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夕方a



*「塚本晋也、vitalそして/あるいはnietzsche=klossowskiの永遠回帰」
                  2005.2.14.      林 正憲

9.記憶喪失、記憶と意識、記憶と知覚、過去と現在、自己同一性の解体、表象の破壊・・・などに興味を持つ者は、vitalを観ることになるだろう。も
ちろん、浅野忠信の存在感やH・ア-ル・カオスによる柄本奈美のダンス、映像(細胞や工場)と音楽の組み合わせの創造性に興味を持つ者も、vitalを
観ることになるだろう。

8.どうして、記憶喪失はかくも多くの小説や映画の題材になるのだろう。ひとは記憶の喪失を恐れているのか。しかし同時にその恐怖に魅惑を感じているのか。その恐れと快楽は何に由来するのか。

7.記憶は「社会」における身元を保証する。アイデンティティはひとを安心させる。私はあなたのことを覚えているから、安心する。あなたは私のことを他のだれかとは混同しないから、安心する。

6.記憶は真と偽の識別を助けてくれる。ある正しい知識を学んだ。ある経験を正しいと判断している。従ってその記憶通りに事が運べば、私は安心である。

5.ゆえに記憶の喪失は欠落である。しかし、ひとは知っている。過剰な記憶もまた不安をもたらすことを。強迫的な記憶の反復が私たちを途方に暮れさせることを。

4.私は一枚の写真を見ている。彼女は頬杖をつき、こちらに微笑みかけている。そこは郊外の喫茶店であり、彼女の左手には窓がある。そこから夏らしい木々の緑が見えている。いや、私はその写真をもう見てはいない。それは記憶でしかない。彼女と離れている間、私の机の上に置かれたその写真。かつて余りにも長いことそれを見ていていたために、記憶が残っている。他のものに比べれば鮮明な。しかし今目の前にあるものに比べれば雲みたいな。
 間違いなく私は目を開けている。比較的明るい人工の光のもとで、私の瞳には様々なものが映っている。間違いなく私はそれらを見ていて、お望みならば一つひとつを説明することもできる。それはマティスの春の絵である、それはガウディのサグラダ・ファミリアである、それは家族の写真である・・・それは今現在ここにある。
 だが、記憶の力が強い時、私は狼狽する。今ここにおいて、私の知覚と記憶はどのような関係にあるのか。知覚を無に帰すほどの記憶の映像とともに私はどうすればよいのか。

3.ひとは記憶なしに愛せるのか。記憶なしに、アイデンティティの保証なしに、他者と共生できるのか。この「社会」の中で。

2.あるいはまた、人は記憶の過剰とともに、どうやって生きていくというのか。

1.博史(浅野忠信)は確かに記憶を取り戻しているのだろう。意識できるものであれ、身体的なものであれ。記号にできるものであれ、できないものであれ。自覚できるものであれ、できないものであれ。しかし、取り戻すが、収束はしない。「社会」のアイデンティティに向かって、ある認知された尺度に従って進歩するわけではない。だから、私たちは、なるほど愛の物語だと思いながらも、塚本晋也にだまされることもないだろう。ラストシーンが普通の意味でのハッピ-エンドを意味するなどとも決して思わないだろう。破綻と呼べる何かを期待した者は、失望する必要はないのだ。

0.記憶と知覚。過去の記憶と現在の意識。過去の映像と想像の映像。海辺の涼子も、首を絞める郁美も、細くしなやかな肉体の激しいダンスも、切り刻まれ解剖されていく死体も、雨の響きも、雨の静寂も、だれのものでもない映像と音も、だれかのものであるだろう映像と音も、全ては真実である。持続の長短は評価の対象とならず、ある真実は別の真実に取って代わられ、その交代や変幻に何の問題もない。「社会」が構築する空間座標が消失するのだから、位置も方向も崩落する。ダ・ヴィンチとなり、狂ったように、もちろんすでに狂っていて構わないのだが、激しく肉体をデッサンする。その肉体が生きたものであろうと、死者のものであろうと、そんな区別に何の意味があるのか。あるいくつかの特異点が明滅するだけではないか。記憶のものであれ、今ここにあるものであれ、想像のものであれ、いくつかのイマ-ジュである、それらが流れ、衝突し、増殖し、分裂し、笑い、泣き、叫び、ささやき、歌うのだ。「社会」から、自己同一性から解放された、まさにそれこそvital(生きているもの)ではないか。
 中心を持たず、常にすでにどこからでも始まる何か。何度も、何度でも、つまり永遠に回帰しながら、絶対的に再開するものたち。
 vitalを観たあと、私たちは永遠回帰とともに生きるだろう。強度の光の自在な動めきと分岐しつつ共存する音の反復とともに、「社会」と人生実験す
る。それは恐怖と創造の喜びに満ちた世界だろうが、そこに入るしかない。
 「博史はまだまだ生きなきゃなんないから」という涼子(柄本奈美)の最後のひと言は、ささやかだが確かな、そんな世界への肯定のことばなのだから。


三宅島の旅については、まとまった文章をいつか書かなければならないかもしれない。そのためにだけ、その時の4人が一同に会してもよいだろう。旅が決定的な何かをもたらすことはよくあるが、私にとっては、三宅島と就職直前のひと月のヨ-ロッパの旅がそれにあたる。移動、待機、地震、船、波、夜と朝、音楽、自転車、上々颱風、政治、対立、女、詩、監視、立ち入り禁止、登山、寒さ、疲労、食べること、画くこと、回復、笑い、踊り、強風、溶岩、崖、死を前にした生、バルバラ、骨折、渇き、哲学、欲望etc, つまり人生、とりわけ若き日の人生の全てがそこにあった。そこに凝縮されていた。ナイ-ブな言い方だが、われわれは自由だった。それは甘美な思い出というより、楽しい基準である。そしてもちろんnの美しい絵画。道元のものも見たい。(2005年02月26日 23時28分)

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差異と反復1 林 正憲2005.2.22.
私の修士論文が『差異と反復』だった。今手元にはない。どうして、どうやって論文が書けたのか、今となってはよくわからない。恥ずかしいぐらいわからないし、やり直してみたい気もする。だが、事実、書いたし、書きたかったのだ。それが正しいかどうか、あるいは今、『差異と反復』とともに何かを書くならばどう切り込んでいくか、あるいはまた離れて別のことを書くかどうかは別として、そしてまた別な問題なのだが、当時はとにかく他の選択は考えられなかった。だが、私は『差異と反復』の何がわかっていたのだろう。
もちろん「わかる」と言っても様々で、「わからない」も同様だ。「わかる」「わからない」とともにどう振る舞うかも。Deleuzeはそもそも「一冊の美しい本は外国語で書かれている」だとか「本は道具箱だ」「強度的な読みだ」などと、従来とは異なる書物との関わり方を提唱していたわけで、Godard同様、「わかる」「わからない」とは?と根底的な問いを突きつけてもいた。(2005年02月22日 00時39分)

差異と反復2
15年以上前、毎日、『差異と反復』の読書をどうやって論文にできるのか悩みながら机に向かっていた時だが、「あっ、わかった」と電気ショックのようにしびれたことがあった。しびれて、身体 でも魂でも実存でも何でも構わないのだが、その組成が変わってしまい、新しい光や色、あるいは音楽の中に入ってしまった。狂ってしまいそうなくらい楽しく、わけがわからないほど幸福で、「あっ、やばい」と思った。ありふれたアパートの部屋の中、古い机の上で、全てが反復を始めた。自分の名前も物の一般的な名称も聞かれれば答えられるし、外に出て普通に電車に乗ったり買い物したりもできただろう。だが、反復が始まってしまった。横浜か札幌か、今日はいつなのか、時間も場所もどうでもよくなった。そう、存在ではなく反復。全ては振動していた。全ては反復しながら、同じものではなかった。あるものと他のものとの違いが何か創造的な輝きや響きを示そうとする。その「あるもの」や「他のもの」はすでに複数だから、結局無数の(多数多様な、千の)差異のきらめきだけがある。そうすると、書物が壁となって反復する。煙草の煙が音楽として反復し、窓から差し込む光となって回帰してくる。表紙の黄色が灰色のカーペットの上を転がりながら反復し、あの少女の記憶と重なりながら、微笑みかける。電車の動きが反復し、二階のクーラーの音と出会い、ハイデッガー研究者が雪の白の中に倒れたイメージを呼び起こす。それはもうどうにも止まらない。レコードの針は間違いなく飛ぶし、空間の上下はその位置づけから自由になる。色々なものを区別してもよいが、区別はできない。こんなことではまともなことは考えられないと思いながら、笑いをこらえることはできず、論文を書くこともどうでもよくなってしまい、ただひたすらこの反復を肯定するだけ。全ての差異の反復は、等しく美しい・・・(2005年02月22日 00時43分)

差異と反復3
しかし/そして、その後、私は考えたのだろう。差異と反復に対する愛、ある意味、これを超えるものはない。私はこれを超えられない。これは甘美な終わりだ。だから、別なところに行くべきではないか。否定する必要はないが、それだけではない場所へと。もちろん決定的な答えなど見出すものではなく、問題を立て続け、『差異と反復』以後のエチカを模索しながら、何だか自分に合わないことをやってみたり、その反動に走ったり、・・・
 もう一つだけ。『差異と反復』の「と」は創造的で、われわれの思考を解放した。相も変わらず、日常では「●●が××を」や「△△対■■」が多く、息苦しい。たまに「と」を聞けば、二分法を支える論理構造を少しも疑わないものだったりする。確かに明日、カンプ・ノウでバルセロナとチェルシーは闘うだろう。どちら「が」どちら「に」勝つか、どちら「を」応援するか、両者のファンとしては、ファウストのように胸が引き裂かれそうだ。だが、バルサ「と」チェルシーがピッチで一つのボールをめぐって戯れるのだから・・・(2005年02月22日 00時50分)

***

*Deleuzeの強制運動に:Nagasawa Mamoru 2005.2.23.

もう二度と
あの作品に出会えないかもしれない
という事態を受け容れなければならない
苦痛
と同時に
あの作品よりも
もっと素晴らしい作品に
これから出会えるかもしれない
という期待
だが
私は
再び書くことのもたらす
苦痛を強いるつもりなどない
それがどれほどの苦痛を
日々の生活のただ中へと招き入れるのか
私には
想像することすらできない
今一度
日々の生活としてあり得る一切の平穏さが
砂のように崩れ去ってしまうようなことを
人は容易には
友と呼ばれる者に強いることはできない。
だがそれでも……。
強制運動は出来事として到来する
私の意志などとは無関係に


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