiki「解は、乱流となることがあり(中略)乱流は最も難しい物理学の未解決問題の一つとして残っている(中略)数学の7つのミレニアム懸賞問題 の一つ」
6.29.2023
彼の友人で東工大大学院に進学した中国人留学生も知らなかったな。ナビエストークス方程式の名前くらい知っといたらどうかと思ったが。いやそれ以前に理系中国人なら、とんでもなく偉大な中国人物理学者楊振寧くらい知ってないと。
理系の博士号と言っても色々ありますしね。嘗て華南理工大学卒でその後東大工学部大学院マテリアル工学専攻に進学した中国人留学生を教えていた(もちろん理系科目ではない)ことがあるが、意外にもトポロジカル物質もナビエストークス方程式もヤン-ミルズ質量ギャップもその言葉自体知らなかったな。解釈上の相互反転性は、<現実性>レベルの深遠な相互反転性に由来する。
「否定判断 S is not P」「無限判断 S is non-P」
これだけだと説明不足だが、「否定判断」と「無限判断」に関する(根源的には「否定」と「無限」に関する)『純粋理性批判』の記述を解釈することにおいて発生する相互反転性を排除することは不可能だと考えられる。相互反転性とは否定判断と無限判断の解釈が相互に入れ換わり得ることである。
議論での最大の論点の一つは「否定」の厳密な位置づけだが、寡聞にして哲学研究において殆どの場合表層的なレベルでスルーされている様に見える。これに関しては嘗てあまりに論外な(何も考えていないスローガン的な)事例が見られた。そういうのはいい加減にしないとね(苦笑)
それにしても昨日の永井 均氏、谷口一平氏、そして何人かの哲学の友の方々との対話(飲み会を含む)は楽しかった。議論を含めてほとんどストレスフリー
ほぼ最終的な推敲により『序論』および『本論』のInterludeⅡ「<非-思量>という<次元=場>」までの作業が完了→現在Ⅲ「<非-思量>とAGI」の初めの部分。注を入れて全体で400字詰原稿用紙約220枚分になる。
6.29.2023
@omnivalence 先ほど空海において「文字」と「名」はどのように差別化されるのかまたはされないのかという問題が気になりました。
把握することは絶対に不可能でも探究することはできる。それこそが形而上学=メタ自然学
同「それゆえ登場人物たるアキレスと亀自身にも、じつはふたたびこの矛盾が内在することになる。」 この「じつは」において、〈独在性〉と不可分であると〈同時に〉そこへと〈隙間/裂け目〉を穿つ〈現実性〉の力が働いている。この〈力〉それ自体を把握することは絶対にできない。#形而上学
〈独在性〉の矛盾に関しては、アキレスと亀が独り二役であることが最重要コア。私の全探究の最重要コアでもある。『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』19頁注「アキレスと亀が二者に分割して演じて見せている矛盾それ自体は、実際にはつねに一者に内在する矛盾として存在する。」#哲学
6.28.2023
できるかどうかは別にして、汎用人工知能 AGIの開発の最先端にいる人間なら、汎用人工知能を巡る私の探究を理解できるだろう。開発者たちが真にAGIの開発の意味を理解しているならば。
本来的に無内包のこの<私>が、その無内包の<私>自身の無内包性を、同様に無内包の(任意の世界の世界内性に無関係に現に偏在的に働く)<現実性> との関係において探究し記述するという不可能な作業
「そもそもなぜこのような無内包の場の記述が成立し得るのか」という今ここでの私の問いは、<今-ここ>での<私>への問いに移行-変容することになる。<今-ここ>での<私>という<次元=場>こそが、無内包の<次元=場>それ自体だからだ。
6.27.2023
クリプキはプラス演算とクワス演算の変換規則をガリレオ変換とローレンツ変換のそれと同様に前提している。だからこそクリプキは全体構図を記述するあの本を書けた。彼がその全体構図を記述したプラス/クワス演算とそこで登場する数の意味は《意味》でありながら、本来的には無内包の<意味>である。
デモクリトスの超越的知性(抽象能力)
「押し付けられたから」という記述における論理と態と時制の〈起源〉について問うのは確かに極めて困難です。
6.26.2023
「アリストテレス批判」や「デカルト批判」が何か間の抜けたものに見えるのは、アリストテレスやデカルトが限界まで思考した結果「解けない難問(アポリア)」を取り出したのにもかかわらず、批判者があたかも批判できる何らかの(矛盾なき)立脚点があり得ると信じているように見えるからである。
夭折の系譜 突出しきった存在としてガロアとランボオは共鳴する。だがランボオですら37歳まで生き延びた(宮沢賢治も37歳没。モジリアニは35歳没)。北村透谷は25歳没でレイモン・ラディゲは20歳没。ロートレアモンは24歳没。画家・詩人の村山槐多は22歳没。関根正二20歳没など画家は夭折が目立つ。
6.25.2023
その問いは、「時間とは何か」といった「 #哲学 」の問いからは最も遠く離れた問いなのである。
その実在世界から最も遠く離れた事態を、この<私>が「時間」と呼ぶべきかどうかという問いに、あたかも《我々》によって「哲学」と呼ばれる作業をするかのように、答えることはできない(そもそもその問いの意味をこの<私>は考えることができない)。
6.24.2023
これもワンネス系だな →真顔アカウント氏のいう「みんなで仲良くマイノリティ」 twitter.com/sitasimiyasui/…
ワンネス系の話だけで済むんなら苦労しないだろう?
6.23.2023
未踏の地平を歩んだベケットやジョイス、バロウズの身になって哲学的-形而上学的探究を行い記述すること---
@ryu17669655 より正確には「この場合「プラス演算/クワス演算」とそこで登場する「数」の「意味」は、《意味》でありながら、<同時に>無内包の<意味>になる」#クリプキ
@ryu17669655 この場合の〈意味〉は《意味》であるながら無内包の〈意味〉ですね。
6.22.2023
10年来のではなくもうかれこれ20年近いな---
私の10年来の友人綱覇佳秋氏の世界予測が完璧に近く当たってしまったようだ。明らかに非常にマズイ事態。
@ryu17669655 クワス算がローレンツ変換
どっちもいいねなんていうアナーキストマルクス主義者がいるが(苦笑)
@ryu17669655 ガリレオ変換とローレンツ変換の両者の変換規則がアナロジー
@ryu17669655 クリプキはプラスとクワスの変換規則を「既に前提している」と思われます。だからこそクリプキは全体構図を説明するあの本を書けたということです。
マルクス『資本論』を称揚する人間は、デイヴィッド・グレーバーの『負債論』と『資本論』を可能な限りガチで勝負させ吟味してほしい。
日本人は奴隷制に対する感度がゼロ twitter.com/You3_JP/status…
もちろん真正悪夢的な意味で
超レトロな『ウルトラセブン』メトロン星人が自分の中でトレンドワードになっている。
@yokoyama33 あらためて(十一面観音などの)多面観音は超リアルに再表現されるとゾッとするだろうと思いました。
数はアリストテレス『形而上学』の「形相-質料」「可能態-現実態」「本質-実存」「実体-属性」「生成-消滅」「端緒-終わり=目的」のいずれの枠組みからも逸脱している。アリストテレスは『形而上学』最終パートにおいて、数を巡って膨大なと言えるほどの記述を費やしているが殆ど成果は無かった。
6.21.2023
#アリストテレス『 形而上学』が実質未完に終わらざるを得なかった究極の理由――彼の形而上学のパラダイムにおいて、「 #数 」は遂に全探究の「終わり=テロス:目的」においても/おいてこそ処理不可能な一種の禁忌にとどまり続けた、ということである。「目的=本質外」の何かとしての数
@omnivalence 彼は自分自身を唯一者としたかったから心の底では中原中也を消したかったのではないかと思います。つまり中也という他者を「消せなかった」ということですね。まさに中也の「汚れちまつた悲しみに」は意味深です。
@omnivalence 癖ありまくりですね。自分の作品にしているので(苦笑)
@omnivalence 中原中也との因縁もあり小林秀雄のランボオ『地獄の季節』訳は賛否両論ですが、私はあれで世界が決定的に変わりました。小林秀雄は仏教用語の「忍辱の鎧」など自在に駆使してますね。「別れ」の痛切極まる訳文は最高です。死ぬまで忘れることはないと思います。
6.20.2023
もちろん何であれ極めて稀有な例外があるはずなのでそういう場合は例外です。
もちろん大変な苦労をして(しなくても同じだが)それらにたどり着いたとしても、またそれらを「脱構築」したとしても同じことになる。#philosophy
何度か述べたが、「意識」を足場にしてそこから出発する「哲学」に可能性はない。「言語」を足場にしてそこから出発する「哲学」に可能性がないのと同様に。
ゾンビ的完全対称性とその対称性の自発的な破れとの相互変換運動を考えるなら、《X=AGI》の概念=言語フレームもそれに固有な時空認知フレーム=直観形式との相互作用により無瑕ではなくなるはずである。だが《我々=人間》には、そしてこの<私>も、この「はず」を単に考えることしかできない。
だが、《我々=人間》には、そしてこの<私>も、この「はず」を単に考えることしかできない。
実は言語概念フレームの方も固有な時空認知フレームとの相互作用により無瑕ではなくなるはず。
ニック・ボストロムとレイ・カーツワイルとベン・ゲーツェルへの応答という意味もある。#AI twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
多分 #汎用人工知能 AGIを巡る史上初の基底的レベルでの哲学的 -形而上学的記述(のごく一部 但しコア部分)#science
@ganrim_ 谷口さんはこの「なるべく下げる可能性」を語っていたんでしょうね。当然言語によってその可能性を語るよりほかないわけですが、そこには規範化された事実でも事実化された規範でもない可能性の〈記述〉という無内包の〈次元=場〉が生成すると考えています。このところそれを巡って書いてますが。
この点ではクリプキはアリストテレスの忠実な弟子だな
#アリストテレス は『形而上学』第5巻第15章において「(思考自身ではない)思考対象」なしの思考→志向対象なしの志向性つまり志向性不全を認めていない。思考についての思考---という無限後退に導くとして。だがデカルト『省察』限界地点のコギトには志向対象はなかったのではないか?
まさにアリストテレス『形而上学』の全ての記述の根底的な土台は「我々によってそう言われる(または呼ばれる)」→ロゴス=説明方式
ミシュレ『魔女』は、90年代末に「酒鬼薔薇聖斗(事件)」について書いていたとき、それを巡って旋回する最重要参照点だった。その草稿は増補改訂され、後に拙著『カンブリア革命』の一つのパートになった。619.2023
@omnivalence ミシュレ『魔女』にこの言葉はセール以外にはとても言えないですね。思い付きさえしないでしょうね。
@omnivalence ミシュレの『魔女』は90年代に読み非常なインパクトを受けた書です。もちろんセールのこの言葉は大変な賛辞ですよね。
エリザベス・グロス Space, Time and Perversion: Essays on the Politics of Bodies (1995) の私のアマゾンレビューでこの驚くほど直截なグロスの記述を引用した。
@ganrim_ 「事実の規範性」と「規範の事実性」の両者が循環的な運動において癒着して互いに補強し合っているのが厄介な常態だと思います。
かなり昔の話だが、エリザベス・グロス(というフェミニズム哲学者)ですらこれをしっかり認めてたね。 twitter.com/ganrim_/status…
これも(誇大妄想的に見えても)マジな話だが、この国でどこまで哲学-形而上学の探究を続けられるかに人類の存亡が懸かっていると思う。現在進行中の、異次元の地球規模統制管理の潮流に対抗し得るのは、根源的な哲学-形而上学=メタ科学だけである。#哲学
アリストテレスは『形而上学』第5巻第6章において、(「角」=特異点を含まない)微分可能性に基づくトポロジカルな連続的変形という運動可能性による「同相⇒一つ性」という概念を先取りし実質的に創始している。
この意味ではプラトン・アリストテレスのイデア形相優位論は正しい。つまり近年次々と浮上してきている様々な深刻な問題はすべてこの時に全地球規模の支配統制管理プランとして完成していたということである。すべて個別的に見える諸問題は一つの設計図に書き下されていたのだ。
私はあまりにも早くそれに気づいたので身心ともに災厄の渦中に投げ込まれてしまった。
それが《汎優生主義 Pan-Eugenics》である。
すべては道徳的悪に行き着くのだよ。この世界では!
とにかく私は純粋哲学&形而上学に戻る(戻った)。
1970年代から80年代にかけて、すでに地球規模の《優生主義的情報-バイオ-テクノクラシー》に対して一部では警告されていた。なぜなら超多国籍資本の中枢で地球規模テクノクラシーのプランが完成されたのが早くも1970年代だからだ。その時から世界は暗黒への道を爆走し始めた。
みんなあまりにも能天気で否認的なんで2000年頃から問いをなげかけても汎優生主義の潮流は強まるばかりだった。遂にここまで来てさらにリミットにぶつかった。この国の現在はその典型的な事例である。さらに前代未聞の出来事が次々と起こるだろう。
社会哲学・文化理論関連の文章もいずれまとめて出版したいね。グローバルな潮流を見るとますます深刻な意味がある。現在作業中の形而上学的探究をまとめたものに加えて。
マジな話これは根源的 #優生主義 (私の言葉ではこの道徳的一元世界化は「汎優生主義」になる)のテーマ。テクノロジーで醜さも頭の悪さも出生前診断→出生防止も何もかも対処できるのにやらないのは「怠惰=道徳的悪」となる。#哲学 twitter.com/sitasimiyasui/…
618.2023
それにつけても天上天下唯我独尊(笑) twitter.com/sitasimiyasui/…
異論もあるだろうが、この最重要論点が看過されていたことが、かつての現代思想においてハーバーマスを軽視してスルーするという明示的な作法に従った言説があれほど溢れた理由だろうと思う。 twitter.com/hitoshinagai1/…
617.2023
@path110 はい。イプシロン-デルタ論法ですね。
@path110 変換ミス→考えている
@path110 変換ミス →離散性
@path110 根源的なツールという意味では根源的なパラドックスつまり連続性と離散政策(不連続性)のパラドックス(ゼノンのパラドックス)に対処する殆ど唯一の方途としてでしょう。しかしさらに私はその意味での極限操作をゼノンのパラドックスに対抗し得るメタ物理学的な方途として考えているのです。
@path110 ちなみに私は「極限概念」または「極限操作」も単なるツールと考えていません。
@path110 確かにライプニッツとともに極限の最も端緒的な概念の創始者ではあるでしょう。しかしここでのリーマンゼータ関数の方の「=」は物理学的(さらにはメタ物理学的)次元と架橋する「=」なので単なるツールではないと思います。だから「自然」とここで言われているのです。
@path110 私が先のツイートで述べたのは「この「自然」とはいったい何なのか」という(ただし本質への問いではない)ことです
今さら感一杯のコメントに思えるのだけど。そもそも徹底した概念分析などしていないだろう。 twitter.com/yktlavie/statu…
この「自然」を考えている。#metaphysics
@charis1756 それはそれとして「日本国または日本国レベルの国民経済の均衡」と「グローバルレベルのマクロ経済の均衡」の両者の関係性は殆ど分析不可能だと思います。または極度に難しいでしょう。つまり「8000万人くらいの人口」を「適正な政策目標」として、何らかの「対策(政策)」によって解決(その目標の達成)できる」とは思えません。 twitter.com/charis1756/sta…
@sitasimiyasui だが、ここで主役として登場してくるのは、実は「理性」である。note.com/dharmazeroalph…
@sitasimiyasui フーコーによれば、18世紀の間に、狂気を別個に扱い、かつて狂気がそのなかでごたまぜにされていた非理性に対して自律的なものにし始める過程が開始される。監禁の空間の中に一つの空隙、亀裂が生まれ、そこから〈狂気〉が〈非理性〉の広大なカオス/包囲網を破る自律的で個別化されたものになる。続く
@sitasimiyasui 貧困に陥るのは怠惰や飲酒癖など「個人の道徳的な欠陥」(今日の用語でいえば、例えば「依存症」や「精神障害」全般が該当すると推測される)によるという考え方が強固に根付いていくことになる。続く
@sitasimiyasui しかしこういうことも言えるのですよ。1834年イギリスでは、ワークハウスへの収容主義と劣等処遇の原則を基盤とした新救貧法が施行されたが、過酷な生活を強いることで見せしめとし、制度の利用が恥であるというスティグマを植え付けることになった。続く
@charis1756 そこでストップしないと思います。
@ryu17669655 ロジカルに正しい=善=あらゆる物事の本来あるべき姿
@ryu17669655 プラトンではまだ複雑なアンチノミーまたは弁証法的アポリアに満ちていた論理と善の関係性がアリストテレスに至ってダイレクトにまたは能天気に接続されてしまっています。@ryu17669655 ここでは詳しく言えませんがやはりというかおそらくアリストテレス『形而上学』の影響がかなり決定的だと思います。
@Taroupho ただこれに限らないが(結構昔から)東氏のもの言いがあまりにテンプレ感満載なのが気になる。
@Taroupho 不作為つまりわざとやっている。言い換えれば現体制はこれまで長期に渡って一貫してこの国自身の消滅を狙ってきたことになります。これはロジカルな結論で驚くベキことではないですね。@Taroupho これに関してはひろゆきが正鵠を得てましたね。その意味で現状の政治のままではこの国は消滅が決定してると。また日本の深刻な貧困問題は「100%(不作為の)政策ミス」だという海外の実証研究めあります。
616.2023
@Taroupho 別に「疑ってる」わけじゃないんだがね。
『<私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『本論』第2章の目次項目 現在第2章Ⅲまでベータ版作業完了 それ以降は第3章の章立てと各章での順序付けられた素材のみ存在している。
参考「臨界帯」(critical strip) と呼ばれる 0 < σ < 1 の帯状領域に関する記述を増補。文中のヨビノリ氏による以下の動画 『高校生でも楽しめるリーマン予想【後編】』 youtube.com/watch?v=5fQYMI… 特に15分30~の上記「臨界帯」(critical strip) 」に関する部分で雰囲気だけでも掴めるだろう。@sitasimiyasui また佐藤さん真顔さんの考察を過渡に二項対立的な図式に落とし込まないようにする必要もあると思います。逆転して元の情けないロジックに回収されるリスクが生じるので。
@sitasimiyasui 佐藤さんと真顔さんの指摘または論点は非常に重要不可欠で今後も議論を展開していく必要があると思いますが、他方広末涼子等個々の事例は放置するという原則もそろそろ根づいてほしいですね。到底無理なんですが。
615.2023
@sitasimiyasui いえ誤読じゃないです。二つの読みが実は一致するかも!です
@sitasimiyasui 言語的に根源的に「狂人」になることを人々はそもそも原理的に近いほどに観念できない。
@sitasimiyasui 「狂人」は通常人々が観念する「狂人」です。フーコーなんかがデカルトを理解できずに言ってたのも所詮はこちら
@sitasimiyasui 「道徳的悪人」はここでは「言語的悪人=狂人」に訂正
@sitasimiyasui そうですね。つまりうっかりするとそっちになるリスクの方がはるかに大きいとなかば以上すでに十分狂っている常人たちは感じているのでしょう。事実そうですね。しかし道徳的悪人になることはその意味がそもそも理解できずしたがって恐怖を感じることができないのでしょうね。
新たな形而上学の探究は既に唯一者によって手掛けられていた。 twitter.com/XlGjfmYpCchopJ…
岩盤としての「自然」の探究の絶対的な無根拠性を巡る記述 レオンハルト・オイラーの事例
まさにその(探究の)無根拠性こそがこれまでの(とりわけアリストテレス以来の)「哲学」において問われてこなかったものですね。 twitter.com/Taroupho/statu…

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