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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
4,1
個の可能性研究会ワークショップ2004 質疑応答
宮永:今4時5分過ぎですが、5時まで質疑応答と討論をして頂いて、それから2、3分お休みをとって、また続けていきます。それでは、後半を始めます。まず第一にどなたからどなたにでも構いませんので、事実確認あるいは字句についての確認をしたい、自分が本当に分かったかどうか確認をしたいと考える方の質問をとります。分科会に関しては分科会に出て頂いてじっくりお話をして頂きますので、まずは事例発表をなさった方に対して、確認の質問のある方どうぞ。どなたでも結構ですのでお願い致します。はい、辰田さん。
辰田:辰田と申します。村中さんに質問があるのですが、『会社の中のニート的存在』という大変面白い視点での発表興味深く聞かせて頂きました。私が確認したいのは、ニートと呼ばれる人が個人主義と集団主義のはざまにいるというところなんですけれども、その状況を説明して頂きたいと思います。よろしくお願いします。
宮永:字句の確認ですので、辰田さん自身はどういうふうに理解しているのですか。真ん中にいるというのを一言で言ったら。
辰田:理解しにくかったので、質問させて頂いたのですが。
宮永:では村中さん一言で定義するとしたら、このニートという人は何主義者ですか。集団主義でも個人主義でもないのですよね、、、、、ニート主義(笑)
村中:いえ、主義未満の人、ということですね。
宮永:主義未満主義。
村中:主義ではないですね。どういうことかというと、先ほどの会社の事例で言いますと、4、5年前の新入社員というのは、ウィルがあるというか、勘違いも含めてこういうことをやりたいという人が多かったのですね。今もいるのですが。割合はだんだん減ってきているように思います。この会社におけるニート的存在というのは、自分がどうしたいかという自分の気持ちが自分の中に埋め込まれてしまっていて外から見えないのですね。今までだったら本当はこういうことをやりたいのだろというのが、表現が稚拙、あるいは会社流の表現ができないので表現できなかった。あるいは仕事ができない、技術がないということで表せなかったのを先輩が手ほどきしていく内に、その人の内なるウィルや適性を見い出していったわけです。今は自分もないので、自分が埋め込まれているのでトラブルか何かがあって比喩でいうとぼきっと折れたときにその断面に、この人の個性が露呈されるということ以外には忙しくて外から見ても分からない。集団主義、個人主義というのは先ほどの定義ですけども、集団主義は、自分のアイデンティティが確保されるときに集団のアイデンティティに一致した状態でないと、どうも落ち着かない、精神的な安定が得られないという人たちだし、個人主義者というのは、集団のアイデンティティと自己のアイデンティティが別に一致するしないというのは、関係ない、関係なく自分の精神的安定を得られるという人たちであると整理しております。そういうものからいうと、そこまで踏み出していない存在として、ニート及び会社におけるニート的存在というのをそのように私は把握しています。
辰田:大変分かりやすく、有難うございます。
宮永:分かりやすいですか。私は全然わからないです。(笑)
辰田:主義未満というところで理解しました。
宮永:そうです?ではまた後で展開したいと思います。はい、どうぞ高崎さん。
高崎:すみません。島添さんのご発表で、「シマの成員は」という言葉が何回かでてきたのですけれども、そのときの「成員」というのは、データベースを共有してアイデンティティを得ている成員というのは、どのくらいの割合というか、子供から大人まで例えば学校ですとかそういうところで、共有しているものなのか、それとももうちょっと上の世代なのか、どのくらいの範囲か教えて頂ければ。
島添:はい、この場合には学校を卒業した成人です。なので子供は含まれません。伝統的には学校を卒業した、と言った場合には尋常小学校を卒業したということなので、大体14、5歳ですか、そのあたりから上は80でも90でもそうなのですが、その範囲になります。
宮永:今の質問は範囲ですか。それとも15歳か18歳か、それ以上の人は全員が成員というかこのシマウタを知っているわけですか。全員ですか、100%?
島添:その中で、約、、、、これ何人といった記憶がないのですが、半数以上は当てはまるというふうに考えております。
高崎:すいません。時間をとってしまって申し訳ないのですが、私の質問が悪かったのだと思います。例えば( )という社会で、調査をなさったわけですよね。尋常小学校を卒業と先ほどおっしゃいましたけれども、ここでおっしゃっている成員というのは尋常小学校を卒業するような歳の人たちということですか。つまり、ここで言われている「シマ」というのが、現代今そこにあるシマなのかと思ってずっと聞いていました。例えば今10歳とか15歳の子供たちがどのくらい知っているのかなという単純な質問だったのですけれど。すみません。
島添:すみません。現在の学校を卒業した世代の人間は、ほとんど歌を歌わない世代なので、この場合にはほとんど当てはまらないというか、入らないのですが強いて言えば社会に出て働き始めてから、というふうに考えていいと思います。
高崎:有難うございました。
宮永:今の質問、今の答えでよろしいですか。
高崎:つまり、そのシマで社会に出て働いているような人は、ここでいう「シマの成員」に当てはまると。データベースとして共有することでシマの人間としてのアイデンティティを得ている方たちだと思ってよろしいのですよね。
島添:はい。
宮永:それが大体半分くらいですか。
島添:世代によって割合が違いますが、半分くらいだと私は認識しております。
宮永:はい、分かりました。この辺りは、大きな問題というか、テーマがあるみたいですよね。隠れていますね。はい、面白い質問でした。はい、どうぞ、どなたでも。
永澤:はい、事実確認とか言葉の定義をめぐる質問に限定していると思うので、二人いるのですけど、まず村中さんですが、確認なのですがニートの定義そのものは玄田先生のものをそのまま使っていると。それでいいですよね。
村中:そうですね、カタカナでニートとして玄田先生は書いています。
永澤:分かりました。私は不勉強で読んでなかったのですが、この場合の病気というのはどういうものなのか。要するに引きこもりというのはなんら病気には関係ないというか、引きこもりとの区別で病気ということをさっきおっしゃったのですが、社会的引きこもりというのは、当然精神病とか精神疾患に起因するものではない、状態を名付けているだけなので、それだけとってみるとこの定義は、年齢制限を外せば全く差異は見い出せないのです。二番目の質問なのですが病気について特にコメントがあるかということです。この玄田先生の著書の中に。
宮永:永澤さん、ご存じですか。全然ない?では村中さんお願いします。
永澤:いや、読んでいませんのですみません。今すぐ出ないのでしたら、後から結構です。その上でお聞きしたいのが、この定義をそのまま採用していらっしゃるんでしたら、ニート的存在という村中さんの定義が、宮永先生もそうだと思うのですが、どうしても分からないのです。その違いが分からないのです。もしここでそう簡単に定義が出ないのでしたら、討議の方に時間もありませんので移っても良いのですけど、何かコメントがあったらというのが一つです。
宮永:村中さん、お願いします。
村中:はい、論文のメインテーマの一つのところで今日はあえて割愛したところを鋭く突かれてしまったんですけれども。まずイギリスのNEETの定義と玄田先生のカタカナのニートの定義が異なっています。イギリスの方はより定量的でして、生活保護、不登校、病気、失業などを含め、教育も就業も訓練も受けていない状況にある16歳から18歳の人々のことを指しています。これは、毎年出ていますbridging the gapという内閣府という、日本でいうと労働省のような、そこから出ているレポート。これはイギリスのガウ゛ァメントのウェブサイトからpdfファイルで無料でダウンロードできます。毎年統計がとられています。玄田先生のカタカナのニートというのは、えー、、、これ質問されたら答えなくちゃいけないのですか。次の論文のネタが出てしまうのですが。
宮永:別に構わないですよ。今の質問は字句の確認ですよね、あるいは概念の、定義の問題ですよね。
永澤:定義の問題ですね。「ニート的存在」という。
宮永:では、論を展開しないで定義だけお願い致します。
村中:失礼しました。ではニート的存在について、最初に頂いた質問と絡んでくると思うのですが、ニートというのを先ほど個人主義者と個人主義者に見える個人主義的行動、それから集団主義者と集団主義的に周りから見える行動に分けてマトリックスにして、いろいろな組織と個人との絡みについてパターン化してみましたというものを、去年の私の論文で出したのです。そのマトリックスの中に、例えば集団の中にいながら集団のアイデンティティに自分を合わせる必要はないと感じている人、では何故集団の中にいるかというとそれは得だからです。会社にいるときには福利厚生があるとか、社宅が都心にあって非常にいいですとか、経済合理的に考えたときに集団の中にいる自分を選択するという個人主義者もいますし、集団の中にはいられないという自己の効用の問題で、集団の中に帰属していることが効用が減ると考えれば、集団から離脱するわけです。今までは集団主義的な行動というものと、集団主義者であるというアイデンティティの問題は切り離されずにごっちゃになって、さらにまた倫理的にどっちがいいのだと独りよがりなのがいいのか、和を大切にするのがいいのかというような自分の好みの、評者の好みの倫理的な問題もごっちゃになって集団主義、個人主義が論じられていたので、それを分けて去年は考えてみたのです。ただ自分の中で本意じゃなかったのは、分けたことによってちょっと(せいがく的?)になってしまいまして、こういうパターンの人がいるととられてしまう誤解があった。別に集団主義的な行動をとる、個人主義的な行動とる、というのは経済合理的な行動の一部のその時々の表出にすぎないので流動的なのです。話を戻しますとそういったマトリックスで見たときに、ニートというのは、外からはどうも個人主義的な行動に見える、だけれども本人は個人主義者なのか、集団主義者なのかというとそういった二項対立では捉えられない存在だということで、ニートが自分の整理の中では分かってきたと思っていたときに、では集団の中に集団主義的な行動を選択しているけれども、どうもしっくり来ていないような人や、しっくりきているかしっくりしていないかさえ分からない人もいるだろう。そういう人たちを見ると、丁度ニートと鏡合わせのような存在というものが浮かび上がるので、軸で線対称になる存在なので、そういう人たちを会社の中にいるニート的存在として定義しています。
病気については、玄田先生の著書では、明確な定義はないですね。これはイギリスの方が病気も含むと言っているので、それに対応して病気は含まないとただ宣言しているだけなので労働省の白書などの定義とかを、今手元にないのですが見てみるともう少しはっきりとした解答ができるのではないかと思います。
永澤:はい、ある程度分かりました。フリーターとかそういったものも含めてかなり広範な対象を連続的にマッピングすると、概念としては、コンセプトとしてニートとニート的存在をあまり区別せずに、今言ったニート的存在というもので捉えていくというのは非常に有効で分かったと思います。あと個別の事例はケースバイケースで会社に就職することすらできずにいるという狭義のニートみたいなものとか引きこもりとかいろいろあると思います。時間がないのでここで終わります。
あと萩原さんに一つだけなのですけど〈security〉と〈safety〉というのは定義がなかったと思うのですが、区別してどういうふうに定義されるのかということをお願いします。
宮永:はい、ではお願いします。
萩原:これは、今日は残念ながら武者小路先生がいらっしゃらないのですが、武者小路先生が〈human security〉と言う場合には、今までの国際関係論における軍事的、あるいは政治的な安全保障だけではなくて、当該地域の共同体の人々が安心して生活できるような、極度の不安に陥ることなくアイデンティティ・クライシスの問題に対して積極的に取り組める、そういうようなあり方ですね。そういったものも含めて〈human security〉というふうに定義されているわけです。もともとこの〈security〉という言葉は語源に遡っても、今申し上げたような意味があるわけでして、従ってここで〈safety〉としているのは、ある程度制度的、技術的な意味での安全性、それから〈security〉というのは、価値とか精神的なもの、そういったものを含む安全です。ですから最後に上げた制度、技術、価値の関係性を考える枠組みが必要だというのは、そういう意味です。
宮永:はい、他にありますか。はい、どうぞ、太田君。
太田:こんにちは、太田と申します。私も村中さんと同じでIT業界で技術営業をしています。質問です。二つ確認させて下さい。まずは森さんです。発表頂いたレジュメの下から二段落めのところの最後の文章に「ネットワーキングとは、単に人と人が、、、自律した者同士が、、」とあるのですが、この「自律」のところを聞かせて下さい。これはこの中に定義が書いてあるのですよね。それが三段目の「出社連合は、、、」で始まっている段落の中で「彼らは」、これ出社だと思うのですが、出社は「教祖からの相対的自律性を保持して」と書いてあるのですが、これがそれだと思ってよろしいですか。
森:そうですね。定義というか、相対的自律性イコール定義ではないのですが、つまり、ここで自律していると言ったときには、きちんと批判力を持っているということを言いたいのですね。それを自律している、つまり批判力を持っているということを言っています。定義としては。
太田:下の方で言っている「自律した者」というのは、批判力を持っていると言っていて、その事例として出社連合の話があると思って言ったのです。
森:出社も教祖、例えば先ほども言いましたように教祖がある事件があって、その時にあなたは自分の教えに背いているじゃないか、というかたちで教祖を諌める出社も出てくるのですが、そういう意味では教祖そのものとの人間関係を大事にするだけじゃなくて、教祖の教えというものに照らして批判する、だから自他を批判する能力、その場合は教祖を批判しているわけですけども、もちろん自分に対してもその教えに照らして批判していく、そういうかたちで自律性を確保していた、ということを言いたいということです。
太田:この批判力と言っている自律性の条件の一つとして神号、神の号を与えられているというのを一つとして考えていいのですよね。
森:はい、そうです。そのことを保証していたということです。
太田:はい、分かりました。有難うございます。もう一つは、萩原さんにお伺いしたいのですが、一番最後のところで「パラダイム転換を」と書いていらっしゃるところで、「現状の科学技術社会論は」と始まって、「自己批判的な認識力の獲得という課題と結びついていない」とだから「当事者による的確な認識と行動がこれまで以上に不可欠である」と書いてあるのですが、ここで言っている「当事者」というのは、研究者も含むし、not 研究者、他の社会の構成員全体だと思うのですが、そう考えていいですか。
萩原:それはおっしゃる通りですが、特にここでは具体的な場面、地域などで問題に直面している人たちというのを主においています。それに続いて最後のところに書きましたように、そこの場面に研究者が参与する場合に、その研究者自身もそのような認識が必要であるということですから、地域にいる当事者というのに最も強調を置いて、それに加えて研究者もそこに含むかたちで定義していると考えて下さって結構です。
太田:有難うございます。全員が自己批判力を持たないといけないよねというふうにおっしゃっているということですね。以上です。
宮永:はい、それでは内容に踏み込んだ質問というか討議に移っていきたいと思うのですけれども、これからは内容までお聞きになって下さって構いません。それから例えばAさんがこういうことを言っていた、Bさんがこういうことを言っていたけど、両方合わせるとこうじゃないか、Cさんどう思いますかというような質問でも結構です。どうぞ、伏木さんお願いします。
伏木:伏木です。最初にまず小井さんの『スピッツの透明感』から、言語的に定義できていない問題がたくさんあるんじゃないかと思うので、それについてまず質問をしたいと思います。まず、前半の部分、ロック音楽についての定義の部分はおそらく前回の分科会のときにかなり攻撃しましたので、それに対するお答えなのだろうと思いました。その部分は買いたいと思いますけれども、それ以降なのですが、突然水の要素と火の要素ということで、これの定義をすることなく通り過ぎてしまいました。おそらくこの発表全体を通すと、水の要素はスピッツ、火の要素はサザンということで理解したのですが、それでまずよろしかったでしょうか。
小井:はい、ロック音楽に関してはちゃんと定義してきました。水のエロスの定義は先ほど言ったように、「生への執着を欠いた、生へのエロス」と捉えて、スピッツの作品から聴き取る意味をそういうかたちでつかんだつもりです。
伏木:その表現に関わってなのですが、その次に、ではそのエロスというものをどのように定義してここで用いたのか、ということが突然出てきた表現であって理解しにくいというところがあります。エロスは何であるかという確実な定義をまずしてほしい。それからそこにあらわれてくるであろう「透明で」という形容詞がありますけれども、状態をあらわす形容詞がありますけれども、その「透明」という言葉はいかにして用いられたのか。それも曖昧です。さらにその後に関わってくると思うのですが、スピッツの作品について、自分自身をと出会う歓びに包まれている、と書いた前後のお話なのですが、まずその前段階として、欲望が解放された世界において、自分自身を確定することは非常に困難、という部分は確かに分かります。でもそれが、それに対する答えを求めるものがスピッツであって、それが求めているのが自分自身、つまり個だというところの理論は分かりますが、それがなぜ現代における聖なるもの、sacredなものなのかというのが分かりません。この部分についてはどうお考えなりますか。
小井:今いくつ質問されました?
伏木:まずエロスの定義が一つ。「透明」ということの定義が一つ。それから最後に「聖なるもの 、sacredなもの」の定義が一つで三つです。
小井:エロスというのは、生への欲望全般という意味で使っています。「透明」というのは、さまざまな人がスピッツについて論じているものと、僕自身の印象、直観を言語化して表現したのが「透明感」です。自分自身の感覚からこの論考がスタートしていて、論の構えがそこで決まってくる。だから「透明感」という言葉は、自分の問題意識から発している言葉だろうと僕は考えています。最後の「聖」ですが、自分自身がどうして聖になるのかという、、、、、
伏木:いえ、自分自身が聖になるということ自体は意味づけ的には分かりますが、私が質問しているのはそうではなくて、聖なるものと言わなくてもこれは本来欲望の対象であって、自分自身を求める、欲するという動きの中で出てきたはずなのに自分が欲したものがなぜ聖化されなくてはいけないのかという部分を問うています。
小井:そうですね、うーん、、、ここで自分自身に出会うということが一体どういうことを意味しているかというと、他者に出会うことで初めて自分が他者という超越的なものによって根拠づけられるというか、その根拠づけられた自分と出会うという歓びが、スピッツの作品にはある、というふうに思っています。解放の時代以降の私たちは、人格を構築することが非常に困難だという認識があり、そこで自分自身と出会うということは、非常に重要な意味を持つ体験ではないかと思い、そのような書き方をしました。分かったでしょうか。
伏木:重要なことだということは分かったのですが、ではそれがなぜsacredなものなのか、ということについては次回までに考えておいて頂ければと思います。明確なお答えではなかったのではないかと思います。それに関しまして日本語の表現力ということを、一番小井さんの発表で感じたのですが、佐藤さんにコメントがあるのですけど起承転結というのはもともと漢詩の試作文法だったわけですよね。そこから日本人が日本語の作文文法というものを学んでそれを転用してきたと思うのですが、これは基本的に佐藤さんもおっしゃったように本来のナラティブを記述する技術であって、論文的な思考、もしくは論理的な思考というものに関しては用いられるべきではないという人もいるくらいのものだと思うのですね。従って自分を表現するとか、もしくは自分が問題設定をし、それに答えを出すという現実世界で求められているものを記述する際には、この論文記述方法ではいけないと普通に思うわけです。それは、ナラティブとは全く別の文脈の技術の差であると認識するので、その辺りを混ぜないほうがいいんじゃないかという点が一つです。
それからそれに関連しましてそれでは小学校から中学校、高校にかけて国語では実際に何を指導してきたのかと考えると、それは先生たちの個人的な能力によるわけではなくて、学習指導要領という文部省が定めた法令がありまして、その中で国語教育として何をすべきかということが行われてきたはずです。そういう視点が変わらない限り、この論文構造、もしくはこのように物語を展開して考えるという考え方を強制することはできないと思うのです。ですからそういう意味でいうと今現在算数で論理問題が解けない、証明問題が解けないという子が増えているという問題点にも結びついてくると思いますが、国語教育全体、国語という言い方自体も問題で本当は日本語教育と言ったほうがいいという意見もありますけれど、その教育という全体の枠組みの中で、論理的思考を形成するという教育課程をどこかに入れるという議論にまで広めないとこのお話は全部できないじゃないかなというふうに思いました。いかがでしょうか。
宮永:前半では批判して、後半ではすごく賛成して下さっていたような印象があるのですが。いかがでしょうか。
佐藤:いえ、賛成ではないのですが。
伏木:そうですね、全面的に賛成ではなかったと思います。
宮永:前半は非常に批判的でしたよね。
伏木:前半も批判的でしたが、後半はもっと大きなかたちで政治的な意図を汲めということの批判だったと捉えて欲しい発言です。
宮永:はい、分かりました。では前半はいかがですか。つまりこれがたった一つのスキルかということですよね。表現法かということですよね。
佐藤:そのご指摘に関しては、これも一つの表現法だというふうに言えると思うのです。ただしこの作文、文章を書くという名の元に我々が長時間をかけて教育されてきた、という点に関しては、非常にベーシックなものだというふうな指摘はできるだろうというふうな意味でここで取り上げました。そういうことです。
宮永:後半に対しては。
佐藤:後半はより広い文脈で捉え直す必要があるという指摘ですよね。それに関しては僕が一番最後に述べましたように、そういった射程をもった非常に大きな問題となってくるという広がりを持つプレゼンテーションだと捉えて頂いて構いません。ただし、今回は具体的な事例はたった一つ、専門学校の起承転結の部分でして、具体的に国が指導する学習指導要領の内容がどうであるか、それが歴史的変遷の中でどのように意味づけされてそれが現在どうなっているかということに関しては、個人的には調べているのですが今日は盛り込めなかったというのがリアクションです。
宮永:確認なんですけど、ではこの看護学校ではレポートを書くときには基本的にはこの一つの形式しかないわけですか。
佐藤:と、いうふうには書いていない、一つの方法として作成された、、、
宮永:いえ、そうではなくて、サジェストされた、つまりこのレポート執筆要項の中であげられているのは、基本的にこの一つの形式しかないわけですね。三つあってどれでも書いていいですよとかそれぞれに長所、短所がありますよとか言えることがあるし、言えないことがありますというそういう説明は一切なくて、たった一つの形式だけが説明されているわけですね。
佐藤:はい、そうです。
宮永:分かりました。有難うございます。すいません、村中さん。
村中:私は理解が悪くて、最初の佐藤さんのプレゼンテーションと伏木さんの質問と同じことを言っているように思えたのですが、そこをもう一度伏木さんの方に教えてほしいのですけれども。佐藤さんのプレゼンではまず日本の教育で起承転結を習っていると、これをメインに書き方において習っていると。だから、これを習った人が実社会に出ても問題を解こうとしても問題が解けませんと、いうようなことを発表されたかと思うのですが、伏木さんの質問の前半部分なんですけど、起承転結というのは漢詩からとった一つの技術であって、これは単に他の技術を教わっていないから論理的な思考ができなくてもそれは一つの技術しか教わっていないから当然であると。この二つの違いが分からないのですが。
伏木:この二つの差はもちろん同じことです。同じことを言っていますけれども、そこで私が言いたかったことは、小中高のコースでその論理的思考というものを形成されるべき、問答というかたちの答えの方式を習わなかったということではなくて、それを教育の枠組の中に持ちこまなかったことに問題があるという視点が欠けているということを前半は言いたかったわけなのです。ですから先ほど宮永先生が前半の事実に関して、事実確認をなさったときに論点がずれたなと私は思ったのですけれども、そういうふうに理解して頂いた上で後半のお話として、学習指導要領の歴史的変遷とかそれの文部省の中における審議委員会というものがあるはずなのですが、その中でどのようにこの問題が扱われてきたのかを捉えないと本質的な問題は解決できないのではないか、というふうに私は申し上げました。ですから本来は前半と後半に分かれている問題ではなくて、同じ一続きの問題です。お分かり頂けたでしょうか。
村中:問題意識は分かりました。要するに戦後教育のときに学校の中にメディア・リテラシーを入れるかどうかというときに、GHQでしたかそれを外して、文芸だけを国語にしろというような介入が行われた云々というのを今だに引きずっていますよ、というようなスケールでの議論をした方がいいのではないかという話ですよね。
伏木:そういうことになると思います。
宮永:今の質問に関して他にありますか。大越さん、お願いします。
大越:私、設計者と同時に実は(構造技者協会?)の会長をやっておりましていわゆる建築学会とその実務者、要するに教育の場で協会と学会が対峙している問題が、実は10年以上あります。佐藤さんと村中さんのおっしゃっていることが、15年くらい前から我々実務者側からいくと今の教育はなっていないと学会に随分非難しています。二人の意見はそういう意味ですと、ニートだって我々は十数年前に警告しているのですよね。我々企業側、エンジニアの実務者は当然そんな甘っちょろい教育を受けた大学、まあ大学院生しか採りませんけれども、大学院生とはいえ文章は書けないは、実務とは離れて全くいい加減な教育を受けてきてこんなのは入ったって意味ないよと言って学会と猛烈に闘っているわけです。そういった中で(APEC?)の(ジャビ)、要するに(アプリデート?)した大学の問題にやっと今踏み込んだんですね。そういう時代にはなってきたけど、我々実務者から言えばまさに15年前から十分議論していることで、そこでニートの予測もすでにしていたわけです。ご参考までに。
宮永:はい、面白いです。では一ついいですか、質問させて頂いて。15年も前からしていらっしゃったんでしたらご提案その他もなさったと思うんですけれども、その中の代表的なご提案を一つか二つ、簡単におっしゃって頂ければ非常に有難いです。
大越:一つは、ここ30年、20年になるか、大学の生活がある意味では僕の出た40年くらい前と比べて様変わりしている、つまり教育をしていない、それでちゃんと教育をしろというのが第一点。要するにそれは倫理教育に始まってそうなのです。まず倫理教育ができていない、先ほど言った文章の教育もしていない。そういう意味でまずちゃんと教育しなさいと。それともう一つは、実務界と教育界で今ものすごい格差が出ています。多分大学院でやっていることと、実務の場では違うことをやっている。それは非常にショックだと思うんです。それを解消するためには何をすればいいかというと、大学の先生やめなさいと。もっと実務者からどんどん入れなさいと。プロパーの大学をやめて、少なくとも実務10年やった人でないと教授になってはいけない、というシステムをずっと提案しています。
宮永:はい、いかがでしょうか。小澤先生。(笑)振ってしまって申し訳ないのですけれど。
小澤:えっと、私は歴史の学会にいるときには歴史家じゃないような顔をして、こういうところへ来ると何か自分が歴史家だなあと(笑)感ずるのですけど。
今のお話を聞いていて、関係するかどうか分かりませんが、現代社会で起こっていることを考えていくと、私たちが歴史の中で経験してきたことを振り返ってみるということがとても重要なことだと思います。そういう意味で、日本の近代の作文教育の歴史というものがあって、それは必ずしも文部省がずっと管轄してきたことだけではない、いろいろな試みがあったというか、それはもうすでに御存じのことかと思いますけれども、例えば大正自由主義教育なんていうのは、今の大学の教師など恥ずかしくなるようなものすごいことをやっていたと思います。特に作文教育ということでいえば、年配の方は御存じだと思いますが、(むちゃくせいきょう?)という人がいて、(わびこ学校?)なんていう。あの教育方法は、作文教育でありながら、もっと内容に深く関わってくるものです。つまりそれまでの作文教育というものが、課題提示型のものであって、それを全く自由作文で自分が一番書きたいことを書くということが一つです。それとここは大正自由主義教育の駄目なところでもあるわけですけど、都会の中産階級の子弟が夢のようなお話を書くというようなものもあるわけですが、そうではなくてこれは東北の方で実験的に行われていくわけですが、自分たちの生活環境というものが、買い取りとかなんだとかいうのとあまりにもかけ離れているというそういう環境を直視するというところから、しかもそれを言葉として表現していくことで客観化していくというか対象化していく。そういうことと同時にその中で作文教育というものを、鋳型にはめたかたちではなく、養っていくというそういう試みがなされてきたということは、私たちは振り返ってみても良いことなのではないかと思いました。
宮永:はい、それがどうして忘れられてしまったのでしょうか。
小澤:今はあまり聞きませんね。
宮永:伏木さん、どうお考えですか。どうして忘れられてしまったのでしょうか。つまり文部省は、どうして伏木さんのおっしゃるような全く当たり前で建設的なことをやろうとしていないのでしょうか。それともやっているのに現場が悪いのですか。さっき大越さんがおっしゃっていましたけれども。(笑)いかがでしょう。
伏木:私は文部省の審議官とも何の関係ありませんので、(笑)私自身はその部分については何ともお答えし難いですけれども、現場の先生たちの質の低下、もしくは現場の先生を支えている人々の考え方の変化というところも大きくあるのが事実ではないかと思います。現場の先生方が先ほどの規範的な社会をやめる方がパラダイム転換にいいというお話が村中さんから出てきたと思うのですが、現在ほとんどが、私は国語科を知っているわけではないのですが、ほとんどの先生方というのがマニュアル化が進んでいて、マニュアルにのっとった授業を組み立てるべく、教材をそのマニュアルに従った教材を探しマニュアル通りに教えることを目標として、現場に立っています。ということはそのマニュアルがなかったら何もできないわけで、そのマニュアルを作る人というのと、そのマニュアルを教える人たちに責任があるんだろうな若干感じるのですけど。お答えになったでしょうか。それ以上のことはやはり、私は一介の在野の人間ですので分かりません。
宮永:それはもちろん結構です。皆ここでは一介ですので。佐藤さんどうですか。今のに対して。
佐藤:先ほど、小澤先生がおっしゃったことに関連してですけど、生活綴り方運動というものにも関係するのですが、戦前戦後も続いてあった動きについて、少し歴史的に調べてみると、道徳教育とかそういう中で自分たちの生活とかそういうものを見つめ直すかたちで、生活を綴るということと道徳教育がかなり重なった時期があったのです。それが分離した、という点が一つあってそこから文章を書くことで現実の世界を、課題を見つけてそれをもう一回見つめ直していくという、文章を書きつつそういう作業をする試みが少しずつ薄れていったということは指摘できると思います。具体的に何年かということは、指摘しにくいのですけれども、少し道徳教育とか文章、作文教育を調べてみるとそういったことを指摘している人もいます。
宮永:萩原君に伺いたいのですけれども、倫理と科学を一緒に論じていらっしゃいますよね。その場合に起承転結では言えないわけですか。言えないことがあって、それを起承転結でそれを言うことができたらそれでいいわけですよね。言えないことを起承転結で言わされれば困りますよね。言えないことがあるとしたら、どういうふうに言えばよろしいのでしょうか。
萩原:先生がこの場合おっしゃっている倫理と科学の定義というものが、よく分からないのですが。
宮永:それはもう、萩原さんが考えていらっしゃる仕方で構いません。
萩原:この今おっしゃった問題が、倫理と科学の対応とどういうふうに説明をつけたらいいのかということが、今いち僕には見通しがたっておりません。
宮永:では振っちゃったので、ちょっとずるかったかもしれません。もうすぐお休みになるのですけれども、私自身の経験を申し上げますと、私は大学がどうのと、まあみんなひどいですけれども、大学が駄目だからでは現場がいいかというと、現場の人が必ずしも大学の問題点を現場にいるということだけで乗り越えられるかといったら、それは違うと思うのです。やっぱりそれはパラダイムと転換の問題にいくと思うのです。究極的に。それを私たちが、どのように知的に咀嚼し、飲み込み、肉と化すかという問題だと思うのです。
この間、ある企業で講演したのですけれども、その時にパラダイム転換の話をちょっとして、パラダイムの話をしたつもりだったのですけれども、あとで頂いた感想に「今日の話は全然駄目である。なぜならば起承転結がないから」と書いてあったんですよね。だから佐藤さんがさっきおっしゃっていたのは、こういうことじゃないかと思うのですね。パラダイムというのは、起承転結がない話なのです。
これは人類学の内輪話になるのですけれども、なぜ人類学がうまく行かないかということになるのかもしれないのですが、例えば人類学的で私は歴史主義的な、これを申し上げると小澤先生は腰を抜かして驚かれるかもしれませんけれども、歴史主義的な流れに属しているわけです。そこでの中心のテーマの一つは、歴史にとって時間は本質的かどうか、ということなのです。起承転結というのは、パラダイムになっているようなことでも、時間の展開を追って論理性を組み立てているわけです。これは糸屋の娘ですけれども、1、2、3、4でこれみんなばらばらで構わないわけです。パラダイム的に組み立てることもできるのですけれども、起承転結で順番に紙芝居のように論理が展開する、ということになっているわけです。さっき佐藤さんがおっしゃったのは、紙芝居で看護されちゃ困るということですよね。そうすると、これも飛躍するのですが、皆さん私の分科会にいらっしゃいと言っているみたいなのですけど、結局それでつかめないのは、事実性じゃないかなというふうに思うのですね。事実を掴む文章なり、ものの考え方というのが科学的ということの中心にあると思うのです。起承転結だと掴めないと思うのです。どこまで行っても天動説じゃないかなというのが、私の不安なんですよね。むしろ起承転結の方が一番先に出られるのだと考えられる方もいるのですけど、それはそれで面白いと思います。ちょっと何を言っているか分からなくなったかもしれませんけれども。
というわけで、大学も、現場も同じ問題を抱えて両方とも悩んでいると思います。ただ企業の方と話してて面白いのは、全員ではないのですけれど、時には非常に事実的な方がいらっしゃいますよね。そういう事実的な方がリーダーシップをとっている企業は、私は立派だと思うし、先があると思うのです。そういう方々にお会いすると、こう言ってはなんですけど別にやめたから言うわけではなくて、大学というところはヴァーチャルなところだなあと思うわけです。すごく良くてもやっぱりヴァーチャルなところだなあと、事実性そのものがヴァーチャルになっちゃっている、それでいいのかなという気がしますよね。しますよね、ではなくて、します。愚痴ではありません。(笑)主張です。ですから、それを乗り越えるにはどうしたら良いかということで、どうしてもヴァーチャルな現場から一人立ちしないと、事実性は掴めないので、ビューティフル・マインドになりそうなリスクを侵してでも、個に解体しようというのが、西洋ではポストモダンだったと思います。こういう言い方をすると全面否定みたいになってしまって、そういうふうにとられるとまずいのですけれども、村中さんがおっしゃっていた集団主義、個人主義という二元論では捉えられないとおっしゃりながら、ご自分では二元論のような、私はこれは二元論だと思うのですが、二元論を持ち出してくる、というのが私にはピンときません。そういうようなところを、そうではない、もっとこのニートという本当に新しい人を掴まえることができるような、萩原君の言い方だったら参照枠を創り出すのであれば、もっと知的なリスクを負わなければいけないのではないか。偉そうなことを言って申し訳ありません。(笑)そういうふうにいつも感じております。その、リスクを負うというのが、難しいですね。今の状況では。とにかくだから大学をやめるということだけでも、物凄いリスクを負った、というふうに思われて同僚の方から自殺しないように、みたいな(笑)慰めを頂いたこともあります。そんなにひどいことしちゃったのかしら、と後で思いましたけれども。これは悪い冗談です。ですから、この後は収まりがつかないので、どなたかに振ります。南部君有難うございます、、、、では南部君の前にどうぞ、いいですか、、、では萩原君どうそ。
萩原:先ほどの宮永先生の問題意識が分かりましたので、一言だけ僕の方からコメントさせて頂きます。僕の場合には今おっしゃった問題というのはむしろ、一番最初のワークショップのときに多少発言させて頂いたウ゛ァルター・ベンヤミンの歴史哲学との関連で捉えました。これは、先ほどの起承転結において見られるような論理というのは、歴史の連続性、つまり連続した認識のあり方です。それに対してベンヤミンが言っている静止状態における弁証法というのは、精神分析的な表現になるかもしれませんけれども、現在のシニフィアンと過去のシニフィアンが共時化されることによって、つまり現在と過去が一つになる、そこのところにおいて自己批判的な認識が起きるということです。これは精神分析だと去勢にあたると思うのですけれども、そのようにして従来の認識の枠組みでは同一化することができない、しかしそのような認識の対象と、今の自分自身の認識とが、衝突することによってそれによって自分自身の知の座標軸、パースペクティブそのものが変容してしまうこと。これが現実的他者との出会いであり、これを自己批判的な再帰性というのではないかと思います。
宮永:はい、有難うございます。それでは南部君お願いします。
南部:先ほど、宮永先生のおっしゃったニートに関してもう少し考えたいと思うのですが、永澤さんの発表で『ヒミズ』という漫画に出てくる少年を事例に使われていましたが、それは私の解釈では価値体系のなくなったフラットなネットワークの中で出来上がってきた個人の事例、という解釈をしました。それで、そのあとニートの発表を聞きまして、まっ先につながったのがこの『ヒミズ』の少年だったんですね。ということで、もしかするとこのニートという存在を永澤さんのポストモダン的な理論で補強できるのかなと、そのへんの意見を聞きたいです。
宮永:三分お休みして、これは面白いですから続けましょう。それで、その後でニートの若者は透明かどうかを小井君に聞きたいと思います。準備して下さい。では3分間お休みします。どうしてもお帰りにならなくてはならない方は、その間に出て下さい、お願いします。私もちょっと頭を冷やしてきます。
===== 休憩 =====
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