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神宮前




3.《問題提起・操作術》:《危機的迷宮》の造型
「躓きの石」は、我々にとって、心地よい装いで現れる。例えば、「傷つき、失われた自
分」を取り戻す癒しの旅といった装いである。その際、「我々をそこへと誘う者たち」の澄
み切った笑顔と屈託の無い声が我々を迎える。彼らは、「あなたが望むのは自由かそれとも
隷属か?」と我々の理性に問いかけ、「私たちに従えば、あなた方はついに自由を手に入れ
ることができる」と語る。彼らは、権威ある者として、「自由と(因果性への)隷属の二律
背反」を解決するただ一つの鍵を我々の眼の前に示すのである。
「躓きの石」とは、「私たちに従えば、あなた方はついに自由を手に入れることができる」
という、「自由と(因果性への)隷属の二律背反」を解決する「ただ一つの鍵」によって、
我々が逃れ難い迷宮へと閉じ込められることである。そこに「批判」と「抵抗」が組み込
まれなければ、この迷宮は、永遠に脱出不可能なものになる。
                 1
迷宮の入り口で我々を迎える彼らの表情と声は、ある特異な効果を生産するように組み
合わされている。つまり、我々と彼らとの最初の出会いが、「普段の生活からの決定的な別
れ」となるように。その際、我々は、彼らに対して戸惑いを隠すことができない。彼らの
表情と声は、我々の戸惑いを生産する装置である。
次いで我々は、彼らから、「今ここで、我々(つまりあなた方)に起こっていることは一
体何か?」と問いかけられる。そして、「今ここで、我々は自由なのか、それとも囚われの
身なのか?」と。我々は、自分自身についての問いに不意に直面する。むろん、「答」は見
つからない。我々は、自らの無力さを思い知らされる。この問いの「答」は、「空欄」であ
る。我々は、この「空欄」として、「欠けている、空虚な自分」を彼らから与えられる。そ
れは我々にとって、意外にも、新鮮でかけがえのない「自己の欠如/空虚さ」の経験なの
である。
だが、もし我々が、まさにこの欠如こそを追い求めるのだとしたら? 我々にこの「欠
けている自分」を与えたのは彼らであった。だとすれば、彼らこそが、「我々とは一体誰な
のか?」を教えてくれるに違いない。彼らこそが、この欠如の痛みを癒す「自己の〈真実〉」
を教えてくれるに違いない。我々を駆り立て、この〈真実〉をどこまでも追い求めるよう
に刺激し、興奮させることによって。
 だが、この「自己の〈真実〉」を彼らが我々に告げることはない。むしろ彼らは、我々が、
お互いにお互いの「真実を告げ合う」ように仕向ける。その方が刺激的であり、不安とな
い交ぜになった興奮に満ちているからだ。
その際彼らは、我々に対して、あくまで「無表情」に、お互いにお互いの印象(プラス
かマイナスか)を告げ合うようにと指示する。我々は、お互いに「選別」し合い、その結
果を受動的に受け入れる。だが、「なぜ相手は自分をそのように選別したのか?」の手掛か
りは一切得られない。「なぜ相手は自分を拒まなかったのか?」、あるいは「なぜ相手は自
分を拒んだのか?」という答えの無い問いが、お互いの心の中で何度も繰り返される。も
ちろん、こうした疑いと不安に満ちた「独白」自体が、彼らによってあらかじめ用意され
ている。それを、我々のそれぞれがお互いに投げかけ合う。結局、確かなことは何も無い
ことに我々は気づく。もしかしたら相手は、「あなたは私にとってマイナスだ」という言葉
を隠しているのかも知れない。しかし、結局のところ「本当の心の中」は分からない。こ
うして我々は、お互いに「何を考えているのかわからない人たち」になる。すなわち、こ
こで作動する「プラスかマイナスか」という選別の装置は、「他人にとってマイナスなのか
も知れないが、本当のところは分からない〈私〉」を生産する。「空欄」は「本当に」、「空
欄」だったのだ。このことこそ、我々は彼らから学ぶのである。
しかし、我々が同時に学ぶのは、「空欄」のままでは、我々は決して「生き延びれない」
というもう一つの「真実」である。「これが、本当の、切迫したあなた方の〈真実〉です。
お互いに何とかしなさい」という彼らの声が聞こえる。それは、限りない挑発であり、そ
れは我々の身体に刻み付けられる。我々にとって、この生き延びるための訓練は、我々の
身体を新たに造り上げて行く訓練となる。
では、お互いに何をすれば「何とかする」ことになるのか? そこで我々は、この訓練
に共に参加するに際して、お互いにある約束をする。すなわち、「我々が何を約束するにせ
よ、すべて生き延びる為に約束をする」という約束だ。約束違反は、生き延びれないこと、
すなわち死をもたらす。これが、我々に対する彼らからの要求である。
「生き延びるのか死ぬのか?」という対は、彼らによって、「〈勝ち〉か〈負け〉か」と
いう賭として我々の身体に植え付けられる。「生き延びることが出来るかどうかの〈賭〉」
という装置が、我々の身体を有機的に組織し始める。それは、決定的な瞬間だ。何故なら、
〈賭〉は、無数の多様かつ特異な身ぶりを、「その都度二項(例えばコインの表/裏)を対
立させ、それら二項をもう一組の二項(勝ち/負け、生/死)に一対一に対応させる装置」
へと組み込むことによって組織化し、《我々人間の身体》へと調教・造型していくのだから。
このように、〈賭〉は《我々人間》という習慣的状態(有機的身体)そのものの生成条件
ではないか? 〈賭〉は、二重の性格を持つと考えられる。一方では〈賭〉は、「生き延び
るのか死ぬのか?」という恐怖を植付ける場合のように、きわめて否定的なものになる。
他方、〈賭〉は、舞踏/遊戯としての《さいころ遊び》へと避け難く変容/移行していくも
のでもある。言い換えれば、《我々人間》は、賭とさいころ遊びとの《狭間》で生成するの
ではないか? だとすると、警戒しなければならないのは、この《狭間》における潜在的
なチャンスを閉ざし、可塑的な「散逸構造」でもある《我々人間》に内在する揺らぎを消
去してしまう装置だ。例えば?
我々は、互いに相手を「生き延びるに値する者」として選別することを強いられる。我々
は、その選別に抵抗できない。むしろ我々は、お互いに選別し合うことに、喜びを感じて
しまう。すなわち、お互いにお互いを、「もう一人の自分」として選び合うという喜びだ。
だが、「選び合う」という一見相互的な身ぶりは、それが「生き延びる」ことに根付いてい
る限り、常にすでに、相手の身体の所有と支配に関わる選別になる。
この身ぶりの展開において、〈男〉は、〈男〉の経験が到達できない〈女〉の身体の(快
楽の?)多様性と特異性を、その〈女〉の身体から剥奪する。その上で、その〈女〉の身
体を、自己の欲望の対象/所有物として選別する。逆に言えば、〈男〉は、自らの身体の多
様性と特異性を、自らの手で剥奪/抹消するのだ。
しかし、もし「人間が人間を所有し支配できるかぎり、生き延びようとすることで誰か
を殺してしまう」(安部公房 『死に急ぐ鯨たち』)のなら、《我々人間》とは、生き延びる
者とは、そして殺される誰かとは、一体〈誰〉なのか。
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「躓きの石」としての迷宮は、その「外」を持たないことが望ましい。彼らが望むのは、
「外」を失った逃げ場の無い時空であり、また、我々に対して、我々の生存の場をそうい
った時空に「見せかけること」である。もはや、「外」は無い――と言うことは、あたかも
まだ「外」が存在するかの様な身ぶりが絶えず攻撃されるということだ。それが、「見せか
けること」の内実である。我々によって「外」への不安と興奮が語られ、それが鮮やかで
あればあるほど、「外」に関わるすべての語りは、「権威ある者」としての彼らに対する〈告
白〉へと変換されるだろう。そして、「同じ仲間」である〈我々〉の間を循環する〈告白〉
へと変換されるだろう。そこにおいて我々は、しばしば、彼らによって禁止されるがゆえ
に触発・強化された「自由」や「性」への欲望の渦へと飲みこまれる。
だが、「外」にいる誰かの〈顔〉と〈声〉、そしてそれと結びついた〈風景〉の持つ力は、
我々にとって「不安」として経験される。この不安は、我々を閉じ込めている時空にとっ
て、致命的な亀裂になり得る。しかし、いつしかこの「外」は消えてしまっている。「外」
はすでに、この同じ閉じた時空の一つの「風景」になっていたのだ。もしそうなら、そこ
には、かつて我々が「他者」と呼んでいた者たちはいない。もはや〈我々〉しかいないの
だ。
 それでもまだ、その「風景」は、漠然とした不安を内在させているに違いない。その「風
景」は、かつて我々が生活していた時空から切り離され、広大な空虚の中を漂っている。
ついこの間まで親密な日常に属し、意味にあふれていたはずの「風景」は、いまや虚ろな
「声」と「顔」以外にはどんな顔も声も失っている。しかし、その空虚な時空から、微か
に〈外〉の力の残響が聞こえてくる……。
だが、もし我々がこの閉じた時空の中で生き延びようとするなら、この残響を断ち切る
必要がある。そのために、我々は「生き残り」を互いに争うそれぞれの「仲間」へと分割
される。生き残りを賭けた闘争が、今や、分割された「我々の間で」繰り広げられる。「外」
は、完全に忘却される。とにかく、急がなければならない。このことを理解しない我々へ
の攻撃が強化される。「早くしろ!」という声が常に我々の背後から響きわたり、我々に指
令を発し続ける「世間」という〈背後〉を形成する。このように、我々は、激しく〈せき
たてられる者〉である。
だが、他ならない我々によって、そのような脅迫的な関係は正当化される。一体なぜな
のか? むろん、その関係に恐怖が内在しているからだ。「正当化」とは、自己に対する避
け難い力の行使に対する「反動」であり、予測不可能な恐怖に対する屈服と隷属を含んで
いる。「さらにこの後何をされるのかさっぱり分からない(生き延びることが出来るのか…
…)」という恐れが我々を圧倒する。「通常の(過去の)時間」は断ち切られている。また、
空間的にも退路を断たれている。つまり、我々は、一切の逃げ場を奪われている(または
その様に教え込まれている)。「躓きの石」は、このような黙示録的時空として作動/現実
化する。そこでは、我々は、「一体お前たちはどこにいる?」という問いに全く答えること
ができない。「どこにいるのか分からない」のだ。
だが、まさにこの場面において、我々は「一体お前たちはどこにいる?」という問いに
執拗に晒される。このような解答不可能な「答」を執拗に強いることこそ、我々の不安と
恐怖を増幅させる最も効果的な時空の構成となる。こうして、「どこにいるのかさっぱり分
からない」場所からの「解放」への切迫した欲望が生み出されていく。この欲望の充足と
しての「解放」こそが、我々の「究極目標=救済」となる。
「どこにいるのか分からないこと」、これこそが我々に植え付けられた病である。「救済」
とは、この病への解答としての、「そこ」でこそ我々が「解放」される場所のことである。
すなわち、「そこ」へと脱出することだ。
だが、言うまでもなく、この場所が一体「どこ」なのか、明かされることは決してない。
ただ、彼らによって、そこへの「脱出経路」が指示されるだけである。つまり、「試練」あ
るいは「訓練」(修行?)と呼ばれる〈課題〉が指示されるだけなのである。よって、ここ
での「指示」は、単なる「暗示」と区別できない。この時空においては、一切が「脱出の
プロセス」であり、このプロセスにはいかなる「外」もない。つまり、彼らによって指示
される「脱出経路」の〈真理〉(「そこ」がどこなのかの「答」)は、我々にとっては、避
け難いその指示の遂行プロセスにおいてしか接近不可能だからである。すなわち、「そこ」
へは永遠に到達不可能だからだ。――永遠の試練/訓練。
このような指示/命令の絶対化は、我々の思考の麻痺を産み出していく。ここで、〈思考〉
と呼ばれるものを、『一切の限定された装置の作動速度を超え出る可能性を内在した唯一
の〈速度〉』と定義しよう。
ところで、彼らが我々に課すことは、大抵は、ごく単純なことである。例えば、日頃の
「ストレス」や「ムカツキ」を「全て吐き出す」まで思う存分叫び続ける、といった試練
/訓練である。それは、いつやってくるとも知れない「解放=救済」まで、「いつまでも」
続けなければならない。実際それは、彼らによっていつまでも引き延ばされる。むろん、
表向きはどうあれ、「我々自身がもう気の済むまで」というやり方は決して許されない。つ
まり、彼らによって、我々のあらゆる身ぶりの「速度が調整・統御されている」というこ
とだ。我々の叫びは、彼らの予測不可能な指示が出るときまで引き延ばされながらその速
度を調整・統御される。そして、「目的=終局」としての、彼らによって指示=暗示された
「救済/解放」を切望する。我々は「充当/備給(cathexis)」された「性的リビドー」の「解
放(除)/完全放出 (discharge/catharsis/abreaction)」を切望するように仕向けられる、
とも言えよう。
「救済/解放」と呼ばれるものは、ある固有な指示の系列が、〈思考〉という限界のない
速度を遅延=減速させ、その速度(の変化の度合い)を調整・統御することにおいて、同
時に調整・統御された我々の身ぶりの系列として分析可能になる。
「声」も、「表情」も、我々の身振りである。これらは、ついに訪れた救済/解放を表現
する「晴れ晴れとした声と表情」として、他の(調整・統御された)身ぶりと組み合わさ
れる。こうして組み合わされた〈我々〉のそれぞれのメンバーの身振りが、その都度新た
に産み出される装置となる。そして、その装置はさらに「同じ仲間内」の他のメンバーに
力を及ぼし、新たな複合装置を産み出していくのだ。
さて、「躓きの石」という装置を簡潔に言い換えるなら、それは、「我々に自分を責めさ
せる装置」だと言えるだろう。それは、「同じ仲間内」の他のメンバーの顔と声(その他
の身振り)を媒介にした徹底的な「自己否定」なのである。――“とにかくお前はそのま
まではだめだ、致命的な病気だ、このままではどうしょうもない、最悪だ、何も取り柄が
ない、お前がそこまでだめになったのはすべてだめなお前のせい(自分の責任)なんだか
ら、だから……変わらなきゃ、自分で自分を変えなきゃ(=否定しなきゃ)だめだ”とい
う絶えざる試練と訓練の要請である。「世間」、「共同体」、あるいは「(民主主義的)
国民国家」(同じ仲間内)の他のメンバーを一度に相手にして、私一人に一体何ができる
のか? これが、「批判」と「抵抗」を巡る我々の課題となる。
すでに述べたように、この「仲間」には外部/逃げ道がなく、最初に「仲間」を造り上
げたはずの彼らは、いつしか「我々みんな」の「合意の代理人」に姿を変えてしまってい
る。そもそも、「抵抗の拠点」があるのか無いのかまったく分からないし、そのことを考え
る余裕などない。「自分」を含む同じ仲間内のメンバーすべてが、お互いに「あなたは深刻
な病気にかかっている、検査結果は出ている」という診断を下し合う。むろん、その「検
査結果」の内容は誰も知らない。我々すべてが、お互いに「検査はした。結果も出ている。
しかしある事情があって、あなたにその内容を知らせるわけには行かない」と言い合うの
である。すなわち、我々すべてが、お互いにお互いを「検査結果」を決して知らされるこ
とのない永遠の「客体」として扱うのだ。
もちろん、我々が「あなたは検査の結果大丈夫だった、すなわち、(今のところ)あなた
は~ではない、従ってあなたは(今のところ)〈健康〉だと認定される」と言い合う場合に
も、ここで作動しているのは、同様の弁証法的装置である。つまり「否定の否定」であり、
意外にもその結果は「肯定」ではなく、相変わらず、終わり無き「自分を責めること」で
ある。
我々が、お互いに「検査者」と「検査の客体」の関係へと組み込まれるということ、こ
こにこそ「躓きの石」が存在する。我々は、お互いに「〈あなた〉はXかYのどちらかだ、
同時に〈私〉はXかYのどちらかだ」と言い合い、また「一体〈あなた〉はどちらなのか?」
という問いを執拗に投げかけ合う。だが、我々の一体誰が、このような閉じた時空の内部
で「正解=真実」を見つけられるだろうか? 一体どうやって? 
「同じ仲間内」の他のメンバーに「お前は病気だ!」と言われる〈私〉は、あらかじめ用
意され、メンバーが繰り返し浴びせかける言表における「私」に作り替えられてしまう。
例えば、『私は絶対変わってみせる! この私の「欠点」を、必ず直して見せる!』とい
うあらかじめ用意された言表を、他のすべてのメンバーの前で〈私〉は何度も繰り返すこ
とを強いられ、現実にそうすることになる。この絶え間無い、いつ終わるとも知れない反
復の結果、まさにこの〈私〉の言表行為が反復する『私は絶対変わってみせる!この私の
「欠点」を、必ず直して見せる!』という言表における「私」こそが、今ここでの〈私〉
(の真実)なのだということになる。〈私〉は、先に例示したような徹底的な自己否定の
言表を(「お前」を「私」に代えるだけで)そのまま反復する《言表の主語=私》(同時
にその言表における「私」)へと作り替えられてしまうのだ。――もっとも、彼らによれ
ば、この事態は、(言表へと隷属することによる)自己の「真実」の発見、つまり「自由」
なのだが。アンチノミーの「解決」である。
 〈告白〉と呼ばれる自己の「真実」の発見と吐露が、こうして《言表の主語=私》に作
り替えられた空虚な《言表行為の主体=私》の生産装置として機能していないかどうか? 
このような「問題提起・操作術」に従った分析が必要である。
                 3
これまで記述してきた装置は、いずれも『我々は自己の「真実」へと到る扉の向こう側
へとたどり着けるのか、それとも砂漠の中に遺棄されるのか?』という「賭」を我々の試
練として課していた。しかし、ある予感とともに、我々はふと気づくだろう。この「扉」
は、逃れ難い袋小路へと通じていると同時に、《我々人間》がそこから旅立っていく扉、か
つての旅の終わりの傍らに延びる《民衆の影》とどこかで通じているのではないかと。そ
れは、果ての無い調整・統御の装置を挫折させる何かの影である。すなわち、組織化され、
調整・統御の純然たる客体にされ続ける《我々人間》が、客体としての自らの生存を自ら
の手で解体した後で垣間見ることのできる何か……。
民衆、それは資本主義グローバル市場の時空/装置に組み込まれた〈我々〉にとっての
《危機的な、見知らぬ他者》である。その何かに出会う時と場所で、〈我々〉は自らの没
落を選択するだろう。すなわち、〈我々〉の没落とともに先駆けとしての民衆が生成する
時と場所で、その生成に出会う者たちのすべてが、この民衆への生成の渦へと巻き込まれ
ていく。「批判」と「抵抗」が「躓きの石」に組み込まれるとするなら、その時と場所に
おいてではないか?
しかし、あくまでこの「批判」と「抵抗」を回避しようとするなら、我々は、一人の例
外もなく、この「躓きの石」という時空/装置へと組み込まれなければならない。だとす
れば、あの民衆の影を見てしまった誰か、いつしかこの時空/装置から逃れ、旅立ってい
った「ここにいない誰か」の運命は一体どうなってしまうのか? 
「ここにいない誰か」を、「ここにいるみんな」との分かち難い関係において生産すると
ともに抹消する装置として、「黙示録的時空」が存在する。そこでは、我々すべてに、「義
務違反者抹消」という生存様式が植え付けられる。「ここにいない誰か」とは、この「義務
違反者」のことである。「ここにいるか/いないか」という究極の「賭」が課せられるので
ある。そこでは、絶えず次のような呼び声が聞こえるだろう。
「――最後の/究極のサバイバル・ウォーの渦の中で、あなたは一体、どこにいる?あな
た以外は、ミンナソロッテイルというのに。あなた以外は、一人の例外も無く……」 他
者と隔離された時空/装置の中で、我々のそれぞれが「一人の例外もなく」と言われた途
端、たとえそこでどんな超大量虐殺が強いられ、展開していようと、「ココニイルミンナ」
は、「ここにいること」の絶対性の経験のただなかへと飲み込まれてしまう。そして、そ
の眩暈のような経験を、「生き延びるための賭け」の時空へと変貌させていくのである。
「ここにいない」すべての〈顔〉、すべての〈風景〉の完全な抹消を賭けた黙示録的時空
へと……。
しかし、我々は、「ここにいるはずの仲間」の「顔」を、お互いに見ることはできないだ
ろう。「ここにいるのか/いないのか」というあの課せられた賭けも、我々の眼には見えな
い、避け難い偽装の影に隠れている。「ココニイルミンナ」は、常に既に、「ココニイナイ
ダレカ」に偽装可能であり、またいつしかそうなってしまっている。従って、誰一人とし
て「生存の保証」はないのである。一切が「戦争状態」であり、「最前線」になる。すなわ
ち、このサバイバルの「戦争状態」において、我々には、唯一の顔がひそかに用意されて
いるのだ。「終末=目的」という、沈黙の〈風景〉と永遠に一つの絆で結ばれた〈顔〉が…
…。我々は、「ハルマゲドンの夢」を夢見るのを、いつか止めることがあるのだろうか?
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フーコーは、「監禁の空間」の歴史的・質的変貌について、次のように語っている。
『……こうして、監禁の空間のただなかに、一つの空隙がうがたれる。狂気が、理性に
とって耐えがたいもの、還元不可能なものを含んでいる点において、狂気を分離抽出し、
それを告発する一つの空隙が。今や狂気は、監禁されている一切の諸形態からも区別され
る特色を持つものとして現われる。監禁施設の中での狂人たちの現存が不当なものとして、
ただし、他の形態にとって不当なものとして現われる。非理性という不明瞭な単一性がそ
こにおいて維持されていたあの大いなる包囲/包括性が、引き裂かれたのである。狂気は
個別化し、奇妙にも犯罪の双生児とされ、少なくとも、まだ問題にされていない一つの近
縁性によって犯罪と結びつけられたのだ。中身の一部に空隙がうがたれたこの監禁の中で、
これら二つの形象だけは存続する。これら二つだけが、監禁の中に存続し得る必然的なも
のを象徴する。すなわち、狂気と犯罪というこれら二つの形象こそが、以後監禁されるに
ふさわしいものとなるのである。』(フーコー 『狂気の歴史』 ガリマール版:1972で
p.422. 以下の引用頁数は、すべてガリマール版:1972による。)
フーコーによれば、18世紀の間に、「大多数の狂人が……彼ら特有の避難所を見い出
す」という「ひろく全ヨーロッパに実際観察されうる」現象が生まれる。言い換えれば、
「狂気を別個に扱い、かつて狂気がそのなかで雑然とごたまぜにされていた非理性に対し
て、狂気を自律的なものにし始める」(フーコー 前掲書 p.407.)過程が開始される。す
なわち、監禁の空間の中に一つの空隙、亀裂が生まれ、そこから〈狂気〉が、〈非理性〉の
広大なカオス/包囲網を破る自律的で個別化されたものとして浮上してくる。「非理性が
ますます単なる魅惑的な力となるのに対して、狂気は知覚の対象として定着する」(同上 
p.408.)。だが、ここで主役として登場してくるのは、実は「理性」である。
「……こうして理性は、非理性の中に入り込み始める。……無媒介的な統覚において把
握されていた非理性は、かつては理性にとって絶対的な差異、ただし、際限なく繰り返し
始められる同一性によって、それ自体として均一化される差異であった。ところが今や、
その差異の多様な相貌が表われ始めて、理性が再び自分を見い出し得る、もうほとんど自
分を認知し得る一つの領域を形造る」(同上 p.409.)
「理性が再び自分を見い出し得る、もうほとんど自分を認知し得る」にいたる、そのよ
うな過程において、かつての「非理性」の領域から、この〈狂気〉の自律化・個別化/分
離抽出にとって「余計なもの」が外部へとはじきとばされていく。この過程で、監禁の空
間は、〈犯罪〉(者たち)と〈狂気〉(の者たち)という二つの領域へと絞り込まれ、監禁の
空間は、これら二つの領域の不可分な接合体となる。やがてこの接合体は、「監獄」と「狂
人保護院(いわゆる「精神病院」)」へと純化/抽象されていく。監禁の空間とは、「理性」
の新たな眼差しに捉えられた、「義務違反者たち」の生産装置である。
ドゥルーズの『フーコー』(Minuit,1986)を参照するなら、これら「監獄」と「狂人保
護院」という二つの「内容の形式(forme de contenu)」には、「囚人たち」と「精神病患者」
という二つの「内容の実質(substance de contenu)」が対応することになる。また、この
「内容」のレベルと対になる「表現」のレベルとして、「刑法」と「(精神)医学」という
「表現の形式(forme d'expression)」と、それに対応する「言表の対象としての《非行/犯
罪行為》(《delinquance》)」と「(精神障害を表現する種々の)逸脱行為」という「表現
の実質(substance d'expression)」が存在する。そして、『表現の形式としての刑法が一つ
の発話可能性の領野(非行/犯罪行為の諸言表)を定義するように、内容の形式としての
監獄は一つの可視性の場を定義する(《一望監視方式》、つまり見られることなしに、絶え
ずすべてを見ることができるような場)』(『フーコー』p.55.)。
資本主義グローバル市場の黙示録的時空/装置において、《一望監視方式》という純粋機
能(同時に権力のカテゴリー)は、一体どのような変貌を遂げているのか。
フーコーによって、歴史的に限定されたものとして記述された「監禁の空間」は、今や
〈我々〉を資本主義グローバル市場へと連結する、「恒常的な連続性」を持った調整・統御
の装置として展開している。それは、〈我々〉を「永遠の因果性」へとつなぎ止める。同時
に〈我々〉は、一切に「終わり=目的」をもたらす黙示録的時空/装置へと組み込まれる。
そこでは、〈我々〉の「自由」が、ハルマゲドン最終戦争のただなかで生き延びるための〈賭〉となる。
しかし、これら両局面は、一つの包括的な時空/装置の作動プロセスに内包されているの
だ。すなわち、これら両局面の《狭間》において――それは、〈我々〉の「生活世界
(Lebenswelt)」であり、同時に「生活形式(Lebensform)」でもあると言っていいが――
〈我々〉は、「躓きの石」としての「自由と因果性のアンチノミー」と出会うのである。そ
こでは、〈我々〉の心身を標的にした「純粋な規律的機能」と「純粋な生体政治的調整・統
御機能」の高度な統合が要請され、現実に目指され、それぞれの達成水準において実現し
ている。
このような、〈我々〉の目の前に一見「究極のもの」として出現した危機的時空/装置の
無数の部分領域を貫く一義(的特)性を、一つの自己同一的な全体性においてではなく、
一つの包括的な多様体として考えてみよう。(「存在の一義性」を貫くスピノザ主義的方
法。) その時〈我々〉は、(その都度の電子的・微粒子的レベルを含む)任意の局地的レ
ベルの内側へと包み込まれ閉じられていると同時に、最も包括的なグローバル市場におい
て任意の局地的レベルへと相互に開かれ、接続してもいる、「超コントロールの時空多様
体」が、かつての「監禁の空間」に取って代わったという仮説に到達する。 この「超」
という接頭辞は、任意の局地的・極微小的レベルにおける無際限かつ多様なコントロール
(調整・統御)の増幅・強化を指示すると同時に、コントロールを超えた/コントロール
不可能なレベルをも指示している。つまり、任意の局地的・極微小的レベルにおける無際
限かつ多様なコントロールの増幅・強化が要請され、また、その様々な装置が現実に作動
すればするほど、コントロールを超えた/不可能なレベルもそれに応じて無際限に増殖し
ていくということだ。あえて単純に言えば、無際限のコントロールが、無際限のコントロ
ール不可能性をその都度新たに生産しているという状態である。それは、資本主義グロ―
バル市場における権力関係の内在的限界である。
任意の個別的な時空を包括し調整・統御するこの純粋機能/装置のレベルを、それぞれ
の限定された権力関係に即して分析・探求すること。これが、〈我々〉にとって、「批判」
と「抵抗」という作業の課題となる。
                  5
だが、次のような問いかけが生まれてくる。「批判」と「抵抗」と言うが、〈我々〉は、
一体「誰」の呼びかけに応えることを迫られているのか? 一体「誰」が、〈我々〉にそん
な作業を要請するのか? ――それは、「世界の歩みの犠牲者たち」である。そして〈我々〉
も、「世界の歩みの犠牲者たち」であることを免れ得ないのだ。
 『……指示的で情報を与える他者の言葉は、すべての者へと開かれたものとして世界を
分節する。だが、彼のあるいは彼女の言葉が呼びかける、いやおうのない力は、世界の歩
みを裁く。世界の歩みの犠牲者たちの涙、血、叫びは世界の歴史の道筋に異議を申し立て
る。このことが、ヘーゲルはかつてそう書いたのだが、世界のすべての事象を裁く切迫し
た法廷なのである。世界の歩みから切り離されたこれらの叫び声、すなわち、“私とは違う、
世界とは異なる”という他者の他者性は、世界へと向けられた訴えであり、世界の上に置
かれた異議申し立てである。
他者は私の面前での(before me)彼あるいは彼女の他者性において、私に訴えかけなが
ら、また私に異議を申し立てながら立ち現れる。他者とは、その面前で私が私自身を、世
界の歴史の歩みに対してあくまで責任を負わければならない者として見い出す者のことで
ある。』(アルフォンソ・リンギス 『見知らぬ身体』Alfonso Lingis, Foreign
Bodies, Routledge. 1994 p.174.)
「私の面前で」というリンギスの言葉には、リンギス自身が翻訳者であるレヴィナスの
『存在するとは別の仕方で、あるいは本質の彼方で(Otherwise than Being or Beyond
Essence)』、『全体性と無限(Totality and Infinity)』における「対面すること(Facing)」を
巡る議論が色濃く浸透している。だが、〈我々〉にとって――リンギスの議論は必ずしもそ
うなってはいないが――すでに安定した(例えば「性的に無差異」の)理論的母型として
の「対面すること」から出発することは、果たして可能だろうか? 「対面すること」は、
無数の転移と偏差を内包しながら、生成と消滅を繰り返すはずだ。そして、それこそが
〈我々〉の危機的生存という場面なのである。
この危機的生存という場面において、「性的差異」と呼ばれる――過程としての――転移
と偏差の運動を考えてみよう。〈我々〉にとって興味深いのは、この「性的差異」を括弧に
入れた「対面すること」を転移しつつ、「はすかいで、皮肉っぽくあいまいな性的差異の概
念(an oblique and ironically indeterminate notion of sexual difference)を導入し問題化
する」[エリザベス・グロス『空間 時間 倒錯』 (Elizabeth Grosz,
space, time, and perversion. Routledge. 1995 p.231)]デリダの次のような議論である。
『……発信する者の性は、他者による、あるいは他者からの決定を待ち受けている。恐
らく、私が誰であるのか――男なのか女なのか――を決める(であろう/はずの)者は他
者である。しかもこのことは、一度限りで/これを最後に決定されはしない。ある時は、
この様に、またある時は、違う仕方で決定されるだろう。さらにそれ以上のことがある。
もし、それぞれ異なる仕方で署名する多数の性(a multitude of sexes)が存在するなら(な
ぜなら恐らくは二つ以上の性が存在する)、私はこの性的多数/様性(this polysexuality)
を受け入れざるを得ない』
(デリダ 『他者の耳』 グロスの前掲書 p.231.における英訳の引用を転載。)
ここで求められているのは、強いられた「自由と因果性とのアンチノミ─」を迂回し、避
け難い「性的多数/様性」へと向かうことではないか? それは、「私が誰であるのか」
という「自己の決定」を、〈我々〉にとって「避け難い他者」へと委ねることであろう。
「性的差異」を括弧から解き放った「対面すること」は、こうして、無数の転移と偏差を
内包する生成と消滅の反復となる。それは、「永遠の調整/統御」と「黙示録的な/究極
の〈賭〉」との《狭間》における――批判と抵抗の反復としての――終わり無き闘争の過
程である。
グロスは、次のように述べている。
『……それぞれの性の、他の性に対して相関的で還元不可能な特殊/種別性が存在する。
少なくとも二つの、しかし必然的にそれだけではない、二つの性がある。つまり、人は各々
性的不確定性/あいまいさを、いつもとは異なる仕方で性的存在となる/性的存在にされ
るさまざまな可能性を生きているが、この各々の仕方の違いは、人が男性であるか女性で
あるかに依存しているのである。しかしこのことは、どのような仕方で人が男または女「で
ある」のかをあらかじめ決定するということではなく、単に、これら二つの性がどういう
仕方で生きられていようと、その間に[「単なる解剖学的・生物学的用語で…理解するべき
ではなく、恒常的な社会的変換過程(constant social transformation)の内にある」――グ
ロス 前掲書 p.230.の注からの補足]還元不可能な裂け目/断層があることを示唆してい
るに過ぎない。以上のような前提なしには、性的差異は、まさにデリダがハイデガーとレ
ヴィナスにおいて問題化するある種の性的中立状態(a sexual neutrality)へと瓦解する危
険がある。』(グロス前掲書 p.77.)
この「恒常的な社会的変換過程」は、先の「任意の個別的な時空を包括し調整・統御す
る純粋機能/装置のレベル」に相当する。常にすでに機能しているこの微細かつ柔軟な調
整・統御のもとで、「ある種の性的中立状態」が決定的に瓦解する――というよりむしろ、
常にすでに瓦解している。〈我々〉は、〈我々〉自身がそこから生まれ出る転移と偏差の運
動それ自体を抹消することなどできない。だが、この性的中立状態の瓦解という事態はい
つしか陰蔽され、それぞれの装置において生産された《自分の体》が、いつもと同じ〈顔〉
と〈風景〉とともに、〈我々〉へと与えられる。すなわち、〈我々〉は、さまざまな装置に
よって密かに強いられた《自分の体》へと、それを「中立的」なものと錯覚した上で、自
由に/自発的に隷属する。〈我々〉は、(当然にも?)〈我々〉自身に隷属するのである。こ
れが、「永遠の調整/統御」と「黙示録的な/究極の〈賭〉」との《狭間》で〈我々〉へと
与えられる、『自由と因果性とのアンチノミーの最終的解決』である。(注5)
試論3の冒頭において、「躓きの石」とは、「私たちに従えば、あなた方はついに自由を
手に入れることができる」という、アンチノミーを解決する「ただ一つの鍵」によって、
我々が逃れ難い迷宮へと閉じ込められることである、と仮に定義しておいた。もはや言う
までも無く、この「私たち」こそ、逃れ難い迷宮へと閉じ込められた〈我々〉の別名であ
る。我々を逃れ難い迷宮へと閉じ込めた「彼ら=私たち」とは、〈我々〉自身だったので
ある。〈我々〉が呼びかけられるとすれば、そして〈我々〉が応答し、呼びかける必要が
あるのは、この〈我々〉にとっての《危機的な、見知らぬ他者》である。それは、〈我々〉
にとって避け難い、《経験的・超越論的な他者》である。その何かに出会い、その呼びか
けに応える危機的な時と場所で、果てしなき実践としての「批判」と「抵抗」が「躓きの
石」に組み込まれる。
《危機的迷宮》(The critical Labyrinth)という「時と場所」――それは、この果てしな
き「批判」と「抵抗」の実践の過程なのである。
  【注】
(注1) Michel Foucault, Les mots et les choses. Gallimard,1966. p.335. 同書から
の引用及び参照箇所の頁数は、その都度、 p.…. の形で示す。
(注2)ここで仮説的に、言語記号(signe)の統一性との関わりで、この《図式》を考え
てみよう。記号作用(signification)の水準で見るならば、統覚の総合的統一というプロセ
スは、連合的次元として見られた構想力の形象化能力一般が、一定の連辞的構造へと自
己規定を受容し、規定された「時間・空間的線状性」を形成するにいたる、という事態
を含意し得る。まず内的発話(物理的音声を伴わない発話)がある時間系列を構成し、
従って一定の時間形式に対応していることが不可欠な条件となる。内的発話は、「表象と
しての感性的直観」(A124)として与えられるから、「一つの純粋な内的直観、すなわち時
間に従属する」(同上)。だが、これだけでは条件として十分ではない。内的発話が、イ
デアールな受容可能性を主体(sujet)にとって持たなければならないとすれば、それは一
つの形式(form)として与えられなければならない。つまり、「bara」という分節を持つこ
とが事後的に明らかになるはずの多様な内的触発が、同一の意味されるもの、つまり他
の「bara」ではないどんな花とも弁別され得る一つの花として意味されなければならな
い。従って、この言語記号の自己同一性、そしてこれら言語記号の連鎖としての内的発
話の可能性の制約として、時間系列の構成あるいは時間的線状性の成立のみならず、そ
の都度のそれら時間系列全体の対象化としての空間的線状性の成立が必要となる。そし
てこれら二つの線状性は、本来不可分なものとして主体にとっては「一つの連辞関係」
という形式において現象する。このように、記号作用一般をその自己同一性において措
定することにおいて、時間系列と空間系列の一対一対応としての内的・外的両触発の規
則的対応という事態の成立が含意されている。ここで、「自己触発」という超越論的統覚
の「働きAktus」が問題化される。「語る主体」は、この事態の固有な効果としてその都
度生産される。内的発話と外的発話との両者、さらには内的発話と文字表記との両者の
対称的な相互転換の可能性も以上の事態に基づいていると言える。
(注3)もっとも、根拠を求められる者――哲学者――として、彼もまた「心」の潜在的
な「力」としての「習慣」あるいは「想像力」を「経験及び類推によって」(cf.pp.18-25) 提
示することを忘れてはいない。だが、彼にとっては、その忘却が望ましかったかも知れな
い。
(注4) 対応/変換の「恒常的な規則性」という観点から「表現」を明確に捉えたのは、
ライプニッツである。(彼の「表現」概念については、『形而上学叙説』第9節、『モナド
ロジー』第14,56,59-63,78節、及び『観念とは何か』を参照)。彼以前の哲学、例えばデ
カルト、スピノザの体系における「因果性」の公理的位置付けにおいては、対応/変換の
恒常的な規則性はむしろ自明なものとして(あるいは潜在的なものとして)前提されていた
と言える。「因果律」は、彼らの「表現」という事態に対する了解という観点において把握
される必要がある。スピノザの『エチカ』第二部定理七「観念の秩序と連結は物の秩序と
連結と同一である」は、その証明において、第一部公理四「結果についての認識は原因の
認識に依存し、その原因の認識を含む」という、彼がデカルトから継承した公理としての
「因果律」によって根拠付けられることになる。デカルト以降、「表現するもの」と「表現
されるもの」との関係は、私(ego)に内在する観念(idea)と物(res)あるいは実体(substantia)
との「関係」として不可避的に思考(cogitatio)が介在することになったが、ライプニッツ
は、このcogitatioとしての「認識能力」を対応/変換操作の恒常的な規則性という問題圏
にまで展開した上で、なおその対応の根拠としての「神」を要請した。
(注5)この「中立的身体」という論点に関して、グロスは、『男性にとっての知の客体で
あるとともに自己否認された男性の身体性の代補としての「中立的な」身体という身分へ
の女性の還元(……)知/真理の生産における男性の脱身体化』を論じている。(グロス 前
掲書 p.38-39.を参照)

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