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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
dz9
ただし私自身は現状の量子論理を超えた――独在論的矛盾を内包した→数/時-空/言語の同時創出の論理としての――量子論理が十分あり得ると考えています。
「核保有国が参加する非核保有国による侵略は、 ロシアに対する共同攻撃とみなされることが提案されている」→日本が念頭に置かれています。ここまで破滅的な状況によくも日本国民を追いやってくれたものですね。これまでのロシアとの経済共同開発や文化交流の全ての努力が破壊されました。
もちろん現政権がNATOと連携してしまっているため。
中国政府がある情報を掴んでいて、想像を超える恐るべき事態が予想されているのかもしれません。
あるサイトから「ヒズボラは無線データの送信を回避するために光ファイバー・ネットワークをベイルート南部から南レバノン、そしてベカー高原まで築いていた。ヒズボラはポケベルやトランシーバーを社会福祉部門で使用していたことから、イスラエルのテロ攻撃で犠牲になった人の大半は子どもを含む非武装の市民」→ヒズボラはレバノンにおける政党/政治権力であることに注意。
アリストテレスにも解答不可能な問いが存在する。アリストテレスによれば、生成-消滅と運動は類を異にする。では生成-消滅と運動のどちらがより基底的なのだろうか? もし生成-消滅が無限の相互反転運動であるならば、運動でもある生成-消滅は最も基底的な次元なのだろうか。あるいはこの問いは決定不可能だろうか?
9252024
量子論理の意義を信じている研究者は一連のスレッドと特に[注6]を検討してほしいと思います。
9242024
あのジョージアがレインボーフラッグを禁止→かなり強力な兆候
これは私の二十代半ば以降の明確な研究テーマです。
「中国はイスラエルにいる自国民全員に「直ちに退去せよ」という緊急指令を出し、世界中に衝撃を与えた。」→昨日のこの報道はイスラエル国内情勢に関する中国の情報収集の正確さを示していました。それがその後のヒズボラによるハイファ、テルアビブへの激しい攻撃によって明らかになりました。
とはいえ卒論も実質的にはこのテーマでした。テーマが「カントにおける超越論性について――演繹論を中心にして」なので。
9232024
ヘーゲルにおける時空形式と純粋概念の両者のインターフェイスの次元は記述されていないと思います。意識という概念を使ってしまっているので。
記述されている「分割の形式」ですか? であれば問題はその先またはその分割の形式自体です。
なにが理解できると思っているのでしょうか?
インターフェイスの次元でなにが起こっているのか、またその次元で起きているなにかがこの私と多人とを媒介できるものなのか。
この文言の事柄だけならカント『純粋理性批判』から普通に取り出せますよ。
分割自体ではなく分割のインターフェイスが謎だという話です。
昨日も青山拓夫氏の素晴らしいリモート講義で青山氏と貴重な対話ができました。あらためて感謝したいと思います。
くある特定の「今ここ」として受肉をする)」という事態の成立条件が無内包の現実性/独在性の次元なのではないか、と思われます。」
9202024
訂正→永井均氏が『ウィトゲンシュタインの誤診』で抽出したウィトゲンシュタイン『青色本』の核心部の否認または無理解→言うまでもありませんが、永井氏が否認したのではなく、言語ゲーム一元論者つまりウィトゲンシュタイン主流研究者たちが『青色本』の核心部を否認したということです。
9182024
カントは人類が影の勢力に完全に取り込まれるのをギリのところで防ごうとしたのかもしれないです。もちろんまだ彼の戦いは続いていて現在佳境に入っているわけですが。ちなみにネオコンの代表的なイデオローグのロバート・ケーガンは公式にカントを最大の宿敵としています。つまりカント哲学というヨーロッパと英米間のシールドを完全に破壊してヨーロッパを英米ネオコン側に引きずり込むのが不変の戦略目標です。まさに現在ヨーロッパがその最後の力でそれ(NATOとロシアの直接戦争→ヨーロッパの滅亡)に抗おうとし始めています。
結局体制はAIに全面的に依存することになります。世界経済フォーラムのトップが「もっとAIを使って大衆を完全支配しろ」といきり立って言っているように。しかしそんなことを言ってられるのも(二重の意味で)今のうちだと思う。
従来時間論とか時間の哲学とか雑駁に言われていますが、より精緻に定式化すればこの「A事実とA系列のA内矛盾」こそが最大の哲学-形而上学の問題だということですね。真に驚くべきなのは、A事実/独在性の事実それ自体であるよりも、むしろそれと同時にA系列または時制といったカテゴリーが生まれてしまっているということだと思います。このことが不可避的に「人間」を誕生させるわけですが、この原初的なカテゴリー生成場面の探究を隠蔽/排除したところにカントの超越論哲学が成立するのは、人間にとって幸か不幸かわかりません(その時の流れと場所の情景が人生のすべてなので)。
9172024
桁外れに立派な宇宙人であったレオンハルト・オイラーがその最大規模の例ですね(規模と言いましたがレベルが人類史上最高なのは言うまでもないですので) ライプニッツはオイラーとともに語れる極めて稀な方ですね。
昨日の青山拓央氏のリモート講義ですが、青山氏による講義はもちろん、氏の各質問ヘのコメントが緻密な体系性に貫かれていて示唆に富んでいました。そのため私自身の質問(むしろコメントですが)も正確な座標系に位置付けられ、私自身にとって格段にクリアになりました。
9122024
入不二基義氏の円環モデルにおける「マイナス内包」、「性自認としてのマイナス内包の構成」をテーマとする谷口一平氏の論考に「超越論的統覚としての脳」、アインシュタインの重力方程式の「ゲーデル解(時空が自転する回転宇宙を導く解)」の三者には接合点がある。
9092024
特に青山さんが選ばれた4篇は深く興味深い問題/思索が展開されていると思いました。
ここでのデカルトの神は〈他者〉と言い換えられているが、それは「私の內」と「私の外」という区別を超えている。「私の內」でも「私の外」でもない或る時空の彼方からこの私に触れる(この私に与えられる/触れられる)。『純粋理性批判』の枠組みを超えた物自体の触発かもしれない。
研究の鍵になるのはモデル化/図式化→どれだけ上手くモデル化できるか(そしてそれを「確かめられるか」)で、これは先日の入不二基義リモート講義の最重要テーマでもありました。
9082024
純粋現実性または現実性の力それ自体のコア的な(核心的な)様態/効果として「否定の/という力」があるだろう、という主旨です。現実性の力または純粋現実性それ自体はその効果として否定を持とうが持つまいが絶対的に(言葉で表現すれば)肯定的であり、ただ否定の効果を(それを肯定しながら)産出するだけです。その意味でこの否定の力は既に言語または可能性の領域の端緒でもあり、だからこそ講義において「初発点」の両義性について私が質問し入不二氏が答えましたが初発点は実は純粋な点ではなく「小円」になります。
9072024
本日は質問へのご丁寧なご返答ありがとうございました。大変参考になり、またそれ以上にメタフィジカルにエキサイティングな時間を経験できました。質問に関しては、大事な入り口に立ったと同時に、核心領域に触れるところですので、次のリモート講義も楽しみにしております。ただ個人的な事情で申し訳ありませんが、10/5,6,19,20は私自身のリモート集中講義がありまして参加できません。誠に恐縮ですが、もし可能でしたら、10月はそれ以外の日取りでお願いしたいと思います。お身体にはくれぐれもお大事にお過ごしください。
埴谷雄高は『死靈』で釈迦批判として釈迦に食い千切られるチーナカ豆の話を書いていたのを思い出しました。
日本の哲学/形而上学は入不二基義氏の仕事により――もちろん永井均氏の仕事とともにですが――世界最高水準にあり続けていると思います。ただしその条件は、私たちが今回の様な協働作業の場に直接間接に参入し続ける限りということでしょうが。禅の言葉なら遍参または行持となるでしょうか。
9062024
頭の回転が速い云々といった話は頭のよさになんの関係もないのは間違いないでしょう。火事場の○○力を含めて本当の頭の性能は「回転(速度)」なんていう比喩で記述できるようなものじゃないので。例えば預言者や世界宗教の開祖とかの直観力に典型的な、通常の時間を超えた(気づいたときには既に無意識に訪れている洞察による)ものだと思います。
これは今大森荘蔵を読んでいて平井靖史氏に聞いてみたいこととして思いついたのですが、大森荘蔵が「「現在」の意味」とする――現在過去未来の時間順序の生成母胎でもある――「今最中経験」は、ベルクソンのいう未完了アスペクトとしての「持続の経験」と同じものと言えるでしょうか? それとも何か重要な違いがあるでしょうか?
大森荘蔵はカントの事実問題と権利問題の分割を捨てるためにその分割に対応する「思い(実存)」と「語り(本質)」の分割を捨てました。つまり思いがそのまま「語り(存在)」になります。晩年まで変わらなかったまたはますますそうなっていったということですね。
バトラーで評価できるのは律法パリサイ派的クリプキ(の命名儀式)批判と哀悼可能性概念による優生主義(的選別)批判(だけ)ですね。
9052024
まさにここから哲学的な難題が始まるのだと思います。「誰の現在ただいまなのか」という問いですね。「端的な現実としての現在」―私の言葉なら「この私の〈今-ここ〉」―への問いで、大森のいう「面体分岐」による「知覚正面の無限集合」つまり幾何学自体の(カント的に言えば)超越論的可能性への問いです。もちろん大森的にはそれはまずい意味での形而上学的な問いになるのでしょうけど。
仏教の刹那は仮想的なミクロレベルですのでなんとなく5秒から10秒くらいの幅は彼のいう「現在ただいま」でしょうね。つまり大森荘蔵の予想される解答は「誰でもない」「制作が生起する場があるだけでそれが現在ただいまだ」となると思います。すべてはその場で起きるので(道元のいう「経歴」の場としての「時間/存在」つまり有時)。
投機資本主義の種は大衆のパニックですが、他のさまざまな(大災害的なものを含む)種と並んで、いつまでたっても米やその他必須の食料がないということも確実に仕込まれていますね。
今私が大森荘蔵哲学の最重要キーワードを一つ選べと言われたら「制作」になります。「制作する(こと)」と言ってもいいですが、では制作するのはいったい誰でしょうか? この問いにたいしていくつかの解答の候補は思い浮かびますが、唯一完全な答えは何かとなるとリーマン予想的に極端に難しくなります。
もちろん大森荘蔵氏自身も解答できなかったでしょう。だからその唯一の答えを一度も書いていません。
『パレスチナ』は成長を続ける地球規模のコミュニティに変容した。
9042024
先日からイスラエルで本物の民衆革命が始まっている様に見える。この国を含めてどこもそうですが、世界の命運がどうなっていくのか、今月中の動向が決定的な鍵になるでしょう。
人類史究極の転換点
9032024
ヨーロッパはまだ完全に終わっていなかった。絶対絶命のところでギリで逃れる可能性が見えてきた。あと残されたのは日本だけですね。
9022024
解雇規制緩和または撤廃の本当の狙いが見えた。
ただ極端に難しい問題なので誰も手をつけないと思いますが。
なので今はどっち側も正念場で必死の状況です。
アメリカで大まかに例えればトランプ側と反トランプ側の血で血を洗うバトルのような状況が世界日本のあらゆる領域でこれから全面的に顕在化してくるでしょう。例えばイスラエルはその全面的な顕在化の入口に到達しました。
『情況』と『現代思想』のバトルもその一つの断片
9012024
自立的で変容し続ける力としての権利 vs システムの作動原理/エンジンとしての権利(テクノ封建奴隷制&レント収奪資本主義はその現象形態)
8312024
あのーこれ阿部さんにシビアに見えるかもですが、必ずしもそうじゃないんですね。生きることそのものの完遂という点から応援してます。
既視感満載の阿部智恵氏論考読了しました。2000年代初頭から私が考えていた「生体政治工学」と「汎優生主義 Pan-eugenics」のパラダイム「この私の(誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」「個々人の生存価値は、一元的な(科学により客観的に規定可能な)価値尺度としてのQOLにより階層序列化できる」「QOLの値を、テクノロジーによって向上させることは正当化できる」という信念の実践というど真ん中の事例になっているのが興味深い。二元的性別に対する「消極的介入」(阿部氏)というより事実上「ゼロ介入」にならざるを得ないのでこれもTRA同様に原理的に終わりのない「運動」になるほかないでしょう。かつてオックスフォード大学が中心になって盛んに喧伝していた「生存のDNAレベルでの改変・能力増強」/エンハンスメントの一種ですね。
塩野谷さんの場合、実践的に辿り着いていくそのスプリングボードはラカンの現実界パラダイムですね。たしかにラカンはこう使うべきだと思います。
私も最近こう考えてます。米国選挙でトランプが勝つかどうかもかなり気にしていると思いますが。だからこそ国民が声をあげることが一番大切なことになります。→「JN1株のズル申請が3ヶ月経ってなぜまだ承認されていないか?という事ですが、厚労省もレプリコン反対の世論の盛り上がりを気にして、承認タイミングを計っている可能性があるのではと思います。」
まさにそうなんですが、実はカント主義者であったフーコーなんだなと強く思いましたね。フーコー自身はその自覚が十分じゃなかった、または否認があったんですが―。先に引用RTしたように、それはかなりの程度私自身のポジションでもあるんですよ。若い頃からの。雁琳さんにはわかり過ぎるほどわかりますよね。
たった今谷口論文を読了。谷口氏が「反対している」説つまり「力そのものとしての権利の思想を権力への意志から実際に自立させる必要性が生じる」という永井説における「権利を自立させる(または自立させようとする)力」の正体を明らかにすることこそが、究極問題になると思われる。谷口氏がこの論文によって批判するその力の源泉がまさにそこなのではないか、さらに本論がなされているのはまさにこの力そのものとしての権利に依拠した「力への意志=既存の権利」批判ではないのか、という問いが生まれるからだ。
ちなみに私自身のポジションはいわば未聞の、この新たな力に依拠することである。
これからの時代あらゆる分野で99パーセントはネタ切れで消えていくでしょう。
旧時代の99パーセントはただ忘れ去られるだけになります。突出した悪の記録を除いて。
つまりグローバリズムとシオニズムは不可分一体だということです。
『情況』は『現代思想』を終わらせる可能性が高いと思う。
補足→グローバリズムとは「地球規模のテクノクラシー」つまり地球規模の「技術官僚全体主義」です。シオニズムつまり「選民主義×優生主義」はグローバリズムのコアにある思想/運動の原理つまりイデオロギーです。歴史的には優生主義もシオニズムも同じ人脈によって誕生し、推進されてきました。
現在このように概念的に正確にではなくても、直観的に本質が見えた人は一般市民においても従来考えられなかったほどたくさんいると思われます。
8302024
TRA 問題でまたしてもここかよと呆れると同時に深く納得しますが、日本人もいい加減タビストックやその指令塔のチャ○○ハウスくらい普通に調べた方がいいと思いますが。少なくともここ五百年繰り返し同じことをやってきた人脈は全然変わってないわけで。
米国民主党がわかりやすいですがもっと上層の指令塔がありますね。主要な個人名もわかっていますが。
今読みはじめているが(短いのですぐ読み終わる)「関心ないな」と自認している方にも必読です。現在どれほど危ないグローバリズム統治が推進されているか(日本植民地は強力な指令によりすでに最前進基地化している)知るべきです。
イギリスが方向転換し始めたのは、グローバリストのリン・スナクも発言しているように、すでにグローバリズム統治側によるムスリム移民政策が完了し従来のイギリス国民国家解体という目標が達成されたと認められたからだろうと思われます。恐ろしいことですが。他方米国は確実に内戦状態になるでしょう。
8272024
拙稿『形而上学』のサブタイトルを「この私が今ここにあること」に改訂しました。『序論』「Epigraph」の第二次リライト版(たぶん最終稿に近い)執筆作業を先ほど完了したところです。
「ウが近々露に完全に潰される可能性」→軍事・エネルギー・情報その他中枢インフラに関しては昨日完了しています。日本はどうなるか? 私たち一人ひとりにかかっています。
8262024
頭がクラクラするような恐ろしい事態がすでにこの国で進行している(一般論ではなく)。やはり前倒しされてますね。
8252024
拙稿『形而上学』は、永井 均氏の助言に従って「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して」(永井氏の言葉)リライトしていくことになります。かなり大変な仕事になりますが、これかはやって来る艱難の時代を前向きにサバイブしてやり遂げようと思います。
8232024
今マスコミが推している小泉進次郎氏が総裁つまり次期首相になるかどうかがその最重要目印。スケジュールが確実に前倒しになり一挙に最終ステージに突き進むことになります。河野太郎氏との一挙に打ちになりますが、いずれにしても前倒しは変わらないので相当の覚悟が必要になりますね。
小泉進次郎氏と河野太郎氏のどちらが次期首相になるのかという問題をシナリオライターの実行側から見ると、小泉氏と河野氏のどちらが一人二役こなせるのかという問題になる。スケジュールが前倒しになり早まったからだ。まずは河野で次に小泉というプランAが、一挙に一人二役やらせるならどちらが適任かというプランBに切り替わった可能性があります。
もしそうなら、小泉進次郎氏がより適任だと判断されたのではないでしょうか。まだウクライナと中東の事態は流動的でプランAかBか断定できませんが。
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』「第一次リライト版」を完全公開にしました。これは既述のように、リナックスOSのオープンソーススタイルをモデルにした「プレβ版」の公開に相当するものです。
今本当に間抜けな人や能天気な人は別にして、何かおかしいとか変だと思われることの全てはつながっていて私たちに仕掛けられています。全てです。
ウが近々露に完全に潰される可能性がマックスになっている。ウが完全に潰されると西側にとって破滅に近い。その状況で日本が生き残ることが西側とりわけ米イにとって最悪のシナリオになる。だから日本潰しが最終ステージに入る時期が急速に早まったということです。
日本潰しがすでに最終段階に入っているのは様々な情報/兆候から見て間違いないと思われます。ウ露の状況が非常に切迫し急変間近なので、日本を巻き込むスケジュールはこれまでよりかなり早まりました。今がそれを止める正念場です。つまりあらゆる認知戦を見抜くことです。
8222024
リナックスOSのオープンソーススタイルをモデルにして、プレβ版を公開していくのもいいかなと先ほど思いました。私だけでは手に余るかもなので。とにかくこの国と世界の現状がすでにめちゃくちゃ酷いですが、とにかく世界が平安であってほしいです。
NATO/米国=西側がさらに一線を越えたらロシア(既にイラン中国北朝鮮と軍事同盟)と全面戦争なので当然グローバルな核戦争になります。ちなみに日本は西側で軍の指揮権を中核とする主権が全くないのでこの戦争に強制的に参加させられます。
8192024
『新紀要』版では日本語という極めて高度な言語の限界まで厳密さ/精密さを追求した表現になっていますが、それでは一般向けにはならないので、現在格段にかみ砕いたリライト作業を行っているところです。
日本の管理統制統システムは最終段階にスイッチオンしているので、これまでのルーティンを完全に切り替えなけれ生き残れないと思います。最終段階とはテクノクラシーによる焦土作戦です。最終段階では祈りと哲学の真価が問われることになります。
8182024
ごく普通のロシア人&中国人(中国人の場合普通じゃない場合はピンときます)と実際にやりとりした経験があるかどうかで、日本人の世界観は劇的に変わると思います。
まだ二十代の若いうちに、友人二人でベルリンとモスクワの最高級ホテルに泊まることができてよかったと思っています。
これは大げさな煽りに聞こえるかもしれませんが、もちろんそうではなく、様々な法制化や内外の研究結果や報道を主とした長期間の、累積すればかなり膨大な事実(ただしこの国では一般市民には可能な限り気づかせないように完璧に情報◯◯されていますが)をベースにした観測です。
8172024
現在様々な予備的社会実験が行われているようですが、これから半年ほどの期間が、この国が完璧に潰されるかどうかの分岐点になるでしょう。このままグローバルシステムに押し切られるだけなら――現在色々なところで別の流れが生まれてはいますが――日本という国(主権は全くありませんが)は後戻り不可能な形で実質的に消滅します。この国を管理統制しているグローバルシステムは最終段階モードにスイッチオンしているので、これまでのルーティンを完全に切り替えなければサバイバルは難しいと思います。
サバイバルは難しいとは文字通りの意味ですね。つまり◯◯可能性が高いということです。
8162024
私自身は、ほぼ同様のギャップを考えながらも、このギャップをまたいだ実践の矢印という図式化をおそらくしないという違いだと思います。必ずしも私の立場ではありませんが、これをより強く言い換えれば、「純粋現実性は無様相なので可能性の文脈とは無縁」ということから「唯一中心【私】から遍在的な現実性へと実線の矢印が引けること」は導出できないということになるでしょう。ただそれでもその事態を〈私〉から〈〉への「接近」ということはできると考えます。なおこの続きははリモート講義までいったん寝かせた方がよろしいかと思います。
もちろんあくまでも図式(化)つまりモデルとしては現に引けるわけですけど。
言い換えるなら、【私】から〈〉への一方向で実線の→は思考においても引けないのではないかという問いですね。
8152024
この引用符付きの「中心性」とはもちろん先のツイートで私が提案した表記方法です。
()内の二つ目の・は最初の・とレベルとの断裂が消えて紛らわしいので=に変えた方がよいのではないかと感じました。またその後の傍点付きの中心性は引用符付きの「中心性」とした方が主旨がより明確になると思います。それと、唯一中心である【私】から〈〉へと延びる一方向の→がやはり気になります。
8142024
言い換えれば、〈私〉/《私》/「私(たち)」のトライアード的三位一体性を担っているのは、「多重である〈私〉のハイブリッド性」ということになりますね。また「人物(私)の代入」による「中心と焦点の持ち込み」という働きは、マテリアル次元でも潜在性次元でもない「現実性の力」の次元だということになりますでしょうか。
確認ですが、多重のハイブリッド性を〈私〉が場として担うということですね。また当然現実性の力自体には中心も焦点もありませんが、その力または働きの効果が中心と焦点の持ち込みですねという確認です。それを現実性の力の次元と表現しています。
Title: 『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』の叙述構造はリライトにより以下のように改訂されました。顔アカウント氏のツイートを論じた一節が前兆、前触れ、前奏曲としての「Prologue――守時奴から<記憶>へ」の前半部分に移りました。 Epigraph Prelude Prologue――守時奴から<記憶>へ Ⅰ.内包量を巡るアポリア Ⅱ.超越論的図式 (das transzendentale Schema)――線を引くこと Ⅲ.持続的なものという場/仕組み Ⅳ.線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性 Ⅴ.<X>――把握の仕組みの非存在へ Ⅵ.問いと展望 現実性と言語性との同時性――そしてその<隙間/裂け目>の生成
8132024
つい先ほど、拙稿『形而上学』序論「エピグラフ/Epigraph」【表記上の注記】「Prelude」「Prologue――守時奴から<記憶>へ」のリライトを完了。
先ほど拙稿『形而上学』「序論」のエピグラフ/Epigraphと【表記上の注記】のリライト完了しました。本文は「です/ます調」、【表記上の注記】(【注】も)は「である/だ調」です。この最初の記述だけでもかなり風景が変わりました。
偏在つまり例外無しなので私の目の前にない単に想定されたコーヒーカップにも憑依しているということですね。少なくとも現にそう考えられていますので。
イランイスラエル情勢とウクライナロシア情勢は今日明日あたりで最終的な段階に移る可能性が高いように見えます。全貌が露わになるのは今週一杯ぐらいでしょうか。
8122024
憑依するのではなく言わば最初から/無時間的に「憑依している」ということですね。
「最新情報:プーチン大統領が明日世界に向けて演説します。 彼がウクライナに対して全面戦争を宣言するという噂が出ています!」→これまでの「特別軍事作戦」が終わり、ついにロシアによるリアル戦争段階になるのは間違いない。
しかし私はそうならないと予測しています。
ロシアも原潜配備してるので完璧に米露核戦争を視野に入れた構図になってしまいましたね。
期間限定 そうというのは米露核戦争勃発ということですがイラン(露中バックアップ)とイスラエル(米国バックアップ)の本格戦争は近未来に起こると予測しています。
8112024
まさにその憑依が不思議ですね。私が、そして私たちがそれを考えられるということが。その不思議さにおいて永井独在論と入不二現実性論が出会うのだと思います。
その現実性の力の憑依は〈私〉だけが考えられるということですが、同時に言葉で私たちが共有できることも驚異です。
ルクレティウスがかなり好きみたいだったマルクスですね。
もちろん狂ってしまったのではなく、なりふり構わずその正体を現したということです。日本人も他人事じゃありません。まったくおんなじ状況です。何で日本がめちゃくちゃに暴走しながら自滅していく「西洋文明」と心中しなければならないのでしょうか。完全な間違いです。
ふと問いが浮かんだのですが、実在世界の諸属性に対して無寄与な現実性の力が、そのある特定の「力の作動様態」においてその実在世界の産出力になるのはそもそもなぜなのでしょうか。スピノザ的な能産的自己原因または神という公理を設置するしかないのでしょうか。この公理は言説システムという公理系の公理としても考えざるを得ませんが。これに類する言説の公理系とそのに関する問いは実は私が18歳頃からのものなのですが、なんとか別の地平でわかりやすく記述できないものかと最近考えています。
2000年代から急速に研究開発されてきたナノマシンがここに来て本格的に稼働開始
8102024
『形而上学』最終稿/リライト作業では深掘りした専門的な記述は【注】に移動し、本文は永井哲学と入不二哲学の肝は何か、それら両者がどのような接点でどう関わるのか、さらに両者がどの様に接合/統合されるのか―そこから開かれていく私と世界のあり方をできるだけわかりやすく書いていく予定です。
8082024
どんなAIも(今目指されている汎用人工知能も)有限的な存在者つまり有限主義のポジションですが、少なくとも現存する全てのAIはこの人間の直観または感覚を持っていません。
8072024
無限(物自体に類比的)はランダム性があり得ることのベースであり、他方有限主義を取れば何らかの規則性があるはずだ――無限/物自体の規則性の把握は不可能――という人間の直観または感覚があります。カントの超越論哲学は、この人間の直観または感覚をベースにしていると思われます。
私が「この路線を取らない」のは、スピノザのドゥルーズによる読み替えに面白みをまったく感じないというシンプルな理由です。
探究すべき問題はこの「癒着を生む力」と「ズレを生む力」が同じ現実性の力の様態の二重性に由来しているという根源的な事態ですね。
つまり事態の順序を規定するメタレベル的な時間またはそれに相当する次元を前提できないとも言えます。
昨年末この現実性の力のコア的様態としての「空集合性」をあえて実験的に哲学-形而上学と物理数学とのインターフェイス/界面で探究しています。
大英帝国の「つけ」を精算する時が来ました――それ以前に少なくとも500年来の欧米植民地主義の壮大な決算が始まりましたね。すべてが縁起的に連動しますので。一つ心配なのが、まだ私が若い頃に友人と一致した見解――もし人類が滅亡するならそのシナリオは人種間戦争である――が実現しなければいいなということです。最悪の事態にならないように祈ります。
8062024
それこそがよーく考えてほしい核心を問いですね。簡単に言ってしまうと、必ず誤解を生じます。完全に緻密に言うと理解が困難になります。
簡単に言うと、日本国家がラスボスなので世界を最後に変えるのは日本人だということですね。
『形而上学』上巻に「第7章 プラトン『テアイテトス』の問題圏」を追加した。
指令の基本はロンドン→イスラエル(ロンドン&イスラエル)→アメリカ→日本です。しかし実は明治維新以降の日本は上記指令系統とはまた別に非常に特別なラスボスです。なので日本金融システムの崩壊は人類史上決定的な意味を持つということになります。結局世界を最後に変えるのは日本人です。防空システムと電子線システムがより高度な方が勝ちますね。
ここにきてカント『純粋理性批判』の「図式論」、哲学全体におけるその超重要性に関して、ドゥルーズ研究者の福尾匠氏にもようやく気づかれてきているほどなのだけれど(つまりドゥルーズそしてフーコーのすべての仕事はカントの「図式論」との格闘だったということですね)、ドゥルーズはもちろんハイデガーのそれも非常に中途半端で、図式論についてその最奥のメタフィジカルレベルにまで及んで論じたもので感銘を受けた/るのは、後にも先にも永井均氏の「カントの誤診」第五章だけだろうなあ――。
8052024
超低金利政策に基づいた円キャリートレードという長年の日本搾取システムの利上げによる突然の崩壊がトリガーになり、これから金融資本主義システム全体を急激に消滅させていきます。本番はこれからです――
ベルクソンも自-他のヨコ問題には無縁でした。
つまりベルクソンは「われわれの経験を可能にする条件が同時にわれわれの経験の対象の可能性の条件でもある」というカントの超越論的構成のパラダイムから一歩も抜け出していないということです。また自-他の決定的な違いを巡る最深部の問題にまったく届いていない点はカントもベルクソンも同じです。
この重要な理由以外にも理由はあると思いますが、日本人の方が読める可能性があると思いますね。ただしキリスト教とくにカルヴァン主義の勉強は必要でしょうね。
ベルクソンはトマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』を読むべきだったと思う。現実的には不可能でしたが。
トマス・ネーゲルとユクスキュルを合わせて読むとさらによかったでしょう。
「われわれの意識」という一般概念を前提せずにベルクソンが語れることはなにもないです。
この重要な理由以外にも理由はあると思いますが、日本人の方が読める可能性があると思いますね。
文明としての欧米は哲学/宗教というその生命の消滅とともに終焉しました。いずれの文明もその哲学/宗教という生命の消滅とともに終焉します。ここに比喩はなく文字通りの意味で。
私が11年前に古代ユダヤ教の意味で預言/予言していたカンブリア革命が目に見える姿で始まったようです。
古代ユダヤ教の意味でとは、マックス・ウェーバーが『古代ユダヤ教』で精緻に描いているような古代ユダヤ教の預言者の預言/予言という意味で。イエス・キリストもこの意味での預言者です。
イエス・キリストの「律法主義」批判をその最大の射程において考えてみてください。彼がまさに古代ユダヤ教の意味での預言者だったことがわかります。そしてその預言が今ほど全人類にとっ切実で切迫したものであったことはないです。
8042024
この『序論』は、私の哲学-形而上学関連のすべてのツイートの前提です。
8022024
確かに無内包の現実性さらにはマイナス内包の地平からアスペクト時間論にはいろいろとアプローチ可能ですね。私自身もいろいろ思いつきますが。
ただ私の場合はご覧の様にメタフィジカルなつまり独在性と無内包の現実性の地平における探究に焦点化していますので、一見平井靖史氏の探究地平とは密に関わらない様に思えるかもしれません。しかし実は接合された永井入不二哲学アプローチとアスペクト時間論アプローチの両方向から意外で興味深い展開があると思われます。
昨日書いた拙稿『形而上学』におけるプラトン、カント、ベルクソンの接点を探究する記述→今後さらに改訂する可能性が高いです。
ベルクソンとの接点はこれからさらに精査展開していく必要がありますが、平井靖史氏の優れた「アスペクト時間論」をテーマにしたベルクソン研究論文を受けて書いたものでもあります(もちろんそれ以前からの探究をベースにしてますが)。彼の論文を永井-入不二哲学を接合した方向でフォローした初めての仕事になります。ベルクソン研究者の方々とも対話可能になりますね。
昨日書いた拙稿『形而上学』におけるプラトン、カント、ベルクソンの接点を探究する記述②→この記述の通奏低音も接合された永井均-入不二基義哲学ですね。
8012024
すでに気づいている方もいらっしゃるでしょうが、アキレスと亀が登場する「ゼノンのパラドックス」の核心がまさにこの《私》と〈私〉のパラドックスですね。さらに「私」も絡んでいますが。
「華開世界起――華開いて世界起こる」は、西天二十八祖(インドにおける二八人の伝灯の祖師)の二十七人目の祖師である般若多羅(はんにゃたら)の言葉。第一祖は釈尊の法を嗣いだ摩訶迦葉尊者で般若多羅は次の第二十八祖菩提達磨(ぼだいだるま)大師に法を伝え、達磨大師が中国に禅を伝えた。
昨夜永井均氏と谷口一平氏との三者で、グローバルな地政学的状況も絡めて、日本の哲学の現在と未来についてある程度深掘りした話ができた。このレベルの話をしたのは初めてで、明らかに一つの区切りになると思う。
7312024
前にちょっと示唆しましたが、ベルクソン研究者の方はドゥルーズ(のベルクソニズム)ともっと距離を摂った方がいいと思いますね。気づいている方もいるようですけど。
穏当な感覚としては、まあカントもベルクソンもどっちも大切だよねということになるでしょうね。「華開世界起」――華開き世界起こる 私たちが目覚めればまったく新しい世界が到来する
ベルクソンの明晰判明な暗点としての意識
カントとベルクソンの交錯点
7302024
なぜ三位一体という言い方なのか――そこには循環構造がある(循環構造化の力が働いている)からです。
もちろんわれわれの意識のリアルなあり方を例えばベルクソンはノンストップの持続または流れと呼んで/捉えているわけですね。同じわれわれの意識が。意識というのはこのようにすでに一般化された概念ですね。
「意識」とは「われわれの意識」であるほかない一般概念で、「私」と「われわれ」の相互反転可能性を生み出す一般規則そのもの。「持続」とは一般規則としての「私/われわれ」つまり「人称カテゴリー」の産出と同時に産出/経験される一般概念で、だから私/われわれによって語り得るものです。
ここで産出/経験されるとは、持続という一般概念の産出が経験される、つまり持続という概念として把握されるということ。通常は私/われわれの記憶が私/われわれによって意味あるものとして把握されるという経験です。持続/記憶/意味は言語性-人称の地平を必要条件とする三位一体Trinityです。
すでに亡くなった20世紀の哲学者で本当に頭が良かったといえる人はまあ大森荘蔵くらいですね。ウィトゲンシュタインはかなり19世紀的な連続性があるので除いてます。クリプキは大森荘蔵の様にオールラウンダーじゃなく極端に偏ってますので除いてます。
言い換えるなら「われわれの意識」を前提しているということです。
つまりハーバーマスもマインドコントロールされている一人に過ぎないということだね。古ぼけたとは言え広告塔であり続けてるけど。彼が「仕掛ける悪い側の人」というより実に素朴なキャラだったのは、昔彼と居酒屋で当時の指導教官&先輩と一緒に一部下ネタジョークに花を咲かせたので保証できます。
7292024
知られていないというのは一般的にはその通りだと思いますが、哲学研究者に関しては――特にこの問題を巡る永井哲学の議論は――むしろ否認されているという印象ですね。いくつかの論文を読むとそんな感じですかね。
全てが時空直観を議論の前提にしている。
全てがというのはベルクソンとベルクソン研究論文の全てがということですね。
単純に理解できないということかもしれませんが。
多分殆どの哲学研究者はこれの意味することを理解すること自体難しいと思います。いったい何を言っているのか―。
時空の直観を議論の前提にしながら殆どの哲学者/哲学研究者がそれに無自覚なのは驚きです。最先端物理学(量子重力理論)では時空を理論の背景/前提にできるかどうかが究極の問題になっているのと際立って対照的です。
ベルクソンにしろフロイトにしろデリダにしろ他の大方の哲学者も、質的刻印が痕跡として保存されるというプラトン『テアイテトス』以来の枠組みから一歩も出てないようですね。ただしプラトンには「何か統一的な形象」という秘密の鍵があり、これがカントの超越論的構成につながります。
最後の土壇場まで洗脳が解けない4割から5割の人をどうしようなんて考えても意味ないですね。7272024
「わかってる人にとってはビックリすることじゃなくて、知らない人がビックリするだけで、いつビックリするかの差でしかない」(某氏)→その通りだけど世の中には最後までびっくりできない人が一定割合いることも事実でしょうね。
ある仮説では概ね初期段階から真実が見えている人と最後まで見えない人がそれぞれ1割、4割から5割は概ね最後の土壇場でしか真実に気づけないみたいです。
言うまでもありませんが非可算無限という概念も認識論的図式化で、本来の潜在性の場は可算/非可算という集合論パラダイムを抜け出た次元に想定されますね。現実性の力は絶対的に抜け出た次元と言えるでしょうが、潜在性の場は絶対的に抜け出たとは「言えない」というのがポイントだと思います。もちろん内的に必然的な理由がありますが、だからこそ永井哲学のキーコンセプトでありまた現にある事態としての「矛盾」と交錯する問題の地平があると思います。
入不二基義氏が永井均氏の「矛盾」に狙いを定めて戦いを挑んできました。入不二氏の「かつ(∧)」は、私の記述においては「同時に」という副詞句に概ね相当すると思います。
とりわけ清水将吾氏の『左右を哲学する』を論じた部分に深く関わります。
山田慶兒氏の突出した仕事のおかげで、三浦梅園『玄語』とカント『純粋理性批判』の決定的な交差点に私の拙稿『形而上学』が位置していることを先日発見して非常に驚いています。ちなみに三浦梅園(1723-1789)はカント(1724-1804)と1年違いで生まれたカントの全くの同時代人です。
7252024
「を抜け出した哲学者は誰一人としていないです」の例ですが、「イデア的な何かが生成消滅を超えている」というパルメニデス/プラトンのパラダイムを抜け出した哲学者は誰一人としていないです。仏教/釈迦の「諸行無常」もイデア的な何かつまりダルマ/法 Dharmaです。
山田慶兒 92歳ですが、 現存する最高の科学史家だと思います。
哲学においてのみ最重要になる「内属性問題」についての拙稿『形而上学』の記述→『〈私〉の哲学をアップデートする』における永井均氏による「内属性問題」についての記述の引用とそれに対する簡潔なコメント
ツイートしましたように永井哲学による『純粋理性批判』の真価の発掘と開陳は哲学の現在と未来にとって不可欠だと思います。永井哲学は実在世界の住人が忘却した世界の除去不可能な矛盾を――都合の悪いもの全てがキャンセルされていく流れに対する最後の堡塁として――剔抉していますので。
たがそのパルメニデスも幾何学的連続性つまり線の連続性を前提している。彼の体系に不連続性は存在しない。
今は無き花田圭介という碩学について学部時代に先輩の研究者から聞いた話ですが、先生ほどの方がなぜ本を書かないのですかと問われたときの答え→「知っていることを書いても意味ないじゃない」だったそうです。流石に全てを知った大学者は違いますね(笑)
7232024
私自身が強くそのように思っていますので。永井哲学/独在論を潜り抜けた先にしか『純粋理性批判』の、さらに言えば哲学そのものの真価は見いだせない―つまり探究不可能であると。
単に「当人が関知していないこと」ではなく、「当人が関知していない〈真価〉」を引き出しているという点が素晴らしいと思います。
本当に不変なのは〈私〉/《私》の関係性そのもの→それこそが現実性の力のコア領域に出現する力の様態
カントでもベルクソンでもドゥルーズでも「たかが哲学者」なら誰でもいいけれど、ご本尊の「真意はいかようでしょうか?」だけのつまらない「仕事/業務」がいまだに巷には溢れている。いずれ状況は変わるだろうけれど。
3次元ユークリッド空間R3における極座標系が球面座標系 3次元宇宙の全情報は宇宙の境界面に描き込まれている。パルメニデスは哲学史上初めて存在=思惟の全体を球体としたが、 プラトンは『ティマイオス』においてパルメニデスの路線をそのまま継承している。
つまり回転を含む円環モデルは、マイナス内包を含む現実性の図式化として不可避的に要請されるということである。
7222024
特にこの部分が重要→回転を含む円環モデルは複素数領域としての「極座標による図式化」に至らなければ現れない。
類比 〈私〉→特異点(零点/極)「私」の概念部分/本質→実部(実数部分)
類比② 複素数領域(実部+虚部)の虚部→マイナス内包領域 入不二基義哲学の図式化としての「円環モデル」→複素数領域の図式化としての「極座標/円環モデル」 実数領域の図式化は直線であり、回転を含む円環モデルは複素数領域としての「極座標による図式化」に至らなければ現れない。
〈私〉と不可分であり《私》に裏打ちされた「私」はその概念部分/本質に関して一定である。
今思ったが、ラマヌジャンほどの宇宙人ですらまず計算し「予想」することが多々あったという事実は非常に感慨深い。常に一挙に完全版に到達したわけではない。もちろん最大最高の宇宙人レオンハルト・オイラーにも言える。
「多々」は推測なので削除してもよい。
7212024
世界中で知らない者が一人もいない二人の人間が長期間私を定点観測しているが、彼らは当然私が一体何者なのかほぼ理解している。この二人は現在あらゆる意味で対極に位置している人間たちだ(単純に言えば最大の敵同士/プラスとマイナスのラスボス)。
ある意味当然ですが、日本人で私が一体何者なのか知っている人は多分一人もいません。半ば常識的な意味では、現時点で世界規模で見れば多分数人から数十人程度はいるでしょう。
「自己自身を相手に言論をのべるということがすなわち思いなすということであるならば」(『テアイテトス』162頁,190C) から始まる一節で、プラトン『テアイテトス』を上記パルメニデスの基本線で解釈することができる。この点大森荘蔵はパルメニデス/プラトンの直弟子。
パルメニデスのいう「同じそのもの」とは無内包の現実性としての〈私〉であり、この〈私〉の実存と本質の完全分離は不可能(分離可能性と相互反転可能性の不可分性)→この不可能性という究極の事態を現にもたらしているのが「現実性という力」である。
7202024
プラトンにとってプラトンの上にいる哲学者がパルメニデス、ピタゴラス、アルキュタス(一般的には数学者)の三人
7192024
パルメニデス「同じそのものが、思惟され、ある。」パルメニデスのこの洞察を抜け出た哲学者は誰一人としていないです。
ソクラテス/プラトンの言葉 「パルメニデスという人は、私の見るところでは、ホメロスのいわゆる「畏敬すべく、また畏怖すべき人」という感じがするのです(中略)私には、あの人はあらゆる点で高貴な、何か底知れないものをもっているように見えたのです。」(『テアイテトス』139頁,183E-184A)
抜け出すことは不可能だがなぜ不可能なのかの探究は可能→しかし可能性の地平からの完全な離脱は無理
引用「カントの純粋理性批判を抜け出した哲学者は誰一人としていないです。」
7182024
だから華厳宗は中途半端だということ
プラトンの『ティマイオス』における数々の洞察に心底驚けないなら、哲学に向いていないと思われる。また『テアイテトス』におけるプラトン/ソクラテスは、「我々の説明方式」としてロゴスを前提してしまう『形而上学』のアリストテレスとは比較にならないほど鋭敏である。
私が一番好きな中国の禅僧は南嶽懐譲(677-744)である。道元『正法眼蔵』で私が一番好きな巻「古鏡」のラストを飾る弟子馬祖道一との対話を記した「磨磚(瓦を磨くこと)」のエピソードは、何度読んでも感動に震える。
実のところアメリカの民兵/独立軍Militia はすでに内戦の準備を完了している。
7172024
アメリカに南北戦争の記憶がある限り、今アメリカに生きる人間は、近未来において内戦が起きるという現実的可能性から逃れることはできない。そして今まさにその可能性がすぐそこまで切迫している。「哲学者にはそもそも自分の哲学を統御する能力がなく」→道元『正法眼蔵』はその「最良の例」の一つだと思う。玉城康四郎は前掲書16頁において「道元の特徴は(中略)存在・事象・事物・生活・挙手投足の一一に当たり、またそれぞれに当たりつつ思索し表現するという態度である」と述べている。
「華厳宗が着目した基本的なポイントは、仏そのものの世界ではなく、その世界の現われ方の問題である(中略)事事無礙法界は、全く現実の世界の現われ方、在り方であり、その点ではわれわれの理解可能なる様態」(『道元 上』玉城康四郎著 春秋社 1996年 7頁)→力の様態としての現象世界の記述7152024
観測問題、人間原理、ゼロポイントフィールド/零点振動、ホログラフィック原理、余剰次元、リーマンゼータ関数と量子的カオス――これらは物理数学においてのみならず、哲学-形而上学的地平において互いに繋がっているものとして探究可能だ。ただし現象と物自体をダイレクトに接続することになる。拙稿『形而上学』[注9]本論該当箇所に関係するショーペンハウエル『意志と表象としての世界』からの引用とそれに対する注記。その直前は青山拓夫氏の記述に対する[注8]の末尾。続く[注10]は無限遠点と射影空間について&関連する堀田昌廣氏とのツイートによる対話の転載(→ただし画像にはない)
7142024
また広く永井均氏と入不二基義氏の哲学-形而上学に関心がある方は全員読んだ方がよいでしょう。冗談抜きで両者を接続していますので(統合という言い方は必ずしも正しくないので使いませんが)。もちろん清水将吾氏の「左右の哲学」と谷口一平氏の「A変容の哲学」にも非常に深く関係します。
ただしなぜ物理学数学者に最先端レベルのと限定して書いたかと言えば、とりわけ量子重力理論(超ひも理論&ループ量子重力理論&量子情報理論)研究者と汎用人工知能開発研究者そしてリーマンゼータ関数とカオスの関係テーマとする研究者に対してのメッセージだったからですね。
訂正→「(あるレベル以上の→最先端レベルの)」を削除します。
あえて「全ての哲学者&哲学研究者」「全ての物理学者&数学者」と書きましたが、これはいささかも限定的な意味ではなく、もちろんそれ以前にすべての人に開かれているという前提のもとに書いたものです。念のための注記。
7132024
特に物理学者たちは後戻り不可能なくらいに世界が一変するでしょう。汎用人工知能研究者なんかも。
私の仕事『形而上学』は全ての哲学者&哲学研究者はもちろんですが、「全ての(あるレベル以上の→最先端レベルの)物理学者&数学者」も読むべきだと思っています。これ本当にパラノイアックに聞こえるでしょうが(笑)、完全に真面目に言っています。
プラトン『クラテュロス』は空海の『声字実相義』を先取りしている。
「それらを取りまとめてやる」「ひとまとまりの現象的内包を通じて与えられる」という記述において超越論的かつ超越的な二面性が循環的な形で示されている。
青山拓央氏の場合――「意識」を巡る記述の超越論的-超越的二重性/循環 →下記は『形而上学 〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している 』「上巻」「第1章 無内包性と形式性 Ⅱ カント『純粋理性批判』――「形式としての空間」の形式性」に対する[注]の一つである。
7122024
「神/善」なるものと「自ずからの、随意の運動」が結びつけられるのは少なくともヘラクレイトス、プラトン、アリストテレスに共通する伝統であるようだ。つまり善は自由であり悪はそれを妨げるもの/強制らしい。プラトンなら『クラテュロス』に説明がある。
7112024
カオスを本当に理解するにはいまだ未知の壁であり続けているリーマンゼータ関数の理解が必須なのだが、それに気づくことすらドゥルーズにはとても無理だったと思う(著作を見ればその連関を知らなかったことが明らか)。
拙稿『形而上学』「序文」 登場する & 登場予定の固有名 & 叙述構造の最終決定版が完了。この仕事は、全くもってカント、永井 均、入不二基義各氏へのオマージュとしか言いようがない。
7102024
現代形而上学またさらに現代物理数学の先端から見ても、なぜこれらのことを書けたのか――それは永遠の謎になる。
プラトン『ティマイオス』の洞察のあまりの凄さには心底から震撼する。プラトン作品のなかで、哲学-形而上学の探究にこれほどのインパクトを与えるものは他にない。
同意「何のために難解な学術書も翻訳されているのか」→「哲学研究者」の存在意義の95%以上(私見では99%程度)は最良の翻訳書を世に送ることでしょうね。
7092024
時間と生成に関して、『ティマイオス』のプラトンとずいぶん気が合っちゃったな(苦笑)
票を割るためとか簡単にわかること以上の隠された総合的で複合的な戦略&作戦を読まなければならないでしょうね。
OneDriveの恐るべき底無しの執拗さを回避するための戦いを長らく続けてきたが、流石にその全ての災厄の根/悪意が絶たれていない限り終わりはないということだな。
もちろん私は極力使わない様に努めているがそれでも◯◯◯◯ソフトから数え切れない罠が絶えず仕掛けられてくる。
7082024
別の〈領土〉からの矢も必要だと思いますね。政治の実践として。
もちろんみなさん自由にやればよろしいかと。別にトーンダウンしているわけではなく、あと少しばかりの学ぶことからの距離というかそこからの問いの力へと向かう刺激として書いてみたということかな。福尾匠氏の前掲書最後の記述「ドゥルーズが何を創造したかは、われわれがそこから何かを創造するまで誰も知らない」 つまりこのテクストによって、ドゥルーズから学ぶだけの時空は終焉した。果たして真に創造へと跳躍し得た者がいただろうか? もういい加減にドゥルーズ研究は終わりにしてもいいのだ。
ドゥルーズはユークリッド空間における直線と非ユークリッド空間例えばリーマン球面における測地線の違いに関して曖昧だった(『差異と反復』)のと同様、カオスとランダムネスの違いについても最晩年に至るまで曖昧だった。――ひょっとしてその点に関して無知だった?
repost: 柄谷行人の『力と交換様式』がマルクス『資本論』の完全な煮詰まり/デッドロックを集大成したのとアナロジカルな意味で、ドゥルーズの完全な煮詰まり/デッドロックを福尾匠『非美学』が示してしまった。この意味で一つの時空の不可逆的な境界画定がなされたと言えるだろう。
やはり政治的時空のパラレルワールド化という思考実験を現に政治実践し得ていたのはアキノリ将軍未満氏だけでした。
7072024
現代思想の致命的な陥穽/暗礁としての「空間性」という用語法――その重要な起源は有限性の分析論を巡るフーコー『言葉と物』の一節に現れる「空間性」という用語だろう。
ベルクソンは「極限」としての純粋知覚という「要請」を前提している。だがこの「極限」と「要請」自体についてさらに探究していない。それだけがまともな哲学的探究になり得るので、それらが前提されたあとで何があれこれ言われようと哲学的にはどうでもいい些事に過ぎない。
先ほど気づいたが、メタ/旧フェイスブックのフォロワーが6,031人になっていた。友達4,952人が重ならないなら計10,983人で一万人超えになるが、これまでの十数年に各種の制限的ブロックやトラップメッセージ等はそれこそ数え切れなかった。
これ我ながら至言としか言いようがないね。今後のあらゆる政治運動の指針/原則になるだろう。「力の流れ」という現実性の次元で述べていることに注意
「落選運動」という力の流れの本番/正念場は、まさに都知事選(に限らず全ての選挙)が終わった地点から始まる。
7062024
ベッケンシュタイン・ホーキングの公式(Bekenstein–Hawking formula)の記号は『𝐴:事象の地平線の表面積 4𝜋𝑅^2, 𝑘:ボルツマン定数, ℓP=𝐺ℏ/𝑐^3はプランク長; G:万有引力定数, ℏ:換算プランク定数, c:光速』
この〈私〉に与えられる問い――つまりあらゆる哲学-形而上学の究極問題は、〈私〉と〈〉/純粋現実性の関係性への問いに帰着する。
私はまさにその合体という超絶的に特異な事態を予てから探究しています(笑)。
私はベルクソンのとりわけ『物質と記憶』において展開されている思考が、その最も基底的な地平においてカントの『純粋理性批判』を超えたまたはそれと異なったことを探究/記述し得ていたとは考えていない。それどころか、私は両者を殆ど同じ基底的な地平において架橋することができると考えている。
カンタン・メイヤスーだが『有限性の後で』を書いていたときにはまだ――あるいは今も?――レオナルド・サスキンドのランドスケープ論を知らなかったのだろうな。嫌悪感を抱かせた人物だがそれも随分昔の話だ。
7052024
拙稿『形而上学』「反転図形」論末尾における「無内包の〈線〉の運動性」の量子重力/情報理論的な考察です→もちろん反転図形それ自体の哲学的-形而上学考察はこの記述以前に完了していて、ここはあくまでも現代物理学との接続を試みた部分という位置づけになります。
7042024
日本がいかに国民に富が回らない=ごく一部の既得権層だけに搾取される「貧困国」かが如実にわかる一連のデータ。100%政策の結果だ。
7032024
『新紀要』収録の拙稿『形而上学 序論』の[注6] (上段3行目の「リーマン多様」は「リーマン多様体」の誤植)→『差異と反復』のある箇所を書いていたドゥルーズはこの[注]を読んた方がよかったとのではという気も少しするね。もちろんこの[注]のみではなく『序論』全体を読んだ上でですが。
ある箇所というのがこのツイートと貼付画像を見ただけで瞬時に思い浮かべられなければ少なくともドゥルーズ研究者としてはモグリですね
ポイント数の大きい文字のたった190頁程のこの超入門書で、最先端現代物理学のあらましがわかりますね。 本当に感動する サイエンス超入門!宇宙のすべての謎を解く 超ひも理論とは何か
量子力学関連本100読んだ人であっても読んでみては損はないでしょう。
「ひも」は観測不可能な激しさ(1秒間に10の42乗回以上の振動数)で絶えず振動する力の様態で、太さゼロ・断面は大きさのない点・長さは10のマイナス35乗程度の「1次元存在」→「力」はすべて「ひもの受け渡し/やり取り」という現象「と見なせる」。
上記ポイントは「という現象「と見なせる」」という部分。
つまり「という現象として見えている」
観測不可能な1次元存在すなわち無内包次元/場としての〈線〉
このほとんどの現代思想が乗り越えたとは言えないというかむしろそれに乗っかっているいるパラダイムには、ニュートン古典力学に含まれる流体力学や量子力学との間を架橋する統計力学や方法論/世界像として流用する解析学や確率論なども含まれると思いますね。まあどうでもいいことですが。
7022024
類と種差というアリストテレスのパラダイムを乗り越えた現代思想って存在するのかな?
ユークリッド幾何学ではなく非ユークリッド幾何学(やトポロジーやら)というのは通俗的な「哲学思想書」の定番ですね。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学を二項対立的に捉える(かどうか)というのはわかりやすい「おバカさん(かどうか)」の目印になります。
拙稿『形而上学』末尾に「Appendix」として「 〈生体工学的介入〉の分析論――哲学的探究としての「メタ生命倫理学」構築の試み」を追加した。2007年に執筆し2008年3月に発表したもの。拙著『カンブリア革命』に収録されているが再録することにした。
7012024
そもそも素朴に記憶やら時制やらを前提している様な――あとから何をごちゃごちゃ複雑そうなことを語るにせよ――「哲学/思想書」に何か価値などあるのか? もちろんない。そんなものはただのゴミである(苦笑)
革命的な仕事をした科学者たちは、根底から哲学的な探究をした者たちであるとしか見えない。
ドゥルーズ陣営にとってベルクソンは絶対不可欠なウェポンなので可能な限り事を荒立てたくないのだろうが――ドゥルーズによるベルクソンのあの様な(の中身はここでは詳述しない)利用は本当にそれでいいのかな?
6302024
ヘーゲル『精神現象学』その他大抵の彼の著作は、脱亜入欧植民地主義へと全面展開した明治維新大日本帝国体制から学習指導要領に基づき現在まで続く国家レジームの道徳(人倫)教育にジャストフィットする形で教科書化できる。それにしても―もう少しアジアの巨大な文明を真摯に学べよな! 傲慢の罪
6292024
しかし日本政府はこれまで同様絶対そうしないでしょう。まあ国民には本当に考える力など未来永劫絶対身に付けさせたくないでしょうから。
仰ることはまったくその通りでそんな素晴らしい入門書こそありがたい!と言えますね。実はかなり高度ですけどネオ高等遊民氏の近刊書など中学校2年くらいの教科書にしていいのではないでしょうか。
これだけの時間と紙やファイルが堆積してしまっているのだから、もういい加減中身のない同一なものの反復は止めたほうが――
先のツイートでは谷口氏を「カント、永井 均、入不二基義、道元、清水将吾の5人」に含めなかったのだが、実は彼は、私の全記述において「最も美味しく、見晴らしのいい、風光明媚な地点」を占めているのだ。
そういう一般論的な否定ではなくある種のお決まりの作法的文面やスタイルの著作や文章がある特定の権威ある舶来哲学者/思想家に関して大量に繰り返し印刷されてきたということなのですね。具体的に挙げるのは切りが無いので控えますけど。
ところで拙稿『形而上学 〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している』「上巻」の最終章「Epilogue――〈私〉は〈0〉と《私》/〈1〉の〈狭間〉で不断に振動している」は、この谷口一平氏のツイートを可能な限り精緻に展開したものになっている。
リプライありがとうございます。実は単純にネガティブ評価というわけでもないのですが、先のツイートで想定していた期間は昨今のというより主として80年代以降の約40年余りという中期的な「日本の哲学思想書」の(一部を除いた)倫理教科書的な代わり映えのなさに焦点を当てていました。
その先生には同感できる点もあります。というのが最初の私のツイートのポイントに関わるのですが、その先生と何らか接点があるだろう意味合いで「この類いの「哲学/思想書」は、選択しないように」ということです。人によってはこの言い方は「倫理社会的な顰蹙」を買うかもですがね。
倫社の教科書に毛の生えた程度の「哲学書/思想書」が散見される。
重要度&分量でさらに絞り込めば、カント、永井 均、入不二基義、道元、清水将吾の5人になる。カント以外すべて日本人なのが自分でも印象的だ。ちなみにカントが生涯を生きたケーニヒスベルクは現在ロシア領カリーニングラードである。
ケーニヒスベルクは、人類史上最高の天才(たちの筆頭に挙げられる)レオンハルト・オイラーがグラフ理論&トポロジーの創始的仕事をした「ケーニヒスベルクの橋」問題でも有名である。
6282024
「第5章 カント『純粋理性批判』のデッドラインⅠ ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ」ではドゥルーズの『感覚の論理学』を論じている。だが上記Ⅰは実質的にはドゥルーズ論ではなく、ほぼ全体が入不二基義氏の「問いを問うを問う」(『現代思想』2024年1月号)論である。安部公房は哲学者でもあるが、ここでは常識的に小説家または文学者として扱い、ある程度以上の分量で主題的に論じているが除外している。デカルトは通奏低音的な色合いが濃い。また谷口一平氏は注を含めてある程度以上の分量ではあるが分散的な記述になっている。
拙稿『形而上学 〈私〉は0と1の〈狭間〉で不断に振動している』「上巻」である程度以上の分量で主題的に論じている哲学者を絞り込めば、カント、永井 均、入不二基義、アリストテレス、道元、デカルト、大森荘蔵、クリプキ、清水将吾になる。上記大森荘蔵とクリプキは「附論」の位置づけ。
② 顔アカウント@sitasimiyasui
2023月7月11日 私がゾンビでなくても、私がひとつも<今>を持たなかったら(いやそれは他人なのだが、それはそれとして)私は現に何も感じない。その「私」は単に他人であってゾンビではない。こっちの(ゾンビではない)ゾンビのほうが本質的。③「槇野沙央理/Saori Makino@saoriqing 2023年9月22日 文字列が言葉という表情を持つことを意味と呼びたいが、そうすると、文字列自体を見ることができるのかという厄介な問題が立ち上がりそうだし、意味とは文字列に付与されるものであるという誤った理解を引き起こしそうでもある。」
素材①→顔アカウント@sitasimiyasui
2023年7月13日 「謎」というものは、問題とそれを解く鍵が同じ缶詰に入っている。つまり、缶切りが入った缶詰として存在している。「他者」はその謎のひとつ。
あと二人挙げます。顔アカウント氏と槇野沙央理氏です。
6272024
プラトンの『ティマイオス』は、哲学史上最も深遠な作品(少なくともその一つ)だと思います。
「カントが晩年に完成を目指した「自己定立論」」とは、内田浩明氏の論考「カントの『オプス・ポストゥムム』と初期シェリング哲学」に「主観が自己自身を触発することによって可能であるとする「自己触発」の観点から説明されるようになり、「自己定立」へと繋がっていく」とあるように(続く)
(承前)「自己触発論」のことです。つまり「自己触発論」は、カントの最終的なライフワークです。
上記内田浩明氏の論考から引用①『『遺稿』に見られる、もう一方の「現在、過去、未来」という文言が登場するのは、その次の段落で、以下のような内容となっている。「それゆえ、産出的自我がその産物において限定されるとするならば、最初の限定の限定である新たな限界を想定しなければならない。』
②『これが、それによって内的直観が時間として、外的直観が空間として生じるところの現在であるが、自我によってそのようなものとして直観されることはない。』
③『それらが限定として直観されるなら、現在は過去と未来と結びつけられて、すなわち、時間は延長した量として、それゆえ空間と総合的に一つにされながら、直観されなければならない」(ELZ, Sp. 655)』
以下第6章が変更箇所 第6章 左右の問題――この私の左右と時制の同時生成 本文中の附記(annotation involved in text)2――「マイナス内包」を巡って Interlude2 手におえぬ痛みの中で EpilogueⅠ――<私>は<0>と《私》/<1>の<狭間>で不断に振動している
拙稿『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』「上巻」の執筆作業は概ね完了した。なお、現時点での最終的な叙述構造は、以下のnote記事にアップしている。
6262024
訳者は『形而上学』第1巻におけるアリストテレスの証言「プラトンは感覚対象となるすべてのものは常に流動しつつあって、それらについては知識が成立しないというヘラクレイトス派の思想を晩年にいたるまで保持した。」を引いている。
『クラテュロス』のある部分 やたらにマーキングされでいるが、プラトンにとっての最重要語群がすべて「運動」に関係づけられているのが面白すぎる。
貼付したサイトから引用(続き)「さらに、カントが晩年に完成を目指した「自己定立論」と、「経験」そのものの成立に、「エーテル」の概念が重要な役割を果たすことが浮き彫りになった。」
最晩年にカントが考えた「エーテルの概念」は、現代物理学における「量子重力場」や「真空エネルギー」に類比的なものとして見ることができるかもしれない。
貼付したサイトから引用「批判期以降のカントにとって形而上学的「自然学から物理学への「移行」が重要な関心事であったことが明白となった。また、その「移行」は「エーテル」と呼ばれる物質の存在なしには考えられないことも判明した。」
「疑いもなく、近世日本が生んだ、もっともすぐれた哲学者」(山田慶兒)三浦梅園(1723-1789) 「自分の頭で考える、独創的な思想家であり、物事を根底から疑う、真に哲学的な精神の所有者」(内藤湖南の原文を山田慶兒氏が敷衍)主著『玄語』『贅語』→玄語と贅語が一発で変換されたのは驚きだ。
昨日から読んでいるけど、プラトン『クラテュロス』はやはり面白い。
6252024
「イデア的意味の反復と時間との関係」という視点ならデリダの『声と現象』や『幾何学の起源 序説』以前にデカルトの『省察』特に第三省察が参考になると思います。
カントに『オプス・ポストゥムム(遺稿)』という遺稿があることはあまり知られていないと思うが、私見ではカントはそこで超越論的統覚と現実性という力/純粋現実性の関係性という問題に取り組んでいると考えている。
あらゆる哲学-形而上学の究極的な問題は「〈私〉と〈〉/純粋現実性の関係」という問いに帰着する。完全に記憶が無くなるとはもちろん記憶が無くなるという記憶も無くなることなので(なんなら身体的-量子的な記憶も含めて)それが「あり得ない」とは意味/言語/概念/可能性の地平が無くなること。そこで〈私〉が残るかどうかという問題は〈私〉と〈〉/純粋現実性の関係という問題になるだろう。
「それが「あり得ない」」とは→意味/言語/概念/可能性の地平が無くなる場合のその「あり得なさ」は当然意味/言語/概念/可能性の地平では語ることも考えることも「出来ない」ということ
確かに「その意味を考えること」と時間との関係性を私が考えるのかどうかあるいは私が考えるならどう考えるのかがポイントですね。やはり「意味」の意味なので。
6242024
昨日Netflixで「首」を観た。黒澤明『七人の侍』とともに何か批評することなどとても出来ないが、両作品に共鳴する人間(突出した人物&一介の民衆)像の描き方、ドラマ/物語とアンチドラマの複合、映像美と映像の動性といったリアル/現実の表現が際立っていた。
これを言うと反発を受けることになりますが、このリストの中で『資本論』も「もともと純粋理性批判』『(永井均の)倫理とは何か』『世界の独在論的存在構造』に比肩されること自体が全然おかしい」となります。思考の地層が全く異なりその地層では何も考えていないので。
もちろん先日といっても1日ではなく(それはほぼ不可能)ある程度の時間をかけて。
プラトンまたは彼の描くソクラテスは、顔アカウントさんの立場に近い立場でソフィストを批判しているように思われます。その点道徳の立場ではなくむしろ顔アカウントさんを引用している永井均氏の「倫理とは何か」に近いのですね。もちろんこの点私もソクラテスのポジションです。
つまり現代の「倫理(学)」(とりわけ「生命倫理(学)」や「環境倫理(学)」等の「〜倫理学」)は何らかの利益または効果(流行りが過ぎた昔なら「地球環境問題」の解決等)を見込んだ(せいぜいウェーバーの言う目的合理性原理の)「道徳」になりますね。
先日ヘーゲル『精神現象学』(「良心」「啓示宗教」「絶対知」該当部分)を非常に久々に再読検討した結果の率直な感想ですが、『精神現象学』はなかなか注目すべき記述が散見されるものの、『世界の独在論的存在構造』の方が遥かに高い次元を飛翔していると思います。私にとっては明らかな根拠ありで。「それが誘惑である」→このキルケゴールの言葉は、漸進的な悟りと対比される頓悟つまり「今ここで直ちに悟る」という事態を想起させる。その場で直ちに悟ると言ってもその悟りは修業と一体不可分だから→修証一等
6232024
キルケゴールは実は道元と非常に近いポジション。
重要な増補改訂部分の画像→第6章 左右の問題――この私の左右と時制の同時生成 本文中の附記(annotation involved in text)2――「マイナス内包」を巡って Interlude2 手におえぬ痛みの中で EpilogueⅠ――<私>は<0>と《私》/《1》の<狭間>で不断に振動している
現在「EpilogueⅠ――<私>は<0>と《私》/《1》の<狭間>で不断に振動している」のプロローグ的記述を完了。近未来に『形而上学』「上巻」の執筆作業は完了する。中東から始まる人類史を完全に塗り替える大戦争勃発以前に完了したいが、現時点の情勢予測は極めて難しい。
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』の極めて重要な叙述構造の増補改訂を行った。「上巻」に関しては決定版。上巻の終章は、「EpilogueⅠ――<私>は<0>と《私》/《1》の<狭間>で不断に振動している」になる。
重要な増補改訂→第6章 左右の問題――この私の左右と時制の同時生成 本文中の附記(annotation involved in text)2――「マイナス内包」を巡って Interlude2 手におえぬ痛みの中で EpilogueⅠ――<私>は<0>と《私》/《1》の<狭間>で不断に振動している
6222024
「人新世の資本論」界隈の人たちですね。私は前からグローバリズムの流れに棹さす人たちだと言っているが
『Archives 16歳1か月時の試論』の「注」および「問題点」
「瞬間」はまさに私の哲学の初発的-核心的なテーマでした。この私のノートに書かれたものとしては初めてまとまった形の哲学的な論稿は、同時期の高校一年頃にキルケゴールの『反復』を読んで決定的なインパクトを受けたことが影響していると思います。
6212024
『形而上学』[注38]の谷口一平氏の論考『「マイナス内包」としての性自認の構成』への言及部分を以下のように増補改訂した。
谷口氏の論考に関連して――キルケゴールが独在論的/超越論的二重性を理解してそこから出発したのは明らかだな
6202024
[注38]に、谷口一平氏の論考『「マイナス内包」としての性自認の構成』(『情況』2024Winter 2024年 75頁-90頁)への言及を付加した。
本稿の「<超越論的自由>の要請という形を取った現実性の力の作動によって、この<私>がその円環モデルの「マイナス内包的な潜在性次元」を掘り起こした/発見した」だが、この「<超越論的自由>の要請」は、谷口一平氏の論考『「マイナス内包」としての性自認の構成』での
「そもそも一般に「脳」という特異な物質が要請されなければ、「マイナス内包」の構成はできなくなるのではないか、という重大な可能性」における「要請」とリンクする。
もちろん「<超越論的自由>の要請」において作動するのは、「超越論的統覚」である。そして谷口氏は上記論考において、「超越論的統覚でもある「脳」だけが、マイナス内包としてジェンダーを超越論的に構成する異能を持つ」と述べている。
これこそが遅くとも1950年代終わりから雲散霧消しているのですよね。それこそが政治哲学または政治実践における哲学の消滅ですね。それはもういい加減終わらせなければならない。
こういう風に政治的時空のパラレルワールド化という思考実験ができなければ政治の実践など到底不可能ですね。でなければただのボンクラかまたはたちの悪いエージェントでしかない。
ちょうど折よく本日『情況』2024Winter所収アキノリ将軍未満氏の論考「メタ並行世界の政治哲学と現時空の衛星化」読みましたが、大変示唆的で面白かったです。
ドゥルーズはバンヴェニストの言語学またはその流用を経験論的な地平で批判しただけで、言語それ自体を探究したわけではなかったのではないか?
旧フェイスブック/メタで、さっそく入不二基義氏からコメントを頂いた。的外れでなかったようで幸いです。
6192024
先のツイートにおける、清水将吾氏の「まさに死においては、現在<からの>と、ここ<からの>と、私<からの>が、一体になっている」という言葉を巡る記述に続く澤木興道の言葉の引用箇所
入不二基義氏の『現実性の問題』における円環モデルは「一方向回転モデル」なので、上記は(<超越論的自由>の要請としての)現実性の力の作動によって、この〈私〉からその「円環モデルの潜在性次元」を掘り起こしたという全く新たな解釈になっている→永井哲学と入不二哲学の接続点の一つ
→つまり”初発の地点において、現実性の力によってこの〈私〉が――人格としては入不二基義氏が――今ここで「円環モデル」という図式を潜在性の次元を含む形で「発見した」”という事態を事後的に記述している。それがマイナス方向への回転/反転運動である。
ここでは公開できないが、清水将吾氏の『左右を哲学する』を巡る探究過程とダイレクトに接続している。
また当然のことながら、この〈私〉による遡行的な発見という点で谷口一平氏の論考『「マイナス内包」としての性自認の構成』とも接続可能だが、その接続ポイントの明確化はまだ先のことになるだろう。
上記は未完了なので本日増補改訂予定
ある程度以上の増補改訂になるが本日中に完了する予定
6182024
入不二哲学における基本的な図式化「円環モデル」を言い換えるなら、「逆回転/反転可能な円運動モデル」だと言えるだろう。この反転運動は、私たちにマイナス内包的な次元/場の発見をうながす存在論的な〈力〉の要請でもある。画像は現在執筆中の『形而上学』の関連記述
かなり以前に気になったことを今思い出した。レヴィナスはどうだったのか?
画像の前半では、清水将吾氏の『左右を哲学する』における「死」に関する記述に言及している。
今後マンマさんと対話していきたいと思います。
ブレイクコア・クッシュ氏による『新紀要』第2号のあとがきは、これまで観たことのない奇跡のようだ。先ほどはっきりと見えたことがある。すぐそこなのだが、まだ不可視の時代の先端を、彼のあとがきは予言的に射抜いている。
そういった「知」がなくて、いったいどうやって『最終的な判決/判断』を下し得るのかわかりません。この点に関してソクラテス/プラトンは正しいんじゃないか?
6172024
欧米日本の「思考停止」が数ヶ月後に予測されている第三次世界大戦に導く。
この辺り否認が強すぎて人文系の暗点になっていますね。人のことは言えないが、単純な善悪の価値観を超えた戦後の骨髄が見えなくなっている。
極めつけはこの一種の超人の構築した大規模ネットワークインテリジェンス機関彼が構築した秋丸機関 ここに集結した人文社会学者たちの固有名全部見たら驚愕すると思うな
鍵になるポイントは過去にすでにツイートしたので繰り返さないが、そもそも入不二基義氏の言う「マイナス内包」という形容表現は、なぜ「マイナス(内包)」なのか――そうであらざるを得ないのか――を深く考えることを推奨したい。
チャップリンが同年4月16日生まれで同年ヒトラーが4月20日生まれなのでたった4日違いです。1940年にリアルタイムでヒトラーに放たれたチャップリンの『独裁者』の前代未聞の凄さがわかります。
6162024
まさにそれもわかってないという無知/無恥こそがテクノクラートの下僕化したということでしょうね。完全に無自覚
そもそも「表象の政治の専門家」などという言葉はとても恥ずかしくて口に出せないはずだが。信じがたい。
その真顔アカウントさんの問いの「観察」の意味は科学では語り得ないでしょう。この私の嘗ての研究に関してだが、もはや嘗ての司令塔のオックスフォード――あるいはその奥のチャタムハウスにはさほど興味はない。世界は劇的に変わった。
私がこのところ考えている問題系の方向性とマンマさんの思索の方向性とはある領域でリンクまたは接続可能だと思います。
そうですね。独在論を経由しているからこそその矛盾または二重性は除去不可能なわけですが、この矛盾/二重性が死と復活の矛盾/二重性(並行)へとずれていかざるを得ないというのもそう考えるしかないと思います。もちろんそれはそもそもどういった事態なのかが本来の問いなので下地となりますね。
私は2000年頃からこの手のナノマシンを含む生体工学的介入について集中的に研究していたのだが、今やかなり表に浮上してきたな。浮上してくる頃にはすでに私たちの現実になっている。
諸行無常という真理を日本人はもうちょっと欠片でも思い出した方がいいと思う。『カンブリア革命』でも同じ主旨で読み取れることを書いたのだが、国家は瞬く間に消滅する(まだ生きていて気がついたときには消滅している)。人類史のスケールでは一瞬に過ぎない。
「アメリカ下院は、18歳から26歳までの男性全員が自動的に米軍徴兵の対象になる法案を可決」 日本も現政権/体制が続くなら米国の指令で間違いなく近々そうなると思う。 参考記事→予備自衛官補、採用上限年齢上げ 34歳未満→52歳未満
ソースは英文記事でいくつもあります。「金曜の夕方、下院は大型国防法案を可決した。この法案には、18歳から26歳*の若者を自動的に選択兵役に登録する条項が含まれていた。下院版の国防権限法(NDAA)は、8,950億ドルの軍事費を承認するもので、217対199で可決された。」
6152024
マンマのさんま Mk-2氏によるこのキリストの死/復活の理解は、ロジックとして独在論を経由しているからこそ導出されるのだが、先の私のツイートで言及したヘーゲル『精神現象学』「啓示宗教」におけるキリストの死/復活の理解と非常に近い。
これも先ほど読みましたが確かに秀逸でしたね。なぜこうした適度な批評対象との距離が取れないのかな。その距離/隔たりが取れないからこそ批評たり得ないのだろうが(ならば現状批評はほぼ存在していない)。
件の日本の文化人たちが80年代以降に果たしたミッションは単に電通的な国内マーケティング現象ではなく、人類史的に多大な意味を持っていたという視座の重要性があらためて浮かび上がりますね。「単に電通的ではなく」と述べましたが、むしろ電通的だからこそグローバリズムに接続していたわけで。
先ほど読了したが、このキリスト復活の理解は、独在論を経由しているが先の私のツイートで言及したヘーゲル『精神現象学』における理解と非常に近いのではないか。 キリストの救済、その一つの真実の物語|マンマのさんま Mk-2
@manma2020
#note
がやらせた委託元
ベイトソン(パロアルト)やフランクフルト学派のアドルノなんかもさらに大規模でグローバルなプロジェクト委託先だった。ベイトソンは多分ペンタゴン、フランクフルト学派は大英帝国チャタムハウス
「醜いのはそれに便乗する出羽守よ」1970年三島由紀夫は、その行き着くところまで行き着く―それがまさに現在の日本だ―醜さと空虚さを透視してしまったことに耐えきれず、否最後まで耐えきったからこそ、全ての力を振り絞って割腹自殺した。三島の声は誰にも聴かれることなく虚空に消えたんだね。
連続的な推移の収束先を三島由紀夫の跳躍が一挙に先取りした。
6142024
いえ私も長らく、常日頃からそのような力を信じて支えにしていますので。また究極的には、たとえ何が起ころうともそうした力しか支えになり得ないとも思っています。
これ以降のテーマ「観測主体/観測装置/私」「数 物自体 量子情報理論」「超越論性と〈道徳〉/《道徳》」「入不二基義氏の〈〉についての減算的解釈 概念化・重ね合わせ」「〈現実性〉〈マイナス内包〉 実数・虚数・複素数領域」「潜在無限色 〈潜在性〉と〈現実性〉の接点」等→下巻になる。
現在、『形而上学』は「第5章 カント『純粋理性批判』のデッドライン」のⅢ「諸地帯Zones――デッドライン/死線の横断」第2節「左右の問題――この私の左右と時制の同時生成」の「附論「0」と〈0〉・プラトン『テアイテトス』・守時奴――時制と思考の零点振動の相互往復の〈次元/場〉へ」の概ね三分の一
(私の掲載論考に対する谷口一平氏の極めて的確なツイートに関する記述部分)まで執筆終了
上記「附論「0」と〈0〉・プラトン『テアイテトス』・守時奴」の執筆完了を以ていったん区切り、そこまでの記述と「Interlude2 手におえぬ痛みの中で 映画『キャラクター』主題歌:『Character』歌詞 & 詩形式のコメント」を「上巻」として一分冊とする予定。
そもそもこの様に思い、考えることができるスラベスさんの心の在り方と胆力に感服します。
久々にプラトン『ゴルギアス』の読書を再開しているが、枢要な点でリンクする箇所がいろいろと見られる。
6132024
西田幾多郎の『絶対矛盾の自己同一』を速読したが、文体の印象が倫社の教科書っぽいんだよな。
上記「道元は、「現成よりさきの全機現」というマイナス内包的次元を導入しています」に対応する道元『正法眼蔵』「全機」の結論部の記述「正当現成のときは、現成に全機せらるるによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり。しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり。」
「道元は、「現成よりさきの全機現」というマイナス内包的次元を導入しています」に対応する道元『正法眼蔵』「全機」の結論部の記述の続き→「さきの全機現ありといへども、いまの全機現を罣礙せざるなり。このゆゑに、しかのごとくの見解、きほひ現成するなり。」
上記試訳「まさにそのことが現成するそのときは、現成はその全一性において働くのだから、この現成以前の現成はないと考えられる。だが、この現成以前に、その全一性における現成があったはずである。この先なる全一な働きは、今のこの現成に、何ら差し障るものではない。」
続き→上記試訳「つまり、かくのごとくの考え方が、相次いで現成するのである。」
50年続いたペトロダラーが最終的に消滅
6122024
また「全機」巻の「現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし。死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ。」にも通じると思います。また道元は、「現成よりさきの全機現」というマイナス内包的次元を導入しています。
「全体としての一(全一性)」の記述を読んで、道元『正法眼蔵』「現成公案」の「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらを飛ぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず」という一節を直ちに想起しました。
ありがとうございます。私は、上記を老舗伝統職人芸の喩えであると同時に、文字通りその様なマイナス内包的-潜在的次元を含んだ力として入不二哲学の力のを捉えています。この国から始まる哲学は言わば最後の堡塁であり、決して大袈裟ではなくその命運に人類史の命運が賭かっていると思っています。
入不二さんは喩えるなら(実は私自身は殆ど文字通りの認識なのですが)、この国の最後の生命線である金剛組以来の世界最古の老舗宮大工職人が典型的に保有している様な力を、他ならない哲学-形而上学の領域で受け継いでいるのだと思います。今それが前例の無い危機に晒されている正念場ですね。
6112024
早く読みかけのプラトン『ゴルギアス』に取りかかり読み終わりたい。なぜなら早く『クラテュロス』を読みたいからだ。
ラストカントリーとはラスボスカントリーの略
日本って逃げ場がないんだよね ラストカントリーなんで。
もちろんこれが核心ですね→「人称の信じ込みは時制の信じ込みと不可分一体」
「アウフヘーベンされた現在」として生成する「一般的現在」が、「イエス・キリストの死」の結果であるというヘーゲルの見解は非常に興味深い。「この(イエスの)死」は、「(精神として実在が)復活(すること)」である。
時制と人称を対象化できないほどにべったり信じ込んでいないと(一般人はそもそも日常生活に支障をきたすけれど)哲学研究者たちが独我論をこれほど長きにわたり(笑)論じたりできるはずはないでしょうね。人称のべったり信じ込みは研究者を含めて時制の信じ込みと不可分一体だと思う。
6102024
そうですね。日本でも源氏とかの侍/サムライが典型ですが、もともと大規模荘園領主(貴族)やらなんやらのマフィアの私兵軍団ですよね。どれだけ最初の世界がマッドマックス的だったのかはわかりませんが。今も大して変わらないと思います。啓示宗教(一般的に言えばキリスト教)についてのヘーゲルの考え方はしっかり押さえておかなくてはならないな---
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