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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
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本論では、<生体政治工学的介入>という仮説的鍵概念を定義した上で、この鍵概念に関わるいくつかの分析テーマを考察しながら、科学技術基礎論及びメタ生命倫理学の有効な分析ツールとしてこの<生体政治工学的介入>という鍵概念を仕上げていくことを試みる。
ここで「仮説的(鍵概念)」とは、差し当たって、以後の本論の展開過程を通じて、この暫定的に設置された概念が、科学技術基礎論及びメタ生命倫理学の有効な分析ツールとしての<生体政治工学的介入>という鍵概念として仕上げられていくことが本論のこの端緒段階でプログラムされているということのみを意味する。本論すなわち概念形成のプログラムが成就されていない――それどころか実質的には開始してさえいない――記述のこの端緒段階において、「仮説的」という表現は上記以外の含意を有していない。
また、ここで「科学技術基礎論」とは、任意の「科学技術」と呼ばれるものが社会的に構築されていく文脈の生成過程を、<我々自身の無意識>という文脈生成を媒介するレベルを焦点化した記述行為=言説実践の分析論によって解明していく探究領域を意味する。さらに、「メタ生命倫理学」とは、上述の意味における「科学技術基礎論」と、従来「生命倫理学」と呼ばれ、現在なお生成過程の直中にある探究領域との、それぞれの文脈生成過程の接点領域において展開される記述行為=言説実践の分析論を意味する。
まず、生殖細胞系列[注1]をその端緒と位置づける形で規定された<人間の身体>――従ってこの意味における<人間の身体>という様式における社会的・歴史的構築性を内包する<人間の身体>には、生殖細胞系列・胎児及び出生後の生体が含まれる――に対する、超微細領域における遺伝子改変を含む<生体工学的介入>(bio-technological intervention) [注2]という操作を、そうした操作が内包する生体政治的効果(bio-political effect) に着目した上で、以下<生体政治工学的介入>(bio-politico-technological intervention)という略称で表記する。
ここでの<人間の身体>領域は、<生体政治工学的介入>という鍵概念の主要な分析ターゲットの一つとしての――言い換えれば遺伝子改変技術による介入をその核心的な可能性として含む技術的介入の多様な展開がそこへと位置づけられる社会的・歴史的文脈生成過程の変容に伴って、絶えずそれ自身と<非-人間の身体non-human body>領域との境界領域が決定不可能な様態で――これら領域相互の間で<識別不可能な>固有領域を内包しながら――変容するという性格を持っている。
また、<生体政治的効果>への着目により、上記<生体工学的介入>という事態が同時に<生体政治工学的介入>として読み替えられるが、この場合、<生体工学的介入>という事態は、その都度の多様な<生体政治>(Bio-politics)の文脈生成過程においてこの<生体政治>と不可分な生成的様態にある。言い換えれば、<生体工学的介入>は、つねにすでに<生体政治工学的介入>という事態としてその都度固有な文脈生成過程において生成する。以下において、この<生体政治工学的介入>に関わるいくつかのテーマを論じる。
*分析対象となる記述群[注3]:
「(生まれた子どもが)世の中に生を受けて生涯暮らすなら健康で暮らしてほしいと思う。医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う。延命方法により個人の尊厳(命に対する)を無視することにはならないのではないか。つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」
「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか。生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」
世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人
もいる。しかし、親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない。技術的なことを加えるよりその選択もありではないかと思う」
現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか。遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか。
子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子どもを「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子どもを「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子ども自身の人権は守られるか。
2に同じ。
そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか。いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか。
それができるとなると自分のよいところを更にのばした子どもを望むだろうか。それとも、まるで反対のあこがれの人物像にするだろうか。いずれにせよあまり自分と似ていない親子ということになる。うまくいかない時は自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる。
現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う。
子どもが健やかに成長することはすべての親の望みである。しかし、成長とともに難病などになってしまうと分かっているからといってその子の尊厳自体がなくなるものではない。生きることのすばらしさが別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない。
確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自身が持てることから発生する部分もあるとは思えるが、しかし、真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受けとめ、生きることのすばらしさを発見するところにあると思う。人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにあるのではないかと思う。
(空白)
遺伝子を変えることで、難病など、事前に防げるとしたら大変良いことだと思います。しかし、生命体の根元である遺伝子を操作して、その為の弊害は? 人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる。
多分、将来そんな時代が、来ると思いますが、生命の神秘、人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していることと同じである。いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である。
前問で書いた通り、遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じるが、人間はどこまで行っても人間である以上、子孫のことは、放棄してもらいたい。
染色体異常の難病など、遺伝による病気が治せればいいなという期待もあるけれど、生命に関わることなので、倫理観が問題。手を付ける前に、その問題をはっきりさせたい。
1で述べたように、技術的な可能性だけで話を進めると、クローンの領域にまで行ってしまう。SFの世界が現実になったら恐ろしい。人類滅亡への道を加速させてしまう。
遺伝子操作は、どこまで許されるのか。社会的・身体的弱者は、社会の邪魔者というイヤらしい発想が垣間見える。
1.<生体政治工学的介入>と予測可能性のデッドライン
その正当化可能性に関して分析対象となるテーゼ:
法的・制度的に難病予防という目的に限定されていたとしても、あるいはむしろ、法的・制度的に難病予防以外の目的が禁止または排除されているからこそ、それら法的コードの現実的な状況下における運用上、遺伝子改変等の<生体政治工学的介入>が難病予防という目的を逸脱する何らかの予測不可能な事態に遭遇する可能性をゼロにはできない。
ここでは、何らかの「予測不可能な事態」に遭遇する不可避的な可能性が主張されている。言い換えれば、予測不可能性の排除という任意の行為が不可避的に破綻するという意味における原理的な予測不可能性が主張されている。すなわち、先の主張においては、そういった事態はあってはならないにもかかわらず、それによって不可避的に生じてしまうという意味で<生体政治工学的介入>が批判的に焦点化されていると想定できる。
まず遺伝子改変等の<生体政治工学的介入>が、この<生体政治工学的介入>のフレームワークとして自らを正当化する(または単にそう自称する)法制度によって「難病予防」という目的に限定されているという事態が想定される。その上で、こうした法的・制度的レベルにおける難病予防以外の目的の「禁止」または「排除」という事態が、それら法的コードの現実的な状況下における運用上、むしろそういった目的を逸脱する何らかの予測不可能な事態を現実に誘発してしまう――あるいはそういった予測不可能な逸脱的事態の生成可能性を(より直裁に表現するなら任煮の意思決定=選択行為の主体の逸脱的行為への無意識の欲望を)むしろ強化する――という事態が想定されている。なお、ここで「無意識の欲望(をむしろ強化する)」と表現したが、これを言い換えれば、この想定された欲望の生成過程の文脈あるいはフレームワークとして、「難病予防」という目的に限定されている――それ以外の目的が禁止または排除されている――という様式で記述可能な(すなわち象徴的レベルにおける)対象化の可能性が想定されているということを意味する。もしこの象徴的レベルにおける文脈あるいはフレームワークの不在が露呈するなら――例えば「難病予防」という目的(=A)以外の非限定無限(判断)領域(=non A)が予測不可能な逸脱的事態の生成フィールドとして焦点化されるなら――ここでの「欲望(desire)」は、むしろ一切の象徴的レベルにおける文脈あるいはフレームワークに亀裂を穿ち究極的にはそれを空無化する「欲動(drive)」として生成することになる。
だとすれば逆に、予測可能な事態しか帰結し得ないような操作であれば正当化され得るという論理、あるいは、想定される任意の事態(帰結)に関して予測可能性がそれによって判定される何らかの基準が存在するような操作であれば正当化されるという論理は成立するだろうか。だが、こういった論理は、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進において解体する。
また、ここで予測の対象として、「単なる予測不可能な事態」と区別された「現実的な効果をもたらす事故accident」を想定した上で、現実的な状況下における予測可能性の基準――確率的な事故予測に基づく何らかの「運用規則(防御的事故対処操作のアルゴリズム)」という<現実性のフレームワーク>(及びその内部に位置づけ可能な「突発的事故」)――を構想しようとしても同様の結果に陥る。言い換えれば、任意の「失敗」あるいは「突発的事故」に対して、「安全弁(となり得る防御操作)」が確立されているという論理(いわゆる「フェイルセーフfail safe」)だが、<生体政治工学的介入>に関して現実的な効果をもたらす「突発的事故」を想定することは、単なる想定(仮想)の内部にとどまることになる。
ここで「運用規則」という<現実性のフレームワーク>と呼ばれているものは、この規則の内包を構成する可能的選択肢(防御的事故対処操作のアルゴリズムにおける任意のユニット)として想定される任意の意思決定=選択行為が、何らかの<現実的事象>として同定不可能な不確定状態にとどまり続ける――それら可能的意思決定=選択行為の仮想的な総体が、一切の象徴的レベルにおける文脈あるいはフレームワークにとって接近不可能な<現実=全体>を構成する――という原理的規定を有する。言い換えれば、この「運用規則」自体は、原理的に<現実性のフレームワーク>とはなり得ない。<現実性のフレームワーク>として措定された任意の「運用規則」は、<現実性のフレームワーク>として何らかの<規則のシステム=全体>であろうとする限り、この接近不可能であるはずの<現実=全体>との不可避的かつ内在的な関係に巻き込まれることになる。まさにそのことによって――この<規則のシステム=全体>が<現実=全体>であろうとする限り不可避的に自壊する他ない(あるいはつねにすでに自壊している)ことによって――この「運用規則」は<現実性のフレームワーク>としては不可避的に没落する。
さらに、同様の理由により、ここで述べられている任意の「失敗」あるいは「突発的事故」に対して、「安全弁(となり得る防御操作)」が確立されているという論理(いわゆる「フェイルセーフfail safe」)は、その論理の適用対象あるいは正当化の基準としての接近可能な<現実=全体>を原理的に持ち得ない。言い換えれば、この論理は、任意の<現実的事象>の制御能力を有する<現実性のフレームワーク>としての整合的な<規則のシステム>=アルゴリズムを構成し得ない。
上述のような、単なる想定(仮想)の内部では、これら両者(「単なる予測不可能な事態」と「現実的な効果をもたらす事故」)を弁別する境界線(基準)は存在しない。言い換えれば、先に想定された「単なる予測不可能な事態」は、ここでの「現実的な効果をもたらす事故」と原理的に弁別不可能であり、この「現実的な効果をもたらす事故」に関しても、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進が生じることになる。従って、<生体政治工学的介入>という操作に関して、想定される任意の事態(帰結)の予測可能性を保証する基準あるいは根拠は存在し得ない。
上記の「運用上」という表現に関して、さらに踏み込んで考える。まず、先のテーゼにおいて、「運用上、難病予防という目的に限定され得ない場合」として、以下のような事態が想定されていると考える。すなわち、<生体政治工学的介入>が、その現実的な遂行に関して、任意の許認可システムの管理=制御者の管理=制御下にある場合に、たとえ<生体政治工学的介入>という操作の現実的な遂行の許認可が法的・制度的に難病予防という目的に限定されていたとしても、あるいはむしろ、法的・制度的に難病予防以外の目的が禁止または排除されているからこそ、現実の管理=制御者の意思決定=選択行為において、難病予防という目的からの逸脱が現実に生じてしまうという可能性をゼロにはできないという事態である。
ここで、現実の管理=制御者として規定された者の意思決定=選択行為自体を管理=制御する何らかの基準あるいは根拠を問うならば、先ほどと同様に無限背進に陥ることになる。もちろん、とりあえずこうした無限背進の可能性を括弧に入れた上で、このような基準あるいは根拠は可能な限り解釈上の曖昧さを排除した「明確な基準」であるべきという主張が想定できる。また、こういった明確な基準なしには、無制限に(歯止めの無い事態として)「出生の予防」を目的とした<生体政治工学的介入>が許認可されてしまい、結果として「十分な正当性を欠いた」出生の予防という事態が増加してしまうのではないかという危惧があり得る。
さらに、必ずしも管理=制御者ではない任意の個々人の意思決定=選択行為に対しても、そこに恣意的な<生体政治工学的介入>の歯止め(禁止または排除)となる明確な基準が存在しなければ、「これにより、例えばささいな事で出産しない(遺伝子診断や遺伝子検査の結果を参照して出生予防を行う)親が増加してしまうのではないか」という危惧が考えられる。
だが、もしここで、「明確な基準」が何らかの歯止め――禁止または排除としての制限=実効的な限界領域の設定として――あるいはそのような機能を持つ何らかの法制度的なメカニズムと考えられているのなら、やはりこの基準は個々人の意思決定=選択行為にとって外部から「与えられる何か」として想定されている。
ここでの禁止または排除としての制限=実効的な限界領域の設定は、さしあたり、既述の欲望の弁証法という構造の内部にあるものとして位置づけられる。実効的な、すなわち通常の法的機能を有する限界領域の設定とは、法的レベルそれ自体の措定及びその維持――同時に象徴的レベルにおける任意の文脈あるいはフレームワークの設定行為――として、ベンヤミンの『暴力批判論』の枠組みを借りるなら、「法措定的暴力」または「神話的暴力」と呼ぶことができる――但しこれら両表現の含意相互の関係性を巡って要求されるより複雑な議論をここでは括弧に入れるならば。この<行為>のレベルは、任意の<私たち>にとって、つねにすでに何らかの法制度的なメカニズムとして実体化されて現象している。すなわち、それは個々人の意思決定=選択行為にとって外部から「与えられる何か」として現象する(または想定される)ことになる。しかし、既述の様に、例えば「難病予防」といった一定の制限=実効的な限界領域の設定行為は、禁止または排除の<規則のシステム=全体>の構成という「目的」達成に不可避的に失敗する。すなわち、この象徴化の「失敗」――<規則のシステム=全体>の自壊――は象徴化行為と同時につねにすでに生成している。言い換えれば、この「目的(=A)」が不可避的に自らの不可能性を内包している以上、この「目的(=A)」以外の非限定無限(判断)領域(=non A)が、<人間の身体>領域との間での<識別不可能な>固有領域をも逸脱する非限定無限(判断)領域(=non A)としての<非-人間の身体non-human body>領域の生成フィールドとして露呈することになる。
だとすると、この「明確な基準」さえ確立されれば、その基準の「許す領域の内部」あるいは「禁止する領域の外部」において例えば出生前の生命の選別操作を認めてもいいのかどうか、言い換えれば、その基準は出生前の生命の選別操作をある領域の内部において認めるものなのかという問題に関する判断は、ここでは保留される。
ここで「生命の選別操作」とは、(将来的に生まれてくる可能性がある者を含むものとして定義された)他者の生死という分岐を操作・決定すること(受精卵の廃棄等による出生の予防または安楽死等による延命の中止=死か出生の許容または延命の継続=生かの選択行為)を意味するものとする。この意思決定=選択行為においては、ある特定の状況下にある、または将来的にそういった状況下で存在し始める(生まれてくる)ことが予想される任意の他者を、その生死に関して操作・決定の対象とする主体が前提されている。
ここでの「将来的に生まれてくる可能性がある者」または「ある特定の状況下で存在し始める(生まれてくる)ことが予想される者」としての「(任意の)他者」は、その他者の生死を(遺伝子改変技術による介入を含む)操作・決定の対象とする任意の主体にとって、ドゥルーズ/ガタリが『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」(Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Editions de Minuit.1980.)で<人間の身体>の超越論的構成条件あるいは「主観性」の根源的マトリクス――「黒い穴」と「白い壁」を組み合わせて「動物の頭部」を<顔>として構成・配備する抽象機械――として論じた「顔性 Visageite」[アクセント記号付加]をその属性として持たないものとして現象する(想定される)。すなわち、この「(任意の)他者」は、「顔性」をマトリクスとした<他者性>の圏域に位置付けることができない――「顔」を持たない無頭の部分(非-全体)対象=Xとしての――時空間と象徴的フレームワークを逸脱した見知らぬ何かとして現象する(想定される)。言い換えれば、この「(任意の)他者」を操作・決定する可能性を持つ任意の<人間>すなわち<私たち>――言い換えれば《我々=人間》――にとって、この「(任意の)他者」は、<人間の身体>領域ではなく、むしろ既述の非限定無限(判断)領域(=non A)としての<非-人間の身体non-human body>領域において「顔性 Visageite」の発動を予め不断に挫折させる《見知らぬ何か(の塊)――あるいは物――としての(非-全体)対象=X》であり続ける。この《見知らぬ何か(の塊)――あるいは物――としての(非-全体)対象=X》は、それを操作・決定の対象とする(はずの)<私たち>/《我々=人間》の<人間の身体>領域への帰属の根拠を不可逆的に抹消し、その<人間の身体>領域の<非-人間の身体non-human body>領域への識別不可能な――つねにすでに起こってしまっている出来事として事後的に見出される他ない――移行あるいは自壊という事態を生成させることになる。
以後、他者の生死という分岐を操作・決定する思想と実践の総体を、この「生命の選別操作」という概念で略称する。
実際には、上記の「領域=X」の確定は、先に予測可能性を保証する基準及び「管理=制御者」の意思決定=選択行為に関して述べたように不可能なものにとどまる。
任意の個人においてこの判断が保留されている限り、またこうした「基準」自体をさらに思考していくことが回避されている限り、<生体政治工学的介入>に関わる意思決定=選択行為を行う個人について何らかの「価値観」を特定することはできない。
2. 意思決定=選択行為と「価値観」の同時生成過程の分析論:[この節はほぼCOE論文の一部と概ね共通内容なので単著以外の通常の論文には組み込まない:但し注はこの記述部分を含んだ投資番号とする]
次に、上記「価値観」との関わりにおける個人の意思決定=選択行為について規定してみたい。まず、個人の意思決定=選択行為は、個人の経験を通じて、その経験と不可分なものとして、その個人の「価値観」と同時に生成したという形で記述可能である。例えば、中絶という経験または意思決定=選択行為が、その個人――またはカップル(以下同様)――にとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または意思決定=選択行為によって、あるいはそれを通じて、その個人の価値観が何らかの様態において生成したと記述できる。つまりこの場合、意思決定=選択行為を導く「個人の価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、「個人の価値観」が何らかの様態において生成したと記述することができる。
すなわち、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を、個人が記述可能なものとして捉えたときに、その個人にとって「自らの価値観」が生成する。このとき、記述可能なものとして捉えられた個人の意思決定=選択行為は、同時にこの個人の価値観を表現する意思決定=選択行為として記述できる。
次に、「遺伝子診断の結果、今後子どもが生まれてくる場合治療不可能な遺伝子疾患がかなり高い確率で発症するという予測が提示されたので中絶をした」という特定の個人の経験を、その個人の価値観を表現する意思決定=選択行為として記述した上で、こうした現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人として規定された<私たち>がこの価値観を記述可能なものとして捉えるという事態を考える。
ここでの<私たち>は、任意の現実の意思決定=選択行為の主体ではない個人を、その現実の意思決定=選択行為が記述可能なものとして捉えられる――すなわち記述主体としての個人にとって生成する――場面としての現実の記述行為(あるいは言表行為)の遂行過程において、事後的に何らかの様式で記述可能な抽象的対象として捉えたものである。この意味で捉えられた抽象的対象としての任意の個人は、さらに抽象化されたレベルで、意味を持つ(とされる)――すなわちその効果として<意味するもの>の機能を持つ――記述行為(あるいは言表行為)一般の空虚な主体の位置を占めるものとしての<私たち>/《我々=人間》という様式において捉えられ記述される。
<私たち>がこの価値観を記述可能なものとして捉える(または捉えようとする)場合、この価値観は<私たち>にとっても了解可能なものとして、あるいは個人の多様な言葉を通じて何らかの共有された核を持ったものとして捉えられている。このとき<私たち>は、「遺伝子診断の結果、今後子どもが生まれてくる場合治療不可能な遺伝子疾患がかなり高い確率で発症するという予測が提示されたので中絶をした」という経験または行為を、自分自身の経験のように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。
ところで、こうした想定を何らかの共有された核としたときに現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>にとって記述可能なものとして生成する考え方の枠組み(framework)が、単に一般的なものとして記述された「個人の価値観」である。それは例えば、「治療不可能な遺伝子疾患を持った子どもを実際に産んだ後のあらゆる意味での苦悩を考えれば(想像すれば)、誰であれ一概に中絶を否定することはできない」といった記述が表現する価値観ということになる。
ここでの単に一般的なものとして記述された「個人の価値観」とは、任意の個人=記述主体が、上記で定義した<私たち>/《我々=人間》という、意味を持つ(とされる)――すなわちその効果として<意味するもの>の機能を持つ――記述行為(あるいは言表行為)一般の空虚な主体の位置を占める場合に、その記述行為(あるいは言表行為)の主体、すなわち<私たち>/《我々=人間》によって遂行される記述行為(あるいは言表行為)が取る(であろう)形式(form)あるいは枠組み(framework)を意味する。そのここでの事例が、記述行為(あるいは言表行為)の形式あるいは枠組みとしての「誰であれ一概に(…)を否定することはできない」である。また、本論のこの段階において記述行為(あるいは言表行為)の形式あるいは枠組みの内容(すなわち言表内容)が充当された事例が、「治療不可能な遺伝子疾患を持った子どもを実際に産んだ後のあらゆる意味での苦悩を考えれば、あるいは想像すれば、誰であれ一概に中絶を否定することはできない」である。
ここでのポイントは、この意味での「個人の価値観」は、先に見た、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を個人が記述したときに、その個人にとって生成する「自らの価値観」とは厳密に異なるということである。形式的なレベルで定義するなら、この意味での「個人の価値観」とは、「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という記述における「個人の価値観」である。また、上記記述における「私たち」とは、その都度焦点化される任意の現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>である。この「個々人がどのような価値観を持とうと、<私たち>はその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論理は、「個々人がどのような意思決定=選択行為――いわゆる自己決定――を行おうとも、<私たち>はその個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」という論理――いわゆる「自己決定権」を正当化する論理――と同じ位置を占めている。
「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない(誰であれ一概に個々人の――それが誰のどのようなものであれ――価値観を否定することはできない)」及び「個々人がどのような意思決定=選択行為――いわゆる自己決定――を行おうとも、<私たち>は――すなわち誰であれ――その個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」は、上記「誰であれ一概に(…)を否定することはできない」と同じ形式あるいは枠組みのレベルを占めている。しかし、これら両者は、「誰であれ一概に(…)を否定することはできない」という形式あるいは枠組みそれ自身の自己言及という特異な事態を示しているという点で特に注目に値する。すなわち、これら両者は、任意の現実の記述行為(あるいは言表行為)の遂行過程において充当される内容(すなわち言表内容)を欠いた空虚な記述行為(あるいは言表行為)という様態を取った形式あるいは枠組みである。この空虚な記述行為(あるいは言表行為)という様態を取った形式あるいは枠組みにおいて表出されているのは、任意の現実の記述行為(言表行為)の遂行過程が、この形式あるいは枠組み内部の<意味されるもの>――任意の価値内容あるいは価値尺度――の記述領域(=A)を逸脱する非限定無限(判断)領域(=non A)において未知の<何か=X>を生成するという事態を予め排除することを目指す<私たち>/《我々=人間》の無意識の欲望である。すなわち、この欲望は、それがどのような「途方も無い」価値観――価値内容あるいは価値尺度――であっても許容し包括する形式あるいは枠組みであることによって、むしろ何らかの特定の価値の枠組み内部にあらゆる記述行為(あるいは言表行為)を回収することを狙っている。だが、この象徴的レベルとしての形式あるいは枠組みの内部で活動する欲望は、それがどのような形式あるいは枠組みの自己言及という事態を表出するものであろうとも、任意の形式あるいは枠組みに亀裂を穿ちそれを空無化する「欲動」の生成フィールドである非限定無限(判断)領域においてこの欲動に対抗あるいは抵抗するというそれ自身にとって不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる。言い換えれば、この欲望は、つねにすでに起こってしまっている出来事として事後的に見出される他ない様態において、欲動の生成フィールドである非限定無限(判断)への移行――欲望としての自壊-死――という事態を強迫的に反復することになる。
ところで、上記の論理は、何ら特権的な自己正当化の力を持たない。さらに言い換えれば、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者として規定された<私たち>によるその現実の意思決定=選択行為の「価値付け(階層序列化)」と「価値相対主義的中立化」という操作=記述行為は、いずれもそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。
既述のように、任意の現実の意思決定=選択行為の「価値付け(階層序列化)」と「価値相対主義的中立化」という操作=記述行為は、それが空虚な記述行為(あるいは言表行為)という様態を取った形式あるいは枠組みである限り、何らかの特定の価値の枠組み内部へとあらゆる現実の記述行為(あるいは言表行為)を回収することを狙う<私たち>/《我々=人間》の無意識の欲望にその根拠を持っている。言い換えれば、この操作=記述行為は、任意の記述行為(あるいは言表行為)と――象徴的レベルとしての形式あるいは枠組みにとって接近不可能な――<現実=全体>との間の除去不可能な空隙=整合不可能な捩れを回収するという不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる。この操作=記述行為がそれ自身の正当化の根拠を持ち得ないのはこのためである。
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