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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
dz8
「形而上学の時代の幕開け」は、「哲学の時代の幕開け」でもあると思っている。人類の帰趨を明晰に見通すことは難しいが、紀元前の「数軸時代」以来の「哲学の時代の幕開け」という革命的な事態はほぼ確信している。それは従来の欧米文明圏にも非欧米文明圏にも前代未聞の事態であるに違いない。
聖徳太子以来の日本人の政治家の本来の力量からすれば、ビンサルマン程度の外交はやってきていたしまたそれを超えたレベルの外交が必ずできるはずだ。
「附論」の暫定タイトルは、「「0」と〈0〉・プラトン『テアイテトス』・守時奴――時制と思考の零点振動の相互往復の<次元/場>へ」 なお「守時奴」とは顔アカウント氏の概念だ。
「感覚の零度が〈私‐今〉の側から〝無内包〟の問題として捉え返されるとき、0と1との間のみならず、「0」と〈0〉との間でもまた、思考の零点振動が開始される」に関して、清水将吾氏『左右を哲学する』について論じた章の「附論」で論じる予定。
サウジのビンサルマン確かに有能だろうけど、日本人悔しくないのかねいいとこ全部取られちゃってさ。この期に及んでも、もしまともな日本人の「政治家」がいれば本来やるべき、またビンサルマン程度なら必ずやれるはずの外交がかけらもできないとは。もっともそれ以前に無知ならどうしようもないが。
この案件「日本人大規模覚醒」のきっかけになるかもしれない。ならばニコ動大規模サイバー攻撃を仕掛けた側の意図とは真逆の結果になる。
この意味でポストモダンは自己増殖する人工的な兵器のようなものです。
アゼルバイジャンはかなりの親イスラエルだったので画期的です。やはり露中主導で設置された新たな回廊に活路を見出したいんでしょう。
これマックス大仰な言い方になってますがもちろん今でもこう思っています。
昨日ツイートしましたが、すでに広くサイバー攻撃報道されてますね。これ大変深刻なグローバル案件です。
一般にこれほどのレベルのサイバー攻撃は世界戦でしか見られないはずです。つまりグローバル世界戦争の第2段階プランBの戦線がついに開始されたということです。
6082024
16章まで『中論』を語り終わるってマジすごいですね。
いよいよ始まったね。ニコ動潰し。「現在、ニコニコは大規模なサイバー攻撃を受けており、影響を最小限に留めるべく、サービスを一時的に停止しています。」
政府はこれまでの様に意図的に放置して、国立大学全部が潰れるのを待って外資に売却するだろう――というのはいかにも現政権かやりそうなことだね。
また「視覚のほうが遅く感じる」の方も視覚優位で触覚を統合し時間感覚の辻褄合わせをしていると思います。問題は視覚優位の統合だとすると、なぜ上記のような大きさと速さ/遅さの感覚になるのかですね。
「見るほうが小さく感じる」という点で、空間感覚の辻褄合わせにおいて視覚優位(輪郭線の形成による大きさの把握)で触覚との統合がなされていると思います。
ルース・ベネディクトじゃないけど「悪口」言われたと思うって、「恥」を感じるってことでもあるんでしょうね。「恥かかされた→悪」みたいな。日本人の恥って哲学的に深く考えたいよね
私もまさに組織の根本である目的の次元で悪と思います。豊臣秀吉に賛同しています。
もちろん秀吉を継いで人身売買、軍事的侵略/植民地化から日本を守った徳川家康の(を端緒とする)鎖国政策に賛同しています。
日本のものづくりの牙城/生命線であるトヨタを何とかして潰したい欧米の長期的な世界戦略を見抜かないといけない。
辻褄とは、時間感覚と空間感覚それぞれ自立的に成立する(視覚と触覚をともに含んだ時間感覚と空間感覚としての)一貫性ということでしょうか。
とりわけ日本人はその「反発し好まない」傾向が非常に強いと思います。
この言葉が欧米西側にとって恐ろしいのは、「欧米西側の息の根を(最終的に)止めない限り」という意味だからだ。実際欧米西側はレッドラインを越えることをやってしまった。
もちろん今回のウクライナ戦争以降明らかになった、「核戦力において米ドル陣営が最強の座から滑り落ちた」という事態が最大の核心
わかってない方が多いので「基軸通貨でなくなる」とクリアに定義した方がいいでしょう。
目を閉じて運動をともないつつ触った場合には時間(感覚としては持続の感覚)と空間(感覚としては延長の感覚)のズレが消えないでしょうか。
もちろんこの「消える」の意味が少なくとも私にとっては探究の焦点になります。
ただし哲学-形而上学(のみ)はその領域を内側から破綻させる力を記述できると書いたが、この「破綻させる」力は「新たに創造する力」でもある。
6072024
いえいえ「偉大な哲人」文字通りだと思いますよ。たしかに「同じ日本語話者に」には洞察を感じますが、あえて「哲人」と呼んだところにも洞察または本質直観のごときものを感じます。
清水将吾氏の『左右を哲学する』を巡るかなり長期に渡り、またそれなりの分量となった探究の記述、昨日ようやく目処がついた。延べあと数回の記述で完了するだろう。
6062024
あらためて眺めると、結局この最後の注で、デカルトを勝たせてしまっている様に見える。しかしカントは勝負の決着を認めない(苦笑)――それこそが「純粋理性の訓練」(『純粋理性批判』「超越論的方法論」第1章)である。つまりデカルト/カントの二重体Doubletの生成
父親の遺品 マックス・ウェーバー『ヒンドゥー教と仏教 世界諸宗教の経済倫理 Ⅱ』日貿出版社 1983年 こういう本を概観するだけでも、彼を超える巨大な学者は今後も決して出現し得ないだろうという思いが生まれる。
父親の遺品 玉城康四郎『道元』春秋社 1996年11月30日刊
専門家の見方では、また現在まだ閲覧可能な様々な情報から見ると、世界大戦としての(米露主体の)核戦争が始まるかどうか概ねあと2週間以内に決まる。少なくとも今月中には分岐点に差し掛かる。「表層の逆の角度から」マスメディアの報道を見ると現在がいかに戦時体制なのかがわかる。
圏論の心臓部である「米田の補題」の前提つまり可能性の条件は何でしょうか。時空の直観です。理論の背景としての。
halchingさんのツイート自体は昨日ツイートの画像より前の頁に転載しています。https://x.com/halching1/status/1798481028107153414… 昨日のツイートの画像に出てきてますが、halching
@halching1
さんの非常に重要なツイートを転載していただきました。もちろんhalchingさんは私のツイアカ固定ツイートの登場する固有名に記載されています。
6052024
昨日西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』を読んだ(後半は速読に切り替えた)が、私が16歳1か月の時ノートに書いたこの文章を思い出していた。「瞬間」の概念や矛盾が解消されないという点など、突き合わせると面白いかもしれない。
あとは「堰を切る」きっかけを放つ一手(または複数手)だけが必要ですね。貯水量はすでにかなりのものになっていてさらに増え続けてるようですので。歴史教科書的に言えば(谷口一平が仕掛けた)「新紀要革命」前夜と思えばいいかと。
この転職が天職になるのかわからないが、今までの活動は天職じゃなかったんだね
つまり今後この課題にガチで取り組まない「哲学」はゴミとして廃棄される。もちろん数学を始めとする他の学問領域は全くそんなことはない。
哲学においても言える→哲学の言語ではその言語によるオブジェクトレベルの定義操作自身のメタレベル性を厳密に規定することは不可能→ただしだからこそ今後哲学はまさにこの課題の探究に絞り込まれることになる。
散歩は至上の営みですね! 万能薬です。
もちろん「どこかで止まる(という曖昧あるいは論点先取的なタイプの)議論」を避けたかったということですね。私が連想した他の分野は(P≠NP予想にも繫がる様な)チューリング以降の計算可能性理論の停止性問題で、この様な実用的な領域に横断して考えることができるのか?ということです。
しているのでそれこそ「同じ」問題(「米田の補題」が取り組んでいるような同型性の根拠問題)が回帰してくると見ています。
つまり集合論(一般に他の数学領域でもだと思いますが)の言語ではその言語によるオブジェクトレベルの定義操作自身のメタレベル性を厳密に規定することは不可能ということですね。仰る「同じ」の「曖昧さ」を回避しようとしているのが圏論だと思いますが、やはり射→の方向性と一対一対応を前提
また「同値なら」という条件は当然外して考えることも可能です。
もちろん上記はより正確には「メタレベルでの下降が有限回で停止することが不可能」と()が外れます。
「メタレベルでの下降が有限回で停止する(ことが不可能)」が「自然数系列/集合で無限下降列が不可能」と同値なら、その場合の拡張された「メタレベル」と自然数集合/系列との概念的な関係性と言えますが、より普遍的にはこの自然数をある不連続的な量子と考えてもいいのかという問いも含めて。
ここでの「メタレベル(での)」は数学的(集合論的)にどう定義されているのでしょうか。
そのような言葉が現に存在する不思議――このことは深い探究に値する。
この清水将吾氏の言葉自体が無内包の崇高を感じさせる。
6042024
あえて一般化すれば(一般化できるとすれば)あらゆる同型性は同型であることの根拠を欠いている(アンセルムスの神の存在論的証明の破綻)。言語と世界の同型性が全ての前提であっても(意味の世界はそうだろうが)言語と現実の同型性はその根拠以前にそれ自体が欠落している。
先ほどのデカルト論考を巡るツイートの〈他者〉による絶対的に先行する触発というテーマは、永井均氏による『純粋理性批判を掘り崩す』最新稿の特にこの記述に深く関わると思われる。
デカルト『省察』原書購読ゼミ課題論考結論部分② 絶対的な〈他者〉としての神/物自体の始原的な触発のデカルトによる証言――カント『純粋理性批判』がそれをフォローし得るとすれば、〈他者〉に遭遇する終わりなき「純粋理性の訓練/試練」しかあり得ないというのが私の修論の結論だった。
おそらく私が24歳の夏に書かれ、当時の担当教官であった実川敏夫氏にデカルト『省察』原書購読ゼミ課題論文として提出された論考の結論部分① この度『新紀要』に寄稿した『形而上学 序論』最後の注に転載している。
プラトンはアルキュタスの生徒をやってなかったら全く(プラトンとして)存在していなかっただろう。
まさにここで「見なす」とは何なのかという少なくとも現時点では解答不可能な究極の問いが生まれますね。
多分アルキュタスはアリストテレスやプラトンよりはるかに頭がいい。
アリストテレス『形而上学』におけるピタゴラス→アルキュタス→プラトン学派に対する数を巡る戦いは凄まじい。
6032024
もちろん私はそのように(も)読むことができる。
マンマのさんま氏による永井入不二論考② 今思ったが、永井均氏のカント論『純粋理性批判を掘り崩す』は、入不二基義氏による永井哲学批判(この表現をマンマ氏に即して使用する)に対する応答でもあるのではないか。永井氏自身が自覚的にそうしているかいなかはわからないがそう読むと大変面白い。
入不二基義氏の「純粋現実性/〈〉」に関する私自身の解釈の一部の記述は、先日の『問いを問う』合評会参照資料として合評会直前に入不二氏にの添付ファイルでメール送信させて頂いている。
ただし現在ではその理路を維持しつつもさらに重要な次段階の展開がなされている。
現在またはつい先ほどから――この普通の言い方に既に興味深い哲学の問いが含まれているが――マンマのサンマ MK2氏による永井均-入不二基義論を車内で(自動運転車ではない)読み始めている。
2015年6月 妻とともに母親を訪ねて
ここでの「価値」はウェーバーの言う理念型としての「価値合理性」のことです。
6022024
ウェーバーの価値合理的行為と目的合理的行為の峻別の起源はカントの定言命法と仮言命法の峻別ですね。
もちろんウェーバーは価値――宗教的な価値が典型――の理念型による学問体系においてカントの究極目的の絶対性を言わば相対化しているわけですが。ウェーバーはニーチェの先駆者でもありますね。
不生不滅は不生不死とも言われる。時制も実在性も消滅した前後際断/百雑砕(道元『正法眼蔵』「現成公案」「仏性」)という現実性の次元―〈現実〉それ自体の次元―にリンクする。
時間とは、現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態と考えますが、時制としての時間の生成は、今/現在から今/現在ではない<次元/場>への<移行-変容>――「現在」との<隙間/裂け目>を孕んだ<次元/場>の生成――という事態と考えています。
ただし端的な現実としての「現在/ここ」すなわち<今-ここ>という同時性の<次元/場>からの①「時制(的な時間)」とここからここではない<次元/場>への<移行-変容>としての②「空間」の生成はセットだと考えています。
いずれにしても<移行-変容>として時間と空間の生成は、「現在/ここ」との<隙間/裂け目>を孕んだ<次元/場>の生成という事態である。
端的な現実としての「現在/ここ」すなわち<今-ここ>という同時性の<次元/場>は「死」というこの「私」に固有な事態――<死>というこの<私>に固有な事態――と一体不可分で、生じることも滅することもなく、常住不変であることと解される「不生不滅」という事態とアナロジカルだと考えています。
長期にわたっているのでもしそうなら消されたアカウント数はそれなりの数になる。
数年続いているので少なくとも数百単位のアカウント
それに留まらないだろうがかなり露骨だ。
もっともサイバー攻撃は2011以降――旧ツイアカとメールアカウントの乗っ取りや永久凍結など実に様々――なので今さらなのだがこの期に及んで続いているとやはり非常に不快だ。
6012024
私のアカウントだが、随分以前から定期的にアカウントを一つずつ消される悪意あるプログラムが組み込まれている疑いがある。メタ(旧フェイスブックの場合も明らかにそれらしい挙動があった。)
5312024
良寛和尚『般若心経』の筆蹟
空海『風信帖』の筆蹟 王羲之にも比すべき世界最高峰の書
つまり二人とも失敗している。
ただし永井均氏がかねてから主張しているように、観念論論駁は言わば素人向けの通俗的な(または簡単すぎる)理説で、それに比して純粋理性の誤謬推理論(デカルトとの最終決戦を企図したもの)は独在性の観点からはるかに重要な理説になる。もちろんそこでも最終的な決着はつかないのだけれど。
料理人(普通に毎日やっている人)の方は大抵こういう風にいつも使う自家製のタレを備蓄してますね。ここまで複雑性が高くなくても。
5302024
ご返信ありがとうございます。もちろん「Jimmyさんの論の」とは「Jimmyさんが解釈するところのパースの」という意味ですが、そのパースが「双対性の意識または意志は根本原理と不可分な力/働きであり、現象/現れとは異なる次元として区別されている」のであれば整合性があると述べました。
嘗てツイートの場で(永井均氏によってまた私自身によっても)触れられたと思うが、この場合の「最高の名文」というのは、まさにカントの『純粋理性批判』が最高の名文でその全体が完璧に構成されているという意味である。
カント/永井均の文章はあらゆる観点から見て完璧さを目指し、しかもそれを達成している様に見える。実際、前人未踏の洞察を書くにはこうするより他ないだろう。つまりそれ以上さらに完全に改善/修正/彫琢しようとしても(少なくとも常人には)不可能だということである。
特にこの意味の完璧さは『純粋理性批判』(ドイツ語原文)と永井均氏による純理論『カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』において顕著に見て取れる。
「俺にはもう何もない」――深遠なアイロニーとはかくあるべきではなかろうか?
「マイナス符号は回転方向を逆にする→逆回転/反転させる」→入不二哲学における基本的な図式化である「円環モデル」においても潜在性/マイナス内包の次元へそしてその逆方向の実在性の次元の両方向に回転/移行-変容する。
入不二基義氏の言うマイナス内包的な〈次元/場〉の不可避性は「マイナス符号」の存在と機能/反転操作という現象レベルの目印だけをとっても――とはいえそれが最も抽象度の高い枢要なものだが――明らかに推測されると考えられる。問題はその探究方法は如何という哲学/形而上学である。
「マイナス符号は回転方向を逆にする→逆回転/反転させる」→入不二哲学における基本的な図式化である「円環モデル」においても潜在性/マイナス内包の次元へそしてその逆方向の実在性の次元の両方向に回転/移行-変容する。
ポイントは「マイナス符号」の機能が反転/回転操作だという点です。
つまりマイナス符号は回転方向を逆にする→逆回転/反転させる。
空海は私も父親も私の配偶者も(また私の下の姉も)大好きです。高野山には2013年夏に行きましたが最高でした。これも父親の遺品ですが家に東寺刊『風信帖』がありますよ。
私は父親譲りの良寛関係の遺品が多く大変興味深く感じています。日本人にもっとよく理解または知られてほしいなと思いますね。
良寛は1831年まで生きた意外に最近の有名人ですが、道元の真髄を体得したような人なんですよね。私の父親が80代以降晩年に最も傾注していたのが良寛だった。
5292024
なんか今から60年近く前からファミレス的家族サービスはラーメン定食が主体の個人中華食堂という大衆食堂だったようですね。かなり昔1960年頃ですが、亡き父親がその頃転勤していた田川市で、家族サービスで町の映画館で映画を観たあと中華食堂に連れていったという話を亡き母親から聞きました。
私のポジションでは、「物理的に」を「実在的/事象内容的に」と解するなら「存在していない」無内包の〈次元/場〉になります。
現在注目しているのが、回転操作を伴う鏡像/鏡映反転とさらにそれを3軸に普遍化した空間反転対称性/パリティ対称性の破れ→この現象は、3次元空間(4次元時空)においては観測不可能つまり無内包な高次元時空――余剰次元の存在を示唆する。
直前のツイート補足画像→「ソクラテスの死刑」
昭和45年(1970)初版平成2年(1990)再版の角川文庫版『プラトン書簡集』の誤植。「ソクラテスの死刑」の年が、正しくは紀元前「三九九年」なのが「三三九年」となっている。
昨日届いた中古本の昭和45年(1970)初版平成2年(1990)再版の角川文庫版『プラトン書簡集』→本日「第七書簡」を読む予定。驚いたことに巻末の「年表」に決定的な誤植がある。後に画像をアップするが、「ソクラテスの処刑」の年が、正しくは紀元前「三九九年」なのが「三三九年」となっている。
人類史上最大最重要の「損切り」が始まった。
5282024
2003年の予告「核は今や、「偏在する潜在的なものとなった敵」の裏をかくことさえ可能なものとして、それ自身が「偏在する潜在的な力」となった。それは、多様な戦術に応じて、いついかなるときにも、誰に対しても使用され得るものなのだ。」独自成類的な桑田佳祐の世界でしたね。
昨夜自由が丘だが、まさか谷口一平氏等(総勢4名)とカラオケに興じることになるとは。盛り上がって楽しかったので万事OKだったのだが。
既に決定的なパラダイム革命が起きているのだが、通常科学に類比的な通常哲学しか存在していないかの様な雰囲気が残存しているのは興味深い現象だ。この様な現象は最初から実証されたわけではない量子論と一般相対論による科学革命の初期段階にも同様に起こっていたに違いない。
5272024
「解剖台の上での、稲垣足穂と古谷実の予期不可能な出会い」cf.ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』 稲垣足穂『一千一秒物語』 古谷実『ゲレクシス』
「 この同時性(の場)は超越論的な場と独在性の場を架橋していると同時に失敗している」『形而上学』序論におけるラカンと構造主義に関する注記①
5262024
「一切皆苦」という本質直観の標的はキルケゴール/谷口哲学的に言えば「言語性」の地平への否応無き参入としての「原罪」の生成であり、釈迦/Buddha的に言えば「無明」の地平への否応無き参入である。釈迦自身がそのことを完璧に洞察したからこそ「言語性の減算」という以後の哲学の実践が始まる。
この「一切皆苦」という発話行為によって釈迦/Buddhaは全く例外のない、つまり千差万別な経験的差異を超えたあらゆる人間主体の本質をその人間主体の実存と一体不可分のものとして示した。つまり彼はその発話行為によって《人間》という実存と本質の経験的/超越論的二重体を誕生させたのだと言える。
あえて言うほどのことはない経験的な雑感のまとめであるという事実は多分変わらない。そこに意義や価値をおくかどうかは各自の切実な肯定的または否定的な(スピノザ的な二分法をあえて採用すれば)「経験」に従って自由
イデオロギーではなく現実の根源的な洞察としては、釈迦/Buddhaが発話した「一切皆苦」に尽きている。
つまり「一切皆苦」は「あえて言うまでもない」どころか全く逆にどうしても言わなければならなかった「現実」に対する「端緒の本質直観」である。その発話行為は発話主体(釈迦/Buddha)の「実存」と不可分一体なのである。
まさに現実と一体不可分な本質(の根源的な洞察)が「一切皆苦」(という発話行為)もちろんあえて言うほどのことはないというのは私の個人的な評価
であるなら反出生主義は加速主義と同様「イデオロギー/主義」ということになる。
反出生主義は所詮は経験論で、はっきり言ってしまえば「経験的な雑感の(一見巧妙な)まとめ」に過ぎない。「加速主義」の印象の悪さに通じる。
昨日中古品で注文した岩波書店2005年版『ブラトン全集 2 クラテュロス・テアイテトス』が届いたが、なかなか状態がよかった。『テアイテトス』は岩波文庫を発掘して読んだが、『クラテュロス』が見つからなかったので。それにしても日本では最高の作品に限って軒並み中古品になっている。未開の地だ。
昨日注文したが、これは大変助かる。 プラトン書簡集: 哲学者から政治家へ (角川文庫 リバイバル・コレクション K 87)
5252024
本物の哲学的思索を展開している成田正人氏に恵贈されたのは素直に嬉しい。『左右を哲学する』での著者清水将吾氏と成田正人氏の対話最終部分を巡る記述は、現在400字詰原稿用紙換算で約15枚分になっている。もちろん清水氏前掲書の他の箇所に関してもそれとは別に書いている。
量子重力理論の入口であるホログラフィック原理では全宇宙の情報は2次元情報として2次元平面に書き込まれているが、そこで書き込まれる情報は1次元情報つまり線である。だがその1次元情報つまり線を書き込む働き自体はどこにも実在していない。
奇跡は目的合理性とは無縁ということですね。私が身体を動かすのは私自身の始原的創造です。
引用「その瞬間を唯瞬間それ自体として我々の生成の流れの停止の中で、即ち瞬間の完全な移動のない存在の凝視において初めて我々は我々の組成を、そして創造の過程を、また全ての連関を知るのでありそこで初めて瞬間が永遠と融合するのである。それは同一の瞬間の永遠の持続である。」
引用②「我々はある固有なベクトルの内にある。ここで扱われる瞬間を単に時間的な意味で受け取ってはならない。あくまでも瞬間の内部の総合的な全体を意味している。また瞬間は完全に連関的であるとともに完全に自己完結的であり、それゆえ永遠的である。」
引用③「問題点:瞬間あるいは瞬間の無限の持続である時が全存在を包み込むと同時に時が存在(eg.人間)内の最も重要な構成要素であること(時の定義).存在(eg.人間)内の要素あるいは存在の組成・形成のための根源的な存在である時と空間の関係(融合されたものとしての)」
引用④「訂正:未来はどこにも存在しない.(全宇宙においても規定され得ない)現在は瞬間に還元される.過去という概念も規定できない.過去は存在内における個々の瞬間(それぞれ自ら現在化している)に還元される.現在化の規定は現在という規定し得ない概念に基づくのではなく個々の瞬間に基づく」
5242024
Archives 16歳1か月時の試論 『(一つの)新たな直観によってそれ迄のいくつかの思考をいくらか結合させた総合的な(諸)問題に対する概括的な試論』
幸甚の至りです。お忙しいでしょうが、ごゆるりと。
雁琳さんのお手元に渡りましたこと、大変慶賀の至りです。
プラトン/ソクラテスとアリストテレスの共通点は「(それが)何であるか」を「我々は(それを)何と呼んでいるのか」から理解していることで、このことは以後の全哲学史を支配している。私にとって数十年ぶりに昨年それが目についた哲学者の一例がクリプキ(もちろんほんの一例でしかない)
この局面を継承しているのが『訂正可能性の哲学』の東浩紀氏だが、クリプキにはより基底的な、または荒々しい野生の素顔がある。自ら抑圧しているのがわかる(クリプキの抱える矛盾/二重性)
実はこのような形をしているものは「何もない」からである。またはこのような形をしていると言ってすむようなもの/事態は何もないからである。
(してみれば)少なくとも2500年にわたる全哲学史をひっくり返すことができるわけだな
先ほどから学部1年時以来二度目となるが、プラトン『ゴルギアス』を読み始めている。
5232024
グローバル資本主義の最終ステージの到来
なぜ神々かと言えば、ここには人間には(人間に留まるのでは)絶対に書けない作品しか存在していないからである。
清水将吾氏の『左右を哲学する』(ぷねうま舎 2024年)を巡って間歇的に執筆しているが、昨日ようやく目処が付く程度まで作業が完了した。しかしまだ延べ数日またはそれ以上の作業が必要になるだろう。それが完了した段階で『形而上学』上巻として区切りを付けることになると思う。
5222024
本日『新紀要』第2号が自宅に届いた。――神々の競演/饗宴。あらためて谷口一平氏に感謝したい。
双対性の意識またそれと同様に無内包次元に位置する意志は根本原理と不可分と考えていますので、その効果としての現象/現れそのものとは別次元として区別しています。その点が私とJimmyさんとのズレなのかもしれませんが、翻ってJimmyさんの論の厳密な整合性に関わってくる論点だと思います。
仮説的観点ですがショーペンハウアーが表象/現象の根本原理としての根拠律と並んで意志という別次元を措定した様に(彼はさらにこれら2領域をさらに統一しませんでしたが)、双対性という根本原理を創出する〈現実性の力〉に意志がリンク可能だと考えることもできるということです。
もちろん上記「リンク可能」さらにその場合の「可能(性)」「創出」という事態が説明される必要がありますがここでは割愛いたします。
概ね同意します。インデックスに相当するものは、「これ」「それ」自体というよりも、むしろ私の言い方では無内包記述記号(私自身の記述において「ハイフン-」で表記)により〈この-私〉といった形式を成立させる働きと考えています。ここでは概略的な説明しかできませんが。
これに関しても私の現在の考えと近いとは言えます。無内包性の次元の中身の差異を語るという矛盾を抱えるようですが、同じ無内包次元の働きとして注意と意志を位置づけながらも私は意志に関してはさらに極めて特別な記述が割当可能と見ていますので。ただしカントの超越論的自由という観点ですが。
②に関しては私の現在の見方と共有可能です。
5212024
参考 【サプライズ】物理学のための情報理論入門 @東京理科大学 https://youtu.be/mPU-7gGjp5Q?si=uouVvYErb7N5mHif…
@YouTubeより
既成概念を超えてさらに考えるためにも現在までの情報理論の基礎を知るのがよい。
仏陀が創造し、開発した呼吸の制御法とは、身体、言語、心の総合的な統一法である。呼吸の制御とは「呼吸を意識すること」であるが、言語活動は私たちの一切の生の活動の一つとして呼吸とともに行われる。また言語活動は必ずしもそのすべてが意識されるとは限らない膨大な「内的発話」を含む。
よって呼吸の制御においては、内的発話の制御による言語活動の制御も重要なターゲットになる。呼吸の制御=「呼吸を意識すること」としての身体、言語、心の総合的統一は、できるだけシンプルな型で行われることが望ましい。以下にその「型」を記述する。
① 十分な息を吸いながら自分の頭部斜め上方へと両手を挙げていき十分な吸気を腹に貯めた時点で頭部の斜め上方の位置で両手を合掌して静止させ息を5秒ほど止める。
② 頭部斜め上方に挙げた合掌の両手を、ゆっくりと丹田呼吸つまり「長呼気=長く吐く息」を意識しながら下降させて、吐く息を止めることなく長く持続させながら心のなかでシンプルな言葉を繰り返す。
※シンプルな言葉:私の場合は「南観世音菩薩」の称名/陀羅尼 dhāraṇī ⇒全呼気を吐き終わるまで特定の言葉を十二回程度=約15秒間繰り返す。
以上が基本的な「型」である。 以上を毎日折に触れ(時と場所を問わず可能なチャンスがあれば)反復することによって身体、言語、心の無意識の統一=高レベルの集中と安定状態が生じる。また、長呼気の時間も初めから達成できなくとも次第に伸ばしていくことが反復訓練によって可能になる。
すなわち、高レベルの集中と安定状態としての呼吸の制御という行為(丹田呼吸)をつねに実行できるようになる。これによる実際的な効用は日々の生活において数えきれない。各自経験の中で確かめてほしい。
こちらこそよろしくお願いいたします。観世音菩薩というのもとても不思議な存在です。
5202024
そろそろ「情報」それ自体をいかなる既成概念もカッコに入れて考えるべきとき
私も仏陀の徒ですが、それは私の父親の系譜で、私の父親は心筋症で不可能になるまで約60年余り朝晩必ず般若心経と観音経を読経していました。私自身は毎日の生活の合間に丹田呼吸&合掌&南無観世音菩薩の称名のセットを実践しています。多分鈴木さんとは面白い対話ができると思います。
中坊の頃タンギーやエルンスト、バルテュス、ダリとともに好きだったが(ただしデ・キリコは別格)、とても懐かしい。たしかにポール・デルヴォーの世界だ。
さしあたり単に現在の北アフリカやトルコ(旧地名エフェソスのヘラクレイトスなど)の広くアジア系という意味で延べています。現在のイタリア領などもいますので全員ではないですが。
情報のものが実在論的という立場で堀田氏などと議論ができますね。
文字言語の祖型は純粋直観としての組み合わせ文字/モノグラムという図式ですが、まさにそれを反転図形の考察として考えています。また後ほど
そこに反転という回転の力の次元が介入する。
つまりカントが「単なる概念から」と繰り返し語ったものの正体は何か?
全ての「モデル化」について言えるということですね。また後ほど別の局面(かどうかを含めて)で思考実験を始めとして見てみます。
カント以前もカント以後も、また私見ではカント自身も実はその究極的な射程においては考えていなかった問いだと見ている。
「思考実験の内容には、必ず何らかの時空関係が含まれるならば」と仮言的に述べていますが、「思考実験の内容」というより「思考実験」という行為または働き自体に「必ず時空関係が含まれているかどうか」→「時空関係が含まれていない形而上学的な思考実験は可能か」というのが問いです。
実はこの問いこそがカント『純粋理性批判』の根本問題「学としての形而上学はいかにして可能か?」であり、カント以前はもちろんカント以後にも彼以外に取り組んだ哲学者は存在しない。
別バージョン→想像力(カント『純粋理性批判』の枠組みでは産出的構想力/構想力の超越論的総合)の作用を一切欠いた思考実験は可能か?
つまり想像力(産出的構想力/構想力の超越論的総合)を一切欠いた形而上学的な思考実験は可能か?
パルメニデスやピタゴラスに聞いてみたい。物理学数学なら不可能だろう。
哲学における(アインシュタインなど著名な事例もある物理学なども同様)思考実験は想像力によって可能になると言えるだろうか?
5192024
地理的に見ても古代ギリシア哲学/自然学は中東北アフリカを含む環地中海世界つまりアジア文明圏で発生しており、哲学/自然学者たちもアジア人だと言えると思います。
再投稿 「可能性としての未来と必然性としての過去」という図式は間違い
真面目な話、近未来的な提案になるが、谷口一平氏が事業主の版元名称は『書肆 劃然分域』またはその簡略形の『劃然分域』がよいのではないか。
5182024
主語と述語は大抵の場合言表行為として同時に言表されるわけだが、でかい主語(例えば国家)が述語を暴走させるのか、それとも述語の暴走が同時にでかい主語を引きずり出すのか――いずれにしても「見過ごし」を分析して抽出する意味はあるだろう。
「可能性としての未来と必然性としての過去」という図式はよく見られるが、間違いではないだろうか。様相のカテゴリー/可能性必然性と時制のカテゴリー/過去未来は同時に生成するものであり、過去と未来を様相のカテゴリーによって説明し分けるというのは論点先取的な議論に見える。
また私は可能性のカテゴリーが様相カテゴリーとして原初的(厳密には様相カテゴリーは可能性のみ)であると見ており、必然性カテゴリーは自立的な様相カテゴリーとは見ていない。
何度眺めてもこの谷口一平氏のコメントは、私の『形而上学――〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している』の深奥のコアを語り得ている。彼はまだ『序論』しか読んでいないわけだが、読解によほど精力を尽くしたせいか、零点振動の位置づけなどは実に正鵠を得ている。前人未到の探究領野なのだが。
5172024
「さあ今/今日はウカウカするぞ―っ!」
ひとり入不二基義氏のみ――
誰でも「言えてしまうこと」こそが「言えなさ」を構成する→つまり事実「言えてしまうこと」無しには「言えなさ」は構成され「得ない」という構造的なパラドックスが不可避→この事態がロジカルでも因果系列でもない(意味/言語に限定された領域には存在していない)ということがさらなる謎になる。
神の如き暴威――明日から前代未聞の神々が到来するということですね。
最先端の理論物理学者がこんなことを言うなんて!と思うはずです。
例えば「人間原理」で検索してください。
もし言語とともに理由/意味/目的が到来するのなら、言語/意味の到来自体は因果的にも目的合理的にも語れなくなりますね。
そうですね。しかし近年の理論物理学者の言説もかなり境界線上ですね。
私はそれでも言語/意味の到来を語ろうと思う。そして既にそれを試みている。
確かにそうですね。とても厄介であろう予想は、「なぜなのか」を問いかけたとしても、却って声高にその問いが逆効果な別の言説に変形されるだろうということ。
もし言語とともに理由/意味/目的が到来するのなら、言語/意味の到来自体は因果的にも目的合理的にも語れなくなりますね。
確かに理由(律)または目的因(的な何か)がなければ「十分条件」が欠けるので「必然十分(条件)」には決してなり得ないと言えます。アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヒューム、カントなど皆着目したのはそのポイントですね。
必要条件により何かが起こった/生じたと言っても「本当にそれが起こったまたは生じたと言えるのか/言えるのは何故か?」というルイス・キャロル的パラドックスが追いかけてきます。ただしアリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヒューム、カントとルイス・キャロルのバトルも半永久的に未完です。
ただこの問題/テーマ系に対しては古来縁起的ネットワーク因果性による補完という図式が大乗仏教に典型的に見られる。法華経徒であった宮沢賢治『春と修羅』の「わたしといふ現象は仮定された有機/因果交流電燈のひとつの青い照明です」「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」もその有名な事例
5162024
清水将吾氏の『左右を哲学する』を巡る記述の字数は、現時点で400字詰原稿用紙換算で約28枚=11,200字になっている。
「世界の世界性」を担う現存在というハイデガーの論理構成は「経験の可能性」の超越論的構成というカント『純粋理性批判』と類比的だとは言えるだろう。実際ハイデガーは明らかに自覚的にその類比を実行した。
「ケリュグマ κήρυγμα」つまり「告知」→深く共感する。
「想像力が実は従来哲学において全くと言っていいほどまともに考えられてはいない」というのは、先日のツィートへの清水将吾氏の返信ツィートでも明確に述べられている。つまり「なぜ想像なんてことが可能になるのか全くわかっていません」ということで、その点従来の哲学は完全に無力だということ。
想像力も思考も実は従来哲学において全くと言っていいほどまともに考えられてはいないのだが、「想像力」と言っている時点で問題の焦点は「力」だと言える。なぜ力なのか? なぜ力だと言えるのか? 元ツイートの言う「光」も物理的な表現/電磁波ではもちろんなくむしろ「力」だろう。
一切の実体性または実在性を除去してその「力」を考えるならば記述表現としては「光」より「力」の方が相応しい。
もちろん「その「力」を考えるならば」というのは既に循環的な先取りにはなっている。
① ②③の質問は見ての通り全てYES or NOで回答可能で必要なら補足説明するだけなので、論文とその背景の論理&文脈の最中枢に関わる問いだとはいえ、回答すること自体は難しくない。回答の見極めの区切りとして、20日月曜日一杯を設定しておきたい。
② 参考 『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』(Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1) 第5章 Interlude2までの叙述構造 https://note.com/dharmazeroalpha/n/nd2070023c70b
ただしおそらく「Interlude2 手におえぬ痛みの中で」を除いた「Archives」以降、場合によっては「観測主体/観測装置/私」は下巻以降に移行する可能性がある。
5152024
東西ベルリン、モスクワ、フィレンツェ、プラハ、ワルシャワ、ブダペスト、ウィーン、バーゼル、ライプチヒ、グダンスク、ブラチスラバ、ストラスブール――世界が変わってしまった今、嘗て若き日に訪れた街たちが非常に懐かしい。
ドイツ金融資本の牙城でドイツ銀行の本拠地フランクフルトも懐かしい。
ロンドンヒースロー、ローマレオナルド・ダ・ヴィンチ、モスクワシェレメーチエヴォ
ご批評ありがとうございます。人によっては信じがたいかもしれませんが、またある意味で情けないとも言えますが、「私の人生において初めて本気を出した」のがここ数年の哲学-形而上学への回帰-探究と昨年来の執筆作業でした。無論それまでいい加減だっわけではないのですが。まだまだ先があります。
『形而上学』序論のインデックスは以下だが、ⅠからⅣまでの記述は、ごく細部の整形/彫琢部分を除いて27歳頃に書いたオリジナル原稿とほとんど変わっていない。少なくてもその根幹部分に関しては。
Ⅰ.内包量を巡るアポリア Ⅱ.超越論的図式 (das transzendentale Schema)――線を引くこと Ⅲ.持続的なものという場/仕組み Ⅳ.線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性 Ⅴ.<X>――把握の仕組みの非存在へ Ⅵ.問いと展望 現実性と言語性との同時性――そしてその<隙間/裂け目>の生成
最も枢要なポイントを観て取られてますね→『形而上学』本論は、その全体にわたって「「0」と〈0〉との間でもまた、思考の零点振動が開始される」という停止不可能な振動について様々なフェイズで記述していると言えます。つまり〈私〉/《私》/「私」のトータルな関係性または構造的運動様態の探究
ベルリンは壁が壊れたばかりの頃一度滞在したがやはりというか唯一無二の気が流れていた。そのベルリンの流れと速度がこの作品で奇跡的にキャッチされた。
5142024
① から③の問いは論考全体の真の中枢に関わる問いになっているはず
② 先ほど貴論考読了しました。大変興味深く、多少確認したい点がありますのでこちらで失礼いたします。①「注意」と「意志」はいずれも「双対性の意識」として、今ここでの無内包性を持つもの――その意味で同じ無内包次元にあるものとして――位置付けられますでしょうか?
②インデックスの無内包性は、「注意/意志」とその無内包性において不可分であると位置づけ可能でしょうか? ③以上から注意/意志は双対性という次元そのものを創出する無内包の〈力〉として把握可能でしょうか? ちなみに私自身は、以上①②③のいずれについてもいくつかの条件の下で肯定的です。
尖り切った超作品たち――本日全て読了
いずれリモートで対話できるといいですね。先端的な問題意識からネオ高等遊民さんの哲学史の驚くようなハイレベルなコアを抽出できると思います。
朝方この極めて重厚な論文を読了した。戦後史研究の原点に回帰したとい う言葉がフィットすると思う。
哲学はどうしても疑い得ない事実――この〈私〉の独在性または無内包の現実性――への驚嘆から始まる。どうしても疑い得ないという除去不可能な「制約条件」を承認してそこから始まる哲学は、現代哲学を含めてこれまでの哲学史上殆ど皆無だった。
極めて基底的なというのはDNA的なというよりむしろ量子レベルで可能になっているだろうという意味合い
まさに哲学/形而上学の根本問題ですね。嘗てドゥルーズは「無限速度としての思考」という一言で済ませましたが――その言葉に私が30年以上前インスパイアされたのは事実――全てはそこから始まる。『左右を哲学する』の清水将吾さんもその点よくよくわかっていましたね。
その様な極めて基底的な(動的でもある)横断的ネットワークリンクによって、回転もDNA「的な」アプリオリ次元で可能になっている可能性があると思います。現在その次元で時-空連続体/意味/言語の生成――それが同時に他者性の断裂を架橋可能なものに変換する――を考えて(書いて)います。
再投稿 昨日言及したブレイクコア・クッシュ氏の『新紀要』掲載論文にコア的な地点でダイレクトにリンクすると思われる。クリプキを巡って
5132024
カント生涯の構図が全て出ちゃってるからね。しかも私が院生時代から注目している「純粋理性の(終わりなき)訓練」という決定的な視座まで提起されている。この視座はヘーゲルにもニーチェにも乗り越え不可能。
「冗談可能性/なんちゃってビリティ」と「超越論的誠実可能性」の不可分な循環→ただこれはもちろん余興的なものではなくまさにクッシュさんの議論の根幹に関わる問題で、永井均氏の連載中の純理論や入不二基義氏の「私たち」論等を巡って私自身にとっても最も枢要なテーマ系に位置しています。
私もカントは所詮――と言うと上から目線っぽいですが――純粋理性批判に尽きると思います。
ブレイクコアさんとは何度もお会いしてますしまた色々機会はあるでしょうからよろしくお願いします。
埴谷雄高自身はもちろんこの『死靈』を究極的な地平と思っていたのだろうが、あくまでも過度的な地平の作品
本日朝の車内で読み始め、つい先ほど流れる様に読了した→それだけ流暢な筆致。対話できる論点/テーマは網状に関連し合った形で様々あるが。いずれかの機会にブレイクコア・クッシュ氏と話してみたい。例えば超越論的「冗談可能性/なんちゃってビリティ」と「超越論的誠実可能性」の不可分な循環等
5122024
昨日25年ぶりに埴谷雄高『死靈』を読んだ。過渡期の作品だ。
アリストテレス『形而上学』でもそういった探究の記述は必ずしもクリアな結論には至ってないですね。当たり前ですが
壱村さんの作品読了
この問題私もとても重視してまして、昨年ウィトゲンシュタイン研究者槙野氏のあるツイートを素材に掘り下げて書いてます。
伊藤潤二は色々な意味で最高です。
そろそろその先の話をしないとね。次の途轍もないステージは目に見えない地平で既に始まっている。
5112024
本日ある精神科医のユーチューブ動画を久々に耳にしたが、非常にレベルダウンしているばかりか明らかに有害な誤解を招くものだった。
彼もそろそろ余計な話題に口を挟むのは止めたほうがいいと思うが
hロバート・キヨサキ氏は日本でもよく知られている。
5102024
世界最古の老舗の金剛組の時代からそうですね。日本のコミュニティ/地域社会のコア中のコアが老舗だと思います。
名言の鬼だな
この数日特に昨日あたりからSuicaに限らず様々な領域でサイバー攻撃が激しくなっている。
自分で言うのもなんですが、この『新紀要』、やり方によっては、もし商業的にアマゾンに乗っかることができれば十分ベストセラー狙えるんじゃないかな。あまりにも特異で信じ難いまでに「尖り切った」ブランドとして。
もちろん手元に全体ファイルがありそれを通覧している。
そこから様々な、色んな尖り切った才能たちにひらかれていけば非常に面白いことになる。いや間違いなくそうなるだろう。
これから1時間半ほどの間歇的な作業になるが、清水将吾氏の『左右を哲学する』の特定部分を巡る執筆を再開する。回転の導入/他者の出現/意味の生成
昨日初めて妻に左右と時制を巡るこの辺の話の含意を噛み砕いて話したが、多分理解しつつも既に言語の地平が前提された他者への転移が肝じゃない?というラカン的な返しをされてしまった。それに対しては哲学の探究はらまさにその言語性の地平自体の生成場面への問い/探究なんだと返した(苦笑)
こちらも掲載論文『形而上学 序論』とそれに引き続く『本論』の参考リンクです。 サブマガジン カント『純粋理性批判』とその周辺|
以上が『本論』上巻の予定だが、おそらく最終部分はある程度圧縮されるだろう。掲載論文は『序論』なので上記リンクはむしろ『序論』とそれに続く『本論』全体への参照リンクになりますが。
5092024
ドゥンス・スコトゥスの「このもの性haecceitas」の説明と文脈的なそこにいたる記述における位置づけも非常に核心を掴んでいると思いました。「これ」がいかなる実在性次元をも超えているという驚き(118頁「私たちの理解をはるかに超えた、驚くべき存在」)の提示はまさにこれしかない、ですね。
アベラールの核心が初めてクリアに理解できました。一つの驚きです。
エマニュエル・トッド 片山杜秀 佐藤優『トッド人類史入門』彼を凌ぐ「現代思想家」はなかなか見当たらない。というか洞察力で彼以上の存在は少なくとも現在欧米にはいないだろう。彼に比べるとマルクス・ガブリエルは終始一貫して能天気な間抜けにしか見えない。
エマニュエル・トッド 片山杜秀 佐藤優『トッド人類史入門』彼を凌ぐ「現代思想家」はなかなか見当たらない。というか洞察力で彼以上の存在は少なくとも現在欧米にはいないだろう。彼に比べるとマルクス・ガブリエルは終始一貫して能天気な間抜けにしか見えない。
なんだかエマニュエル・トッドすごいわかりやすい攻撃に晒されているようですね。母国フランスとEUと非常に似てきた。
ありがとうございます。古代哲学はもちろん、特に中世哲学(なかでもアベラール、イブン・ルシュド/アヴェロエス)、ライプニッツ、シェリングなどの記述はたいへん素晴らしいと思いました。
優れた独自かつハイレベルな視点があり感心しました。特に日本人には形而上学と自然哲学という根底にある軸とそれらの絡み合いまたは闘争(融合を含む)という視点は不可欠だと思います。
h昨日届いたので一気に読了した。『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』ttps://x.com/miya397156651//miya397156651/status/1788327708654776446… 期間限定 国の衰退→通貨価値の低下→経済社会の崩壊へ
5082024
哲学史的に極めて重要な批判というものは、アリストテレスのプラトン批判を始めとして複数あるが、近現代哲学史的に最も重要な批判を一つ挙げるなら、永井均によるヘーゲル精神現象学批判――既になされた批判および予告された精神現象学読解においてなされるであろう批判――になるだろう。
ジャンカラとナーガールジュナ/龍樹の両者と対話が可能
確かにサンヨーが消えたのはあまりにも不自然
ジュリアとは数学者のガストン・ジュリアです。
当然のことながら、『監獄の誕生―監視と処罰―』ミシェル・フーコーと深く共鳴している。遠藤ミチロウは言うまでもないが
5072024
実は上記固有名で唯一つ/唯一人入不二基義氏の名前は『序論』においては実在的な記号としては登場していない→記載されていない。したがって正確には、先のツイートに記載すべきではないのかもしれない。しかし『序論』全体の通奏低音をなす固有名として、この場合唯一例外のポジションになる。
つまり『序論』においては、「入不二基義」という固有名は通常の実在性/内包性を持たない文字通り潜在性の場にある。この固有名は『本論』においては潜在性の場を抜け出して現実性の力の場へと超出/登場することになる。
無内包の現実性という次元/場で清水将吾氏の『左右を哲学する』を読解する作業は、その一つの系として、デリダの差延概念を根底から脱構築することになる。私にとっては学部時代からの借りを返したということに過ぎないのだが。
5062024
カント『書簡』フェリックス・マイナー フェアラーク(マイナー出版:初版1873年)1986年 第3増補版
これと関連して、ハアレツ紙によれば「トランプ政権なら現政権以上に武器は早く届いていた」
これはウクライナに関しても似たようなことが起きている。
この方の洞察力は大変深く優れていて参考になるが、私自身は拙著『カンブリア革命』(2013 水声社)において、特に昨年来露わになった巨大な変革の到来を哲学的探究の成果として、また同時に詩的にも「予告」している。
5042024
明治政府の廃仏毀釈(大英帝国の指令)とその同型的反復としてのGHQ米国占領政策による徹底した歴史/政治/文化漂白的洗脳によるダメージがあまりに酷過ぎて殆どの日本人はそこから離脱し得ていないと言えます。その桎梏を未だ対象化することすら出来ていません。まだ占領軍統治継続中なので。
ボレルはいくら抑えても本音が溢れ出てくる。わかるな。発狂寸前なんだと思うよ
これ日本人には極端に不得手なことで――その理由ははっきりしてますがここでは述べません――私にとってはこの意味でのメタ認知は大の得意分野ですね。それで大抵の日本人とは全くまたは殆ど話が通じないのですが(苦笑)
確かにそれが出来なけれはとても哲学者とは言えないですね。
先日発掘したので久々に聞いている。ブライアン・イーノは日本人だけが聴くことができると言われる虫の音などを――ジョン・ケージとともに――聴くことができたのではないかと思わずにはいられない。 The Pearl
あらためて非常に配慮の行き届いた精緻な作業感謝に耐えません。谷口さんの版組は一種の神業ですね
諸般の事情により参加できないのが非常に残念――あのキルケゴール論を読んだからにはいずれまたキルケゴールに取り組まざるを得ないですね。キルケゴールに一時没頭したのはもう高校生時代の昔ですがなかなかあの方は忘れられません。ルソーの様に
組み合わせは違うが、既に失われて久しい嘗ての古き良き時代を思い出した。5032024
未読だが、西洋文明の敗北と没落を余すところなく描き出したエマニュエル・トッドによる本書は世界的なベストセラーになっているらしい。 La défaite de l'Occident
スーフィズムと空海前後の系譜の山岳密教→神仏習合/修験道の共鳴点は明らかにありますね。道元禅のバックボーンも山岳修験道ですから。
陸軍中野学校 秋丸機関 登戸研究所 昭和通商の創設者「陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)の設立他、多くの諜報機関の設立に関わり、「謀略の岩畔」の異名をとった。日米開戦回避に奔走した他戦中はインド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった」
日本は現政権が西側を明確に選択してしまっているので他人ごとではない。米国憲法は死んだ。
永野芽郁にも感じる高い知性と運動感覚が融合した才能ですね
それは大きいと思います。兄貴があの貝塚茂樹ですから。易経からのインスパイアが湯川相互作用の発見に寄与したのは間違いないでしょう。
近日中に観ます。今日かも。いまさらながら鈴木亮平さんとても素晴らしい役者さんです。『ゴジラ-1.0』は観ましたがこれも非常な傑作でした。柚木隆之介さん浜辺美波さんを始めとしてみなさんこれまでとは違った面をリアルに表現していました。実は作中にはちょっと驚くようなサインが隠されています。
5022024
私はかねてから永井均氏と入不二基義氏の仕事を――ある意味不謹慎かもしれないが―ニュートン古典物理学をラディカルに革新した量子力学&一般相対論革命に比している。かなりパラノイアックに言わせてもらえば、今なすべき哲学-形而上学の仕事は、両者の量子重力理論的な統合である。
昨日と本日は久々に書き進めた。延べ時間は多くないが。
何も書かずに考えているだけの時間の方がずっと多くなっているが、もう一月以上にわたって清水将吾氏の『左右を哲学する』の特定部分に取り組む執筆作業が続いている。
「理性の越権行為」により暴走する「自然的素質としての形而上学」を批判して未だ存在していない「学としての形而上学」をより高階の次元で確立しようとする極めて野心的な試みがカントの批判/超越論哲学
その究極目標が「学としての形而上学」
そうですね。ただカントの批判は同時に批判対象の高階での強力な正当化になっていますね。
二股国家サウディアラビアとの紐帯がアメリカにとっての最後の生命線になっている。
もちろん偶然性観念は必然性観念とセット/不可分で、つまりは様相カテゴリーの人間にとっての避け難さということです。
人間ならそういった自動的な傾向性と連動して「無闇に」発生する残酷さや偶然性という観念から(所謂無意識レベルで)逃れられないと思います。しかしすると無意識の観念という厄介な問題になりますが。
5012024
残酷な偶然ばかりということですね。
この件ももちろんだが、身体に悪いのでスタバでは飲まないようにしている。
映画『キャラクター』(公式サイト https://character-movie.jp)主題歌:ACAね(ずっと真夜中でいいのに。) × Rin音 Prod by Yaffle 『Character』に「キスに逃げて 温い永遠は怖い 母はきっと喜ぶし 暖かい構造 総Hi中止」というものがあります→
実は歌詞の全体を私は現在執筆中の仕事の「Interlude2 手におえぬ痛みの中で」で解釈コメントしているのですが、上記部分は「今ここで私が言うことを手放すこと――そこにおいて――母はきっと喜ぶ総ての温かい構造は中止される――極めて厄介な廃棄物のように→
→しかしそれまでは――永遠にそれは――母の喜びの裏側の闇の中で――つかの間のキスに逃げるほかないような――この私に何かを言わせ続ける母の怖い罠――温い永遠であり続ける」になります。
全体→今ここで私が言うことを手放すこと――そこにおいて――母はきっと喜ぶ総ての温かい構造は中止される――極めて厄介な廃棄物のように しかしそれまでは――永遠にそれは――母の喜びの裏側の闇の中で――つかの間のキスに逃げるほかないような――この私に何かを言わせ続ける母の怖い罠――温い永遠であり続ける
もちろん分析哲学は(先の私のnote記事で指摘したように)最もグローバル資本主義システムに適合的に制度化された(言語使用/行為的に制限された)哲学史研究と位置づけ可能です。
もちろんここでの人文学には哲学史研究も含まれるでしょうね。
自覚的に攻撃的な人間ほどその点に無自覚なのだと思います。現状とそのベクトルは言葉にし難いまでに深刻で食文化水文化など他のあらゆる領域の解体と連動しています。しかしその全貌を見抜くのは突出した知性と感性が必要です。
もちろんこの問いはすでに言語――より正確には言語性という力――の次元に立ってしまっているのであれば端的に無意味である。哲学とはまさにこの無意味さを標的とした終わりのない(かどうかは未知の)運動であり言語性の力と不可分な営みである。
「英語圏と仏語圏との基底的な文化闘争に仏語圏が敗北したと見ています→最後まで抵抗していたのがラカン派」参考
4302024
デカルトはまた別次元的ですが、私の直前のツイートでも述べた様に、自然の光系譜の理神論的啓蒙哲学出自だからこそ特に60s以降の(フランクフルト学派を含めた)哲学の流れがありましたね。英語圏と仏語圏との基底的な文化闘争に仏語圏が敗北したと見ています→最後まで抵抗していたのがラカン派
このラカン派の抵抗と退潮について、立木康介氏の以下の著書を参照。この傑作は『不実なる鏡―絵画・ラカン・精神病』とともに私の妻の愛読書の一つである。
脳天気な記事。だからこそ恐るべきリスクに絶対に備えなくてはならないことに気づいているのだろうか。このままの状態では非常に危ない。
悪魔がやりたい限りのことをやりまくる根源悪のパラダイス
基底的文化闘争における英語圏に対する仏語圏の敗北とは、英米哲学に対するウィトゲンシュタインの敗北でもある。だが先に「私は必ずエビデンス至上主義はそれ自身を支えきれずにやがて弱体化していくとも見ています」と述べた様に、今やその英米哲学は終わりを迎えている。
私が「言語」という表記を使わずむしろ「言語性」という表記を「現実性」という表記と対になる形/文脈で使うのには、当然のことながら哲学的-形而上学的に重要な理由がある。
でしたがそのラカン派も精神病が「普通精神病化」して以降退潮していったと思います。ただし私は必ずエビデンス至上主義はそれ自身を支えきれずにやがて弱体化していくとも見ていますが。
仏語はデカルト→より広範な文脈ではフランス啓蒙哲学または理神論を含む自然のひかりの系譜であり英語の系譜とそもそもの出自が異なるにもかかわらず結果として20世紀のある時期以降(文脈形成史的には多分戦後)いわば英語が仏語を植民地化的に乗っ取ったという感じですか?
でも始めた/始めるやいなや「感覚的確信」といったタイトルのもとに「そう」呼んでしまってますよね。
私の二人の姉がちょうど永井さんと同年代(1950-1952生まれ)で1966年に奇跡的に同期したサルトル&ボーヴォワール来日とビートルズ来日(誰かが意図的にセットしたのかも)以降キャンパスに吹き荒れた「実存主義」の台風に飲み込まれたようでした(書棚の観察から明らかな後年の推測です)。
何かを何かと呼ぶことについて唯一つでも真の警戒を怠るならもはやその段階で哲学は不可能になると思うが――いったいそうならないなどということが可能だろうか?
4292024
そうですね。ここにも不完全な「青い鳥構造」があるような。「ほんとはヘーゲルなんじゃ?」と気づいたマルクスが「ほんとにやったのは私=マルクスだ(ヘーゲルはせいぜい倒錯した私の先駆に過ぎない)」と後から因果系列を解釈学的に逆転させたのだと思いますね。
マルクスには少なくとも知の考古学的な視線があった。だがヘーゲルはその知の考古学的な視線の領域こそを消去還元しようとしたのではないか。彼の「哲学」が空虚なのはそのためである。そしてその息子のマルクスも端緒の考古学的視線の領域を捨てたには違いなかった。
誤解を防ぎたいが、空虚であることは怪物的な凄みを持つことと共存する――ヘーゲル
よりによってジョン・フォスター・ダレス - アメリカ国務長官 ジョン・エドガー・フーヴァー - アメリカ連邦捜査局(FBI)長官 李承晩 - 大韓民国初代大統領を輩出したあの大学のキャンパス→ワシントンD.C.のど真ん中で炸裂
クリプキがクワス算のアイデアで「ウィトゲンシュタインのパラドックス」を我々の言語で語った誤謬は、チャーマーズが「クオリアの逆転」を我々の言語で語った誤謬とパラレルである。
人間と汎用人工知能の同等性判定基準であるチューリングテストを提唱したチューリングは、「風間くん問題」を理解できないかもしれない。
円相場は比喩ではなく文字通り従来の日本の政治経済システム崩壊の指標
これある指標のチェックにも基づいてます。
X(Twitter)通信障害(多分サイバーアタック)日本だけみたいですね。それが答えだと思います。選挙など。やはりこの国がラスボスの一つです。
思想は必要ない。ただ哲学の次元は別。
安部公房(1924-1993)『詩人の生涯』[1951.10.1]
トランプが学生の反乱にどういった態度を取るのかに注目→かけらでもアボットのような言動をするようなら即オワコン
なかでもこのMOBO#2が最高かもしれない。 https://youtu.be/hmg_OThCo4w?si=iWieb1b8ZoswLCev…
@YouTube
より渡辺香津美なんとか復帰/回復してほしいのだが--- MOBOは彼の最高傑作の一つ。 Kazumi Watanabe - Mobo (1984) https://youtu.be/VOpe19RwQpo?si=4F6ysoGMcIZq-VMD…
物凄い哲学的密度なのでむしろ逆に構えずに取り組めるかもしれない藝術作品――後付けのコメント
「永井 均氏は、著書『哲学的洞察』(青土社 2022年)の104頁において、カント『純粋理性批判』「誤謬推理」論の「最も先鋭的な」の読みを提示している。その核心は、同書105頁から106頁にかけての、「暗黙の(超越論的観念論の)出発点が非自己意識的に独在する<私>」であるという論点にある。」
②「<非-思量>という論点は、前掲書『哲学的洞察』124頁のデカルト『省察』におけるコギト cogitoを巡る記述「コギトは間違いなく思考でも思惟でもない」「それはthinkではなくseem」「私は(演劇でいえば)舞台(映画でいえば)スクリーン」にダイレクトに関わる。」
③「この私が何を懐疑しようと、まさにこの「間違いなく思考でも思惟でもない」コギトの根源的な除去不可能性こそが、デカルトの最終的堡塁となったからだ。」
④「それでもなお、またそれだからこそ、「誰」という<次元/場>が、この<私>と不可分なあり方でそれを支え保っている限り、この<私-誰 I-Someone/Who>(<私-誰か/誰なのか>)という<次元/場>は除去不可能である。」
「非自己意識的に独在する<私>」を考えるための参照項として、道元が『正法眼蔵』「坐禅箴」巻で語っていた「非-思量Non-thinking」の記述がある。道元はそこで、「不思量底を思量するには、かならず非-思量を用いるなり。非思量に誰あり、誰我を保任す」(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻)と語っていた。
試訳 「思量しないということ (Not thinking)」を思量するには、必ず「思量ではないこと(非-思量 Non-thinking)」を用いる。「思量ではないこと」には、「誰 Someone/Who」(誰か/誰なのか)が存在している。この「誰」という<次元/場>が、私を支え保っているのだ。(誰我を保任す)
「この無内包の<次元/場>は、いわば究極のバックグラウンドとして、『省察』のデカルトが洞察したように最も明白な根源的事実であるにもかかわらず、そしてそれゆえにこそ、つねに非存在にとどまる。」
「そのような問いは、この最も明白な根源的事実の根源的な非存在性によって、我々によっては問われることができないのだ。「私はありますか」という問いは、つねにすでに「意識はありますか」という最もありふれた問いにその姿を変えている。」
「ここには哲学的洞察が潜んでいるが、それがその姿を露にすることはない。それは、いわば裏返されて不可視になった哲学的洞察だといえる。」
「確かに我々は、例えば何らかの他者の危急の事態において、「意識はありますか」と聞くことはあっても、「私はありますか」と聞くことはない。」
先ほど南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジエムをふと思い出した。
この国のあの人物と被ったから思い出したのだろう。あれの方がはるかに酷いが。
そろそろゴミ出し完了しましょう。
埴谷雄高全集3『死靈』(九章未定稿を含む)こちらも先日26年振りに発掘した。
先ほど気づいたが、安部公房『題未定』は先日30年振りに発掘したこちらの全集001に収録されていた!
小説の方ですが『友達』は連想する悪夢がトラウマ過ぎていまだに拭い去れません。
この投票率でこれならさらに従来の棄権層が起き上がって行動すれば自民が当選する可能性はゼロになる。
4282024
抽象思考のカケラもできないゴミアカウントが溢れて実にウザい
安部公房『題未定』『飛ぶ男』つい先ほど届いた。
マルセル・デュシャン「チョコレート粉砕機」①②
マルセル・デュシャン「二月六日のランデヴー」の下書き
トランプ支持にまわったフロリダのデサンティスがこれだからアメリカの政治家はみな同じだね。赤いエリアも青いエリアも政治家レベルでは何ら変わりはない。ただし実際には限られた上層部の「政治家」たちで、民衆とつながった多数の政治家たちは違う。
昨日30年振りに発掘した。『マルセル・デュシャン全著作』1995年 未知谷 デュシャンはグレン・グールドと並んで私にとってアート/技藝の神々の世界の住人だ。この画像の雰囲気からルネ・マグリットの作品を想起した。
ソロスが米国の分断と混乱を煽ってるのは事実だろうが、今世界中に起こっている民衆のうねりはそれをはるかに超えてソロスになどコントロール不可能だ。トランプ側の主要人物テキサス知事アボットが学生にあれだけ弾圧したので米国の体制はシオニズム側で一枚岩だということが世界に晒された。
米国の完全な解体的出直しはもはやトランプがどうのこうのというレベルではなく、それ以前のまたはそれを超えた力による。
米国が裸の王様になっています。
あのトルドーのカナダで。しかもマギル大学。かつての世界的なベトナム反戦運動を超えるのも時間の問題。日本の学生/キャンパスも今がそのときだ。
安部公房 生誕100年記念 安倍公房――トポロジカル・カーブの彼方|永澤 護 /dharmazeroalpha #note
4272024
もう「反ユダヤ主義」という言葉は機能しない。
フロイトの失錯行為でしょう。原稿は「止みません」だったんでしょうが無意識の本音が「いません」と言わせたんでしょうね。
安部公房〈何ものも信ぜず〉「私はかく生きる」のアンケートに答えて
三十年戦争のさなかに省察したデカルトが自分自身に課したのは「暫定道徳」だった。
三十年戦争(1518-1548)はデカルト(1596 - 1650)22歳時から死ぬ2年前の52歳までほぼ彼の生涯を覆い尽くした。さらにローマカトリックの異端審問の開始(1542)
学校の先生とマスメディアの言うことをまるまる信じてきた根深い歴史があるからでしょうね。頭が悪いと言ってしまえばそれまでだが
これほどデタラメやってるのになぜいまだに維新が存在し得てるのか全く理解不能
この画像素晴らしいと思いませんか?
国家主権/国民主権を完全に放棄した単なる植民地を続けているから宗主国に都合の悪い国民の努力や創意工夫はすべて潰されエージェントたちに際限なく搾取され続ける。いい加減ガラッと変えていかないと国民は死ぬほかない更地になるな。 https://johosokuhou.com/2024/04/27/73965/… @情報速報ドットコムより
英国王立国際問題研究所から見れば、リベラル派ニーチェアンやリベラル派スピノチストを含むリベラル派コミュニストは、彼ら彼女たちには見えないシステムの製作品として、その体制にとって人畜無害だ。だが現在ほかならないその英国中枢つまり全世界の金融と諜報の中枢に火が付き始めた。
2017年にははっきりと死滅を予告 Reviewed in Japan on December 16, 2017 Amazon「リベラル派コミュニスト」に限らず「ニーチェアン」も含むおよそ一切の最広義の「リベラル派」は既に決定的に死滅に向かっており、現段階での攻撃は周回遅れ以上の遅延である。
旧植民地から米軍基地が次々に撤退の動きだが、最後に残る米軍基地の一つは日本のそれになるだろう。つまりこの日本が世界史を決定的に転換する最後の舞台になる。やはり日本がラスボス
「SDGsでぎちぎち」→そもそも世界最大の投資運用会社ブラックロックが将来性無しでSDGsからとっくに手を引いてますからね。日本の極めて鈍感な政治と学問はいつも最後にジョーカーを引く。犠牲はいつも庶民。超間抜けなおかげで日本が最後の草刈り場/実験場にされるのは非常に危険/嫌だな。
4262024
日本って実は単なる傀儡植民地じゃなくて、どちらかというとむしろラスボスなんだよね。この事実はとてもおそろしい――
永井 均『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』以下の記述を参照した。「他の缶詰たちとのあいだに、後から、裏表が逆であることを除いた共通性を見出して、自分もまた一個の缶詰であるとみなす。しかも、その洞察のプロセスを逆方向から他の缶詰たちにも押しつけて、たまたま裏表が逆なだけの」→
→「同じ種類のものとみなす。だから、相手からもそうみなされているとみなす。一つの宇宙の内部でではあるけど、みなしあう。そのことによって、最初に言ったような描像が出来上がるわけですね。」
イデオローグとその取り巻きがほぼ全員アッパーミドル超えのアイビーリーグ出身の大都市住民&ほぼ全員が(米国の場合)民主党系で結局は英米金融資本の掌中でコントロールされている→日本もすっかり同様の傾向になってしまった。しかしアイビーリーグ学生がついにパレスチナ支持の大規模反乱へ→
欧米体制内リベラルに「階級闘争」問題が絶対に発生しない→必ず事前に排除される理由
しかしリベラル出自であろうとイスラエル批判&パレスチナ支持だけは欧米では絶対の排斥対象で、ノエル・マカフィー教授はジェンダー論、政治哲学、精神分析の研究者であるにも関わらずその「罪」で逮捕された。そこまで欧米中枢(日本も含めて)は追い詰められている。
英米哲学の終わりでもあると思います。
ノアの方舟をハイテクエリートが実行するブランを暑く語るハラリ。ご覧の様に、ノア・ハラリはスーパー優生主義者。だからこそ西側マスメディアでこれだけもてはやされた。
同サイトから「アメリカではウクライナに対する資金援助を目的とし、凍結しているロシアの資産を没収する動きもあるが、これは米英を中心とする金融システムにとって自殺行為とも見られている。このシステムが信頼できないことを示す行為であり、国際金融秩序は崩壊するからだ。」
あるサイトから「アメリカ政府はウクライナでの軍事作戦を立てるため、「プロジェクト・メイブン」と名付けられたAIを利用しているというが、失敗に終わった。このAIはウクライナでロシア軍が負けると分析したようだが、結果は全く違った。ベトナム戦争でも戦況の分析にコンピュータを使い、敗北」
スタート段階での参加者募集したいですね。雁琳さんとはまずはリモートでもそろそろ対面して哲学対話がしたいですね。私もレベルを落とさずしかもできるだけ噛み砕いてわかりやすく『純粋理性批判』を巡って話したいと思います。アーカイブ公開も考えて。まあ何とかそうできるでしょう。
「世界の独在論的存在構造」は、誰かによる1回性の洞察という出来事の流布の産物だと言えるだろうか? それが言語または言語的世界線/世界像の発明?
決定打は日米安全保障条約締結という軍事同盟への組み込みと岸信介政権によるその自動延長化=日本全体の基地化ですね。立川基地砂川闘争等ありましたが途轍もない挫折敗北のトラウマにより日本人は米国製の完璧な多重洗脳システムに入り込みました。今転機が兆し始めていますが間に合うかどうかが問題
量子力学の諸解釈:パラドクスをいかにして解消するか https://amzn.asia/d/aWLwqM9 この本非常に参考になりました。説明が丁寧であり、現代のほとんどのアプローチを網羅して解釈問題に踏み込んでいます。
4252024
堀田氏の論は哲学的には論の前提自体が探究対象になります。
堀田昌廣氏の量子情報理論からの反実在論のわかりやい解説です。ありがとうございます。明日読ませていただきます。 量子力学に「観測問題」は存在しない|Masahiro Hotta #note
古来の一般民衆の原点復帰だと思います。前にも言いましたが、古来いつの時代も庶民の生活はその日生きることができるかまた明日死なずに生き延びることができるかわからないという地獄またはそれに近い状況なので安楽または安心こそが至上の憧れだったと思います。だから南無阿弥陀仏なんですね。
経済的な自滅のみでは中国という国家は自滅しないでしょうからやはり経済的崩壊の程度がどこまで中国という「帝国」を瓦解させるような民衆の反乱につながるかが問題ですね。決して科学的に予測不可能なランダムネス的な出来事の連鎖になるはずです。
ついにここまで来たかというより予想通りでわかりやすすぎる。都合の悪いコンテンツ満載だから(目を背けざるを得ないような)しかしそれでもわかりやすすぎることが現実になってしまった→国家と社会の瓦解へ
まさに高橋さんが言われる二つの方向への分岐ですがもちろん今に始まっていればわけでもなんでもない昔ながらの難問が繰り返し現れていると言えます。
「この世の終わりが近い」――もはや預言者にならざるを得ないですね。実際かねてから私もそんなスタンスですが、現状ここまで来ちゃうと雁琳さんはまさに世の滅亡を告知する預言者になってますね。
人間原理をゆるく言い換えれば、人間にはそうとしか見えない(把握できない)んだから実際自然自体がそうなっているんだとそれ以上遡らずに証明抜きで認めちゃおうよとなります。
人間を導入すると所謂人間原理に接近しませんか? 人間原理は理論物理学の公理的位置を占めているかに見えますが、別様に言えば、エントロピー增大則も、それが時間の矢または不可逆性を齎すといったありがちな理解以前に人間の時間直観を公理的に前提しているということになりませんか?
私の若い頃(20代半ばから30代)の協働哲学探究者の小松原俊一氏の『現代思想』2001年4月号掲載論文「微粒子と情動」の最終部分および注の一部
私の若い頃(20代半ばから30代)の協働哲学探究者の小松原俊一氏の『現代思想』2001年4月号掲載論文「微粒子と情動」の一部→スピノザ/ドゥルーズの創造的読み替えとしては今なお全研究者の中でも最もハイレベルだろうが、私自身はこの路線は取らない。
4242024
誕生と死は端的な現実性そのもので互いに一体不可分ですね。不生不死という仏語(ブツゴ)もある。
私は北朝鮮の金与正氏はこの国のたいていの傀儡政治屋よりはるかにまともだと思っている。少なくとも彼女は自立した政治家であり、ロシアだろうと中国だろうと怖れることなく無条件に隷属してその言いなりになったりしないからだ。
私は現状のポリコレ原理主義の潮流の果には、プロセス(アメリカンプロセス&日本のプロセス)は既にそうであった様に文字通りキャンセルされていく(少なくとも強いキャンセル圧力に晒され無力化される)と思います。
「何らかの原因」は「全ての言語行為は政治である」という命題の登場→「倫理的次元の政治化/抹消=利害関係者による専有」という力だと考えますが、なぜその力が今日の様に全域化したのかという問いは、まさにその利害関係者の狙いとは何かという問いに通じています。狙いが現状とその方向です。
道徳的か不道徳的かという差別化の基準が無限後退する行為遂行性の次元に完璧に引きずり込まれることこそ、〈道徳〉の本質が「言語性の次元を完全に制覇するほぼ唯一の力であること」を端的に示している。言うまでもなく、この意味であらゆる「宗教」は〈道徳〉である。
ポリコレ=宗教→道徳 異端審問の系譜→司法という場の不可欠性
永井均氏のこの指摘は最終的な地点における枢要な洞察を語っている。「どうしても「不道徳」になってしまわざるを得ない」つまり「どうしても不道徳という道徳的言語ゲーム」を戦っていかざるを得ないという最後の壁をいかに突破できるのかという超越的な使命が雁琳氏の十字架として課せられている。
「個人/人格の道徳的欠陥」にすべての悪しきことが還元されたのが「個人/人格」が哲学的かつ歴史的に不動の金字塔として確立した(500年前からの植民地化を引き継いだ)「近代」という世界線ですね。
500年前からの植民地化を開始した人間たちは自分たちが「我々=人間」としての「個人/人格」であることを発見した狂人たちで、これから自分たち以外のあらゆる野蛮な世界(そのすべてがいわゆる「有色人種」)を破壊殺戮できると狂喜したわけです。そして当然それを「実践」した――実践理性に従って
その狂人たちの「最高のアイコン」に相応しいのが清教徒革命のオリバー=クロムウェルだ――つまり清教徒以外なら「白人」でも皆殺しが道徳的に正当化できる。「有色人種」は単なる駆除対象→これは今日まで変わらない。
でもその煌めきは個人/人格を超越した次元にあるので個人として好きにはなれませんね。
スピノザとドゥルーズの組み合わせを特別つまらないと思えるかどうかが哲学的なセンスのリトマス試験紙じゃないかな
とはいえいちいち名前は上げないが、私は日本の非常にハイレベルなドゥルーズ研究者たちは昔からリスペクトしている。一人だけ以前有楽町のとある場所で会って対話した方を挙げるなら松本潤一郎さん。
懐かしい思い出にさらに名前を挙げるなら、私が90年代にかつての慶應大学大学院棟でドゥルーズ『差異と反復』等の原書自主ゼミをともに行った鈴木泉氏と檜垣立哉氏
後退の動きは民衆の力との相互作用なので絶えず変動します。油断したら一挙に逆に振れます。
4232024
将来日本がまともな独立国家になったら、「雁琳事件」は教科書に記載されることになると思います。
スピ系だと波動と粒子/量子を関係づける「振動数」という量子力学の基本概念における「数」への意識が皆無ですね。
大阪をグローバリズムの実験場として売り飛ばした――カジノ利権にタカる「維新」 これほどあからさまな敵はあまりない。
釈迦/イエス・キリスト/ソクラテス/孔子のなかで、書かれたことでその実存が最も本質化されたのは誰だろうか?
4222024
スピノザとドゥルーズの組み合わせを特別つまらないと思えるかどうかが哲学的なセンスのリトマス試験紙じゃないかな
捨ててるでしょうからと言いましたがたいていの釈迦の伝記でそう書かれています。すると大乗仏教って面白い話になりますね。釈迦が最初に捨ててるものの末裔かもしれない。
釈迦ならそうかもしれません。無我とか無常とかそれに類することを説く雑多な大家はその当時ありふれていて修行のかなり初期段階でそれらを捨ててるでしょうから。実のところははっきりわかりませんが。
スノーデンは裏切ったということかな? そうは見えないがな。スノーデンそこまでひどいペテン師じゃないだろう→だがそうだったとしても今さらあまり大勢にはひびかないんじゃないかなの
ということです。「端的な現実性と死との不可分一体性のうちに留まる」とはそういうことです。自閉症という顔アカウントさんの直観は私から見て十分メタフィジカルです。
まさにそれ!「守時奴というのを守私奴(?)と類比」→私が考えていたのは、まさに「守時奴」は「守<私>奴」にほかならないのではないか?ということなのですよ。時制/記憶/人格の三位一体の排除またはその手前の次元としての守時奴は守<私>奴つまり無内包の<私>への自閉なのではないか
(特にラカン派)精神分析ではテクニカルタームで「排除」なら精神病の範疇ですが、私はそうした経験的な症状というよりむしろメタフィジカル次元出顔アカウントさんの守時奴という発想を活かしたいと思っています。時制/記憶/人格の三位一体の排除またはその手前の次元として
「守時奴」はもちろん過去現在未来という「時制」を排除しますよね?(違いますかね)また守時奴は「記憶」と「人格」も排除しますよね? さらに言えば、守時奴は端的な現実性と死との不可分一体性のうちに留まるのではないでしょうか?
しかしスピノザとドゥルーズの組み合わせはやはり特別つまらないので読むのはやめよう。
いやいっそ『時間の本性』というタイトルの意味不明だけど超絶謎めいてエッチそうなAVがいいんじゃないかな
プラトンとカントを介して永井均氏と清水将吾氏がつながったみたいだな
やはりプラトンが決定的な転換点ですね。つまりソクラテスの実存/現実性の語り/本質への還元→プラトン『テアイテトス』を巡る私のツイートスレッド参照。プラトンによる記憶(痕跡)とA関係さらには時制の導入がカントの第2版超越論的統覚の総合的統一で要塞化
プラトン『テアイテトス』続く議論の段階ではすでに「記憶」(の印刻/痕跡)がテーマになる。すでにA関係(したがっておそらく時制)が導入されている。
プラトン『テアイテトス』の記述→カントの言う統覚の総合的統一の先取り
ここではまだ時間の過ぎ去りの把握(すぐ次の議論の段階では「前には」「後になって」「時を違えて」が導入される)が前提されていないことに注意。
最重要の前提は「自己自身を相手に言論を述べるということがすなわち思い出すということで」である。つまり思いの現実性の語り/言語性への還元→実存の本質への還元→哲学史上パルメニデス以降プラトンが最も自覚的に遂行した。それがソクラテスとカント『純粋理性批判』特に第2版の正体だ。
プラトン『テアイテトス』の記述→カントの言う統覚の総合的統一の先取り4212024
ホリエモンが極めて(ほとんどつねに)浅はかだったのは事実ですが、それはその理由が極めて浅はかだったからでしょうね。
こんなのをシェアしたら親露派の(ネガティブ)レッテル貼られるだろうな。かなり昔モスクワの鉄道で働いていたロシア人女性に好感を持ったのは事実
サウド家/サウディアラビアも最初から英国とズブズブの関係だったんだが、最近は両建て狙いになっている。だがどこまで信用できるんだかわからんね。ポイントは武器と技術をどこから調達するのかというだろう。
ヨルダンってそもそものはじめから大英帝国/ロンドン金融資本家の傀儡だよね。ハーシム家と「アラビアのロレンス」
4202024
アメリカのアイビーリーグが変わればある程度の変革のたねにはなるだろう。だがここまで深刻になったアメリカの亀裂/分断を乗り越えるのは難しいだろう。4192024
数字が表示されるデジタル時計はそれ自体として見ると時計ではない。
記憶はA関係または時制を前提していると言えるだろうか? 別の言い方だが、記憶の成立はA関係または時制という次元の生成を前提していると言えるだろうか?
プラトン『テアイテトス』 感覚のアポリアの防波堤としての「何か統一的な形象」の不可欠さを語るソクラテス――カント『純粋理性批判』における超越論的統覚の「総合的統一」の先駆としての記述→さすがプラトンだ。
これにより現代の最終戦争が核施設(原発/核燃料サイクル)攻撃に行き着くことがわかる。極超音速ミサイルを打ち込まれたら100%反撃不可能だ。日本は最悪の条件にある。戦争参加は「完全な自殺行為」
ある程度までその先まで書いているがまだ未完成であり作業は途上。ツイッターではなく清水氏と対面して対話または議論する必要があるかもしれない。
これはある数学の予想を定理化するアプローチやアイデアに関して、稀な同分野の数学研究者とそのアプローチの可能性や不備不足な点に関して議論することに喩えられるかもしれない。哲学-形而上学のランドスケープ/地形や風景のすり合わせ作業だが通常必ずしもなされてはいない。
4182024
(承前)と一体不可分である、ということになるだろう。この事態は、一般に「生じることも滅することもなく、常住不変であること」と解される「不生不滅」という事態とアナロジカルである。
清水将吾氏は、「まさに死においては、現在<からの>と、ここ<からの>と、私<からの>が、一体になっている」と述べているが、であるなら、端的な現実としての「現在/ここ」は、「死」というこの「私」に固有な事態――同時に<死>というこの<私>に固有な事態(以下続く)
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