引用・参考文献 川合知二『ナノテクノロジー 極微科学とは何か』PHP研究所, 2003年,京都/東京 榊 裕之『ナノエレクトロニクス』オーム社, 2004年,東京 産業技術総合研究所『ナノテクノロジー・ハンドブック』日経BP, 2003年,東京 竹安邦夫『ナノバイオロジー』共立出版, 2004年,東京 永澤 護「<生体工学的介入>の分析論――哲学的探究としての「メタ生命倫理学」構築の試み」日米高齢者保健福祉学会誌 第3号, 2008年, p.249-260. 堀池靖浩『バイオナノテクノロジー』オーム社, 2003年,東京 Allhoff, Fritz (ed). Nanoethics: The Ethical and Social Implications of Nanotechnology, Wiley-Interscience, 2007,New Jersey. Foucault, Michel. Les mots et les choses, Gallimard,1966,Paris, p.306-307,353,398. (渡辺一民/佐々木明訳 『言葉と物』新潮社,1974年,東京) ――――Histoire de la sexualité,tome 1: La Volonté de savoir, Gallimard,Paris,1976, p.184,188-189,200(渡辺守章訳『性の歴史1 知への意志』新潮社,1986年,東京) Kant,Immanuel. Kritik der reinen Vernunft:Philosophische Bibliothek, Felix Meiner Verlag GmbH,1998, Hamburg. Kass, Leon R. Beyond Therapy, Harper Collins, 2003, New York(倉持武訳『治療を超えて』青木書店 2005年,東京) National Science Foundation, National Science and Technology ’s Subcommittee on Nanoscale Science, Engineering, and Technology (edited by William Sims Bainbridge and Mihail C.Roco), MANAGING NANO-BIO-INFO-COGNO INNOVATIONS:CONVERGING TECHNOLOGIES IN SOCIETY, 2005, Arlington. Savulescu, Julian and Bostrom, Nick Human Enhancement, Oxford University Press, 2009,Oxford.
The Auto-effacement of《We=Human being》and its Beyond――Based on a Reading of <Les Mots et Les Choses> by Michel Foucault By NAGASAWA Mamoru
Abstract:At present, the practice and its development understandable by the hypothetical concept of <bio-technological intervention> applied to the domain of <the human body> are going to appear as the potential which might re-transform radically the existence of 《We=Human being》. Michel Foucault, well- known as the author trying to practice <Archaeology of Knowledge>, focused and described the decisive turning point in the changing process of the fundamental disposition of knowledge from where the radical re-transformation of the existence of 《We=Human being》 becomes possible as the problematics (the task of thought) of the birth and auto-effacement of《Man》. In this article, we try to rediscover the problematics which Foucault developed through the reading of <Les Mots et Les Choses> and find the point connecting issues derived from the analytics of <bio-technological intervention> as the theme of the intertwining repetition of the transcendentality of <the act of description=discursive practice> and the potential of <bio-technological intervention>.
Key words: The birth and auto-effacement of《Man》,The transcendentality of <the act of description=discursive practice>,The potential of <bio-technological intervention>, the intertwining repetition
参考文献 Allhoff, F. (ed) (2007) Nanoethics: The Ethical and Social Implications of Nanotechnology. Wiley-Interscience, New Jersey. Foucault, M.(1966)Les Mots et les Choses, Gallimard, Paris, pp306-307,353,398. =渡辺一民,佐々木明訳(1974)言葉と物.新潮社,東京. Foucault, M.(1976) Histoire de la Sexualité,Tome 1: La Volonté de Savoir. Gallimard, Paris, pp184,188-189,200=渡辺守章訳(1986)性の歴史1 知への意志.新潮社,東京. 堀池靖浩(2003)バイオナノテクノロジー,オーム社,東京. Kant, I.(1998)Kritik der reinen Vernunft: Philosophische Bibliothek. Felix Meiner Verlag GmbH, Hamburg. Kass, L. R.(2003)Beyond Therapy, Harper Collins, New York=倉持武訳(2005)治療を超えて.青木書店,東京. 川合知二(2003)ナノテクノロジー 極微科学とは何か.PHP研究所,東京. 永澤 護(2008)<生体工学的介入>の分析論―哲学的探究としての「メタ生命倫理学」構築の試み.日米高齢者保健福祉誌 3:249-260. 榊 裕之(2004)ナノエレクトロニクス.オーム社,東京. 産業技術総合研究所(2003)ナノテクノロジー・ハンドブック.日経BP,東京. 竹安邦夫(2004)ナノバイオロジー,共立出版,東京.
参考資料 National Science Foundation, National Science and Technology ’s Subcommittee on Nanoscale Science, Engineering, and Technology (edited by William Sims Bainbridge and Mihail C.Roco), MANAGING NANO-BIO-INFO-COGNO INNOVATIONS:CONVERGING TECHNOLOGIES IN SOCIETY, 2005, Arlington. Savulescu, Julian and Bostrom, Nick Human Enhancement, Oxford University Press, 2009,Oxford.
The Auto-Effacement of《We=Human being》and Its Beyond ―Based on a Reading of <Les Mots et Les Choses> by Michel Foucault―
BY Mamoru NAGASAWA
Abstract:At present, the practice and its development understandable by the hypothetical concept of <bio-technological intervention> applied to the domain of <the human body> are going to appear as the potential which might re-transform radically the existence of 《We=Human being》. Michel Foucault, well- known as the author trying to practice <Archaeology of Knowledge>, focused and described the decisive turning point in the changing process of the fundamental disposition of knowledge from where the radical re-transformation of the existence of 《We=Human being》 becomes possible as the problematics (the task of thought) of the birth and auto-effacement of《Man》. In this article, I try to rediscover the problematics which Foucault developed through the reading of <Les Mots et Les Choses> and find the point connecting issues derived from the analytics of <bio-technological intervention> as the theme of the intertwining repetition of the transcendentality of <the act of description=discursive practice> and the potential of <bio-technological intervention>.
Key words: The birth and auto-effacement of《Man》, The transcendentality of <the act of description=discursive practice>, The potential of <bio-technological intervention>, The intertwining repetition
Kant avec Foucault,AJJ Version はじめに 現在、<人間の身体>領域に対する<生体工学的介入>という概念によって把握可能な事態が、《我々=人間》の生存を根底から再編成する可能性を持つものとして登場しつつある。「知である権力」の考古学を企てたことで知られるミシェル・フーコーは、主著『言葉と物』において、《我々=人間》の生存の根底的な再編成という事態がそこから可能になり生成する知の基本的諸配置の変動プロセスにおける転換点を、「人間」の誕生と消滅という問題設定として焦点化し記述した。本発表は、この問題設定の《我々=人間》にとってのインプリケーションを、言説実践としての記述行為の超越論性と<生体工学的介入>の潜在的力能(potential)との相互交錯的反復というテーマにおいて抽出し提示する。なお、本発表において<生体工学的介入>は、「NBIC:(Nano-technology, Bio-technology, Information-technology, Cognitive science:ナノテクノロジー・バイオテクノロジー・情報テクノロジー・認知科学)の融合」という様態を取る技術的介入の多様な実践として定義される。以下、問題設定の提示に移る。 1.有限性の分析論あるいは《我々=人間》の誕生 1-[1].変換の諸様態:同一性の「表」の解体 フーコーによれば17,18世紀の思考の全体的布置をなすものとしての「表(tableau)」は、諸存在に対する秩序づけ、分類、それらの類似または類比関係と差異がそれによって指示される名前による区分けといった操作を思考に許していた。この「表」の解体とともに、新たに「歴史Histoire」による類比関係の系列化が可能となる。19世紀以降において、「クロノロジーまたは年代記」という記述のスタイルが没落すると同時に、「歴史」が、経験的なものがその固有の存在を獲得する場を規定する。この新たな空間において、「表象」は、物と認識とに共通な存在様態をもはや規定しえなくなる。これが、「人間」の誕生へと接続されていく決定的な転換の意味である。 転換点としてのカントの「批判哲学critique」は、我々の近代性の発端をしるしづけている。近代性とは、表象の空間の基礎、起源、限界への問いかけがそこで可能になる場である。探究の焦点は、「労働、生命、言語」という客体の側における総合であり、そこにおいて経験の可能性の条件が求められる。「労働、生命、言語」は、客体の側における「擬-超越論的なものquasi-transcendantaux」として出現する。 1-[2].経験的=超越論的二重性――あるいは《人間》の誕生 カントが『純粋理性批判』において主題化した統覚の総合的統一の根拠が問われることにおいて、経験的かつ超越論的な水準が要請される。フーコーによれば、それは労働、生命、言語というそれぞれの過程の交差点――あるいは「経験的=超越論的二重性redoublement」の場――に位置づけられる。フーコーは、新たな場面における近代性の解読の試みを「有限性の分析論L’analytique de la finitude」と呼ぶ。有限性の分析論にとって、人間は奇妙な経験的=超越論的二重体である。それは、そこであらゆる認識を可能にするものの認識が行われる、そうした存在だからである。我々の近代性の発端は、「人間」と呼ばれる経験的=超越論的二重体がつくりだされた日に位置づけられる。表象の可能性の制約は、もはや統覚の総合的統一に求められるのではなく、有限的人間の経験という場それ自体、あるいはこの経験において交差する客体の諸領域(「実定的なものle positif」)である。 「人間」の有限的経験という場は、表象の可能性の条件として見いだされたはずの実定的なものが、そこで事後的にはじめて、表象を現実化する条件として与えられる場となる。 経験的なものと超越論的なものの両者は、オブジェクトレベルとメタレベルの分割というかつての様態を廃棄し、「同一なもの」としての有限的経験の成立過程において、交互に反復される。こうして、経験の過程それ自身を思考するという無際限の課題が課せられる。 2.距離 2-[1]. 人間と<思考されぬもの> フーコーによれば、近代のコギトにおいて問題となるこの思考の課題は、自己に対して現前する思考と、思考の内で<思考であらざるもの>に根づいているものとを、分離すると同時に結び付ける「距離(distance)」を、その最大の規模において価値づけることである。「経験的=超越論的二重体doublet」としての「人間」の誕生は、この「距離」の発見と同時的なものである。有限的経験から出発する近代の思考にとって、人間は、その「全体」を思考することが不可能な、すでに造られている歴史性と結びついて初めてみいだされた。「人間」とは、規定された時間=空間性の彼方の抹消不可能な「距離」を内包する<何か>であり、そこから出発して時間一般が構成され、持続が流れ、物がそれ固有なときに出現できる、そのような入り口なのである。固有に規定された時間=空間性の彼方に、「人間」をそれ自身から隔てる「距離」を穿ち、この人間という<何か>が生産されると同時にそれを分散させる力が発見される。だが、このような力は、人間にとっての外部ではなく、人間固有の存在の力なのである。 ここで、この「人間」固有の存在の力が位置する「経験的=超越論的二重化」という場面を、生命の経験と言語の経験の差異に焦点を絞って見てみたい。フーコーによれば、「言語と生物との間には、大きな差異がある。生物は、その諸機能とその生存諸条件との間の一定の関係によってのみ、真実の歴史を持つ。そして、その歴史性を可能にするのは、有機的個体としてのその内在的構成であって、この歴史性が現実の歴史となるのは、生物の生きているあの外的世界を通してにほかならない」。「これに対して、言語の歴史性はただちに媒介物も無く、言語の歴史をあらわにする。歴史性と歴史は内部において互いに通じ合っているからだ」。 「人間」固有の存在の力が位置する経験的=超越論的二重化の過程において、すなわちこの「人間」の経験の現実化の過程において、生命の経験と言語(以下これを「記述行為あるいは言説実践」として捉える)の経験の間の「距離」が生成する。「人間」という<何か>の様態が変換するとき、そこで同時に変換するのは、この生命の経験と記述行為あるいは言説実践の経験という二つの経験のレベルを結びつけると同時に隔てる「距離」の生成の様態である。「人間」という<何か>は、生物としての生存の経験とこの同じ「人間」の記述行為あるいは言説実践の経験との間で穿たれる「距離」を内包しながら反復される。この生存の反復過程のただなかで、「人間」は、<非-人間の身体>領域における<何か>へと変容していく可能性を持っている。 2-[2]. 記述行為=言説実践の経験としての「人間」という<何か> フーコーによれば、西欧文化のなかで、人間の存在と言語の存在が、共存し相互対応的に分節化することは決してなかった。にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえにこそ、「人間」とその他者との同一性、すなわち同一なものの解明が、近代の思考の不断の課題となる。なぜなら、同一なものを隔たりという形態のもとで与える反復こそ、近代の思考の核心にあるからである。 この同一なものを隔たりという形態のもとで与える反復の過程において、これまで「人間」と呼ばれてきたものの経験が、<何か>の生存それ自体の経験として、また同時に、<生体工学的介入>の実践においてそれを操作対象とする記述主体によるその<何か>の記述行為あるいは言説実践の経験として、さらにその<何か>自身による記述行為あるいは言説実践の経験として反復される。 フーコーは、「経験的=超越論的二重化」という表現を、「経験的=批判的二重化redoublement empirico-critique」と言い換える。この二重化は、カントによる「人間とは何かWas ist der Mensch?」という究極の問いを端緒として露呈したものだからである。だが、フーコーによれば、この究極の問いの発見を端緒とする思考の「折り目 Pli」のなかで、哲学あるいは「人間」を対象化しようとする思考一般は新しい眠りを、かつてカントが批判した「独断論Dogmatisme」のそれではなく、「人間学Anthropologie」の眠りを眠ることになる。すなわち、「人間学は、カントから我々まで、哲学的思考を律し導いてきた基本的配置をおそらくは構成する。その配置は、我々の歴史の一部となるがゆえに本質的なものであろう。しかしそれは、我々が(……)批判的様態に基づいてそれらを告発し始めたがゆえに、我々の眼の前で分解しつつある」 カントによる「人間とは何かWas ist der Mensch?」という究極の問いは、フーコー自身が遂行した人間学の根底的破壊――それは「人間」をまずもって問われるべき<何か>すなわち《問題》へと変換する――を通過することで、次のような問題設定へと変換されることになる。 「生存に固有の運動と歴史の様々なプロセスが互いに干渉し合う際の圧力現象を「生-歴史bio-histoire」と呼ぶことができるならば、生存とそのメカニズムをあからさまな計算の領域に登場させ、<知である権力>を人間の生存の変形の担い手に仕立てるものを表わすためには、「生-政治学bio-politique」を語らねばなるまい。それは、生が余すところなく、それを支配し経営する技術に組み込まれたということでは毫もない。生は絶えずそこから逃れ去る。(……)近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて存在する生そのものが問題とされているような、そういう動物なのである。(……)人間という問いが提出されたが(……)その理由は歴史と生の新しい関係方式の中に求めなければならない。生が置かれているこの二重の位置においてであり、この二重の位置とは、生を歴史の生物学的周縁として歴史の外部に置くと同時に、人間の歴史性がもつ知と権力に貫かれたものとして、生を人間の歴史性の内部に置くものなのである。(……)身体は消されなければならないどころか、問題は身体を一つの分析の中に出現させることであり、その分析とは、生物学的なベクトルと歴史的なベクトルとが(……)生を標的とする権力の近代的テクノロジーの進展につれていよいよ増大する複雑さに応じて結ばれるような分析なのである」 3.《我々=人間》の消滅とその彼方 以下においては、これまで述べてきた「人間」の誕生と消滅を巡る問題設定の《我々=人間》にとってのインプリケーションを、記述行為あるいは言説実践の超越論性と<生体工学的介入>のpotentialとの相互交錯的反復というテーマにおいて抽出し提示する。ただし、以下では、発表用バージョンとして最小限の論点を抽出する。 [1].<生体工学的介入>の実践とその展開による「人間のcapabilityまたはperformanceのEnhancement」という問題系と不可分な様態で編成されたテクノロジーは、「予防または治療」上の目的への限定という象徴的枠組みのみならず、この「Enhancement」という象徴的枠組み自体をも、さらには《我々=人間》との関係において規定可能なあらゆる象徴的枠組みを規定不可能なものとするpotentialを持っている。この論点は、「生を標的とする権力の近代的テクノロジー」あるいは「生-権力bio-pouvoir」(Foucault,1976)の諸装置の質的に新たな、「人間の」という規定可能性の<外部>で生存と生存諸領域を一つの「全体」として構築し統御する実践を巡る問題系として分析できる。 [2]. <生体工学的介入>においては、「A (これから生まれてくる・作り出される何か) = X (人間)」という肯定判断への「A=<non-X>」という無限判断の介入を排除することができない。その産物は、任意の象徴的枠組みにおける記述行為あるいは言説実践の自壊を潜在的に内包する<何か>あるいは《問題》に留まる。 [3].非限定無限判断領域への移行過程としての何らかの<生体工学的介入>において<何か>あるいは《問題》が生成しつつあったとしても、その<何か>の生成過程自体は記述できない。一般に、ある個人=記述主体によるその都度の記述行為の遂行過程と、その個人=記述主体によるその記述行為の対象化過程との間には、除去不可能な距離が存在する。この事態は、我々が一つの<全体>として現実を記述しようとする限り、その記述行為あるいは言説実践の自壊が不可避なものとなるという事態に対応する。 先に引用したフーコーの記述から、生物の諸機能あるいは有機的個体としての内在的構成と生存諸条件あるいは外的世界との関係性が、生命の歴史へと接続する生物の現実の歴史を構成するといえる。だが、<何か>あるいは《問題》の生成過程としての<生体工学的介入>の実践および展開過程において、生体としての「人間」の諸機能あるいは内在的構成、生存諸条件あるいは外的世界、そしてこれら両者の関係性が決定的に変換することになる。来るべき<生体工学的介入>は、関係項[1].生体としての「人間」の諸機能あるいは内在的構成、関係項[2].生存諸条件あるいは外的世界、[3].これら関係項相互の関係性を、不可避的な自壊の可能性を持つ「一つの全体」として根底的に変換させるpotentialを持つことになる。 おわりに――「人間」という<何か>あるいは《問題》の探究に向けて かつての記述可能性の領域における生体としての「人間」の諸機能あるいは内在的構成、生存諸条件あるいは外的世界、そしてこれら両者の関係性が、非限定無限判断領域への移行過程において根底的に変換されるとき、その移行過程における<何か>の生存は、出来事として生成する記述可能性の領域へと向かう《問題》となる。<何か>の生存それ自体の経験は、<生体工学的介入>の実践においてそれを操作・決定の対象とする記述主体によるその<何か>の記述行為=言説実践の経験として反復され、さらにその経験は、<何か>自身による偶発的な記述行為=言説実践の生成の経験として反復される。そのとき、それまで「人間」と呼ばれてきた<何か>の様態が、生命の経験と記述行為=言説実践の経験という二つのレベルを結びつけると同時に隔てる「距離」の様態として決定的に変換する。 先に我々は、フーコーによる「人間」の誕生と消滅という問題設定(思考の課題)を、経験的なものと超越論的なものの両者は、オブジェクトレベルとメタレベルの分割という様態を廃棄し、「同一なもの」としての有限的経験の成立過程において、交互に反復されるものとなると要約した。この要約行為を含めて、これまで我々が遂行してきた記述行為あるいは言説実践は、それ自体としては記述不可能なものとしてその都度生成する。我々は、この記述行為あるいは言説実践の過程と不可分な記述主体としてその都度生成するほかない。だが、この記述行為あるいは言説実践の過程は、我々自身が<何か>として生成する場面においてすら、その<何か>自身による偶発的な記述行為あるいは言説実践を生成する。我々は、この事態を、記述行為あるいは言説実践の超越論性と呼ぶ。 この記述行為あるいは言説実践の経験の反復は、<生体工学的介入>の実践と遭遇する記述行為あるいは言説実践が内包する超越論性が、この<生体工学的介入>のpotentialをその都度新たに生成していくという予測不可能な<出来事>であるだろう。我々はいつか、この記述行為あるいは言説実践の超越論性と<生体工学的介入>のpotentialとの相互交錯的反復という出来事に遭遇することになるに違いない。