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miyake1

2004.11
時空連続体としての<シュレーバー症例>の内包量水準における
病態分析――カント『純粋理性批判』を導きの糸として

序論
 本論は、カント『純粋理性批判』における「内包量」に関する考察を理論的基礎とした<シュレーバー症例>の病態分析の方法論的フレームを論じる。その際、病態分析は、「時空連続体」としての<シュレーバー症例>の内包量水準における病態メカニズムの分析として位置づけられる。1では、カントの『純粋理性批判』(注1) における「内包量」の規定を基礎とした本論の理論的フレームが詳述される。さらに、この理論的フレームによって「統合失調症」の基本的メカニズムを規定する。2においては、1の理論的フレームを前提としながら、<シュレーバー症例>を「統合失調症」として位置づける。結論においては、「時空連続体」としての<シュレーバー症例>の内包量水準における病態メカニズムを統合失調症の生成メカニズムとして分析する上での方法論的視点を提起する。なお、本論の論述は、論の構成上、<シュレーバー症例>の病態分析の方法論的フレームについての考察がその主要部分となる。
1.時空連続体と内包量水準―予備的考察としての統合失調症の位置づけ(注2)
カントによれば、「内包量」とは、「ただ一つのものとしてのみ把握され、その否定=ゼロへと次第に近づいていくプロセスにおいてのみ、そのさまざまな大きさが思い描けるような量」(A168/B210)である。この「内包量」は、「感覚」と呼ばれるものの「強度」を規定する。カントによれば、「感覚」は、瞬間における触発において与えられる。すなわち、「ただ感覚だけを把握することは、ただ一瞬間だけを占める」(A167/B209) 。「内包量」として認識されるのは、この触発の「強度」である。ところで、カントによれば、全ての量は「連続量」である。つまり、連続性という性質を持つ。「量の連続性とは、そのどんな部分も最小ではあり得ないという性質のことである」(A169/B211)。よって、瞬間における触発は、ある<質>として相互に無際限に連続する強さを持つことになる。いわば触発は、量と質という無数の断片へと引き裂かれなければならない。この触発は、あくまでも瞬間における出来事である。だが、その「強さの認識」は、その都度の瞬間を超えた連続的なプロセスを前提する。ここに、深い裂け目がある。というのも、カントによれば、内包量の認識は、その都度の瞬間における触発から感覚が消え失せてしまう迄のあり得べき移行プロセスにおいてのみ生まれるとされているからである。言い換えれば、内包量の認識は、「感覚の欠如」(A167/B209)[「否定性=ゼロ」(A168/B209f,A175/B218,cf.A143/B182)]からその都度の《瞬間における触発》によって与えられる(はずの)この内包量への、そしてこの同じ内包量からその「消失=ゼロ」(A143/B183)への「あり得べき連続的な移行のプロセスにおいてのみ」把握され得る。つまり、例えば「この痛み」の強さは、「まさにこの痛み」が与えられるはずの瞬間に位置しない限りでのみ認識され得る。従って、『瞬間における触発という出来事はすべて、それが<何か他のもの>へと移りゆく限りで、「まさにこの感覚の認識になり得る』という公式が成立する。(注3)
 逆に言えば、この時間的な移行のプロセスを通じて<持続する何か>がなければ、いかなる瞬間においても、それがどのような感覚であれ、自明の安定性を備えた、「この私の感覚」として成立することはない。以上の事態は、「自己」がそれ自身の「統合を失っている」という事態としてとらえることができる。
例えば、ある特定の色彩の明度といった「印象の活気と程度」が連なる場、言い換えれば《瞬間における触発》という<出来事>が分散してしまうことなく、ある連続的プロセスへと包み込まれ得る場を、本論では「時空連続体」と呼ぶ。すなわち、例えば何らかの音、暑さ、痛み等(Xというもの)が成り立ち得る場である。この「時空連続体」は、その都度の《瞬間における触発》がその強度に関してまとめられ互いに結び付けられる(統合される)ことによって、<Xというもの>の一つの要素=連続量として「内包量」が位置づけられ得る場である。この<Xというもの>、例えば<痛みというもの>は、およそ可能な一切の<痛さ>、つまり今ここでの<まさにこの痛み>を含まなければならず、しかもそれは<痛み>以外の様相を持ってはならない。<痛みというもの>にとって、この<痛み>以外の「何だか分からない」様相は、「自己」の《裂け目》である。
カントのいう「超越論的図式」とは、この<Xというもの>を支えている時空連続体を、「ヘッケイタス(haeccaitas)」(注4)としての<まさにこのX>への変換の場としてその都度成立=生成させるものである。すなわち、「超越論的図式」によって、「まさにこの私」がその都度生成する。「自己」とは、「まさにこの私」がその都度生成する(生成し続ける)システムである。従って、「統合失調症」の生成メカニズムは、この「超越論的図式」による「自己」の生成メカニズムの分析によって理解可能になる。(注5)
さて、《超越論的図式》という「働き(Aktus)」との上記のような関係を組み込まれた《時空連続体》が、<持続的なもの>という装置である。次に、この《超越論的図式》に絞って論じる。カントによって「統覚の総合的統一」と呼ばれている働きの機能は、空間と時間とを結びつけることである。この空間と時間の結びつきは、「時間系列におけるさまざまな継起する部分」(A183/B226)に一体一に対応して空間系列のさまざまな部分が「同時にあること」(B225,257f)という事態の生成である。この連続的プロセスは、《時空連続体》に支えられることにおいて、それとの固有な関係を組み込まれている。この意味での時空連続体=<持続的なもの>とは、その都度空間と時間を結び付けることによって、この私の現実的経験を成立させる場の仕組みである。この<持続的なもの>は、その都度今ここでの<まさにこの痛み>の認識(まさにこの私の経験)を生み出していく連続的プロセスがそれに組み込まれ、そのプロセスとともにつねに「同時にあるもの」としての《時空連続体》であり、およそそこで生み出される一切の<痛み>(痛みというもの)を含み、それを支えるものである。このように、<Xというもの>と<まさにこのX>を結び付けている空間と時間の必然的な結びつきという形式は、この<持続的なもの>という装置にもとづいている。「我々の経験の形式」は、この<持続的なもの>という装置の形式である。それは、「自己」というシステムの統合形式である。
 そこで、この<持続的なもの>という装置を、「自己」の心身の、言い換えれば、この私のあらゆる思考と行動の<把握の装置>としてとらえる。例えば、私が<まさにこの手>を動かすことで線を引いたり数えたりする場合、私はこの動きに伴う特定の触発を一つの系列として感じている。言い換えれば、私はこの触発の継起を一つの持続=連続量として把握している。ところで、その都度の<まさにこのX>(Xには、例えば「手」が代入される)の動きに伴う触発がそれに組み込まれ、つねにそのXの動きと同時にあることが把握されている時空連続体は、《自分の体》と呼ばれる。《自分の体》とは、そう呼ばれる限り、そのあらゆる部分の動きがそれに組み込まれ、つねにその動きと同時にあることが把握されている装置である。この《自分の体》と呼ばれるものは、それ自体で成り立つものではなく、それ自身の把握の装置とその命運を共にしている。一つの極限を考えるなら、「自己」の心身の、あるいは「この私の」あらゆる思考と行動の<把握>が失われることになる。だが、この場面でさえ、「自己」という「システム間の連結が外れるだけで、オートポイエーシス自体は保たれる」(注6)といえる。
 例えば、誰かが手を上げて下ろす間にこの<把握>が失われ、しかもこの動作を絶えず反復しているとしよう。手を下ろした直後に「もうそのくらいにして休みませんか?」と何度声をかけてみても、彼は何気なく(自動的・常同的に)手を上げながら困惑の唸り声をあげる。やがてその動作を繰り返す余り倒れてしまうとしても、彼にはわけが分からない。このとき、彼の手の動きは、もはや「(彼の)<手の動き>」ではなくなっている。
以上の論述を前提に、以下において、<シュレーバー症例>の「統合失調症」としての位置づけを行う。
2.時空連続体としての<シュレーバー症例>の内包量水準における「統合失調症」としての位置づけ
本論は、<シュレーバー症例>を、上述の理論的フレームによって「統合失調症」として位置づける。<シュレーバー症例>は、DSM-4診断基準における「特徴的な徴候と症状」の「混在」とそれによる「障害」が継続しているという「徴候が存在する期間」、「社会的および職業的機能の重大な機能不全」等の基準AからFの「統合失調症の基本的特徴」を満たしていると考えられる。(注7) 以下においては、内包量水準においてとくに注目すべき(従って網羅的なものではなくごく少数に絞られる)シュレーバーの病態を示す症状を提示したい。なお、本論では、内包量水準の病態に焦点を絞るため、DSM-4診断基準によるいずれか一つの「病型」への鑑別は行わない(内包量水準のメカニズムから離れた鑑別に意味を認めていない)。
 花村誠一氏は、<シュレーバー症例>を次のように位置づけている。(注8)「1-3は構造の変形と行動の異常、つまり上方かつ右側へのシフトである。ここに属するのは、経過のある時期パラノイア性妄想を呈する症例である(中略)こちらでは、心的システムが身体システムを背景に押しやっている。そうであるがゆえに、行動の異常ばかりが目立つことになる。病識がないどころか、みずからの正常性を主張する。フロイト-ラカンによって解釈された症例シュレーバーもここに属する。彼の場合、急性錯乱や体感異常を経て、パラノイア性妄想に至る。つまり、両方の連結を回復することによって『回想録』の出版にこぎつけている(中略)改めて、シュレーバーを分裂病として把握し直す視点を確保しておく。第一に、要素的な基底症状から妄想や幻覚などの最終現象への移行がある(中略)第二に、拘束を要する行動異常から苦悶に満ちた体感異常への移行である(中略)機構としては、心的システムと身体システムとのデカップリングである(中略)第三に、精神病性の不可解さから妄想の形の虚構世界への移行がある。シュレーバーを襲ったのは、ある種の「超感覚的な事柄」であった」
 本論は、上述した理論的フレームにより、花村氏が上記引用文において<シュレーバー症例>を分裂病(統合失調症)として把握しなおす視点として提起した病態のうち、とくに「体感異常」および「緊張病性エレメント(強度的な常同性)」としての「行動異常」を抽出する。(注9)
A.「体感異常」
代表的な症状を示す記述は、「ほとんど完全な溶解状態に近い男根の軟弱化」(p.205) (注10)、「繰り返しズタズタにされたり消滅したりした食道と腸、さらに一度ならずほかの食物と一緒に一部分食べてしまったことのある喉頭」(p.209)、「自分の頭蓋が、幾度も幾度も繰り返し上下左右にいわば鋸で引くように細切れにされた」(p.211)である。「体感異常」は、「この私の感覚」の消失・変容として、既述の「自己」の《裂け目》としての「何だか分からない」様相、あるいは《自分の体》の崩壊・解体経験に相当する。
B.「行動異常」
代表的な症状は、発話としての「決まり文句」(p.183,etc)および「うなり声」(p.271,etc) の絶え間なく際限の無い反復である。こうした「行動異常」は、既述の<把握>の装置の機能消失・変容の現象的側面としてとらえることができる。
3.結論――統合失調症の生成メカニズムの分析への方法論的視点
序論で述べたように、本論の論述は、論の構成上、<シュレーバー症例>の病態分析の方法論的フレームそれ自体についての綿密な考察がその主要部分となった。その理由は、「時空連続体」としての<シュレーバー症例>の内包量水準における病態メカニズムそれ自体を統合失調症の生成メカニズムとして分析する作業は、本論で提起した理論的フレーム、すなわち時空連続体=<持続的なもの>としての思考と行動の<把握の装置>という視点と、「オートポイエーシス」の理論的フレームにおける「心的システムと身体システムとの(デ)カップリング」(『精神医学』p.188参照)等のテーマとの関わりに焦点を絞った論究という極めて困難な作業が新たに必要となるからである。また、<顔>の認識の消失または変容という統合失調症に固有と考えられる症状のメカニズムの分析も必要になると考えられる。今後の課題にしたい。
【注】
(注1)『純粋理性批判』からの引用・参照頁数は、1781年の初版=A版の頁数と
1787年の第二版=B版の頁数を、A…/B…の形で表記する。
(注2)1の論述は、「規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自
己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士
論文1987年)における理論的フレームを基礎にしている。
(注3) ここに示したアポリアを、ハイゼンベルクの「不確定性原理」の一つの系としてとらえることができる。すなわち、上記の「触発」を「エネルギー伝達」と解釈するなら、その伝達時刻=tと伝達量=Eとの「不確定性」の積Δt・ΔEはプランク定数=h の大きさ程度以下にはなり得ない。
(注4) ジル・ドゥルーズは、主著『差異と反復』において、「存在の一義性」を説くドゥンス・スコトゥスの「ヘッケイタス(haeccaitas)」を「強度(intensite)」として復権させている。また、『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年 pp.217-218を参照。
(注5)「超越論的図式」の機能を、花村誠一氏の「イコン論」、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」および斎藤環氏の『文脈病』における<顔>の議論を参照した上で、「イコン/内包量」水準における「顔=文字」の機能としてとらえることができる。この意味において、「超越論的図式」は、記憶痕跡としての文字(コンテクストとしての顔の記憶)と、この私にとっての意味するもの(シニフィアンとして反復される顔)をともに構成している。カントのいう「組み合わせ文字(Monogramm)」(A142/B181) としての図式は、こうした「顔=文字」として機能する。以上の論点に関して、花村誠一氏の「中核ないし解体型における分裂病的記号過程―魂の形而上学へのステップー」『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収、『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」(邦訳『千のプラトー』 河出書房新社 1994.原書Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Les Editions de Minuit.1980.)および斎藤環氏の『文脈病』における議論を参照。
(注6)『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年 p.231.
(注7) 「統合失調症の基本的特徴」、「病型」および基準D,E,Fにより除外される「他の精神病性障害」については、『DSM-4-TR精神疾患の診断・統計マニュアル新訂版』アメリカ精神医学会 医学書院 2004年 pp.293-333.を参照。
(注8)『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年 pp.197-198,218-211.
(注9)『精神医学』p.210,224.
(注10)以後、『シュレーバー回想録』(平凡社ライブラリー451,2002年) からの引用・参照頁数は、その都度引用符の後の括弧内に記す。
【参考文献】
『シュレーバー回想録』(平凡社ライブラリー451,2002年)
『精神医学』花村誠一・河本英夫他著 青土社1998年
『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編著 弘文堂1996年
「中核ないし解体型における分裂病的記号過程―魂の形而上学へのステップー」
花村誠一『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収
「カオス的精神分裂病観―自己と他者のダイナミックスを中心にして」
津田一郎『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収
『フロイト著作集9』フロイト著 人文書院 1983年
『オートポイエーシスー第三世代システム』河本英夫著 青土社1995年
『メタモルフォーゼ』河本英夫著 青土社2002年
Gilles Deleuze,Difference et repetition,puf,1968.『差異と反復』ジル・
ドゥルーズ著 河出書房新社 1992年
『エクリ2』ジャック・ラカン著 弘文堂1977年
『脳と意識の地形図』リタ・カーター著 原書房 2003年
『精神分析事典』ロラン・シェママ他編 弘文堂 2002年
『構造論的精神病理学』加藤敏著 弘文堂 1995年
『文脈病 ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』斎藤環著 青土社2001年
『精神の生態学(改訂第二版)』グレゴリー・ベイトソン 新思索社 2000年
『新版 精神医学事典』加藤正明他編 弘文堂 1993年
『DSM-4-TR精神疾患の診断・統計マニュアル 新訂版』アメリカ精神医学会
医学書院 2004年
『精神分析』十川幸司著 岩波書店 2003年
『生の欲動』作田啓一著 みすず書房 2003年
Michel Foucault .Volume 1 de Histoire de La Sexualite La Volonte de Savoir, Gallimard.1976.『性の歴史1 知への意志』ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社 1986年
「規則と経験-《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学学位論文 1987年)
Kant.Kritik der reinen Vernunft, Meiner, Hbg.
*「精神医学」・「精神療法」・「現代思想」等の雑誌掲載論文は省略した。また、フランス語表記のアクセント記号は省略した。


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