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ここでは、テーマ文1,2に対する応答記述が、「確かに~しかし」という典型的なフレーム内部で連続的に構成されており、テーマ文1に対する応答記述によっていったん提示された仮説に対する懐疑的な問題提起がテーマ文2に対する応答記述によってなされている。テーマ文1への応答記述は、「遺伝子レベルでの生きとし生けるものに係わること全ての解決」といった極端な表現だが、その意味内容を考えることは、この個人=記述主体自身にとっても不可能であろう。つまりこの記述は、それ自体としては判然とした意味内容を(おそらくは半永久的に)持ち得ない。
すなわち、この個人=記述主体にとって、また私たちにとっても、この記述がそれ自体としてどのような意味内容をもつのかは重要ではない。むしろここで重要なのは、「(しかし、)ほんとうにそうなるだろうか」という反語的表現である。すなわち、ここで語られているのは、この個人=記述主体がどこまで意識化(記述可能なものとしての対象化)し得ているかは別として、「(その内容は判然としないが)遺伝子レベルで生きとし生けるもの全てに係わることが解決するという観念に対して、私はかなり懐疑的である」ということである。そのことは、後続する「クローンの動物は早死しているし、所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述によってある程度裏付けられている。なお、ここでの「クローンの動物は早死している」という表現は、これもこの個人=記述主体がそれをどこまで意識化(記述可能なものとしての対象化)し得ているかは別として、「テロメアTelomere」といった言葉を通じて比較的よく知られている科学的知見を背景にしている。
それでは、「所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述をどのように読めばいいのか。この問いも、文脈生成過程の分析が、記述の意味内容の解釈を目的としないという方法論的立場からは的外れなものとなる。また、先の表現と同様に、その意味内容を明らかにすることは、この個人=記述主体にとっても、また私たちにとっても(おそらくは半永久的に)不可能である。また、この記述がそれ自体としてどのような意味内容をもつのかは重要ではない。もちろん、「人は神になれるかという哲学的な問題」が解決されることはこれからもない。またそもそも、この「哲学的な問題」自体の意味が、本当に理解されることはないだろう。
むしろ、この個人=記述主体によるテーマ文1,2に対する応答は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という、少なくてもこの個人=記述主体にとって、そして結局は私たちにとっても判然とした意味内容を持ち得ない記述または観念に対する懐疑を表現している。
それでは、この「懐疑」とはどういう事態なのか。少なくてもこの段階では無意識にとどまる状態において、テーマ文1,2が提起する問題に対する判断が保留されている。ここでの「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という観念は、「判然としたものになり得ない」という観念としての不完全性故に、少なくてもこの個人=記述主体によっては、そして結局はこの記述の分析主体である私たちにとっても、受容され得ず無意識にとどまる。言い換えれば、この(いわば括弧付の)「観念」は、この個人=記述主体あるいは記述の分析主体である私たちにとって、意識が映し出す観念として成立し得ていない。このことは、逆に言えば、この個人の、そして<我々自身の無意識>に、この観念が執拗にとどまり続けていることを示している。無意識とは、判然とした観念にはなり得ない何かである。
 ここで参照したいのは、先に見た、テーマ文1,2の応答記述の分岐を説明する一般的仮説である。先の記述では、分岐よりも連続性が目立っていた。その連続性は、根底的な文脈生成過程の効果と考えられる。そこで、先の一般的仮説を包括する、より根底的な以下の「仮説」を提起する。
[1].一般的仮説が説明するテーマ文1,2に対する応答記述の分岐は、より根底的な文脈生成過程の連続性の効果である。
[2].先の事例におけるテーマ文1,2に対する応答記述の連続性は、より根底的な文脈生成過程の連続性を表現している。
以下に、既述の一般的仮説を簡略化して示す。
(1).テーマ文1は、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」として肯定的に意識(応答)される傾向がある。
(2).テーマ文2は、「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」として否定的に意識(応答)される傾向がある。
(3).以上二つの主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程の分岐が、テーマ文1,2の応答記述の分岐に対応する。
ここで、先の事例を考慮しながら、上記「仮説」を一般的仮説に適用して更新すると、以下のようになる。
【更新された仮説】:「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」という応答記述は、根底的な文脈生成過程の連続性の効果であり、その連続性を表現している。
それでは、この「根底的な文脈生成過程の連続性」とはどういうものなのか。この問いは、これまでの分析において一貫して問われ続けてきたものだが、以下において、先の個人=記述主体によるテーマ文3への応答記述の分析によってさらに追究していきたい。
テーマ文3では、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが提示されていた。ここでテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為は、致死的な難病にとどまらず、例えば「攻撃性」といった曖昧な観念と関係付けられた遺伝的因子を持った子どもの予防をも目指すものとして想定されている。また、受精卵の選別・廃棄という行為は、遺伝子の改変という行為と同様に、これまで私たちが一般的仮説において仮定してきた「生存それ自体が健康であることへの希求あるいは欲望」と「個別的な属性の序列化への欲望」の両者を内包している。言い換えれば、この行為をテーマ化したテーマ文3への応答記述の分析によって、「生存それ自体が健康であることへの希求あるいは欲望に基づく遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者の文脈生成過程における連続性の分析を行うことができる。
テーマ文3に対する記述から、上記の「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者の文脈生成過程における連続性を次のように考えることができる。これら両者は、どちらも生命の序列化・選別操作という行為であるが、そのことへの認識の生成は、<我々自身の無意識>が作動するメカニズムによって予防的に排除されている。この予防的な排除のメカニズムが、既述の一般的仮説で示された「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」というテーマ文1,2の応答記述の分岐を生成する。この予防的排除のメカニズムが作動する無意識の領域こそが、既述の個人=記述主体の記述が位置するその都度の文脈の生成過程に関して最も根底的な文脈生成過程――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス=母胎的な文脈生成過程なのである。
しかし、テーマ文3によってテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人=記述主体は、同時に、無意識における予防的な排除のメカニズムが揺らいでいく過程に直面することになる。この揺らぎの過程が、同時に「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別操作であるという認識の生成過程となり得る。私たちは、この揺らぎの生成過程に、これまでの分析においても度々出会ってきた。根底的な文脈生成過程の連続性の効果に言及する先の【更新された仮説】は、この過程に対してこそ妥当する。
だが、これまでの多くの事例において見てきたように、この認識の生成過程は、執拗な予防的排除のメカニズムの抵抗に遭遇してきた。個人=記述主体が、自らの認識あるいは言葉の生成にたじろぐのはここである。そして、まさに先の「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述において――通常の用語で「葛藤」と表現される――先の認識の生成と予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の意識化(記述可能なものとしての対象化)という事態が表出されている。より単純化して言えば、「考えたくないと思っている」という形で意識化(記述可能なものとしての対象化)された判断保留の選択である。
本事例で意識化(記述可能なものとしての対象化)された、生命の序列化・選別操作に対する無意識の肯定的ファクターは、第二文の「変な子」という表現として表出されている。<我々自身の無意識>は、この「変な子」をいつもすでに胚胎しているのかもしれない。
以下、第十の想定事例の分析に移る。
まず、テーマ文1に対する「事前に防げるとしたら大変良いことだと思います」という記述から、これまでの事例においてもしばしば見られたように、難病の予防に関しては、遺伝子の改変に対してかなり肯定的であると言える。だが、それだけに、その直後に引き続く「弊害」や「恐怖」といった強度を持つ言葉によって――おそらくは「事前に防げるとしたら大変良いことだと思います」という直前の言葉によって表現された――自らの反応に対する強い「葛藤(アンビバレンス)」が無意識の内に表出されている。ここで「無意識の内に」という表現を使うのは、表出された葛藤が、意識化(記述可能なものとしての対象化)された命題としての遺伝子改変への肯定に対するものではなく、すでに肯定的な反応を示してしまった自分自身、すなわち「自らの反応」に対するものだからである。こうした「自己に内在する揺らぎ」は、これまでの事例においてもしばしば見られた。この事態をあえて一般化して言い換えれば、自己形成過程としての自分自身との対話は無意識の内に行われるということになる。
以上から理解できることだが、第一文と第二文をつないでいる「しかし」という接続詞は、単純な対立関係を示してはいない。「しかし」の直前の「大変良いことだと思います」は、「しかし」以下の記述によって単純に否定されるのではなく、いわば括弧に入れられた上で、強い懐疑に晒されている。だが、「しかし」以前の記述の文脈生成過程において、その記述が生成した文脈それ自体を覆すような認識はいまだ萌芽的な形においても生成していないし、先取り的に意識化(記述可能なものとしての対象化)されてもいない。他方、既述のように、自己との対話の過程はすでに始まっており、その過程が後に見る記述の生成につながっている。
これまでの事例で見られたテーマ文1,2の応答記述の肯定・否定の分岐が、ここではテーマ文1への応答記述において無意識の内に先取りされている。これまでの多くの事例では、テーマ文2への応答記述にいたってはじめて顕在化した葛藤が、すでにテーマ文1への応答記述において表出されている。その意味において、この応答記述が内包する<我々自身の無意識>は多層的であり密度が高い。言い換えれば、このテーマ文1への応答記述において、葛藤はすでにかなりの程度意識化(記述可能なものとしての対象化)されつつある。とはいえ、それはまだ何らかの文脈の一貫性を備えた批判的認識へと展開してはいない。
それでは、この場合想定され得る批判的認識とはどのようなものだろうか。それは例えば、上記の「弊害」が、子孫まで永続し得る種の改変レベルの事態であるという認識であろう。おそらく、この意味での認識は、ここではまだ生成してはいない。「人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる」という感情は、種の改変という事態を漠然と予想しているように見える。だが、先の個人は、その問題に自らを直面させてはいない。
先の個人が、「恐怖さえ感じる」という受動的なポジションにとどまっている以上、いまだこうした責任=応答可能性のポジションにないことは明らかである。そのような選択の場に立たされ、選択した後は――すなわち「原理的な無責任」あるいは「原理的な応答不可能性」が無意識の内に強いられてしまう構造の内部にすでに位置するのなら――もはや責任を取り得る地点への後戻りは不可能であり、既述の自己形成過程としての自分自身との対話は掘り崩されていくことになる。
 次に、テーマ文2に対する応答記述だが、まず、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが」という表現は、必ずしも予定された近未来のイメージをともなった現状肯定的な構えを表現しているのではなく、「将来そんな時代が来るかどうか」に関して、この私は何ら有効な決定権力を持ち得ないという(「この私」のレベルが意識化=記述可能なものとしての対象化されることのない)暗黙の前提を示している。この無意識の前提は、これまでのほとんどの事例において共有されていたといえよう。
ここでは、有効な決定権力の主体は、「誰かが、生きることを操作している」という表現の匿名の主語、すなわち「誰か」という言葉で示されている。もし<我々>が、「原理的な無責任」あるいは「原理的な応答不可能性」が無意識の内に強いられてしまう構造の内部にすでに位置するのだとすれば、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが」というこの個人の言葉を、我々が素朴に批判することはできない。それは我々にとって、文字通り困難なことである。
テーマ文1への応答記述においてある程度意識化された葛藤が、ここでは葛藤状態としての自らを超え出た普遍的な認識へと展開している。その認識は、「人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していること」や「いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である」という言葉によって表現されているが、この個人があらためてその認識の普遍性を吟味しているわけではない。
 次に、テーマ文3に対する応答記述だが、「前問で書いた通り」の「前問」は、単に直前のテーマ文2への応答記述[以下2とする]のみではなく、テーマ文1への応答記述[以下1とする]をも参照し指示している。つまりここには、1と2への二重のベクトルを持った参照・指示がなされている。1の対象化が、「遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じる」を導出し、2の対象化が「子孫のことは、放棄してもらいたい」を導出している。従って、この段階における対象化によっても、アンビバレントな二重性は残存しており、少なくても難病の予防に関しては、生命の選別操作というテーマに関わる普遍的な認識へと向かう文脈はいまだ生まれてるとはいえない。他方、「子孫のことは、放棄してもらいたい」という表現から、「弊害」が子孫まで永続する種の改変レベルの事態であるという認識の萌芽は生まれてきている。それだけに、本回答3によってこの個人における無意識の強い葛藤の存在が明らかにされたと言える。
だが、葛藤というレベルを超え出て、いつ二重のベクトルを総合する普遍的認識の創発という出来事が生じるのか、ここでそれを分析することは不可能である。
以下、第十一の想定事例の分析に移る。
テーマ文1に対する応答記述においても、難病予防への「期待」と「(生命に関わる)倫理観が問題」という両方向へと分岐した表現が見られる。しかし、直前の事例において見られたような無意識の葛藤(アンビバレンス)は、ここでは表出されてはいない。つまり、この表現の分岐は、必ずしもアンビバレンスに対応するものではない。むしろ、無意識の葛藤は、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化(記述の生成過程を経ること)によってあらかじめ回収されている。「手を付ける前に」という表現から、遺伝子改変に対する肯定的なベクトルの方がより強いように見える。だが、ここでは、「(生命に関わる)倫理観が問題」という言語化(記述の生成過程を経ること)によって、遺伝子改変に関わる判断は保留されている。また、「手を付ける前に」という表現が、「手を付けること」という遺伝子改変行為をどこまで前提としたものなのかは分からない。さらに、「手を付けること」の内実がどの程度意識化(記述可能なものとしての対象化)されているのか、具体的にイメージされているのかも不明である。
しかし、その具体的な(記述可能な)イメージがどのようなものであれ、テーマ文において提示された遺伝子改変行為に「手を付ける前に、(生命に関わる)倫理観の問題をはっきりさせたい」という明確な問題提起を行っている以上、この個人=記述主体によって「手を付けること」の内容までもが具体的に言語化されている必要はない。単にテーマ文で提示された程度において意識化(記述可能なものとしての対象化)されていれば十分である。ここで重要なことは、無意識の葛藤の言語化(記述の生成過程を経ること)によって、その葛藤が公共的に討議可能なテーマへと変換されるということである。これが、先に述べた言語化(記述の生成過程を経ること)によるあらかじめの回収という事態の意味である。
言い換えれば、「(生命に関わる)倫理観が問題」といった言葉を発明または発見すること(記述の生成過程を経ること)が、問題の社会的共有への通路を切り開くことになる。例えば、かつて「生命倫理(Bioethics)」という言葉が発明または発見されたときに生じた文脈生成の場面が類比的に想起される。以来、その是非は別として、「生命倫理(Bioethics)」という言語化による多様な事象の回収が生じることになった。そもそも、古いものから新しいものまで、「医学」や「心理学」、「バイオインフォマティクス (Bioinformatics:生体情報学)」等の学問・研究領域の名称は全てそうであるが、そういった言葉の発明または発見は、あらゆる事象の統御・操作・予測可能性の領野(記述可能性の空間)を切り開くということは今さら言うまでもない。
この個人=記述主体によって提起された問題は、例えば、「遺伝子の改変という行為は、一切の留保条件なしに却下されるのではなく、生命に関わる倫理観の問題(いわゆる生命倫理の問題)をクリアした厳しい拘束条件の枠組みにおいては遂行され得る」といった公共的な合意の生成過程における拘束条件の決定という問題として読み替え可能である。
この個人=記述主体の応答記述によって、「遺伝子改変は条件付で是認可能」という立場が任意の第三者にとっても意識化(記述可能なものとしての対象化)可能なものとなっている。その意味で、この応答記述は、これまで多くの事例で見られた無意識の葛藤を公共的な討議の対象とすることへと道を開いている。「(生命に関わる)倫理観の問題をはっきりさせたい」という欲求は、その欲求の実現を目指していく過程を通じて遺伝子改変という行為が是認されるにせよ却下されるにせよ、また是認や却下に関わる原理・原則や拘束条件がどのようなものになるにせよ、こうした討議を徹底して行うことによって充足される必要があるだろう。
次に、テーマ文2,3に対する応答記述に出会った者は、先の記述の一見クールな地平から、唐突な距離感を持った熱い記述の地平へと一挙に連れて来られたかのように感じるだろう。先の記述が公共的な討議への道(記述可能性の空間)を切り開いたのだとすれば、これらの記述は「主観的な強い懐疑の意識」へと後戻りしているかのように。
だが、もちろん後戻りという表現は適当ではない。むしろ、これら記述は、先の記述によって切り開かれた公共的な討議のシミュレーション(記述可能性の領野における先取り・模擬演習)であると言える。ここでの、「遺伝子操作は、どこまで許されるのか」という問いかけは極めて真剣な響きを持っている。言い換えれば、先の「遺伝子改変という行為が是認されるにせよ却下されるにせよ、また是認や却下に関わる原理・原則や拘束条件がどのようなものになるのか」という「生命に関わる倫理観の問題」をここで考えようとしている。もちろん、単純に「遺伝子改変は条件付で是認可能」という立場を取っているわけではない。
むしろ、それに引き続く「社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想」という言葉は、「技術的な可能性だけで話を進める」ことへの明らかな批判である。ここでの「話を進める」こととは、公共的な討議をあらかじめ回避したものとしてイメージされている。それは、先の事例における「誰かが、生きることを操作している」という表現の匿名の主語、すなわち「誰か」たちだけが決定するということである。このような風景は、私たちにとって見慣れたものではあるが。
以下、第十二の想定事例の分析に移る。
これまでの分析において明らかになった成果が、この最後の事例によって典型的な形で確認されている。まず、テーマ文1への応答記述においては、あえてコメントを付加する必要を感じられないまでに典型的な「新優生主義」的発想が表出されている。言うまでもなく、ここでの「健康で五体満足」という表現は、先の事例における「変な子」と鮮やかな対照をなしている。「副作用がなければ」という言葉は、あらゆる予測不可能なケースを含む技術的介入の「失敗」という意味での「副作用」によって「変な子」が生産されてしまう可能性に対する危惧や不安を表現している。
テーマ文1に対する応答記述からテーマ文2に対する応答記述へと移行する過程で、これまでに分析された文脈生成のメカニズムがいわば再現されている。
まず、本事例においても、「生存それ自体が健康であること(五体満足)への欲望に基づく遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望(障害防止以外の外見等の希望)に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」という応答記述は、根底的な文脈生成過程の連続性の効果であり、その連続性を表現している、という仮説が適用できる。すなわち、「生存それ自体が健康であることへの欲望に基づく遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者が、いずれも生命の序列化・選別という行為であることへの認識の生成は、<我々自身の無意識>において予防的に排除されており、この予防的な排除のメカニズムがテーマ文1,2の応答記述の分岐を生成する。
次に、テーマ文3に対する記述だが、この事例においても、これまでの多くの事例と同様に、この段階においてようやく先の認識の生成と予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の意識化(記述可能なものとしての対象化)という事態が浮上してくることになる。言い換えれば、このテーマ文3への応答記述において、無意識における予防的な排除のメカニズムが揺らぎの過程に入り込むが、ここにおいても、「生存それ自体が健康であることへの欲望に基づく遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別という行為であるという認識の生成は、執拗な予防的排除のメカニズムの<抵抗>に遭遇する。これまでの複数の事例においてと同様に、テーマ文3への応答記述が、本事例の「人間として非常に難しい話だと思います。道徳的に考えて難しい。ある意味悲しい話だと思う」のように、1,2への応答記述に対して文脈上の空隙を露呈させるかのような様相を見せるのは、むしろ認識の生成とそれに抵抗する予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の意識化(記述可能なものとしての対象化)という連続的な過程の表出として整合的に捉えることができる。


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