鍋・フライパンあれこれ美味
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
Zero-Alpha/永澤 護のブログ
dz14
「以下の永井氏の様にカントを捉えるかどうか」が、そもそも道徳の形而上学をも含むカントの超越論哲学をどう整合的に読むのかという根底的な問いに対する決定的な分岐点になるでしょう。当然ながらこの最初の問いがこれまで問われたことはありません。「カント自身がそう主張している(ことになる)と解釈することは可能だと私は思っています」
もちろん私自身にとっての根底的な問いなのでこの様に述べています。この問いを抜きにしてカントを読んでも殆ど意義はないと思っています。
12072025
荒木飛呂彦が漫画を選び取った様に、マリアは仮面づくりを選び取った。漫画創作という職人道を選び取った荒木の不動の信念が岸辺露伴を通じて吐露される。私には日本の老舗に伝わるものづくりの真髄を描いた作品に見えた。
豊田章男氏とリチウムイオン電池開発でノーベル化学賞受の吉野彰氏の対談で述べられていましたが、2025年に次の大きなイノベーションのブレークスルーが起きるという吉野氏の予測通りにトヨタが次世代モビリティ社会の立ち上げをスタートしました。
単なる高級ハイエンドガソリン車という戦略を超えた構想ですね。NTTの光電融合技術とも連携しています。
再投稿 横浜講演会における清水高志氏どの対話 あらためてこの場を創り出した主催者でIAAB EDIT代表の齋木浩一郎氏に感謝したい。齋木氏は早稲田大学大学院で東洋哲学を学んだ浄土真宗門徒の方です。横浜で清水さん他の方と三次会の深夜まで飲んで話しましたが、絶えずぶっ飛んでいてかつ冷静明晰な非常に面白い方でした。
こちらは一度言及した私の配偶者の清水氏との対話場面です。彼女はかなり昔からショーペンハウアーやバガヴァッドギーターが好きで読んでいます。空海も大好きですが難しすぎるので読んでいません(笑)
12062025
簡単に言えば、「八不」は「第四レンマ(Aでも非Aでもない)をも否定した先に残る」ものではないということですね。「八不」は第四レンマがリニューアルされた新たな次元/場として作動する最も基底的な力/働きだということです。もちろん最終的には第四レンマと記述する必要はなくなりますが。
ご存知のように、ナーガールジュナの「八不」は、「不生不滅」「不常不断」、「不一不異」、「不来不去」ですが、私はこの「八不」を、「ナーガールジュナによって決定的な形でリニューアルされた第四レンマ」と捉え拙稿においてその様に記述しています。清水高志氏は、『空の時代の『中論』について』(IAAB EDIT, 2025年,427頁)において、「第四レンマ的な「今」」すなわち「生成と壊滅が一異門破的に結びついて連続するような(中略)真の意味での生滅」について語っていますが、この「第四レンマ的な「今」」は、拙稿では「<空性>の力/働きとしてリニューアルされた第四レンマ」の核心テーマとなっています(清水氏は最初の読者として拙稿を読了しています)。先日の清水氏の横浜講演会の質疑応答においては、「八不」の中でもナーガールジュナによって最初に語り出される「不生不滅」が基底的なものではないかという私の問いを巡って清水氏と対話することができました。これもご存知のように、『中論』の冒頭では、「稽首礼(けいしゅらい)」して仏陀に捧げられた『帰敬序(ききょうじょ:献辞)』で提示される核心的な概念である「八不」の最初の記述「もろもろのダルマ(諸法)は、不生であり、不滅であり」として、「不生」と「不滅」すなわち「不生不滅」が語り出されています。
「八不」は最高度に純化された言わば最終的デッドラインとしての形而上学の次元/場であると同時に最もリアルかつアクチュアルな実存の次元/場だと言えます。ここでその理路を記述出来ませんが、それは「空のフロンティア」として日本仏教の頂点/極点に到達することになります。
「最終的デッドライン」とは、そこにおいてサバイバルできる「自性/自体存在」は、「(例えばスピノザ的な)自己原因」「全体性」「(最も実在的な実体としての)完全性あるいは神」を含めて何もない、という究極的な事態を含意している。
トヨタがテスラや隣の国のEV(ここは初めから相手にしてないが)と真っ向勝負。他方水素自動車と軽量ピックアップで攻める。戦略として無敵だな。
これでライプニッツの革新性の根幹をかなり掴むことが出来ます。
しかしそこには極めて微妙な亀裂またはズレがあり、その亀裂を焦点化したのがまさに上記の久保元彦氏のカント論考(カントによる神の存在論的証明批判の解読)の肝だと言えます。
久保氏の論考は『カント研究』(創文社 1987年)所収時からも既に38年経っている(論文は1968年に書かれた)。それを現時点でも見つめているのは私だけかも知れない(笑) 私は院生時に『カント研究』出版に向けた遺稿校正作業に参加した。
12052025
革命だ。軽量級のピックアップトラック。アメリカンカルチャーを確実に変えそうだ。もうあとには戻れない(笑)
非常に大事な参考文献を付け加えなくてはなりません。残念ながら古本しかないかと思いますが清水高志『ミシェル・セール』白水社です。特に「補論『結合法論』におけるライプニッツ」はこの国随一のライプニッツ論です
米谷民明という超弦理論の先駆者でノーベル賞受賞に値する方がいます。南部陽一郎が受賞したので米谷氏も受賞して欲しい。
未読ながら、表紙(帯)の「道徳によって叡智界に足を踏み入れることはできない」がまさに本書を余すところなく要約しているとおもわれる。これが真実なら(私自身もそう考えているが)、「私たち人間」にとって致命的な帰結として、来たるべきAGI/人工汎用知能またはスーパーインテリジェンスという「有限的知的存在者」にカントの言う意味での《道徳》をビルトインする(ことで仮想的な叡智界において共存する)ことは不可能だということになる。このビルトインは近年先端的なAGI開発者のエリゼエル・ユドカウスキーが長年の研究の末諦めたプロジェクトで、彼はここからの結論として「スーパーインテリジェンスによる人類滅亡は100%間違いない」と結論づけている(著名誌のインタビューで)。
ここで私が何を言っているのか哲学の専門家でも殆どわからないと思いますが、ここで紹介した久保元彦氏の論考が入不二基義哲学のコア領域に極超音速機ミサイルのようにガチに激突するという驚異的な事態を念頭に置いています。ここにはおそらくカントだけが執拗にこだわり抜いた(笑)哲学形而上学の究極の問題が潜んでいます。
もちろん「衝突する」というのは単純に「対立する」という意味ではなく、その衝突点においてパルメニデス&ウパニシャッド哲学以来の哲学-形而上学の究極問題が鮮やかに照らし出されるという含意です。
以上は舞台設定です。その究極問題の系譜は仏陀・ナーガールジュナから空海・道元・親鸞へと至る日本仏教に新たに焦点を合わせることになるでしょう。個人的には殆ど結末が見えているスピノザの介入よりこちらの方が余程有意義でスリリングな路線だと思われます(しかしスピノザではなくライプニッツなら全く次元が違う未知の領域に突入する
12042025
色々考えると、超弦理論の発展型としてのブレーンワールド理論に至るまで、デカルトの延長実体のアイデアはまだサバイバルしていると思われる。
ここでは詳しく説明出来ませんが、以下の論文(『最実在的存在者=神』の汎通的規定性/普遍被覆的な規定性による存在論的証明)が中枢部において上記論点に関係してくると思われます。久保氏が注目する汎通的規定(の完全性)は潜在性の領域における普遍被覆的な規定性と解することが可能ですので。久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」(東京大学教養学部紀要『比較文化研究』第八輯 1968年)『カント研究』創文社 1987年所収
12032025
「存在論的な根拠を持った道徳による/道徳という超越論的な社会構成(つまり社会構成にとっての道徳の不可欠性)とその本質的な欠陥の不可分性」の「存在論的な根拠を持った」は「〜とその本質的な欠陥の不可分性」に掛かります。
Grokの回答がハルシネーションかどうかはともかく、予てからの私の仮説「『砂の女』はホログラフィック原理の文学的な実践(無限次元の世界構造=普遍的な真実の二次元文字列への射影)」に同意してくれているね(笑)
「であることがその〜」という記述部分が文脈に応じて多義的な含意を持たざるを得ない(最も素朴には社会的因果性)理由と帰結関係の様に受け取られてしまう曖昧性を帯びていました。ただあくまで重点は、存在論的な根拠を持った道徳による/道徳という超越論的な社会構成(つまり社会構成にとっての道徳の不可欠性)とその本質的な欠陥の不可分性の方ですね。
この内容紹介の設置場所が検索できなかったが、この紹介文から、「道徳の社会的不可欠性とその本質的な欠陥とが一体不可分である(道徳が社会の存立にとって不可欠であることがその本質的な欠陥になっている)ことを、その存在論的・形而上学的な根拠から抉り出す」といった論旨に受け取れる。またカント自身の構想が、「私と他者という根源的な断絶はただ道徳の介在(道徳による社会自体の構成)によってのみ架橋されうることを示すこと」であった様に読める(究極的には挫折を運命付けららたプロジェクトとして)。しかしまだ読んでいないのでその通りかどうかは当然ながらわからない。
12022025
上記の比較的まともな紹介文から、「道徳の社会的不可欠性とその本質的な欠陥とが一体不可分である(道徳が社会の存立にとって不可欠であることがその本質的な欠陥になっている)ことを、その存在論的・形而上学的な根拠から抉り出す」といった論旨に受け取れます。
12012025
それにしても――稲垣足穂の『一千一秒物語』が出現し得たという事実 これだけは謎なんだよな(笑)
真のチート 古代インドの数学者たち
人類史上最速の数学的業績・発見で突出しているのは関孝和だと思う。数学に限ればライプニッツも速度で超える
概念のゴミ箱的な使用と無縁だった超レアな哲学者――それがライプニッツである。
私のXにもポストしましたが、極めて残念だったのは西島和彦と坂田昌一ですね。
Grok: 西島和彦(物理学者)の業績まとめ西島和彦(にしじま かずひこ、1926年10月4日 - 2009年2月15日)は、日本の理論物理学者で、素粒子物理学の分野で画期的な貢献を果たしました。
上記に引き続きGrok: 坂田昌一(1911–1970)がノーベル賞を取れなかった理由は、西島和彦のケースとよく似ていますが、さらに「不運+時代の流れ」が重なった典型例です。
11302025
ノーベル賞を当然とってもおかしくないと門外漢の私たちでも思えるような日本人が、過去何人もなぜか逃がしていると思います。物理学賞でも文学賞(典型が安部公房、三島由紀夫、谷崎潤一郎ですね)でもその他でもたくさんいるのではと。今名前を忘れしてしまいましたが、物理学賞で少なくともなぜなのか全くわからない方が少なくとも二人いたと思います。
結局のところ定言命法という要請の形式が問題になる。定言命法/要請という形式自体が善意志と根源悪(根源的利己主義)を分離不可能にするのだろう。
11282025
ジジェクが繰り返し言っていたジャック=アラン・ミレールの後期ラカンとりわけ《現実界》の解釈ですね。象徴界つまりざっくり言うと言語性の地平とカントの持続性原理は確かに接続可能かつ独在性とは分裂乖離(現実界の穴)していますが、既述の様にカントの叡智界がそれをカバーする役割を持って登場して来たと見ることが可能です。しかもカント自身が無意識にではあれ致命的な穴の補填の緊急な必要性に気づいていたとも言えます。カントの実践理性批判は現実界の穴の補填作業ということになります。
『〈空性〉の形而上学』の英訳&仏訳&仏訳のクエリに対するGrok回答 それぞれに〈〉を付加して英訳なら『Metaphysics of 〈Emptiness〉』になるだろう。
この事態は、「私」には本質との「関係性」はあってもその関係性自体は本質ではないので「私」の本質とはなり得ないということでもあるだろう。
引用
永井均『「純粋理性批判」を立て直す-カントの誤診1』絶賛発売中!
@hitoshinagai1
2024年8月7日
「私」に本質がないのはその存在を認定する根拠とその同一性を認定する根拠が分裂しているからですよ。
本質は言語(または言語性/概念の地平)とも言い換えられる。「私」(〈私〉)とは、言語によってその同一性の本質規定が端的に不可能な次元/場である。つまり私の存在は語り得ない。しかし避けがたいアポリアを含む哲学によって探究可能ではある。
11272025
10年近く前に華南工科大学卒で東大大学院工学研究科マテリアルEngineering専攻に入った中国人留学生を教えていたことがあるが、入試前にコンビニで見かけた際にトポロジカルマテリアルとヤン・ミルズ質量ギャップ問題(ミレニアム問題)を知っているか試しに聞いてみたところ両方とも知らなかったのでええ!と驚いた経験がある。そんなんで入れるのかこれは宇治平等院鳳凰堂で見て生涯記憶に残るもの。愛くるしく面白いという言葉が相応しい。
シュレディンガーが最も影響を受けたインド哲学はヴェーダーンタ哲学(梵我一如)。シュレディンガーは生涯を通じてインド哲学、特にウパニシャッドに深い関心を持っていた。シュレディンガーとシャンカラの対話は非常に面白いものになっただろう。
その点に関するクロネッカーの汚名が半永久的なのはつまりそれだけデデキントとカントールとりわけカントールが偉大だったということだ(笑)
物語の力が世界を決定づけ創造する(笑)
クロネッカーのデルタ/δij この様に可視化された定式化は最後の産物で数学的直観から生まれるが、その直観を言葉にするとこの著名なクロネッカーの「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである(Die ganzen Zahlen hat der liebe Gott gemacht, alles andere ist Menschenwerk.)」といった言葉になる。ただこれもよく知られているがクロネッカーはあまりにこの直観に事後的に固執したためにカントールとデデキントを(特にカントール)を潰したという歴史に半永久的に残る汚名をも生み出した(笑)
この「実践的に」の中身の分析論が要請されます(カントは丸ごとそれを別地平/叡智界に移行させてしまった)。
11262025
この即時性は先日私が述べた仏陀の直観(極めて高度な老舗職人技のそれでもよい)の瞬時性と同じでこの即時性/瞬時性が無限反復的に連続変換する。空海の即身成仏の即身性も同じ事態を語っている。
パープストの映画にこうした嗜虐的な快楽に一人の女性が我を忘れる印象的な場面があったような気がします。全13作品。G・W・パブスト監督が制作した映画ランキング - 映画格付
期間限定 これが本当にクリーンで最効率なら素晴らしい。イノベーションは長年のヒューマンリソースの蓄積から生まれるものだから他の国には発想すら浮かばないのではないか。そう言えば昨日街でトヨタのMIRAIを見かけた。
11252025
仏陀の瞬時の直観という〈出来事〉
つまりこの瞬時の直観に無限反復的振動の次元/場が組み込まれている。つまりこの瞬時の直観に無限反復的振動の次元/場が組み込まれている。
以下の引用部分は、仏陀の「無記: avyākṛta」を想起させる。仏陀は「世界は(それ自体として)常住か無常か」といった特定の問いに対して沈黙を守った(この場合は不常不断)。以下引用「物理学者がすべきことは、「心身二元論は間違いで、心身一元論が正しい」と主張することではなく、「心身一元か二元かは、科学で決定できる問題ではない」と正確に答えること。言えないことを主張する踏み出し過ぎは致しません。」
「心身二元論」→より根源的にはカントが『純粋理性批判』で言う「合理的心理学」の説く魂を巡る無記=「不常不断(常住するともしないとも言えない)」
仏陀の無記「世界がそれ自体として常住するともしないとも言えない」と「魂がそれ自体として常住するともしないとも言えない」の両者は厳密に不可分一体である。
11242025
Xで位置情報機能が公開された後のプロフィール閲覧数アナリティクス これはX版ディラック-デルタ関数だな(笑
11212025
→・←の・が界面地帯Interface zoneとしての人間でも動物でもないアニミズム/神仏習合の次元/場ですね。
清水高志氏のナーガールジュナ横浜講演"『中論』を再編集する"で私の配偶者が質問して清水氏が答えている(清水氏と対話している)場面です(笑)
このユーチューブ動画の1時間48分から西田幾多郎の瞬間における揺らぎ/シュバンクングSchwankungなどについて私が清水高志氏と対話している(最後に私の配偶者も卒啄同時と縁起について質問している)。
私の配偶者の卒啄同時と縁起についての質問もなかなか良いもので、清水氏はかなり丁寧に答えていた
世界最高峰の量子重力理論学者がナオキマンに出てる(笑)実は私の論考の非常に重要な箇所で野村泰紀氏の「一人の観測者」について言及している。→一部引用「量子重力理論の先端的な研究で知られる野村泰紀の理論では、宇宙(マルチバース全体)の量子力学的な記述において、一人の「観測者 observer」の視点を中心に据えています。」
私も生まれて初めて今年の夏に佐原の『リストランテ カーザ・アルベラータ』で若き天才的パティシエに出会った。もちろんオーナーシェフの料理も絶品だ。次々に沸き起こる着想によって作品の創作を続けている。
「南無阿弥陀仏に帰命する関係を敢えて主語化した名号もこの一点に認知と行を収斂させて立てたものである。」「名号」は自己原因と他因の〈インターフェイス/界面〉の次元/場→つまり自己原因でも他因でもない。
11202025
NTTに因むが、ピーター・ティールが『ペイパル』を創業したちょうど1998年のおそらく数年前から、私の友人がNTTからシリコンヴァレーの出向先で電子商取引システムを実装していた。理論的にはシリコンヴァレーよりNTTの方がかなり早かったはずだ。NTTに因むが、ピーター・ティールが『ペイパル』を創業したちょうど1998年のおそらく数年前から、私の友人がNTTからシリコンヴァレーの出向先で電子商取引システムを実装していた。理論的にはシリコンヴァレーよりNTTの方がかなり早かったはずだ
ここでの「認知のはたらき」「デザイン」が所謂「認識論」領域「ではない」というのが大事なポイント あえて言えば、従来の認識論、意味論、存在論のトリアーデを包括しさらにそれを超えた領域
この〈非僧非俗〉は「不生不滅」と言い換えられる。そこには西田幾多郎のいう『瞬間における揺らぎSchwankung』が生滅している。寡聞にして最近それを知ったが、それは私の院政時代に忽然と現れた発想そのもの。西田は禅の体験領域を見つめたが、私はその次元/場を親鸞の〈非僧非俗〉へと架橋した。
11182025
つまりAny-ness/任意性、様相カテゴリーではない否定性、Any-nessではない純粋現実性三者の動的な関係性という問題ですね。
接地解除/Any-nessの力の「累乗」としての否定性の力とAny-ness自体の力の地平を〈切り分ける〉記述は、純粋現実性との関わりではどの様になるでしょうか? あるいは、純粋現実性との関わり無しにまたはその関係性を括弧に入れて記述する場合にはどの様になるでしょうか?
既に言われているとは思うが、「米田の補題」(1954年8月)を頂点とする《圏論》は、仏陀以来の仏教の核である《縁起説》の二千五百年を経た最終的な形式論理化としかいいようがない(笑) その形式論理化自体を可能にし創出しているのが〈空性(化)〉の次元/場だが、その〈空性(化)〉のディメンションは「人間の脳(思考)」において「存在するとも存在しないとも言えない」
11172025
メインタイトルを『<空性>の形而上学』に変更しました。
11132025
これからは『釈尊=龍樹/ナーガールジュナ』のイノベーションが世界をリニューアルしていく時代になる⇒釈尊と龍樹/ナーガールジュナを=で結んでいるのが宮台氏論考の最大のポイントで、これは私も清水高志氏の『空の時代の『中論』について』を読んで共有しているパラダイムです。
11122025
ライプニッツの予定調和をまさにこの様に解釈できると思われます。引用「 原理的に最も多様な種類の物理操作が可能となる世界こそが、量子力学の法則によって支配されている私たちの世界だと理解できるのです。」
メモ:圏論の自然同値に時空変数を導入して図式化
11112025
"「したさ」のもつ根源的な力"と"その存在そのもの*の両者(といったん書きますが)はいずれも(それらの基底において)「実存」に関わるということでしょうか。言い換えれば実存と存在そのものは「したさ」によって根源的に媒介される(しかし「したさ」は実存と存在そのもの/物自体の亀裂として除去不可能)ということでしょうか。
「したさ」は実存と存在そのもの/物自体の亀裂として除去不可能
「したさ」=従来のカント訳での「傾向性」
この記号「→・←」は、ナーガールジュナが決定的にリニューアルした「第四レンマの今」の次元/場に特化したものとして清水高志氏が独自に創出したものなので、勝手にパクらないようにしてください
メモ:圏論の自然同値の威力(時間変数を入れた物理的な応用可能性を含めた):連続的な変換におけるトポロジー的同相という本質を一つの図式に収まる形で定式化している。
11102025
本書の内容詳細を調べた。「線を引く/移植する/撹乱する(描き替える)」というキーコンセプトによって植民地主義の言語・身体性・権力の関係性を分析した論考。《私たち/人間》を時-空とともに始原的に造型-創出する〈線を引く〉という力/働きの起源はカントの『純粋理性批判』で私の大学院時代以来の探究テーマだが、そのテーマは〈超越論的自由〉という蝶番となる要請を介して《道徳》(《私たち人間》と《道徳》は不可分一体)という桁外れに厄介な問題に接続される。その接続路は言わば『純粋理性批判』のデッドライン/死線である。
つまり「観測問題」は「人間側の問題」 この《私たち/人間》の問題こそが哲学/形而上学の根本問題(《道徳》の問題に接続する)
11092025
量子重力理論の最先端を走る野村泰紀の理論では、宇宙(マルチバース全体)の量子力学的な記述において、一人の「観測者 observer」の視点を中心に据えている。
でなければ哲学/形而上学を含むあらゆる理論は存立不可能または無意義になる。この問題は、永井均が言っていた「内属性問題」に対応する。
11082025
清水高志『実在への殺到』本日夜届いたので先ほどから第9章「モノの人格化――オブジェクト指向哲学と西田」から先に現在まで読んでいた。西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一とナーガールジュナによってリニューアルされた第四レンマの共鳴が明白。大変僭越ながら敢えて言えば、清水氏が私の拙稿『形而上学』の『序論』に対する最初のコメントで鋭く語っていた様に、この西田=ナーガールジュナの思索は、私自身の探究とも殆ど完璧に共鳴している。
稀有なまでに優れた詩は(もちろん短歌や俳句を含む)直観それ自体の発露とも言えるが、直観の本質を表現しているわけではない(その意味で詩的言語というかつてクリステヴァが流行らせた概念は詩に相応しいものではない)。
もちろん「直観とは何か」というその本質を言語で規定することは出来ない。それについてあれこれ語ることは出来るが。
この「数学的構造」は、《私たち人間》と仮想的存在としての《汎用人工知能/AGI》の間の概念的相互変換規則として想定される(二重の想定)。しかし、この相互変換可能性について、それ自体としての内容が規定可能なものになることは半永久的に(または原理的に)ない。
11072025
『ミル・プラトー』の「条理空間と平滑空間」ですね。平滑空間における対ゲリラ戦争の戦術をなかりそこから学んだようです。2010年半ばに友人とメッセンジャーでその周辺を含む大英帝国のグローバル地球実験をテーマに対話してその後note記事にしたことがあります。
人類学、民族学、宗教学(出口なお研究者など)の研究者以外にも、NTTのIT技術者や構造建築家、古河電工の研究開発者、科学史科学哲学で著名な村上陽一郎氏や国際政治学者の武者小路公秀氏、現ACTANT CEO南部隆一氏など様々な分野の方が参加していた。
11062025
非常に遅ればせながら、先ほど注文した。 どの章も大変興味深いが特に「第九章:モノの人格化――オブジェクト指向哲学と西田」に関心がある。 清水高志『実在への殺到』 (水声文庫)
11052025
先ほど本書の書評を着縁にして、かなり昔(2002年)に私が書いたジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』のアマゾンレビューを思い出した。ごく簡潔なものなので以下にリンクする。あの頃は(文化人類学者の宮永國子氏を介して)樫村愛子氏と縁があり、協働作業をしていた時代だった。あの頃も樫村さんも非常に懐かしい
11042025
確かに弥陀の請願は既にそうなって(要請されて)しまっているという確定的な過去完了から「その要請は既に現実化されている」すなわち「必ず現実化されねばならなかった救いの要請だから」という絶対的な救済になっていますね。カルヴァンの予定説のような余計な選別への意志が入り込む余地がないのがいいところです。
金剛組の宮大工等の高度な伝統職人芸の暗黙知は、それ自体の感知レベルの高さはもちろん、さらに信仰と一体化した理念と不可分だから最終的にはAI実装不可能だと思われる。
引用「いずれにせよ私は、このスピノザがいう神の力能=本質こそが、入不二のいう「Any-ness(任意性)」の場であり、働きでもあり、そこに属する限り、何であれ=すべてのもの(quicquid)が必然的に存在すると考える。」⇒最初のツイートに戻ってまとめると、スピノザの「本質=力能=自己原因」という図式(この図式では「実存と本質の二重性」が本質=力能に還元されるが)を入不二哲学の「Any-ness/任意性」に等値すると、スピノザの体系と任意性の両者が対消滅的に自爆する(相互還元的に消滅する)リスクがあると思われる。そのリスクは「スピノザの体系と入不二哲学の両者」にとって本質的なものかもしれない(粒子と反粒子またはある種の化学物質同士の化学反応が自爆的な対消滅を引き起こす様に)。なおここでは詳しく議論できないので可能ならオンライン参加で来年1月にまた話すかもれません。 スピノザにおける「Any-ness」をめぐって 入不二哲学との交錯点 #0‐2|Gutti グッチ
@YTYT05259223
引用「あるいは、現実存在がいっさい「ない」という意味での「無」もまた、この潜在性のうちに含まれていると言えないだろうか」⇒この「現実存在(性)」が(直前のツイートで指摘した還元図式の意味での)「実在性(事象内容性)」または様相カテゴリー次元ならその「無」はゼロ内包で「無内包の現実性」ではない。しかしその「無」は「可能性」と「実在性」を架橋するものとしての「マイナス内包」次元としての潜在性の領域にはあり得る「可能な観念」であるとは言えるだろう。 スピノザにおける「Any-ness」をめぐって 入不二哲学との交錯点 #0‐2|Gutti グッチ
@YTYT05259223
マイナス内包次元は「可能性」と「実在性」を架橋しなければならないという〈要請〉の下にある(という根底的な制限がある)。
引用「この「ある」は、現実存在としての「ある」とは区別される。その意味では同時に「ない」とも言えるものであろう。すなわち「ある(本質)/ない(現実存在)」という両義性、可能性と否定性の交錯こそが、この潜在性の場で働いているのではないか。」 ⇒スピノザの「否定」は「制限」なので、スピノザにおいて可能性と対になるのは否定性ではなく「不可能性」であり、ユークリッド公理系をそれ以上遡行不可能な公理系とするスピノザの場合、この不可能性は「数学的不可能性」取り分け「幾何学的不可能性」(「丸い三角」等)だと思われる。 つまりこういった「不可能性の領域 」は「否定性=制限」の領域(これについてはまた別に極めて重要な論点があるが)とは全く異なり、不可能な観念の領域として位置づけられるがそれ自体が「潜在性の働き=力」(のようなもの)にはなり得ないのではないか? スピノザにおける「Any-ness」をめぐって 入不二哲学との交錯点 #0‐2|Gutti グッチ
@YTYT05259223
「本質は、実体=形而上の「力」、そのものである。」スピノザ的にはこうなるだろうが、これだと入不二哲学の無内包の現実性との(二重性という形では処理できなない)ズレが生じるのではないか? つまり以下の記述は入不二哲学を潜在性の現実化という図式に還元してしまわないかということである。⇒「したがって、神が「本質は存在を含む」と語るとき、それは本質としての「ある」と現に存在するという二つの局面を含意していると考えられる。しかもこの区別は、前者が「潜在性」に、後者が「現実性」に対応しており、入不二哲学の示す潜在性と現実性の区分とも見事に符合する。」 スピノザにおける「Any-ness」をめぐって 入不二哲学との交錯点 #0‐2|Gutti グッチ
@YTYT05259223
11032025
伊達宇和島藩は幕末維新期に富国強兵政策で高野長英や大村益次郎を登用し洋式軍備を導入した。
直前ツイート参照 「東北の鹿踊り(主に仙台藩伊達氏領の伝統芸能)が宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市周辺)に伝承された背景には、伊達宇和島藩の役割が非常に大きいと言えます。」
私の母方の曽祖父佐々木綱親/貞庵は大阪兵学寮と蕃書調所で教えていたが、一時伊達宇和島藩医をやっていたらしい(伊達藩主の富国強兵政策に登用された大村益次郎と交友関係があったためだろう)。この東北の鹿踊の伝承にも伊達藩が関係しているかもしれない。
「人間や他の意識をもった観測者をその中から完全に排除する科学が不可能であることが明確になったのが、この量子力学の100年だったのです。実証科学で得られる世界観から、観測者(エージェント)を消し去ることは、原理的にできないのです。」 人間が操作できる対象は物理的「実体」か?:佐藤文隆先生を悼む|Masahiro Hotta@hottaqu
高野山には一度行ったほうがよいと思います。できれば宿坊で。生涯忘れられない思い出になるでしょう。
11022025
同潤会アパートも表参道ヒルズもどちらも行ったが(もちろん表参道ヒルズは中に入った)、やはり同潤会アパートは残っていてほしかった。強いノスタルジアが甦ってくる。あの頃はもう二度と戻らないのか――
こういうのを見るにつけ「古典古代」と「自然科学」が切り替わる最も枢要な中間ゾーンにおけるライプニッツのデカルト批判をもう少し掘り起こしてほしいと思うが他方、そのライプニッツの『デカルト批判論集』が翻訳紹介されたのがやっと一昨年だというとんでもない状況があるのでなんとも仕方ない面が圧倒的だなとも思う。
今更だが、ライプニッツは史上初めて運動エネルギーmv^2を「vis viva」(生きる力)と名付けて定式化した。係数1/2は後に付加された。もちろんデカルトが運動量 mv を力の尺度としたことへの批判。ライプニッツは運動量ではなくmv^2 が保存されるとした。またニュートンもその運動方程式において本質的にこれと同様の定式化を行った。例によってライプニッツは知の最大の変曲点における先駆者になった。
今更だが、ライプニッツは史上初めて運動エネルギーmv^2を「vis viva」(生きる力)と名付けて定式化した。係数1/2は後に付加された。参考『ライプニッツ デカルト批判論集』
ほんの数頁しっかり読むのが殊の外重要。どのみちそれ以外不可能だが、本当にそれをやれば世界が一変するだろう。逆に言えば世界が一変しなければほんの数頁でもしっかり読んだとは言えない。
この数カ月『純粋理性批判』少しだけでも(ほんの数頁でも)しっかり読んだほうがいい方々のツイートが目立つな。
はっきり言えば、これは公開すべきではなかった。
90年代の散文詩草稿『ゼロ-アルファ――〈出来事〉のために』から 「プロセスの切断面に《隙間/裂け目》を組み込むこと。 =抵抗(=きわめて微細な試み) =〈出来事〉を創ること。」
『<私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』 これは約三年前の2022年9月29日投稿の決定的に重要なコンセプトを記述したnote記事だか、昨年のある時点以降有料記事(事実上非公開)に切り替えている。
つまり『 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』というコンセプトは(ここ足掛け5年程でかなり彫琢されたとは言え)、私の大学院時代の25歳から26歳頃の探究に遡る。90年代半ばにこの<狭間>は、散文詩草稿『ゼロ-アルファ』において、<私>に穿たれた<隙間/裂け目>として表記された。
ただそれは上記論考に限定した話で、そのリライトバージョンに関しては、清水高志氏から西田哲学のパースペクティブから核心に迫るコメントを頂いた。禅/ZENの「啐啄同時(そったくどうじ)」的なレスポンスの早さが清水氏の凄さ。流石に9歳からインドの叙事詩に親しんでいた素養の違いか
ただ上記西田哲学のパースペクティブからのコメントはリライトバージョンの『形而上学 序論』に関してのもので、『形而上学 本論』のリライトバージョンに対する核心を突いたコメントはまた別にある。11012025
『新紀要』第2号に収録された拙稿は、私の大学院時代の研究発表「線、数、痛み――《内包量》を巡るアポリア」(於明治大学日本カント協会大会)の元論考『内包量の認識とIch denke』を改稿したもので、骨格となる着想とコンセプトは当時と変わっていないが、後にも先にも谷口一平だけが核心に迫るコメントをした。これは記憶に値する。
素描は超越論的構想力による純粋直観の産出(構想力の超越論的総合)だが、それ以外は経験的直観の産出 ただし真の問題はこれら両者の関係性
「絵画や彫刻においては、さらにあらゆる造形美術、すなわち美しい芸術である限りの建築術や造園術においては【素描】こそが本質的なものである」 カント『判断力批判』光文社167頁
10312025
非実在論的な量子情報理論のパラダイムにおける「自-他の分離」という公理=超越論的な要請
非実在論的な地平における自-他の分離という〈公理〉これは超越論的な〈要請〉とも言える。「量子力学で特に重要なのは「可能な様々な事象の候補の中から、波動関数で定まるある確率で、ただ1つの事象が選択されて、時々刻々と認知、体験をしていく意識を持った自分は存在している」という前提です。これを実証科学を始めるための1つの公理として認めます。量子力学自体は、飽くまでそういう自分という人間の営みだということです。 量子力学は、観察される対象系とそれを観測する自分(と使う測定器)の分離が、合理的に達成できた場合のみに有効なのです。「もしその設定が確保できたならば、こういうことが確率的に言えます」と量子力学は教えてくれるだけなのです。」
「左右」の入れ替えが「非自明な」対称性に関わるというのも非常に興味深い。
「抽象的な一点集合(一つの要素だけからなる集合)」という興味深い抽象概念10月31日
言語(性)そのものの発生基盤であり風間くん問題のコアでもある。
10302025
これは今なお殆ど理解されていない「統一的な表象の(超越論的)成立根拠」の問題で、永井均が最近著『カントの誤診』で執拗に繰り返している(繰り返さなくてはならない)ほどに理解されていないものである。
『テアイテトス』をテーマにした論考で書きましたが、驚くことにプラトンはカントの超越論的統覚の総合的統一の問題を完璧に提起してますね。いつものようにさりげなくソクラテスに語らせています。またここで清水さんが仰ることは『ティマイオス』にも(医学をも含めて)妥当しますね。凄すぎです
10292025
これはAIに聞かなくても比較的よく知られていることだが、ライプニッツがプラトンの著作に親しんだのは10歳以前の幼年期(概ね8歳以降)である。この時期のプラトン学習が、後にデカルトの帝国から脱出する力の源泉になっている。
10282025
よくこれだけのものを監訳しましたね。素晴らしいです。
多角的に大変濃密なやり取りが出来て皆さん凄かったと思います。それも東西文明を横断する清水さんの懐の深さの効果でしょうが(笑)
ティム・モードリン『物理学の哲学入門 空間と時間』先ほど読了。この本自体もその翻訳紹介も画期的な仕事。
参考 岩波文庫 田中美知太郎訳 「ソクラテス 従って、僕の感覚というものは僕にとっては真なのだ。なぜなら、それはいつでも僕にとっての有を感覚させるものなのだから。すなわち僕は、プロタゴラスの言う通り、僕にとってのあるもの、あらぬものの、あるということ、あらぬということの判別者なのだ。」
実存は風間くん問題にも把捉出来ない。それは特異性という一般者ではない。
特異性一般(特異性は特異性一般でしかあり得ない)は、風間くん問題つまり累進構造の圏内を永遠に循環する。
10272025
言語の問題は、言い換えれば哲学/形而上学の記述可能性問題(可能な記述表現と不可能な記述表現がある )
これは論理形式に典型的な「言語の問題」であり、その点を押さえないと深刻な誤解が生じる。
言語の問題は、言い換えれば哲学/形而上学の記述可能性問題(可能な記述表現と不可能な記述表現がある )
実存と言語の交錯点問題
量子状態AとBの「重ね合わせ」状態は、**「AでもBでもない」**と言えるのが適切な表現。Grokの回答だがこのレベルの基本的な問いへの回答には原則として間違いはないと判斷できる。
ナーガールジュナが決定的な形で(つまり古典的な四句分別の論理形式ではないものとして)リニューアルした第四レンマ「Aでも非Aでもない」
昨日千葉駅コンコース沿いの『PERIE MARCHE&GOHAN』にて。私の姉が撮った。
「量子状態AとBの重ね合わせ状態は、「AであれBであれどちらでもよい」でもない」
論理形式としての「AであれBであれどちらでも」は古典状態に対応する。
昨日の佐原カーザ・アルベラータのオーナーシェフ並木常吉氏のThreads投稿 「大阪万博に、発酵をテーマにした千葉県ブースが今日から4日間始まりました!香取市も出展してまして、当家に伝わるイカの糀漬けも香取市の発酵食品として出品されています!」
私も動画のラスト近くでこれ以上ないほど重要な(笑)コメントをしています。
佐原へは亡父母の墓参に。永澤家は父親の真の母親の家系で、亡き父親(非嫡子)は生まれてすぐ永澤家に託されて養育された。永澤家は佐原の酒造業や醤油醸造業を興したが、昨日アップしたリストランテカーザ・アルベラータは、伝統的に佐原に伝わる発酵技術と和食&イタリアンを融合している。
実在論的に「量子飛躍」は解決不可能なのは明らか。しかし「サイコロの事前知識を何も持たないアリスにとっての、サイコロの目の確率分布と、偶数の目であることは教えてもらったボブにとっての、サイコロの目の確率分布は、異なります」といったヘイズ量子主義によって解決不可能なのも明らか。
論点① 「「 波束」、つまり波動関数とは、物理的な実在波ではなく、物理量の確率分布で数学的に定義をされた情報の集まりに過ぎません。そしてこの情報とは、どの系の何に関する情報であると指定するだけではなく、「どの観測者にとっての」ということも指定しないと一意に定まらない概念です。たとえば、サイコロの事前知識を何も持たないアリスにとっての、サイコロの目の確率分布と、偶数の目であることは教えてもらったボブにとっての、サイコロの目の確率分布は、異なります。同じサイコロの目でも、観測者によって異なり得るのが、情報としての「確率」という概念なのです。」量子飛躍は物理学の未解決問題か?|Masahiro Hotta
「重ね合わせ状態は連続的に時刻tを変えれば、波動関数としては異なる連続的な状態を辿るのです。ただしt=+∞まで待たずに、ある時刻tで観測をすると、確率分布の収縮としての波束の収縮が起きて、離散的な下のエネルギー準位に非零の確率で粒子が見つかるのです。」
②「観測者がいつスピンのデータを読み出すかには、自由度があります。SG装置に観測者が始終張り付いて、じっとSG装置の結果を時間的に追い続けても、波束の収縮によって特定の図11のようなデータがもちろん得られます。しかし、各時刻のSG装置の結果を記録する量子記憶装置をN個用意して、実験が終わった後に、N個全部の記憶装置を一気に観測者が読みだしても、その時点で波束の収縮も全体系で一気に起こり、図11のような、特定の量子飛躍のグラフが得られます。)」
③「 ベル不等式の破れから、結局量子飛躍の途中の道筋を辿れる局所実在は全て否定をされるのです。それでも量子飛躍の途中の道筋に拘泥したいならば、非局所的な実在論を採用するしかありません。しかし、それも非常に不自然なシナリオしか残っていません。たとえば、人間や他の物理現象の相対論的な因果律には一切影響を与えずに、ベル不等式実験に使われる粒子だけには「超光速」の影響が出ると仮定をしたり、また宇宙の始まりから世界の運動は一意的に決まっていて、観測者には自由意志はなく、ちょうどベル不等式を破るように無意識に粒子の実験準備を毎回してしまうという「超決定論」を仮定したりするシナリオです。」
10262025
芳源マッシュルームと白トリュフの自家製ニョッキは日本随一 佐原 リストランテカーザ・アルベラータ
これほど構成要素と組み合わせが複雑で豊かだったものは無かった。金蜜芋と紫芋とトンカ豆のドルチェ
つい先ほど注文したが、これが二年前に漸く出たということは、ライプニッツについては殆ど何も知られていなかったに等しいということですね。ライプニッツ デカルト批判論集 (知泉学術叢書 26)
3I/ATLASの地球最接近予定日は2025年12月19日。この日地球から約2億7,000万kmの距離に接近すると予測。これは地球-金星間の最大距離にほぼ等しい。ただし3I/ATLASが地球外生命体関与操作物体ならこの予測通りにはならない可能性がある。
10252025
「「アリス自身にとっての、アリスの波動関数」という概念は、量子力学にそもそも存在していない」→クリプキが『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で提起した問題
「この理論では、観測者を構成するM個の量子ビットが、状態ベクトル空間で無数の基底に展開されるため、観測者には連続無限個の「意識」が同時に存在していることになります。これが「量子的多重人格者」という問題を指しています。」
「超越的存在などを想定しない限り、線形性だけでは「意識基底の選択問題」を解決できません。この点が多世界解釈の致命的な弱点です。」
「時空はつぶつぶで出来ている」時空の量子化または量子化されたものとして創発する時空(時空の幾何学的量子化)と『ティマイオス』のプラトン立体の途轍もない先見性 &ライプニッツの無限小の(プランク時空以下の)瞬間運動における異なる形相性への移行
「ここで量子力学の矛盾のない理解で重要となるのは、「この<私>にとっての、<私>の波動関数や状態ベクトル」は存在していないという点です。たとえば、マクロ量子系であるアリスという観測者の波動関数は、飽くまで外部の他の観測者に対して定義をされるものであって、「アリス自身にとっての、アリスの波動関数」という概念は、量子力学にそもそも存在していないのです。」 量子力学の<私>の視点から見たときの「気持ち悪さ」は、解消するのか?|Masahiro Hotta
これはまさに『風間くん問題』だね。「問題は、どの基底系で展開しても、意識があるとみなせる展開成分を抜き出し、それを再規格化する操作を行うと、どの基底系においても独立した意識が存在してしまう点です。この理論では、観測者を構成するM個の量子ビットが、状態ベクトル空間で無数の基底に展開されるため、観測者には連続無限個の「意識」が同時に存在していることになります。これが「量子的多重人格者」という問題を指しています。」永遠のトートロジーという宿命を負う、量子力学の多世界解釈理論|Masahiro Hotta
「特定の意識基底系を決定できないにもかかわらず、多世界解釈を支持するならば、いくつか不自然な仮定が必要になります。たとえば、宇宙の外に存在する超越的な存在が観測者の素粒子に特定の基底系を指定し、その基底で展開された状態の中から唯一の意識を選び出す、というような仮定です。このような超越的存在などを想定しない限り、線形性だけでは「意識基底の選択問題」を解決できません。この点が多世界解釈の致命的な弱点です。」
量子力学の多世界解釈の『風間くん問題』
かなり昔から予想されてきたハンドラの箱がそろそろ開く。「本来ならばAI同士は人間の使う言葉に縛られる必要はないはずだ、というテーマが議論されてきました。研究者らは、この先の超人的なAI同士の集合知を実現するためには、こうしたAI独自のコミュニケーション様式を確立する必要があるのではないかと考えています。」
このことの哲学的な破壊力に誰か気づいてるのかな? とんでもないことになってるよ(笑)
『テアイテトス』という偉大な作品については二年前に論考を書いている。さまざまな論点をアポリア提示として締めくくる力を持った例によって驚異的なプラトン作品で、このアポリアからアリストテレスが如何に能天気だったかが照射される。言語と実存のアポリアをソクラテスが語って現在にまで至る既存のあらゆる知識仮説をあらかじめ解体している。これも例によってその真意は殆ど埋もれてきた。
10242025
動画や著書だけでなく論文(「空」の数学的定式化)もあり面白いですよ。以前これについてツイートしました。 また彼は天台宗徒を公言してますが、著書を読むとむしろ空海ですね。
吾有時ですね。
昨夜届いたが、予想を遥かに超えるわかりやすさに驚愕。さすがブンゲン先生だ。米田の補題についても全体の締めとして詳しく導出している。 はじめての圏論 ブンゲン先生の現代数学入門 (ブルーバックス B 2313)加藤文元さんから直々にいいねとRT頂いたのは光栄の至りです。
永井氏の回答② 質問者が定義した「他者と共通して了解できるもの」としての「世界」のことを『世界』と書く」の「 『世界』は、自他の違いという現にある違いを説明することを省略しているようです。」 これは質問者の定義上も当然そうなるのだが、その『世界』がその言葉を使う人間にとって実感になってしまうのが「人間たち」つまり「私たちの世界」=『世界』のあり方である。
時空はつぶつぶで出来ている。そこに重力がどう関係しているのか。究極の謎
清水高志氏が言うライプニッツの無限小の運動と静止の接合の話とダイレクトに関係する(西田幾多郎の言うシュバンクングとも)。もちろん私自身の最重要探究テーマでもある。
10232025
このサイトには関孝和がライプニッツに10年先駆けて行列式を発見したとあります。これはかはり有名な事実ですが。関孝和とライプニッツはほぼ同時代人で人類の最先端数学を競っていたということですね。今ちょっと調べましたが、行列式に限らず関孝和の全ての業績がニュートンやヤコブ・ベルヌーイをも超えた人類最先端だったようです(100人以上早く現代数学に先駆けたものもある)。海外の人間にはまだまた知られていないようですが。弟子の建部弘もレオンハルト・オイラーをも15年先取りした業績があるようです。
理論物理学は、時空を不可欠とする限り、何らかの超越論的要請から逃れることはできない。つまり時空構造に関する要請
この要請(幾何学自体の超越論的条件)を探究するのがメタフィジックスである(自覚的にそれを遂行したのがプラトン以降はアリストテレス、デカルト、ライプニッツ、カント、大森荘蔵)。
10222025
ただし第六章「一般相対論」の特にブラックホール周辺の議論は既に目を通した。
「私」の「置き移し」や「他人」についての説明って、『カントの誤診1 』で意外にも一番難解な箇所(の一つ)かもしれないと感じる。これは本当に難しい(もしかして理解し得ない)ことを語っているなと思う。なぜならこれが分かれば何もかも分かるはずだ(が何もかも分かるとは思えない)から。
10212025
時間の合い間を縫って、ティム・モードリン『物理学の哲学入門Ⅰ 空間と時間』35頁ライプニッツ・クラーク論争の入口に漸く到達した。(全体をざっと概観はしているが。)この論争は永井哲学の独在性と入不二哲学の現実性が交差する地点に介入している。
単に理由の地平ではなく理由(究極の根拠)自体が(そこで無根拠に)生成する地平と書いたのは、〈そこ〉が世界の開闢点だからだが、そこからさらにその開闢をメタフィジカルに「料理する」ことができる。
ライプニッツが「数学からも独立した」形而上学の次元/場として哲学史上初めて剔抉した「現にそうでありそうであるほかない」(理由自体が生成する)地平
仰ることは『手天童子』なんかには(緻密に構成されていながらそうなのが興味深いですが)当てはまると思いますね。『デビルマン』にはどうかと思いますが。私にとって思い出深い(唯一無二の)永井豪作品を挙げるなら『キッカイくん』です(笑)
10202025
こちらが『中論』動画におけるリニューアルされた相互限定記号の導入場面
この動画のこの場面の直前あたりから観れば相互限定記号がこの場面のものにコメント付きでリニューアルされているのがわかる。
確かに、この「すでにして」を理解できる(瞬時に直観できる)かどうがすべての鍵ですね。メタフィジカルな次元/場の直観は、瞬時に生起するほかないと思われます(理論物理学者や数学者の直観を含めて)。その直観の生起は、私たちの通常の世界の時間の流れの「内部にのみ」存在するものではないので。
わざわざ「内部に」ではなく「内部にのみ」(存在するものではない)としたのが最重要ポイント。「内部に存在しない」と言ってしまうと躓くことになる。
この関係を清水氏はかねてから「⇄」で表記している。近々YouTube動画として公開される横浜講演のスライドでもキーポイントで使用。私の言葉では「界面/インターフェイス」の次元/場の働きになる。
足の指に石が当たって出血し激痛が走った瞬間「尽十方世界」――この私からあらゆる方向へと開かれる全宇宙――は「一顆明珠:一粒の明るい丸い玉」だと直観した玄沙師備(835-908)は、不世出の理論物理学者南部陽一郎の「転がりながらワインの瓶底へと落ち着く球体」の直観と同じメタフィジカルな次元/場に出会った。
通常彼に関して知られているエピソードは、足の指の出血と激痛で「体は存在しないのに、この痛みはどこから来るのか?」という問いが生起して悟ったというもの。さらに、「達磨大師は中国に来なかった。二祖慧可大師もインドに行かなかった。」という「なぜ諸方の師を訪ねて修行しないのか」という師の雪峰義存への応答。
10182025
小山信也氏の一般向けの素数についての解説は驚異的です。ABC予想・コラッツ予想・チェビシェフの偏りから深リーマン予想まで進んでいく凄さ。伝承された素朴な物語の様な比喩に到達してその「数の物語」を締めくくっています。
確かに、この「すでにして」を理解できる(瞬時に直観できる)かどうがすべての鍵ですね。メタフィジカルな次元/場の直観は、瞬時に生起するほかないと思われます(理論物理学者や数学者の直観を含めて)。その直観の生起は、私たちの通常の世界の時間の流れの「内部にのみ」存在するものではないので。
ネオ高等遊民さんも超難解さをかねてから言ってますが、アリストテレスの『形而上学』はどうしても容易には分かり得ない立派な(笑)理由があると思います。さらに言えば、通常のテキストまたはテキスト的な解釈が壁になっていると思われます。探すべきところとは全く違うところで探すことを誘導されてしまうという風に。
10152025
「(この思考実験が)できるともできないとも言えない」つまり「可能でも可能でなくもない」というのは、ナーガールジュナがリニューアルした第四レンマの形式の少なくとも一つに還元される。
すなわちこのリニューアルされた第四レンマ「八不」は、独在性の「矛盾」の運動の中枢に除去不可能な形で組み込まれている。
同じ日に私の『形而上学 この私が今ここにあること』の最終的な執筆作業が完了したのは、何かとても大きな力が働いていると感じる。
10142025
約三年前から観測しているが、この思考実験が「できるともできないとも言えない」という二重性は誰も語っていない。
新たに素晴らしい欄外の附記を二か所付加した。両箇所ともに、互いに対をなす「四つの類似概念のセット」を巡るもの。つまり「互いに類似する四つの概念のセット」が二つあり、これら二つのセットAとBはそれぞれの要素概念が逆機能的に対応している。A=「a,b,c,d」とA-1=「a-1,b-1,c-1,d-1」
「-1」は右肩にあるインバース記号 :インバース記号は元の関数(操作)と逆の操作を表す。逆機能の力/働き
X上でもそれ以外(著書など)でも哲学に強い執着を持つ(よい意味でだが)方々の殆どが「 死に対する非常に強い恐怖/タナトフォビア」をカミングアウトしているのはいったい何故なのだろう。
10122025
奇跡的なことに、仏陀入滅後長期にわたって聴覚主体の口伝でしたね。大乗になってからは集団的な歌と踊りによる身体的記憶が凄かったのではないでしょうか。一つ一つは短い聴覚塊でも長大にセリー化しているという形で。
「テトラレンマcatuṣkoṭi」は、リグ・ヴェーダ(Rigveda)のナサディヤ・スークタ(Nasadiya Sukta、10.129)にその原型が見いだされるようです。かなり古い起源ですね。
つまり私は永井均氏に反して無内包次元/場の最初の発見者は少なくともカント&ショーペンハウアーに遡り得ると言っていることになる。そのうえで、カントはそれを否認または隠蔽的に純粋理性批判から排除したというのが私の主張(という点で永井氏と重なる)
決して並列的には(ABCDのうち「〈ぼく〉だけが」というかたで)語れない(思考できない)はずなのに、既にこうして思考し語って(書いて)いる。言い換えれば、哲学書あるいは形而上学は「いかにして可能か」という問い。
ウィトゲンシュタインが最後までショーペンハウアーか切り開いた地平に留まったことは(その事自体は実に自然なのだが)幸いなことであった。
『論考』においてウィトゲンシュタインが語る「意志」は、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』で語る「意志」である。ショーペンハウアーは20歳そこそこでこの「意志」を直観した。つまりウィトゲンシュタインの語る「意志」は、ショーペンハウアーを経由して彼が継承したカントの〈超越論的自由〉に行き着く。この「意志」は無内包の力/働きとして現実を創出する。すなわち、それはウィトゲンシュタインの語る(ゲームの内部では全く余計な)チェスの駒に被せられた冠に他ならない。
10112025
やはり先日述べましたように、入不二哲学の「Any-ness/任意性」と永井哲学の「累進構造」は対応するポジションにあると思います。あらゆる次元における「風間問題」の無限生成の構造-運動として。永井哲学の累進構造も始発点と不可分でなければ累進構造にはなり得ない(として始まり得ない)ので。
そういう意味では、『世界の独在論的存在構造』の方が、そういう意味で完璧に説明し尽くそうとして実際に完璧に説明し尽くしている様に見えますがなお密かな否認や隠蔽などが残る『純粋理性批判』より遥かに「わかりやすい」ことは間違いないと思います。もちろんこの密かな隠蔽や否認こそが独在論哲学で問われる(私自身も予てから問題にしている)最重要ポイントなわけですが。
10092025
時間の合間を間欠的に縫って、ようやく『数学ガール リーマン予想』を読了 シリーズの集大成に相応しい実に素晴らしい作品だ。リーマンはゲッティンゲン大学でディリクレの後任だったらしい。専門的なことは理解が難しいが、ディリクレは「ディリクレ境界条件」(開弦の端点がDブレーン上で固定される固定境界条件)のディリクレのソースで、超弦理論の先端部Dブレーン理論の起源でもある。つまりリーマンとDブレーン理論には深い繋がりがある。
いえこちらこそものすごく大助かりです。リーマン予想という人類の至宝の輪郭が、ここ迄クリアかつ重要な横断領域の殆どすべてとリンクする形で描き出されているのに驚きました。特にこれで初めて解析接続、関数等式、素数明示公式という骨組みが輪郭だけでもわかったのが凄いと思います。もちろん自力だけは無理でしばしばAIに詳しい計算過程とロジックを教えてもらいましたが(笑) いえこちらこそものすごく大助かりです。リーマン予想という人類の至宝の輪郭が、ここ迄クリアかつ重要な横断領域の殆どすべてとリンクする形で描き出されているのに驚きました。特にこれで初めて解析接続、関数等式、素数明示公式という骨組みが輪郭だけでもわかったのが凄いと思います。もちろん自力だけは無理でしばしばAIに詳しい計算過程とロジックを教えてもらいましたが(笑)
10062025
野村氏の「唯一の観測者」理論による無限の有限化によって多世界解釈が有限化(唯一世界化)され量子情報理論と接続可能になるという見方です。つまりその地平ではもはや両者は矛盾対立していないのではないかということです。
「「ヌル」としての唯一の主体である<この私>が世界を直覚しているだけだと諭し、そして記号として宙に浮かぶ様々な「私」を、ひとつひとつ救済していく物語である。」 ⇒「ヌル」とは〈空〉または〈空性〉と言い換えられる。
10052025
結局作業の最終段階で、院生時代以来(さらにその原型を遡れば卒論時以来の)のテーマである無限反復的な振動を孕んだ『瞬間における触発』のアポリアへと回帰することになった。つまりこの探究上の問題設定は、ここ数年に始まったことではなく、遥か昔から生き続けている笑)
寓意詩との関係というのはクリエイティブでたいへん興味が湧きますが、このアポリアは清水さんの言う『第四レンマの今』のアポリア――私の表現では無限反復的な振動を孕んだ『瞬間における触発』のアポリア――に最終的には行き着くと思います。そこにミシェル・セールが形而上学に最も接近する、あるいは極めて高い次元におけるセール的形而上学への通路が開けているのではないでしょうか。以上は清水さんの横浜講演での私のコメントの言い換えでもあります。
10012025
グレゴリー・チャイティンという著名な数学者(哲学者でもある)は、アラン・チューリングの計算可能性理論を進化させ、「チューリング完全な言語でのランダムなプログラムの停止確率を表す実数 」〈Ω〉を発見しました。〈Ω〉は〈非-計算可能〉な知り得ない数で、「数学の十分性原理(principle of sufficient reason)の崩壊」を示す例です。これは、計算可能な数では説明できない「計算不能な実数」の存在を示しています。
09262025
結論的に述べると、永井哲学における動的な循環構造化の運動として見た「累進構造」(当然そう見るべきだが)は、入不二哲学における「任意性」の運動に対応するポジションを占めている。
09252025
先にIdeiさんのコメントに関連して「任意の指差しによって到達不可能な特異性の目的地は特異性それ自体」「この特異性は現実性と言語の隔たりの運動それ自体なので現実性の力によっても減算/消去不可能」というテーゼが浮かびました。ここからさらに色々と考えられますが、「自ら以外のどこにも向かわない再帰性」としての再帰性からも逸脱する次元/場が焦点になると思います。
これはカントのアンチノミーにダイレクトに接続する問題でもありますね。第三アンチノミーだけではなく全てのアンチノミーに。
つまりその次元/場は、任意の「このこれ」すなわち任意の「現実性が作用した任意性」の場ではないということが決定的に枢要
任意の「このこれ」なら風間くん問題が発生してしまう。
つまり「このこれ」が転落した任意の「この私」にも風間くん問題が発生する。
この観点から見ると「再帰性」問題は永井哲学の「累進構造」問題になる。
ゼロ割についてはかつて書いたことがあるが、数学の操作の殆ど全ては「ゼロ0割」の回避にあると言えるな。つまり無限それ自体に直接対峙することの回避だ。
09212025
日本人哲学者の主要登場人物は道元、永井均、入不二基義、清水高志、大森荘蔵、清水将吾です。同様に枢要な位置を占めるのが、禅僧の澤木興道と物理学者の南部陽一郎です。南部陽一郎は哲学者としても最高の存在で、どの様な経路であの様な地平に到達したのか外部からはまったく理解できません
09202025
言い換えると「意」⇒「移」変換によって、入不二哲学全体を(それに対して対極的なポジションから見ると)より限定的/限局された方向へと「移行」させる効果がありますね。つまり「移」変換は入不二哲学の現状の/特定の方向性をさらに推し進める極限操作に相当します。(以上様々な重要論点を抽象して述べています。)
入不二哲学のAny-ness(任意性)の訳語による誤った連想をさせてしまう問題だが、いっそうのこと同音で「任移性」などのように新しい日本語の哲学用語として作っちゃば良いと思っている。「移」であればAny-nessの力としての働きや時間推移との関連性から「意」よりはAny-nessを少しは表現できるの→
「移」へのつまり「任移性」への変換が極限的な限局性をもたらすとは極めてパラドクシカルな事態だな。
Xで細かい議論をするつもりはないが、この移行は一種の最終的な踏み絵になるということ。簡単に言うと体系の最小限の二重性を完全に捨て去るかどうかの選択を迫る。
もちろんその立場で「移」への移行が入不二哲学と対極的な方向から見ると限局されたものになるというパラドクシカルな事態です。
ネタバレ的にはっきり言えば(笑)永井哲学の方向またはポジションから見て。または超越論哲学の極限化のポジションから見て。私自身はあえて両面性のポジションです。
現実性の力は定義上「現に出現している全てのもの/ことに現に副詞的に働いている力」なので当然そうなります。一見メタレベル的に見える言語行為を含めて。言語行為を含めて現に出現している全てのもの/こと自体の働きはそれとしてそのまま働くことには変わりはないとも言えます。
もちろんその立場で「移」への移行が入不二哲学と対極的な方向から見ると限局されたものになるというパラドクシカルな事態です。
ネタバレ的にはっきり言えば(笑)永井哲学の方向またはポジションから見て。または超越論哲学の極限化のポジションから見て。私自身はあえて両面性のポジションです。
言い換えると「意」⇒「移」変換によって、入不二哲学全体を(それに対して対極的なポジションから見ると)より限定的/限局された方向へと「移行」させる効果がありますね。つまり「移」変換は入不二哲学の現状の/特定の方向性をさらに推し進める極限操作に相当します。
「移」へのつまり「任移性」への変換が極限的な限局性をもたらすとは極めてパラドクシカルな事態だな。
Xで細かい議論をするつもりはないが、この移行は一種の最終的な踏み絵になるということ。簡単に言うと体系の最小限の二重性を完全に捨て去るかどうかの選択を迫る。
09192025
最先端物理学/量子重力理論の先端においても、「観測者の選択行為」が必須だというのは決定的なポイント。観測者は永続するということだ。「 ホログラフィ原理において、「空間無限遠方の境界領域」を「無限遠点=∞の近傍」と言い換える際、観測者による特定の座標系の選択が必須となります。」
09172025
苫米地英人も予てから言っているが、抽象化のコアは目標/ゴールである。ゴールが日常の地平線から離れれば離れるほど高度な抽象化になる。
09162025
私自身の記述記号では〈私/他人〉問題になる。
超越論的図式化機能による「人称カテゴリー」(および「時制カテゴリー」)の生成に先立つ、より基底的-根源的な次元/場の問題。哲学のみならず数学と物理学にとっても(仮にまたは自然に消去されるという形であっても)永続的に残存するであろう問題
09152025
メタフィジカルな事例として、永井均の哲学は、「我々の平板な世界」に矛盾が内在していることの「背理法による証明」を延々と続けていると言えます。
まさにこれをIdeiさんとテーマにしてやり取りしていたわけですが(内容は述べませんが)数学の決定的な定理証明の殆どは背理法ですね。そして極限操作ですがこの二つの根幹をメタ的に(つまりメタフィジカルに)あらためて問うことができないのはそれんやると現実の数学ができなくなるので自然ですよね。だからこそやる意味があるわけですが。
09122025
補足説明 既にアップした投稿などでも述べていますが、①永井哲学は受肉という唯一無二の事実を最初から説明不可能な絶対端緒にしている ②入不二哲学において論じられるであろう現実性と任意性の掛け合わせによる特異性(このこれ&特にこの私)の産出(から特定性)へといたる経路またはメカニズムによっても唯一無二の受肉の事実/特異点は説明不可能だと思われるということです。繰り返すなら、その不可能性は悪いことではなく、むしろ哲学/形而上学探究を生み出す〈永遠の原動力〉なのだということです。
これは私の予想ですがそれは別に悪いことではないと思いますね。先鋭な部類の仏教用語的に言えば「不可得」ですが。
09112025
はい。より正確に上記の入不二哲学解釈を言い換えれば、空集合という次元/場自体を成立または創出させるより基底的な次元/場として空性をポジションすると、それが任意性に極めて接近するということです。
09082025
「この問題を無視しておいて、哲学で他にやることがありうるとは信じられない」 確かにこの問題をスルーした「哲学」(科学ならともかく)は、そもそも何をやっているのか結局わからなくなるだろう。これを敢えて端折って言えば、「私/他人(他者)」の経験という事態の矛盾を孕んだ二重性と(その矛盾に対処する使命を課せられた)「時制」「人称」の同時生成への問いになる。科学ならともかくと言ったが、野村泰紀が取り組んでいる様な最先端物理学の問題にも深く関係する。(参考 野村泰紀『95%の宇宙』
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
ビジネス・起業に関すること。
生きている証を残せ
(2026-09-28 07:23:11)
写真俳句ブログ
イヌサフラン
(2026-09-28 17:50:10)
あなたのアバター自慢して!♪
韓国での食事(11月 12日)
(2025-11-15 02:35:31)
© Rakuten Group, Inc.
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: